喜多圭介のブログ

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図書館の白い猫30

2008-09-03 09:06:40 | 図書館の白い猫
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 タマは大きな眼をさらに見開いてぼくの顔を覗き込んだ。
「ぼく、ぼくは少女趣味はないよ。だから逆に川端の精神構造が気に懸かってね」
「安心しましたわ」

 十一時半頃黒比目はおカネばんさんと好対照な上機嫌顔で戻ってきた。
「お婆ちゃん、カリフォルニア行き許してくれそうなんや」
「夕食のときに聞きました」
「それでどうやった?」
「ぼくに任せると」
「そうなん、それやったら圭介さんもいっしょに行ってくれるんやろ」
「そういう意味と違うの。それにこれから女優になるというのに男がくっついていることが発覚したら、それだけでパーになってしまう」
「そやろか」

 そんなことはわかっていることでないか。人間が自己成長を遂げるには絶対孤独の一人旅でなければならない。そうして多くの困難、障害に遭遇して、それを自分の知恵と行動で乗り越えてこそ成長するのではないか、そう怒鳴りつけてやりたかったが我慢した。まだぼくの叱責を受け容れられるほど黒比目は成長していないのだから。

 タマもむっとした顔をしていた。
「そうです。それにこの話は最初からきみ一人で出掛ける話です」
「そうやったん、まあ仕方ないわ。女優になるのやからがんばるでぇ」

 その夜いつものように黒比目のベッドに入っていたら、上機嫌な黒比目は盆にジュースを載せて入ってきた。タマのこころを想像すると切ないが、今夜は黒比目にサービスせざるを得ないだろう。とにかく黒比目の狂ったような肉体のバウンドに跳ね飛ばされて、ベッドの下に転がり落ちないように用心するつもりだ。


 昨夜の黒比目はセックス歓喜とカリフォルニア行歓喜の相乗効果で、異常と表すより気違い沙汰と表現してもよい有様であったが、そのために今朝の黒比目の様子は暴風雨の通り過ぎた海の底に深く沈没したかのように、頭から足先まで大きなタオルケット一枚の下で眠り呆けていた。

 外は快晴の秋空であったので、ぼくとタマは黒く艶光りする板間でおカネ婆さんを見送ったあと、猫の楽園の散策に出た。
「ちょっと産まれたやや子の様子を見てまいります」

 ぼくは猫用集合マンションに疾駆するタマを眺めていた。アフリカの草原を獲物めがけて駆ける豹を見ているような敏捷で優美な動きがタマにも見て取れた。犬の走り方と猫の走り方はどこか違う気がする。犬は四つ足均等に力を籠めて走っているように見えるが、猫はいったん前脚と後ろ脚を一所に寄せ、それから一気に後ろ脚をバネにジャンプし、地面に着地したときはまた前脚と後ろ脚が一所に集まっている。躯を丸めてこれを繰り返しながら疾駆する。

 タマが疾駆するところはこれまで一度も見ていなかったので、ぼくは感嘆の面持ちでタマの戻ってくるのを立ち止まって待っていた。
「四匹とも元気に母親の乳房を吸っておりました」

 往復激しい走り方であったが、タマは息切れ一つしてなかった。
「よかったね。無事に育つよ」
「そうでございますね」

 それでもぼくはタマを気遣い、ゆっくりした足どりでいつもの場所に向かった。
「人間はなぜ自殺するのでございますか」
「難しい質問だな。自殺にも大別すると二つの種類がある。一つは運命、つまりいのちを自死に運んでしまう人間がいるってことだ。あと一つは新聞報道によく出る経済とか病苦、、社会的な責任感、いじめといった風な原因のわかりやすいものだ。前者は川端のようにノーベル賞を受賞し、経済にも何不自由がなかったにもかからわず自殺した。何が原因かといえば一言ではいえない。太宰治の心中にしてもそうだ。生い立ち、とくに母子関係が大きな要因になると思うが、同様な母子関係でも自殺する人間としない人間はいるからな、気質かな」

 ぼくはタマに喋りながら、そうか、気質に何かの要因が一つくっつくと自死にいのちを運ぶのかもしれないと考えた。気質、気質とは何か……。
「どちらも私には理解できないのです。私のDNAには自殺の情報が書き込まれていないのです」
「そうだな、タマには理解できないだろうな」

 ぼくは人間以外の生き物が自殺した話を知らない。

 タマもこの話題は難しいと思ったのが、話題を転換した。
「圭介様と京都に出掛けましたら最初に平安神宮の紅枝垂れ桜を見とうございます。それから醍醐寺の杉苔も見とうございます。金閣寺や大文字に南禅寺、知恩院、円山公園、清水寺と廻りたいのです。北山杉の村も絶対に外せないと思います」
「それじゃ『古都』に出てくる順じゃないか」

 ぼくは笑った。
「そうでございます」
「訪れる季節もあるから桜を見ることができるか」
「錦とはどのようなところでしょうか」
「錦市場のことだね。そうだな京都人の食材が全部揃う商店街通り。活気があるよ」
「そこも歩きたいのでございます」
「京都通の観光客も多いから、抱いて歩いてやるよ」
「嬉しゅうございます」

 秋空に清潔な白雲が浮かんでいた。ぼくがその雲を眺めていると、タマはフェンスの天辺に掻き上った。そしてかなりショックなことを話した。
「ここならだれにも聞かれませんので」
「危ないじゃないか」
「大丈夫です。お婆さまはまだ圭介様にいろいろとお喋りになってませんので、お姉様がカリフォルニアに行かれるとなったら圭介様を解放されると思います」
「じゃあぼくは監禁状態だったのかい?」
「そうです。圭介様から外出したいと言われなかったのでそれに気付かれなかっただけです。もし言っておられたらお婆さまはお許しにならなかったでしょう。私このことを圭介様に伝えたく図書館で何度もお側にうかがいましたが、悲しいことに私からの言葉が圭介様に伝わらず、それこそヤキモキしていたのでございます。そしてそのうち圭介様をお慕いし、ある日むやみに抱いていただきたくなり恥ずかしいことながら私のほうから抱きついてしまったのでございます」
「太腿にかい?」
「そうでございます。姉上様は図書館で圭介様をちらっと見掛けられたとき、私に、タマ、あの男よさそうやな。お前、どんな男か調べておいで。うちはもう組員やシュワルツェネッガーやシルベスタ・スタローンのような格闘技系の男は嫌やねん。あの男のように腹も出とらん知性派の男を抱いてみとなったと。それだけでしたが私の想像ではお婆さまに圭介様の誘拐をお願いされたと思います」
「それならマンションを引き払う話は誘拐だったの?」
「そうでございます。この屋敷の玄関を上がった床板を外しますと、地下になっております。その地下には人間が戦争に使う道具が沢山収納されております。手榴弾、ダイナマイト、ピストル、機関銃、カービン銃、バズーカ砲、ソ連製のロケットランチャーやカラシニコフなどです」
「本当かい?」
「本当のことです。この家が出来た頃、仔猫の私はお婆さまに抱かれて地下室に入ったことがございます。お姉様はご存じありません」
「ぼくは物騒な屋敷で暮らしていたのやな」
「お婆さまは大正の初め、Y組初代組長の恋人だったそうです。お婆さんにとっては最初の恋人で、組長さんのほうが年下だったそうです」