喜多圭介のブログ

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図書館の白い猫28

2008-09-02 12:50:12 | 図書館の白い猫
 翌日は台風が東北沖から日本海へと縦断したので、久し振りの晴天になったが大気が冷え込んできた。いつものようにいちばん先のフェンスのところまで来て、森を眺めていた。
「ひんやりとしてきたね」
「紅葉が艶(あで)やかでございます」
「そうだね。この辺りはもみじや楓がないが、漆や櫨(はぜ)の葉が真っ赤になる」
「触るとかぶれます」
「タマ、黒比目の作家になる話を止める方法はないかな、ぼくは協力したくない」
「以前映画雑誌見ながら、菊池凜子みたいな女優になりたいと仰ってましたけど」
「菊池凜子って?」
「ご存じありませんか。「バベル」という洋画に出ていた女優さんで、オスカー助演女優賞にノミネートされました」
「バベルって旧約聖書かに出てくる塔の名前でなかったかな」
「映画を観てませんのでよくは存じ上げません」
「どうでもいいことだけど。とんと映画にご無沙汰だ。中高生の頃は授業さぼって映画館に入っていたが。ところで菊池凜子っていい感じの女優」
「あちらぽい感じの顔で、姉上様にも似たところがあります」
「ふぅーん、黒比目は作家より女優向きだよな。あの体格では日本の女優は難しいだろうけど、洋画なら出演のチャンスがあるかも」
「ええ、おありになると思います。ハリウッドのオーディションを受けてみることをお勧めになったら」
「それはよさそうだ。きょうから攻略してみるよ。ヤクザ小説のゴーストライターなんてかなわんよ」

 十一時半頃に黒比目が下に降りてくるので、ぼくは十一時になると自室を出た。このところ黒比目とのセックスは間遠くなっている。ぼくに積極の態度がないのと黒比目のほうもぼくとのセックスに飽いてきているようだった。精神的歓喜の伴わないセックスは喫煙の常習よりも継続性がないので、ぼくにはありがたいことだった。相互の精神を理解、尊重し合うことがセックスの前提になければ、精神的歓喜は羽ばたかないだろう。

 ホワイトボードの上でタマは全集の頁に頭を横たえてうたた寝している姿だった。そっと近付くと片眼を開いてぼくを確認したが、そのまま眼を瞑ったので、ぼくはそっと階段を下りていった。

 中座敷のソファに腰を下ろし、テーブルのタバコセットから古くなったケントを一本取り出して、火を点けた。この屋敷に幽閉されてからは喫っていなかったので、一瞬眩暈がきたが直ぐに収まった。紫煙を燻(くゆ)らせながら内庭をしばらく眺めていた。庭木の葉が冷え冷えと寂しく眼に映った。

 この屋敷にそんなに長くは逗留しない予感があった。昼からインターネット検索で京都のワンルームマンションを探してみようかとぼんやり思案していた。

 ダイニングルームのほうから物音が聞こえたので、そっちに出掛けた。レモン色のブラジャーとショーツに白のスリップの黒比目がキチンに立っていた。
「コーヒー淹れてるの、飲む?」
「ああ貰うよ」

 しばらく黒比目の姿態を眺めていた。
「きみは菊池凜子に似た雰囲気があるね」

 ぼくは観たこともない女優の名前を口にした。
「うちが菊池凜子に!」

 黒比目は嬉しそうな声を上げた。
「そう。「バベル」の菊池凜子」

 観ていない洋画の名前も追加した。
「似てるぅ」

 瞳を潤ませた笑顔で、二つのコーヒーカップを食卓に載せた。
「ありがとう。ニューヨークにいた頃、ハリウッドのオーディション受けたことがないの?」

 ハリウッドがどんな仕組みになっているかぼくは知らなかったが、出任せに言ってみた。
「そのときは仕事のことしか頭になかった」
「そう。近頃日本系女優、洋画の世界で活躍してるのだろ」
「そうやね」
「受けてみたら。きみは英会話できるし英文も書けるやろ」
「事務用英文なら書ける」
「チャンスは自分でつかみ取る物だよ」
「圭介さん、うちホンマに菊池凜子に似てる?」

 ぼくはマリリン・モンローを眼の中で拡大コピーしてから似てると断言した。


「黒比目が車の中でカリフォルニアに行きたい言い出してな、なんやそこにハリウッドがあって、そこに行けば外国映画の女優になれるんやっと。おまはんが強う勧めてくれた言うとった」

 ぼくの顔をじっと見つめ、渋い顔で焼酎を呑んでいた。
「黒比目さんの花が大きく開くというか将来性がありますね。黒比目さんにピッタリの仕事だと思います」

 ぼくはここぞとばかり胸に気合いを籠めて説得に掛かりだした。
「作家のほうが将来性もあって名前も広まるのとちゃうか」

 不機嫌な顔である。
「おカネさん、作家なんて駄目ですよ。昨今は活字離れの出版不況、落ち目の先端行ってるのが作家稼業。それに名前広まるいうてもぼく自体ここ十年の芥川賞、直木賞作家の名前知らないのです。だれも作家の名前気にしてないのです。頭に浮かぶのは芥川龍之介とか太宰治とか三島由紀夫とか川端康成、死んだ作家ばかりですよ」
「昔は貸本屋で「百万人の夜」や「夫婦生活」、「夜の花園」とかよう借りて読んどった。活字離れことなかった。みんな活字に飢えとった」
「そういう雑誌はいまも読まれてますが、黒比目さんがお書きになる物としては低俗。やはり芥川賞、直木賞レベルとなれば読まれていない現状で、それこそ黒比目さんを橋の上から川に突き落とすようなもので……」
「そんなもんかいな。そういゃワシもあの組長止めて作家になった男の名前、覚えとらんな」

 表情がやや軟化してきた。
「それに作家というのは自殺しやすいんです。いま言うた作家は皆自殺してるんです」
「黒比目が自殺するのは困る」
「そうでしょ、その点映画界は名前が一人歩きする世界です。きっと黒比目さん世界中で歓呼で迎えら、自殺なんて考える間がありません」
「そうか。しやけど黒比目は外国の女優になれるか」
「そらぁバッチリ。あの美貌とスタイル、外国の女優にひけをとりません」
「コネもいるのとちがうのか」
「コネのほうはTさんのほうで向こうのシンジケートに手を回して貰ったらどうでしょ」
「そやな、その手があるな……そやけどカリフォルニアやとこ行かしてええもんかどうか……」
「台風のとき山の濁流を途中のダムで堰き止めると、水かさが増すと決壊して今度は濁流は大暴れして麓の町を襲います。これと同じで近頃は男だけでなく女もしたい欲望を抑えられていると何をしでかすやわかりません。黒比目さんの年齢がそうです。だから欲望を常に解放してやる、このことを考えるとカリフォルニア行きは最後のチャンスだと思います」
「ワシはもう最近の若いもんの考えがわからん歳になっとる。おまはんの言う通りかもしれんの」

 おカネ婆さんは弱気な口調で言うと、ため息を吐いた。
「黒比目さん、きっと女優になられます。だれでも限界越えて何かにチャレンジしているときが苦しくてもいちばんええのです」
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