喜多圭介のブログ

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図書館の白い猫29

2008-09-03 01:06:29 | 図書館の白い猫
 最初はヤクザ小説のゴーストライターからの逃げの戦略であったが、しだいに黒比目に真剣にチャレンジする物を見つけ出してやらなければならないと、変に力が入り始めていた。こうしたことがきっかけで黒比目がハリウッドで成功してくれたら、ぼくにとっては金を使わないでの黒比目へのささやかな置き土産になるのだ。ひょんなことで肉体までの関わりを持ってしまったが、そんな黒比目がこれからを生きていく展望を見いだしてくれれば、そのことはぼくにとってもささやかな幸福でもあるのだ。

 ハリウッドのことは外国通でないぼくよりも黒比目が手際よく事を運ぶ気がしていた。
「ワシはおまはんに任すさかい、黒比目の行く末をよう考えてやってくれ。それさえ叶ったら恩に着る。ワシはもう寝る。涼しなって寝やすうなった。寝てるときがワシの極楽なんや」

 今夜のおカネ婆さんは少し元気に翳りがあるようだった。黒比目に振り回されて疲れているのかもしれない。百歳を超えて生きてきたのだから、たいていのことには動揺しなくなっているだろうが、身近にいる孫娘の前途を思うと気が気でないのかもしれない。

 ぼくは秋の虫の声に耳を傾けたくて、中座敷のソファに腰を下ろしていた。エンマコオロギのほかにも鳴き声の違うのがいた。ちんちろりん、ちんちろりんと聞こえるのはマツムシだろう。押し殺したようにりーん、りーんと聞こえるのはスズムシだ。田舎で祖母に育てられたぼくは、秋の夜長祖母の膝の上で虫の声を聞いていたものだ。

 そのことがついこの前のように思える。時間にも客観的時間と主観的時間がある。距離にも客観的距離と主観的距離がある。科学の物差しだけに頼って判断していると、融通の利かない人生を歩むだけになりそうだ。ぼくは虫の声にふっとこんなことを考えていた。

 そこへタマが夕餉から戻ってきた。いつもより戻りが遅かった。
「やや子が産まれまして、やや難産でしたので介添(かいぞ)えをしておりました。四匹産まれました」
「小屋の中で」
「そうです」
「大変だったね」
「母親が疲れてしまって」
「それで落ち着いたの」
「もう大丈夫でございます。こちらでも虫が鳴いておりますね」
「さっきから聞いていた」
「庭のほうはまるで合奏です。一方が鳴き止めば他方が鳴くのですから」

 そう言ってからタマはぼくの足元で頻りに前肢で口を拭った。
「どうしたの?」
「今夜の食事はいつもよりだいぶん甘かったのでございます」
「おカネ婆さん、黒比目さんのことで動揺しているから砂糖のさじ加減を間違ったのやろ」
「そうでございますね。私は虫歯にはならないのでその心配はしないのですが、口の中がねちゃねちゃしますものですから」
「そう虫歯にならないの」

 そういえば犬や猫の虫歯の話は聞いたことがない。歯の構造か唾液の質が人間とは違うのかもしれない。
「それでお婆さんのお考えはどうでしたか」
「ぼくに任せてくれたよ」
「ようございました。年が明けたらカリフォルニアに出発できればよろしいですね」
「二月足らずで年が明けるのか……早いな」

 ぼくは先を見る眼差しになったが、黒比目と違って特別映ってくるものはなかった。
「『古都』お読みしました。私は京都を知りませんので、京都に行ってみたくなりました。少しの間でも京都に住んでみとうございます。ここも自然に囲まれて悪くはございませんが、いにしえの情緒や文化がございません。粗野なばかりで私には楽しめません」
「タマは京都が好きか」
「はい」
「京都はよそ者には奥座敷まで入れないところがある。京都人は京都人のサロンのようなものがあって、そのサロンに出入りしているひとの紹介がないと奥座敷までは踏み込めないが、奥座敷まで知らなくても京都は年中楽しめる。市内の神社仏閣や鴨川だけでなく少し脚を伸ばせば嵯峨野、嵐山、琵琶湖のある大津や比叡山もそない遠くでない」
「そういうところを圭介様と全部廻ってみたいです」
「夏の京都はフライパンの底で炒られている気分だが、桜の春、紅葉の秋は人出が多い。ぼくは寒いけど落ち着いた雰囲気の冬の京都も好きだ」
「苗子の北山杉の村にも行ってみとうございます」
「あの辺りは冬でもええところや。雪の三千院はひっそりした気配に満ちている」
「そのお寺にも詣らせていただきたいのです」

 ぼくはタマを連れて三千院の極楽往生院までの境内を歩いている自分を想像した。何度も詣ったところだが、最初は積雪の二月だった。まだ離婚はしてなかったが妻と別居していた頃に訪れた。空は鼠色に覆われていたが、太い松の根方に白い雪の眼に鮮やかな境内を重たい足どりで、まだ参詣客の少ない往生極楽院に一人詣った。間口三間、奥行き四間のこぢんまりとした堂宇である。阿弥陀如来を真ん中に右に観世音菩薩、左に大勢至菩薩が祀られているが、どの仏も座像であるが、まるで祈願に来たひとに慈愛を持ってにじり寄ってくる気配があった。

 これまであちこちの寺で仏を見てきたが、これほど親しげに近寄ってくる仏はなかった。そのときぼくは熱い涙が両眼から迸(ほとばし)りそうであったが、暗い片隅に僧侶がいたのでなんとかその思いを留め――よるべなき身となりましたがお見守りください――と祈願した。

 あれから八年、いまはこの屋敷に居るがよるべなき身は何も変わっていない。築き上げた家庭を捨てるとはこういうことだ。そう思っているともう一度往生極楽院の仏を訪れてみたい思いが募った。
「この小説は京都の風物を描くのが主で、人物とかドラマは従だね」
「風物を描くのが目的の小説だったのですか」
「それだけに『古都』を読んだひとは京都に憧れる」
「訪ねてみたいです」
「川端作品はこういうのが多い。『伊豆の踊子』の天城越え、『雪国』の越後湯沢、これなども風物の中に人物、女性だがね、風物に合わせた描き方をしている。『伊豆の踊子』や『雪国』にモデルはいたが、それは見た目のモデルであって実際は川端の風物に合わせた想像。『古都』も同じで北山杉の村で見かけた娘を、一卵性双生児として市内にも置いたということだろうね」
「千重子のことですね」
「そう、苗子とうり二つの千重子を。だけど京都といっても市内と北山杉の村では育ちが違う。それがこの作品の悲劇性を増すところだが」
「そうでございますね、育ちの違いが悲劇を。それと後半に進むほど男女関係に淫らな匂いがします」
「タマの嗅覚は鋭いね。どういうところを指しているかわかりかねるが、川端は『眠れる森の美女』、『古都』あたりからしだいにおかしくなってきたな。『古都』は朝日新聞連載だったが未完のようなプッツン切れで終わったのだよ。そして半年後の単行本発刊では相当な改稿をやっている。タマの匂った淫らはその残渣かもしれないな。川端は『古都』で美しい京を描こうとした反面、彼の中には別などろどろした誘惑に駆られていたのではないかな。このことがガス自殺にまで繋がっていたかも」
「そうかもしれませんね。お気の毒でございます」
「ぼくも川端の孤児根性と少女趣味をどう結びつけたらええのかよくわからないが、この二つのあいだに母親欠落があるのは確かなんやが、母親欠落が川端の精神にどう作用しているのかがまだわからん」
「圭介様にも少女趣味はおありなんでしょうか」
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