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喜多圭介のブログ

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寛容と不寛容

2006-12-29 22:29:58 | 宗教・教育・文化

近頃というよりか小泉首相が登場してからと言ってもいいのだが、日本が〈優しくない国〉になりつつあることに危惧を覚える。政策が弱肉強食化しているし、対外的にも北朝鮮はもとより中国、韓国をも敵視する傲慢な国民が増えてきた。

 

政治的な事柄だけでなく男性が女性を巧く騙し利用し、利用価値が無くなると廃棄処分しているような風俗世相が目につく。騙された私がバカなのよ、と演歌のフレーズでないが、騙された側の女性の発言はあまり大きくはない。平生は男女平等を抗弁する女性もこの面では男尊女卑を受容したままである。

 

対人、異国関係で寛容の精神が希薄になっているのではないか。

 

死刑についての今日の世相は、残忍な凶行が多いせいもあって、国民に死刑執行賛成の風潮が強くなっている。被害者家族の心情を推量すれば、加害者を八つ裂きにしても足りない気持ちであることは心情的にわかるが、はたしてこれでいいのか。ぼくは死刑廃止論者で、死刑相当の罪人は恩赦のない無期懲役を科(か)すべきであると考えている。加害者を殺すことで被害者家族や関係者は本当にこころが晴れるのだろうか。晴れはしないと想うのだが、晴れた思いであると自己をごまかし、この思いを終生引き摺ることにならないか。加害者を八つ裂きにしても殺された者は、二度と家族の元に帰ってくることはない。一時的に気持ちは晴れても虚しいのではないか。

 

寛容の精神が希薄になるとどういう事態になるか、このことを考察してみたいのだが、実はぼくよりずっと知性のある人物がこのことを考察されたので、それを紹介したい。「狂気について」で紹介した渡辺一夫氏が、やはり評論集『狂気について』(岩波文庫)のなかで「 寛容(トレランス)は自らを守るために不寛容(アントレランス)に対して不寛容(アントレラン)になるべきか」という一文を書いておられる。それからの引用である。

 

氏の考えは、作家大江健三郎の思想に相当影響を与えている。大江健三郎が渡辺一夫に師事したのは、1956年(昭和31年)21歳のとき、東大フランス文学科に進んだときである。

 右のような長い題目を、実際に与えられたわけではないが、註文の趣旨のなかには、右のような題目によって表現されてしかるぺき主題があったと信じたから、敢て、このような標題にしたのである。
 過去の歴史を見ても、我々の周囲に展開される現実を眺めても、寛容が自らを守るために、不寛容を打倒すると称して、不覚容になった実例をしばしば見出すことができる。しかし、それだからと言って、寛容は、自らを守るために不寛容に対して不寛容になってよいというはずはない。割り切れない、有限な人間として、切羽つまった場合に際し、いかなる寛容人といえども不寛容に対して不寛容にならざるを得ぬようなことがあるであろう。これは、認める。しかし、このような場合は、実に情ない悲しい結末であって、これを原則として是認肯定する気持は僕にないのである。その上、不寛容に報いるに不寛容を以てした結果、双方の人間が、逆上し、狂乱して、避けられたかもしれぬ犠牲をも避けられぬことになったり、更にまた、怨恨と猜疑とが双方の人間の心に深い褶(ひだ)を残して、対立の激化を長引かせたりすることになるのを、僕は、考えまいとして考えざるを得ない。従って、僕の結論は、極めて簡単である。寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容たるべきでない、と。繰返して言うが、この場合も、先に記した通り、悲しいまた呪わしい人間的事実として、寛容が不寛容に対して不寛容になった例が幾多あることを、また今後あるであろうことをも、覚悟はしている。しかし、それは確かにいけないことであり、我々が皆で、こうした悲しく呪わしい人間的事実の発生を阻止するように全力を尽さねばならぬし、こうした事実を論理的にで暴走する人々の数を、一人で増加せしめねばならぬと思う心には変りがない。(下線は喜多)

 

死刑の話に戻すと、2006年現在、88カ国が死刑廃止を決めており、日本、米国の一部の州、中国、インド、中東諸国など68カ国で死刑が実施されている。フランスは1981年に死刑廃止を決めた時点で、死刑廃止を決めた36番目の国となった。欧州連合(EU)は死刑廃止を加盟国の条件としており、イラクに派兵した英国をはじめEU加盟国は、フセイン元大統領の死刑にニュアンスの差こそあれ、反対している。世界の大勢は死刑廃止である。

 

一方ではこのような事態が起こっている。産経新聞がWEB上に11月25日16時5分配信したものである。

イラク宗派抗争 シーア派、報復残忍化 スンニ派焼き殺す 大統領イラン訪問延期


【カイロ=村上大介】イスラム教シーア派地区で200人以上の死者を出す連続爆弾テロがあったイラクの首都バグダッドで24日、今度は市内北西部でシーア派民兵がスンニ派のモスク(イスラム教礼拝所)や住宅をロケット弾で破壊したり、放火するなどした。ロイター通信によると、これらの攻撃で、少なくとも30人が死亡した。泥沼化する宗派抗争の中で、殺害の手口はますます残忍になって報復が繰り返されている。

                   ◇

 襲撃があったのは、シーア派とスンニ派の住民が混住するフッリーヤ地区。AP通信が複数の目撃者や病院関係者の情報として伝えたところによると、シーア派民兵は捕まえたスンニ派住民6人にその場で灯油をかけ、火を付けて焼死させた。

 また、シーア派民兵は金曜礼拝中だったスンニ派モスクの一つにロケット弾で攻撃を加えた後、火を付け、礼拝中のスンニ派教徒の一部が焼死した。民兵はこのほか、住宅に押し入ったり、火を付けるなど、数時間にわたり襲撃を続けた。

 襲撃したのは、シーア派反米強硬派指導者、ムクタダ・サドル師派の民兵組織、マフディー軍とみられている。

 宗派抗争での無差別殺人ではこれまで、ドリルなどを使って拷問した後に射殺するという手口がほとんどだったが、今回は生きたまま焼き殺すという一層、残忍な手口が用いられ、宗派抗争は底なしの状況を迎えている。

 事態を受けて、25日からイランを公式訪問する予定だったイラクのタラバニ大統領は24日夜、他の政府指導者らと長時間にわたる協議を行い、急遽(きゅうきょ)、イラン訪問を延期した。

 一方、23日に連続テロがあったシーア派居住区の上空で警戒に当たっていた米軍ヘリは、地上から対空砲などで攻撃を受けた。ヘリに被害はなかったが、これまで米軍との直接衝突は避けてきたマフディー軍が、いよいよ米軍に対しても矛先を向け始めた兆候もあり、懸念が広がっている。

 

ここにはまさに〈不寛容に報いるに不寛容を以てした結果、双方の人間が、逆上し、狂乱して、避けられたかもしれぬ犠牲をも避けられぬことになったり、更にまた、怨恨と猜疑とが双方の人間の心に深い褶(ひだ)を残して、対立の激化を長引かせたりすることになるのを、僕は、考えまいとして考えざるを得ない。〉という指摘通りの必然を招いてしまっている。

 

〈眼には眼を、歯には歯を〉の復讐心の連鎖では、双方悲惨な結末の繰り返しであり、〈歴史は繰り返す〉とはこのことを指しているのであるが、これでは人間の理性は一向に進歩していないことになりはしないか。人間の理性の進歩は報復劇を肯定することではなく、それを否定するところにある筈である。凶暴な野獣(実は野獣に復讐心はない)であることが人間でなく、〈優しい人間〉こそが追求すべき人間の姿である。もう少し渡辺一夫氏の文章を引用しておく。

人間を対時せしめる様々な口実・信念・思想があるわけであるが、それのいずれでも、寛容精神によって克服されないわけはない。そして、不寛容に報いるに不寛容を以てすることは、寛容の自殺であり、不寛容を肥大させるにすぎないのであるし、たとえ不寛容的暴力に圧倒されるかもしれない寛容も、個人の生命を乗り越えて、必ず人間とともに歩み続けるであろう、と僕は思っている。都留重人氏が『学問の自由を求めて』という傾聴すぺき論考を発表しておられたが、そのなかで特に感銘の深かったのは、二人のアメリカ人の言葉である。一人は、最高裁判所判事のオリグァー・ウェンデー・ホームズという人で、一九二九年に、ロジカ・シュウィンマー事件という裁判において、その判決文中に次のような文章を綴っているのである。

 「我々と同じ意見を持っている者のための思想の自由ではなしに、我々の憎む思想のためにも自由を与えることが大事である。」(傍点は都留氏による)
 もう一つは、ニれまた現在アメリカ最高裁判所判事ロバート・ジャクソンが、バーネット事件の折に下した判決文の一節である。
 「反対意見を強制的に抹殺しょうとする者は、間もなく、あらゆる異端者を抹殺せざるを得ない立場に立つこととなろう。強制的に意見を劃一化することは、墓場における意見一致を勝ちとることでしかない。しかも異った意見を持つことの自由は、些細なことについてのみであってはならない。それだけなら、それは自由の影でしかない。自由の本質的テストは、現存制度の核心に触れるような事柄について異った意見を持ち得るかいなかにかかっている。」(傍点は筆者)
 僕は、この二人のアメリカ人の名前を一度も聞いたことがなく、特に著書をたくさん残して、思想界に寄与している人物かどうかも知らない。僕にとって、この二人は、いわば「無名の人」の大群に属する。そして、このことは極めて僕を慰撫激励してくれる。即ち、寛容は、数人の英雄や有名人よりも、多くの平凡で温良な市民の味方であることを再び感じるからである。そして、寛容は寛容によってのみ護らるべきであり、決して不寛容によって護らるぺきでないという気持を強められる。【後略】

 

地球上の不幸は野獣ですら持ち合わせていない復讐心の連鎖と憎悪の蓄積で起こっていることである。こうしたことの源は、人間が理性の力でもって寛容の精神を強めないところにある。