「原理講論」の誤解と正解

「原理読み」の「原理知らず」

[資料] 金百文著「聖神神学」(堕落原理)

2024年10月16日 | 資料

■ 金百文著「聖神神学」

P.126
「神の聖三位の中で、旧約は父性時代であり、その時代の律法宗教においては『割礼』が、その時代とその宗教の内容的象徴であったように、新約の『洗礼』は三位の内、子性時代の救贖宗教の象徴的な聖体であった。このように三位に時代的区分を行う時、しからば最後の聖神時代に至って聖神が示し給える儀式的問題がなければならない。」

P.128
「アダムの堕落内容とは、すなわちエバとの夫婦間の性的交際をさしておいて、エバが蛇と姦通したという問題からおきた犯罪であった。キリスト人を、聖神が最後的には聖化するものではあるが、救いの再創造的人格問題とは、今も述べた堕落の根本問題となる肉的性欲を、神が太初に創造し給うた時にもっていた本性、本質に聖化し、復帰させるというのがキリスト人の最後の聖化問題であり、これが聖神の歴史的役事となるものである。この事実がキリスト教の最終末と個人の信仰の最高にして最後の聖化問題となるであろう。ゆえに必然的にこの問題に対し、宗教的信仰運動の教義的条件のように信仰の全幅的な力を注ぐ時期が来るであろうし、これを割礼や洗礼のような宗教儀式的問題の端緒としたいというのが、本論の主題である。」

P.128~129
「誰でも、キリスト教信仰人格を受霊した後、本格的聖化段階に進もうとする時、この問題(夫婦性交)が何かわけの分からない不潔不快感を呼び起こすとともに、神霊生活にも障害となるため、人によってはこの問題をあれこれ考えて苦悶する向きもあるが、これに対する原理的神意を発見し得ず、また根本的解決を見ることも出来ないままに中絶状態で関心すら向けずに終わってしまうという事実がある。」

P.132~133
「従って、今や聖神の主導的役事とともに最高かつ最後的に聖化されるべき人間の情欲問題を、エデンにおける人間本姓である愛の本能的に回復することによって人間の情欲を聖化させるのである。そして聖化されたその人格は愛の化身となるのである。この愛は、十字架上で示し給うたその愛の起因する愛ではあるが、キリスト時代の贖罪問題をめぐって感じる愛とは異なった原始的本能の問題である。従って、即ちキリスト教時代の十字架の愛は洗礼的贖罪の恩寵に報いる程度の感じしか与えない」

P.132~133
「聖神時代のこの愛とは、その愛が次第に成長して人格的復活において抱かせるエデンの愛である。故にキリスト人が新生した後に復活的信仰をもつようになると聖神と一体となって体恤させることによって人格的復帰をみると同時に情欲を聖化する愛であるから、今や聖神の時代となると、この愛を聖神がキリストの前で新生した人に対し、人格的現実において、人と人の世界において直接的に体験させるものである。」
「この体験をもった者こそ、キリスト時代の洗礼を受けた者が贖罪を公認されるように、聖神時代の最後的復帰役事によって公認される信仰人格者となるのである。」「従って今や実際的問題となるのは、その愛を現実的に体験することによって、その愛を原動力として人間の情欲を聖化する上において、情欲世界の性欲問題を愛の世界では、先ず最初にキリストと、ついで人と人との一体的統一性をもつ聖化人格の内質に化せしめるのである」
「『遊女につく者はそれと一つの体になるように、主につく者は、主と一つの霊になるのである』(コリントⅠ・6章)という御言葉通り、キリストと一体となり、キリスト人同士一体となって統一する一体の原理を性欲によるものとばかり思っていた人間が、永遠の真の世界の原理による聖化、即ちその原動力となった愛を体験することによって情欲は聖化され、人格は統一をもつようになる。聖神はこの事実を宗教運動として、洗礼の儀式的条件のように待たせ給うたのである。」

P.134
「故に、今やこれに対する儀式的名詞を、父性時代の『割礼』、子性時代の『洗礼』のように、聖神時代の役事を定義するならばこれは『体礼』と称するのが最もその内容に合致したものとなる。」
「これは即ち、人格的体験として、聖神がなし給うと同時に、その体験をもつことによって聖神の役事がかなった者であることを儀礼として認定せしめるのである」。

「この聖体の血と肉を食うことによって新生するとともにキリストの血統で新生し、キリストとの血統的生命関係を結ぶように」

P.348~349
「けっして観念的でも、理解して意識する問題として解決される事実ではなく、どこまでも実在的内容性を見出し体験的な得る実際的事実である」

P.356
「キリストの血肉は、食べる前はキリストの聖体であり、食べたあとはその者の生命であることを教えることである。ここにおいて、食べるということは、いまや彼と一体となる事実を意味するものとなるとき、キリストと人との一体的意義は、食物と肉体とのように生命一体をいうものである。即ち肉体の生命は食物に依存していることをじきじきに教え給うように人間性名は血肉に依存しなければならないことを知らせ給うたのである」

P.356~357
「この食するということの事実的問題は、いま、血、肉が物体として存在するということではない。といって象徴的な、なんらかの葡萄酒のたぐいで代用することもできない。あくまで意義的であると同時に象徴的な理解とは異なった事実的内容性がなけらばならない問題だというのである」

P.362
「エデンの園で善悪の実を蛇がエバに食べさせたということは、それが植物性の果実を意味するものではなく、エバの肉体上の貞操を蛇に奪われたということを意味し、人類は(カイン)以来蛇の血統を受け継いでおり、カインは蛇の子孫だというのである。」

P.362~363
「エバ自身、肉体上の血統に影響をおよぼす直接的な罪を犯したために、彼らは罪を犯したあと、ただちに人間の性的行動に対する良心的な呵責としての恥ずかしさを感じて、それを示したことなども確実な証明問題となる」

P.414
「ここにおいて、植物の問題として解説するようになったこの問題においては、そこに真液的生命連絡が実在することによって所期の結果を実現するように、キリストの愛のみが樹木の真液のように信仰的結果の主管的現実内容としてキリストとの生命関係となった本体と枝において連絡をたもつということである」

P.415
「(この生命真液であるキリストの聖愛とは、)神にあっては神の属性であり、人にあっては生命の本性(である。)」

P.415
「(太初の人間はこの愛を本性としてつくられたにも関わらず堕落によってこの本性を失ってしまった。それによって)人間は、この愛の本質でない情欲という肉性の異性的な悪の質をもつようになり、人が手にする収穫の一切を愛に結実できず、情欲としてもたらされるようになった」
「(これを本来の神の聖愛が満ち溢れる状態に帰すためには)人をして常にその生命の本性となるこの愛の性能に従い、またその生涯を神の帰属的目的によって生きるようにすることである。これによって愛の本体は神であり、その本体を人間の本性とし、人をして神との生命連絡をなすには帰属のみならず、帰来的に人間本性をして神との性的統一性をなさしめることである」

P.416
「堕落した今日の人間は、肉体的異性である男女の肉的結合のみが瞬間的でかつ影像的なものと感じている。人間の肉的愛が、男女間の異性の肉的結合を目的とし、その瞬間に二体一心の一体的境地を感じる事実、ならびに男女が互いに愛する相手の性品を理解しようとしてその性格に合わせようとする愛の本能を感じる事実、これら全ての事実は、太初に行われた神の愛の名残であり、その影響なのである。」

P.415~416
「(神との)性的統一性をなすことによって人は常に愛の帰属、帰来的性格によって神の性品を本性にもつようになる」
「太初のこのような愛が、人間をして常に神を知り、その性品との性的統一体として生命の結実をみた」

P.418
「神人一体」

P.454
「(聖神との一体化によって)合神一体となった聖化人格なる霊肉統一した現実的神通性をみるようになる」
P.455
「(同時にこれによって)人間の肉体機能まで聖化される霊統性の統一(を実現できる)」
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