「原理講論」の誤解と正解

「原理読み」の「原理知らず」

共生共栄共義主義(統一思想要綱)

2021年08月23日 | 資料

新版 統一思想要綱(頭翼思想)
2000(平成12)年9月18日初版発行 統一思想研究院

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付録

文鮮明先生の思想を整理する過程において、絶えず新しい教えのみ言を下さったのであるが、その中で特に重要な「三大主体思想」と「四大心情圏と三大王権」の内容を補充として紹介することにする。同時に、「原理講論』に収録されている「共生共栄共義主義」に対する解説も合わせて載せることにする。

一 共生共栄共義主義

共生共栄共義主義は、文先生の神主義を経済、政治、倫理の側面から扱った概念であり、共生主義と共栄主義と共義主義の三つの単純概念からなる複合概念である。共生共栄共義主義の意味を正確に理解するためには、それぞれの単純概念を正しく理解する必要がある。そこで、共生主義と共栄主義と共義主義のそれぞれの内容を具体的に説明してみよう。

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(一) 共生主義

共生主義は、理想社会の経済的側面を扱った概念であるが、特に所有の側面を扱った概念である。所有の側面から見るとき、資本主義経済や社会主義(共産主義)経済の特徴において、前者は私的(個人的)所有であり、後者は社会的(国家的)所有である。

 ところで両者共に、愛という要素は全く排除されている。すなわち私的所有であれ、社会的所有であれ、心理的要素が排除された単純な物質的所有にすぎないというのが、その特徴の一つであると見ることができる。

 しかし、これに対して共生主義は、神の真なる愛に基づいた共同所有を意味する。すなわち共同所有とは、第一に神と私の共同所有であり、第二に全体と私、第三に隣人と私の共同所有をいう。ところで、共同所有は単なる物質的所有だけではなく、神の真の愛に基づいた共同所有である。

これは神の限りない真の愛によって、その真の愛に満ちた贈り物である一定の神の財産(所有)が、神からわれわれ(私と隣人)に共同管理するようにと授けられたことを意味するのである。

創造原理から見たとき、被造世界は神の所有である。なぜならば被造世界は本来、神の愛の主管下にあるからである(「原理構論』一〇九頁)。聖書には、創造主である神は、地の上、大空には鳥が飛ぶように(創世配一・二〇、水には魚が群がるように、陸には獣が棲むようにされたと書かれている(創世記一・二一~二五)。

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これは、空は神の真の愛を中心とした鳥たちの共同所有を意味するのであり、水は神の真の愛を中心とした魚たちの共同所有を意味するのであり、陸は神の真の愛を中心とした獣たちの共同所有であることを意味するのである。

いくらはげたかのような猛禽であっても、空の一部を独占せず、いくら虎のような猛獣であっても、陸の一部を独占せず、いくら狂暴なサメであっても、海の一部を独占しないのである。

神は万物に対する愛の主管権を人間に与えたので、空や海や陸はもちろん、鳥や魚や獣など、すべての生物を、人間は神の真なる愛を中心とした感謝の心でもって共同所有するようになっていた。すなわち、自然は神と人間の共同所有なのである。

それにもかかわらず、人間だけは堕落によって個人主義に流れて土地や万物(財物)の一部を独占するようになり、今日に至っては、自由民主主義という名のもとに、合法的に広大な土地と莫大な財産を独占しながら、感謝するどころか、良心の呵責すら感じなくなっている。

隣で人が飢えて倒れるのを見ても、眉一つ動かさずに威勢よく生きている資本家たちの社会が資本主義社会である。彼らはみな、天道に違反した生活をしているのである。

神と人間との関係は、父母と子女の関係である。そして父母と子女の関係の最も基本型は、家庭である。家庭において、すべての財産は父母の財産であると同時に子女たちの財産でもある。家屋、庭園、田畑、家畜などは、父母の所有であると同時に子女たちの所有である。

すなわち家庭において、所有権はたとえ法的には父母の名義になっていても、父母と子女の共同所有なのである。そして本然の世界では、父母は常に子女に真なる愛を与えるので、子女たちは常に父母に感謝する心をもって、その所有物を大切にしながら、丁重に取り扱うのである。

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家庭においては、祖父母、父母、子女(兄弟姉妹)の三代が共に集まっているのが、その基本型である。したがって共同所有は、厳密にいって三代の共同所有となる。すなわち、真なる愛を中心とした祖父母と父母と子女の共同所有である。

ここにおいて祖父母は神を代身する立場にあるから、三代の共同所有は「真なる愛の本体である神(祖父母)と父母と子女の共同所有」であると表現することができる。このように三代が共に所有する形態の、家庭の共同所有は、すべての次元の共同所有の原型となる。

このような事実を根拠として、共生主義の共同所有は「神の真なる愛に基づいた、神と私、全体と私、隣人と私」、すなわち三段階の「他者と私」の共同所有なのである。したがって、これを「神と全体と隣人と私」の共同所有であると定式化することができる。

このような家庭の所有形態(共同所有)を拡大したのが団体の共同所有である。これを企業体に例えてみよう。企業体は真なる愛の主体である神と、父母と同じ立場の社長と、子女(兄弟)と同じ立場の従業員の三段階の共同所有であると同時に、神と私、社長と私、従業員と私という、三段階の「他者と私」の共同所有なのである。

企業体は、たとえ企業家が創立したものであるとしても、本然の世界では、いったん神の前に捧げることになっている。捧げて神の所有になったのち、再び神の真なる愛によって、受け賜ることによって、神との共同所有となるのである。このような手続きは、形式的で単純な要式行為では決してない。

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そのような手続きを経るとき、初めて神の真なる愛による加護と協助が下されるようになるのである。以上は企業体の例にすぎないが、その他の団体においても同じである。
家庭の所有形態を拡大したものが国家レベルの共同所有である。例えば国営企業体の場合、企業体内のすべての財産は例外なく国家と国民の共同所有である。すなわち真なる愛の主体であると神と、国家の主権者である大統領と、企業体の全社員との三段階の共同所有であると同時に、神と私、大統領と私、全社員と私、すなわち三段階の「他者と私」の共同所有である。

ここにも神の真なる愛の加護と協助が常に下されるのであり、また大統領の愛による関心と政策が常に加
えられるので、社員たちは神に感謝し、大統領に感謝しながら、共同所有の観念をもって、すべての財産を大切にしながら丁重に取り扱うのである。これが「国家レベルの共同所有」の概念である。

ここに「理想世界には個人所有はないのか」という疑問が生じるであろうが、理想世界にも個人所有はもちろんあるのであり、またなければならない。なぜならば、人間は神の普遍相と個別相に共に似ているからである。一人の個人は万人と共通な属性(普遍相)をもっていると同時に、彼自身だけに特有な属性(個別相)をもっている。

そして人間には、全体目的と個体目的という二重目的が与えられており、欲望とともに、愛を実践するための自由がまた与えられている。そのため、人間には個人所有が許されているのである。この事実を共同所有の原型である家庭的所有形態をもって説明しよう。

家庭において、例えば農家の場合、家屋、庭園、田畑、家畜など共同所有の財産を家族が共同で真心を込めて管理し、保存するのは、目的という側面から見れば、全体目的を達成するためである。

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そして、このような全体目的の達成のために、家族は共同に衣食住の生活をする。すなわち同じ家で、共同の家計によって、着たり、食べたり、住んだりして暮しているのである。しかし同時に、各個人は独特な個性(個別相)をもっているので、衣食住において、自分の独特な事情や趣味に合う生活をするようになる。

また父母や子女は、それぞれ個人的に専用する部屋や衣服や、いくらかの生活必需品などが必要な場合が多い。だから父母は、子女に小遣いを与えるのである。これらは、個体目的を遂行するための所有であり、個人所有にほかならない。

ところで、個人所有は個体目的の達成のために必要であるが、同時に全体目的を達成するためにも必要である。すなわち、全体日的は共同の所有物をもって共同生活を通じて達成することもできるが、個人の所有物をもって個別的な方式を通しても達成できるのである。

例えば、子女たちは父母に孝行して父母を喜ばせようとするが、それは彼らの全体目的の達成である。例を挙げれば、兄は自分の個人所有物である本をたくさん読んで、学校で優秀な成績を収めることによって父母を喜ばせ、弟は自分の個人所有物である絵具を使って立派な絵を描いて、展覧会に出品して、特選に入賞して父母を喜ばせ、姉は自分の個人所有物であるバイオリンを弾いて、演奏会で聴衆の絶賛を受けて父母を喜ばせたとしよう。そのとき、兄や弟や姉は、彼らの個人所有物をもって全体目的を達成したのである。

そのように、個人所有物は、個体目的の達成ばかりでなく全体目的の達成のためにも必要なのである。人間には、欲望とともに愛と自由が与えられている。すなわち人間には、自分の独特な個性を生かし、自分の個人所有物を活用しながら、自由意志によって、他人に愛を継続的に施すために、つまり全体目的の達成のために、欲望と愛と自由が与えられているのである。

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それでは、個人所有はどの程度まで許されるのであろうか。それは自己の分に合う程度、すなわち適正所有によって決めればよい。そして自分の分に会う程度、すなわち適正な量と質の程度はそれぞれ自分の良心によって決めればよい。本然の人間において、良心は本心であって、堕落した人間とは違って、自分が必要とする所有物の量や、種類、質がよく分かるようになるのである。

人間は心に感じる欲望の程度、感謝の程度、満足の程度などの心理上の分量をしばしば物質量で表示する。例えば人の世話になったとき、心に感ずる感謝の程度(感謝量)を贈り物の種類と量でもって、または一定の金額でもって表示する場合がある。
同様に、自分の個人所有に対しても、自己の分に合うと感じる心理上の量や種類を物質的な量や種類でもって表示することができるのである。自己の心理量(心理上の多少の程度)を物質量で表示することは、自分以外には他の誰もできない。しかし、自分の分に合った心理量の決定はたやすくなされる。

われわれが食事をするとき、少く食べれば体力が96まり、食べすぎれば、おなかをこわしやすいことを各自がよく知っていて、適切な量と質の食事を取るように、各自の良心が清まれば、神がその良心を通じて各自の分に合った心理量を教えてくださるからである。そして分に合った心理量の決定がたやすくなされるのである。

ところで、ここで一つ明らかにしておきたいのは、いくら良心によって、各自の分に合う個人所有の適正な量と質が決定されるとしても、すべての人においてその量と質は決して同一ではないということである。

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そこには、いくつかの理由がある。第一に、個人ごとに独特な個別相をもっていて性格と趣味がそれぞれ違うからである。第二に、個々人はみな個性真理体であると同時に連体であるからである。連体とは、個人が一定の格位(連体格位)において、上下、前後、左右に、愛の対象に相対している存在であるということである。

だから、そこには最小限の、一定量の、対象に施すための物質が必要となる。そのような物質の質と量は、その格位が高くなるほど、増大する場合がある。そのような理由によって、分に合う質と量は各人各様にならざるをえない。したがって、それが他人に対して真なる愛を投入するために必要な個人所有であるならば、多少、多くても、それは適正所有になるのである。

このように共生主義は、共同所有に基づいた共同経済に関する理論である。ここで「経済」という概念は、まず従来と同じように、「第一産業、第二産業、第三産業に基づいた財貨の生産、交換、分配、消費などに関する活動の総和」を意味する。けれども、すでに述べたように、未来社会の経済は、神の真なる愛を中心とした共同所有がその基盤となっているために、その経済活動の様相は従来のものとは全く異なる。

一言でいえば、経済活動のすべての過程は、物質的な財貨の流通過程であるが、それは心情と愛、感謝と調和が共に流れるところの、物心一如の統一的過程である。財貨それ自体も、真心と愛が共に宿っている物心一如的な個体であり、流通過程それ自体も、関係者たちの真心と愛が共に流れるところの物心一如的な過程なのである。

そして未来世界の経済の特徴は、未来世界は国境のない統一世界であるために、全世界はいくつかの地域的なブロック経済が有機的、調和的に統一された、一つの経済圏を成すということである。

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すなわち地域的特殊性に合うような地域的特殊産業と、汎域的・普遍的産業が調和と統一をなす、統一産業を形成するということである。それは、すべての個体は普遍相(普遍性}と個別相(特殊性)の統一体であるという統}原理から導かれる結論である。

未来社会のすべての産業は、企業家の利潤を目的とするのではなく、人類全体の福祉の増進を目的としている。したがって、すべての産業活動の直接的な結果は財物の増殖なのである。未来社会において、経済政策が解決すべき最も深刻な問題は、幾何級数的に膨脹する人口のための食糧問題である。

かつてマルサス(T.Malthas)も『人口論一でこの問題を憂慮したのであり、七〇年代以来、ローマクラブも、この問題に対して警告を発してきた。しかるに、この難問題は、養殖法の開発などによる水産業の振興によって解決されるようになる。それは、海は女性を象徴し、女性は生産がその主な使命であるという、統一原理から導き出される結論である。

(二)共栄主義

共栄主義は、理想社会の政治的な側面を扱った概念である。これは特に、資本主義の政治理念である民主主義に対する代案としての側面から、未来社会の政治的特性を扱った概念である。周知のごとく、資本主義社会の民主主義は「自由民主主義」であるが、それは英国の清教徒革命、アメリカの独立戦争、フランス革命において、自由、平等、そして博愛などのスローガンをもって出発した政治理念である。

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民主主義は「人民が主人となって政治を行う」という思想であり、理念である。それはアメリカの十六代大統領、リンカーン(A.Lincoln)の「人民の、人民による、人民のための政治」という有名なゲティスバーグの演説によく表れている。民主主義は本質的に、人民の自由と平等を実現するための理念である。

民主主義が多数決原理と議会政治を主張する最終目的も、人民の自由と平等の実現にあったのである。自由と平等は表裏の関係にあって、自由なき平等はなく、平等なき自由もありえないのである。

それでは「人民」とは何であろうか。市民革命当時の人民は、絶対王朝のFで支配を受けていた被支配層を意味していた。しかし今日、人民とは、概して階級を超越した国民大衆の意味で使用されている。けれども今日、権力層がしばしば独裁に流れる傾向があるので、人民とは、権力層や富裕特権層を除いた「大多数の国民」の意味に解釈してよいのであろう。

ところで民主主義が実施されて、すでに二百年が過ぎたが、果たして人民の自由と平等は実現されたであろうか。

それに対する答えは「否」というしかない。なぜならば、自由民主主義は資本主義を政治的に支えてきたのであるが、資本主義はその構造的矛盾によって、富の格差、富の遍在を招いて、大多数の国民(人民)に経済的な不平等と不自由をもたらしたからである。

そして経済的な不平等、経済的な不自由は、そのまま政治的な不平等、政治的な不自由に連なっている事実を、われわれは何度も目撃してきたのである。

特に大多数の貧民層の自由と人権は、しばしば自由民主主義という名のもとに、踏みにじられる傾向が強かった.そのうえ主権は名目上、人民の主権であるだけで、実質的には、政党人たちが選挙という名前のもとに、莫大な資金を投入して勝ち取る彼らだけの利権に転落してしまった。

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そのため選挙戦とは、要するに政治的な利権の争奪戦にほかならないのである。したがって「人民の、人民による、人民のための政治」という神聖なる政治とはなりえず、「政党人の、政党人による、政党人のための政治」という風土が醸成されたのである。

自由民主主義の、このような欠陥のために、「自由民主主義は権力層や富裕層のためのブルジョア民主主義にすぎず、人民大衆のための民主主義ではない」と共産主義者たちは告発したのであった。そして第二次世界大戦以後、彼らは労働者、農民のための共産主義こそ真の人民民主主義であると主張してきたのである。

それでは人民の真なる自由と平等と博愛を実現しうると思われた民主主義が、二百余年が過ぎた今日に至るまで、その目的を達成できない原因はどこにある
のであろうか。

それは市民革命によって、専制君主制が打倒されて出現した当時の民主主義が、基本的に個人の権利と自由と平等を主張する個人主義の内容をもって成立したからである。個人の個性と人格と価値を重要視するという点で、個人主義は尊重されてよい。

しかし政教分離政策によって、個人精神の指導原理としてのキリスト教が機能しえなくなり、個人主義は利己主義に流れるようになった。それによって、民主主義は利己主義的な個人主義を基盤として成立したという結果にな
ってしまったのである。

このような利己主義的な個人主義が経済人の精神を支配し、政治家の精神を支配したために、資本家たちは、絶えず利潤の極大化を追求するようになり、政治家たちは政権を利権視するようになった。

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今日、政治家たちは公明選挙の名のもとに、あたかも利権獲得のために投資するような気分で、莫大な選挙費用を投入している。そして資本家、企業家たちの執操な利潤追求と、政治家たちのあくなき政権欲によって、今日の民主主義社会には、あらゆる不正腐敗や各種の犯罪が氾濫しているのである。

これは、民主主義には初めからその標語である自由・平等ノ博愛を完全には実現しえない限界性があったことを意味しているのである。すなわち、政教分離政策による民主主義において、個人主義は必然的に利己主義に流れざるをえないという限界性を見せたのである。しかし、自由民宇主義がすべての面において失敗したのではなかった。

自由民主主義は、宗教(信仰)の自由を保証するという役割を明らかに果たしたのである。すなわち自由民主主義国家において、春に様々の花が満開になるように、各種の宗教と信仰の花が満開となったのである。

ここで、神の摂理史的な観点から民主主義の出現の意義を考えてみよう。民主主義が宗教(信仰)の自由を保証したのは、神の摂理と関係があったからである。神の摂理から見るとき、民主主義はメシヤ王国の前段階において現れた政治理念である。

ここでわれわれは、民主主義が絶対君主体制を打倒した市民革命によって立てられたという事実に留意する必要がある。もし当時の体制が絶対君主制ではなくて、神の真なる愛を実現するためのメシヤ王国であったならば、市民革命は起きなかったであろう。

そして人類はメシヤ王国において、真なる自由と平等と博愛を満喫しながら、幸福な生活を楽しんだはずである。
「もし絶対君主制ではなくて、メシヤ王国であったならば」という前提は、単なる仮定ではない。

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神の摂理から見れば、実際、当時にメシヤ王国が立てられるようになっていたのである。そのことについてもう少し具体的に説明しよう。
西洋史によれば、八世紀末から九世紀の初めにかけて、フランク王国を大きく発展させて西ローマ帝国を復活させた国王がカール大帝である。神の復帰摂理から見れば、新約時代のカール大帝は旧約時代のイスラエル王国(統一王国)のサウル王に相当する君主である。

アブラハムから八白年のころ、サウルはサムエル預言者によって頭に油を注がれたあと、イスラエル王国の最初の土となった。同様に、カール大帝は八百年ごろに、法王レオ三世によって戴冠されて、西ローマ帝国の皇帝になったのである。統一原理では、カール大帝のこの治世を旧約時代のイスラエル王国(統一王国)に対応する概念で、キリスト王国と呼んでいる。

旧約時代のイスラエル王国において、初臨のメシヤが降臨して世界を統一し、神の真なる愛を中心としてメシヤ王国を立てることが神の摂理であった。新約時代にはキリスト王国に.再臨のメシヤが降臨して、神の真なる愛を中心としてメシヤ王国を立てるのが神の摂理であった。

ところが旧約時代のイスラエル王国において、王たちは三代にわたって神のみ旨にかなうような摂理的な条件を立てられなかったために、神はイスラエル王国を南北朝に分立させたのであり、ついには北朝はサタン側の王国であるアッシリアに、南朝は新バビロニアに占領され、王たちは捕虜になるようにせしめられたのである。

それにより、イスラエル王国を通じてメシヤ干国を建てようとされた神の摂理は失敗に終わってしまった。それと同様に、新約時代のキリスト王国の王たちも神のみ旨にかなうように摂理的な条件を立てられなかったので、神はキリスト王国を東西王朝に
分立させ、十字軍戦争の受難と法王のアヴィニョン捕囚の受難まで与えるようになったのである。

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そしてキリスト王国の王たちが責任を果たさなかったために、サタン側の王国である絶対君主政体が形成されるようになった。

かくして上から、国王を通じてメシヤを迎えて、メシヤ王国を地上に立てようとされた神の摂理は、旧約時代と同様に挫折したのである。しかし、だからといって、神のメシヤ王国実現の摂理が放棄されたのでは決してなく、新しい方式によってメシヤを迎える摂理が開始されたのであった。それはまさしく下から、民意によってメシヤを迎える摂理であった。この摂理は旧約時代にも、新約時代にも行われたものである。

民意によってメシヤを迎えるためには、神の摂理を遮るサタン側の王国や君主制を崩壊させて、民意が自由に現れるような社会環境を造成しなければならなかった。そのために、神は個人の意志が尊重される民主主義思想を普遍化させたのであった。

旧約時代には、神はアベル側の異邦民族であるペルシアを立てて、イスラエル民族を捕虜にした新バビロニア王国を打倒させたのち、イスラエル民族を故郷に帰還させ、マラキ預言者をつかわしたのち、メシヤ降臨の準備期を迎えるよう摂理された。その一環として、イスラエル民族の王位を空位にしておいたのち、紀元前四世紀末からイスラエル民族をヘレニズム文化圏に属するようにされたのである。

ヘレニズム文化圏は、個人の個性を尊重する民主主義思想を基盤とした文化圏であったので、イスラエル民族はこの文化圏の中で個人の意志を自由に表すことができたのであり、民意によってメシヤを迎えることが可能になったのである。統一原理では、このような社会を「民主主義型の社会」と表現している(「原理講論』四九二頁)。

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神は、それと類似した摂理を新約時代にも行われた。すなわち神の摂理を妨害するサタン側の勢力を崩壊させる摂理を行われたのである。

十六世紀の初めにマルティン・ルターを立てて、サタンによって世俗化したキリスト教(旧教∀を改革する、いわゆる宗教改革運動を起こす一方、十六世紀末から十八世紀末にかけて、人間の理性を尊重しながら、旧時代の権威や特権および社会的な不自由や不平等に反対する啓蒙主義運動を、全ヨーロッパにわたって展開させたのである。

この運動を土台として、ついには「自由・平等・博愛」をモットーとする市民革命(フランス革)を起こさせて、サタン側の君主制である絶対君主政体を崩壊させたのである。

そのようにして近代民主主義が成立したのであるが、先に述べたように、民主主義はどこまでも民意によって再臨のメシヤを迎えるために立てた政治理念にすぎないのであって、真なる自由・平等・博愛を実現しうる理念では決してなかったのである。

さらに旧時代の宗教において、人間の個性や自由や権利を無視するなど、あまりにも誤りが多かったために、民主主義政治は出発とともに政教分離政策を実施せざるをえなかった。

そのような理由のために、民主主義は人間の精神が従わなければならない価値観の絶対基準(神)を喪失するようになったのであり、その結果、必然的に利己主義的な民主主義に転落したのであった。そして民主主義社会は、今日のような大混乱を引き起こすようになったのである。

すべての問題は、神の真なる真理と真なる愛によってのみ根本的に解決される。したがって、真なる真理と真なる愛をもってこられる再臨のメシヤを中心とする王国が建てられるとき、初めてすべての問題の根本的な解決が可能になるのである。

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以上、神の摂理的観点から見た、今日の自由民主主義の限界性と、民意によって再臨のメシヤを自由に迎える、Σが可能となるように、信仰の自由を保証したという点で、民主主義が責任を果たしたということ、すなわち民主主義の功績について指摘した。

一言でいえば、黍義は共同政治に関する理論である。共同政治とは、万人が共に参加する政治をいう。「万人共同参加の政治」こそ、真の意味で民主主義の埋念にかなう概念である。万人の共同参加とは、もちろん代議員選出を通じた政治への参加を意味する。

ここで「代議員選出による政治参加」が共栄主義における共同政治であるとすれば、今日の民主主義政治と何ら異なるところがないではないか、という疑問が生じるかもしれない。けれども、そこには基本的な違いがある。そのことについて説明する。

共栄主義の共同政治では、まず第一に、代議員選挙の立候響間の相互関係はライバル関係ではなく、真なる愛を中心として、神の代身者であるメシヤを人類の父母として侍って生活する家族的な兄弟姉妹の関係である。

第二に、代議員選挙のとき、立候補者たちの出馬は自分の意志にょるものではなく、多くの隣人(兄弟)たち、すなわち他意の推薦による出馬である・それは真なる謬沖心として兄弟姉妹の関係にある有能な人材は、お互いに譲り合うからである。

第三に、選挙は莫大な費用と副作用を伴う投票方式ではない。初段階の簡略な馨芳式に続いて行われる、厳粛なる祈りと儀式を伴。た抽選方式でなされるのである。そのとき、当選した候補者も、当選しなかった候補者も、共に当落が神意によることを知って感謝し、全国民も神意に感謝しながら、その結果を喜んで心から受け入れるようになるのである。

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このように共栄主義における、共同政治は全世界が一つに統一されたメシヤ王国の政治であるために、神の真なる愛を中心とした「共同参加の政治」である。

また神の代身者であるメシヤを父母として侍り、万民がその父母の愛を受け継いだ兄弟姉妹の立場で共同政治に参加するために、そのような共同政治は「人民の、人民による、人民のための政治」でなくて、「人類の真の父母を中心とした、兄弟の、兄弟による、兄弟のための政治」であって、その政治は厳密にいって、民主主義政治ではなく、天父を中心とした兄弟主義政治なのである。

ところで、民主主義が実現しようとして今日まで実現できなかった真なる自由、平等、人権尊重、博愛などは、この天父を中心とした兄弟主義政治によって初めて完全に実現されるようになる。そういう意味において、共栄主義の共同政治を兄弟主義的民主主義の政治であると表現することもできる。

ここで特に指摘したいのは、兄弟主義それ自体は常識的な意味の同胞主義であるとしても、ここでいう兄弟主義は今日のような国境の中に閉じ込められた地域的な国家の国民が、互いに兄弟の関係を結ぶような同胞主義ではないということである。

それは全世界が一つの国家に統一され、全人類が一つの中心である父母に侍り、その父母の子女として互いに兄弟姉妹の関係を結ぶ方式の同胞主義である。それが真なる意味の四海同胞主義である。

今日まで、四海同胞主義の理念があっても、その理念が実現を見なかった理由は、第一に、世界統一がなされていなかったからであり、第二に、人類の真なる父母が出現していなかったからである。その点においては、民主主義も同じである。

今日まで、民主主義の理念が一〇〇パーセントは実現できなかったのは、すでに述べたように、いくつかの理由のほかに、民主主義理念自体は超民族的、超国家的であるにもかかわらず、現実は民族的、国家的特殊性の制約を受けていたからである。

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そしてその点においては、メシヤ王国も同じである。先にメシヤ王国について何度か述べたが、メシヤ王国もまた一つの地域的な国家ではなくて、超民族的、超国家的なのである。メシヤの降臨は一つの地域的国家である選民国家においてなされるが、メシヤ王国の形成は世界統一がなされたのちに初めて可能になるのである。

しかし共生共栄共義主義は、世界統}以前でも、指導者たちが努力さえすれば、神を真の父母として侍りながら、ある程度まで実施されると見るのである。そうすることによって、現在の各種の混乱をひとまず収拾することが可能なのである。現在の資本主義の次には共生共栄共義主義社会が来ざるをえないというのは、そのような理由のためである。

最後に、共栄主義における共同政治と三権分立の関係について説明する。われわれは民主主義政治が立憲政治であり、立憲政治は律法、司法、行政の三権分立を骨格とする政治であることを知っている。そして共栄主義の共同政治も、やはり代議員が政務に参加する政治であって、三権分立を認めるのはいうまでもない。

しかし共栄主義の場合における三権分立は、モンテスキューの主張のように、権力の乱用を避けるために権力を三分するという意味での三権分立ではなく、立法、司法、行政の業務の円満な調和のために、「三府の業務分担」という意味での三権分立である。そして、権力の概念も従来のものとは異なる。

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従来の権力の概念は、国民を強制的に服従させる物理的な力を意味したのであるが、共栄主義における権力は、真なる愛の権威をいうのであって、対象は主体の真なる愛に対して、心から感謝しながら、その主体の意志に自ら進んで従うのである。

あたかも人体のいろいろな器官が、人体を生かすという共同目的のもとに、様々な種類の生理的機能をそれぞれ分担して互いに有機的に協調しているように、三府も国家存立の三大機能(立法、司法,行政)をそれぞれ分担して、共同理念のもとに、有機的で調和ある協調体制を成すところに、三権分立の真なる意味があるのである。

それで統一原理には、このような協調関係にある立法府、司法府、行政府をそれぞれ人体の肺、心臓、胃腸に比喩している。あたかも各臓器に分布している末梢神経が頭脳の命令に従って、少しの誤りもなく、緊密な協調をなして、人体の生理作用を円満になしているように、理想社会において、立法府、司法府、行政府も、真なる愛の主体である神のみ旨が一定の伝達機関を通じて伝達されて、円滑に協調するようになっているのである。

ここで特に明らかにしておくことは、神の創造において、地上天国の理想像は人体を見本として構想されたという事実である。したがって、理想世界の国家の構造は人体構造に似ているのである。先に立法府、司法府、行政府を肺、心臓、胃腸に比喩したが、実は肺、心臓、胃腸をモデルとして、三つの機関が立てられたのである。

人間の堕落によって、国家は本然のあり方を失い、非原理的国家になったが、理想国家の構造の骨格は、そのまま人体構造に似ているのである。そして、人体の臓器(肺、心臓、胃腸)とその機能が永遠不変であるように、立法、司法、行政の三府とその機能も、原理の世界では永遠不変である。

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ところで、理想世界の立法、司法、行政の内容は、非原理的な現行のものとは一致しない。非原理的な権力が物理的な強制力であるのに対して、原理的な権力は真なる愛の情的な力であるという点で、両者は違うのである(ただし、ここでは原理的な立法府、司法府、行政府の機能についての説明は省略する)。

(三)共義主義

共義主義は、共同倫理の思想をいう。これは、すべての人が公的にも私的にも道徳・倫理を遵守し、実践することによって、健全な道義社会すなわち共同倫理社会を実現しなければならないという思想である。

今日、資本主義社会や共産主義社会(ソ連、東ヨーロッパなどの前共産主義社会、および中国や北韓などの現共産主義社会)を問わず、人民大衆が持たなければならない価値観、すなわち道徳観念や倫理観念は、ほとんど消えてしまったために、それによって、様々な不正腐敗の現象や社会的犯罪が氾濫し、世界は今、大混乱に陥っている。

そして人々は、今日のこのような価値観の崩壊を見て嘆きながらも、その収拾方案を提示しえないでいるのである。
共義主義はまさしく、このような価値観の崩壊を根本的に収拾して、誰でも、いつでも、どこでも、道徳と倫理を守るような、健全な道義社会を地上に立てようという理念である。

言い換えれば、資本主義社会と共産主義社会の次の段階として到来するようになる理想社会は、先に説明した共生共栄の社会であると同時に、万人が地位の上下を問わず、共同に同一なる倫理観をもって生活する共同倫理の社会なのである。

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ところで、共義主義は未来社会、つまり共生共栄共義主義社会の基本となるものであるが、共義主義社会の具体的な内容は三大主体思想が実施される社会である(後述)。
未来の理想社会において、宗教は必要でなくなる。なぜならば、宗教の目的がすでに達成されているからである。

キリスト教の教えの目的は、最終的には再臨のメシヤを迎える時まで信仰を強調することにある。儒教の目的は、最終目的には地上に大同世界を成す時まで儒教の徳目を実践することにある。仏教の目的は、理想社会である蓮華蔵世界が地上に出現する時まで仏道を修め、仏法を守ることにある。

したがって、再臨のメシヤを迎えることによって、創造理想世界が実現すれば、キリスト教の目的は達成されるのであり、地上に大同世界が実現すれば、それによって儒教の目的も達成されるのであり、地上に蓮華蔵世界が実現すれば、それによって仏教の目的、達成されるのである。

ところで、すべての宗教の目的が達成された世界が共生共栄共義主義社会であって、それがまさに再臨のメシヤを中心とした社会である。したがって再臨のメシヤの教えは、キリスト教の中心真理を含んだ教えであり、儒教の真髄を含んだ教えであり、仏教の核心を含んだ教えである。

そして、そのことが明らかになるために、あえて一教派の看板に固執する必要はなくなるのである。同時に、共生共栄共義主義社会は今までの宗教が教えてきたように、未来を準備するための社会ではなくて、メシヤとともに現実の中で真の愛の生活、すなわち天国生活を営む社会である。

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その社会は、万人が同一なる価値観をもって生活するために、今までの信仰に重きを置いた宗教教理は実践に重きを置いた生活倫理となる。未来社会のそのような側面を指して、共同倫理社会すなわち共義主義社会というのである。

それでは、共同倫理社会の特徴は何であろうか。第一に、社会生活は三大主体思想に基づいた三大主体の真なる愛の運動によって支えられるようになる。

三大主体思想により、一次的には、三大の中心すなわち家庭の中心である父母と、学校の中心である先生と、主管の中心である管理責任者(社長、団体長、国家元首など)の三大主体が、神の真の愛をそれぞれの対象である子女、学生、従業員(国民)に対して、絶えず限りなく施し与えるのであり、二次的には、その対象(子女、学生、従業員、国民∀の相互の愛が誘発されるようになり、全社会が愛の園すなわち、倫理の社会となるのである。

そのとき、すべての格差は真なる愛によって消え去るようになる。貧困は、少しでもより多く持つ人たちの真なる愛によって消えてしまう。疎外された者は、管理責任者の真なる愛によって、いやすぐ慰められる。知識の枯渇を感じる者は、有識者の真なる愛によって、すぐその渇きが癒される。

このような社会が、愛の園すなわち倫理の社会になるということの意味である。かわいそうな人を見れば、助けたくてたまらないのが、神の真なる愛であるからである。

そのとき、先生の真の愛を中心とした学校や、管理責任者の真なる愛を中心とした職場や国家は、すべて家庭倫理を拡大した倫理体系となるである。すなわち先生を中心とする学校は、父母の真の愛を中心とする家庭が教育の側面で拡大された拡大家庭であり、管理責任者の真なる愛を中心とした職場や国家は、家庭が管理や統治の面において拡大された拡大家庭形なのである。

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そのようにして、社会全体が神の愛によって満たされる。それが共義主義の実体であり、真骨頂である。したがって共生共栄共義主義は、まさに三大主体思想に基づいた社会体制なのである。

第二に、このような共生共栄共義主義社会の基本単位となるのは、あくまでも家庭である。言い換えれば、三大主体の愛が実施される場合に、最も基本となるのが家庭である。実は家庭には四大格位がある。すなわち祖父母、父母(夫婦)、兄弟姉妹、子女の位置がそれである。この四つの格位の間に神の愛が授受されるのである。

すなわち、祖父母の愛、父母(夫婦)の愛、兄弟姉妹の愛、子女の愛が授受されるのである。家庭において、そのような愛が授受されれば、自動的に秩序が立てられ、家法が立てられるようになる。そのようにして、家庭秩序と家庭規範が根づくと同時に、思いやりのある、むつまじい家庭の平和が定着する。このような家庭がまさに理想家庭である。

このような家庭を土台とした経済、政治、社会がまさに共生共栄共義主義社会である。このようにして長い間の人間の念願と、数多くの思想家や宗教者たちの理想がついに成就されるようになるのであり、六千年の間、神がそれほどまで願われた創造理想世界が実現されるのである。


結び

以上でもって、共生共栄共義主義の単純概念としての共生主義、共栄主義、共義主義のそれぞれについて説明した。ところですでに見たように、共生主義、共栄主義、共義主義はそれぞれが分かれることのできない、渾然一体となった理念であり、思想である。

そのような主義が実現されるとき、初めて神が構想された創造理想世界が実現されるようになる。そのような理由のために、一つの名称として、共生共栄共義主義と呼ぶである。そして共義主義は、理想家庭の理念を基盤とする三大主体思想がその内容となっているのである。以上、共生共栄共義主義について説明した。

 

新版 統一思想要綱(頭翼思想)
2000(平成12)年9月18日初版発行定価4,200円(本体価格4,000円)
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