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必殺始末人 村山集治

必殺始末人 村山集治
ムラヤマ・コンピュータのブログ

年季明け

2009-01-12 13:13:15 | 月賦屋時代前期 仕事

 年季明けなどと大仰なタイトルを付けているが、ボス猿とぼくの間にそういう約束があった訳ではない。6年間学校に行かせて貰った感謝の気持ちを込めて1年間お礼奉公しようと、ぼくが勝手に決めて勝手にやっていただけだが、いよいよその年季が明ける時がきた。

 勝手に決めて勝手やっていたのだが、夜間の短大を卒業した当たりから髭を延ばし始めていた。何故髭を延ばし始めたのか理由はよく覚えていないが、期間は半年と決めていたのを覚えている。そして半年後に写真スタジオで記念写真を撮ってもらったのが今残っている。みっともない格好だ。

 そして年が明けて昭和45年。ぼくは22歳。生意気盛りの恐い者知らずだ。たまに役所にハンコ持って行く仕事は大体ぼくがやっていた。店にある三文判をポケットに入れて持っていくのだが、店に帰ってからポケットから出すのを忘れることがある。店ではハンコがないとあっちこっち探して大騒ぎしていて、よた老ハンコがないがお前持って行かなかったか。

 支配人に聞かれてポケットの中を探すと、あっ、あった。はい。一言言って持って行けばいいのだが、カウンターに誰もいないと黙って持って行く。そういうことが何回かあって、店の三文判がない時はぼくのポケットの中にあることになっていた。

 ハンコをポケットに入れて行くのとは別に、上着の胸ポケットに辞表を入れてあった。それだけの意気込みで仕事をバリバリしていたのだが、自分の気持ちの中で決めていた年季が明けたので、この辞表をいつ出すかタイミングを伺っていた。

 いきなりボス猿の机の上に載せてはたまげるから、支配人にこれこれしかじかと話して、根回しをした後1週間位してからボス猿の机の上に辞表を入れた封筒を載せた。

 辞表出したからといってすぐに辞める訳にはいかない。ぼくの仕事の後任は、事務の手伝いをしてくれていたHGさんが引き継ぐことになったのだが、事務の絶対量が多いのでもう一人必要だ。幸いすぐに入ったので、ぼくはHGさんに仕事を引き継いで、新しく入った人が仕事を覚えて事務所の仕事がうまく廻るように後方支援に廻った。

 後方支援というと聞こえはいいが、事務所の仕事の手が回らない時だけ手伝って配達がメインになった。幸い一緒に仕事をしていたHGさんが事務所の仕事の全体を把握していたので、ぼくの出番はそれほどなかった。そろばんぱちぱち逆Sの字で8を書く人はこういうところで差が出る。

 夕飯は炊事のおばさんが6時に食べられるようにして帰る。店が暇な時はそれぞれ交代で温かい内に食べることができるが、店が忙しいと食べる時間が遅くなって冷や飯食べることになる。

 ぼくは、学校へ行っている時は帰って来てから夕飯食べていたのでいつも冷や飯を食べていたので慣れっこになっていたが、学校卒業して温かい夕飯にありつける機会が増えると、やっぱり飯は温かいのを食べたい思った。

 ボス猿は家に帰ってから夕飯食べているので、店の人達が冷や飯を食べていることに気が付いていない。当時の人は、大体どこの家でも食べ物の事で諍いをおこすなと言われて育ってきているので黙っているが、内心ではボス猿のやつめと思っている。

 店を辞めると退職金が出る。ぼくの退職金が幾らくらいになるかは大体分かっていた。それとは別に7年間毎月定期積み金をしていたので、退職金を上回る額のお金を持っていた。

 店が暇な時、店番しながら三洋の総合カタログを1ページづつめくって見ていたら、電子レンジという熱源がなくても加熱することができる不思議なものを見つけた。値段を見ると30万くらいする。これだ!。これがあれば冷や飯を温めることができる。

 早速三洋に頼んだら、電気工事をしないといけないという。電気屋さんに頼んで食堂にアース付きコンセントを付けてもらった。当時の電子レンジは、電波監理局に申請書を出さないといけなかった。そういうのは分からないから電気屋さんにすべて頼んだ。

 さぁ、電子レンジが使えるようになった。早速夕飯を温めて食べたらいい具合だ。かかった費用が当時のお金にして30万弱。ぼくはこれを置き土産にして店を辞めるとボス猿に言った。言われたボス猿、初めて冷や飯を食べさせていたことに気が付いた。

 ちょっと気が付くのが遅いのだが気が付かないよりはいい。ボス猿は電子レンジの分を上乗せして退職金を払ってくれた。倍返しで上乗せしてくれると思ったのだが、倍返しではなかったな。ケチめ。

 店を退職するに当たり、店の人達が送別会を開いてくれた。まぁ、こういうのはどこでもそうだと思うけど、送別会という名目で昼間からどんちゃん騒ぎをするのが目的なんだけど、その時に貰った額がある。

 その額は、長いこと行方不明でぼくの記憶からも消えていたのだが、KO君の所に預けてあって、タイムカプセルのカバンと一緒に戻ってきた。今部屋に飾ってある。殺風景な部屋の中にあって一服の清涼剤になっている。これにて月賦屋時代前期終わり。かなかなかなー。


ルーチンワーク

2009-01-10 17:08:44 | 月賦屋時代前期 仕事

 昭和44年ぼくは夜間の短大を卒業した。ボス猿から上の大学に行かないかと聞かれたが、上の大学にと言われても、今のように情報誌やネットが発達した時代であればいいが、そういう便利なものがなかった時代に、縁故の無い土地で就職先と進学先を同時に探すのはちょっと無理があった。そういうこともあってもう学校はいいですとボス猿に言った。

 ボス猿が東京にこういう就職先があるが、そこから上の学校へ行ってはどうかと言われれば乗っていたかもしれないが、6年間夜学へ通ってもういいというのが正直な心境だった。さてこれからどうするか。6年間学校に通わせて貰ったのだから、とにもかくにも1年間はお礼奉公しなければいけないな、先の事はそれからだと思った。

 同じ頃田舎の母から墓地を一区画買ったという手紙が来た。すぐ上の兄貴が鶴のマークに入っていてそこからの話だと言う。まだ鶴のマークが墓地ビジネスに参入する前で、鶴のマークが信徒団体になっているお寺の墓地だった。ぼくは、鶴のマークに入る気はなかったが、そうか墓地を買ったのか次はお墓を立てないといけないなと思った。

 ぼくの父は、ぼくが小学校2年生の時に亡くなった。悪いことに返せない借金を残していった。当時二十歳だった一番上の兄貴は、身体が弱い母と、妹弟3人を抱えて、払えない金を払え払えと責め立てられて、次第に頭がおかしくなってお決まりのコースにはまってしまった。ぼくはそういう兄貴の姿を見ながら大きくなった。

 小学校2年生のぼくには、事情がどうなっているか知る由もない。父は入院先の病院で亡くなったという。父の記憶はかすかなものしかなく、両手の指で数えても指の方が余ってしまう。

 夏の朝家の前に積んである材木の上に腰掛けていたら、学校へ行く友達が声をかけて来たので、今日は学校を休めと言われたからと言った記憶がある。学校を休むといっても何のために休むのか分からなかった。

 あれから14年、やっとお墓の区画を買うところまできたか、お墓を立てるまで後何年かかることやら。時代は高度経済成長の真っ直中、稼げば稼げる時代になっている。1年間みっちりお礼奉公して、お墓を立てるのを考えるのはそれから先の話だ。

 学校へ行っている時は、KO君より少し給料が低かったのだが、卒業したらボス猿が少し給料を上げてくれた。まあ夕方5時以降も学校に行かず働くのだから当たり前といえば当たり前のことなんだが、それにしてもボス猿ケチだ。もう少し上げてくれてもいいのに。

 当たり前だが卒業すると学校に行かなくてもいい。学校へ行っている時は、常に学校へ行く時間が気になっていた。月末月初めの店の忙しい時は学校を休まないといけない。今日は休まないといけないかそれとも行けるかの判断をしなければならない。卒業したらそういうことを考えなくてすむ。楽なものだ。

 気持ちの上では余裕ができて楽だが、肉体的には余計に働かなくてはならないのだが、二十一歳の肉体は、学校へ行くことを考えないでバリバリ働くことがこんなに気持ちよいものかと思った。仕事終わった後に銭湯に行って帰りにたまに呑みに行ったのは、お決まりのコースだ。

 景気のいい時代だったから次から次へと品物が売れる。ぼくは午前中に前の日の売り上げの事務処理をしている。若い頃東京の金融機関に勤めていたHGさんが事務所の仕事の手伝いに来てくれている。HGさんは、逆Sの字で数字の8を書く。もう即戦力。金銭出納帳付けるまではぼくがやるが、それ以降の作業はHGさんにやってもらった。

 決まった手順で仕事を処理していくことをルーチンワークというのだが、ルーチンワークという言葉を知ったのは、店を閉鎖した後パソコンの仕事をするようになってからだ。プログラムミングでは決まった処理をするプログラムをサブルーチンという。ルーチンワークは、人間が決まった手順(つまりサブルーチン)を積み重ねていく仕事だ。

 ルーチンワークという言葉は知らなかったが、今まで場当たり的に便箋などに書き散らしていた仕事をデュプロの印刷機でルーチンに合うように用紙を印刷して定型化して26穴のバインダーで綴じるようにしていった。

 なにせボス猿以下全員素人が月賦屋をやっている。おまけに支配人には事務処理をするために店やっているのではない。売るのが先だ事務は後と言われているから、どうしても事務は後手後手になっていた。

 店で使う紙切れの中で集金票と売上台帳が大体同じ大きさだ。東京の月賦屋が使っているものをそのまま拝借して作ったが、作った時期によって微妙にサイズが違う。在庫があるうちは新しいものを頼めないので、新しいものを頼む時に同じ大きさになるように時間をかけながら少しずつサイズの統一をしていった。

 紙の大きさを同じにするというのは事務処理の基本で、紙の大きさが同じようでいて、一寸違うというのは仕事がやり難い。売るのが先だ事務は後、と言われながらも、売るのの先回りをして事務の備えをしていく。ルーチンワークという言葉を知らないながらもその本質に沿ったことを知らず知らずにやっていた。

 ぼくに事務の仕事を教えてくれたOSさんは、ぼくが店に入って1年くらいで辞めた。OSさんからはよく教えてもらったのだが、何せぼくはまだ15歳。そんなに一杯いろいろなことは覚えられない。

 OSさんが辞めた後は、目の前が真っ暗になった。学校に行きながら目の前の仕事に追われて場当たりでこなしていくしかなかった。それでも慣れるに従って一番仕事のしやすい方法を手探りながらも築いていった。

 この時の経験がなかったら、ぼくはすんなりとシステムエンジニヤに転向できなかったと思う。売るのが先だ事務は後と言うけど、何かやり始める時は、優秀な事務屋を一人置いておかないと駄目だよ。事務屋は技術職でないように思われがちだけど、事務屋は、組織を音もなく動かす技術職だよ。

 学校卒業したのでやっと少し夕飯の冷や飯から解放された。あったかいおまんまは旨いよ。かなかなかなー。


貸し倒れ

2009-01-08 13:14:33 | 月賦屋時代前期 仕事

 月賦屋商売お金を払って貰わなければプレゼントになる。集金の人は回収率によって手当に差が出るから必死になって集金する。自分の手当がかかっているからお金の代わりに牛を持って来るということをやらかす訳だが、牛だけは持ってくるなと言われてせっせと集金に行ってお金を貰ってくる。

 月賦屋では毎月19日を最終計算日として、19日までにお金を貰えなかったものを残手と言ってそれが未収として確定した。ぼくは、毎月それをソロバンぱちぱちして回収率を計算していた。ソロバンで割り算をするのは疲れる。

 集金の人が夜討ち朝駆けで集金に走り回っても残手がゼロになることはまずない。古い残手になると集金票が手あかでボロボロになっている。ぼくが店に来る前の残手はデュプロの印刷機を使わないで手書きで書いたものもあった。

 年に一回決算の数字をまとめるとそれにしたがって税理士先生が決算をしてくれる。税理士先生は、貸倒引当金というのを決算書に書いてくれる。パーセンテージは覚えていないが期日未到来の未収金に対して決められたパーセンテージを掛けて貸倒引当金を算出しその分だけ損失を多く、つまり利益を少なくして決算書を作ってくれた。

 翌年の決算書を見ると前年の貸倒引当金を繰り戻して、新たに貸倒引当金を計上していた。売上が右肩上がりで伸びている時は期日未到来の未収金も増えていくので、前年分を繰り戻しても未収が増えた分だけ貸倒引当金が増えて、その分利益が減って結果税金が減るということになる。

 未収はあくまで未収で回収できない恐れがある。だから税法ではこういう方法で税金の支払を先延ばしにすることが認められている。右肩上がりで売上が伸びて未収が増えている内はいいのだが、売上が減って未収が減ると前年分の繰り戻しの方が多くなって逆に利益が増えることになって余計に税金払わなくてならないことになる。

 まぁ、昭和48年のオイルショックまでは右肩上がりで売上が伸びていたので、前年分の繰り戻しが利益に追い被さることはなかった。そしてそれほどの金額ではないが毎年いくらかの残手を新たに持ち越していた。その内のもうこれは駄目だというのを貸倒金として処理してもらった。

 貸倒金は、貸倒引当金と違って現実に回収不可能と決定したもので、その金額がズバリ損失となる。相手先と計って恣意的にやると貸倒を装った贈与ができてしまう。税務署がそんなことを認める訳もなく、税法では、書面による債権免除、といって、通常は債務を免除しましたという内容証明郵便を送ってそれを証拠として付けなければならないのだが、月賦屋は額が少ないのでそこまではやらなかった。

 さて税理士先生はどうやって貸倒金の処理をするのだろうと見ていたら、12月31日付けで借方に貸倒引当金、貸方に貸倒金と仕訳して処理した。なるほどね、そのための引当金だったのかと納得した。

 実際の集金の現場はそれぞれのケースがある。残手になるのはごく限られたものでほとんどのお客様は19日の計算日までに支払ってくださった。まあそうしてもらうために集金の人が必死になって廻る訳だ。

 事情があって少し遅れてもやがて周回遅れでお支払いいただいた。不思議なもので、月賦=プレゼントと考えて最初から払わないお客様というのはいなかった。開店当初の残手の中には多少そういうお客様もいたようだが、ぼくが店に入ってからはそういうお客様はいなかった。

 人間というのはそれほど図々しくなれないもので、お金を払わないお客様は、お金を払っていないという負い目があって、払わないまままた買いに来るというお客様はいない。買いに来てくれないと商売にならないので、集金の人がしつこいほど集金に行ってお金をもらってくる。

 大変な思いをしてでもお金を払ってもらえば相手はお客様、いつでも堂々とお買い物にきてくださる。だから月賦屋の成否は回収率にかかっている。回収率が悪いと手間暇掛けてプレゼントした挙げ句に、お客様が買い物に来てくださらなくなる。これじゃなんのために商売しているのか分からなくなる。

 高度経済成長のいけいけどん期は集金の人による人海戦術で回収率を維持できていた。ぼくもただ集金の人が上げて来た数字を元に回収率の計算をしていればよかった。顧問弁護士の名前が入った催促状が印刷してあったがあまり使うシーンはなかったように思う。

 年に幾らかの貸倒を計上していたが、普通の商店でもその位は計上するだろうという程度で、同業者と比較すれば驚異的な額だった。ボス猿は金融機関の出身だから月賦屋の肝をよく心得ていた。そのかわり集金の人は毎月大変だったぞ。


イヨマンテの夜

2008-12-27 13:55:46 | 月賦屋時代前期 仕事

 支配人は田舎にいた青年時代に素人のど自慢に出たことがあると言っていた。時間的にズレがあると思うが、ぼくは長岡厚生会館で行なわれた素人のど自慢を見に行ったことがあるので、へーあののど自慢に出たことがあるのかと思った。

 支配人は北島三郎の、なみだ船が好きでKO君にレコードを買いに行かせて休みの日は良く聞いていた。こいつは歌がうまいな。涙の 終りのひと滴 ゴムのかっぱに しみとおる どうせおいらは ヤン衆かもめ、と自らも口ずさみ、こいつは歌手として売れるぞと言っていた。

 どんな商売も忙しいだけでなく時間帯によって暇な時がある。そんな時に支配人がよく歌を口ずさんでいた。もともと歌がうまい人だから側で聞いていても苦にならない。そして時折カウンターの上で腕だけで倒立して、見ているぼくらをびっくりさせていた。

 そして支配人が大きな声で、アホイヤー ラハハ・・ ラハハ・・ イヨマンテー、と歌った時は、なんじゃそりゃとびっくりした。早速真似してみたのだが声量が続かない。難しい歌だ。

 テレビでも時たま流れることがあった。たしか北島三郎も歌ったことがあったのではないかと記憶している。そしてKEちゃんが、アホイヤーを時たまやるようになった。ぼくもやるのはやるのだが声が続かない。

 いつもお昼を食べると店に降りて交代をする。支配人が昼飯を食べた後、これから出かけるところがあるので、お前ちょっと店番していろと言われることがたまにある。昼飯食べに上がった女性陣が降りてくるまでの間だから大した時間ではない。

 ちょうど昼飯食べに上がった女性陣が降りて来て、ぼくが事務所に上がろうとした時にお金を持って来られたお客様がいた。ぼくは普通に入金票を書いてお客様に領収書を渡し、お客様はお帰りになった。同時にぼくは二階の事務所に上がった。

 しばらくしたら店からインターホーンで降りて来てくれと言われ、店に行ったら先程のお客様が見えていた。ズボンのポケットに入れておいたお金を店の中に落とした。店を出る時店の中を見たらあなたがそれを拾っていた。あのお金返してください、と言う。

 店の中にお金が落ちていたら別に保管することになっていますが、そういうお金は落ちていませんでした。いやあんたが拾う所を見た、幾ら幾らだ。あれがないと子供が修学旅行に行けない返してください。返してくださいと言われても拾ってないものは返せない。これから閉店まで時間があるので店の中を探して落ちていたら連絡しますからということで、お引き取り願った。

 ぼくは事務所に上がって仕事を始めた。しばらくしたらまたインターホンで呼び出された。店に行ったら先程のお客様がいて、すいませんズボンの後ろポケットに入っていました、と謝りに来られた。大切なお客様を怒鳴りつける訳にはいかない。あったのならそれでいいですよ。よかったですねと言ってお引き取り願った。

 一人胸のすかないのがいる。ボス猿は、店の奥で家具の手入れをしながら事の始終を聞いていたが知らん顔していた。ボス猿にお金はあったそうです、と言ったら、何を勝手なことを言っているのだあのお客は、と、ぼくに言う。そう言いたいのはぼくなんですけどね。

 ぼくは黙って二階の事務所に上がり、アホイヤー ラハハ・・ ラハハ・・ イヨマンテー、と歌ったのだが声が続かない。お客様商売というのは時としてどこへぶつけていいか分からないものがある。

 怒りや辛さや悲しさそして喜び、声が続かないがイヨマンテの夜を歌うことがある。ネットで調べたら昭和25年1月にレコード発売とある。最近30歳くらいの人にイヨマンテの夜を知っているかと聞いたら、全く知らないで相手にされなかった。歌は世につれ世は歌に連れというが、60歳にもなると歌と同じく人間も置き去りになってしまうのかな。かなかなかなー。


オーダーメイド紳士服

2008-12-16 13:03:55 | 月賦屋時代前期 仕事

 月賦屋というのは金額が高ければ何でも売る。安い消耗品や、飲み食いして形が残らなくなるものは売らない。形が残って長い年月のうちに消費されるいわゆる耐久消費財というのを売る。

 店では最初に婦人服に火がついた。一年位してから紳士服に火がついて、飛ぶように売れた。ご婦人方は色がどうだの、柄がどうだのといろいろとうるさい。そこへいくと殿方は、あまりそいうことは言わない。

 今のぼくは背広を着る機会がまったくといっていいほどない。あっても肩が凝るのでなるべく着ないようにしている。それで済む世の中になったということなのだが、昭和40年代の始めは、長靴屋さん商売で仕入れた背広がよく売れた。

 長靴屋さん商売で仕入れた背広は儲かる。儲かるからといって全部が全部長靴屋さん商売で仕入れて背広を並べておく訳にはいかない。やはりその年の新作を仕入れてごちゃごちゃに混ぜて陳列する。

 ボス猿は月に一回東京の金融機関に行って手形の書き換えと定期積み金をの積み立てをしてくる。その後に東京の月賦屋に寄って何が売れているか情報を仕入れてくる。東京で売れているものはいずれ上州でも売れる。次に何が売れるか分かっていて迎え撃つのだから楽と言えば楽なもんだ。

 しかし、ぼくがそういうことに気が付いたのは最近になってからのことで、当時のぼくは言われるがままに、あたふたあたふたと動いていただけだ。

 ある時、オーダーメードの紳士服をやるということになった。婦人服でもオーダーメードができない訳ではないのだが、婦人服は流行がありすぎて専門店でない月賦屋ではちょっと無理があった。

 ボス猿が東京へ行った時、紳士服の生地を仕入れて来た。店ではそれを並べる場所を作らないといけない。どうするんだろうと思っていたら支配人が取引のある家具屋さんに行って板と角材を何本か貰ってきた。

 その後ぼくは二階の事務所に上がったので見ていなかったのだが、次に店へ降りて行ったら、板をうまいこと壁にしつらえて、そこに角材の角をカンナで削って丸棒にしたものを渡した生地の陳列場所ができていた。

 支配人は仏壇の木地を作っていたので、こういう木工細工は得意中の得意だ。後は生地を陳列するだけで、ぼくとKO君の二人で木の棒に生地をぶら下げて正札を付けて準備OK。

 生地を仕入れた問屋さんからは寸法を書く伝票が届いていた。どこからどこまでを計ったらいいのか絵入りで書いてある。ぼくは店番ではないから寸法を測ることは少ないが、昼飯で交代の時に計る必要性があるかもしれないので紙を眺めながら頭に入れていた。

 そして、しばらくしてオーダーメイドの紳士服が売れた。まぁオーダーメイドといっても月賦屋がやるオーダーメイドは、既製服の延長線上みたいなもので、生地を既製服屋さんに送って縫製を既製服屋さんに頼む。

 ゾッコウ、という聞き慣れない言葉が出てきた。なんじゃそりゃと思ったがよく分からない。とにかくそういうものがかかると売上台帳に書かれて上がってきた。記憶が定かではないが仕立賃とは書かれていなくてゾッコウと書かれていたように記憶している。

 ゾッコウは業界用語だったのだが、何で仕立賃でなくてゾッコウなんだろうと長年不思議だった。今から考えると、付属工賃、の真ん中を取ってゾッコウと言っていたのではないかと思う。

 話が逸れた。当時は、荷物を送る時は必ず縄か紐で縛って荷札を付けた荷造りをしなければいけなかった。要するにお互いに荷物を送るのが面倒くさい。そういうこともあって、オーダーメイドの紳士服の注文を貰ってからお客様の所に収めるまでに相当の日数がかかった。

 ぼくの方は、売上台帳が先に上がってくるものの、配達が終わりましたという配達伝票がなかなか上がってこない。下手すると次の集金期日がきてしまう。配達伝票が上がって来ないことには、集金の人に集金票を出せない。売上台帳だけ上がってきて配達伝票が上がって来ないのは事務屋泣かせだ。

 オーダーメイドの紳士服はぽつぽつ売れていたが、期待したほどの売上がなく、2・3年でやめたと思った。店の殿方のお客様は、おしゃれにお金を使うより別の方にお金を使う人が多かったようだ。ぼくも、背広を何着も持っていたがオーダーメイドで作ろうとは思わなかった。かなかなかなー。


お祭りこもごも

2008-12-12 09:57:17 | 月賦屋時代前期 仕事

 手元にある、伊勢崎の歴史、という本には、1950(昭和25)年から七夕祭りが始まったと書いてある。一方ネットで調べると昭和28年から続く伝統行事とある。どっちが正しいのか、両方正しいと思う。

 七夕祭りは商店街の共同企画として行なわれるが、昭和25年にスタートした当初は商店街一致してという状況ではなかったが、3年後には全部の商店が揃って七夕飾りを出すようになったのではないかと思う。いずれにしても、ぼくが伊勢崎に来たのは昭和38年だから、それ以前のことは自分の目で見ていないから分からない。

 昼飯食べて交代に店に出たら、綺麗な色紙を折り畳んで真ん中を細い針金で縛っていた。何じゃそりゃ、と聞く間もなく、おお、いいところへ来た七夕の飾りだからお前もやれ、言われるままに昼飯の交代時間中色紙を折っていた。傍らには他の人が広げた色紙の花がある。なるほどあれを一杯つくるのだな。しかしこれは大変な仕事だなと思った。

 最初の年は要領が分からないから、先輩達のやり方を見よう見まねでやったのだが、いやこれがまた大変な仕事だ。夏場の暇な時期だからできるが、忙しい時期だとやれない。うちの店はまだ人手があるからいいのだが、人手の少ない所では一家総出でやらないといけない。

 この後数年で高度経済成長のいけいけどんどんが始まってくる。衣食住、あらゆる業種において、社会全体の欲求が牙を剥いて襲いかかってきた。こりゃ七夕祭りどころではないということで、何年か中止を余儀されなくされた。

 そして、各商店の体制も整い七夕祭りが再開された。伊勢崎の七夕祭りの黄金期の幕開けである。一時中断する前は7月6日・7日にやっていたと記憶しているが、再開後は日にちを1週間か2週間後へずらして、土日にやるようになった。月の内で一番暇な時期にやるようした訳だ。

 ぼくは、二階の事務所で仕事をしている。店番の人が店を離れられない仕事が出来るとぼくの所にお鉢が廻ってくる。七夕や他の祭りというと、おいよた老お前やれと言われる。最初の内は面白半分にやっていたのだが、その内に面白半分ではできないことに気が付く。

 気が付いた時は後の祭りで、毎年やらないといけない羽目に陥ってしまった。七夕祭りの準備は大変な仕事だけど、見に来てくれるお客様に喜んでもらえるのが張りであった。これは他の商店でも同じ事で、商売に直接結びつくことではないが商店街に店を構えている出店料のようなものであった。

 そして何年かして、今度は8月に伊勢崎祭りをするという話になった。伊勢崎祭りって何だ?。生まれた所が違うから過去のいきさつが分からない。手元にある、伊勢崎の歴史によると1958(昭和33)年に始まったと書いてあるが、ぼくが店に入った昭和38年にはやっていなかった。多分途中で一時中断になったのだと思う。

 祭りの当日の朝準備に人を出せと言ってきた。うちの店は商店街では新参者。地元の人の言うことには逆らえない。店の人達にはそれぞれ持ち場があって長い時間店を離れることができない。よた老お前行ってこい。事務屋というのは何というかこういう時にかり出されるポジションだ。

 町内の会議所に行くと見覚えのある町内の商店の人達が集まっている。何をするんだろうと見ていたら、会議所の中から解体した山車の部材を運び出して組み立て始めた。集まった人達の中では、ぼくが一番若い方だったから言われるままに組み立ての手伝いをした。

 組み立て終わった山車は、大正時代か昭和の初め頃作られたもので銘仙で栄えた時代を彷彿させる見事なものだった。昔はお祇園と言ってこれを引いて歩いたのだという。組み立て作業は午前中で終わり解散になった。山車を引いたり、山車に乗って鐘や太鼓を叩くのは子供会の仕事のようだ。

 そして、午後一時祭りの交通規制が始まると、あちこちの町内からコンチキチン、コンチキチンと山車がやってきて、コンチキチンと賑やかに競演を始める。こういう祭りは生まれてこの方見たことがない。へー古い山車がよく取ってあったなと感心した。

 祭りは二日間に渡ってコンチキチンと行なわれた。祭り明けは月曜日、商店街は休みだが山車の解体をする。またお前行って来いと言われて行ってきた。事務屋は祭りだというとかり出される。

 伊勢崎祭りは、最初の内は要領が分からなかったので、言われるまま手伝いをしていたのだが、月賦屋時代中期になると要領が分かってきたのと、商店街の人達と呼吸があってきて、手伝いをするだけでなく、ぼく自身も祭りを楽しむ方に廻った。

 手元にある、伊勢崎の歴史、という本によれば、1958(昭和33)年にダルマ市が始まると書いてあるが、1月の寒い時期にやっていたので店に入った頃は気が付かなかった。年々規模が大きくなっていったようで、とうとう店の前の通りでもダルマ市が行われるようになった。

 ダルマ市は1日で終わる。ダルマを売る人達がやってきて前の通りでダルマを売るだけなので商店街としては、ダルマ市が終わるまで店を開けておく程度でこれといってやることがない。

 近所の商店のお婆さんが、うちのお爺さんは結婚指輪も買ってくれなかったと、どこかで話したら、それを聞きつけたお爺さんが七夕だったかダルマ市の夜店で安い指輪を買ってきてくれて、まったくうちのお爺さんときたら、というような話が聞いた。まぁ商人のお爺さんの目から見れば結婚指輪なんてのはそんなものかもしれない。

 ぼくの記憶ではダルマ市が一番遅かったように思うのだが、余り記憶が定かでない。高度経済成長で社会全体の欲求がキバを剥いて襲いかかってきた時は、商店街として祭りの準備をする足並みが整わなかった時期があったが、だんだんと商店街全体の足並みが揃うようになって祭りが次々に復活していった。

 そうして復活していった祭りは今でも続いている。回覧板でお祭りの案内が来ると、祭りの準備をしていた頃が懐かしく思い出される。かなかなかなー。


代車屋さん

2008-12-10 10:18:46 | 月賦屋時代前期 仕事

 ぼくは、ダットサンのロングボデーに乗って配達に飛び回っていた。ダットサンは今でも走っているのを見かけるが、あれに家具を載せて飛び回っていたのか、よくあんな荷台の小さいので配達していたなと思う。

 トヨエースというトラックがあった。取引のある家具屋さんでも何軒かはトヨエースを使っていた。荷台がフラットで一番安い1トン車なのだが、確かに一番安いだけあって、東京まで運ぶ家具屋さんでは使っていなかった。

 東京方面に販路を広げた家具屋さんが使うトラックは、1トン車ではプリンスホーマー、2トン車ではプリンスクリッパー、イスズエルフが多かったように記憶している。家具屋さんが使うトラックは、荷台のあおりをすべて取り外してフラットにして使っていた。

 家具の積み降ろしは大体後ろからやるものなのだが、あおりをすべて取り外すとどちら側からでも積み降ろしできて便利だ。こういうトラックに家具を満載にしてロープのナンキン縛りで固定して、前橋から日に何台、何十台も出て行った。

 あおりを全部取り外すと積み降ろしは便利なんだが、荷物を積んでないときはタイヤの上にフラットな板が一枚乗っかっているだけなので不気味ではある。ぼくは、それを不気味とは思わずに便利だなと思っていた。

 家具に使うベニヤ板は3尺×6尺と、4尺×8尺という大きさのものがある。ぼくが小学生の頃に尺貫法からメートル法に切り替わったが、実際のベニヤ板の大きさは変わらずに表記だけメートル法に変えただけなので、家具を扱う人達の間では相変わらず尺貫法が生きていた。

 家具を運ぶトラックでは荷台の横幅が6尺あるかどうかがポイントだった。1トン車の荷台の横幅は5尺5寸しかない。横幅3尺の家具を横に2本並べて載せたいと思っても1トン車の荷台ではできない。荷台が後5寸広ければと思うのだが、載せられないのでは仕方がない。

 これが2トン車になると荷台の横幅が6尺ちょっとあるので、横幅3尺のタンスを2本並べて積むことができた。この違いが実に大きい。大きいから1トン車と2トン車の違いになっているのだが、家具を運ぶ人にとって1トン車で横幅3尺のタンスを2本並べて積めたらと思ったのは1回や2回ではなかったと思う。

 当然ぼくも家具の出張販売で家具を一杯載せる時に、えーいくそ、これが2本並べて載せられたらと何度も思った。そういうところに1トン車のプリンスホーマーの荷台のあおりをすべて外したトラックで配達に来た家具屋さんがあった。

 おおこりゃいいな。3尺が2本並べて積んであるな。ええ、違反なんだけど積めるようにちょっと足してあります。そうかい。ぼくはその後そのトラックを借りてちょっと運転したことがあるがなかなか使い勝手がよかった。

 ぼくが店に来る前の話だが、ボス猿は前橋のMK木工を東京の月賦屋に連れて行って紹介した。そのMK木工はその後ぐんぐんと販路を拡大して成長していき、自分のところで作った品物だけでなく、周辺の同業者が作った品物も取り扱うようになっていった。

 製造業から卸業への転換をした訳だが、100%卸業に転換した訳ではなく、前々から作っていた自社製品の生産は継続していた。店はMK木工の他に何件もの家具屋さんと取引がある。それぞれ自分が得意とする分野の家具を作っていた。

 販路を広げた家具屋さんは、自分の所のトラックだけでは配送仕切れなくなった。そこで登場したのが代車屋さんとやつだ。トラック持ち込みで荷物を積んで届けて来るという、いわば白トラックだ。運送業違反なんだが、高度経済成長のいけいけどんの当時は、違反を取り締まるより荷物を運ぶ方が先だということで黙認されていた。

 販路を拡大した家具屋さんも、トラックを揃えて人手を確保して、保険をかけて事故のリスクをとやるより、それらを幾ら幾らで一切合切請け負いますという代車屋さんを使う方が合理的だ。実際MK木工の社長は交通事故を起こして痛い思いをしている。

 代車屋さんが荷物が届けるようになると、同じ家具屋さんなのに来る人や車が違うので最初はとまどったがすぐに慣れた。代車屋さんはいろいろな人が来る。マツダの三輪トラックに家具を載せて来た人がいた。

 三輪トラックといってもすでに丸ハンドルの時代になっていたのだが、鼻先が出ている分荷台が狭い。それでもダットサンの荷台よりは広かった。荷物を降ろし終わった後に、三輪とは懐かしいですねと話を聞いたら、三輪の方が角が無い分路地に入った時に曲がりやすいんだよと言っていたのが印象的だった。しかし時代のおおきなうねりの中で三輪トラックの製造はその後すぐうち切られた。

 トラックやバスを運転する者は、運転中も後方を確認するため左右のバックミラーを見る。中でも左のミラーが無いと非常に恐い。ある時来た代車屋さんが店の前に止まったので、もう少し前にで出て左側に寄ってと、おーらい、おーらいと誘導したのだがなかなか寄ってこない。

 どうしたんだい?、と聞いたら左のミラーを指指した。何とミラーが壊れていてドライバーが1本刺さっていた。こんなんで運転してきたのか?。よく恐くなかったな?、と聞いたら、そりゃ恐いよ、でも持って来なくては金にならない。

 時代は高度経済成長真っ直中、衣食住あらゆる業種において時代の欲求が牙を剥いて襲いかかってきている。まさに時代のたぎりが、事故は自分持ちの代車屋さんに左のミラーの無いトラックで荷物を届けさせていたように思う。危ないからよい子の皆さんは真似しては駄目だよ。かなかなかなー。


鯉の養殖

2008-12-04 10:22:35 | 月賦屋時代前期 仕事

 伊勢崎は赤城山の裾野が終わった当たりから始まる関東平野の始まりに位置する。山の中に雪解け水を溜めておく沼があるというのなら分かるのだが、伊勢崎の場合、平野部の真ん中に突然沼がある。この水はどこから来ているのだろうと不思議だった。

 この当たりは渡良瀬川の扇状地の先端部で、所々に湧水がある。その湧水が溜まって沼になっているということを知るには随分と時間がかかった。

 そういう沼の中に波志江沼がある。事務所で売上台帳の整理をする時にたびたび目にする文言だが見たことがない。最初は華蔵寺の沼が波志江沼だとばっかり思っていた。華蔵寺の沼は店に来てすぐ桜見物に行って藪の中に小便したし、伊商の近くだったたのでよく知っている。配達でも華蔵寺の沼の脇の道をよく通ったのでこれが波志江沼だとばっかり思っていた。

 6月の田植えの頃だったと思うが、配達で華蔵寺の沼の脇を通って砂利道を更に北へ上って細い道を西に入ったことがある。眼前に大きな沼が開けてきた。なんじゃこりゃー。こんな所に沼があるのか。一緒に行ったKO君が波志江沼だという。たしかに配達伝票の目標にも波志江沼と書いてある。

 これが波志江沼か、おれは今まで華蔵寺の沼が波志江沼だとばっかり思っていたよ。知らないというのはそんなもんだ。この波志江沼は上沼と下沼に別れていて、当時は鯉の養殖が盛んに行なわれていた。そして、田植え時は川からの水を引き入れて下流の田圃に水を供給するための溜め池としても機能していたようだ。

 鯉の養殖が行なわれていると聞かされていても、車を止めて鯉を見ることもできない。こんな大きい沼で養殖していたらさぞかし鯉が一杯いるだろうなと思いながら沼の脇を通ってお客様の所に配達したらすぐに帰らなければならなかった。

 田植えは上から、上州の田植えは上から始まる。上の方で田植えを終わらせて下の方へ水が来るようにならないと下の田植えが始まらない。どうも雪解け水が豊富にある越後とは田植えの様子が違う。というようなことを認識するようになったのは最近のことで、農家の倅でないぼくは田植えにはあまり興味がなかった。

 今と違って当時は田植機がなかったので農家にとって田植えは大仕事だった。店の近くにも北から南に水を通すための水路があって、稲作シーズンになると水がごんごんと流れていた。

 店がある場所は、昔田圃が広がっていたという話だが、ぼくが店に入った当時は田圃の面影はなく、わずかに水路を流れる水だけが昔を偲ばせていた。しかし、本通りから南へ少し行くと田圃があった。

 田植えの頃になると、店が終わって店の二階で布団に入ると蛙の鳴き声が賑やかに聞こえてきていた。蛙の鳴き声を聞いて、あー今年も田植えの季節になったのかと思っていた。農家は田植えで大忙しだが、こちらは七夕の準備で大忙しだった。

 トラックで配達に出た時に沼の側を通ると餌をやっているシーンに遭遇することがある。横目でああやって餌をやっているのかと見るだけで、あっという間に通り過ぎていた。

 鯉の餌には、蚕のサナギが使われていると聞いた。養蚕が盛んな地域だから、蚕のサナギは大量に出る。蚕で稼いでサナギでも稼ぐ、まさに一石二鳥だ。安いインスタントラーメンが出回っていたが、その中にもサナギの油が入っていると聞いたことがある。

 夏が終わって11月頃になると養殖していた鯉の水揚げが始まる。恐らく何日もかけて沼の水を落として、水位が下がった所へ小さな舟を出して鯉を網の方へ誘導して大勢で引き上げていたように見えたが、寒い中大変とは思ったが楽しい仕事だろうなと思った。

 ぼくは魚捕り大好き人間だ。田舎にいた時は、しょっちゅう網持って川の中をごそごそやっていた。雑魚が捕れるのだが、たまに鯉が捕れると鯉だ鯉だと大喜びする。そしてごくまれに色鯉が捕れることがある。上流で錦鯉の養殖をやっているところがあって、そこから逃げ出したやつだ。おう色鯉だ色鯉だと一緒に行った友達と大騒ぎし合っていた。

 魚捕り大好き人間のぼくとしては、鯉の水揚げに遭遇すれば、やれと言われなくてもやってしまいたいのだが、配達の途中で鯉の水揚げ作業を目撃してもダットサンほっぽらかして行く訳にいかなかったのが今でも残念に思う。

 今は時間ができた。鯉の水揚げするところがあれば、近くまで行って野次馬して見たいと思うのだが、時代と共に食生活が変化して今では鯉の養殖をしているところを見かけなくなった。鯉を手づかみしたら面白いのにな。そして鯉こく食べたら旨いのにな。かなかなかなー。


火炎瓶

2008-11-30 13:58:21 | 月賦屋時代前期 仕事

 東京では労働運動や学生運動が盛んだった。タオルで顔を隠して頭にヘルメット被って棒きれ持ってわっしょいわっしょい、アンポ、ハンターイとか言って、取り締まる警察の機動隊に火炎瓶を投げつけたり、機動隊の方は放水車で水をぶっかけたりで日増しにエスカレートしていた。

 ぼくは、テレビや新聞でそういう様子を見ながら何であんなあほなことをするのだろうと不思議に思っていた。上州の大学でも多少あったのではないかと思うが伊勢崎には大学がなかったで自分の目で実際のシーンを目撃することはなかった。

 夜間の短大に行っていた時に、学生会が学生運動をしようと提案してきたことがあったが、夜間の学生は仕事の方が忙しくてあんなあほなことはやってられないという感じで誰も感心を示さなかった。まぁ当たり前のクラッカーだな。

 学生運動に感心を示さない学生をノンポリと言うようだが、当時のぼくはノンポリという言葉すら知らなかった。本来は、非政治的学生という意味らしいのだが、学生をそんなに大袈裟な言葉で分類することが間違っているように思う。。

 子供の頃、春になると家の裏の操車場から大きな音楽が鳴り響いていたことがあった。今思うとあの音楽は、立て万国の労働者、という歌だったように思うが、何せ子供だから労働運動やメーデーなどということは分からない。大きな音だったことだけは覚えている。

 そして、店に入って数年後メーデーの行進があるのを知った。東京では大勢の人が集まって行進をするニュースをテレビで見た。伊勢崎でもメーデーの行進があった。店の前の通りを行進する。どんなことをやるのだろうと店の前に立っていたら、メーデーの行進がやってきた。

 東京では派手なことをやっていたようだが、伊勢崎では別に派手なことをやる訳ではなく、思い思いの服装で人が歩いて行くだけだった。その歩く人の中に定時制の同級生がいて、やあ!、と手を挙げて声をかけて来たので、ぼくも、やあ!、と手を挙げて声をかけた。

 旗一つやるよ。紙の旗を一つもらったのだが、使い道がない。仕方がないので旗振って見送った。毎年メーデーになると店の前の道路を行進していたが、デモ行進というより、お祭り気分で歩いているという感じだった。

 上州での労働運動や学生運動はそんなもので、東京のように過激なことはなかった。第一、過激なことをする理由がわからなかった。しかし、上州から東京の大学に行った人の中には過激なことをする人が出ていたのではないかたと思う。

 店の近くにバイク屋さんがある。店で使っているバイクはそこから買って、修理をしてもらっいた。バイク屋さんの従業員は、陽気のいいときは店先の日当たりのいい場所で仕事をしている。

 昭和40年代前半の天気の良い春だったと記憶している。太田方面に向けて走っていた車から火炎瓶が一つ落ちて、バイク屋さんの先の道路上で燃え上がった。店先でバイクの修理をしていたバイク屋さんの従業員が、すわこりゃ大変だと、消化器持ち出して消した。

 火炎瓶の方は消化器で消したのだが、車の行方が分からない。110番通報してパトカーが来て騒ぎになったそうだが、ぼくはその時、二階の事務所で仕事をしていたのだが、まったく騒ぎに気が付かなかった。

 昼飯の交代で店へ降りて行ってその話を聞いて始めて知った。現場はどうなっているのだと見に行ったがすでに片づけられた後で、何も痕跡がなかったが、バイク屋さんの従業員から直接話を聞くことができた。

 翌日の新聞の群馬版にその話が載っていた。とうとう上州でも火炎瓶騒ぎが起きたかとみんな不安に思ったのだが、その後はそういう騒ぎは起きなかった。昭和47年2月に起きた浅間山荘事件よりずっと前の話だ。

 どうもぼくは、全学連とか中核派とか革マル派とか全共闘とかいうのがよく分からない。後に学生運動に熱中した人と話をしたことがあるが、どうにも話が合わない。

 あれは、親のスネかじって大学行ったやつでないとできないものなのかもしれない。母に仕送りしていたぼくにはまったく分からない世界だった。かなかなかなー。


ダットサンの洗車

2008-11-28 09:15:56 | 月賦屋時代前期 仕事

 まだKO君が店にいた頃、休みの日にダットサンの洗車をしたことがある。一人一台づつ運転してガソリンスタンドに行った。店のすぐ近くにガソリンスタンドがあるのだが、そこは狭いのでちょっと離れたところの方に行った。

 ガソリンスタンドが洗車設備を整えて料金を貰うようになる前でだったように記憶している。天気のいい日にKO君と二人でダットサンを洗車する。水をじゃぶじゃぶかけてブラシでこする。水はタダだがワックスは買わないといけない。一渡り水洗いが済んだ後にワックスをつけて磨く。

 ダットサンにワックス掛けても桑畑の中走ればワックスも何もあったもんじゃないのだが、何事も始めてやることは面白いから夢中になってやったのだが、あー面倒臭い。ワックス掛けなんかするもんじゃない。

 休みの日だからやっていられることで、仕事中に洗車なんかしていられない。ワックス掛けが終わって、水有り難うさんと言ってガソリンスタンドを後にした。最初の信号は青だったからそのまま素通りしたのだが、次の信号に行く途中で前を行くKO君がブレーキを踏んだので、こちらもブレーキを踏んだ。

 わわわ。なんじゃこりゃ。おもいきりブレーキを踏んでもブレーキが効かない。このままではKO君が運転するダットサンにぶつかると思ったのだが、どういう訳かぶつからない。ブレーキをポンピングしてやっとのおもいで止めた。

 前の車を運転していたKO君も同じことをしていた。弱ったなブレーキが効かないのでは危なくて運転できないぞ。二人でそろそろ行くか。ダットサン2台並べてブレーキをポンピングしながらのろのろ運転で走った。

 しばらくポンピングしていたらその内にブレーキが効くようになった。ああ助かった。その後は順調に運転して車庫に入れた。ありゃ何だったんだ。原因が分からずに取りあえずは回避の方法を見つけて帰ってきた。

 翌日、支配人にこれこれしかじかと話したら、タイヤに水掛けて洗っただろうと言われたので、洗ったと答えたら、その時ブレーキシューに水が入ってしまったからだ、タイヤを洗わなければよかったのだが、タイヤを洗うからそうなるのだと言われた。

 昔の車ではよくあったことで一度経験すると二度目はやらなくなると言われたが、そういうのは経験する前に言ってくれ、あやうくダットサン二台揃って交通事故起こすところだった。

 今の車で洗車したらブレーキが効かなくなったなどということはないと思うが、昔はブレーキシューにまともなカバーがついていなかった。ブレーキかけて止まるはずの車が止まらないのだからこれほど恐いことはない。ということを学習したはずだったのだが、時間が経つと忘れてしまうのが人間の性。

 それからしばらくした後、やはり休みの日に洗車をした。気を付けてやったつもりだったのだが、ブレーキシューに水が入ったみたいだ。帰りに一時停止の十字路でブレーキ踏んだらブレーキが効かない。わわわ、洗車の水が入っちゃった。このまま十字路に突っ込んだら車と衝突してしまう。

 泡食いながらブレーキペダルをポンピングしている内に一時停止しないで交差点に入ってしまった。あわわわ、幸い交通量の少ない交差点だったので、横から来る車が無く、交差点の真ん中でやっと止まった。ああ助かった。

 一度学習して二度目だからそろそろ発進してブレーキーをポンピング。よしよしブレーキが効くようになったか。そんじゃまあぼつぼつ行くか。洗車してブレーキが効かなくなる恐い思いは二回した。三回目はしてない。

 何故三回目の学習をしていないかというと、恐いから洗車するのをやめたんだ。1週間に1回の休みを潰して恐い思いすることはないもんね。それにぼくは掃除をするのが大嫌い。おっ散らかしておくの大好き。たまにはするけど。

 話が逸れた。当時は今と違って砂利道が多かったのだが、不思議なことに雨の日に運転してもブレーキが効かなくなるということはなかった。まだリコールという制度が無かった時代だが、ホースで不用意にタイヤに水をかけるとブレーキシューに水が入ってブレーキが効かなくなってしまうのが当たり前の時代があった。

 その後運良く交通事故を起こすことは無く今に至っているが、高度経済成長の牽引役の自動車産業もそういう時代を経験しながら成長していった。それにしても効くはずのブレーキが効かないのは恐いぞ。かなかなかなー。


お中元とお歳暮

2008-11-26 11:14:14 | 月賦屋時代前期 仕事

 時期になるといろいろな取引先がお中元やお歳暮を持って来る。持ってこれないところは送って来る。

 送られて来たお中元やお歳暮がくせ者。ボス猿がお礼状を出せと言う。お礼状のハガキが印刷されていて表に宛先を書いて切手貼って出せばいいだけなのだが、同じ日に送られて来ればまとめて出せるが、ぽつりぽつりと送られてくると出す方が面倒くさい。

 面倒くさいながらもお礼状を出していたが、その内にお礼状を印刷してあるハガキが無くなってしまった。ハガキがなければ宛名が書けない。さあ困った。ボス猿に言ったら何でもっと早く言わないのだと怒る。

 何でもっと早くと言われても、当時のぼくは、ただ言われるままに出していただけでお礼状の残りまで確認していなかった。これから印刷所に頼んで出していたのではお礼状にならない。さあどうする。

 よた老少年一計を案じ、官製ハガキにデュプロの印刷機で印刷して出したらどうでしょうか言ったら、ボス猿がうんと言ったので郵便局に行って官製ハガキを20枚ばかり買ってきてデュプロの印刷機使ってお礼状を印刷して、宛名を書いて出した。

 受け取った方はさぞかしびっくりしたことだと思う。何せ当時のぼくは、ミミズがのたくったような達筆だった。でも支配人からどんなに上手な字でも読めなければ何にもならない、下手でもいいから読める字を書けと言われていたので、読めたのは読めたと思う。まぁミミズの達筆は今でも続いているが…。

 さて、お中元とお歳暮だが、デュプロの印刷機を乗せてある机の上に乗せてある。これが丁度二階の事務所に入った所にある。時期になって取引先が来ると一番最初に目につく。自分が持って来た物とどうしても比較してしまう。

 ぼくの方はそこしか置く場所がないから置いておくだけで、比較して貰う意図はまったくないのだが、時期になるとどうしてもそういう風になってしまう。お酒を持って来るところもあれば、カズノコ持って来るところもあり、有難いことにいろいろなお中元やお歳暮が集まって、机の上が一杯になる。

 家具の出張販売が終わって荷物を引き上げて来た後、多少お酒が出る。まあわいわいがやがや言いながら遅い夕飯を食べる訳だが、その時に出るお酒は、お中元やお歳暮に貰ったお酒だ。だからお酒持って来てくれる取引先は有難い。

 そうかといってお酒ではないものを持って来てくれた取引先に次からはお酒をというのは絶対にしない。言えばそうしてくれるだろうが、ボス猿はそういう倫理上の一線は絶対に守っていた。

 お中元お歳暮の時期が終わると、ボス猿はお酒以外のものを店の人達に分配した。ぼくやKO君はそういうものを貰っても使い道がないので、ぼくらには分配はなかった。

 金貸しの子分が店にいた時、ボス猿が金貸しの子分にも分配したのだが、金貸しの子分曰く金融機関にいた頃はそんなケチなことはしなかったのに、ボス猿もケチになったとぶつぶつ言っていた。

 ぼくは、それを聞いて、へー世の中にはそういう考え方もあるんだと思った。その後何年かしてからボス猿は店の人達用の年末のリンゴを取り寄せなくなった。ボス猿のケチめが。あのリンゴは旨かったんだけどな。かなかなかなー。


段ボール

2008-11-24 12:05:04 | 月賦屋時代前期 仕事

 ぼくが店に入った昭和38年当時は、廃棄する段ボールはそれほど出なかった。何せボス猿が青森から取り寄せたリンゴが、籾殻を緩衝剤にして木のリンゴ箱で送られて来ていた時代だ。

 時代は、急速に変化して行く。その変化が廃棄する段ボールの量になって現れる。この段ボールは取っておくもの、こっちは廃棄するもの。取っておく物は裏のおんぼろ倉庫にしまっておくが、廃棄するものは店の裏に山積みになる。

 手が空いたら段ボールをたためばいいのだが、たたんでいる暇がない。段ボールが出るとそのまま店の裏にぽいとやっている。これはどこの商店でも同じことをやっていたようだ。

 よくできたもので、リヤカー引っ張ってその段ボールを回収にくるおじさんがいた。来て貰った方は有難い。ああいいところへ来た、おじさん段ボール片づけて持って行ってくれない。おじさんは段ボールを一つ一つ丁寧にたたんで持って行ってくれる。

 最初はお金を置いていくと言ったのだが、こちらとしては、少しくらいのお金よりも場所を空けてもらう方がありがたい。お金はいいから定期的に来てくださいとお願いした。

 このおじさんは、段ボールが目当てで、それ以外は目当てではない。しかし、山積みになっていた段ボールの中に緩衝剤やビニール袋が入っていたりすると、それは大きなビニールの袋に入れて、場所を空けて綺麗にしていってくれる。

 高度経済成長真っ直中、いけいけどんで世の中景気がよくなると、廃棄する段ボールもどんどん出るようになる。段ボールに入ったものを配達に行った時は、中身を出して段ボールを持ち帰るようにしていた。

 最初の内は店の裏にダットサンを廻して段ボールを降ろしていたのだが、面倒臭い。時間がないと段ボールを積みっぱなしで車庫に入れてしまうこともあった。

 段ボールをまとめて廃品回収屋さんに持って行くと小遣いくらいにはなる。どこかに段ボールを置いておく場所がないかな。倉庫にはおけないし。

 社宅が5軒建ったのだが1軒空いている。しめしめあそこに入れてやれ。福利厚生が目的で建てた社宅がいつしか段ボール置き場に化してしまった。配達から帰って荷台に段ボールがあると倉庫の隣の社宅にぼんすか放り込んでおく。

 そして一杯になると休みの日にみんなで段ボールを折り畳んで廃品回収屋さんに持って行って多少の金額を頂戴した。みんなで分けるから幾らでもないのだが臨時収入ゲット。

 こういうお金を店に出すと金銭出納帳に書かないといけなくなって、ぼくの仕事が増えて面倒くさくなるので店には出さない。まぁ帳面に付けない福利厚生費だわな。

 段ボールは箱のままだとガサ張るが折り畳んでしまうと幾らもガサがない。廃品回収屋さんに持っていくと目方で幾らになる。ガサ張るのなら最初から折り畳んで社宅に放り込んで置けばいいだろうと思うのだが、なかなか折り畳む時間が取れない。気がせくというかそういうもんだな。

 社宅に段ボール持って行ったら、段ボールを回収に来るおじさんが来なくなってしまうだろうと思うかもしれないが、店は店で段ボールが出るからそれは今まで通り店の裏に山積みなっていた。それをトラックに積んで社宅まで持っていけばと思ってもなかなかそういう時間が取れなかった。第一面倒くさい。

 段ボールを回収に来るおじさんは二人いたように思う。こちらとしては誰が来ようと店の裏の段ボールを片づけて貰えば誰でもよかった。それぞれ違うサイクルで来ていたから顔を合わせることはなかったのだが、あるときバッタリ顔を合わせたことがあったようだ。

 ああいう商売でなわばりがあるのかどうかは知らないが、店の裏で大きな声がしたことがあった。君主危うきに近寄らず何か話していたようだがこちらは知らない。とにかく定期的に段ボールをかたづけてくれればそれでいい。

 たまに時間があって段ボールを回収するおじさんと話をしたことがある。このおじさんは、どの商店の景気がよくてどの商店の景気が悪いかを知っていた。その店の景気の善し悪しが廃棄する段ボールの量となって現れるからだ。世の中恐い物だ。かなかなかなー。



宣伝カーでにゃぁぉう

2008-11-22 13:24:14 | 月賦屋時代前期 仕事

 店では月に1回か2回家具の出張販売をする。家具の出張販売をやる2日前当たりにダイレクトメールが届くように、その地域の集配局に持って行って、ゴム印パタコラやって出す。その地域の集配局に持って行くと2割引の市内特別料金で出せるからだ。

 やる2日前に着くようにということは3日前に出しに行くということなんだが、受け入れる郵便局の方がそんなに一杯持って来られても配達仕切れないと予防線を張るところもあったが、出してしまえば後はそちらの仕事。配達仕切れる仕切れないかはそちらでやりくりしてください、で出だして来た。

 まぁ、もっと早く持って来てくれということなんだが、こちらだってそれだけを仕事にしている訳ではないので、どうしたってぎりぎりにならないとダイレクトメールが仕上がらないので、郵便局とそんなやりとりをしながらもやっていた。

 周辺農村部で家具の出張販売をやる時は、ダイレクトメールだけではなく、2日前当たりから有線放送で流してくれませんか、と原稿を持って行って頼んだ。農協の有線放送は朝昼晩と定時に案内放送をする、その時に持って行った原稿を読み上げて貰う。当然お金は掛かるがダイレクトメールと有線放送の両方で宣伝効果が上がった。

 家具の出張販売の当日になると宣伝カーを廻す。宣伝カーにはエンドレステープのデッキが積んであって、がしゃっと入れればすぐに音が出るようになっている。問題は、音の方だ。最初は足利の月賦屋さんに頼んで吹き込んでもらっていたのだが、距離が遠すぎて不便だ。

 そこで支配人が目を付けたのが農協の有線放送のおねーさまだ。支配人が農協の上の人に頼んで、おねーさまに宣伝カーの案内放送を録音してもらった。オープンリールのテープレコーダーを2台並べて、録音してもらった原本のテープを元にもう1台のテープレコーダーに再録音した。

 複製した方のテープをエンドレステープの筐体にくるくる巻いて、最後を斜めに切ってテープで張り合わせて一丁上がり。この作業は何回もやって覚えた。

 宣伝カーに持っていって再生してみるとうまい具合に再生できる。時たまテープが絡むときがあると、店まで持って返ってアナウンスが途切れないように音楽を入れてある部分でテープを少し短くして仕上げた。

 宣伝カーは、最初支配人のブルーバードを使っていたのだが、家具の出張販売のたびにスピーカー載せたり下ろしたりするのが面倒くさいということで、スバル360の乗用車を1台買ってそれを宣伝カーにした。

 スバルサンバーを1年で使い物にならなくしたのだが、天道虫のスバル360の宣伝カーは、屋根にスピーカー載せているだけで荷物載せなかったので、結構長持ちした。一度KO君と二人で夜中の11時頃KEちゃんとこへ行くべと、宣伝カー乗り出して行ったことがある。

 KEちゃんは、もう寝たようで真っ暗になっていた。もう寝たのか、腹いせに宣伝カーのマイク使って、にゃぁぉう、とやってMRのスナックへでも行くかと二人で繰り出したのだが、生憎MRも寝たようで真っ暗、またマイク使って、にゃぁぉう、とやって帰ってきたことがある。

 翌朝KEちゃんに、ゆんべ来たのは誰だ、とこっぴどく怒られた。そらまあそうだわな。夜中にマイク使って、にゃぁぉう、とやられたら隣近所が大迷惑だ。その後MRのスナックのお客様と話をしていた時に、何だったら今度宣伝カー持って行って、にゃぁぉう、ってやろうかって話したら、それだけは勘弁してくれという笑い話になったことが再三あった。

 ぼくがテープレコーダを始めて見たのは小学校6年生の時だったと思う。それから4年後ぼくは店に入った。入った当時はまだ店ではテープレコーダーを扱っていなかったのだが、昭和39年当たりからオープンリールのテープレコーダーを扱うようになった。

 なるほど、これが小学校の時に見た不思議な箱か、ちょっとスマートになったな、どんな風に操作するんだろう。家具の出張販売で流す音楽をこれで録音してやるか、レコードをかけてマイクで録音して音を聞いてみた。

 マイクで音を拾ったのでは雑音が入る。何かいい方法がないものだろうか、ミニプラグが出た頃の話で、ミニと大きい方との混用だったり、ワニグチクリップの付いたコードがあったりで、訳の分からない者が試行錯誤しながらやっていきながら色々揃えていった。

 家具の展示会では、客寄せの音としてオープンリールのテープに1時間くらい音楽を録音して、それを会場に設置した屋外スピーカーから流した。オープンリールなのでテープが終わるとくるくる廻っていたが、お客様との対応が忙しくてテープをひっくり返すことができないことがままあった。

 家具の出張販売の客寄せのためにレコードが必要だと言ってもボスが猿ケチだから買ってくれない。買ってくれたとしても店の仕事が忙しくて録音する時間がない。仕方がないから休みの日に店の先輩が買ってきたレコードを借用して録音した。北島三郎の歌とか結構レコードがあった。

 紅顔の美少年二人はちょっと羽目を外したこともあるが、試行錯誤しながらもテープレコーダーやエンドレステープを使いこなしていった。これを読んでいる良い子の皆さん、夜中に宣伝カーのマイクを使うのはやめましょうね。かなかなかなー。


着信専用電話

2008-11-20 12:54:48 | 月賦屋時代前期 仕事

 ぷかー。潜水艦浮上。ふー。頭が疲れると元に戻るのに時間がかかる。ブログの更新を休んでいる間は、芝生の中の草むしりや隣の家の草刈りをして身体を疲れさせて頭と身体の疲れのバランスが取れるようしていた。

 パソコンの前に座るのだが書く意欲が出てこない。駄目だこりゃ。1週間程何もしないでぼけーとしていた後、ブログを書くのに使っている一太郎の文書ファイルを久しぶりに開いたら結構書けるようになっていた。頭の疲れも取れたようなので、無理をせずに1日おき位でブログの更新を再開する。

 電話を申し込むと年単位で待たなければならなかったのが、昭和40年代前半から半年とか3ヶ月で工事をして貰えるようになった。それでも申し込む時に電話債券という名目の金を貸さないと電話を引いて貰えなかったのだが、申し込みから工事までの期間が短かくなって急速に電話が普及していった。

 東京オリンピックが終わって、高度経済成長で世の中の景気がよくなったのに伴い、電電公社が回線を増強したのと、加入者側の所得が増えて電話を引けるようになってきたからだ。

 やがて東京の姉の所に電話が引かれた。それまで姉との通信手段は手紙か直接訪ねていくしかなかったのだが、店が終わってから電話でぺちゃくちゃお喋りができるようになった。各家庭に電話が引かれる時代の幕開けである。

 ぼくは、たまにしかぺちゃくちゃしなかったのだが、KO君が毎日のようにぺちゃくちゃやっていた。電電公社から毎月の電話代の請求書が送られてくる。ぼくはそれを見て、おい、ちょっと電話代が多すぎるぞと思いながらボス猿の机の上に載せておいた。

 ボス猿は、その請求書を見て、月末になるとこれ払ってきなさいと、他の公金と共にぼくに渡す。ぼくはそれを銀行へ持って行って払ってくる。ボス猿は、電話代が多すぎると言わない。KO君しめしめ夜になると毎晩のように長電話をしている。

 ぼくは、そういうKO君の姿と毎月の請求書を見ながらひやひやしながらも、たまに姉の所へ電話していた。KO君とぼくが店にいる時に電話貸してくださいというお客様がいた。どうぞと使ってもらった後に、ボス猿がこのチャンスを待ってましたとばかりに、お客様に電話代そこに入れていってください、と言った。

 KO君とぼくは、お互いに目を見合って、やられたと思った。その後KO君はあまり長電話しなくなった。北海道へ長電話したら電話代がかかるわな。

 東京と長岡ではやはり所得格差がある。長岡の方が各家庭に電話が入るのが遅かった。そのかわり農協の有線放送で電話を繋げて貰うことができた。今はもうそういう方法は無くなったが、どうやって繋げてもらったのか推測すると。

 農協の電話番号に電話すると有線放送の交換手が出て、繋げて貰いたい相手の有線の番号を言うと、交換手が有線放送で相手を呼びだして、繋げてくれたようだ。当然、電話の回線が話し中だと繋がらない。農協まで来ている電話回線と有線電話を繋げることによって電話と有線が相互乗り入れしていた訳だ。

 ダイヤル直通では繋がらなかったが、有線に電話を掛けて繋げて貰うのは結構重宝した。こういうサービスも電話の普及によってやがて消えていくのだが、農協の有線放送はその後もしばらく続いていた。

 店の電話回線はどうも隣の店と共用になっていたようだ。ある時電話を掛けようとして受話器を取ったら隣の店の親父さんの話が聞こえたことがある。今では考えられないことだが、電電公社がそういう仕事をしていたことがある。

 そして、数年後、お宅の電話番号にかける人が多いので着信専用の回線を引いてくれませんか、と電電公社から電話が掛かってきた。電話を引いて貰うのには時間がかかるのだが、この着信専用回線はすぐに引かれた。

 着信専用の電話はダイヤルがついていない。受ける専用の電話機で、今までの電話番号が代表番号になってかかって来た電話は着信専用の電話機の方に繋がるようになった。着信専用回線の加入権は、発信できる加入権より安かった。

 ぼくはそれを金銭出納帳に記帳し、税理士先生が電話加入権という元帳に転記して店が閉鎖するまでその金額が残ったのだが、幾らだったか3万円くらいだったような気がするがもう忘れた。

 店のカウンターの後ろには、今まであったダイヤル式電話機の他に新らたに着信専用の電話機が鎮座することになった。電話は便利なんだが時に不便なことがある。一人で店番している時に電話が鳴って応対している時に、もう片方の電話が鳴るとあたふたしてしまう。

 両方の受話器取って、片方で会話しながら、少しまってくださ。もしもし、あっはい、少しお待ち下さい、待ってもらっていた方の受話器を取って、お待たせしました、もしもし、あっはい、少しお待ち下さい。

 聖徳太子は7人の人の言うことを聞き分けることができたと言われているが、聖徳太子の1万円札を稼ごうとする方はそういう器用なことはできない。一人で店番する時は、両方の電話が鳴ると恐怖だった。

 今は携帯電話が普及して固定電話の数が減少している。同時に公衆電話の数が激減している。携帯使うから公衆電話を使う人が少なくなったのが原因らしい。ぼくは未使用のテレホンカードを何枚か持っているのだが、今は滅多に遠出をしないのでテレホンカードを使う機会がなくなった。

 固定電話が交換手呼び出しからダイヤル式に代わって急速に普及し、そして今は減少に転じている。この間に電電公社が民営化され、NTTが分割され、インターネット網を交換機代わりに使うIP電話が登場しと、40年も経つといろいろな変化があるものだ。

 でもぼくは携帯電話を持とうとは思わない。あれは金がかかって不便だ。かなかなかなー。


鏡は女の命

2008-10-28 13:57:15 | 月賦屋時代前期 仕事

 店で家具の売り出しをやるのは7月が多い。ある年三面鏡が馬鹿売れしたことがある。売約済みの三面鏡に、これと同じ物をくれというお客様の売約札がぺたぺたと貼られたことがある。

 ご婦人方に鏡台を売る時の殺し文句、鏡は女の命ですから、そんな事を言わなくても集団心理と言うのか、これと同じ物を下さい。これと同じ物を下さい、と次から次へと売れて行く。売り出しの3日間で50台近く売れた。

 カウンターに座って売上台帳を書いているぼくは、また売れたかと懸命に売上台帳を書いている。売れたら配達しなければならないのだが、店に陳列してあるものを配達してしまうと見本の品物が無くなってしまう。配達して別の品物を出したくてもできない。

 鏡台だけは東京の問屋さんから仕入れていたが、支配人売れた品物の発注に大わらわ。何でもいいから速く持って来い!。東京の問屋さんといえども同じ三面鏡を50台も在庫を置いていない。問屋さんもこちらもおおわらわだった。

 同じ三面鏡が50台も売れたのは、1回だけだったがそれからは鏡台がよく売れるようになった。三面鏡などと言うと古いと言われるかも知れないが、40年前はそういうことがあったんだ。

 さて、鏡台の仕入れルートを東京の問屋さんだけに頼っているとまずいということで、新規に仕入れルートを探すことになった。支配人が色々探した結果、静岡に鏡台を作っているところがあるということで、そこから産地直送で仕入れることになった。

 前橋もそうだが各地の家具屋さんが販路を東京から周辺各地に拡張していた時期でお互いの利益が合致した訳だ。この静岡の鏡台屋さんはサイドボードも作っており、店を閉鎖するまで取引が継続した。

 鏡台は、東京の問屋さんと静岡の鏡台屋さんの2ルートから仕入れることになった。静岡の鏡台屋さん1本でやれればいいのだが、静岡の鏡台屋さんが作っていないものは、東京の問屋さんから仕入れなければならなかった。しかし、東京の問屋さんは、上州まで持って来るのが大変になっていたので、別のルートを探さなければならなかった。

 前橋の木工団地に鏡屋さんがあったから、前橋にも鏡台屋さんがあったと思うのだが、どういう訳か前橋からは仕入れないで、バッタ屋さんにこういう鏡台を探してきてくれと白羽の矢を立てた。

 こういう場合は自分で直にやらないで間に業者をはさむのはよくある手だ。バッタ屋さんには、KO君がいっている。KO君色々探してくれたようで、静岡の鏡台屋さんが作っていない鏡台を探して持って来てくれた。

 鏡台を使うにはスツールに座らないといけない。スツールは別売り。色々なスツールを取り揃えて並べてある。座るところを、ぱかっと開けて中に何か入れられるようになっているものがよく売れた。

 ぼくらは、売るだけで売った後そのスツールの中に何が入るかまでは知らない。一度そのスツールの中に何が入っているかこっそり覗いて見たいものだと思ってはいたが、それをやるとお縄になるので思うだけで覗いたことはない。何せ鏡台は、女の命、とか言った手前、うっかり覗けない。

 スツールは、前橋にスツール屋さんがあって、月に一回くらい来てよりどりみどりの中から仕入れていた。やはり近場から仕入れる方がお互いに便利でいい。

 鏡は女の命だけあって年々デザインが変わっていく。最初の頃は三面鏡だったのが、半面鏡というのになった。真ん中の鏡の幅が広がって、上の鏡が真ん中の鏡の半分の幅で両脇に開くのが半面鏡なんだが、最初見た時は何じゃこりゃと思った。

 でも、半面鏡より三面鏡の方が機能的に優れているのだが、ご婦人方は新しいデザインの方を好まれる。だんだん三面鏡が売れなくなって半面鏡が主流になっていった。

 縦長の姿見という鏡台は古くからあったのだが、半面鏡の机の上に大きな鏡が一枚というドレッサーという鏡台が世に出て来た。これも最初見た時何じゃこりゃ!。これじゃ横が見えないから売れないだろうと思った。

 しかし、ことご婦人方の化粧に関しては、男の考えが及ぶところではない。これじゃ売れないだろうと思ったドレッサーがよく売れる。男なんて勝手なもんで、売れればいいんだよ売れればと、鏡は女の命ですから、などと殺し文句を言いながらよく売った。

 女は化けるとよく言われる。確かに化けますです。はい。何せぼくは化ける道具の鏡台売っておりましたですから。かなかなかなー。