年季明けなどと大仰なタイトルを付けているが、ボス猿とぼくの間にそういう約束があった訳ではない。6年間学校に行かせて貰った感謝の気持ちを込めて1年間お礼奉公しようと、ぼくが勝手に決めて勝手にやっていただけだが、いよいよその年季が明ける時がきた。
勝手に決めて勝手やっていたのだが、夜間の短大を卒業した当たりから髭を延ばし始めていた。何故髭を延ばし始めたのか理由はよく覚えていないが、期間は半年と決めていたのを覚えている。そして半年後に写真スタジオで記念写真を撮ってもらったのが今残っている。みっともない格好だ。
そして年が明けて昭和45年。ぼくは22歳。生意気盛りの恐い者知らずだ。たまに役所にハンコ持って行く仕事は大体ぼくがやっていた。店にある三文判をポケットに入れて持っていくのだが、店に帰ってからポケットから出すのを忘れることがある。店ではハンコがないとあっちこっち探して大騒ぎしていて、よた老ハンコがないがお前持って行かなかったか。
支配人に聞かれてポケットの中を探すと、あっ、あった。はい。一言言って持って行けばいいのだが、カウンターに誰もいないと黙って持って行く。そういうことが何回かあって、店の三文判がない時はぼくのポケットの中にあることになっていた。
ハンコをポケットに入れて行くのとは別に、上着の胸ポケットに辞表を入れてあった。それだけの意気込みで仕事をバリバリしていたのだが、自分の気持ちの中で決めていた年季が明けたので、この辞表をいつ出すかタイミングを伺っていた。
いきなりボス猿の机の上に載せてはたまげるから、支配人にこれこれしかじかと話して、根回しをした後1週間位してからボス猿の机の上に辞表を入れた封筒を載せた。
辞表出したからといってすぐに辞める訳にはいかない。ぼくの仕事の後任は、事務の手伝いをしてくれていたHGさんが引き継ぐことになったのだが、事務の絶対量が多いのでもう一人必要だ。幸いすぐに入ったので、ぼくはHGさんに仕事を引き継いで、新しく入った人が仕事を覚えて事務所の仕事がうまく廻るように後方支援に廻った。
後方支援というと聞こえはいいが、事務所の仕事の手が回らない時だけ手伝って配達がメインになった。幸い一緒に仕事をしていたHGさんが事務所の仕事の全体を把握していたので、ぼくの出番はそれほどなかった。そろばんぱちぱち逆Sの字で8を書く人はこういうところで差が出る。
夕飯は炊事のおばさんが6時に食べられるようにして帰る。店が暇な時はそれぞれ交代で温かい内に食べることができるが、店が忙しいと食べる時間が遅くなって冷や飯食べることになる。
ぼくは、学校へ行っている時は帰って来てから夕飯食べていたのでいつも冷や飯を食べていたので慣れっこになっていたが、学校卒業して温かい夕飯にありつける機会が増えると、やっぱり飯は温かいのを食べたい思った。
ボス猿は家に帰ってから夕飯食べているので、店の人達が冷や飯を食べていることに気が付いていない。当時の人は、大体どこの家でも食べ物の事で諍いをおこすなと言われて育ってきているので黙っているが、内心ではボス猿のやつめと思っている。
店を辞めると退職金が出る。ぼくの退職金が幾らくらいになるかは大体分かっていた。それとは別に7年間毎月定期積み金をしていたので、退職金を上回る額のお金を持っていた。
店が暇な時、店番しながら三洋の総合カタログを1ページづつめくって見ていたら、電子レンジという熱源がなくても加熱することができる不思議なものを見つけた。値段を見ると30万くらいする。これだ!。これがあれば冷や飯を温めることができる。
早速三洋に頼んだら、電気工事をしないといけないという。電気屋さんに頼んで食堂にアース付きコンセントを付けてもらった。当時の電子レンジは、電波監理局に申請書を出さないといけなかった。そういうのは分からないから電気屋さんにすべて頼んだ。
さぁ、電子レンジが使えるようになった。早速夕飯を温めて食べたらいい具合だ。かかった費用が当時のお金にして30万弱。ぼくはこれを置き土産にして店を辞めるとボス猿に言った。言われたボス猿、初めて冷や飯を食べさせていたことに気が付いた。
ちょっと気が付くのが遅いのだが気が付かないよりはいい。ボス猿は電子レンジの分を上乗せして退職金を払ってくれた。倍返しで上乗せしてくれると思ったのだが、倍返しではなかったな。ケチめ。
店を退職するに当たり、店の人達が送別会を開いてくれた。まぁ、こういうのはどこでもそうだと思うけど、送別会という名目で昼間からどんちゃん騒ぎをするのが目的なんだけど、その時に貰った額がある。
その額は、長いこと行方不明でぼくの記憶からも消えていたのだが、KO君の所に預けてあって、タイムカプセルのカバンと一緒に戻ってきた。今部屋に飾ってある。殺風景な部屋の中にあって一服の清涼剤になっている。これにて月賦屋時代前期終わり。かなかなかなー。