goo blog サービス終了のお知らせ 

必殺始末人 村山集治

必殺始末人 村山集治
ムラヤマ・コンピュータのブログ

MRが結婚した

2008-06-11 11:06:31 | 伊商の定時制

 MRは、出席簿ではぼくの一つ前だ。定時制の席順も出席簿順に並んでいたことが多い。四年生の修学旅行で毎晩酒盛りやってから、MRとは急速に親しくなっていった。

 修学旅行の後、学校の正門の前の店で立ち話をしていた時、ぼくが麻雀のパイを一組持っていると話したら、MRがそれを貸してくれという。ああいいよと話した。今日はこれから授業があるから別の日だろうと思っていたら、これから取りに行こうという。

 これからか?。というぼくを丁度正門の所に止めてあった車に乗せて、方向転換するために正門の方に向かった。ぼくにすればゆっくり向かうはずだと思っていたら、急発進しやがった。危ない。正門にぶつかる。手足を踏ん張って衝撃に備えたら、MRは急ブレーキを踏んで正門の半歩手前で止まった。

 この野郎、急発進する必要のない所でわざと急発進して、急ブレーキを踏みやがった。びっくりしているぼくの顔をにやにやして見ている。こういうやつの車には乗りたくないと思ったが、そのまま店まで連れて行かれて麻雀のパイを持ってきて貸してやった。

 確か定時制四年の秋に、店で芸能人を呼んだ。一部、二部とステージを分け、一部では芸能人に歌を歌ってもらい、二部では応募していただいたお客様にステージにあがってもらって、生バンドとプロのオーケストラで歌って貰った。

 MRは、店で買い物をしてその企画に応募してきた。一応建前としては厳正に抽選の結果ということになっているが、応募してきたお客様を見て面白そうなメンバーになるように選んでいたようだ。ぼくは全然知らなかったのだが、MRが彼女と一緒に応募してきて、老若男女すべてに面白くという選考基準の若者代表に選ばれた。

 この他に幼稚園をやっているお寺の和尚さんが、幼稚園児と一緒にという組みもあった。審査員も店のお客様の中からお願いして、店のお客様に楽しんでいただこうという企画で、芸能人呼んだ中では一番面白い企画だった。

 ステージ当日、ぼくは、楽屋であっちへいったり、こっちへいったりで、MRの舞台での姿は見ていない。MRが出るということも知らなかった。ステージが終わって後かたづけをして店に帰って初めて、審査の結果MRが何か賞を貰ったというのを知った。まあ裏方というのはそんなもんだ。

 そのMRが結婚するから結婚式に出てくれという。えー。おめー。まだ高校生だぞ。と、言っても両方とも法律上は結婚が許されている年齢だ。弱ったな日曜日は店が忙しくて休めないのだが、と、思いながら店に帰って支配人に相談して式の時間だけなんとか休ませてもらった。

 時間はなんとかなったのだが、問題は、お祝いにいくら包むかだ。何せ結婚式に呼ばれるなんていうのは生まれて初めての経験だ。まだそんなに一杯包む余裕が無かった。定時制からは何人か呼ばれていたので相談して決めた。そんなに一杯包まなかったと思う。だってお金無いもん。

 ぼくは、奥手だから結婚というのがどういうものなのかというのが全然分かっていなかった。ただ、結婚式に出てご馳走食べて、終わって店に帰ってから仕事をした。酒飲んだ後に仕事するのはちと辛いものがある。そして、一ヶ月位してMRの家に遊びに行くことになった。

 当日の夜。定時制の何人かでMRの家に行った。遊びに行ったと言っても酒飲むだけなんだが、MRの奥さんがMRの横の座って、いろいろこまめに世話をしている。奥さんがコタツに手を入れていた時、げっ!。という顔をした。HSだ。この野郎またやりやがった。

 先生の所に一升瓶ぶら下げて行って、何も知らずに向かい側に座った先生の奥さんの手をコタツの中で握るのは、HSがよくやることだ。今日は先生の奥さんよりもっと若い美人だ。新妻の手を握る常習犯は、いつやるかとタイミングを窺っていたようだ。おれを残して先に死んだ。母親に早く死なれると子供に影響が出る。おかしなところで巻き添え食う方は大変だ。

 ぼくは十五歳の時から一人でなんでもするもんだで育ってきている。MRの奥さんのかいがいしさを見て、それくらいMRが自分でやらなければ駄目だろう、と思って見ていた。夫婦というのはそういうもんだというのを知らないから、同年代のMR夫婦の仕草は、動物園で何か物珍しいものを見たという感じだった。

 MRとは、卒業後もいろいろと付き合いが続く、得難い友の一人となったが今では音信不通になっている。かなかなかなー。


卒業式

2008-05-22 08:52:43 | 伊商の定時制

 卒業生代表挨拶を定時制から出すべ。うん。出すべ。出すべ。何人かが言い出した。お前だって背広着せればちったー見栄えがするがな。お前やれ。あぁおれがやる。先生に交渉すんべー。定時制の先生じゃ駄目だ。校長先生に直談判すんべ。こうなるともう勢いで止められない。

 4・5人で校長室へ押し掛けた。運良く校長先生がいた。言い出しっぺが、卒業生代表挨拶を定時制で出したい(脅迫)。と言った。校長先生しばし沈思黙考。卒業生代表と言うが、定時制の君たちがそれだけのことをやっているのかね?。定時制の悪ガキはろくに勉強していない。これを言われるとぐーの音も出ない。言い出しっぺが黙っちゃった。他の悪ガキも黙っちゃった。

 仕方がない奥の手を出すか、校長先生、実は去年の卒業式に出たのですが、卒業生代表挨拶の中で、定時制のことが一言も触れられていなかったんです。それでこうやって来たんです。そうか、分かった。

 一同校長室を後にした。定時制の職員室では、あいつら何やらかしたんだと見ている。教室に帰って、ふー助かった。あれ言われちゃっちゃぐーの音も出ねえや。引くに引けなくなって弱ったい。おめぇよくあそこであれが言えたな。うん。おれ最初からそのつもりだったよ。一緒に行った悪ガキども絶句。卒業式頃になると、悪ガキどもの煽動に乗りながらも落としどころに落とす術が自然に身に付いちゃった。

 そして、昭和42年3月9日(木)卒業式。全日制の生徒は、男子は学生服、女子は制服。定時制の生徒は背広をびしっと着ている。式が進み卒業証書の受取になった。全日制代表が受け取った後、定時制はぼくが代表して受け取る。緊張している。名前を呼ばれて席を立って前へ進み、校長先生の壇の方へ90度曲がったところで、ちょっとづっこけそうになった。

 しかし悟られないように懸命に体勢を立て直して校長先生の所へ向かった。卒業証書を校長先生に渡す先生が、ぼくがずっこけそうになったのにつられてちょっともたついた。後ろで見ていた人達には、慌てている校長先生をたしなめるように悠然と卒業証書を受け取ったように見えたようだ。

 おめぇよく悠然としてたな。校長先生の方が慌ててたぞ。そうかぁ。おれあの前にちょっとずっこけそうになって必死になって悟られまいとしてたんだ。分からなかったか?。へーそうか。分からなかった。結果としては、立会際の張り手が一発うまく決まったようだ。

 卒業式が終わって教室に戻ったら、ぼくと関矢と松村さんの三人は校長室に来るように言われた。なんだべ。このあいだの直談判の怨恨でもあるんだんべかと思った。三人とも直談判に行ってるから身に覚えがある。恐る恐るも大胆不敵に校長室に入ると、全日制の生徒が何人かいて、定時制の先生の他に全日制の先生がいた。

 やっぱりこれはこのあいだの怨恨かと思って覚悟を決めていたら、校長先生が大きな額に入った表彰状を全日制の生徒にやった。続いてぼくもそれと同じものをもらった。ちょっと額が小さくなったけど関矢君と松村さんも全日制の生徒に続いてもらった。財団法人産業教育振興中央会と書いてある。なんかよく分からないけど、丁度いいや卒業証書をこの額の裏に入れて持って帰ろう。

 卒業式が終わった。悪ガキどもが一同に会することはもうない。前々から卒業式が終わったら、卒業記念大宴会やるから全員集まれ、と申し合わせてあった。修学旅行で軍資金を使い果たした悪ガキどもではあるが、この日のために用意周到お金を貯め込んでいた。修学旅行の時に、おい、昼間からやるな、と言って押さえていたやつがおっぱじまった。何せ昼間から酒飲むのは初めてだからにぎやかだ。

 かくして我が愛すべきクラスの悪ガキどもは無事に巣立った。とは言っても三月三十一日までは学校に籍がある。酒飲んだりタバコ吸ったりが表沙汰になれば学校に迷惑がかかり、家庭裁判所に呼び出されてしまう。全日制より一年遅い、十九歳春の旅立ちだ。

 卒業式の日に貰った、表彰状とチョウテン先生が書いてくれた照干一隅 此則國寶の色紙は今でも大事に飾ってある。どちらもお金を出して買うことのできないお宝だ。

 


一升持って行って二升飲んでくる

2008-05-20 15:33:20 | 伊商の定時制

 定時制一・二年生の担任だった川村先生が結婚した、と誰かが聞き込んで来た。在学中に先生が結婚したのは川村先生が初めてだ。同時に先生が全日制に移動になるらしいということも聞き込んで来た。クラスの何人かが額を寄せ合って、どうすんべーと相談した結果、今度の休みの晩に一升瓶持ってお祝いと、全日制に行かないでくれと頼み行くべと決まった。

 確か定時制二年生の終わり頃だった記憶している。二年間クラス担任をやってもらってやっと慣れたところで行かれるのが辛かった。まだ十七歳になったばかりで大人の世界の話は分からない年齢だ。分からないながらも大人の世界の真似事で一升瓶ぶら下げて行くことになった。

 ぼくは、先生の自宅がどこにあるのか知らない。誰かが先生の自宅を知っていてそこへお祝いに行った。酒飲むつもりはなかったんだけど、家に上げてもらったら酒が出てきた。

 歳は若くても酒は嫌いじゃないからね。注がれれば飲むよ。酒の肴が出てくれば食べるよ。先生行かないでくれーと言いながら、その内にわいわいがやがや、先生行かないでくれーという話が酒で紛れてしまった。学校では先生と生徒だけど、一升瓶持って行くと酒飲ませてくれる。先生から見たら困った生徒だったのではないかと思う。

 途中で酒の味が変わってもずうずしく飲み続ける。のんべーの生徒を持つと先生は大変だ。一升持って行って二升飲んで帰ってきた。肴は先生持ちだ。お祝いに行ったのにかえって先生にお金を使わしてしまって悪いな、いう気持ちはみんな持っている。だからまた行くべーにはならない。

 在学中だったか、卒業してからだったか記憶が定かでないが、三・四年生の時のクラス担任の吉井先生が結婚した。クラスの悪ガキどもは早速一升瓶持って押し掛けた。中学三年生の冬休みにアルバイトで幸次君と二人でコタツ板を配達に来たあたりの借家だ。ここなら先生も通勤に便利だ。

 先生の奥さんは若い。新妻だ。一升瓶持って行ってわいわいがやがや悪ガキどもは賑やかにやる。なんてった先生と奥さんを肴にして安い酒が飲める。こんなチャンス見逃す手はない。どういう訳か先生のところに行く時はコタツがある時期だった。

 そして、こういう場合は、保坂がコタツの中に手を入れた先生の奥さんの手を握って親愛の情を示す。握られた奥さんの方はびっくりする。保坂はにやにやしながら楽しんでいる。その時に言えばいいのに家を後にしてから、先生の奥さんの手を握っちゃったという。そういうことは、一人で楽しまないで俺たちにも教えておけ。

 体育の小杉先生のところに一升瓶ぶら下げて遊びに行ったのは、多分春休みの月曜日の祝日だったと思う。先生の家に行ったら前任校の生徒が遊びに来ていた。全日制の生徒は真面目だ。一緒瓶ぶら下げてくるようなことはしない。ぼく達が一升瓶ぶら下げて行ったもんだから、げー、そういうのありかよという感じで見ていた。

 全日制の生徒とは年齢はさほど変わらない。ぼく達は酒を飲むはタバコを吸うはで一緒に話をしていてもついてこれない。そういう考え方もあるんですかといいながらわいわいやっていたのだが、途中で帰ってしまった。電車の時間が来たから帰ったのだと思うが、もう少しゆっくり話をしていけばいいのになと思った。

 前任校の生徒が帰った後、先生とわいわいがやがややっていたら。先生が隣に座った奥さんの肩を抱き寄せた。おう。先生見せつけるね。やんややんやと賑やかした。実はその前に保坂がコタツに手を入れた奥さんの先生の手を握ったので、先生が、これはおれのものだ手を出すなとやったのだというのを知ったのは、先生の家を後にしてからだった。

 保坂は、一升瓶ぶら下げて行くと、奥さんの手を握ってびっくりさせるのを一芸としてしていた。母親に早く死なれると残された子供がおかしな一芸を身につける。今度保坂の家に行ったら奥さんの手を握ってみるかな。若い時ならまだしも、婆々の手握ってもくそ面白くもねーな。

 


卒業記念マラソン

2008-05-19 12:36:50 | 伊商の定時制

 体育の小杉先生が赴任してきたのは、定時制四年生の春だった。生徒に思い切り体育を教えて、なおかつ部活で指導したいのだが、肝心の生徒の方に時間がない。四年生の冬、クラスの誰かが、先生マラソンやんべ、と言ったら、みんなも、やるべ、やるべ、卒業記念にマラソンやんべ、と言い出した。小杉先生は嬉しくて仕方がないからにこにこしている。そうかやるか。うん、やるべ、やるべ。と教室で即決しちゃった。

 翌週の体育の時間に卒業記念マラソンを決行。学校を出た時はまだ明るかった。中学時代に体育系だった人たちが先頭集団を作って先行した。ぼくはビリッケツ組み。ぼくは短パン履いて出た。先生が、この寒い中短パンで大丈夫か?、と心配してくれたが、短パンしかなかったので大丈夫です、と答えたけど上州の冬は寒い。

 それにしても寒い。いまさら引き返す訳にもいかず2キロくらい走ったら、店の近くに行商に来る八百屋さんがあった。お金はあとで払うからリンゴ頂戴と言って、ビリッケツ組みに手渡して、みんなでリンゴかじりながら走って行った。冷たいリンゴ食えばなお寒くなるだろうと思ったけど、いらないと言ったやつは一人もいなかった。5・6人で狭い店の前に立ちはだかったから八百屋さんはたまげたと思うよ。

 さらに2キロほど北上したところに松村さんの家がある。いきなり玄関開けて、水くれー。店の仕事で松村さんの奥さんとはすでに顔見知りになっていたけど、奥さん人数が多いからびっくりしながらもみんなに水を手渡してくれた。水飲んだら余計寒くなるだろうと思ったけど、こうなると勢いだ。さらに北上すること5・6キロ、もう寒くない。とっぷりと日が暮れて真っ暗。

 クラスの人が運転するトラックが小杉先生を乗せて追い越して行った。あいつはトラックでマラソンするのか、そんなのマラソンにならんぞ。後で聞いたら体調が悪くてマラソンができなかったようだ。トラックに追い越されたあたりで、短パン履いて寒かった身体も暖まりもう寒くない。

 国道50号線の手前、赤堀の市場の集落に入ったところで先生が待っていた。先生はトラックの距離計で10キロか15キロの地点を折り返し地点に設定した。折り返し地点まで行けばあとは楽勝。上州名物空っ風を追い風にして、高いところから低いところへ勢いに乗って行くだけだ。

 学校では、空き番の先生が、よーやったな、と暖かく迎えてくれた。生徒の方は血気にまかせて走っただけなのだが、職員室では、夜走って大丈夫か?、交通事故起こしたらどうする?、風吹いたらどうする?、明日の仕事に差し支えないか?、といろいろ心配してくれたようだ。ともあれ、伊商の定時制始まって以来の真冬の夜の上州路を走る卒業記念マラソンは終わった。

 ぼくが学校に着いて教室に入った時、我が愛すべきクラスの悪ガキどもは、みんな着替えをしていた。ぼくも、短パン脱いで着替えをした。そして後段の授業を受けるだんになったら人数が少ない。いついなくなったのか分からない。一声かけてくれればぼくも一緒にふけただんけど、ふけそこなった。黙ってふけるんじゃない!。あの悪ガキどもめが!。

 マラソンでエネルギーを使い果たしてしまった我が愛すべきクラスの悪ガキどもは、すーと音もなく帰ってしまい、後段の授業に出たのは数人だった。そんなことして大丈夫か?、と心配してくれた先生方であるが、後段の授業に支障が出たのは勘弁してくれた。授業始まっちゃったから今更ふける訳にいかない。後段の授業は眠かった。

 


飲んだら乗るな

2008-05-18 14:38:49 | 伊商の定時制

 定時制4年の時に関西に修学旅行に行った。引率したクラス担任の吉井先生は旅行中胃の痛い思いをしたが、旅行から帰ると今まで以上に悪ガキどもとうち解けて授業をしてくれるようになった。他の先生方もうち解けて授業をしてくれる。

 悪ガキどもは前段と後段の授業のあいだの休み時間になると、職員室に押し掛けて先生と雑談をやりはじめた。先生方も快く迎え入れてくれて雑談に応じてくれる。その雑談が実社会で役に立つ雑談だ。時に悩み事の相談をすることもある。一緒に行った他の悪ガキどもも一緒に聞いてアドバイスをしたり、そういうことがあるのかと自身の参考にした。

 職員室は、休み時間になると悪ガキどものたまり場になってしまった。教室では先生と生徒だが、職員室に行くとお互いに社会人という関係になる。吉井先生、今度の祭日に遊びに行ってもいいですか?。悪ガキの誰かが言った。先生は来てもいいよと受けて立つ。何時頃来るか?。昼間は仕事があるから夜行くよ。そうか、待っているぞ。

 そして当日、松村さん、保坂、関矢、ぼくの四人で車二台に分乗して先生の家に行った。先生の家の前に車を止めて外に出た。先生はいい家に住んでいるな。四人とも頷く。結構な家構いにたじろぎながらも、じゃ乗り込むか。もうヨソ様の家の玄関開けるのは恐くない。ごめんください、と言って玄関あけた手には一升瓶をぶら下げている。

 先生のお母さんが出迎えた。一升瓶手渡して、先生のいる二階の部屋に案内された。真っ白いカバー掛けたコタツ敷きの上にコタツをしつらえて、真っ白いカバーをかけたコタツ布団がかけてある。先生はそこで待っていた。ちょっと、おれ達とは違う階級の家に来てしまったようだ。真っ白ずくめでは上品にしなければならない。

 悪ガキどもは一瞬たじろいだが、構うことはない座ってしまえ。先生のお母さんが下から色々運んでくださる。一升持って行って二升飲んだの言うまでもない。酒の肴は先生持ちで、先生のお母さんが下からせっせと運んでくれる。こんなに安上がりな酒の飲み方はない。ぐいぐい飲む。ぼくはまだ18歳だったよ。

 吉井先生のお父さんは現役の先生。先生はいい家庭のおぼっちゃまだった。お母さんは何回も顔を見せたが、お父さんの顔は最後まで見なかった。二階の騒ぎを固唾を飲んで聞いていたのかもしれない。

 先生どうもご馳走になりました。玄関を出た悪ガキどもは、先生はいい家に住んでいるなと言いいながら家の前で立ち小便をした。乗って来た車二台に分乗して帰る。ぼくは、松村さんが会社から乗って来たダットサンに乗せてもらった。保坂は関矢が中古で買ったプリンスに乗って後からついてくる。信号待ちやらなんやらで距離が離れた。

 そのうちに松村さんさんが運転しているダットサンが、段々と道路の左に寄ってくる。ぼくは、松村さん、ちょっと左に寄りすぎているよ。と声をかけた。松村さんは、分かっているよ大丈夫だよ、と言ってハンドルを戻してくれた。ぼくは、助手席に乗っているから左に寄られると恐い。

 しばらくいい運転だったのだが、また左に少しづつ寄ってきた。さっき声をかけた時は、分かっているよ大丈夫だよ、と言ったから松村さんを信用して何も声をかけないでいたら、とうとう農家の納屋に突っ込んだ。ぼくは、必死になって両足を踏ん張って衝撃に耐えた。

 納屋に突っ込んでから、松村さんが、おい大丈夫か?。と声を掛けてきた。うん大丈夫だよ。まさか居眠り運転していたとは思わなかった。ぼくは、助手席に乗っていて、少しづつ左に寄っていって納屋に突っ込む一部始終を見ていた。そして衝撃に耐えた。おっかないなんてもんじゃない生きた心地がしなかった。

 事故だから当然野次馬が集まる。松村さんは、突っ込んだ家に話をつけて警察呼ばないようにした。警察沙汰になっていたら、先生にも学校にも迷惑がかかり、ぼくは家庭裁判所に呼び出されていたかもしれない。

 通りがかった車の人が、松村さんの会社の車だったら助けない訳にはいかないだろう、と声をかけてきた。松村さんが勤めている会社の取引先の車に乗せてもらって帰った。その後に、後続した関矢の車が来て突っ込んだダットサンを見た。

 ぼくはもう店に帰って寝ていた。関矢は病院に勤めている。こういう時の問い合わせ方をよく心得ていて、あちこちの病院に問い合わせた。どこの病院もそういう人は来ていないという。それを聞いた保坂が、ぼくの所に電話掛けてきた。ぼくは電話でたたき起こされて機嫌が悪い。向こうも要領が分からないから機嫌が悪い。そして両方とも酒飲んでいる。

 年齢が上の保坂の方が言い方が強い。病院へ電話したけどそれらしい人はいないけどどうしたんだ?。松村さんもおれも怪我はない!。事故起こして何で連絡しないのだ?。どうやって連絡するんだ!。夜中に電話してくるな!。今のように携帯電話があればすぐに連絡できるのだが、各家庭に電話がない時代だ。現場で後続を待っていればいいのだが寝る時間が惜しい。

 翌朝、松村さんは、大工さんを連れて行って納屋を直す手配をした。松村さんは、クラスでは最年長。女房子供と年老いたお母さんを抱えて学校に来ている。クラスでは良く話をするが、松村さんと酒を飲むのは初めてだった。先生の家に行って酒飲んで車で事故起こしたとなれば大問題になる。事故起こしたことは、四人の秘密だ。

 ぼくは、恐い思いをして松村さんが酒を飲むと寝るのを学習した。卒業した後、同級会の案内状を出したら、松村さんは、這ってでも行くぞと返事を寄こした。そして酒飲むと必ずといっていいほど寝た。まぁ四十年以上も前の話だから書いてもいいだろう。よい子の皆さんは、酒飲んだら絶対に車を運転しちゃ駄目だよ。

 


テンプラ

2008-05-17 11:55:24 | 伊商の定時制

 学校へ行く通りに飲み屋ができた。悪ガキどもはすぐに目を付ける。前段の授業が終わった後、あそこに新しく飲み屋ができたな。うん。できた。できた。一度行ってみんべーじゃねーか。うん。いくべー。後段の授業をふけて早速行った。

 入り口の戸を開けると、まだ時間が早いとみえて誰もいない。カウンターに座ったらママさんがいきなり、テンプラかい?、と聞く。テンプラって何だい?、と聞き返しても返事がこない。テンプラってなんだいと言いながらテンプラを話題にして酒飲んで帰った。

 数日して、一緒に行った悪ガキが、学生が酒飲むのをテンプラ学生っていうんだってよ、と聞き込んできた。冗談じゃない。俺たちは自分で稼いだ金で酒飲んでんだ。親のスネかじって酒飲むやつらと一緒にすんじゃねぇ。今日帰りに行って文句言ってやんべー。

 自分で稼いだ金で酒飲もうと、親のスネかじって酒飲もうと、飲ませる側から見れば未成年者には変わりはない。モメゴトが起きた時に高校生に酒飲ませたとなれば、飲ませた側の責任の方が重い。ママさんにして見れば来て欲しくない客だったんだが、何せ学校へ行く通り道。暗に来るなと言っても通用しない。一回目が一見さん。二回目がかえし。三回行くと馴染みの客になる。悪ガキどもがお馴染みさんになったのは言うまでもない。

 高度経済成長の行け行けどんどんが始まると、衣食住、あらゆる業種において、社会全体の欲求が牙を剥いて襲いかかっている。飲み屋さんの数も増えてきた。定時制の生徒は、昼間働きながら社会全体の欲求の牙を受け止め、夜になると襲いかかる方に身を転じることもある。

 我が愛すべきクラスの悪ガキどもは、昼間の生徒より4年くらい早く大人の世界の味をしめただけで、世の中全体としてみればそれほど悪いことをしていた訳ではない。とは言え、見つかれば咎められる。酒飲む方も酒飲ませる方も、自分自身を担保に入れてやっていた。下手すれば家庭裁判所に呼び出されるからからスリル満点だった。

 我がクラスの紅一点畠山さんは、二年生の時に家庭の事情でやめてしまった。クラスの大事な宝物だったから、誰一人手を出さなかった。一人だけ休み時間にわいわいがやがややっている時、間違えておっぱい触れたやつがいた。クラスの宝物に手出した。てめえこの野郎!。ふざけたことするんじゃない!。ぶん殴ってやろうと思ったけど、向こうの方がガタイが大きい。ぼくもなんとか間違うチャンスを狙っていたんだけど先を越されてしまった。

 畠山さんは、それが原因でやめた訳ではない。上州の女は強えぇ。間違って触ったやつの手をビシッと引っぱたいた。おお痛ぇ!。間違わなくて良かった。彼女は、その後も元気に登校していたのだが、段々休む日が多くなってやめた。

 記録によれば入学時46名入学している。衣食住、あらゆる業種において社会全体の欲求が牙を剥いて襲いかかってくる。定時制の生徒は、昼間働きながらその牙に立ち向かっている。全日制から定時制に来た人もいる。他校から転入してきた人もいる。しかし、残念なことにそれぞれ事情があって何人も脱落していった。先生はなんとかとどまるように説得したのだが、卒業したのは36人だ。

 定時制では、年に一回親が学校に呼ばれて先生と話をする。ぼくの場合は、ボス猿が親代わりで出てくれた。定時制の先生はうるさいことを言わない。ボス猿が先生に何と言われたか、ボス猿は細かいこと言わないから記憶にない。

 定時制四年生の時、店では家具の出張販売を盛んにやっていて、家具の出張販売が終わって引き上げてくると、事務所の隣の食堂で酒飲んで飯食っていた。ボス猿は大入り袋渡して、タバコ吸う人にハイライトを一づつ渡していた。当然ぼくも貰った。飲みねー、食いねー、タバコ吸いねー。あれ?、そういえば寿司が出なかったな。

 


生活体験芸能発表会

2008-05-16 09:26:12 | 伊商の定時制

 記録によれば昭和41年11月14日に伊定連の生活体験芸能発表会が行なわれている。エクセルで作ったカレンダーを見るとこの日は月曜日だ。店は定休日だ。この生活体験芸能発表会には、伊商から二組出ている。

 記録よればこの一週間前の11月7日に校内生体芸能発表会が視聴覚教室で行なわれている。ぼくは、生活体験発表会に出ないで、芸能発表会の方に出ている。

 たしか、4年生と3年生で臨時に役者を揃えて、学校の教室で恵まれない人の為の募金をしようというディスカッションをして、募金箱の中にお金を入れるといった寸劇だったように記憶している。ストーリーはぼくが考えた。台本はない。台本書くほどのことではないし、第一台本書く時間がなかった。

 視聴覚教室の講堂の上に教室で使っている机と椅子を並べて、募金しようという機運から募金までの流れを寸劇でやった。ストーリーだけ言ってやったから練習不足だ。それでもなんとか伊定連への発表会に通過した。

 ぼくの休みは月曜日だ。他の人達とは休みが合わない。集まったメンバーに今度の日曜日に練習しておいてくれと頼んだ。自分だけ練習に出ないで他の人に練習しておいてくれという方が虫が良すぎる。

 虫が良すぎるのだが他の人達が練習しておいてくれるもんだと思っていた。そして、伊定連の当日机と椅子を公民館に運ばないといけない。メンバーに相談したら、3年生の岡本君が商店に勤めていて、朝八時過ぎの開店前なら手伝えるというので、店のダットサンを乗り出して岡本君乗せて、学校まで行って机と椅子を公民館に運び込み準備万端整った。

 いざ鎌倉じゃない。夕方5時半ぞくぞくと公民館に定時制4校の生徒が集まってくる。ぼくは、楽屋で学生服の上に包帯を巻いて過剰な演出作業をやっていた。よせばいいのに関矢が伊定連で知り合った女子高の生徒から口紅借りて包帯に血の跡だといって塗った。そこまででよせばいいのにほっぺたに血の跡だと一筋紅を入れた。おいおいそれは間接キスだぞ。やられているぼくも悪い気はしない。

 やがて、順番になって舞台の上に机と椅子が並べられてメンバーが椅子に座った。ぼくは、舞台の袖から出て行った。その瞬間、客席から、おー、と声が上がり、声援が飛んだ。

 こうなるともう勢いだよね。よせばいいのにぼくは手を挙げて応えたから余計に声援がわき起こった。真っ白な包帯に口紅で血の跡を模して付けてある。頬にも口紅で赤い線が引いてある。目立つ。もう勢いだ。舞台上のメンバーも舞い上がってしまった。

 こうなると練習してきたとかそういうレベルで無くなってしまう。台詞が出てこない。台詞がしどろもどろで寸劇どころでなくなってしまった。めろめろになりながらもなんとか募金箱にお金を入れて幕が引かれた。

 病院に勤めている関矢が当日アドリブで包帯を持ってきて、おいほらこれ巻けと言われて巻いている最中に、女子校の生徒から口紅借りてきて血の跡をつけるべ、というから調子に乗って、やるべやるべとやってしまったのが失敗だった。当時十八歳だったぼくにとって口紅は刺激的だった。同時に真っ白い包帯に赤い色は、見ている人達にとっても刺激的すぎた。

 我が校の出し物は、この他に下級生がやったコントがあった。コントは、当時出始めのお笑い形態で、こっちの方は大好評だった。上級生の失敗を下級生がカバーしてくれた。面目ない。

 伊定連の生活体験・芸能発表会は、チョウテン先生の講評で締めくくられる。チョウテン先生はいいところを見つけて誉めてくれるのであるが、ぼく達がやった寸劇は、いいところが見つからなかったようで、最初のつかみはよかったが後は何をやっていたんだと。けちょんけちょんに言われてしまった。

 まぁ、仕方がないやな。台本無しの練習無しでぶっつけ本番。過剰演出で最初のつかみだけ取ってしまったら、舞台も会場も全員が舞い上がってしまったんだから。何とか幕を引いてもらえただけでも上出来だ。

 ぼくは、舞台が終わった後、机と椅子をダットサンに積んで学校まで運んだ。確か毛布を間に入れて二段重ねでロープで縛って運んだと思う。店で家具の配達やっているから手慣れたもんだ。スバルサンバーを無免許で運転していたけど、机を横に二つ並べられないのでダットサンで運んだ。

 ダットサン乗るのは初めてだったように記憶している。一回りガタイが大きいダットサンに乗るのは多少の不安があったが、やってみたらなんとかすんなり乗ることができた。車の免許を取る半年前の事だ。

 


生徒会顧問増野先生

2008-05-13 14:42:00 | 伊商の定時制

 記録によれば昭和40年12月22日に生徒総会が開かれている。エクセルで作ったカレンダーを見るとこの日は水曜日だ。ぼくは、日曜日は休めないから嫌だと言ったのだが、生徒会長に当選させられてしまって生徒総会に臨んだ。新旧役員の交代と次年度予算案の承認である。

 次年度予算案は、生徒総会の前に開かれた新役員会で大もめにもめた。何がもめたかというと、ろくにクラブ活動をしない森が珠算部に籍を置いて、予算よこせ予算よこせと騒いだからだ。てめぇこの野郎!。ろくにソロバンできもしないくせに予算だけよこせと言うな。と言いたいのだが、タテマエとしてそれは言えない。

 森が遊びで予算よこせと騒いでいるのは分かっていても、他の人達の手前話を付けなければならない。その内に物価上昇率から考えてうちの部の予算も少し増やしてくれとか、あげくの果てに生徒会の予算少し減らしてこっちに廻してくれなんて言うのも出てくる始末だ。

 冗談じゃない。他の部の予算を減らすのは構わないが生徒会の予算だけは減らして貰っては困る。それを減らされると原点である生徒会の活動ができなくなってしまう。生徒会の予算は聖域だ。他のクラブ活動の為に手を付けては駄目だ。

 それを聞いた森が、珠算部は全国大会に行くから予算よこせと、遊びで予算のぶんどり合戦をやってくる。うるせー。お前ソロバンできもしないくせに全国大会もないだろう、とは言えない。珠算部に籍を置いている人が上位にいくかも知れない。まったくとんでもないやつが部長になったもんだ、と思いながらもなんとか予算案をまとめた。そして冒頭の生徒総会があった訳だ。生徒総会はいわゆるシャンシャン総会で無事に終わった。

 定時制3年の後半頃からであったと記憶しているが、前段の授業と後段の授業のあいまに生徒が職員室に行くことが多くなった。最初は、二十歳を超えた保坂が職員室に行ってタバコを吸って先生と世間話をしていたのだが、だんだんと他の生徒もその輪の中に加わるようになった。

 特に定時制4年の修学旅行が終わった後は、5・6人で職員室に行って世間話をするのが毎日のようになった。受け入れる先生の方も嫌がることなく気さくに受け入れてくれた。

 10分位の時間しかないのでまとまった話はできないのだが、先生と生徒という関係を維持しながらも、授業とは違った面白い話ができた。全日制では絶対にできない定時制ならではのことだと思う。

 記録によれば修学旅行の後の4月27日に新1年生を迎えて生徒総会が開かれている。エクセルで作ったカレンダーを見るとこの日は水曜日だ。

 新しく生徒会の顧問になった増野先生は、実直を絵に描いたような先生で、チラシの裏に生徒総会を運営する発言の仕方をキチンと書いてくれて、その通りに読んでいけば生徒総会が無事終了するようにしてくれた。

 ぼくは、生徒総会の何日か前にその紙をもらったので、そこに書いてある通りに読んで議事を運営することができた。何がラクチンといってこれほどラクチンのことはなかった。予算ぶんどり合戦の時のようにおろおろする必要はなかった。増野先生が書いてくれた議事運営メモをとっておけばよかったのだが、しまった!。と思った時にはどこかにいってなくなっていた。

 ぼくは、店の仕事で決算の数字に関わらないものはどんどん捨てるというやり方をとっていた。紙切れはとっておくとどんどん溜まる。要らないものは捨てないと紙切れの山であふれかえってしまう。だから、ぼくは決算の数字に関わるものは取っておくがそうでないものは、容赦なく捨てるという方針で仕事をしていた。

 店の仕事ではどんどん捨てていたが学校のものは捨てないで残していた。しかし、引っ越しの都度不要なものは処分してしまった。今から思えば教科書はとっておくべきだった思う。すべてお金を出して買ったものだ。簿記の教科書でどのように教えていたか。数字の書き方をどのように教えていたか。読み返してみたいものが一杯ある。

 話が横にそれた。元に戻す。記録によれば昭和41年8月22日~24日に校内球技大会をやっている。エクセルで作ったカレンダーを見ると8月22日は月曜日だ。記録では、卓球、バレー、ソフトとなっているが、ぼくの記憶には野球しかない。

 1年生から4年生までで臨時にチームを作り、前段の授業時間に野球をやった。生徒会顧問の増野先生が一塁の塁審をやっていて、大きな声と動作でアウト、セーフとやっていた。先生そんなに大きな声出さなくても分かるよ、と思ったけど増野先生の実直さがそれをさせていた。

 野球の試合は、中学時代に運動部にいた人達がめざましい活躍をした。特に三塁やショートを守った人が矢のような送球で内野ゴロをアウトにしとめていた。ぼくは、バットをすくい上げるようにして打つのが得意なので、低目の球を待っていたらうまい具合にいい球がきたのですくい上げて外野まで持っていき塁に出た。

 二塁まではなんとか走塁できたのだが、三塁へ走塁したところで運動部出身のショートと三塁にアウトにしとめられた。野球の試合は時間との戦いでもある。午後7時前には終えて教室に戻ったと記憶している。

 そして、普段の授業に戻り前段の授業と後段の授業のあいまに職員室に行ってなにげない世間話をしてくる。これが授業とは別にいい勉強になった。生徒会顧問の増野先生は実直を絵に描いたような話をされる。その増野先生は、ぼくらが卒業してから10年後に急逝された。

 


給食と教室の掃除

2008-05-12 11:24:15 | 伊商の定時制

 定時制の授業は、夕方5時半から7時までの前段と、10分位の休憩を挟んで8時45分までの後段に分けて行なわれる。授業単位では、前段で2時限、後段で2時限になる。前段が終わった後の休憩時間に軽食を食べることができる。

 1年生の時は、その時間になるとパン屋さんがパンを売りに来た。1年生から4年生まで先を争うように買うからすぐになくなってしまう。お金があれば買うことができるが、無ければ買えない。給料日前になると買う人が少なくなっていく。

 ぼくは最初からお金がない口だったので、みんながパンを買うのを横目で見ていた。ある時、クラスの関矢がおにぎりを一つぼくにくれた。どうやって作ったのだと聞いたら、お母さんが作ってくれたのだという。親がいるやつはいいなぁと羨ましがる前に、関矢のおふくろさんの味にむしゃぶりついていた。

 記録によると昭和39年1月16日。パンと脱脂粉乳による給食開始。給食費月額300円とある。ちょっと臭かったが小学校の時に鼻つまんで飲んだとは段違いだった。当時すでにラーメンは50円で食べられなくなっていた。コッペパン1個10円では買えないはずだったから、パンと脱脂粉乳による給食は、毎日ではなかったように思う。

 昭和40年。定時制3年になると学校の体制が整って、休み時間に温かい牛乳とパンが毎日出るようになった。脱脂粉乳ではなく本物の牛乳を専従の人が瓶ごと温めてくれる。やれやれ、帰れば夕飯があるのだが、小腹を満たすことができるようになった。3年生の時は、みんなありがたく丁寧に頂戴した。

 昭和41年。定時制4年になって修学旅行から帰ると、我が愛すべきクラスの悪ガキどもの中に、給食のパンを奪い合って放り投げて遊び道具にするものが出てきた。馬鹿野郎!。食べ物を粗末にするんじゃない。最初のうちはおとなしくなっていたのだが、段々とエスカレートしていき言うことを聞かなくなってきた。

 このままでは床に落ちてぼろぼろになったものを食べることになる。駄目だこりゃ。自分の物だけ取って後は好きにやれ。遊び組と食う組とでどっちが先にとるかで、食い物をめぐった壮絶なバトルが展開された。

 東京オリンピックが終わって高度経済成長の行け行けどんどんになって来ると、それに合わせて我が愛すべきクラスの悪ガキどもの懐具合も次第によくなり、修学旅行で互いにうちとけ合った結果が給食のパンの争奪戦という現象になって現れた。しかし、それもいっときの現象でしばらくして収まった。

 ぼくが中学生の時、コッペパンは裸で売られていた。定時制四年生あたりで行なわれたパンの争奪バトルの時は、今のようにプラスチックの袋に入れられていた。高度経済成長によってプラスチック製品が急速に普及した結果だ。

 定時制の授業は、全日制の生徒が授業した後の教室で行なう。同じ教室を使うのだがお互いに顔を合わせたこともなければ、交流をすることもなかった。まぁーそのぉー、定時制の生徒と、全日制の生徒が交流すると、全日制の生徒が悪ガキに染まる恐れは十分にあったのであります。

 定時制の生徒は、全日制の生徒が掃除をして帰った後の教室で授業を受けた。そして、明日の仕事に差し支えるといけないというので掃除はしなくていいと言われて帰っていた。ようするに教室の掃除は全日制の生徒に、おんぶに抱っこに肩車だった。

 4年生の冬。教室の掃除をしようと言った悪ガキがいた。明日の仕事があるからできる者とできない者がいるので強制はできない。放課後、4・5人が自主的に残った。ダルマストーブの火を落とすと途端に寒くなる。机を後ろへ移動して、箒で掃いて、雑巾がけをしてという、中学校時代にやった教室の掃除をした。

 翌日、クラスのみんなに昨日教室の掃除をしたら意外にゴミがあった。おれたちは教室の掃除をしてくれている全日制の生徒のことを何も考えていなかった。これからはゴミを出さないように注意してくれと頼んだ。

 4年生の冬(19歳)になると、我が愛すべきクラスの悪ガキどもは分かりがいい。その日から放課後に残る人数が増えた。掃除が終わったら酒飲み行くべ、と言ったのは内緒だ。ひっひっひっー。

 


修学旅行顛末

2008-05-11 17:17:00 | 伊商の定時制

 修学旅行は駅前で解散。店まで歩くと20分くらいかかるのでバスに乗って帰った。軍資金使い果たしたといっても帰りのバス代くらいは残しておいた。店の前から入って、ただいまー。店はまだ営業時間中。店でぺちゃくちゃお土産話をする訳にいかない。

 二階の事務所に上がってボス猿に、ただいま帰りました、と挨拶して、正倉院の脇で店の名前を彫り込んでもらった包丁の三点セットと京都の夜にくり出して買った八つ橋を二・三箱だったか出して渡した。それで全部だ。後は全部酒盛りに使った。

 ぼくは、旅行に行ったら個別にお土産を買ってくるということをその時まったく知らなかった。ぼくは貧しい家の育ちだ。ぼくの子供時代に旅行に行ったからお土産買ってきたよ、と言って持って来てくれる人はいなかった。だから、旅行に行ったら個別にお土産買ってくるというシーンを見ないで育った。天真爛漫純粋培養無垢だよ。だから酒とタバコはすんなりと覚えちゃった。

 ぼくにすれば、炊事のおばさんが使う包丁の三点セットで十分にみんなへのお土産になると思って買ってきた。炊事のおばさんは、その包丁使ってみんなが食べる同じ釜の飯を作る訳だから。包丁の三点セットはかなり奮発して買ったんだ。京都の夜にくり出して買った八つ橋は、いわばおまけのつもりで買った。

 店の二階の食堂で夕飯食べに来た人を相手にお土産話を始めるのだが、みんな飯を食うと下へ降りて行く。まぁ飯を食べ終われば下へ行くのはいつものことで、ぼくも仕事をしていればすぐに下に行く。ぼくはお土産話が一杯あるんだけど、十分に聞いてくれる人がいない。やがて閉店時間がきてみんな二階の事務所に上がって来た。

 さぁお土産話をと思っても集金の人達は明日の仕事の段取りをするのが先で、通勤の人は家に帰ってしまってお土産話を聞いてくれない。まぁそりゃそうなんだ。夜九時に店を閉めた後は、銭湯行って十一時か十二時には寝るんだから、ひとのお土産話をゆっくり聞いている暇はないんだ。ぼくが、聞く立場になれば同じだと思う。

 旅行に行ったら個別にお土産を買ってこないといけないと分かったのは随分後になってからだ。先生が引率してくれたから行けたけど一人ではとても行けない。あの時代の関西はもの凄い遠国だった。

 ぼくは、月賦屋時代の後期になると、支配人と、貧しいということは罪だと思うという話をよくした。貧しい家に育つと、普通は知っているだろうということを知らないで育って社会に出てしまう。何が罪かと言って貧しいということほど罪なことはない。知っていて当然のことを知らないで育ってしまう。そして社会に出ていきなりガチンコでおろおろしながら覚えていかないといけない。見ている方はいいかもしれないけど、おろおろする方は大変なんだよ。おろおろおろおろ。

 ボス猿は、あぶないことするんじゃないぞと言って修学旅行の小遣い5000円くれた。あぶないこととは何だろう?。何か意味深な言葉だなと思いながら楽しい修学旅行に行って来た。小遣い渡す時に、このお金で店の人達に個別にお土産を買って来なさい、と言ってくれればその通りにやってきたのにな。

 インターネットは何でもアリの世界だからコメントを書く時は慎重にとご案内したけど、こういう過去の話を書く分には過剰に警戒しなくてもいいようだ。なにせ時効になっている。さぁ皆の衆。四十二年前の楽しい修学旅行の話をアップした。どんどんコメントを書き込んでいただきたい。パソコン通信の時の仲間は、師匠という呼称を使っても構わない。どんどんコメントを書き込んでいただきたい。おろおろおろおろ。

 


修学旅行5日目帰路

2008-05-10 09:01:16 | 伊商の定時制

 修学旅行5日目。4月19日火曜日。朝一番に嵐山に行った。なんかしらないが橋がかかっていていい風景だなと思った。それが渡月橋だということは卒業してずっと後になってから知った。嵐山では、和風のトイレがあった。京都は、全体としてけばけばしさが無く、建物と回りの風景が一体になった景観が印象に残っている。嵐山の集合写真が一枚残っている。

 修学旅行の集合写真は、宇治平等院と嵐山の二枚。裏にぼくのゴム印が押してある。学校の先生が頼んで、できた写真を学校に送ってもらって、各生徒に渡したものだと思う。写真というものは取っておくものだな。四十二年前の写真だ。当然白黒だ。写真の裏に押してあったゴム印は、卒業の時にもらってその後時々使い、今でもぼくの机の引き出しに入っている。

 後は帰るだけ。嵐山からバスで京都駅へ、京都駅でお世話になった添乗員さんとバスガイドさんに別れを告げた。本当は運転手さんがいたのだが運転手さんは表に出ないから分からない。添乗員さんもバスガイドさんも、修学旅行の生徒ではなく社員旅行だと思えば大したことなかったと思う。それにしても歳が若い。大半が十八・九歳だ。

 東海道新幹線が開通したのが昭和39年10月1日。ぼくたちの修学旅行は一年半後の昭和41年4月。来る時はオンボロ夜行列車だったが帰りは東海道新幹線に乗った。上州の悪ガキどもにとって初めて体験する東海道新幹線だ。先生は、事前に修学旅行の帰りに東海道新幹線に乗ると話したはずと思うが、ぼくは東海道新幹線に乗っても気が付かなかった。

 ピカピカの電車はオンボロ夜行列車とは全然違う。最新のシートだ。座り心地がいい。確か三人がけの座席を向かい合わせにして乗ったように記憶している。おい、昼飯食いに行くべ、へー食堂車はこういう風になっているのか。見る物がすべて珍しい。一番安いカレーを頼んで、へーあぁいう風にして作るのか。火力は何を使っているんだんべ。出てきたカレーを食べながら、へーこういう風に座って食べるのか。東海道新幹線には座って食べるビュッヘがあった。

 席に戻って食後の一服。保坂が、この電車換気がいいなぁと言う。煙をたどっていくと天井に換気扇がついているようだ。ぼくもいっぷく吸って、ふー煙の行方をたどると天井に吸い込まれていく。来るときに乗った夜行列車と、最新技術を結集した東海道新幹線の差は歴然だ。

 東海道新幹線開通から一年半後。学校は無理してでも東海道新幹線に乗せてやろうと考えてくれたようだ。予算と行程をやりくりして帰りの汽車で東海道新幹線に乗せてくれた。修学旅行でもなければ上州の悪ガキどもには東海道新幹線に乗るなどということは滅多に無いことだ。定時制の修学旅行で東海道新幹線に乗ったのは、ぼくらが初めてだ。

 東海道新幹線の快適な旅を終え東京駅についた。東京駅から山手線に乗って上野駅に。上越線に乗るのに時間がある。ぼくは、中学校の時の同級生で文通をしていた草間さんの勤め先に電話した。電話口に出た草間さんが、旅先から随時ハガキを寄こすと手紙が来ていたけどどうしたの?。げっ!。修学旅行に行く前に旅先から随時絵はがき送ると出していたのだが、毎晩酒盛りしていてすっかり忘れていた。ごめんなさい。謝るしか手がない。

 時代は高度経済成長のいけいけどんどんが始まっている。その先兵として働く草間さんもぼくも文通の手紙を書いている暇がなくなった。修学旅行から帰った後に写真を送って何度か文通をしていたと思うが、お互いに忙しくて便りが途絶えてしまった。草間さんがその後どうなったか分からなくなっている。

 話が横にそれた元に戻す。草間さんに電話した後、上野駅のホームで撮った写真がある。四人写っているが四人ともサングラスをかけている。ワルだよ。上野駅から電車に乗って上州に着いたのは夕方5時頃。在来線の電車は、乗り心地が良くない。駅には、旅行に行けなかった友人達が出迎えていた。駅前に集合して人数を確認後解散。あー疲れた。さすがの悪ガキどもも連日の酒盛りでくたびれた。

 しかし、一番くたびれたのは悪ガキどもを引率した先生だったと思う。クラス担任の吉井先生は、定時制の修学旅行は初めての経験。何やり出すか分からない悪ガキどもを解散させて、一番ほっとしたと思う。翌日の授業は休み。その後、吉井先生が胃をわずらったという話を聞いてないが、胃薬いっぱい服んだんではないかと思う。ひっひっひー。

 


修学旅行4日目

2008-05-09 09:04:14 | 伊商の定時制

 修学旅行4日目。4月18日月曜日。出発前に四条河原町交差点で記念写真をパチリ。サングラスかけた威勢のいい若い衆が背広着て写っている。バスは、灘を通って宇治に行く。灘?。酒の臭いがしないか?。くんくん。酒の臭いがするのはお前だんべがな。それもそうだな。

 バスは宇治平等院に到着。10円硬貨と同じだぁ。ガイドさんの案内で広い境内を廻り、写真をパチリ、パチリとやっていた。絶好のポイントで、ぼくはバスガイドさんの肩に手をかけて写真を1枚撮ってもらった。その後、ぼくとバスガイドさんは、草むらのなかにしけ込んだ(うそ)。宇治平等院を背景に集合写真をパチリ。今見ると修学旅行とはとても思えない。どう見ても社員旅行だ。

 そして、バスは長駆比叡山延暦寺を目指す。チョウテン先生と縁のある所だということがすっかり頭から抜けていた。比叡山へ登る道は舗装されていて、ガードレール脇に野生の猿がいた。比叡山の頂上からは琵琶湖が一望できる。でかい湖だ。

 比叡山について調べてあれば見ようが違ったのだろうが、下調べをまったくしないで、ただ漫然と見学してまったのでこれといった印象が残っていない。

 比叡山延暦寺は、伝教大師最澄上人が京都の鬼門を守るために開いた寺で、日本全国から僧を集めて学問修行をさせた。ということを知ったのは、この旅行から三十年も後になってからだ。織田信長による比叡山焼き討ちの痕跡を見られれば別の印象があったと思うが、そういった印象は残っていない。残っている印象は、鐘撞き堂で鐘を撞いたことだけだ。ぼおぉぉん。

 そして石山寺に行った。名前の通り石が一杯あって、ここは石の産地だろうかと思った。石のあいだを通っていくと立派なお寺があった。石山寺は琵琶湖のほとりに建てられている。廻りに石が多いので今までのお寺とは趣が違って見えた。

 前日と同じ宿に帰着。京都の夜は誘惑が多い。しかし、四泊目になるとみんな軍資金が底をついてきた。チンボ間通信やった連中とっつかまえて、明日の昼飯代残して有り金残らず全部出せ!。おれも出すからみんなも全部出せ!。もう脅迫だわさ。

 夕飯後夜の京都に繰り出したが、軍資金が底をついているので威勢が悪い。全員が門限までに帰ったのを先生が確認。また酒盛りが始まったのは言うまでもない。もう先生呼んで来い、というようなドジは踏まない。軍資金がもう少しあれば良かったのになー。ひっひっひっー。

 


修学旅行3日目

2008-05-08 08:53:07 | 伊商の定時制

 修学旅行3日目。4月17日日曜日。奈良から電車に乗って大阪に向かう。初めて見た大阪城の大きさにたまげた。空襲にやられる前はもっと大きかったと聞いてさらに驚いた。戦争から20年しか経ってないのにこんなでかいやつを建てるとは、と驚きながらも金のあるところにはあるもんだなと思った。

 これが冬の陣、夏の陣で焼けた時の跡です。と説明された石垣に歴史を感じた。これが船の下に吊して運んできた石垣か、実物を見ながらどうやって石を積んだんだろう?、昔の人はエライなと思った。高いところに登った記憶はあるが、天守閣から見た風景はもう記憶にない。大砲の砲身の側で撮った写真があるのが高い所に登った記憶をかすかに甦らせる。

 そして、いよいよ京都へ。初めて見る名所旧跡にみんな感心している。教科書の写真で知っている石庭を見た時、えぇ!。こんなに小さいのかとびっくりした。教科書の写真だと大きい庭だというイメージだったが、実物の石庭はこじんまりしていた。石庭は、毎朝掃除して敷いてある小石に筋目を付けると聞いて、そういう世界もあるのかと不思議に思った。

 金閣寺に行った。放火の後に再建されたのだという、山吹色というよりキラキラ光っていた。池を一廻りしながら中を見学した。銀閣寺にも行った。金閣寺と違ってこっちの方が地が足についていていい。どんぶりに砂を入れてひっくり返して抜いたようなのがあった。あれは何だろうと不思議に思った。植木屋さんが何人か入っていて木の手入れをしていた。

 平安神宮は、鮮やかな朱色と広大さが印象に残っている。こんな大きな神社で何をやっているのだろうと思った。西本願寺で撮った写真があるが記憶からなくなってしまった。下から見た清水寺は、何かの花が咲いていて綺麗だった。そして有名な清水の舞台に立ってみた。落っこちたら大変だ。後はどこを廻ったか記憶が定かでない。

 宿に着いた。夕食後は門限9時で自由行動。日曜日の京都の夜はにぎやか。先輩方の中には他校の生徒と喧嘩沙汰を起こした人もいた。と物騒なことを聞き込んできたやつがいる。なるべくそういうことに巻き込まれないよう各自グループを作って京都の夜を楽しんで門限9時には帰った。

 一人だけ帰って来ないやつがいた。先生が玄関で待っている。ぼくも笛持たされていたから一緒に待っていた。やがて帰って来た。どこへ行ってたんだ?。姉さんの所行ってたら遅くなってしまった。ごめんなさい。先生は、そうかと言って許した。(今から思うと、どうも違うおねーさんのような気もする)

 全員揃ったところで、各自自由行動中に買った酒やつまみを出して、わいわいがやがや酒盛りが始まった。三泊目になると誰が何を買って来いと言わなくても、自然と酒盛りができるようになった。にぎやかにやっていたら、いきなり部屋の戸が開いた。びっくりして入り口を見たら先生が立っていた。ヤバイ!。一同びっくり。

 あぁ先生いいとこへ来たねこっち来て飲まねえかい。酒が入っているから押さえが効かない。先生嫌な顔して帰っちゃった。おおビックリした。どうして先生が来たんだ?。お前が先生呼んで来いと言ったから呼んできたんだんべがな。おれそんなこと言ったかぁ?。あぁさっき言ったよ。だから呼んで来たんだがな。そうか。馬鹿だな酔っぱらいの言うこと本気にするやつがあるか。おめえ飲みが足りねー。こっち来て飲め。かくして三泊目の夜も過ぎた。

 翌朝、支度をして朝飯前。おい、昨日のやつはちとまずい、おまえ笛持っているんだから先生とこへ謝りに行ってこい。おれ一人で行くのか?。誰か一緒に来いや。お前が先生呼んで来いと言った張本人なんだから、お前が行ってこい。しょうがない行って来るか。

 先生の部屋の戸をノックして、先生夕べはすいませんでした。まったく、お前まであんなことするとは思わなかった。はい。どうもすいません(林家三平)。なんとか勘弁してもらった。

 部屋に帰って、お前まであんなことするとは思わなかった、と先生に言われたと話したら。お前までがじゃないだろうが、お前が飲むべー、飲むべーってやったんだんべがな。そりゃそうだ。ひっひっひっー。

 


修学旅行2日目

2008-05-07 08:44:26 | 伊商の定時制

 修学旅行2日目。4月16日土曜日。バスに乗って奈良に行く。バスは昨日乗ったのと同じバスだ。バスガイドさんも同じ、もう一人若い男の人が乗った。この男の人は旅行中ついて廻ったのだが、添乗員という仕事があるのを知ったのは旅行から帰った後で、世の中には不思議な仕事があるものだなと思った。バスガイドさんは、ぼくらと同じ年代だ。

 高速道路に入る前に、後部座席の後ろの窓をカバンで塞いでルーミラーで見えないようにしてくださいと言われた。何故にこのように言われたのか不思議だった。

 インターチェンジから入って初めての高速道路を体験する。バスはぐんぐんとスピードを上げていく。高速道路は踏切や信号が無い。対向車も来ない。やがてトンネルに入るとオレンジ色の照明になった。若いバスガイドさんがナトリュウム灯だと言って説明してくれた。みんな初めて見る照明に関心していた。

 どうやって高速道路から降りるのだろうと思っていたら、ちゃんと降りる場所が用意してあって、そこから降りると料金所があった。高速道路は有料か?、タダじゃないのか?。それでも高速道路を使った移動は快適そのものだった。

 高速道路を降りて普通の道を走っている時に車内で歌をうたうことになった。寝不足が解消された悪ガキどもは元気がいい。最初の内は遠慮しながら歌っていたのだが、段々エスカレートしてきた。

 ひとつ出たほいのよさこいのほい。男だけなら猥歌やっても構わないのだが、車内にはバスガイドさんがいる。ちょうどぼくの頭の上にマイクの差し込み口があったのでジャックを引き抜いて、おい、昼間からやるな!(夜ならいい)。バスガイドさんに恩を売っておいた。

 事前に旅行の行程表を渡されていたのだが、下調べをしている暇がなかったので、みんなぶっつけ本番。若草山は、まだ芽吹く前だったがきれいだった。大仏様も見た。奈良公園では鹿に餌をやった。

 西洋の史跡は石でできている。日本は世界最古の木造建築物がある。木造建築物を後世に伝えるには石と違って手間暇かかる。手入れをしなければならない。と、チョウテン先生から教えてもらっていた。

 歴史の教科書で習う本物をじかに見るのは楽しくためになった。日付が入っている写真で行った所を列挙すると、薬師寺、薬師寺東塔、大仏殿、法隆寺、校倉造り。

 幾つもの名所旧跡を廻った。引率の佐野間先生に、この土塀を脇にして写真を一枚撮ってくれと言われて一枚パチリとやった。こんな古びた土塀なんかと疑問を抱いたが、佐野間先生は真言宗のお寺の住職、お寺ならではの感性があって古びた土塀に何かを感じたと思うがその写真は今手元にない。

 そして宿についた。昨日の伊勢志摩で雨に降られてズボンがよれよれになっている。宿の人にクリーニング屋さんの場所を聞いて、見ず知らずの奈良の街でクリーニング屋さんを探しに行った。

 見ず知らずの土地へ行って、メニューないことを頼むには、相当ずうずしくなければできない。ぼくは、店で働き始めて4年目。最初は知らない家の玄関開けて、ごめんください、と言うのが恐かったのだが、修学旅行の時は慣れていて、ぼくもずうずしくなっていた。

 あのー、これ昨日雨で濡れただけなので洗濯しないでいいから、いますぐアイロンかけてくれませんか。店にいた職人さんが奥にいる人に声をかけた、タイショウどうしますか?。やってやれという返事だったようで、すぐさまアイロンがけが始まった。

 上州だったら、社長とか、親方と言うのを、こっちの方ではタイショウという言葉を使うのが新鮮に聞こえた。そして、アイロン掛けが終わってお金を払った。今だったらズボン専用のプレス機でプシューで終わる作業だが当時は全て手作業だ。

 さて、これでよれよれのズボンが解消した。クリーニング屋さんに行き来する途中に酒屋があったのは当然チェックして帰った。宿に帰って話をしたら何人かがおれも行ってくると言ってズボンを持って出かけた。

 宿の部屋で夕食の時間を待つ間、風呂に入ったり、昨日の夜のチンポ間通信の話でわいわいがやがや。夕食後の後に酒飲むべという話は出ない。夕飯を食べて部屋に帰って来たら、すぐに保坂のところに宿の人が来て何か話をしている。おい。どうしたんだ?。うん。夕飯の時に女いないかと聞いたら呼びに来たんだ。行くのか?。高いからやめた。そうか。

 ぼくも有り金全部はたけば行けたんだけど、今はたくとこの先酒盛りができなくなるのでやめた。それにしても金出すと女が買えるということを生まれて初めて知った。二十歳を過ぎている保坂は、チンボ間通信とは別次元のことを考える。

 女を買う話やめてさて何やるか?、当然酒飲むべという話になる。またチンボ間通信やられてはたまらないから、やった連中に、おい、お前ら金出せ。おい、誰か缶ビール買ってこいや。酒屋はあそこにある。また酒盛りが始まった。

 海なし県の奈良では、サザエの壺焼きは頼めない。何か適当なおつまみを買ってきて、チンボ間通信やったやつに、おいおめえ飲みがたりねーぞ。もっと飲め。酔い潰させてしまえば悪さはしない。かくして2泊目の夜は過ぎた。

 翌日朝六時過ぎ、布団たたみますから起きてください、と言う若い女の人の声でみんな目を覚ました。部屋の入り口に大学生のアルバイトと思われる男2人と女1人が立っていた。女の人が、布団たたみますから起きてください、と再度言うが、誰も起きようとしない。

 悪ガキどもはどうすると目線で会話している。起きてくれと言われて今は起きられない。もうちょっとしたら来てくんないかい。アルバイトさんは素直に帰った。ふー。

 あの女いい女だったな。夜だったら布団の中に引きずり込むんだけど、朝っぱらからそういう訳にもいかねえやなー。そうだな。そう言ったみんなの布団の下では、いつでも引きづり込めるように戦闘準備ができていた。やがて布団もたたまれ、二階の窓を開けて外をみたら、クラスで一番品行方正な玉野君が学生服来て散歩していた。

 おい。来て見ろや。玉野がタバコ吸っているぞ。どれどれみんなやってくる。おーい玉野。玉野君は美味そうにタバコを吸ってにっこり笑って手を振った。あいつとうとうタバコ吸うようになったのか。こっちも朝飯前のいっぷく吸うべ。先生が部屋に来ないのは前日で分かったから証拠隠滅する必要がない。ひっひっひー。

 


修学旅行1日目

2008-05-06 11:51:50 | 伊商の定時制

 定時制四年の春、記録によれば4月14日(木)~19日(火)に修学旅行で関西に行った。この旅行のために一年生の時から旅行費用を積み立てていた。定時制四年間の内唯一の旅行である。小遣いは5000円と先生に言われていたが、誰もそんなこと守らない。

 ぼくは、定期積金で満期になったら定期預金にしたものの中から、この旅行のために1万5千円を用意した。ボス猿から、あぶないことするんじゃないぞ、と言われて5000円もらった。締めて2万円の軍資金である。昭和四十一年の2万円だから相当価値がある。ひっひっひっー!

 夕方5時半に駅に集合。引率の先生は2人、全員の頭数を確認して出発進行。東京オリンピックが終わって2年、時代は高度経済成長のいけいけどんどんが始まっている。この修学旅行で学生服を着て行ったのは少数、大半はこの日のために買った背広をびしっと着ていった。

 高崎で乗り換えて上野に向かう。多分夕飯におにぎりを持って行ったと思うが、上野へ向かう電車の中でウイスキーの瓶があっちへ行ったり、こっちへ来たりし始めた。おい、おれにも少しくれ。きー、きくなー。へっへっへっ。家から持ってきたのか?。にかにか。先生に見つかるなよ。ぼくは、笛を持たされていたので、先行きに少し不安を感じた。というのはウソで、おれも持ってくれば良かったと思った。

 上野駅で山手線に乗り換えて東京駅へ、みんな経験のないルートを行くから見る物聞く物が珍しい。東京駅から夜行列車に乗り換えた。飛び交っていたウイスキーも中身がなくなったので車内は静か。

 夜行列車は眠れない。網棚の上に上がって寝たやつが何人かいた。ぼくもやってみた。ごつごつして痛くて寝ていられない。網棚は人が寝るように作られていない。

 帰省の時にやった一等車に潜り込んでという手は人数が多いから使えない。多分この修学旅行のあたりで一等車は廃止になっていたような気がする

 みんな座席にもたれて寝たような寝ないようなで、朝早く名古屋に着いて近鉄に乗り換えた。近鉄の電車は車両が新しい。途中で通勤通学の人達が乗ってきたが先に座った方が勝ち。伊勢で下車バスに乗って伊勢神宮へ。

 修学旅行一日目は、4月15日金曜日。バスガイドさんの案内で、内宮外宮を参拝。あいにくの曇り模様の天気で今にも雨が降りそうだった。赤福があったかどうか記憶に無い。その後バスに乗ってアコヤ貝の養殖で真珠王となった御木本幸吉の地へ。雨が降って来たが、アコヤ貝から真珠を取り出す様子や、海女が海に潜って漁をする様子を見学した。

 初日は、寝不足だからみんなぐったりしながら見て歩いた。有名な夫婦岩を見て志摩で一泊。旅館に着くと仲居さんが二十歳を過ぎている保坂を先生と勘違いしてカバンを部屋まで持って行った。保坂が笑いながらおれのカバン持って行ったよという声と一緒に、ぼくらは自分でカバンを部屋まで持って行った。

 旅館で夕飯を食べるとみんなすぐに寝た。というのはウソで、夕飯食べて部屋に帰るとそこには楽しい未知の世界が待っていた。

 おい。昼間浜で食べたサザエの壺焼きうまかったな。うん。うまかった。あれを一皿旅館に頼むべーじゃねーか。うん。頼むべー。保坂が階下まで頼みに行った。ぼくと誰かがお金を出して、おい、誰か缶ビール買ってこいや。はいよ。へっへっへ!。金を出す組と、買い出し組に分かれて準備万端ぬかりなし。

 大皿に盛られて出て来たサザエの壺焼き見てびっくり仰天。うへっ!。こんなにいっぱいあるのか。プシュ、サザエの壺焼きを肴に酒盛りが始まった。

 こりゃうまいな。うんうまい。海無し県の悪ガキどもにとってサザエの壺焼きは初めての味覚だ。あっという間に一皿無くなった。いくつあるか数えてみろや。一皿二十個か二十五個あった。

 千円でこんなにきたか。おい。もう一皿頼んでこいや。缶ビールもっと買ってこいや。先生の部屋に聞こえるといけないから最初は小さい声でやっていたけど、酔っぱらってくると分からない。かくして一泊目の夜は過ぎた。

 寝不足で酒盛りした一泊目の夜は、みんなぐっすり寝たはずだった。しかし、朝起きたら股のあたりに違和感がある。よく見たら赤い糸がある。他の人達も起きて気が付いた。なんだこれは?。みんなで不思議がった。

 それを、ニカニカしながら見ている連中がいる。あのな、ゆうべみんなが寝た後、チンボとチンボを糸でつないでチンボ間通信やったんだ。にやにやして言いやがる。怒りがこみ上げて来た。上州弁は言葉が荒い。馬鹿野郎!。てめえこの野郎!。今夜仕返ししてやるから覚えていろ!。この馬鹿タレが!。そんな面白いことなんでおれを誘わなかった!。

 やられてしまったのは仕方がない。しかし、あの酒盛りの後、寝ないで起きていた悪ガキがいたとは上には上がいるもんだ。テーブルの上には酒盛りの後が残っている。サザエの壺焼きは宿が出したものだから後片づけはしなくてもいいとして、缶ビールの空き缶をどうするかだ。

 ひょいと見たら床の間に違い戸がある。おい。空き缶こっちへ持って来いや。違い戸を開けて中に空き缶をずらりと並べ、戸を閉めると外から見えない。これでよしと。先生が部屋に入ってきても大丈夫だ。ひっひっひー。