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必殺始末人 村山集治

必殺始末人 村山集治
ムラヤマ・コンピュータのブログ

門前の小僧習わぬ経を唱え

2014-12-03 17:50:56 | チョウテン先生

当分のあいだ 「村山集治 必殺始末人」で検索してください。

昨日、チョウテン先生のところにお参りに行ってきた。

國寶とは何者ぞ
寶とは道心なり
道心の中に衣食あり
衣食の中に道心なし
径寸十枚是れ國寶に非ず
一隅を照らす此則ち國寶なり
悪事を己に迎え好事を他に与え
己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり
謹んで読誦し奉る
集むる處の功徳を以て
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
               合掌


斉食儀(さいじきぎ)

2009-03-05 10:56:37 | チョウテン先生

食前観 
 吾、今幸いに仏祖の加護と衆生の恩恵により、この清き食を受く。つつしんで食の来由をたずねて、味の濃淡を問わず。其の功徳を念じて、品の多少をえらばじ。「いただきます」。

食後感 
 吾、今此の清き食を終わりて、心豊かに力身に充つ。願わくば此の心身を捧げて己が業にいそしみ誓って四恩に報い奉らん。「ごちそうさま」。

 昨年の12月から食前食後に上のお唱えをしている。しょっちゅう忘れるので紙にプリントアウトしてお盆にくっつけておくのだが、それでも時々忘れる。まぁ忘れた時は仕方がないので、気が付いた時にやっている。

 歳を取ってから新しいものを覚えるのは大変だ。約2ヶ月経ってやっと暗唱できるようになった。振り返って見ると子供の頃は、いただきます、ごちそうさまをやっていたのだが、大人になってから段々やらなくなってしまった。

 上に書いた斉食儀(食前観、食後感)は、天台宗のものだが、食事に対する感謝と少し大袈裟だが決意や覚悟が書かれている。一字一句かみしめながら読み込んでいくと食前観には、生きるとは何かが書いてある。そして食後感に仕事とは何かが書いてある。

 この斉食儀(食前観、食後感)を1日三回唱えていると気持ちに余裕ができてきた。あまり余裕が出来過ぎてブログの更新を休んだまま冬眠に入ってしまったほどだ。これでお金に余裕ができれば申し分無いのだが、世の中両方とも手に入れるのはなかなか難しいようだ。

 この斉食儀(食前観、食後感)は、昨年の12月に、竹田暢典先生を偲んで、という文集を再読してその存在を知った。チョウテン先生は、伊商の定時制を辞めた後、幼稚園を始めた。チョウテン先生は、日本の将来を担う幼稚園児の教育には心血を注いでいた。

 チョウテン先生が幼稚園を始めて何年かした後に先生と会う機会があった。よたろう、教育はやっぱり私立でないと駄目だな。おれが折角幼稚園で教えて小学校に送り出しているのに、小学校で全部駄目にしている。と嘆いていたことがあった。

 ぼくはその時教育とはまったく関係のない世界に身を置いていた未熟者だったので、ただ聞いていただけなのだが、チョウテン先生が幼稚園の園児に斉食儀(食前観、食後感)を教え、般若心経までも教えていたことを文集を読んで知った。しかし、ぼくは、伊商の定時制でネルソン提督は教えて貰ったけど斉食儀(食前観、食後感)は教えてもらわなかったので、ネットで検索して調べた。

 チョテン先生が生きていれば飛んで行って教えを乞うのだが、それは叶わないことなので、意味が分かればよかろうと現代風に読んでいる。それにしてもこの斉食儀(食前観、食後感)を幼稚園の園児に教えていたとはすごいことだ。そうやって小学校に送り出したら、小学校でやらなくなったのをチョウテン先生が嘆いていたのだと今頃になって分かった。

 さて、斉食儀(食前観、食後感)だが、これはいい。気持ちに余裕ができる。幼稚園児ができるのだから大人ができないはずがない。是非にプリントアウトして励行されることをお勧めする。ゆとり教育は、斉食儀(食前観、食後感)から始めたらどうだろう。

 弥生三月。ひな祭りも終わって今日は啓蟄そろそろ冬眠から覚めようと蠢き始めている。例年だとこの時期は大陸の高気圧が順繰りにやってきて三寒四温の安定した陽気になるのだが、今年は本州の南岸を低気圧が次から次へと北上してきて雨を降らせる。お天道様の巡りが安定するまで今少し冬眠しますzzz。

 


伊定連とJRC

2008-05-21 15:00:36 | チョウテン先生

 市内には定時制高校が四校ある。その内の一校が女子校だ。四校の定時制で、定時制連絡協議会(伊定連)を組織している。各学校から役員を何名か出す。伊定連の行事は日曜日行なわれることが多いので、関矢が役員になった。

 ぼくも生徒会長という立場上何回か役員会に出席した。まぁー、そのー、伊定連の役員会というのは名目でありまして、役員会やると授業さぼることができるのであります。おまけに役員会は女子校で開く。しかし、何回行ってもいるはずの全日制の女子生徒に会えるチャンスが巡って来ない。女子校側が完全にブロックしている。駄目だこりゃ。後は関矢に全部押しつけた。

 伊定連の行事で毎年ハイキングがある。女子校の生徒とフォークダンスをする。堂々と手を握ることができる。間違えて肩に手を掛けることもできるかもしれない。行きたくって仕方がないのだが、いかんせん日曜日は休めない。関矢達が行ってきたことを、くそっ!、と思いながら聞いていた。

 JRCは、ジュニア レッド クロスの略で、日本語では青少年赤十字という。JRCの活動は学校の正式行事ではない。チョウテン先生が、定時制に専任になる以前から全日制の生徒達相手にJRCの活動を行なって来た。そして、チョウテン先生は、ぼくらが定時制三年生の時に専任教師とやってこられた。

 当然、授業(英語)でもJRCの話をされた。クラスの中にもJRCの活動をする人が出た。ぼくは日曜日に何かあるものには出られないので、JRCには加わらなかった。ある時、関矢がJRCに入れ、と言って来た。できないと言って断ったら、名前だけでもいいから入れと言う。名前だけでいいんだな、活動は何もしないぞと言ったら。それでいいから入れと言うので、名前だけJRCに入った。

 伊定連とJRC、何の脈絡もないが、やっている人間が大体同じ。JRCの場合は、全日制の生徒と交流がある。定時制の悪ガキどもにとっては、JRCの活動よりも女子生徒の方が目当て。チョウテン先生目が光らせているのもあるが、タバコを吸うは、酒飲むわの悪ガキから見ると、全日制の女子生徒は清純過ぎて手が出せない。活動しないでよかった(バカタレ)。

 そして卒業式を迎えた。卒業式の後に、全日制のJRCの後輩がお別れの会を開いてくれるので、おまえも出ろと突然言われた。名前だけJRCに入っているが活動はまったくしていない。まして、定時制と全日制の交流はまったくない。初対面の2年生以下に会った瞬間、ぼくの悪ガキぶりが言葉で出てしまった。昼飯くらいは用意してあるんだろうな。言った後にしまったと思っても後の祭りだ。あの一言だけは、今でも悔いが残っている。

 全日制の生徒は真面目だ。いなすことを知らない。まともに受け取ってパン買いに走っちゃった。追いかけて行って、おい、冗談だよ、と思っても先に走ってしまったから追いつけない。卒業記念大宴会を後に控えていたが、全日制の生徒が買ってきてくれたパンを食べた。酒飲む前にパン食べると酒が不味くなる。あのパンの味は今でも覚えている。

 名前だけJRCに入っていたのだが、卒業の時にチョウテン先生が、照干一隅 此則国寶 の色紙を書いてくださった。この色紙は今でも大事に飾ってある。山谷のドヤ街で暮らす人達に衣料品を送ろうという運動をしていると聞き、店で背広の下取りセールで下取りしたやつでもいいかと聞いたら、それでいいというので、下取りした背広をダットサンに積んで学校へ持って行ったのが、ぼくのJRC活動として認められたようだ。

 はるか後年、散歩コースの途中にある市の施設の入り口で、ぴかぴかの高校生が立っていた。何をやっているんだい?。どうもJRCの活動に似ている。とって返して、お中元にもらった乾麺と葬式返しを持って行った。これはお中元で、こっちは葬式返しにもらったものだが、箱から出してバラバラにしてしまえば分からない。両方とも食い物だから瀬戸物より足がはやい。一つ幾らで売れるかは考えてやんなさい。

 ところでお前さんはJRCに入っているか?。いいえ。そうか。どこの高校だ。聞けばチョウテン先生の出身校だった。へー前高は今はこうか?。茶髪をなでた。かたわらの女子高生に、あなたはどこの高校?。前橋東高校です。大胡か?。はい。あなたはJRCに入っているか?。はい。うんえらい。茶髪の生徒にJRCはジュニア レッド クロスの略だけど、何だか分かるかい?。えーと、えーと、クロス、クロス、テーブルクロス。

 糸がクロスするのも人がクロスするのも、クロスするのに変わりは無いが、JRCは、青少年赤十字のことだよ。ねぇ女子高生さん。はい。明るい返事が返ってきた。日本の将来は暗くない。がんばなさい。余計なお節介おじさんやっちゃった。

 話が横へそれた元に戻す。記録によれば伊定連の活動は、ハイキング、弁論大会、体育大会フォークダンス、生活体験・芸能発表会、野球大会、スケート・スキー教室等が毎年行なわれた。

 ぼくは日曜日が休めない。平日行なわれる弁論大会と生活体験・芸能発表会以外は出たことがない。日曜日に行なわれる校内行事と伊定連の行事には出たかった。女子高生と手を握ってフォークダンスしたかった(動機が不純だバカタレ)。

 


ネルソン提督

2008-05-15 08:23:03 | チョウテン先生

 チョウテン先生の授業は多岐に渡る。英語の授業なんだが、定時制のお前たちに英語を教えてもどうせ分からないだろうから英語は教えない。と言われて英語以外のことを教えてもらった。

 将来右か左か選択しなければならない時がきたら迷うことなく難しい方を選べ。

 十七歳、十八歳の少年にとってこういう選択はまず無かった。しかし、この言葉は心の奥底に残り、その後の人生でこの言葉を判断基準として生きてきたつもりだったが、43歳の時、簡単な方を選んで精神病院に入院してしまった。あの時難しいを選べばよかったと思っても後の祭りだ。

 本を読む場合は原典にあたれ。

 本を読む場合は原典にあたれと教わったが、肝心の英語の授業をしてないのにどうやって原典にあたれというのだろうと不思議に思った。しかし教わった言葉だけは記憶に残っている。最近お経を上げることがある、日本語訳してある。お釈迦様の時代は、筆で書いたものを後世に残せない時代だった。どうやってお釈迦様の教えを後世に伝えたか?。

 日本の古い時代には語り部というのがいた。お釈迦様の教えも語り部によって後世に伝えられたと思う。どうやって語り伝えたか?。歌だ。歌として語り伝えてきたと思う。その歌として語り伝えてきたものが板や竹板に書かれ紙の発明によって経巻として後世に伝えられた。そして今から1300年ほど前、玄奘三蔵によってインドから唐へ経巻がもたされた。

 玄奘三蔵は、インドから持ち帰った経巻の漢訳作業をした。お経の原典はサンスクスリット語で書かれている。それが玄奘三蔵によって漢訳され、それを日本で和訳して、今ぼくが門前の小僧習わぬ経を上げている。

 語り部の段階で多少の誤謬が入り、それを文書に整理する段階で多少の誤謬が入り、それを漢訳する段階で多少の誤謬が入り、それを和訳する段階で多少の誤謬が入りという恐れがなきにしも非ずだ。こういう場合は原典にあたるのがよい。原典にあたれと言われてもサンスクリット語なんか知らないからできないよ。

 チョウテン先生が、原典にあたれと言われた意味は、こういうところにも原因があるのではないかと思う。もう一つは、歎異抄などの日本の書物が英訳されて刊行された時、原典と訳本のあいだにどれだけの違いがあるかを見るのも勉強だということを教えてくれたものだと思う。

 そして、今気が付いたことであるが、キリスト教の神様は唯一絶対神であり、日本の八百万の神様とは異質のものである。明治維新によって西洋の文物を取り入れて日本語に翻訳した時に、キリスト教の唯一絶対神オールマイティゴッドを日本古来からある八百万の神様と同じ、神、という文字で訳してしまった、と教わった。

 この誤訳が国家神道につながり廃仏棄釈を引き起こし、やがて途方もない戦争に突き進んでしまったという裾の長い話だったとは今まで気が付かなかった。ぼくらの世代では、明治維新までの歴史は教わるが、それ以降の歴史は教科書に書いてあっても教わっていない。チョウテン先生は、当時の学校現場が踏み込んではいけない部分を別の角度から教えてくださったものと思う。

 話が横にそれた元に戻す。定時制四年の期末試験が近づいた頃、トラファルガー沖海戦の話をしてくれた。イギリスの連合艦隊と、フランス・スペインの連合艦隊が、トラファルガー沖で海戦しイギリスの連合艦隊が勝った。その時のイギリスの連合艦隊を率いていたネルソン提督は戦死した。おっ!。このネルソン提督を次の試験の問題として出すぞ。一応英語の授業なんだから英語で書けよ!。間違ってカタカタで書くんじゃないぞ!、と言って黒板にNELSONと書いてくれた。みんな冗談だろうと思って笑いながらもノートに書いた。

 そして英語の期末試験を迎え、答案用紙を見たら冗談が本当だった。一問目は楽勝だ。学校のタテマエとして60点とらないと卒業できないことになっている。チョウテン先生は、1文字10点でNELSONで60点という配分で1問出した。2問目は、おもいっきし難しい英語の問題だったので歯が立たない。教える先生も悪ガキどもを卒業させてやらなければいけないので大変だったと思う。ともあれ、我が愛すべきクラスの悪ガキどもはで全員卒業できた。おかげで、ぼくはいまだに英語がまったく駄目だ。

 ぼくは、店が閉鎖した後年テクニカルライターに転向した。コンピュータの勉強をするにはカタカナ語の理解が必要だ。一万五千円出して買ったMS-DOSのマニュアルは、読んでも頭が痛くなるだけでさっぱり分からなかった。あの時はチョウテン先生が英語を教えてくれていればよかったものをと恨んだものだ。英語ではなく日本語で書いてあったのだが半分くらい分からなかった。それでも何回か読んで実際に動かして見てなんとか理解できるようになった。

 ぼくは、その後テクニカルライターからシステムエンジニヤに転向した。英語が全然駄目でもシステムエンジニヤはやってこれた。テクニカルライターの時、プログラム書くのに必要な単語を五十個か百個ノートに書いて無理矢理覚えた。そのノートが今手元にある。テクニカルライターとかシステムエンジニヤというと何やら難しそうに思うかも知れないが、英語が全然駄目でも必要な単語をノートに書いて無理矢理覚えればできるものだ。

 日本IBMのシステムズエンジニヤに、ぼくはコンピュータは素人ですからと言ったことがある。そしたら、コンピュータが素人でもいいから仕事の内容を理解することが大事です。よたろうさんは仕事の内容をよく理解していると言われたことがある。それ以来ぼくは、場合に応じてシステムエンジニヤと称している。36歳からシステムコンサルタントという名刺を使っているけどね。

 それにしても今のパソコンのヘルプはひどすぎる。ヘルプを読むためのヘルプが必要だ。英語で書かれたものを翻訳ソフトにかけてそのまんま出してきている。一応日本語で書いてあるが読んでもさっぱり分からない。マイクロソフトの技術者は悪ノリしすぎた。世の中のアプリケーションが揃って右ならえでウインドウズ対応してしまったから仕方がないが、ぼくには、アプリケーションが多いという以外にウインドウズというOSを使う利点が見いだせない。

 話がまた横にそれた元に戻す。店の定休日は月曜日、英語の授業も月曜日にある。チョウテン先生の授業は面白いし為になる。しかし、紅顔の美少年も三・四年生になると、立派な悪ガキになって授業をさぼることを覚えた。手元にある四年生の時の通知簿を見ると(この原稿書いた時は通知簿があったのだがどこかに紛れてしまって今は手元に無い)、英語だけが赤文字で4と書いてある。試験の成績は、NELSONでそれなりによかったのだが、出席時間が足りなかった。さぼらないで真面目に授業受けていれば、今頃よたろうにならないですんだのになー。

 


日本海海戦

2008-05-14 10:40:15 | チョウテン先生

 チョウテン先生が、日本海海戦の話をしてくれたことがある。一応英語の授業だが英語は教えない。日本はロシアと戦争したことがある。クラスの悪ガキどもは、日本が戦争に敗れたことは知っているが、その前のことは知らない。えー!。

 ロシアにはウラジオストックに艦隊がある。もう一つ本国に艦隊がある。本国の方の艦隊がバルチック艦隊だ。ロシアは二つ艦隊を持っている。それに対して日本はワンセットしか艦隊を持っていない。緒戦でウラジオ艦隊と戦った。勝つには勝ったがあまりうまくいかず旅順にもぐられてしまった。

 敵の艦隊にもぐりこまれていると、日本と大陸との制海権が確立できない。なんとかこいつをやっつけなければならない。そこで日本海軍がやったのが古船を港の入り口に沈めて敵の艦隊が出られないようにする閉塞作戦だ。広瀬少佐がその閉塞船の一艘を指揮した。広瀬少佐がロシアから帰国する際にシベリア大陸を馬に乗って横断して来た話はすで聞いていたから、みんな知っている。チョウテン先生の授業は、英語より面白いからクラスの悪ガキどもは真剣に聞いている。

 広瀬少佐率いる閉塞船が旅順港の入り口に入った時、魚雷が閉塞船に命中したため乗員はボートに脱出した。広瀬少佐が各現場を見届け、一番最後にボートに乗った。番号をとなえると一人いない。ふたたび閉塞船に戻って探したがいない。三度目はもう浸水してきて閉塞船が沈没するというところまで探したがいない。諦めてボートに乗り閉塞船から離れたところで広瀬少佐が自らスイッチを入れ、閉塞船を爆沈させた。

 敵は黙って見ている訳ではない。サーチライトを照らして陸上から砲撃してくる。駆逐艦や哨戒艇が出て迎え撃っている。敵の砲火で燃えたぎり沸いている海の中を漕いで脱出していく。おれの顔を見て漕ぐんだ、と言った広瀬少佐の姿が突然消えた。敵の砲火の直撃を受けて身体ごと海に持っていかれた。クラスの悪ガキどもはシーンとした。

 旅順の閉塞作戦はそれ以降行なわれなくなった。陸軍に要請して陸側から旅順港を陥落してもらった。203高地に観測所を置くと旅順の港内がよく見える。観測所から弾着位置を確認してもらって旅順港内の艦隊を全滅させた。クラスの悪ガキどもはほっとした。

 海軍は、やがてやって来るバルチック艦隊に備えるために、船の手入れをしてなければならない。ウラジオ艦隊との海戦、旅順での戦いで砲弾の命中率が低いことが分かった。砲弾の命中率を上げる猛訓練が始まった。海の上は揺れる。波の高い日もあれば低い日もある。訓練による訓練で、砲手が個々に判断するのではなく、一艦ごとに距離を測って一艦同じ照準で砲撃するやり方になった。クラスの悪ガキどもは、血湧き肉躍る思いで聞いている。

 バルチック艦隊は、南アフリカの喜望峰を経由してくる。いいかぁ!、一艘や二艘でやってくるんじゃないぞ。何十、何百艘もの艦船が隊を組んでやってくるんだ。大きい船もいれば小さい船もいる。これだけの船をヨーロッパから回航してくる。回航するだけでも一大事業だぞ。海無し県の悪ガキどもは、船見たことないから。ふーん。

 バルチック艦隊が対馬海峡を通るか、他のコースを通るかで作戦本部は悩みに悩んだ。しかし、寡黙な東郷元帥が、対馬海峡を通ると断言した。そしてバルチック艦隊は対馬海峡に現れた。

 敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、之を撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し。日本の連合艦隊は、大本営に打電し鎮海湾から出撃した。

 いいかぁ!波高しだぞ!。猛烈な砲撃訓練やっていたんだからな!。波が高くても天気晴朗だから当たるぞ!。この電文にはそういう意味が込められているんだからな。クラスの悪ガキどもは、血湧き肉躍る思いが高まっている。しかし騒がない。

 バルチック艦隊は対馬海峡を通ってくる。これに対する日本の連合艦隊は、北の鎮海湾から出撃した。皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ。Z旗掲げて海戦海域に入る。

 彼我ギリギリの距離まで近づいた時、艦橋にいた東郷平八郎の右手が上がり左に回転した。すれ違ったらUターンして引き返すのが大変だ。日本の連合艦隊は。バルチック艦隊の鼻先を押さえて左に進路とった。有名なT字戦法の解説が黒板を使って行なわれた。

 艦砲は、艦の側面にある。回り込む時は危険だが、回り込んだら片側全部の艦砲を使って、バルチック艦隊の先頭をたたく。猛訓練の成果が上がって日本の連合艦隊の砲弾は次々と当たる。やがて日没、大型船は攻撃を終え、水雷艇による夜戦攻撃に移った。

 そして翌日、前日の攻撃でバルチック艦隊の主力は撃滅した。日本海に一艘でも敵の船がいると制海権が確立できない。バルチック艦隊を全滅させなければならない。バルチック艦隊の主力艦の後方に老朽艦で編成された艦隊が追ってきていた。

 この老朽艦隊は戦わずして白旗を揚げた。しかし、東郷平八郎は、撃ち方やめを指示しない。長官!。敵は白旗を揚げています。撃ち方やめを指示してください、と言われた東郷平八郎は、本当に白旗を揚げるのであれば停船しなければならない、と答えた。この老朽艦隊は、白旗上げたまま逃げていた。東郷平八郎は国際法の通り撃ち方やめを指示しなかった。やがて、敵方が気づき停船した。

 ロシアはウラジオ艦隊とバルチック艦隊の二つの艦隊を持っていたが、それがすべて海の上からいなくなった。艦隊を作るには一艘づつ造っていかなければならない。船を造るには途方もない時間と金がかかる。艦を造ってもそれを操る人間がいなければならない。まして艦隊を編成して一つ意志の元で動くようになるには途方もない時間と訓練が必要だ。

 だから、今だにソ連は、まともな艦隊を持っていない。ロシアが日本海海戦に負けたということはそういうことだ。戦争に負けたことしか知らなかった、クラスの悪ガキどもは、日本がとてつもない戦争に勝ったことを知った。そして、勇気づけられた。

 後年、司馬遼太郎の、坂の上の雲、を読んだら、チョウテン先生が授業で話したことがよく出てきた。よく出てくる訳だ。坂の上の雲は、海軍兵学校を初め明治の陸海軍の様子を知らなければ書けなかい本だ。

 チョウテン先生は、最初の授業の時、自分の自己紹介をしたはずだ。しかし、ぼくは、山本五十六が先輩だと言われて、頭がぽかーんとなってしまった。広島の原爆投下のキノコ雲を遠くで見たと聞いた時、何でそんなところにいたんだろうと不思議だった。

 チョウテン先生が、海軍兵学校だったことを知ったのは卒業してずっと後になってからだった。

 


一応英語の授業

2008-05-05 12:30:40 | チョウテン先生

 チョウテン先生は英語の先生だ。しかし、英語は教えない。教えても定時性の悪ガキどもには理解不能だからだ。英語の代わりに世の中でためになることを一杯教えてもらった。

 西洋の文明は石でできた遺物が多く残されている。それに対して日本は、世界最古の木造建築物がある。奈良の法隆寺がそうだ。石でできたものは、何百年経っても変化しないが木でできたものはそうはいかない。法隆寺が今に伝えられているということは、その時代時代において手を入れて戦火をくぐりぬけてこなければ今に伝えられていない。木造建築物を一千年以上もの後世に残すということはものすごいことなのだぞ。クラスの悪ガキどもはその通りと思った。

 座禅というのも教わった。足を組んで座るだけが座禅ではない。庭掃除や草むしりをしていても座禅ができるという。庭掃除や草むしりが座禅とどう結びつくのか理解不能であったが、最近草むしりをよくする。なんとなくチョウテン先生が言っていたことが分かるような気がする。

 広瀬武雄少佐がロシアに赴任中、現地の貴族の娘に恋慕われた。熱烈に慕われたが肉体関係を持つことはなかった。そして、広瀬中佐は、冬のシベリア大陸を馬に乗って横断して帰国した。聞いているぼくらは、あんな広くて寒いところを馬に乗って帰ってきたのか、物凄いことをやったな思った。

 武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いについても面白おかしく教えてもらった。戦とボクシングは違う。戦は十回戦って六回勝てば勝利というものではない。戦が終わった後にどちらが領土を持っていたかだ。武田信玄は川中島の戦いの後でも領土を確保していた。

 なるほどな。ぼくはその頃店でボクシングのグローブをつけて引っ張たいていた。10ラウンドKO負けということもあるんだから、戦は何回戦って何回勝ったじゃないないと思った。

 ロシアは、日ソ不可侵条約があるにも関わらず、終戦間際に満州に攻め込んで来た。いわば火事場泥棒のようなものだ。あんな国信用してはならないとまでは言わなかったが、聞いていたぼくらは、共産主義や社会主義の国は信用してはならないと思った。事実、北方領土は今だに返還されていない。戦はボクシングとは違う。

 乃木希典には、勝典、保典の二人の子供がいた。二人とも旅順の戦いで戦死した。乃木希典は、自身が司令長官を勤める旅順の戦いで二人の子供の戦死と向き合って司令長官の職を務めた。

 どういう訳かチョウテン先生の話は、仏教関係と軍隊の話が多かった。お寺の住職をやっているから仏教関係の話が多いのは分かる。何ゆえに軍隊の話が多いのか卒業した後まで謎だった。

 明治天皇の大葬の日の午後七時過ぎ、乃木希典は、階下より二階に上がり居間に鍵をかけた。妻静子が低く抑えた必死の声でドアを叩いたので、ドアを開けたら静子は白装束に白鞘の短刀を挟んで立っていた。ならんぞ、といったんはとがめたが、お供いたしとうございます、と言われ部屋の中に入れた。

 乃木希典の妻静子は、夫が殉死することを察知して自分も一緒に死ぬことを覚悟していたのである。静子を部屋の中に入れた乃木希典は、葡萄酒を持ってくるように静子に言った。静子は階下に降りグラスと葡萄酒をお盆に載せ二階に持ってあがった。

 この時、階下には人がいたが乃木希典と静子の様子に疑いを持たなかった。静子が持ってきた葡萄酒を飲むと、階下の時計が鳴って午後八時を告げ、遠くで礼砲が鳴り響いた。先に静子が自害した。自害の心得がない静子のために乃木希典が最後の一突きを入れて着物を乱れを直してやった。

 乃木希典は、襦袢の前を開いて作法どおり横一文字、縦横に一文字に刀をいれ、再び襦袢でおおいボタンをかけて刀を足にかけて頚動脈を切って殉死した。聞いていたぼくらは、唖然とした。切腹というのは江戸時代の話で、明治時代に切腹があったとは知らなかった。それも明治天皇と一緒に死ぬということが理解の範疇を超えていた。ただすごいことをした人がいるんだとしか思わなかった。

 一応英語の授業なんだけど英語よりもっとためになった。戦争が終わって二十年。高度経済成長のいけいけどんどんが始まったとはいえ、その先兵として働いているぼくらは、日本がアメリカに負けたことしか知らない。どうしても精神的に萎縮していた。チョウテン先生は、そんなぼくらに萎縮することはないぞと、奮い立たせてくれたのだと思う。定時制のぼくらは、チョウテン先生の授業を血沸き肉躍る思いで聞いていた。

 

 


後からできたものを基準してはならん

2008-05-04 15:54:22 | チョウテン先生

 ある時、クラスの誰かがチョウテン先生のお寺は、波志江の神社のそばですか?、と聞いた時、チョウテン先生の目がキラリと光った。

 馬鹿野郎!。神社の土地は元々おれんちの寺のものだったんだ。神社ができるというので寺の土地を分けてやったんだ。おれんちの寺の方が前からあったのだ。後からできた神社を基準にするんじゃない。

 クラスの悪ガキどもは、分かればいいんだからどっちだっていいんじゃん、という顔をしていた。それを見たチョウテン先生が言った。

 芝増上寺のそばに東京タワーがあるのであって、東京タワーのそばに芝増上寺があるのではない。目立つからといって後からできたものを基準にものごとを考えてはならん。

 この言葉は、今でも脳裏に焼き付いており、その後のものの考え方に大いに役立っている。ソニーが時効だから払わないと言えばそれで済む問題を裁判を起こしてきた時、この芝増上寺の教えに基づいて裁判所に次のように準備書面を書いて出した。

 1.人の営みは法律ができる以前からあり今に続いている。人が社会生活をしていく上で守るべき信義や慣習は、その人の営みの中で成立した。法律は、信義や慣習を元に時の為政者が後から作ったものである。たとえ法律に反しなくても信義や慣習に反することを繰り返すと社会生活が困難になる。

 2.被告は、原告元担当者の依頼に基づき、いわば火事場の助っ人をしたものである。火事と葬式は村八分の外という慣習は、困ったときはお互い様で、本来謝礼を期待して行うものではない。被告も謝礼を期待してやった訳ではない。しかし、困った時はお互い様で被告が人質になりに行って対応した善意を逆用した原告元担当者の行為は、人として許されざるものであり、直接の取引関係がどうとか、法律がどうとかいう以前の問題である。

 裁判所は法律によって判断する。ソニーが起こしてきた裁判は、後からできた法律で裁かれたので負けた。しかし、ソニーに時効を援用させた。これは裁判所の公の記録として残っている。判決には訴訟費用は被告の負担とする。と書いてあるが、判決から二年以上経過した今もソニーは訴訟費用を請求してこない。

 ソニーは、いわゆるソニータイマーと言われる品質の悪いパソコンを売って、その動作不良をソフトウエアのせいだとして、ぼくをただ働きさせた。CPUが加熱して動作が不安定になったら、なんでもアリだ。ただ働きした分払ってくれとやったら、ソニーは自ら裁判を起こして時効を援用して裁判に勝った。時効だから払わないと言えば簡単に済んだのに、税金の無駄遣いも甚だしい。

 ソニーてめーこの野郎という気持ちを落ち着かせるのに二年かかった。今は、そういう気持ちはない。多少あるかも知れないが、憐憫の情でソニーを見ている。これが慈しみに変わるにはまだ時間が必要だ。

ソニー、サムスンが液晶生産増強
 ソニーと韓国・サムスン電子は25日、韓国のパネル製造合弁会社「S-LCD」が、液晶パネルの生産ラインを増強すると発表した。投資額は約2000億円。世界的な液晶テレビ需要拡大に対応する。09年6月までの生産開始を目指し、第8世代(縦2.5m、横2.2m)のガラス基板を現在の月5万枚から11万枚に増強する。(2008年4月26日毎日新聞朝刊より)

 今年2月26日に、ソニーは、液晶の調達先をシャープにシフトしてきたと報じられたが、当面の液晶の調達先をサムスンとシャープの二股で行なうようだ。第8世代という古いタイプの液晶がどこまで使われる続けるのか疑問だが、当面の調達に支障がでないようにしたものだと思う。約2000億の投資額の内ソニー負担分が不明だがドブに捨てる金にならなければと憂慮している。

 話が横へそれた。元へ戻す。チョウテン先生から、神仏混淆というのを教わった。日本には神社とお寺両方をやっているところがある。えー。先生そりゃ違うべ、神社とお寺は別だべ。とクラスの悪ガキどもは思ったが、四国の金比羅様がそうだと教えてくれた。金比羅様は、元々お釈迦様をまつるお寺で、その守護神として金比羅様をまつっていた。

 やがて神仏混淆によって金毘羅様に神名が与えられ金比羅大権現になって、一つの所でお寺と神社と両方やっていた。ところが明治の初期に国家神道を成立させるべく起きた廃仏棄釈に遭遇し、住職が一計を施し、祭神を仏教と関係ないものに変更し、廃仏棄釈の難から逃れた。

 後からできたものを基準にものごとを考えてはならん。まさにそのものズバリの話だった。

 店では、仏壇を売っている。最初見た時はこれは何だ?。と思った。普通仏壇と言えば座ってお供えをするし、お経をあげるものなんだが、上州の仏壇は、下が茶箪笥みたいに引き戸がついていて、右横は引き出しになっている。

 いくら貧しい家に育ったからと言っても仏壇の形くらいは分かる。上州の仏壇は、越後の仏壇と形が違う。上州の仏壇は、机の高さに引き板がついていて、そこにお供え物をする。立ってお供えができるから座る手間が省ける。しかし、それでは仏様に対してちょっとどうかと思うとチョウテン先生に聞いたことがある。

 上州無仏の地といって上州は昔から仏壇に金をかけない。そのかわりお墓に金をかけると言われた。お寺の住職であるチョウテン先生は、ぼくに聞かれるまでもなくその実態をよく知っていた。しかし、何故にこうなのかを言わないで、上州無仏の地だと言われた。

 今考えると強大な勢力を誇った本願寺の内紛につけ込んだ徳川家康が本願寺を東本願寺と西本願寺に分割し、互いを競い合わせるようにし向けてその財政勢力を細めさせていった事実がある。

 日光東照宮を造った職人さん達は、東照宮造営の後、各地に散ってその腕を振るった。越後では金仏壇という形でその技術が後世に伝えられた。

 関八州は天領や譜代大名で固めている。上州は、養蚕が盛んな地。お蚕様を家の中で飼う。仏壇を置く面積も少なくしなければならない。そして、上州には石切場がある。上州無仏の地と言えども、お墓に金をかけるという形で徳川家康の仏教の財政勢力を弱めるという政策は残ったものと思われる。

 南の国に靴を売りに行ったセールスマンが、一人はここは靴を履いている人はいないからいても無駄だと言って帰った。もう一人は誰も靴を履いている人がいないから靴が売れるのでどんどん送れ、と本社に連絡したという有名な話がある。

 ぼくは、学校から帰るとチョウテン先生から聞いた上州無仏の地の言葉を店の支配人に話した。支配人は、越後の金仏壇の木地師の元職人。越後の金仏壇を含めて、本来の座ってお経を上げる仏壇をこの後どんどん売っていった。ぼくは、それをどんどん配達して廻った。

 上州の仏壇は、養蚕と徳川家康の政策とが結びついて独特な形をしている。時代は高度経済成長いけいけどん。稼げば稼げる時代になった。納屋を広げたり養蚕場を別に作るようになって、家の中で養蚕しなくなれば、本来の形の仏壇が売れるようになる。事実その通りになった。

 


学校に行く目的は三つある

2008-05-03 13:28:43 | チョウテン先生

 定時制三年の時、学校の名前が「伊高」から「伊商」なった。同時に今まで全日制と定時制の兼務だった先生方が入れ替わって、定時制専任体制になった。それに伴って新任の先生方が赴任してこられた。今から考えるとあの時専任で赴任して来られた先生方は、教師としての資質には問題はないが、全日制においておくにはクセが強すぎる、という先生方だったように思う。

 二年生の冬に担任だった先生が移動になると聞いて、「先生行っちゃ嫌だ!」と頼みに行ったのだが、我がクラスの担任は、吉井先生に代わった。吉井先生が、我が愛すべきクラスの悪ガキどもを引率して楽しい関西への修学旅行に行くことになるのであるが、着任の時はそういう楽しい事態になることを想像すらしていなかった。悪ガキどももまた、そういう楽しみが待っているということを知らなかった。

 英語の授業は、チョウテン先生に代わった。目つきが鋭く、精悍な身体の先生が、最初の授業の時に、それぞれ自己紹介しろというので、出席簿順に、出身校、名前、勤務先等を簡潔に自己紹介した。やがて、ぼくの番が来た。ぼくは地元の出身ではないので、新潟県長岡市立宮内中学校出身、よたろう、と自己紹介した。

 ほう、お前は長岡の出身か?。はい。長岡からはおれの先輩が出ている。はぁ?。山本五十六というのだが知っているか?。あぁはい。長岡の生まれだから山本五十六は知っているけど、そりゃとっくの昔に戦争中に死んだ人だよ。この先生何言い出すんだろうと思った。

 記憶にないが最初は英語の授業をしたのだと思う。しばらくして、定時制のお前らに英語教えてもどうせ分からないから英語は教えない、とチョウテン先生の方から教育方針を転換してきた。クラスの悪ガキどもは、内心その通りと思っているので誰も異をとなえない。それよりも、先生そんなことを言って大丈夫なんだろうかと逆に心配した。

 お寺の住職であり、大学の講師であり、定時制の専任教師であるチョウテン先生は、英語の授業時間を使って、悪ガキどもに英語よりももっと大事なことを教えようと考えたのだ。文部省や教育委員会という範疇を越えて、人の教育とは何か、ただその一点にしぼった、その後の授業は俄然面白くなっていった。

 チョウテン先生の授業は多岐にわたる。おれは夏目漱石から直に教わった先生から教わった。漱石からみれば孫弟子だ。おまえたちは、ひ孫になる。しかし、漱石もひ孫になるとひでぇなー。へーおれたちは漱石のひ孫かい?、そんなんおら知らんぞ、勝手にひ孫にすんなー。回りを見ながらお互いにひでぇなと思っている。ひでぇやつがひでぇと思っているんだからひでぇんだ。

 日本海軍の潜水艦が沈没事故を起こしたことがある。その時の艦長は、何時何分に水位がどこまで来て艦の状態がどうなっているか克明にメモしながら死んでいった。自分が死んでもこのメモが後の艦の設計に役にたつと考えたからだ。当然そのメモは、その後の設計に大いに役立った。水位が上がってきてもう死が直前にせまっている、しかし最後まで諦めることなくメモを残す。文字通り死ぬまで諦めるなという授業は迫力があった。

 国宝とは何ものぞ。宝とは道心なり。道心の中に衣食あり。衣食の中に道心なし。径寸十枚これ国宝に非ず。一隅を照らすこれ即ち国宝なり。

 天台宗の伝教大師最澄上人の教えや、親鸞聖人の歎異抄などを噛み砕いて面白おかしく話しながら、悪ガキどもに人としてどうあるべきか、どう考えるべきかを教えてくれた。歎異抄を読めと言われ買って読んだが、度重なる引っ越しで処分してしまった。手元には倉田百三の、出家とその弟子、しか残っていない。

 生者必滅。会者定離。生ある者は必ず滅する。この世で行き会った者は必ず離ればなれになるのが定めだ。この言葉を教えてもらっていたので、後年、母の死に際し取り乱すようなことはなかった。

 明治政府が取った廃仏棄釈政策または廃仏棄釈運動で、日本の仏教界は大打撃を受けた。仏教を廃して神道を基本に据えるという政策によって日本は間違った方向に行ってしまった。話を聞いているぼくらは戦後の生まれだ。学校の歴史教育でも教科書の最後の方に書かれている部分は教わっていない。

 チョウテン先生は、お寺の住職だから仏教界が大打撃を受けたことを嘆いているのだと思ったが、後年司馬遼太郎の本で廃仏棄釈が文化大革命ともいうべき一大事件で、明治史における一大汚点で、その後の日本の思想に一大変革を与えてしまい、とうとう勝てる見込みの無い戦争をやってしまったことに気付いた。

 チョウテン先生は、お寺の住職という立場を嘆いて廃仏棄釈を言ったのでなかったということを最近になって改めて気付かされた。

 日本には神様が一杯いる。八百万の神様だ。その他に仏様もいる。仏教では人は死ねば仏様になれる。キリスト教では死んでも仏様になることができない。キリスト教は、唯一の絶対の神様を信仰する。唯一絶対だぞ。神様は一人しかいないんだぞ。日本のように八百万の神様がいるんじゃないぞ。

 そのキリスト教の神様を日本語に訳す時に八百万の神様と同じ、神、という文字に訳したしまった。八百万の神様と唯一絶対神は、異質のものだ。それを同じ文字で訳して表現してしまった。これで明治維新後の思想に混乱が生じてしまった。

 定時制の生徒に思想などという面倒な言葉を言われても理解できない。しかし、チョウテン先生は、そういう難しい言葉を使わないで、歴史を踏まえて今分からなくても卒業した後何十年にも渡って生き続ける考え方の基本を、面白おかしく教えてくれた。

学校に行く目的は三つある。
 1.勉強すること。
 2.良い友達を作ること。
 3.良い先生に巡り会うこと。

 伊商の定時制では眠い目をこすりながらよく勉強した。良い友達を一杯作ることが出来た。巡り会った先生はいずれも良い先生達だった。中でもチョウテン先生は飛び抜けて良い先生だった。