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必殺始末人 村山集治

必殺始末人 村山集治
ムラヤマ・コンピュータのブログ

スタンプ台

2008-10-26 14:11:59 | 月賦屋時代前期 仕事

 店には青と赤のスタンプ台がある。赤のスタンプ台は常時カウンターの上に載せてあって、その上に大きな領収印が載せてある。まぁいつでも領収印が押せるようになっている訳だ。

 この領収印は、お客様がお金をお持ちになった時に書く入金票に押したり、品物をお買い求め頂いた時に売上台帳書いて、一番上の明細書と共に初回金の頂いた時に領収印を押す。その他に荷物が届いた時の受領印としても使う。

 この領収印はゴム印なので、ゴム印用のスタンプ台を使わなければならないのだが、カウンターの上には大きな朱肉が置いてある。多少色が違うが似たようなもんだろうと、忙しい時はスタンプ台の代わりに朱肉で押すことがある。

 領収印とスタンプ台は、カウンターの左右から取れるようにカウンターの真ん中に置いてある。忙しくなるとスタンプ台より近場に置いてある朱肉でぽんすか押してしまう。朱肉だとまずいだろうとなんとなく分かるのだがついやってしまう。

 忙しいのが終わって、スタンプ台の上に領収印が戻ってくると、丸い朱肉の跡が残るので、朱肉使ったのが一発で分かる。これが後々大変なことを引き起こすのだがまだ学習してないからみんな分からない。

 カウンターの下には印箱が入っている。この印箱の中には値札付けようのゴム印が入っている。値札は青色のスタンプ台を使う。最初店に入った時は値札付けをよくやらされたから今でよく覚えている。

 商品が入荷すると、納品書を見ながら一定の掛け率を掛けて値札を作る。当然お客様に納品書を見られないように、こそこそする。どこの商店でもあると思うが、値札付け用のゴムのナンバーリングを使って値札を作る。

 値札は大中小の3種類くらい用意してあった。多分これはボス猿が東京に出た時に合羽橋当たりで買って来たものだと思う。上州で買いたくても売っている所が分からなかった。

 糸付きの値札を商品に取り付けるのがちょっと一工夫で、まず糸の結び目を商品のどこかにある輪に通し、輪から抜け出したところで値札の穴に糸の結び目を通し、そこから糸を広げて値札を一くぐりさせて一丁上がり。

 この値札の付け方はどこの商店でも同じだ。なぜなら値札がそのように出来ているからだ。タマゴが先かにわとりが先かではないが、値札の場合は、値札の方が先に出来ているから、どこの商店に行っても同じやり方になる。

 二階の事務所のボス猿の引き出しには、黒いスタンプ台が入っている。この黒いスタンプ台はボス猿専用で他の人は使えない。ボス猿は手形や小切手を振り出す時このスタンプ台を使う。

 ぼくが店に入った時は、チェックライターはまだ無かった。手形や小切手の金額欄は手書きで書いていた。そして期日に落とした手形を銀行が返してくれていた。ぼくはそれを銀行から貰って来てボス猿に渡した。

 返して貰っても燃やすしか用がないものだが、ぼくは返って来た手形の裏表を見てなるほどな、こういう風に裏書きをするのかと廻し手形の実際を勉強した。その後しばらくして、銀行から落とした手形が返ってこなくなった。

 チェックライターで金額を打刻しなければならなくなったのは、いつ頃だっただろうか。昭和40年代の初め頃だったと思う。ボス猿の机の後ろに横に置いてあるベビーダンスの上に新しいチェックライターが乗っかって、月に一度机の上に持って来て、ボス猿が手形と小切手の金額をガシャガシャ打刻していた。

 ぼくの引き出しの中にも青と赤のスタンプ台がある。このスタンプ台は、ぼく専用。他の人には使わせない。集金の人達もスタンプ台を持っているが、それもその人達専用。他の人が使うことはまずない。

 スタンプ台は、日々の仕事の中で使う。それがないと仕事が先に進まないということになるので、各人がそれぞれ専用のスタンプ台を持って仕事をしていた。唯一その人専用で無いスタンプ台が店で使うスタンプ台だ。

 店専用ではあるだが、使う人が入れ替わり立ち替わりする。朱肉でゴムの領収印をぼんすかやっていたら、その内に領収印がすり減って来た。おかしいなまだそんなにすり減る訳がないのだがな。よく見たらゴムが少しづつ溶けていた。

 まずい。支配人ゴムが溶けている。領収印を朱肉で使っちゃ駄目だ。うん溶けているな。と、確認してもまだ使える内は、新しいやつ頼んでこいや。と言わない。もう駄目だとなってからやっと新しいやつを頼んでこいやと言う、まぁ大体どこでもぎりぎりにならないとそう言わないもんだ。

 新しいやつをといってもゴムが全体溶けているから白い紙に押しても正確な見本にはならない。弱ったな。領収印を店の外に持ち出してはいけないのだが、暇な時間帯に急ぎハンコ屋さんに持って行き、これと同じ物を作ってくれと頼んだ。こりゃ朱肉使ったな。ゴム印に朱肉使うと溶けるから朱肉使っちゃ駄目だよ。と、ハンコ屋さんに言われた。プロは良く知っている。

 ハンコ屋さんに頼んだのはいいが、当時のゴム印は手彫りだから時間がかかる。ぎりぎりまで引っ張って頼んだから出来上がってくるまでの時間が長かったこと。陰が薄くなった領収印を使いながら、ハンコ屋さんから出来たよと電話が掛かって来た時にはほっとした。

 それ以来朱肉使って領収印を押すのは厳禁になった。それでもたまに赤いスタンプ台の上に朱肉の跡がある時があった。今ならシャチハタがあるからそういうことは無いと思うけど、昔は忙しいとついやっちゃったんだよね。かなかなかー。


デュプロの印刷機

2008-10-24 15:12:22 | 月賦屋時代前期 仕事

 デュプロの印刷機は、カーボン紙を下に敷いて台紙をボールペンで書く。そうすると台紙の裏側にカーボンが付着する。それをデュプロの印刷機にセットして、ハンドルをぐるぐると廻すと印刷ができる。印刷機にセットしてある溶液がカーボンを溶かして、それが新しい紙に付着して印刷ができるという仕組みになっている。

 ある日二階の事務所に見慣れぬ人がやって来た。太田から来た事務機屋さんでデュプロの印刷機の溶液とカーボン紙を扱っているという。溶液とカーボン紙はボス猿が東京へ行った時に買って来てくれるのだが、地元で買えるのなら便利だ。値段を聞いて見たらボス猿が買って来る値段より安い。

 いきなり来られても丁度無くなったところだという訳にもいかないので、今度無くなったら電話しますからと言って名刺を一枚もらった。確かにボス猿が買ってくる値段より安いし、何よりも無くなったらすぐに持って来て貰えるのがありがたい。

 ボス猿にこれこれしかじかと話して、次回からはそちらに注文するようにした。ぼくが店に入った時1台目の印刷機は既にあった。小型のやつだが使い方が荒っぽくて壊れてしまった。まぁ15歳で店に入ったぼくが、力加減考えないでぐるぐる廻したから仕方がないだろう。(おらしーらないと。)

 直して貰えばいいのだが、この際新しい物を買ってはと言われて、太田の事務機屋さんに持ってきて貰った。やはり地元に頼める所があるというのはいいものだ。またすぐに壊れてはいけないのでちょと大きめのやつを頼んだ。

 使い勝手はなかなかよろしい。手元に定時制の同級生名簿を印刷したものがある。この名簿の大きさが週刊誌を広げた大きさで、多分B4という大きさだと思う。たしかこの名簿より大きな原稿がセットできたように記憶しているからA3が印刷できたのではないかと思う。

 このデュプロの印刷機を何に使うかというと、まず集金票の印刷に使う。これを印刷して集金票を完成させなければ、月賦屋商売がプレゼントになってしまう。集金票の印刷、作成は、月賦屋では一番大切な仕事になる。

 ぼくは、前日の売上の整理を午前中に終わらせて午後から配達に出かける。ぼくが売上の整理をした後に集金票の台紙書きと印刷の仕事が待っているのだが、それは、事務の仕事を手伝いに来てくれているHGさんに頼んでいた。

 HGさんは、今でいうパートなんだが、ボス猿は、HGさんや炊事のはなちゃんにも社会保険と厚生年金を加入していた。企業負担が増えるのを嫌ってパートには社会保険と厚生年金に加入させないという企業が多いと言われているが、ボス猿こういうところはしっかりやっていた。

 まぁ、その代わり訳がよく分からないものを給料から天引きされる方は、何でこんなものを引かれなくてはならんのだと辛かったが、60年生きて年金貰えるようになったら、ボス猿はあの時よくやったと思う。

 さて、デュプロの印刷機だが、集金票は東京の月賦屋が使っていたものをそのまま借用してきたから紙の大きさをA版だB版というものに合わせてない。おそらく東京の月賦屋が長年かけて一番使い勝手のよい大きさを見いだしたものだと思う。

 店で売り出しをする時は、1000通以上のダイレクトメールを出す。ぼくが店に入った時は、すでにあり合わせの便箋に名簿を書いてそれを使ってダイレクトメールの宛名書きをしていた。大体始めはそういうもんなんだ。

 この名簿を何とかしたい常々思っていた。定時制の同級生SM君が独立して印刷所を始めた。SM君に何も印刷してなくていいから、26穴のバインダーに綴じられる紙を作ってくれと頼んだら、何も印刷してない穴だけが空いている紙が来た。

 ぼくはその白い紙に定規で罫線を引いて、一番上に町名、そこから下がお客様名と番地を書く用紙を作って、それを見本にして台紙を書いて、デュプロの印刷機をぐるぐる廻して名簿用紙を印刷した。

 台紙の裏に着いたカーボンを溶かして印刷するので、1枚の台紙で100枚くらいしか印刷できない。1回印刷すると後は、印刷した用紙の下にカーボン紙敷いて表側に印刷してあるものなぞっていけばOK。

 名簿の用紙を200~300枚くらい印刷して、今まであった名簿から転写するのだが、それは、HGさんに頼んでぼくは配達に出かけていた。こうして26穴のバインダーで綴じた名簿が出来た。

 名簿の用紙が出来ると、家具の出張販売用のダイレクトメールの名簿も、その用紙を持って周辺市町村の役場に行って住民票を見せてもらって書いた。てっぺんに町名を書いて、下にお客様名と番地をづらづら書いていくだけだから簡単でいい。

 名簿用紙にはあらかじめ番号を振っておいた。この番号を見るといちいち数えなくてもどこの町は何人かすぐに分かった。パソコン使えばなんでもないことだが、そういう便利な物が無い時代は26穴の無地の用紙とデュプロの印刷機が大活躍だった。

 売るのが先だ事務は後、と言って営業し始めたのはいいけど、売るための名簿の整備が出来たのは、ぼくが店に入ってから6年以上たってからだった。なかなか手が付けられなかったんだ。かなかなかなー。


東京へ配達に行く

2008-10-20 11:07:57 | 月賦屋時代前期 仕事

 店の周辺各地で家具の出張販売を月に2回のペースでやっている。これはもう店の定番イベントになっている。出張販売の最終日は、午後から家具屋さんが応援に来てくれて配達と撤収をする。

 バッタ屋さんは、早めに来て売るのを手伝ってくれる。ある時、店が休みの日に東京へ行くから一緒に来てくれと言われたことがある。車で東京へ行くのは珍しいから一緒について行った。

 助手席に座って先方に着いたら荷物を降ろすだけだから楽ちんだ。国道17号線をひたすら東京へ向かう。普段通ったことがない所を走っていくから廻りの景色が珍しい。道路の案内標識が整備されつつある時代だ。

 何が珍しいかと言えば、地図でしか見たことがない地名が次々と出て来て、実際にその地点を走っているのが珍しかった。東京に近づくにしたがって建物や色々なものが珍しかった。そうこうする内に目的地に着いた。

 荷物を降ろして帰りに姉の所へ寄ってくれと頼んだら快く寄ってくれた。バッタ屋さんの頭の中にコンパスがあるみたいで方向を間違わずにたどり着いた。すべての道はローマに通ずじゃないが、こんなに簡単に車で姉の所にこれるとはと思った。

 姉の所へ寄って軽い食事を作ってもらって、ぱくぱく食べた後、さて帰るか。バッタ屋さんの車に乗って上州に向かう。姉の所からどういう道順で帰るのか懸命に覚えた。

 店で婚礼セットを売った時、東京へ配達してくれと頼まれることがある。こういう場合は、支配人が、おい、今度の休みに東京まで配達に行って来い。と言う。うん。いいよ。地図と目標はここに書いてあるからな。はい。

 東京まで行って帰って来ると1日かかる。ダットサン2台あるから1台そちらに向けても1台残るのだが、人手が足りなくなる。だから東京への配達は休みの日の仕事になる。

 そして東京へ配達する日の前日の夜、荷物を積んでシートをかけて準備万端OK。普段は開店ギリギリまで寝ているのだが少し早起きして出発進行。コンビニがあればお握り買うのだが、まだコンビニは世の中に登場していない。

 国道17号線を一路東京へと向かう。途中から渡された地図と目標を頼りに向かって行く。方向的には姉の家の方向だ。なんとかたどり着いて荷物を降ろした。さて、帰りに姉の所に寄っていくか。

 ぼくの頭の中のコンパスの性能は余りよくない。地図を頼りにあっちへ行ったり、こっちへ行ったりしながら、やっとバッタ屋さんと帰った時に見た道路の曲がり角とおぼしき所へ出て、よしここを曲がればよかろう。

 まぁ、なんとか姉の所へたどりついた。一人で行ったのなら長居もできるのだが、2人で行っているからそんなに長居はできない。いや長居すると帰り着くのが遅くなるのでそんなには長居できない。

 姉の旦那が書いてくれていた、帰りの道順を頼りに帰ってきた。姉の所には、年に1回位車で行ったが、そのたびに姉の旦那に帰りの道順を書いて貰っていた。紙に書いて貰ったんだから取っておけばいいのだが、どうも無くしてしまう。

 東京からの帰り道、うまく国道17号線に出られればいいのだが、出られない場合もある。そういう場合は、赤城山を目当てに北上した。多少方向が違っていても大きな方向違いにはなるまい。往きは、お客様が待っているので必死になって行くが、帰りはたどり着けさえすればいいので気楽なもんだ。

 東京へは何回も配達に行った。毎週行っていれば地理が分かったのだろうが、1年に何回というペースだったので、とうとう地理が覚えられなかった。しかし、姉の所への地理だけはなんとか覚えた。

 婚礼セットの配達は、お客様からご祝儀が出る場合が多い。東京への配達は、支配人がご祝儀の根回しをしておいてくれて、それがぼくらの手間賃になった。ボス猿は一銭も手当を払わなくて済む。ケチ。かなかなかなー。


長岡の問屋さん

2008-10-18 16:24:56 | 月賦屋時代前期 仕事

 三国トンネルが開通し国道17号線が整備されると、車で関東と越後の行き来が楽になった。高速道路ができている今の時代から考えると、えー!。と思うかも知れないが、三国トンネルの開通と国道17号線の整備は、今の時代なら高速道路の開通くらいのインパクトがあった。

 関東から越後へ、越後から関東へと車で自由に移動する時代の始まりである。関東地方からは車に乗って海水浴に行く人達が増えた。まぁぼくもダットサンに乗って田舎に帰ったくらいだからね。

 コカコーラを売る店には、コカコーラが店の名前入りの看板をタダで作ってくれた。その代わり看板掲げるところと電気代は店持ちだ。結果としてコカコーラは日本各地に維持費のかからない看板を出すことができた。

 それと同じで方法で越後の酒屋さんが上州の飲み屋さんの看板を作って出し始めた頃、店に背広屋さんが営業で飛び込んで来た。聞くと長岡から来たという。支配人が品物を見せてもらったら東京の背広屋さんと遜色のない品物を持って来ていた。ライトバンに品物を積んで三国峠を越えて来たという。同じ長岡ということで早速取引が始まった。

 この問屋さん最初の1年間くらいは社長さんが自らハンドル握って来ていたのだが、少しすると別の人が営業に来るようになった。まぁ最初の1年間くらいは社長が直に来て様子を見極めたところで営業の人にバトンタッチというのはよくあるパターンだ。

 長岡から国道17号線を南下し三国トンネルを抜けて来るには、6~7時間かかる。店の方は、来るのを待っていれば楽でいいのだが、車を運転して行く方は大変だ。大変ながらもこの問屋さんは、関東北部から信州にかけて得意先を開拓していた。道路が整備されたからできたことだ。

 さて、社長さんに代わって営業に来るようになった人だが、当然長岡の人だ。ぼくらが長岡の人間だというので毎回楽しみにやってくる。異郷にあって同郷の人と会えることはお互いに楽しいことである。

 ぼくはいつも通りに夕方4時半になると仕事を終えて短大に行く。そして閉店後の9時過ぎに帰ってくると、新しい営業さんが店の二階で待っていた。おお帰ってきたか、それじゃやるべー。麻雀の支度がしてあるからそのまま席に着いて麻雀をやり始める。

 店は朝九時開店。まぁ大体12時まで麻雀やって、営業の人は、そのまま店の二階に布団を敷いて寝てしまう。宿代が浮く。そんなことを何回もやっていたら、問屋さんの社長からちゃんと宿屋に泊まれと厳命されたようで、今日は宿屋で麻雀すんべ、と言い残して行ったことがある。

 店が終わって面子が揃ったところで宿屋まで麻雀しに行った。店の二階でやる分にはどこにも遠慮することはないのだが、宿屋の二階となると他の泊まり客の迷惑ならないようにしないといけない。さぁ佳境に入ってきたと思ったら宿屋のおかみさんに十一時になりましたから麻雀はおしまいにしてくださいと言われてしまった。

 仕方がない店に帰るか、他の店の人達と一緒に店に帰って寝た。背広売りに来ているのか麻雀しに来ているのか、まぁ両方なんだけど、大体月に一度は長岡の問屋さんがやってきていた。

 河井継之助の時代に冬の三国峠を越えるのは命がけだったが、三国トンネルの開通と国道17号線の整備により、この問屋さんは冬でもスノータイヤにスパイク打ち込んだ完全装備の車で三国峠を越えて来る。

 ちょこっと運転させてもらったことがあったが、タイヤがガタガタしてうるさくて仕方がなかった。関東と越後。雪があるかないかだけだが、雪が人の生活に与える物は大きなものがある。

 なにせ、ぼくは、昭和38年の大豪雪を体験して上州に出てきているから、雪がどいうものか良く知っている。その点上州の冬は下駄履いて銭湯に行ける。少しくらい空っ風が吹いても大丈夫だ。しかし、銭湯から帰って来るとタオルが固くなっていたことがあった。越後の冬も寒いが上州の冬も寒い。冬はどこでも寒いな。

 おまけにぼくの足は冬になるとしもやけがむずむずしてくる。不思議なことに越後に帰るとぜんぜんむずむずしない。上州に来るとむずむずする。日中と朝晩の気温差が激しいのが原因のようだと分かったのはもっと先の話だ。母ちゃん冬になると足がむずむずするよー。かなかなかなー。


座卓に傷があった

2008-10-15 11:05:10 | 月賦屋時代前期 仕事

 ぼくが店に入った昭和38年当時は、座卓という家具はまだ登場していなかったと思う。ちゃぶ台というのがあったがあれは座卓とはちょっと違う。猫足のテーブルがあったが、それは一部の金持ち用で、一般の人はデコラの板に脚を付けてテーブルとして使っていた。

 デコラの板に脚を付けるのは嫌というほどやった。前橋にデコラの板を専門に作っている所があって、そこから仕入れていたのだが、板と脚が別々で来る。脚は金物なので別の所が作っているのだが、板を作っている所に頼むと一緒に持って来てくれる。

 家具は中身が入っていないのでガタイは大きいだけで空気を運んでようなものだったのだが、デコラの板だけは別。こいつが重いのなんのって。2尺の3尺のデコラの板は2枚持つのがやっと。無理すれば3枚持てないことはないのだが落として傷でもつけたら売り物にならなくなるから、無理はしなかった。

 ぼくの町内の会議所では、デコラのテーブルを使っている。長年使っているから脚にがたがきている。脚の付け方は、ぼくが知っているのだが、肝心の脚の入手方法が分からない。デコラの板を作っていた木工所の名前は知っているが、40年も前のことだから先方がどうなっているか分からない。

 座卓が登場したのは昭和40年代前半だったように記憶している。東京というのは何でも集まるところで、最初に座卓を持って来たのは東京の問屋さんだった。前橋の家具屋さんが座卓を作り始めたのは、その後しばらくしてからだった。

 座卓は、デコラの板と違って最初から用途が決まっているので、段ボールの箱に入ってくる。売れ筋の座卓は大体決まっていて、店に並べた他に同じものを5枚位おんぼろ倉庫に在庫で持っていた。

 座卓が売れるとおんぼろ倉庫から持ち出してトラックに載せて配達に行く。段ボールに入っていると、ガツンとやらない限り毛布や布団で当てものをしなくていいので便利だ。

 いつものように午後から配達に出た。それほど大きなタンスを積まなかったので一人で出た。もう5万分の1の地図を頼らなくても目的地にいける。しかし、用心のために運転席の脇には少しくたびれかけてきた5万分の1の地図を載せてある。

 当時の家具は、今ほど重たいものでなく、高さ五尺の整理ダンスなら背中に担いで一人で持ち運べた。順調に家具を配達していき、途中で暗くなった。暗くなっても地理は分かっているから大丈夫だ。そして一番最後のお客様の所に座卓を配達したのが、夜の7時過ぎ頃だったか。

 お客様が早速これから使うからと言われるので、箱から出したら、あちゃぁ、座卓の天板に傷がついている。店の裏のおんぼろ倉庫に入荷したばかりのものを持ってきたのだが、段ボールの箱にそれらしい痕はない。

 申し訳ありません。すぐに同じ物をお持ちしますから、と言ってお客様の家を後にした。今はどうか分からないが、お客様の家に行く場合、当時は遅くなっても8時が限度で、余程のことがない限り、それを過ぎてはいけないという暗黙のルールがあった。

 急いで店に引き返し、おんぼろ倉庫から同じ座卓を一枚ダットサンの荷台に載せてお客様の家に急行した。夜8時を少し廻った当たりでお客様の家に着いて、同じ物を持ってきましたからと言ったら、今日持って来てくれたのか、おれは明日かと思っていたとお客様の方がびっくりしていた。

 ぼくもくたびれていて、今日行くのは嫌だなと思ったのだが、今日これから使いたいというお客様のリクエストに応えるべくお届けした。往きはかなりスピードを出して行ったのだが、帰りは交通事故おこさないように安全運転で来た。

 クレーム処理の第1原則。すぐにやること。言うは易いが行なうは難い。月賦屋の場合、お客様はいつでも金払わないをやれる。お客様にそれをやられるとプレゼントになってしまうので、月賦屋にとって、クレーム処理は切っても切り離せない問題だ。かなかなかなー。


カワサキ90ccバイク

2008-10-13 11:52:03 | 月賦屋時代前期 仕事

 店にはホンダベンリー125ccのバイクが一台あった。このバイクは郊外の集金を担当していたKEちゃんが乗っていた。郊外の集金は店を起点にして半径10キロ位をぐるりと廻らないといけないので、機動力のあるホンダベンリーでないと廻りきれない。

 ホンダベンリーは、乗り回す距離が長いので1回オーバーホールした記憶がある。とはいってもKEちゃん専用車なので、ぼくは運転することを許されなかった。KEちゃんは、冬になると皮ジャン着て、首元に白いバンダナで巻いて走っていた。

 西部劇のジョン・ウエインが首元に白いバンダナを巻いていたけど、防寒といいう実用の他に、ファッションとしての格好良さがあった。当時の白バイが白いバンダナを首元に巻いていたから、KEちゃんも多分白バイの真似をしたのではないかと思う。

 店の売り上げが順調に増え、郊外を1人で廻るのは無理になって、郊外を2分割にした。そしてバイクは、ホンダベンリーからカワサキの90ccになった。125ccでないと広い郊外を廻るのは無理だろうと思っていたが、今度出たカワサキの90ccの出来がいいよとバイク屋さんが勧めてくれたものだ。

 ホンダベンリーの時は一台しかなかったので、昼休みにまたがしてもらう位しかできなかったが、カワサキの90ccは、2台あったので、たまに乗らせてもらうことができた。塗装がスカイブルーのカワサキの90ccは、見るからに格好よかった。

 乗ってみると、さすがにバイク屋さんが勧めてくれただけあって、エンジンのふけがよくいい感じで走る。恐い位加速する。これなら125ccでなくても郊外を集金に走り回ることができる。

 店が終わったある日、支配人が車が動かなくなったのでみんなで来てくれと言ってきた。こういう時はバイクが何台もあると便利だ。バイクに乗っていざ出動。げっ!こりゃでこぼこだがな。こんな所に車を乗り入れたのか。でこぼこをくぐり抜けてダットサンのところまでなんとかたどり付いた。

 見事に穴ぼこにはまり込んでいる。これならみんなでよっこらせと押せば出るべ。いっせえのせい。みんなでダットサンの後ろを押して穴ぼこから脱出させた。支配人は近道しようとしてまだ開通前の道に潜り込んだのはいいけど、穴に落っこちてしまった。そりゃそうだ。開通前の道路は車が通るようにはできていない。

 大間々で家具の出張販売をやった。家具の出張販売の集金日は、お客様の都合に合わせるのではなく、こちらの都合に合わせて決めてある。毎月の集金は、山猿忍者がカワサキの90ccに乗って行ってくる。

 当時の大間々県道は砂利道が多かった。今のようにヘルメット被らなければバイクに乗ってはいけないという時代ではなかったので、山猿忍者が大間々から帰ってくると髪の毛がホコリだらけで白くなっていた。

 ぼくは、カワサキの90ccのバイクをたまに乗せて貰うことができたが、店の廻りをぐるっと廻る程度で長距離を走ったことがなかった。ある年の大間々での家具の出張販売の帰りに、丁度カワサキの90ccで応援に来ていた山猿忍者のバイクを借りて店に帰ることにした。

 後ろからダットサンが着いて来ているので、夜でも明るく帰ることができたのだが、砂利道をバイクでスピード出すとハンドルを取られて大変だ。転ばないようにするのが精一杯でスピード出すどころではなかった。もうほうほうの体で帰ってきた。あれ以来、バイクで長距離走って見たいと思わなくなった。

 そして月日が経てNG君が店に入ってきた。年齢が16歳になったのでバイクの免許を取りに行って一発で取ってきた。晴れてバイクに乗れる。乗れると言っても近場の用足しに行くだけで遠くまでは行かない。

 ぼくがバイクの免許を取った時、休みの日に店からバイクに乗って東の方向に遠出をしたことがあるが、途中で迷子になると思って怖々帰って来たことがある。それと同じで、免許を取ったからといっても地理が不案内の所ではなかなか遠くまで行けないものだ。

 夜寝る前に布団へ潜って多少のお喋りをする。ある時NG君がローギアでないと発進できないと言ったので、ぼくはそんなことはないよトップギアでも発進できるよと切り返した。NG君むきになっていや絶対にローギアでないと発進できないと言い張る。

 理屈ではNG君の言っていることは合っている。そうかじゃ明日店開けたらトップギアで発進してみせるから。それでもNG君は絶対にできないと言い張る。たしかに理屈ではそうなんだ。明日やってみせるからもう黙って寝ろ。

 そして次ぐの日、店を開けてカワサキの90ccのバイクを表に出して、店の掃除が終わった後に、おいちょっと来て見ろ。トップギアでの発進はこうするんだ。エンジンバリバリふかして、クラッチを少しづつつなげていくとバイクはよろよろと発進した。

 見ていたNG君の顔つきは真剣そのものだった。半クラッチというんだが、お前知らなかったか?。こういう発進はいいやり方ではないから通常はやらないけど、何が何でもトップギアでは発進できないという訳ではないのは分かったな。

 分かるも何も、実際にやってみせた後だから、頷くしか仕方がない。NG君まだ16歳。かわいい盛りだ。先輩がちと荒っぽいのは、ボス猿にたたかれて育ったから仕方が無い。かなかなかなー。


カラーテレビ

2008-10-11 15:30:56 | 月賦屋時代前期 仕事

 インターネットで調べたら、昭和43(1968)年4月。NHKがラジオ受信契約を廃止し、カラー契約を創設。同時にカラー番組を大幅に増やし、カラーテレビの普及が始まり、この年の10月メキシコシティでオリンピックが開催されたことが分かった。

 カラーテレビ、自動車、クーラーの三つが三種の神器と言われ、これを持つのが庶民の憧れであった。店でも客寄せのためカラーテレビを売っていたが、初期のカラーテレビは故障が多くて、売ると後のアフターサービスの方が大変だった。まぁ世の中に始めて登場した物というのはそんなもんだ。

 店の二階の8畳間には、相変わらず白黒テレビが置いてある。この白黒テレビが故障してカラーテレビに取り替えたのは何年頃だったか。男子バレーボールがメキシコシティの次のミュンヘンで優勝した時は、店の二階で見たような記憶があるから、昭和45年から46年くらいでなかったかと思う。

 テレビがカラーになると見栄えがいい。今のテレビはブラウン管の四隅が丸くなっていないが、当時のブラウン管は四隅が丸くなっていてその分映る範囲が狭い。それでも白黒とカラーでは見た感じが全然違う。

 当時のテレビは、電源入れて1分近くたってからやっと画面が映った。これは白黒でもカラーでも同じだ。あんまり遅いとバシバシ引っぱたいたりしたが、ひっぱったいても駄目だった。そのかわり映らなくなったときにバシバシ引っぱたいたら映ったなんてこともあった。

 ビクターとの取引が始まったのが、テレビがカラー化された後だったように記憶している。そして、カラーテレビはビクター製のものを売るようになった。ビクターの営業担当者との間には面白い逸話がいろいろあるのだが、それは月賦屋時代中期で書く。

 仕事が終わると銭湯に行く前にテレビを見る。カラーになったからリアリティがある。洋画劇場で西部劇を流していた。1時間番組の西部劇もあったが、洋画劇場で放映される西部劇は、映画版をテレビで流すから面白い。

 西部劇といえば、ジョン・ウエイン。ジョン・ウエイン主役の西部劇は文句なしで面白かった。主役がジョン・ウエインなかったが、ラストシーンで少年がシェーンと叫ぶやつは、どういう訳か記憶に残っている。後年再放送版をなにげなく英語に切り替えたら、シェーン、カムバック、と叫んでいた。なるほど英語だとそうなるかと思った。

 はるか後年、アメリカ人と結婚した女性の結婚式に招かれて行ったことがある。相手のアメリカ人にシェーンのラストシーンを言わせるなよと言ったら、にやり笑って握手してきた。痛っ!。てめーこの野郎。思わずこちらも力を入れて握り返した。後で聞いたら男同士の場合は、親愛の情をそういう風に表現するのだそうだ。あのバカタレめがあいつら野蛮人だ。おー痛え!。

 話が逸れた。カラーテレビだ。当時のカラーテレビは、ブラウン管の奥行きが大きかったので、ガタイが大きかった。一点豪華主義などと言われ、大きなカラーテレビがあるのがステータスのような風潮があった。今考えれば邪魔くさい以外の何者でないのだが、各家電メーカーとも一点豪華主義のカラーテレビを市場投入していった。

 テレビ売っても仕切が高いので儲からないのだが、売れるとアンテナ立てをしないといけない。山猿忍者が針金を電線に引っかけて、針金の端を持っていて感電したKO君を屋根の上から突き落としたのは昭和38年。2人とももう店にはいない。

 上州のテレビアンテナは、ガス管の太いのと細いのを2本つなげて、そのてっぺんにアンテナを付ける。あらかじめ四隅にいく針金を上下2段にセットして、よいっしょと屋根の上に立てる、と同時に、一人はアンテナを押さえて、もう一人が四隅に針金を止めていく。

 慣れると2人いればアンテナ立てができるのだが、今年入ったばかりのNG君を相方でやるのは、ぼくの方が恐い。IK君に応援に来てもらって3人でアンテナ立てをする。そうやってNG君も仕事を覚えていく。山猿忍者と違って屋根の上から突き落とすことはしないから安心していていいぞ。

 安心していていいぞと言っても、お客様の家の屋根の上で仕事をする訳だから、もたもたするのは許されない。どうだ、垂直はあっているか?。えーと、えーと。ええいまだらっこしい。こっちへ来てこれ持っていろ。早くこっちへこい。

 今は、榛名山の方向へ向けるUHFアンテナを使うが、当時は東京タワーから来る電波を受信する。アンテナ立てた後に、テレビまで配線して、一人が部屋の中でテレビの写り具合を見ながら、もう一人が屋根の上でアンテナの向きを調整した。一番映りのいい方向が東京タワーの方向だ。

 チョウテン先生から、芝増上寺の側に東京タワーがあるのであって、東京タワーの側に芝増上寺があるのではない。目立つからといって後から出来た物を基準にしてはならん。と教わっていたけど、テレビのアンテナだけは東京タワーの方向が基準だった。上州から東京タワーは見えなかったけどね。かなかなかなー。


NG君来る

2008-10-08 16:02:48 | 月賦屋時代前期 仕事

 昭和44年。ぼくは夜間の短大を卒業した。最後まで1単位落としたのではないかと冷や冷やしながらレポート持って卒業式に行ったのだが、教授にレポート出すタイミングがなく、卒業式に出て教室に戻ってきたら卒業証書を渡されて、無事に卒業できた。

 この短大の理事長のご先祖は、上州館林松平家、将軍様を出したことのある家柄。やることが荒っぽい。卒業できるかできないかは卒業証書貰って見なければ分からない。ぼくは卒業証書を貰えたが、貰えなかった人も数人いた。お互いに仕事を持って電車通学していたので、卒業後の消息は知らない。

 卒業式が終わって数日後、店にNG君が入って来た。ボス猿から今度来るNG君は、定時制に行きたいと言っているから、よた老、学校の方よろしく頼むよと言われていた。ぼくが、伊商の定時制に入学した時も店の先輩が願書を持って行ってくれたので、今度はぼくが持って行く番だ。

 中学校を卒業して来たNG君は、背丈がちょっと低いが、ぼくも同じくらいの背丈で入って、店に入ってから10センチ近く伸びたから、その内に伸びるだろうと、数年前のぼくを見る思いだった。

 NG君から願書を預かって、ダットサンに乗って配達の帰りに伊商に行った。学校に来るのは2年ぶりだ。がらがら、職員室の引き戸を開けて、先生こんばんは。おう、よた老君か、しばらくだったな、どうした。まぁ座れや。

 中へ入れやと言われる前に中へ入っていたので、先生が椅子出してくれた。実は今度うちの店に入ったNG君が、こちらへ来たいと行っているので願書を持ってきたんです。先生よろしくお願いします。

 そうか、どれどれ、ふーん。あのな今度の何日に試験があるから、試験受けてくれるように言ってくれ。はい。分かりました。一応県立高校なので、建前として試験を受けないといけない。勝手知ったる他人の家ではないが、いろいろやり方があるのは知っているが、試験が間近にあるのならそれを受けるのが一番いい。

 ところで、お前どうしている。短大は卒業したか?。はい。お陰様で無事卒業しました。上の大学には行かないのか?。SK君が東京の大学に行くそうですが、ぼくは6年間夜学に通ってくたびれたので、もう上の大学には行きません。そうか、そりゃ残念だな。お互いに世間話をしたいのだが、先生はこれから本職の授業が待っている。ぼくは、店に帰って次の仕事をしなければならない。

 じゃ、先生よろしくお願いします。うん。分かった。学校というのは卒業してしまうと行く機会がないものなのだが、NG君の願書を持って久しぶりに学校へ行って見た。できれば授業を受けて見たかったのだが、すでに卒業した後なのでそれはできない。

 数日後、NG君は自転車に乗って学校へ行き試験を受けて来た。何日に発表があるそうです。そうか。見に行かなくても受かっているから心配するな。とはいってもNG君にとっては見に行かなければ安心できない。ぼくも同じことをやっていたなと、NG君にかってのぼくの姿を重ねて見ていた。

 数日後、NG君は自転車に乗って試験に受かっているかどうか見に行って帰って来た。どうだった。はい。受かっていました。そうか、よかったな。先生によろしくお願いしますと頼んでおいたから、頑張って学校へ行けよ。はい。

 店での男の新入りの仕事は、大体雑用と配達の助手と決まっている。これはまぁどこでも同じようなものだろう。そうしながら店の仕事の廻り方を覚えて行く。ぼくは、午前中事務の仕事をして、午後から配達に出て行く。あるいは、午前中から倉庫の片付けをやることがある。

 当然NG君を相方にして仕事をする。ぼくのNG君に対する接し方は、鬼軍曹だったかもしれない。少しでもまごまごしていると、何まごまごしているんだ、もっとみしめてやれ。上州弁で怒鳴りつける。越後の人間、上州弁で怒鳴られると意味が分からないのと恐いのとでキンタマ縮みあがる。ぼくも最初はそうだったんだ。

 ダットサンに乗って一緒に配達に行く。おい、この当たりだから、お前ちょっと聞いてこいや。えーおれが聞いて来るの?。という顔をしていると、場所を聞いて来るのが助手の仕事だ、さっさと行って聞いて来い。また怒鳴りつける。

 NG君は、店の他の人にもよく怒鳴られた。半歩先を読んで行動すれば怒鳴られなくなるのだが、ぼくを含めてそんなやさしい事は言わない。怒鳴りつけてNG君を仕上げて行く。ボス猿がぼくらをたたき上げたのと同じやり方だ。

 ぼくは、NG君が学校に行くにあたって、店の仕事が主で学校が従だ。日曜日は店が休みではない。休みどころか一番忙しい。学校の行事で日曜日に店を休んではならない。おれは4年間そうやってきた。お前もそうしろ。NG君に、きつく言い渡した。

 なんと薄情な先輩かと思われたかもしれないが、その一線を外してしまうとNG君の中に甘え体質が芽生えるのを恐れたからだ。そんなこと言ったって、自分で出来もしなことを人に言うな。まったくその通り、ぼくはやってきたけど、日曜日にある学校の行事に出られないのはきついことなんだ。かなかなかなー


税務署が来た何の調査だ?

2008-10-06 12:12:28 | 月賦屋時代前期 仕事

 ぷかー。長らく潜行していたが、再び水面に浮上。何やらアメリカ・欧州の方は生臭いことをやっているが、それとは関係なく、とりあえずプログを再開する。

 店をやっているといろいろな人がいらっしゃる。税務署というのはできれば来て欲しくないのだが、これがたまにいらっしゃる。支配人は店先のカウンターで居座れてはたまらないから二階の事務所へどうぞと、ぼくのところへ押しつけてくる。これがまたたまらんのよ。

 まぁ、どこでもそうだが余り見られては困るようなものがある訳で、急いで片付けると余計目立つから、そのままにして何の調査でしょうか?。と尋ねる。領収書を出してくださいと言う。領収書ですか?。経費の領収書は毎月税理士先生のところでチェックして綴じて返してくれているので、それをまとめとドサッと集金の人の机の上に出して、さぁどうぞと見て貰った。

 経費だけではなくて仕入れの方の領収書も必要だと思ったので、それも出して来て机の上に置いた。仕入れの方の領収書は、仕入れ先毎に納品書、請求書、領収書とひとまとめにしてあるので、領収書だけ取り出すと後が面倒くさい。

 税務署の人は集金の人の机に座って、領収書を1枚づつめくって調べている。何を調べているのかが分からないから、仕事をしていても気が気でない。時折何か見つけたようで手を止めて手元の紙に書いている。

 何をやっているのか手の内が分からないと不安で仕方がない。調査は、大雑把に分けると、入り、と、出、に分けることができる。通常は、入り、すなわち売上の方を調べるのだが、今回は、いきなり、出、の方から調べ始めた。何の調査なのか皆目見当が付かない。

 やがてお昼になって、税務署員は昼飯食いに出かけた。さて、一体何をやっていたんだんべ。調べ終わった領収書の綴りを見たら、収入印紙の貼ってない領収書があるかどうか調べていた。運が悪いことに収入印紙の貼ってない領収書があった。

 まだ調べてない方の領収書の綴りを調べたら、何枚も出て来た。さぁどうすんべ。支配人と相談して近くの店に行って収入印紙をまとめて買ってきた。収入印紙は金払った方の負担ではないのだが、ここに至っては仕方がない。収入印紙貼ってない領収書を見つけてはペタコラはってボールペンで二重線を引いておいた。

 たしかあのころの領収書は50円の収入印紙を貼らないといけなかった思った。午前中に調べられて貼ってないのが分かった分は、領収書を書いた方の店にたしか1枚につき500円の追徴が行ったと後から聞いた。

 収入印紙が貼ってないから領収書としての効力が無いのかと言えば、まったくそういうことはないので、領収書を受け取るこちらの方も収入印紙が貼ってあるかどうかをチェックしていなかった。

 ボス猿は、手形を振り出しているので、切手と収入印紙の違いは十分承知している。承知していて、切手が無いから封筒に収入印紙貼って出した。と言っていたことがあった。

 切手も収入印紙もどちらも郵便局で売っているから似たようなもんだろうと思っていたら、後日ボス猿が収入印紙を貼って出した郵便物に付箋が付いて戻って来た。ああやっぱり切手と収入印紙は違うんだと分かった。

 戦争が終わって20数年、切手も収入印紙も似たようなもんだろうと、知らないで商売やっていて、税務署にお灸据えられて、軌道修正をしながら、どの店も高度経済成長いけいけどんどんの活気のある時代を突き進んでいる。しかし、できれば税務署には来て欲しくないな。かなかなかなー。

 このブログは、だらだら書きで書いているのだが、毎日書くとなると結構疲れる。お彼岸が過ぎて今家の廻りの芝刈りをしていて、芝刈り草刈りが終わるまでなかなかブログを書く時間が取れない。しばらくのあいだ2~3日おき位の間隔でブログの更新をするのでご容赦を。最近結構野暮用があるんだ。


そくい(続飯)

2008-09-18 16:35:30 | 月賦屋時代前期 仕事

 中学校の友達の家が木工所をやっていた。当時の木工所は、大体家の前が工場で裏が居宅になっている。冬友達の所に行ったら、ダルマストーブに囲いがしてあって、ストーブの脇に大きめの缶がぶら下がっていた。中にどろっとした液体が入っている。

 あれ何だろうと思っていたのだが、その内に職人さんが缶の中に刷毛を入れて板に塗って貼り合わせた。膠(にかわ)という言葉は知っていたが、現物を見たのはあれが始めてだった。その膠もぼくが店に入った頃にはボンドの登場によりすでに使われなくなっていた。

 店の配達が忙しくなってくるとボス猿も助手にかり出される。お客様のところに家具を配達に行って、家具を降ろした時にへまをやったか、元々そうなっていたか、引き出しの脇板が割れた。

 うーん。困った。家具は順番に降ろして行く。このまま積んで次の配達先に向かうと後ろに積んである家具が最後まで邪魔になる。接着剤があればこの場ですぐに直せるのだがあいにくと持ってきていない。と、思っていたら、ボス猿がお客様にご飯の残り少しありませんかと、言って残り飯を少し出してもらった。

 ご飯から、そくい、という接着剤を作ることは知っていたし、ぼくも子供の頃やったことがある。でもあれはあまり接着力がなかった。大丈夫かなと思っていたら、ボス猿は、あり合わせの板の上に残り飯を載せてへらでこね始めた。

 なるほど、ああいう風にしてこねるのか、子供だったぼくがこねていたのとはやり方が違う。こねこねとしっかりとこねていく。こね上がったところで、そくい、完成。割れた板を接着して完了。

 お客様の所では、養蚕の真っ最中。ボス猿がやっているのを横目でちらちらと見ていたが、別にクレームをつけられることは無かった。接着剤がボンドに代わった時代だったが、ご飯粒をこねて、そくい、という接着剤にするということは当時のお客様は知っていた。

 ボス猿の鮮やかな手つきを見て、これはボンド以前の技を持っている人だなと思ってくれたのではないかと思う。今家具を配達に行ってお客様の見ている前で、そくい、をねって板を張り付けたら何じゃそりゃ、と、クレームが来ること間違いなしだと思う。だって、今の人は、そくい、なんてものを知らないもの。

 膠は、古くから動物の皮や骨を加熱抽出して作られてきた。漢方では阿膠(あきょう)というのが有名で、貧血や婦人病の薬として今でも使われている。しかし今では接着剤として使われなくなった。その代わり薬用、食用、工業用として広く使われている。膠ではなく、ゼラチンとかコラーゲンと言った方が分かり易いかな。

 昔は、そくい、をこねるのが大工さんの朝仕事だったのだが、今はそういう光景をみなくなった。まぁいい接着剤と道具が出れば、あんな面倒くさいことをする必要はないからな。

 そくい、がまったく使われなくなったかというと、そうでもないようだ。米を原料とした糊を使った合板が結構ある。ハウスシック、アレルギーとかいうやつで化学糊を使わない合板の需要が伸びているそうだ。職人さんがへらでこねていないだけで、米を使った糊は、そくい、だろうな。

 事故米を食用として流通させたというので大騒ぎになっている。1キロ10円のものを1キロ100円で売れば濡れ手に粟でない、濡れ手に米で儲かるだろうな。そんなに儲かっている所を税務署が黙って見ている訳がないのだが。あの騒動最後は国税が査察に入るのではないかな。

 焼酎を回収したメーカーがあるけど、年に1回の間税の調査が厳しいぞ。回収した焼酎どうする?。ぼくのところへ持って来て、タダで置いて行ってくれたら、毎晩人体実験でちびりちびりと廃棄してやるよ。あの程度の汚染だったら臭い脱脂粉乳よりはましだ。

 あれ、内容が、そくい、とずれてしまったな。まぁそういうこともあるわな。焼酎飲みたいけど金が無い。かなかなかなー。


はなちゃん

2008-09-17 11:06:07 | 月賦屋時代前期 仕事

 今までいた炊事のおばさんが辞めることになった。さぁ大変だ。炊事のおばさんがいないとぼくらは飯にありつけない。困った。困った。困ったのはボス猿も同じ。ぼくらを親元から預かっている以上、飯を食わせなければならない。

 ボス猿が支配人と市内を集金しているSさんと相談して、店のお客様のはなちゃんに来て貰うことになった。あーよかった。これで今日は飯無しという心配から解放された。

 はなちゃんというから若い女の人と思った人もいるだろうが、残念ながら若くない。色気の抜けた年寄り婆さんだ。でも、はなちゃんは自転車に乗ることができる。自転車に乗って安い食材を買いに行って飯を作ってくれる。

 出来合いの総菜を売るところができ始めた頃だったが、支配人が出来合いの総菜を皿に載せて出すのは駄目だと言ってあったから、ちゃんと調理をして出してくれた。そして、必ず自分で漬けた漬け物を出してくれた。

 ぼくは、最近自分で漬け物をするようになった。やってみるとそれほど難しいものではない。漬ける物をビニール袋に入れて、漬ける物の重量の3%から5%の重量の塩をビニール袋の中に振り掛けて、空気を抜いて輪ゴムで止めて冷蔵庫に入れておけばOK。

 しかし、漬け物をするという作業は結構面倒臭い。はなちゃんは、その面倒くさいことを毎日やって目先の変わった漬け物を食べさせてくれた。

 食堂には大きな食器戸棚あって、そこに各人別に丼に飯を持って入れておいてくれる。昼はできたての暖かいのを食べられるのだが、夜はその日によって暖かい物を食べられる日と、食べられない日がある。

 ぼくは、学校から帰ってから食べるので、いつも冷や飯だ。育ち盛りというのは食い気の方が優っているから、多少冷や飯だからという気はあっても平気で食べていた。そして、夕飯食べてしばらくしてから銭湯に行く。

 飯食ったばかりだというのに、銭湯の帰りにホルモン焼きを食べに行くこともあった。夕飯が入る胃袋とホルモン焼きが入る胃袋は別。牛ではないが育ち盛りぱくぱく食べる。

 まぁ、朝ぼくらが裏の鍵を開けないで寝ているもんだから、とうとうある時期から朝飯無しになっていたので、朝飯の分を銭湯の帰りに食べていたのかもしれない。そうかといってぶくぶく太っていたかというと、そういうことはない。Y体の6号を華麗に着こなしていた。

 銭湯から帰ると流し場の窓の外にある洗濯機に、銭湯で着替えて来た下着を入れておくと、翌日はなちゃんが洗濯をして干してくれる。物干場が北側なので一晩中干してある場合もあるがそれは仕方がない。

 洗濯物が乾くと、はなちゃんがちゃんと各人毎にたたんでくれる。あれが不思議なんだ。下着に名前が書いてある訳ではないのだが、はなちゃんはちゃんと識別してたたんで分けておいてくれる。

 銭湯へ行く時は、はなちゃんがたたんでくれた下着を持って、子供が水遊びをする時の小さなバケツを持って行く。この小さなバケツには、石鹸やらシャンプーやらが入っている。ぼくは、大きいバケツなら売っているところを知っているが、子供の遊び道具のバケツはどこへ行けば売っているか知らない。こういう時は、はなちゃんお願いして買って来て貰う。

 ある日の昼食で、はなちゃんが珍しいものを作ってくれた。これ何だ?。それは、にぼとのおっきりこみだよ。ニボトの◎◇△?。にぼとのおっきりこみだよ。それを一晩おいて温めると、にぼとのたてっかえし、というんだよ。うん。ニボトノタテ△○▲◎▽、うーん。分からない。上州弁は難しい。

 ぱく。はなちゃんこれ旨い。そうかい。一杯食べな。うん。越後にはこういうのは無かったように思う。上州は小麦の産地。小麦を使った色々な料理がある。土地土地によって食べ物はいろいろだ。

 他人の飯を食べて育つ。店の人達みんなは、同じ釜の飯食った仲だ。その釜の飯を作ってくれたのが、はなちゃんだ。今風に言うとパートというやつなんだが、ボス猿は、はなちゃんにも社会保険と厚生年金に入れた。

 NHKの連続テレビ小説で、おはなはんが放映されたのが昭和41年。はなちゃんが店に来たのも、その頃だったように記憶している。その、はなちゃんも先年鬼籍に入った。ご冥福を祈るや切なり。かなかなかなー。


税務調査 是認

2008-09-12 16:28:12 | 月賦屋時代前期 仕事

 税務署にはもう一つ調査に来る部署がある。所得税、法人税の部署だ。通常、税務調査というと所得税、法人税の調査を指し、3~4年に一回調査に来る。

 ボス猿は、開店から2年後に調査に入られて、痛い目に遭って、税務署から税理士先生を紹介してもらって、ぼくが金銭出納帳を付けることになった。

 ぼくは、15歳で店に入り、16歳の秋から金銭出納帳を付け始めた。そして22歳の夏一旦店を去る。月賦屋時代前期は、ぼくが22歳で店を一旦去るまでを書いている。ぼくの記憶が定かなら前期に2回税務調査に入られている。

 1回目の税務調査は、定時制4年生か、夜間の短大1年生の時だ。税理士先生からボス猿に明日税務調査があります、という連絡があった。よた老君、明日税務調査があるから見られては困るものは片づけておきなさい。はい。ぼくは、仕事を早く片づけることしか考えていない。だからぼくの机の上はいつもおっちらかりっぱなしだ。税務調査でも入らないと綺麗にならない。

 翌日、朝九時の開店を待たずに税務署が裁判所の礼状を持って踏み込んで来て、金庫の中の現金を押さえた。というのは国税局の査察がやる手で、通常の税務調査は任意だからそういう物騒なことはしない。朝九時に店を開けて掃除がすんで、二階の事務所に上がってしばらくしてから、税理士先生と税務署の職員がやってきた。

 ボス猿は、この日の為にいつもより早いバスで出てきて事務所で迎え撃った。これじゃ川中島の合戦だよ。ボス猿は、奥の八畳間に税理士先生と税務署の職員を案内してそこで応対した。ぼくらが寝泊まりしている部屋なんだがボス猿には逆らえない。部屋をささっと掃いてデコラのテーブル用意しておいた。

 ぼくは、仕事をしながら事務所で待機。話し声だけでもいいから聞こえれば何がどうなっているか大体の様子が分かるのだが、奥の八畳間では離れすぎていて様子はまったく分からない。ぼくがまとめた決算の数字が合っているかどうか試されている。事務所で仕事をしていても気が気ではない。

 その内に奥からボス猿がやって来て、よた老君。何。何を出してくれないか?。と言う。こういう時に何が何だか分からないようでは、ボス猿のお守りはできない。はい。過去の金銭出納帳、仕入帳、総勘定元帳はそこに用意してあります。うん。そうか。ボス猿必要なものを持って奥の部屋に戻って行く。

 ボス猿がまた奥の部屋からやって来た。今度は何だろうと思ったら、よた老君。何を、昼飯を何か頼んでくれないか。うん鰻重がいい。鰻重を4つ。あんたの分も入れて頼んでくれたまえ。ラッキー。鰻重が食べられる。急いで店に降りて行き、支配人にこれこれしかじかと事情を話して鰻重の出前を頼んだ。

 しばらくして出前が来たので奥の部屋に運んだ。間税課の調査は昼飯食べないが、所得税・法人税の調査は昼飯食べる。鰻重の出前を食べるのは税務調査の役得だな。お陰でぼくも鰻重にありつける。鰻重旨いから月に一回位調査に来ないかなとは絶対に思わない。税務署が来ると胃が痛いもの。

 ぼくには何が話されていたのかさっぱり分からなかったが、4時過ぎに税務調査が終わって、税理士先生と税務署の職員は帰って行った。1回目の調査では、ぼくの単純な記帳ミスが2つ3つ見つかって、税理士先生が修正申告の用紙を書いてきてくれて税金収めた。

 そして、その月の税理士先生の領収書には、いつもの顧問料とは別に立会日当と修正申告書作成代が入っていた。税理士先生の領収書の金額は、払った税金とおつかつだった。税務署が来ると金がかかる。まぁこの程度で済んだんだからいいか。

 2回目の税務調査は、ぼくが夜間の短大を卒業した年か、その次の年だった。税理士先生を頼んでいると抜き打ちで税務調査に来ないで、事前に税理士先生のところに連絡があってから来るので迎えるこちらは精神的に楽だ。

 1回目と同じくボス猿が奥の八畳間で応対した。ぼくは事務所で仕事をしながらいつよた老君何はどうなっているかね?。を食らうか分からないのでびくびくものだ。税理士先生がまとめてくれた決算書を基に、月賦屋の現金主義会計による決算書の謎解きをして、自分なりに決算の数字をまとめてきた。

 1回目の税務調査では決算の数字のまとめ方がおかしいというところまで踏み込まれなかった。今回はどうなのか事務所にいても胃が痛い。そういうぼくの胃とは関係なく4時過ぎに税務調査が終わって、税理士先生と税務署の職員は帰って行った。

 ボス猿が事務所にやってきて、よた老君。是認を貰ったよ。という。意味が分からない。是認って何ですか?。全部OKということだよ。はあそうですか。よた老君、是認を貰うと当分務調査はないよ。はぁ。そうなんですか。

 税務調査で是認を貰ったことがどういう意味なのか、辞書で文字と言葉の意味を調べてからじわじわと実感が来た。是認もらったのも嬉しいけど、鰻重旨かったな。是認取り消してもう一回税務調査に来ないかな。うそ。来なくていいよ。

 しあわせは 歩いてこない だから歩いて ゆくんだね 一日一歩 三日で三歩 三歩進んで 二歩さがる 人生は ワン・ツー・パンチ 汗かき べそかき 歩こうよ あなたのつけた 足あとにゃ きれいな花が 咲くでしょう 腕を振って 足をあげて ワン・ツー ワン・ツー 水前寺清子の365歩のマーチが世に出たのが昭和43年11月。

 税務調査が終わった後、ぼくもこの歌を口ずさんでいたような気がする。母ちゃん。15で出て来たいが栗頭が、簿記を習って税理士先生の書いた決算書の理屈を紐解いて、実践の税務調査で是認をもらったよ。汗かきべそかきだったよ。かなかなかなー。


税務調査 キツネの襟巻き

2008-09-11 09:07:32 | 月賦屋時代前期 仕事

 税務署の調査というと恐いというイメージがあると思うが、ぼくもそういうイメージを持っている。なるべくならそういう調査は来て欲しくない。いわば歓迎されざるお客様なんだが、これがまたいらっしゃる。

 税務署には間税課という部署がある。ここが物品税の調査に一年に一回必ずやってくる。最初の内は物品税って何だ?。という感じだったのだが、言われた通りに帳面付けて月末に申告書書いて納税していた。

 物品税の調査はぼくが応対していた。ボス猿はノータッチ。別に誤魔化すつもりはないのだが、一年分溜まると一つか二つミスが出ることがある。それを探しにやってくる。冬物衣料でキツネの襟巻きが良く売れた。金ギツネ、銀ギツネ、青ギツネといった高級品の襟巻きだ。首に巻き付けて襟巻きの頭部分をぱくっと噛みt付かせると暖かくて格好がいい。

 冬物衣料は、シーズン中に売り切らないと、翌年まで持ち越さないといけない。上州の冬は寒い。年が明けても売れる。毎年何本か持ち越していた。

 そして冬物のシーズンが終わってから毎年恒例の間税課の調査が来た。どうもぼくはその年、最後に仕入れた納品書を1枚付け忘れたみたいだ。間税課の職員がこれはどうしたんだ、これはどうしたんだと聞いてくる。ぼくが、しのごの答えていたら、ボス猿が倉庫に使っている前の事務所から、在庫で持ち越していた襟巻きを持って来て机の上にどさっと載せて、ほれこれが現物だとやった。

 間税課の職員は、シーズンオフになってから調査に入るので、帳面の上での名前は知っているが現物を見たことがない。すわっ!。これがそのブツか。帳面ほっぽり出して現物を確かめ始めた。まぁ、金ギツネ、銀ギツネ、青ギツネの襟巻きといったらご婦人用の高級品で殿方が手で触って確かめる機会がなかなかないものだ。

 ぼくの方は、あちゃ!。なんとかしのごの言って来年まで誤魔化そうとしていたのに、ボス猿に現物持って来られてしまっては誤魔化せない。ボス猿は、間税課の職員が色めき立っているのを見てにやにや笑っていやがる。

 ひとしきり現物を確認した後は、帳面に戻って調査が継続された。最後に仕入れた納品書を一枚付け忘れていたので、何とか誤魔化そうと思ったのだが、現物が出てきたのでは誤魔化せない。お陰で調査が早く終わった。そして月末、季節外れのキツネの襟巻きが売れましたという物品税の申告書書いて納税した。

 ぼくは売れた物を隠すつもりはないから、黙って帰っても同じことしたんだけど、年に一回の間税課の調査は、こちらの帳面の付け忘れをチェックしてくれるので、そういう意味ではありがたい。

 物品税の受払台帳は、ノートを見開き2頁に縦線引いて一つの品物の受払を書く。毛皮の他に指輪も書く。書き忘れた納品書の日付より後に入ったの指輪がすでに書いてある。新しい日付の下に古い日付を書かないといけない。ノートべりべりと破って最初から書き直したいところだがそれはやらない。日付が前後していてもノートに書くのが一番信頼性が高い。

 間税課の調査は、お茶とお茶菓子はOKだが、昼飯は食べない。酒蔵に調査に入るから昼飯に酒が出されて飲んでしまったら調査にならないから、そういうところは厳しくなっている。昼間から酒なんか出さないから鰻重の出前を食べてくれれば、ぼくも1年に1回ご相伴にあずかれたのに。厳しいんだから。

 淋しくないかい うわべの恋は こころをかくして 踊っていても ソーロ・グリス・デ・ラ・ノーチェ 斉条史朗の夜の銀狐が大ヒットしたのが昭和44年。この歌を聞くと、ボス猿が倉庫からキツネの襟巻き持ってきて、机の上にどさっと載せたのを後々まで思い出した。かなかなかなー。


ケロヨン

2008-09-05 19:40:29 | 月賦屋時代前期 仕事

 町内の商店街でケロヨンの公演を呼ぶことになった。それぞれの店が売り出しをかけて、お買い上げ幾らで入場券をというやつをやる。うちの店は芸能人を呼ぶのを何回もやっていたので、ぼくは内情を知っていたが、大勢の店の意見を合わせて商店街で呼ぶとなるとかなり大変な仕事だ。

 入場券が各店に割り当てられたが、大幅に余る。そこで有力な店三軒に大口割り当てということになった。うちの店にもその割り当ての打診があった。うちの店は、商店街では新参者だから、商店街に見込まれてお願いしますと言われたものは断れない。ボス猿YESと言って引き受けた。同じ新参者で今は大型店になっている店も引き受けた。もう一軒KBさんという店が引き受けた。

 事前打診でYESと答えた後日、商店街のお偉いさん達が二階の事務所にぞろぞろと上がってきた。事務所に入ると壁一面に張ってある五万分の一の地図が目に入る。おおっ!、これは大本営の作戦本部だなと、お偉いさん達が驚きながら事務所に入ってきた。

 月賦屋というのは結構派手な立ち回りをする商売で、あいつらの舞台裏はどうなっているんだという思いがあったかどうかは知らないが、商店街のお偉いさん達が始めて二階の事務所に入ってきて、壁一面に貼られたの五万分の一の地図を珍しそうに眺めていた。

 ボス猿得意の、何はどうなっているかね?、を商店街のお偉いさん達に発するかと思っていたのだが、それを発することなく、入場券とお金の受け渡しが終わり、商店街のお偉いさん達は帰って行った。

 さて宣伝活動だが、商店街でチラシを入れて共同の宣伝活動をやる。その他に各店で単独に宣伝活動をした。宣伝カー廻すから誰か人を出してくれと言われて、ぼくが行った。大体こういう場合の人手というのは、ぼくのところにお鉢が廻ってくる。

 言われた日時に行くとすでに何人かが来ていて、クラウンだったかの脇に宣伝用の横断幕が張られていた。まぁ、宣伝カーに乗るのは店の仕事でやっているからどうっていうことはないのだが、商店街の人達と呼吸を合わせないといけない。結局ぼくが宣伝カーの運転をしてぐるっと一回りしてきた。

 さて、大口引き受けをしたのはいいのだが、ちょっと中途半端な枚数で、ダイレクトメールを打って大々的に売り出しをかけて捌くほどの枚数ではない。確か新聞チラシを入れて、ちょこっとした売り出しをやって捌いたと思う。

 そして、公演の当日誰か人を出してくれと言われてまたぼくが行った。冬の寒い朝、会場の公民館に行ったら、大きな火鉢に炭をおこして暖を取っていた。集まった商店街の人達が、あいつらはけしからん、と話をしている。

 視線の先には、公民館に入る道ばたで入場券を売っている人がいる。あれどうしたんですか?。と聞くと、大口割り当てを引き受けたKBさんが、捌ききれずにああやって売っているんだという。あれじゃこっちの窓口が売れなくなる。おい、お前のところも大口割り当て引き受けたんだから、お前ちょっと行って止めさせてこい。

 お前ちょと行って止めさせてこいと言われても、言う方は簡単だが行く方は大変だぞ。毎日顔合わせている近所の商店の親父さんに言われちゃ行かない訳に行かないから行った。KBさん、月賦屋だけどそれは止めませんか。

 KBさんの倅ともう一人若い人がやっていたのだが、事情を知らない若い方がつっかかってきた。何言ってんだ、この公演は、うちの店が大口引き受けをしなければできなかった公演だ。さすがに事情を知っている倅がそれ以上言わせないように割って入った。

 これはダフ屋と言ってな、よくある手だ。こんなの売っても大した額にならない、今晩の飲み代に足りるかどうかだ。今のぼくなら、何言ってんだ、てめえふざけたこと言ってんじゃないぞ、と切り返すところだが、まだ二十歳過ぎたどうかのぼくはウブだ。これはまともな人ではないなと思ってそれ以上深入りしないで戻った。

 ダフ屋だと言ってましたけど。商店街の人達面白くない。KBさんから遠い店の人は、とんでもないやつだと悪口言う。KBさんの隣の店の人は悪口言う訳にもいかないで、かばってみたりで世の中色々だ。

 同じ商店街に店を出して商売していても、店の前を通るだけでそこの店の人がどういう顔をしているか知らない。お前行って来いと言われて手伝いに行ったお陰で普段前を素通りしていた店の人の顔を少し覚えることができた。

 七夕祭りが益々賑やかになっていき、伊勢崎祭りが復活したころの話だ。かなかなかなー。

 用事があるので明日・明後日の更新を休みます。ご容赦を。


結婚式の司会

2008-08-27 15:26:33 | 月賦屋時代前期 仕事

 店が終わってボス猿と支配人が家に帰ると、地元の悪友達が店の二階に遊びに来ていた。店は中心商店街にある、何をするにも絶好のロケーションだ。日によってあっちから一人、こっちから一人と毎日のように誰か遊びに来ていた。

 とは、いってもこっちは銭湯に行かなければならない。お互いに遅くても12時には寝なければならない。限られた時間の中で話をしたり、時に麻雀したり、飲みに行ったりとやっていた。

 そういう地元の悪友達の中に家具屋の倅がいて、年齢的にKEちゃんと親しくしていた。この倅が結婚することになってKEちゃんが結婚式に招かれていった。さぁ、KEちゃん、今度はおれの番だと尻に火がついた。

 ボス猿が仲人になってKEちゃんが結婚した。結婚式は日曜日にあるから店から出たのはボス猿だけ。ぼくらは店があるから結婚式には出られない。確か社宅が完成していて、はいどうぞという感じで社宅に入った。これで5棟ある内4棟がふさがった。

 KEちゃんが結婚してすぐに山猿忍者に縁談話が出た。そして、山猿忍者は婿に入ることになった。時期的に店が暇な時期であったので、山猿忍者の結婚式には、ぼくも招かれた。というか司会を頼まれた。結婚式の司会なんて生まれて初めてだぞ。大丈夫かと思ったがやるしかない。

 本屋に行って、結婚式の司会の仕方、という本を買って来て読んだ。まぁアンチョコだわな。山猿忍者の結婚相手というのは、TSちゃんといって店にいた人でとてもいい娘さんだ。私は婿取り娘よえっへんとふんぞり返っているところがまったくなく、実に働き者でよく気が付く人だ。山猿忍者に先越されてしまったけど、ぼくが結婚したかったくらいだった。

 ぼくも二十歳頃になると背広を2~3着持っていたから、結婚式に着ていく背広を何するかという悩みはなかった。悩んだのは司会をどうやってするかだ。アンチョコ読んだけど、店にご来店くださるお客様を相手にするのとちょっと案配が違う。

 そして、結婚式の当日。山猿忍者と綺麗に着飾ったTSちゃんが、ひな壇の上に並んで、仲人のボス猿の挨拶から式が始まった。まぁぼくがアンチョコ通り司会をして始めたんだけど、うまくいくかどうか冷や汗たらりだ。

 客席の雰囲気を見ながら披露宴の進行をリードし、そして合間に酒を飲む。司会やるのは、飲んだり食ったり喋ったりで、こりゃ忙しいわ。やる前はどうしよう、どうしようと悩んでいたが始まって酒が入ってしまうと調子が出てくる。

 山猿忍者とTSちゃんに頼まれた、生まれて初めての結婚式の司会は、無事に終えることができた。ぼくは、この後、何人もの友人に頼まれて司会をやっているが、その度に今少しゆっくりと酒飲んでいたかったと思った(ばかたれめが)。年が進み月賦屋時代後期になって、ゆっくりと酒が飲める結婚式に招かれるようになった。やっぱ結婚式の酒は司会しないで飲んだ方がえーな。かなかなかなー。