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必殺始末人 村山集治

必殺始末人 村山集治
ムラヤマ・コンピュータのブログ

ヘアートニック

2009-01-06 12:54:23 | 月賦屋時代前期 仕事外

 ぼくは、昭和38年の大豪雪の後、母から髪の毛を伸ばすように言われた。クラスには髪の毛を伸ばした坊ちゃん刈りが何人かいたが、ほとんどいがぐり頭だった。そんな中就職組の頭が坊ちゃん刈りに変わって行った。

 そして坊ちゃん刈り初体験で店に来た。髪の手入れをどうしたらいいかなんてことには全く気が行き届かない。やることが一杯あってそれどころの騒ぎではない。一つ終わったと思ったら次から次へとボス猿が仕事を言いつけてくる。

 えー。そんなにやるの?。ちょっと勘弁してくれよ。と言えればいいのだが、ボス猿おっかないからそんなことは言えない。髪の毛ぼさぼさにして仕事していたら、よた老君、床屋代やるから床屋へ行ってきないさい。ラッキー!。床屋代もらったのも有難かったが、仕事中に堂々と床屋へ行けるのがありがたかった。

 床屋へ行くと髪の毛を切ってポマードとチックを付けて綺麗にしてくれる。まだ液体整髪料が出ていない時代、店の先輩もポマードとチックで髪の毛を綺麗にしている。ぼくはお金がないからポマードやチックが買えなかった。

 買えなかったというより、髪の毛より食い気の方が盛んだった。貧しさによって純粋培養されてきたぼくには買い食いという習慣がない。買い食いどころか食堂で飯を食べるという習慣もなかった。店に来て初めての休みに先輩に連れて行かれて飯を食べるのが新鮮な体験だった。

 そんなぼくも給料が上がると自分用のポマードとチックを持つようになる。ポマードは手のひらに付けてべたべたこね回して髪の毛に付けるのだが、後で手を洗うのが面倒くさい。

 ポマード付けた後、横にやった前髪をチックを使って垂れないようにする。男の髪の毛の手入れは、ご婦人方のペタペタパタパタほどではないが、それでも面倒くさい。そんなこんなでぼくの頭はいつも鳥の巣状態だった。

 そんな頃資生堂が液体整髪料エムジーファイブを出した来た。ポマードがなくなったので化粧品屋さんに買いに行ったらいいのが入ったよと言って勧めてくれた。使ってみるとポマードより簡単でいい。こりゃいいや。

 それからというものぼくの整髪料はエムジーファイブになった。化粧品屋さんは次々と出てくる値段の高い新製品を勧めるのでたまに高いものを買うこともあったが、そんなものに金かけても仕方がないと思うようになって、エムジーファイブ一本で通すようになった。

 化粧品屋さんはすぐ近くにあるから最初の頃はこまめに買いに行っていた、その内に面倒くさくなって3本4本とまとめ買いをしていたのだが、段々と買いに行くのが面倒くさくなってきた。床屋さんに行ってそんな話をしたら、それなら業務用のやつを取り寄せてやろうかと言われて頼んだ。

 1リットルの容器に入っている。業務用だからケバケバしいラベルが貼ってない。値段は少し安め。こりゃいいや。一箱3本入りを頼んだ。化粧品屋さんで買ったやつが無くなると、その容器に1リットルの容器から移して使う。

 長いこと使っていると容器が壊れることがある。仕方がないから化粧品屋さんに行って探すのだが、エムジーファイブより高級なものばかりでお目当てのエムジーファイブがなかなか見つからなくなってくる。

 整髪料ごときであっちへ行ったりこっちへ行ったりするのが面倒くさい。そんな思いをしながらもなんとか置いてある店を探して使う容器を手に入れている。ぼくの場合、化粧品屋さんで整髪料を買うのは中身もさることながら容器を手に入れるのが目的だ。

 エムジーファイブが登場した時は、男性用整髪料としては画期的なものだった。その後メーカーも次々と商品ラインナップを揃えてきて、今ではエムジーファイブは一番下のラインナップに位置づけられたようで、下手すると置いてない化粧品屋さんもあったりする。

 ハイライトは、ニコチンやタール分が多いタバコということで敬遠されているが、あれが出た頃は初めてのフィルター付きタバコで一番ニコチンやタール分が少ないタバコだった。

 エムジーファイブが一番安いラインナップに位置づけられて、ハイライトが強いタバコに位置づけられても、それは今の世の中がそのように変わっただけの話で、世に出た頃を振り返って見れば両方とも画期的なものだった。

 そういう訳でぼくは、エムジーファイブが世に出た時からずっと変わらず使ってきている。40年も変わらず使っているというのも珍しいが、化粧品業界でそれを売り続けているということは男性用整髪料だからだろう。

 そんな訳で、あけましておめでとうございます。あまり頑張らずに気の赴くまま更新していきます。本年もよろしくお願い致します。


ウイスキーを呑みましょう

2008-12-24 09:27:20 | 月賦屋時代前期 仕事外

 店に入った年はいろいろと新しいことが目の前に繰り広げられ、それに順応するだけで精一杯だったが、お金がなかったのが一番辛かった。でもまぁちゃんと飢え死にするようなこともなく生きてこれたんだから有難いと思わなければいけないだろう。

 5月・6月と普通に給料貰っていたのが、ボス猿が社会保険に入ったからなと言って7月分の給料から社会保険と厚生年金を新たに引いたのが痛かった。5月・6月と引かれない月を経験して、途中から手取りが少なくなるのは辛いのなんのって。でもまぁお陰で年金貰えるようになった。

 まぁそういう思いをしながら年々給料が上がっていく。難しい言葉でいうと可処分所得が増えた訳だ。ぼくが酒の味を覚え始めたのは、店に入って2年目。16歳の頃からだ。同じ位の年齢の人間が何人か寄って、自由に使えるお金が増えると大体同じことを考える。

 誰が言うともなくウイスキーを買ってきた。一人が買ってくるとじゃおれもと買ってきてずらりと並ぶ、さながらウイスキーの品評会の体をなした。一人で全部買うのは大変だが一人1本づつだと簡単に揃う。

 ウイスキーだからがぶがぶ呑む訳にいかない。酒に目覚めて間もない頃だから、ウイスキーを呑んだ直後に水を少し飲んで胃の中をを薄めるとか、ウイスキーを水割りで呑むとかというのを知らない。大体薄めて呑むという発想がまったくない。薄めるなんてもったいない。こういうのは、くいっと呑んで、くーきくなー、とやるのが正当な呑み方だと思っていた。

 誰かがウイスキーを注いだグラスにマッチの火を近づけた。一瞬もやーと青白い炎がゆらめいた。おお、このウイスキーは燃えるのか。こっちのはどうだ。こっちは駄目だな。

 トリス、レッド、角瓶、オールド、ブラックニッカ、まぁ大体この当たりのウイスキーが所狭しと並んでいる。ある時どれがどのウイスキーか当てっこしようということになって、一人が部屋に残って後は事務所の方へ行って待機した。

 もういいよ。かくれんぼうではないが、部屋に残った人の声に従って戻ると、グラスにウイスキーが注いである。多少の色の違いがあるがそんなことでウイスキーを識別する能は持っていない。

 端のグラスから少しづつウイスキーをちびちびやりながら、これは何々これは何々と言っていく。三人か四人でやったのだが、それぞれ言うウイスキーの名前が違う。ぼくが一番旨いウイスキーだと思ってブラックニッカとやったのが実はレッドだった。

 ウイスキーの利き酒は4つの内1つが当たればいい方であまり当たらない。しかしトリスだけは何人かが当てた。ぼくは、これはうまいなとブラックとレッドを間違えたのだが、ラベルの付いた瓶から注ぐとやっぱりレッドはレッドだし、ブラックはブラックの味がした。呑べえの舌など半分ラベルに騙されて当てにならないものだ。

 一度KEちゃんが外観上は味も素っ気もない透明なサイダー瓶を持って来て呑んでみろと言ったことがある。グラスになみなみと注いで一口呑んでみたら、げっ!何だこりゃ。それはな、ウオッカというやつだ、貸してみろ、マッチをしゅっと擦ってグラスに近づけると青白い炎がグラスを包んだ。燃えるのか道理で強い酒だ。

 サイダー瓶に白いラベルが貼り付けてあるだけで、商品という感覚がまったく感じられない。日本なら化学薬品でももうちょっとましな瓶に綺麗なラベルを貼ってあるが、中身が火の付くウオッカでも外観上は味も素っ気もない。ソ連とはいう国はこういう商品の作り方をするのかと思った。

 度の強い酒は燃えるということを知った後は、誰かが強い酒を買って来ると半ば遊びで火を付けていた。これは燃えないな、駄目だこりゃもうちょっと強い酒を買ってこいや。まぁそんなことを言いながらウイスキーを生一本を呑んでいた。

 ブランデーなどというものを買ってきたことがある。見るからに高そうな瓶に金ぴかぴんのラベルが貼ってある。これは高いやつだから呑まないで飾っておこう。テレビの上に飾っておくのだがいつの間にか封が切られて少しづつなくなっていく。

 当然ブランデーが燃えるかどうかをやってみた。マッチを近づけると青白い炎がグラスを包んでゆらりと揺れた。燃えたといってもいつまでも燃えている訳ではなく、アルコール分が少なくなると自然と消えた。アルコール分が少なくなるとといっても呑むと十分に強い酒であることには変わりはなかった。

 ウイスキーを呑むといっても十代や二十代の始めはほとんど遊び感覚で呑んでいる。遊びだからその内に飽きて自然とやめた。給料が増えれば店の二階でウイスキーを呑むより外で呑んだ方が旨い。誘われるままについて行って自然と呑兵衛の道に入り込んで行ったのは仕方がない。金が無いよー。

 東京で独り暮らしをしている人が親から仕送りをして貰わないとやっていけないという話を聞いた。その人仕事しているの?。しているよ。ぼくは金が無いと言いながらも母には仕送りしていたし、定期積み金していたけどな。世の中には、ぼくには分からない優雅な世界があるようだ。かなかなかなー。


長岡の花火

2008-12-08 10:57:54 | 月賦屋時代前期 仕事外

 長岡の花火は、曜日に関係なく毎年8月2日・3日の2日間、信濃川の河川敷で打ち上げられる。ぼくの子供時代は、大した娯楽がなかったので、一年に一回の花火大会を楽しみして毎年母や兄と一緒にゴザ持って見に行っていた。

 伊勢崎に来てからは休みが合わないので見に行けなかったが、店の人数が増えて帰省組、残り組と分けて休みを取れるようになったので、思い切って長岡の花火大会に帰りたいと言ったら、ぼくだけ休みを貰うことができた。

 月末月初めは忙しいから休みは望めないのだが、8月は1年で一番暇なのと、ぼくは事務所の仕事なので、なんとかやり繰りすれば大丈夫だった。

 花火を見るのが目的だったのだが、8月1日帰ったように記憶している。田舎の家に帰ったら姉と子供がいた。どうしたのと聞いたら子育てで疲れたから灰下の湯に湯治に来たという。子供の足や腕には虫に刺された痛々しい痕が一杯ある。

 ぼくは子供の頃魚捕り大好き人間で学校から帰るとカバン放り出して魚捕りに行っていた。近所の仲間達と一緒に山へ探検に行ったりもしていた。自然、蛇やアブや蜂やブヨなどに遭遇したら、回避する術を身につけていた。

 虫に刺されたのか?。うん。と頷きながら掻いている。かゆくても掻いては駄目だよ。それにしても見事に刺されたな。ツベリクリン反応があっちこっちにできている。東京の子供は山の中に潜む危険を察知して回避する方法を知らないのだろうかと不思議に思った。

 母と姉の手料理で一晩泊まって翌日、姉がこれから駅に行くから一緒にこないかという。花火は夜からだからやることもないので一緒について行った。駅について何をするのだろう思って見ていたら改札口から姉の旦那が出てきた。

 何だ出迎えに来たのか。それならそう言えばいいのに。それにしても何しに来たのだろう。姉の所には何回も遊びに行っているので、旦那とはすでに顔見知りだ。一緒に行った子供の足や腕の痛々しい痕を見とがめられて、何してたんだと姉は怒られていた。

 姉は子供時代に山の中で育って虫に刺されたことがあるので、虫に刺されただけだからその内に治るわよ、と大して気にしていなかった。まぁ、ぼくもそう思う。姉の旦那も山の中の育ちだから経験があるはずなんだが、虫に刺された箇所が経験値を上回っていたようだ。

 そして夕刻、母と姉が作ったご馳走を持って、ゴザを抱えて信濃川の土手を向かった。この時になってやっと姉の旦那が花火を見に来たのだと分かった。土手に行く途中で缶ビールや飲み物を買って行く。

 どの辺にゴザを敷いて陣取るか。あの辺がいいな。まだ明るい内についたから割合といい場所が取れた。花火の打ち上げは7時半頃からだったからその前に姉の旦那とビール呑みながらぺちゃくちゃ話しながら腹ごしらえをした。

 ぼくの方は子供の頃から見ているからこれから始まる花火大会の流れは分かるのだが、姉の旦那は始めてだから要領が分からない。こんな草むらの中にゴザ敷いて見るのかという感じだったが、空いていた廻りに同じようにゴザを敷く人が増えていき川の反対側に日が沈んでいった。

 まだ夕映えの残照がある、いつも7時半頃から花火だからもう少しすると始まるよと時計を見ながら話をしていた。そして時刻になって開始の花火が打ち上げられた。長生橋の明かりと対岸の明かりが見えるぐらいで、あたりは真っ暗。

 いよいよスターマインが打ち上げられた。どかどかどかどか、これでもか、これでもかと花火が打ち上げられる。スターマインが終わって単発の花火が幾つか打ち上げられた思ったら、斜め上に上げた顔を戻す間もなく、すぐに次のスターマインが打ち上げられる。

 やはり花火は近くで見ないと迫力がない。長岡の花火は信濃川の中州で打ち上げられる。それを土手の下で見るから迫力満点だ。風向きが悪いとこちら側に煙が来る時があるのだが、その日は反対側に煙がいっていたので絶好の花火見物だった。

 そして、長岡名物三尺玉の打ち上げになった。ぼくが子供の頃は三尺玉も中州から打ち上げられていたのだが、対岸に化学工場ができたので、打ち上げ場所が長生橋の上流に変更になった。

 真正面で打ち上げられるのを見た方が迫力があるのだが、消防が許可しない。花火を見る方は綺麗だと言っていられるが、許可する方は火薬の塊という認識でやっているから綺麗だ、だけでは許可できないのだろう。

 やがてサイレンの音と共に長生橋の明かりが消え、どどーん、と腹にずしりと来る音と共に三尺玉が打ち上げられた。どっかーん。600メートルの高さに直径600メートルの大きな花火が開いた。開き終わると会場から拍手が沸き上がった。

 花火を作る方、花火大会を企画する方、打ち上げを許可する方、会場の警備をする方、そして花火を見る方、それぞれが1年に一回の三尺玉の打ち上げを楽しみにしている。あれ一発幾らくらいするのだろうと考えるのは野暮だからやめておこう。

 長岡は、昭和20年8月1日に空襲に遭った。長岡花火はそれよりも前からあったのだが、空襲で亡くなった人の霊の鎮魂と長岡の復興を祈願して翌昭和21年から8月1日・2日・3日に祭りを行ない、2日・3日と花火を上げるようになった。

 夜九時これにて終了のアナウンスと共に花火の打ち上げが終了した。姉の旦那が、いやー、すごいね、顔を上げたまま下ろせなかったよ。ぼくも顔を上げたまま下ろせないでいたので同感だ。姉の旦那と子供は始めて、姉とぼくは久しぶりに長岡の花火を堪能した。

 堪能したのはいいのだが、敷いてあったゴザを巻いて、てくてくと歩いて帰らないといけない。来る時はばらばらに集まってくるのだが、帰る時は一辺にまとまって帰るから道が混雑する、もの凄い人の群れだ。

 人混みの中子供達が迷子にならないようにして家に帰ってきた。姉の旦那は、観光バスの運転手をやっている。この後のお盆には新潟行きの帰省バスを運転して深夜の国道17号線をぶっ飛ばすのだが、花火大会の時は休みが取れたようだ。

 ぼくも久しぶりに長岡の花火を見ようと思って帰ったのだが、まさか姉夫婦と田舎で出くわすとは思わなかった。店に帰って花火の様子をあれこれ話すのだが、お前だけ見に行ってきやがって、くそ面白くもないという顔をして聞かれてしまった。

 久しぶりに見た長岡の花火は凄かったよー。あー面白かった。しかし、机の上に仕事が山と積まれていた。げえ!。これやらないといけないのかよ。かなかなかなー。


帰省こもごも

2008-12-06 12:30:13 | 月賦屋時代前期 仕事外

 就職列車に ゆられて着いた 遠いあの夜を 思い出す。井沢八郎の、ああ上野駅が出たのが昭和39年。ぼくは4月に入ってから来たので就職列車という熱気を感じることはなかったが、同じような境遇にあったので、歌の雰囲気は肌身で感じることができた。

 就職列車で集団就職した金のタマゴ達の多くは、盆と正月になるとそれぞれの故郷へと帰省した。ぼくも例にもれず盆と正月になると帰省していた。記憶が定かでないのだが、最初の年の帰省は、8月20日過ぎだったように記憶している。

 店の先輩と一緒にバスで本庄駅まで行って上野から新潟方面へ向かう列車がくるのを待った。夜行列車に乗り込んで先輩に誘われるまま一等車に行って、車掌さんが来たら寝たふりして学割で帰った。

 一等車に乗って寝たふりして学割で帰るのはそう長く続かなかった。ぼくは一等車で寝たふりして帰りたかったのだが、一等車の方がなくなってしまった。同時に帰省列車が殺人的な混雑に見舞われるようになっていった。

 最初は、盆と正月といっても8月20日過ぎと、2月20日過ぎの火曜日を臨時休業にして月曜日の定休日と合わせて2日間で帰省していたのだが、段々と人手が増えて、帰省組と残り組で交代で休みを取れるようになって、文字通り盆と正月に帰省できるようになった。

 正月3が日ゆっくりと田舎で過ごして4日に帰って来るパターンで休みを貰って帰る。往きは元日に帰っていたのでそれほどで混雑していない。運が悪いと座れない時があるが大体座って帰れた。

 店に来てから毎年帰省しているが、正月の3が日に雪が降った年はそれほどなかった。帰省を終えて帰る4日になると大体雪が降ってきた。昭和38年の大豪雪は新学期が終わってから襲ってきたのだが、ああいう大雪にならなければいいのだがと思いながら帰路についていた。

 越後はこれから雪の季節、上州は空っ風びゅうびゅうの季節になる。越後の冬は湿気が多い。気温が低いのだが、乾燥した上州の寒さとはちょっと違う。不思議なことに田舎にいる時は素足でいても足がかゆくならない。ということに気が付いたのはいつ頃だったか。

 田舎からの帰りの汽車は大体夕方5時過ぎの急行佐渡に乗る。新潟まで行って始発に乗れば座れるという発想はまったくなかった。急行に乗っても長岡~高崎間は4時間か4時間半くらいかかったと思う。特急ときがあったのだが本数が少なくて全席指定だったので切符が買えなかった。

 年々帰省の人が増えて臨時列車を出すのだが、汽車が進むに連れ途中駅で乗り込む人でぎゅうぎゅう詰めになる。最初は足の裏を付けて立っていたのが、途中からつま先足立になる状態で、経験はないが東京のラッシュアワーより凄い状態で汽車は進んで行く。まさに殺人的な混み具合だった。

 往きも帰りも思うのだが、長岡まで往くと降りる人が多くなって座席が空く。帰りも高崎まで来ると降りる人が出てきて運が良ければ座れそうな状態になる。一番混雑する区間を乗って行く訳だ、しかしそれぞれ土産話を持って行き来する訳だから贅沢は言っていられない。

 冬の帰省は汽車で帰るが夏はダットサンに乗って三国峠を越えていく。夏も年々車の数が増えて、渋滞こそしないものの深夜の三国峠を往来する車の数が多くなった。

 のろのろ運転する車の後ろを何台もの車がついて走っていくのを連合艦隊と言うらしいが、時に連合艦隊の中に巻き込まれながらも隙あらば追い越して行く。三国峠を越えて越後湯沢から先は俄然道がよくなる。

 夜だと地元の車も走っていない。時速100キロくらいですっ飛ばしていく。と言っても時速100キロの緊張感が持続する訳でもなく、時にスピードを緩めながら夜の国道17号線を北へ向かって走っていく。

 最初の内はスピード違反の取り締まりをやっていなかったが、余りにも県外車のスピード超過が目立つというので、新潟県警が夜間のスピード違反の取り締まりを始めた。いわゆるねずみ取りというやつだ。

 ぼくは捕まらなかったが、結構ほいほい捕まっていた。六日町に入る手前当たりはスピード出すのに絶好のロケーションだったのだが、取り締まりの抑止効果であまりスピードを出さなくなった。

 一回スバル360の天道虫で帰ったことがある。往く時から車の調子が少し悪かったのだが、帰りにもっと調子が悪くなった。山の中でエンコしたんではたまったもんではないと思いながら調子の悪い天道虫を騙し騙し運転して帰ってきた。

 途中のドライブインで休憩したときに、後続してきたKEちゃんに、おいマフラーから火を吹いているぞと言われた。最悪の場合はKEちゃんの車で牽引してもらうことができるのだが、三国峠を牽引して越えるのは、牽引する方も、牽引される方もおっかない。特に牽引される方はおっかない。

 やっとこ店までたどり着いたスバル360の天道虫は、翌日すぐに修理に出した。夏の帰省は汽車賃がかからない。その代わり運転するから疲れる。汽車で帰るとぎゅうぎゅう詰めだったからこっちも疲れた、汽車賃がかからない分だけ夏の方が財布に楽だったかな。ボス猿の財布は、ちと痛んだかもしれないけど、ぼくが金銭出納帳付けているからね。

 盆と正月に帰省すると、その時の気分であっちへ行ったりこっちへ行ったりしたが、ボス猿の実家に顔を出すのは欠かさなかった。ボス猿のお兄さんがいて、ぼくが行くと将棋盤出して一番指してくれた。
 
 ぼくは攻めっ気が強いから、十分な体制ができていないにも関わらず、いけいけどんどんで攻めていくと、ほうそう来たかで受けきられてしまって大体負けていた。たまに勝ったことがあったが、あれは勝ったというより負けてもらったのだろうな。

 15歳で田舎を離れて以来、毎年盆と正月には帰省していた。母に顔を見せにあるいは母の顔を見に帰る。3年前に母が亡くなるまで欠かさなかった。2回だけソニータイマー絡みで帰られなかった年があったけどね。かなかなかなー。


盲腸

2008-10-30 12:15:50 | 月賦屋時代前期 仕事外

 ぼくが店に入ってすぐの頃。店を閉めた後に先輩のSKさんが盲腸で入院した。と、聞かされた。そういえば今日はSKさんの姿がないなと思ったが、まだ入ったばかりだったからどの人がどういう仕事をしているかはよく分からない。人のことより自分のことだけで精一杯だった。

 翌日朝たまたま運悪くぼくが電話機の近くにいたら電話が鳴った。お前出ろ。お前出ろと言われてもまだ店に入ったばかりで電話の対応もよく分からない。15歳のよた老少年、もたもたしながらも意を決して受話器を取った。

 受話器を取るや否や、何で椅子持っていったんだ!。早く椅子持って来い!。いきなり怒鳴られた。どこの誰だか言わないで怒鳴られてもリンダ困っちゃう。恐る恐る、あのーどちら様でしょうか?。と聞いても、早く椅子持って来い、と怒鳴るだけで、どこの誰だか言わない。

 声の感じはSKさんみたいなんだが、SKさんですか?。と聞いても、そんなの分かっていて当たり前で話をしているから話が通じない。丁度運良くKEちゃんが来たので電話を代わってもらった。ああ助かった。誰でも最初はそうなんだが電話の無い環境で育っているから電話に出るには勇気がいる。

 その後KEちゃんがSKさんが入院している病院に椅子を届けて一見落着。15歳のよた老少年にとって店での生活は見るもの聞くものすべて珍しい。しかし、すべてぶっつけ本番でやれと言われるから、おっかなびっくりやるしかなかった。

 さて、盲腸だが、そういう手術をするという話は聞いて知ってはいたが、実際に身の回りの人が盲腸になったのは初めてだ。珍しい。珍しいというより怖い。なぜならある日突然盲腸だとなっていきなり手術をするからだ。

 SKさん、術後の経過がよくて1週間ちょっとで退院してきた。そういえば、ぼくはお見舞いに行っていなかった。昼間は店の仕事があるし、夜は学校があるから行く時間がなかったので仕方がない。第一ぼくは、SKさんが入院した病院の場所が分からなかった。

 盲腸というのは伝染病なんだろうか。SKさんが退院して半年くらいしたら今度はKEちゃんが盲腸で入院した。KEちゃんが退院すると、山猿忍者が、その後に店の女の人と次々に入院していく。

 今度はぼくの番かとはらはらしていたのだが、なかなかぼくの番が巡ってこない。巡ってこないほうがいいよあんなもの。ぼくは、盲腸よりもっと怖いものを恐れていた。母からお前は、麻疹にかかっていないから大きくなってから麻疹にかかると大変だぞ、死ぬかもしらんぞと言われていた。

 ぼくの年代より上の人達は、大体子供の時に麻疹を経験している。まれに大人になってから麻疹になると大変だというのは、母の世代の人達の間で語り継がれてきた経験談だ。

 盲腸の手術をやった先輩達からは、そんなにびくびくすることはないよ。笑うと縫ったところが痛いぐらいだ1週間もすれば退院できるから、お前も早く盲腸やってこい。やってこいと言われても、こればっからりは盲腸にならないとやれない。そんな感じで店では盲腸やって一人前というような雰囲気がないでもなかった。

 不思議なもので、新人さんが店に入って来て半年か1年すると、ある日突然盲腸になる。また盲腸か今度はおれかといつもびくびくしていた。ぼくは、盲腸よりも麻疹の方が怖かったのだが、あまり大きな声で言うと恥ずかしいのでひっそりと怖がっていた。子供が熱を出しているお客様の所に行ったときなどは、なるべく近づかないようにしていた。

 大人になってから麻疹になると怖いという話をお客様とすると、そらそうだよと言って、脅かしてくださる。今は予防接種で防止しているが、ぼくの世代の麻疹は、大きくなるための通行料みたいなものだったようだ。

 ぼくは、その通行料を払わずに大きくなった。無賃乗車したようなものかな。30歳くらいまでは本気で麻疹にかかったらどうしようと考えていた。しかし、お蔭様で麻疹にならずに60年間生きてこれた。

 盲腸の方はどうか、ぼくも盲腸をやった。酒ばっかり呑んでいたから麻酔がよく効かず、麻酔が切れた後に頭が割れんばかりの痛みに襲われて七転八倒の苦しみを味わった。笑うと縫ったところが痛い程度で大したことはないどころの騒ぎではなかった。

 麻疹の敵を盲腸で取られた。かなかなかなー。

 ここのところ調子が落ち気味だ。ブログの原稿を書く気が起きてこない。調子が復活するまで少し休みます。ご容赦を。


もう一人の卒業論文

2008-10-22 15:02:39 | 月賦屋時代前期 仕事外

 電話がダイヤル式になったのは、東京オリンピックが終わってからだったと記憶している。田舎の家のすぐ近所に中学校の同窓生KN君がいる。小学校から一緒で学校から帰るとカバン放り出して魚捕りに行った幼馴染みだ。

 KN君は、その後東京の大学に進学した。ぼくは、休みの日にKN君目がけて上京したしたことがある。KN君大学休んで駅で待っていてくれた。まぁ大学の講義を休むくらいだから、どちらかといえばあまり真面目ではないな。

 駅でKN君と出会った後、KN君がこれから奴の所へ行こうと誘ってきた。いきなり行くのだから、来られた方は迷惑だと思うが、大学時代というのはそういうことはあまり考えない。迷惑よりの珍しいのが来たということの方がウエイトが高い。

 結果的に行った先の真面目な友人を一人無くしてしまったのだが、それについては、大事な友人一人無くしてしまった、で書いた。ここではあまり真面目でない方の友人KN君のその後の話を書く。

 真面目な友人の所に行った時、KN君にお前卒論どうした?。と聞かれた。うん。日本における月賦屋の歴史、という本を原稿用紙に50ページ分書き写して出したら通ったよ、と答えておいた。

 日本における月賦屋の歴史、などというのは、その道の関係者以外知らないことで、大学の教授といえども、まず知らないことだ。ぼくが卒論出した教授は、今後も研究を続けるように、という有難い添え書きを書いて卒論を通してくれた。

 KN君めがけて上京してから1年位して、KN君から卒論に使った本を貸してくれと手紙が来た。いいよと返事を出しておいた。そしたら今度の幾日に田舎に帰るからその途中にそちらへ寄る。駅に着くのはお昼過ぎになると思うという手紙が来た。

 店のカウンターの後ろに汽車の時刻表が張ってある。この時刻表は、お客様からバスの時刻を聞かれた時に張ってあるもので、店の人が自分自身の用で使うことは滅多にない。

 当日ぼくは、滅多に使わない時刻表を見て、来るとしたらこの時刻の電車だなと当たりを付けた。しかし、100%という訳ではないので、ぼくの留守中にKN君が訪ねてきたらこの本を渡してくれと支配人に頼んで、家具の出張販売で立てた立て看板を回収に出かけた。

 一通り立て看板の回収を終えた所で予定時刻になったので、駅に行って電車がくるのを待っていたら、ぴったしかんかん。KN君は、ぼくが予想した電車に乗って改札口を出てきた。よう。予想通りの電車で来たな。

 本を持って来ていればその場で渡せば用が足りるのだが、万一予想が外れるとKN君が店で待たなくてならないことになる。まぁ、乗れや。KN君を。立て看板が積んであるダットサンの助手席に乗せて店まで行く。

 卒論に書くんだったら、月賦屋の店の中を見ておいた方がよかろう。ついでに裏側も見ていけばいいよ。駅から店まで車で5分位。すぐに店に着いた。支配人に渡しておいた本をKN君に渡して、はい、これ。

 その後、KN君をダットサンに乗せて再び駅へ。じゃぁな。見送っている暇がないので、駅でKN君を降ろすと、ぼくは再び立て看板の回収に向かった。店で使っている立て看板は、布張りの捨て看板とは違って、がっちりした枠組みにトタンを張った丈夫なやつだ。

 立て看板を出すとすぐに土木事務所から電話がかかってくるので、電話がかかって来る前に回収してしまう。催しごとが終わった後の後片づけはさっさとやらないといけない。家具の出張販売は、月に二回の年中行事になっているから手慣れたものだ。

 それから月日が経って忘れた頃にKN君からちょっと大きな郵便物が届いた。外見を見てあの本だなとすぐに分かった。開けてみたら中に手紙が入っていた。お陰で論文通った、就職はどこそこに決まった。

 そうか就職するのか、これからは会いたくても会えなくなるな。と思ったが、日々の仕事が忙しくそういう感慨にふける間もなかった。日本における月賦屋の歴史、書き始めるときりが無いし、ボス猿は、月賦屋の正当派とは言い難い側面があるのでやめておこう。

 でも、ぼくが上京して金貸しの子分から借りて来た、日本における月賦屋の歴史、という本のお陰で二人卒論を書いて卒業できた。あまり貸すと、もうその手は桑名の焼き蛤になるので、その後この本で卒業した人はいない。

 今はその時とは別のもっと詳しい本を持っている。もう日本には月賦屋という商売そのものが存在しないから、その歴史を掘り起こして卒論に書くと卒業できると思う。誰かやってみる者はおらんかね。かなかなかなー。


刺青もんもん

2008-09-21 14:24:13 | 月賦屋時代前期 仕事外

 MRがスナックを始めた。忙しい内は静かなのだが、店が暇になると飲みに来い、飲みに来いと電話かけてくる。近くなら下駄履いて歩いて行くのだが、MRのところは車で行くか、電車でないと行けない。

 今ほどやかましくないとはいえ酒飲み運転は違反だ。第一酔っぱらって運転したら危ない。酔わない程度に酒を飲むなんていう芸当は当時のぼくにはできない。実は今でもできない。酒は酔うために飲むのだ。

 電話しても行かないものだから、MRの方が業を煮やして車で迎えに来る。これから銭湯に行くところだと言っても、強引に車に乗せられて拉致されていく。店というのは朝から晩までひっきりなしにお客様が来るというものでない。

 ぼくも午後から店番していて4時頃になると新聞読んで暇つぶしをしていることがあった。売上が坊主という日は無かったが2月、8月かなり売上の少ない日があった。

 MRも同じで、店を開けて準備万端整えていても売上が坊主になりそうになると話し相手を求めて電話をかけてくる。スナックのカウンターの中は狭いから閉所恐怖症になる。その感覚はぼくにはよく分かる。

 MRのところは遠いので店が終わってからの時間では行けない。休みの日に行った。たまには蝶ネクタイ締めてカウンターの中に入ったりして結構楽しんでいた。そしてスナックの常連さんとも仲良くさせてもらった。

 ある晩、MRのスナックのカウンターで飲んでいたら、ぼくが知らない常連さんが三人ほど来て椅子席に座って飲み始めた。しばらくして、椅子に座ったお客様がカウンターの中にいる臨時のママさんにツケが幾らか聞いた。名前を言わないから臨時のママさん調べるのにとっかかりなくて困っていた。

 ぼくは、気安く、どちら様ですか?。と、お客様に聞いた。どちら様ですか?。という言葉は、普段店で使い慣れている言葉なので、何の抵抗もなく出た。ぼくの方は何の抵抗も無いのだが、言われた方に抵抗があったようだ。

 おい。おめえ。お前はいったい誰だ。言いながら着ていた白い筒袖をすっと上に持ち上げた。げえ!。やばい。刺青もんもんだ。おれはここの店の者以外から名前を聞かれる覚えはない。はい、すいません。白い筒袖をちらっちっらとたくし上げて、そのたびに刺青もんもんがちらちら覗く、今なら、わぁ綺麗。幾らかかった。でうやむやにしてしまうところだが、当時のぼくは紅顔の美少年。ぶるってしまった。

 店のお客様にヤの字さんがいらっしゃるが、ここで名前を出す訳にはいかない。困ったなと思っていたら、同じカウンターに座っている人が助け船を出してくれた。なんでも刺青ちらちらさせていた人の上の方の人を知っているとかで、その人の名前を出したらおとなしくなってくれた。あー助かった。

 銭湯で、綺麗な刺青をしょっている人とたまに遭う。そういう人にこちらから声をかけることはないが、背中の彫り物はちらっちっらっと拝ませてもらう。風呂から上がった後の彫り物は艶やかなものだ。

 ご老人で背中に彫り物を入れておられる方と一緒になることもあった。年を取ると艶やかというより、しわしわだ。サウナや日帰り入浴施設で刺青を入れた人お断りという看板を見ることが多い。

 2年ほど前に行った銭湯で刺青を入れている人と遭遇した。わぁ綺麗。幾らかかった?。思わず言いそうになるほど綺麗な彫り物だった。刺青見せてすごまれるのはちょっとご遠慮願うとして、静かに拝ませてもらう分にはいいんでないかな。あれは綺麗だよ。かなかなかなー。


MRがスナックを始めた

2008-09-20 13:48:29 | 月賦屋時代前期 仕事外

 いつも店を閉める前になるとその日の集計をして記帳をする。いつものようにソロバンパチパチ計算していたら電話が鳴った。支配人が電話に出て、おい、よた老電話だと受話器をこちらに向けた。誰だろうこんな時間にと思って電話に出たら、定時制の同級生MRだった。

 今近くに来ているから店が終わったら出てこい。出て来いたってこっちだって都合がある。しのごの言わずに出てこい。場所はどこそこだ。仕方がない店が終わったら行くか。

 言われた場所まで行ったら、たしかにそれらしき店がある。店構えが飲み屋でもないし、喫茶店でもない、ちょっと今まで見たことがない店構えだ。入り口の扉を開けて中へ入るとMRがカウンターで飲んでいる。

 MRの隣に座ったら、おい、何頼むとメニューを出してくれた。飯食ってきたばかりだから要らない。そうかじゃビールでも飲めや、MRが注いでくれたビールを飲みながらメニューを眺めていた。飲み屋でもないし喫茶店でもないし、それでいて酒は出てくる、ツマミはというと大したものはない。どうも不思議な店だ。

 後で聞いたらスナックというのだそうだ。スナック?。よう分からんな。あんなんで客が来るのか?。ぼくが、酒を飲むところは寿司屋かホルモン焼き屋だ。ちゃんとしたものを食べさせて酒を飲ませる。あの店はそういう飲み屋という観念では捉えられない不思議な店だった。

 しばらくして配達の帰りにMRの家の前を通ったら何やら小屋のようなものを建てている。何作っているんだ?。スナック作っている。誰がやるんだ?。おれがやる。よせ、お前は昼間別の仕事をしている。昼と夜二足の草鞋が履ける訳がない。

 止めたって駄目だ。昼間働いて夜学ぶ。お互いに定時制で二足の草鞋掃いてきた。その代わり定時制の方は先生がかなり手加減してくれた。今度はお客様相手の仕事になる。お客様は手加減してくれない。それでもやるというのだから止めても仕方がない。

 身体が持たないぞという心配があるのだが、若いということなんだろうか、まぁなんとかなるだろうと思っていた。ぼく自身、朝9時から夜9時まで働いて、その合間に学校へ行って帰って来て飯を食って銭湯に行って帰りにたまに酒飲みに行くという生活ずっと続けているから、身体が持たないという心配はそれほどしていなかった。

 スナックの建物が完成に近づいたある日、MRの所に行ったらスナックの床に敷くカーペットと、お客様用の椅子とテーブルを売ってくれと頼まれた。困った。店で売っているカーペットや絨毯はお座敷用で、スナックの床に敷く用途のものでない。

 取り寄せればいいのだが、そのために1本や2本仕入れて敷く工事していたのでは月賦屋の採算に合わない。椅子とテーブルは、完全に月賦屋で取り扱う品物ではない。困った。

 中学校三年生の冬休みアルバイトに来た時KO君と2人でコタツ板を配達に行った当たりに大きな家具屋ができていた。仕方がないあそこへ連れて行くかと、MRと二人してそこへ椅子とテーブルを買いに行った。

 偶然というか何というか定時制の上級生がいて、これこれしかじかと手っ取り早く話が済んで、後は指定の日に届けてもらうだけになった。カーペットは、バッタ屋で内装関係の仕事を開拓し始めていたKO君に頼んだ。

  KO君がカーペットを持って来るという日、ぼくもMRの所に行っていた。スナックは外装が出来て若干の内装を終えれば開店できるところまでできていた。しかし、約束の時間になってもKO君が現れない。

 どうしたんだ、どうしたんだと、MRに言われる。バッタ屋に電話しても出ているからと言われるだけ。時間だけが刻々と過ぎていく。MRは、どうしたんだ、どうしたんだと言う。そりゃそうなんだ、カーペットを敷かないとその上の物事が始まらない。KO君が約束を違えるようなことをする訳がないから、ちょっと待っていてくれ。

 夜10頃になってやっとKO君が来た。おお来たか交通事故でも起こしたんじゃないかと思って心配してた。早速敷くべ。ばたばたと大忙しでカーペットを敷いて、若干の工事をしておしまい。これでやっとその上に載せる椅子やテーブルを入れることができる。

 もう夜も遅いからぼくとKO君はそのまま帰った。カーペットを入れた後まもなくスナックがオープンした。ぼくは、オープンの後の休みの日にMRの帳面付けのチェックに行って、夜スナックで一杯ご馳走になった。

 スナックという業態が出来た珍しさもあって結構お客様が来ておられた。小料理屋でもないし、焼鳥屋でもないし、寿司屋でもないし、これといったつまみらしいつまみがない。本当にちょこっとしたものをつまみに飲む。唯一記憶に残っているのがスパゲティだ。

 高度経済成長いけいけどんどんの真っ最中。時代が今までの価値観とは別の価値観で酒を飲ませる店を求め始めてきていた。まぁ、商売になればどんなやり方でもいいんだけどね。かなかなかなー。


ムコ話

2008-09-16 14:43:01 | 月賦屋時代前期 仕事外

 店では家具の出張販売を方々でやっている。ある地区で商店の倉庫を会場に借りた。倉庫の中をきれいに掃除して持って行った家具を並べる。会場の設営は、真っ黒黒助になって1日かかる。その地区にはすでにダイレクトメールを出してある。当然会場を貸してくれた商店にもダイレクトメールが届いている。

 そして翌日、翌々日と2日間に渡って出張販売を行なう。ダイレクトメールを出してあるからお客様が買いに来てくださる。戦争が終わって20年余り、家の中を見回してもろくな家具がない。初回金無しの現物先渡しの出張販売だから、売れる、売れる。

 そして配達して、残り荷物をトラックに積んで店に帰った後には、きれいに掃除された倉庫が残る。ガタイのでかい家具を商うにしては仕事の仕方が鮮やかだ。倉庫を貸してくれた商店は、ああいうふうにしてお客様を集めて品物を売るのか。と、ことの顛末の一部始終を見ていた。

 家具の出張販売が終わってすぐ。支配人が、おい、よた老。あそこの地区の名簿貸してくれと言ったので、事務所から名簿を持って来て渡した。支配人は何に使うのか言わなかったが、しばらくしてから戻ってきた。

 そして、10ケ月後その地区の満期がきたので、またその商店の倉庫を借りて家具の出張販売をした。家具の出張販売は月に2回の年中行事になっているので、どこでやっても手慣れたものだ。

 会場を貸してくれた商店は、去年の出張販売の後、支配人から名簿を借りて自分の商売用にダイレクトメールを出してうまくいったそうだ。それで支配人が名簿貸してくれと言ったのかとやっと分かった。役場に行って住民票閲覧して名簿作るのは大変だが、あの時代名簿さえあればダイレクトメールは効き目抜群だった。

 二回目の出張販売が終わった後、支配人からそんな話を聞きながら、お前あそこの家にムコに行けと言われた。一番上の娘だ。お前も見ただろう。見るも見ないも、そんな話の展開になっているとはまったく予想しないで仕事していたから、頭の中があわわわになってしまった。そういえば可愛い娘がいたな。

 まだ二十歳で夜間の短大に通っていた。土曜日の講義を受けるために、学校へ行くからダットサン貸してくれと支配人に断って、そこの家から学校に行った。ダットサンに乗って行く時、そこの家の人の視線を感じていたのを覚えている。どうも見込まれてしまったようだ。

 ムコと言われても何が何やら分からない。あそこの家は土地がある、こんないい話はない。お前ムコに行け。支配人が勧めてくれる。土地があるのは見ているから分かるが、ちょっと待ってくれ話が飛躍しすぎているぞ。

 支配人には話さなかったが、ぼくは母に仕送りをしている。ムコに行って仕送りできるのか。仮に先様がいいと言ってくれたとしても、今度はぼくの方が断る。だからこの話は言えない。どうだと言われてもYES、NOの答えが出ない。相談するといっても支配人以外相談に乗って貰える相手がいない。その支配人が一人で乗り気になっていた。

 実際あれは困った。KEちゃんやKO君に話をして根回しの風を吹かせてから話をしてくれれば、それなりに心の準備ができたのだが、いきなりムコに行けと言われたもんだから、びっくりするだけで思考があわわになってしまった。

 少年航空兵だった支配人は、仕事の上で時々足が地から離れて、一挙に飛躍した話をすることがあるが、それはいずれ足が地についたやり方におさまる。ぼくのムコ話も一挙に足が地から離れてきた。仕事の話ならまたいつものことかでやっていけばいいのだが、今回はちと足が地から離れすぎていた。

 結局YESとも言わないNOとも言わない、だんまりを決め込んだ。先様に問題があるのではなく、ぼくの方に問題があった。家が貧しいということは罪なことだ。

 米糠三升あればムコに行くな。という昔の人の言葉はこの時に覚えた。しかし、米糠じゃ飯は食えない。米糠三升で何ができるのだとずっと思っていた。最近、糠漬けをすることを覚えた。ああなるほど、米糠三升あれば糠床作って糠漬けができる。付加価値の低い米糠から、付加価値の高い糠漬けができる。米糠三升あったらムコに行くなはこういうことなのかもしれないなと思ったりしている。

 話が逸れた、家具の出張販売が終わった後の残り注文を配達に行く。先様はすっかりその気になっている。表面上は、ぼくの方に断る理由がないし、先様にも断られる理由がない。ぼくが、これこれしかじかと言えばいいのだが、それはちょっと言えない。そんな時に先様の娘の顔を見るとぐらっとくる。可愛い娘なんだよこれが。

 ちょっと支配人が事を焦りすぎた。後2~3年経ってから言ってくれれば、YESと言ったかもしれなかったが、そこまで待ったらお前が呑兵衛になる。そりゃまぁそうかも知れないが、二十歳になってすぐではまだ幼すぎた。ぼくは、おくてだよ。かなかなかなー。


酒飲みたい

2008-09-10 16:20:53 | 月賦屋時代前期 仕事外

 閉店後の店の二階には地元の悪友達が誰か遊びに来ていた。KEちゃんが結婚し、山猿忍者が結婚し、KO君が退職すると、店の二階で寝泊まりするのは、ぼくとIK君の2人だけになった。

 IK君は酒もタバコもやらない。いたって品行方正だ。今まで毎日のように遊びに来ていた地元の悪友達が段々来なくなった。まぁ、そういう年代を卒業したということなんだから、それはそれでいいことなのだ。

 酒飲むべと言っても毎日酒飲んでいる訳ではない。毎日飲んだら金が続かない。一週間に1回とかせいぜい行っても2回だ。ぼくだって品行方正な美少年だからね。地元の悪友達が遊びに来なくなってしばらくした頃。酒飲みたいという気持ちになってくる日があった。お金が無いから我慢しているのだが、もう我慢できないとなる。

 銭湯帰りにいつもの寿司屋に行って酒飲んで帰るかと出かけた。今まで寿司屋に一人で酒飲みに行ったことはない。大体誰かと一緒に行ってた。今日は始めて一人で行く。最初が一見さん、二回目が返し、三回行くと馴染み。ぼくは一人で行くのは初めてだが、十分にお馴染みさんになっている。

 銭湯に行って寿司屋に着くのが大体10時過ぎ。この時間になると寿司屋も忙しいところが終わっている。右手でのれんをひょいとあけて、はいこんばんわ。丁度うまい具合にカウンターが空いている。

 板さんが、あい、いらっしゃい。威勢のいい声で迎えてくれる。よた老さん、今日はシマアジのいいのが入っているけどどうだい。板さんのお勧めは素直に受ける。うん、じゃそれちょうだい。カウンターに座ると黙っていても看板娘がお銚子2本持って来る。

 お通しとシマアジを肴に酒をぐびりと飲む。いやー、生きていて幸せだったと実感する。またお猪口に注いでぐびりと飲む、お銚子1本すぐに無くなる。シマアジというからアジかと思ったらそうでもない。白身のうまい肴だ。

 酒というのは不思議な飲み物だ。お銚子1本目は1本目のうまさがあり、2本目になると2本目のうまさがある。もうちょっと飲みたいなと思うと、もう1本追加を頼む。

 寿司屋のネタは時価だから値段が分からない、内心高いんだろうな思いながらも懐具合と相談しながら飲んでいる。まぁ、お銚子3本位が丁度いいところだったんじゃないかな。お愛想。幾ら幾らと言われた金額を払って店に帰る。いい具合に酔っている。千鳥足にはならないが歩いて帰る。

 一人で行くことを覚えると味をしめる。3日位するとまた酒飲みたいとなる。待て待て懐具合と相談だ。一晩我慢しても翌日はもう我慢できない。銭湯の帰りに、今晩わ、あい、いらっしゃい、で行くことになる。

 寿司屋でなくて、もう少し安いところで飲めばよかろう、ぼくもそう思う。しかし、この寿司屋はKEちゃんや山猿忍者達に連れてきてもらったところだ。15で親元を離れて見ず知らずの上州に来たぼくにとっては、知らない店に行くのは恐い。お馴染みさんは、店の方からだけ見た言葉ではないよ。

 1週間に1回とか2回とか行っていたのだが、その内に金が無くなってしまう。金が無くても酒は飲みたい。どうするか。寿司屋がツけで飲ませてくれるかどうか、月賦屋がお客様に物を売る感覚で自分自身を値踏みして一丁やってんべ。

 銭湯の帰りに寿司屋に行って、はいこんばんわ。板さんが、あい、いらっしゃい。威勢のいい声で迎えてくれる。よた老さん、今日はカンパチのいいのが入っているけどどうだい。うん、じゃそれちょうだい。板さんのお勧めには逆らわない。

 黙っていてもお銚子が二本出てくる。寿司屋の看板娘に、今日はお金が無いんだけどツケで飲ませてくれない。うん。いいわよ。助かった。お銚子引っ込められて店から放り出されたらどうしようかと思った。

 お猪口に酒を注いで、お通しのイカのげそを肴にぐびりとやっているとカンパチが出てくる。一口飲めば一口目のうまさ。二口飲めば二口目のうまさ、酒というのは、まことにもって不思議な飲み物である。

 まぁ大体3本飲んで打ち止めで帰る。10頃行って11時頃帰ったかな。大体そういうパターンが出来ていた。今日はお金を払わないから、お愛想とは言わない、じゃまた来るからね。寿司屋ののれんを右手で開いて格好良く出る。

 そして、給料を貰って銭湯の帰りに寿司屋に行って酒飲んでツケを払ってくる。板さんの勧めるままに肴を頼んでいたのだが、目の玉が飛び出るほどの金額ではなかった。

 ぼくは、寿司屋の裏側を知らないが、板さんが作るものは、板さんに価格決定権があったみたいで、ぼくの分はあまり高くしないようにしてくれていたようだ。

 一週間に十日来いと言われても七日しかないから無理だ。ぼくは、品行方正、紅顔の美少年だから深みにはまって毎晩行くようにならない。まだ毎月母に仕送りしている。定期積み金もしている。自由になる小遣いの額が限られている。毎晩行きたくてもお金が許さなかった。

 それにしてもよくツケで飲ませてくれたとお思いのあなた。実は伊商の定時制を卒業した時に、卒業記念大宴会をこの寿司屋の別館の割烹でやっている。十分に顔パスができていたんだ。かなかなかなー。


酒飲みに行くべ

2008-09-01 15:31:07 | 月賦屋時代前期 仕事外

 店が終わるといつもの地元の悪友達が店の二階に遊びにきた。丁度給料貰った後で、みんな懐具合がいい。おい。酒飲みに行くべ。行くべ、行くべで何人かで夜の街に繰り出した。

 SEちゃんは、商売柄夜の街には詳しい。一軒の飲み屋さんに入ってへべれけになるまで飲んでしまった。飲んでいる内はそれほどでもなかったのだが、店の二階に戻ったら、うっぷ。げー。吐いてしまった。金払って飲んだものを吐き出してしまうとはもったいない。などとは言ってられない。

 吐いて楽になったところで、SEちゃんが、まだ吐き足りない、水がぶががぶ飲めというので、がぶがぶ飲んだら、うっぷ。げー。飲んだ水をそのまんま吐き出した。よーしそれで楽になるべ。おら帰るからな。SEちゃん帰っていった。

 大体こういう日の翌日はひどい二日酔いになるのだが、水がぶがぶ飲んで吐き出したお陰かそれほどひどい二日酔いにならずにすんだ。さすがSEちゃん酒飲んだ後のケアを心得ている。

 そして、別の日今度は近くのホルモン焼きに行った。この店は銭湯の帰りによくよる店だからお互いによく知っている。当時の看板時間が夜12時だったと思う。いつもだと看板時間まで飲んでいることないのだが、その日は遅くなってから行って盛り上がったせいか、看板だよ、言われた時にまだ飲み足りなかった。

 看板かしょうがない、じゃ、うさぎやへ行って飲むべと言ってホルモン焼き屋を後にした。勘定を払う時にブロックを運ぶトラックの運ちゃんが2人いて、その人達も勘定払って店を出た。

 うさぎやへ行くべく歩いていたら、後からブロックの運ちゃんがおれ達も連れて行けとやってきた。両方とも酔っぱらっている。今はどうかは知らないが、あの時代、看板時間以降に酒類の提供をしていけない、ということになっていた。

 なっているのを承知で、看板時間以降に酒飲みに行くということは、お互いに違反だということを承知して行く訳だ。初めてのお客様が一見さん。二回目が返し。三回行くと馴染みになる。

 SEちゃんが、うさぎやの馴染みだから、ぼくらもついていけるのだが、どこの誰だか分からないブロックの運ちゃんを連れて行く訳に行かない。当然SEちゃんが駄目だと断った。

 そしたら、ブロックの運ちゃんがいきなりSEちゃんを殴りつけた。あおりを食ってぼくも殴られた。殴っちゃうと向こうは逃げ足が早い。すたこらさっさと逃げて行った。

 ぼくは、何が起きたのか要領を得なかったが、おい、SEちゃん大丈夫かと足元にうずくまっていたSEちゃんを抱え起こした。暗いから様子が分からないまま、うん、大丈夫だというので、うさぎやへ行くのをやめてお互いに帰った。

 店に帰ったらメガネが壊れているのに気が付いた。夜中の12時にああだこうだしても始まらない。明日の朝早起きしてメガネ屋にいかなければなと考えつつ寝た。それにしても殴られたところが痛い。

 そして、翌朝少し早く起きてメガネ屋へ行こうとしたらSEちゃんのお兄さんが店の裏口からやってきた。お前ら何をやったんだ。内のSEは熱出して寝ているぞ。ええ!。昨日は暗かったから分からなかったけど、そんなにひどいの。

 ひどいも何も、お前ら毎晩遊び歩いていつかこうなるかもしれないと思っていた。顔に絆創膏貼っているけどお前もやられたのか?。うん、メガネ壊されたからこれからメガネ屋に行こうと思ってたとこです。

 店が開く前にメガネ屋に行って新しいメガネを作ってもらった。しかし、殴られて痛い思いした挙げ句にメガネ代まで払わなくてはならないとは頭くんな。と思った。

 そして、店が終わった後、SEちゃんのところに見舞いに行った。SEちゃん熱出して寝ていた。1日寝て大分よくなったようだったが、ひどいぶん殴られようだった。お兄さんが側で晩酌始めてお前も飲むかと言われたけど、さすがに遠慮した。

 そして、昨日のホルモン焼き屋に行ったら、親父が心配してハイライトワンカートンそっと寄こした。何これ?。いいから持って行ってくれ。何だか分からないけど、酒飲んで貰ってきた。当時のワンカートンは20個入りだ。

 SEちゃんのお兄さんは、その日の内に相手を捜し出してぼくのメガネ代を弁償するように掛け合ってくれた。あー助かった。SEちゃんのお兄さんとぼくは、別の縁で繋がっているのだが、この時点ではお互いに分からないでいた。かなかなかなー。


NK木工の倉庫

2008-08-30 14:14:21 | 月賦屋時代前期 仕事外

 店の取引先にNK木工さんがある。市内にあるのだがいい品物を作る。ボス猿が家具の出張販売に持って行く事務用品を入れる木の箱を作ってくれた。蝶判付きで蓋が閉まる。格好はいいのだが深すぎてあまり使い勝手がよくない。そこで底が浅くて広めの木の箱を作ってくれた。蓋は板をかぶせるだけになっていてなかなか使い勝手がいい。

 前に使っていた箱が余った。ぼくは店の暇な時にその箱を持ってNKさんの工場に行った。道具箱にするための細工をするためだ。NKさんのところには木っ端がたくさんある。いい道具もある。半日掛かって道具箱に仕上げて帰ってきた。

 お客様のところに家具を売る。売った後に引き出しが開かなくなったとかいろいろとクレームがくる。そういう場合は道具を持って行ってお客様の所で削って引き出しの開け閉めがうまくいくようにしてくる。木は呼吸をしているから環境の変化によって膨張したり縮んだりするからこれは仕方がないことだ。

 問題は道具箱だ。道具は店にあるのだが、持ち出すための道具箱がなかった。できればいろいろ入れてトラックに積んでおいて、出先で何か頼まれたらその場でできた方がいい。そこで空いた木の箱を使って道具箱にした。

 道具箱を作った翌日、足の股が痛い。半日しゃがんで細工をしたから筋肉痛がきた。普段やり付けない格好はするもんじゃないな。痛いのを我慢して店にある道具を一揃え道具箱の中に入れた。この道具箱持ち運びが楽にできるように洋服タンスの取ってを付けておいた。

 洋服タンスの取っ手はあまり丈夫じゃないから、ぶら下げて車庫まで行き帰りするときはそっと持って行った。トラックに積んだままにしておければいいのだが、道具を盗まれると仕事にならなくなるから、車庫への行き帰りに道具箱を持って歩くのが仕事になった。

 この道具箱結構重宝して使った。今ならプラスチックの道具箱がホームセンターにいけば買えるが、当時は道具箱そのものが売っていなかった。スチールの道具箱を買ったのは、随分後になってからだ。

 話が変わってNK木工さんだ。家具の出張販売をするとこれと同じ物をくれという物の中に大体NKさんのところで作った品物のがある。その他に店でも定番商品としてNKさんのところの品物を並べてある。

 NKさんところの品物はいいからよく売れる。売れると発注する。NKさんはそれを作って配達に来る訳だが、配達するのが面倒くさい。中小の木工所はどこでもそうだが配達専門の要員を抱えていない。ボス猿が雨漏りの修理をしていたのと同じように、NK木工所さんの配達は社長自らがトラックに品物乗せてやってくる。

 市内だから大した距離ではないから余計仕事が中途半端になる。NKさん一計を案じ、木工所の敷地の空いている所に倉庫を建ててくれれば地代はいらないよと支配人に言った。そうかそれじゃ建てるかでNKさんの木工所の敷地に倉庫を建てた。ぼくはそういう話を全然聞いていない。

 ある日珍しく支配人が一緒に配達に行くというので、一緒に行ったら帰りにNKさんの所に行けと言う。言われるままNKさんところに行ったら見慣れぬ倉庫が出来ていた。

 NKさんは倉庫を建てたのかと思っていたら、支配人が倉庫にトラックを付けろという。よその倉庫に無断でトラック付けては駄目だろうと思ったが、バックして倉庫にトラックをつけた。

 支配人はトラックから降りると倉庫のシャッターの鍵を開けて中へ入った。おいおいそれじゃ泥棒だよと思いながらもぼくも中に入った。倉庫の中にはNKさんが作った品物がすでに入っていた。ぼくは具合が分からずに目をきょろきょろさせていたら、支配人がにやにやしながら、これこれしかじかと説明してくれた。

 早速倉庫に入っていた品物をトラックに載せて店へ帰って並べた。これならNKさんは配達する手間が省けるし、店は地代ただで新しい倉庫を作ることができた。両方とも得だ。

 数日後、大工さんから倉庫を建てた費用の請求書が来た。ボス猿はそれを払った。ぼくはそれを特殊仕訳帳になっている金銭出納帳に付けた。倉庫を建てるのはこれで二つめだ。最初の倉庫は背高のっぽで下がコンクリート。今度の奴は、高床式で地面から三尺以上上がった所に床が張ってある。正倉院じゃないんだからトラックの荷台に合わせて床を張ってくれれば楽なんだけどな。かなかなかなー。


MRが独立した

2008-08-29 16:45:17 | 月賦屋時代前期 仕事外

 ぼくが夜間の短大に通い始めてしばらくしてからだったように記憶しているが、伊商の定時制で一緒だったMRから電話があった。親父さんがやっていた工場が倒産したので、親父さんと別れて独立するので帳面付けの面倒見てくれという。

 MRは、野性的な感は動くが、帳面付けはちょっと無理という奴で、ぼくのところに白羽の矢を立ててきた。店の近くならいいのだが少し離れている。税理士先生のところから金銭出納帳を買って来て、その他に必要な帳簿を用意して、MRの嫁さんに付けてもらうようにした。

 ぼくは、月に一回MRの所に行ってそれらの帳簿をチェックして、元帳転記をして試算表を作った。店と違って取引の絶対量が少ないので比較的楽に終わる。

 とはいっても帳面付けが分からないのが付けている帳簿をチェックするのだから、これは何だ、これは何だと聞くためにMRが側についている。チェックが終わると元帳転記をする。手書き時代の元帳転記は、ソロバンパチパチしなければならない。結構手間が掛かる。終わると夕方になる。

 夕方になるとMRの嫁さんがお勝手仕事を始めて酒の支度をしてくれる。まぁ帳面付けよりも終わった後に酒飲むのが楽しみでやっている訳だが、その辺のことはMRも十分に心得ていて、夜は一緒になって酒飲みをする。下手するとそのまま麻雀が始まったりする訳だ。

 MRの所の帳面付けは月に一回だが、配達の途中にちょこっと寄ったりしていた。ある冬の午後一人で配達に出た。ぼくは冬になると足のむずむずが出て、かゆくて仕方がない。配達が終わって帰路にMRの所がある。足のかゆみを我慢しながらMRの所へ寄った。

 家に入るなり靴下を脱いで、かゆい足をふうふう息を吹きかけた。春になれば直るのは分かっていても今のかゆさがたまらない。足首から切ってやろうかと思うくらいかゆい。かゆみが少しおさまったところで靴下履いてトラックに乗って店に帰った。冬の年中行事とはいえ切ない体質だ。そういうこともありながらMRの所には月に一回帳面付けのチェック行っていた。

 そしてある時、銀行から金借りるので融資の申込書を書いてくれと言われた。時間がないから今度の休みに行くと返事をして、休みの日に行ってみたら、勘定科目に適当に金額が書いてある紙を渡された。これどうしたんだと聞いたら、何かよう分からないが適当に格好良さそうに金額書いておいた。と言う。

 分からない者は強いとはいえ、これにはたまげた。おめーこれじゃ金は借りられないぞ。こういうのはちゃんと帳面の数字に基づいて書くんだ。と言って、付けてある帳面を元に銀行へ出す紙を仕上げてやった。その晩また酒飲みが始まったのは言うまでもないが、MRの帳面をチェックし始めたことによって、この後ぼくの人生に大きな影響が出ることになる。かなかなかなー。


KO君退職する

2008-08-28 15:11:19 | 月賦屋時代前期 仕事外

 昭和43年1月。ぼくは、二十歳になった。公民館で成人式がある。日曜日と祝日は店を休めないのだが、成人式の日は、KO君、IK君とぼくの三人が休みをもらった。KO君だけは、特別に三日だったかの休みを貰って北海道に行った。

 ぼくとIK君は、成人式に出るために公民館に行った。市内の中学校を卒業していれば、かっての同級生と顔を合わせることができるのだが、異境の地での成人式は顔馴染みがいる訳ではないので、出たという記憶しかない。しかし、今のように若者が成人式で騒ぎを起こすというようなことはなかった。

 成人式のお祝いにと梅の苗木だったかをもらって帰った。今思えばあの苗木は、社宅のどこかに植えておけばよかったと思うのだが、用地を買ってあっても、社宅が完成していなくて、どこに植えたら邪魔にならないのかが分からなかった。仕方がないから店の裏の人にやってしまった。

 ぼくの成人式の感想はこんなものだ。酒もタバコも堂々とやっていたから、これでやっと少年Aでなくなったなという感じだった。

 さて、KO君の方だ。KO君は、一人北海道に旅立った。当時出始めの国産旅客機YS-11に乗って行ったのだそうだが、出来たばかりのYS-11は、空調が悪くて毛布を配られたそうだ。タダでさえ寒い所へ行くというのに空の上で毛布にくるまって行ったんではたまったものではない。

 羽田空港から寒い思いをして行った北海道。行った先の親戚は、ストーブをがんがん焚いて室内では半袖で過ごしていた。まぁちょっとこの気温差は、いくら若くてもたまらんわな。風邪引いたー。店に電話がかかってきた。

 KO君は、風邪引きに北海道へ行ったのか。やっぱ寒い時に寒いところへ行くもんじゃないな。などと言いながら帰りを待っていた。しばらくしてやっとKO君が診断書を持って帰って来た。診断書なんか持って来なくてもいいのにと思ったけど律儀なんだよね。それも本人名義の診断書でなく、親戚の人名義の診断書だった。

 社会保険の保険証を持っていかなかったので、年齢が同じくらいの親戚の人の保険証で医者にかかったのだそうだ。あの時代、社会保険は本人負担がなかったから保険証があれば、医者に金払わなくてもよかったんだ。

 そして、数日後北海道からKO君宛に荷物が届いた。夜仕事が終わってからKO君が荷物を開けた。なにやら見慣れないものが出てくる。どうも食えそうだ。一つ食って見ろと言って渡してくれたのでかじってみた。うん、これはうまいな。もっとくれ。

 魚の干物だったように思うがあれは一体何だったのだろう。海あり県で育って海なし県で働くぼくにとって初めてかじった代物であった。ししゃもの干物とトバだったように思うが、物流が盛んでなかった当時は、北海道というのは得体の知れない物があるところだなと思ったものである。

 OSさんが十九歳の冬に一人赤城山に登ってきた時のように、KO君は、ある決心をして北海道に行ってきたようだ。北海道から帰った春。階段上がって事務所に入る所の東側の窓に座っているボス猿に、KO君が今まで見たことのない形相で話をしていた。話の内容は分からない。

 それからしばらくしてKO君は退職して、北海道へ行った。今度は風邪引くなよ。店で一番最初に東海道新幹線に乗ったのがぼく。それに遅れること二年でKO君が店で初めて飛行機に乗った。気候が合わなかったのか。新しい仕事が合わなかったのか、半年か一年位して上州に戻って来た。

 KO君の身の振り方を心配する人がいて、KO君はバッタ屋さんに落ち着くことになった。それを聞いたぼくは、えっ!。あいつバッタ屋さんに行くのか。大丈夫か。と思ったが、すでに決まったことだからどうこうは言えない。ボス猿も支配人も同じ思いだ。さて、KO君の運命はいかになるか。かなかなかなー。


盆踊り

2008-08-13 13:22:11 | 月賦屋時代前期 仕事外

 昭和43年夏の帰省の時だったと思う。ダットサンで三国峠を越えて帰省した。夜店が閉まってから店の二階に遊びに来る悪仲間に海水浴に行くから宿を決めておいてくれと頼まれていた。

 家に着くと一眠りした後、ダットサンに乗って石地海岸まで行って適当な民宿を探して、明日から何人来るけど泊めてもらえるかと頼みに行った。海岸から少し離れたところでOKをもらって帰った。

 その晩母の実家に遊びに行った。早めの夕飯を食べた後、今日はこれから盆踊りがあるからお前も来いと誘われるままに神社に行った。母の実家には子供の頃何回も行っているから神社の場所は知っていたが盆踊りは初めてだ。

 何が始まるのかと思っていたら、従兄弟や村の人達が輪になって楽しげに踊り始めた。ぼくも練習していれば踊れたのだろうが何しろ盆踊りは初めての経験だから輪の外で眺めていた。

 大きな太鼓を叩くだけでお囃子は一切無い。音楽も歌も無い。あたりは次第に暗くなって裸電球があたりを照らすだけ、太鼓の音に合わせて踊るという極めてシンプルな盆踊りである。

 その内に村の若い衆が2人一升瓶と湯飲みを持って踊りの輪の外側を廻りはじめた。そして、ぼくのところに来た。湯飲み茶碗を差し出すので、受け取ったら酒をなみなみと注いでくれた。これは飲まないといけないなと思って冷や酒を一気に飲んで湯飲み茶碗を返した。

 湯飲み茶碗を受け取った村の若い衆は、踊りの輪の外側を廻って次に酒を振る舞う人を探しに行った。ぼくは、ちょっと踊りの輪から外れて薄暗い境内の端まで行って見た。盆踊りの晩に村の若い衆と娘が仲良くするにはもってこいの雰囲気であった。

 そういうところに長居は無用だからまた踊りの輪のそばに戻って見物していた。従兄弟や村の人達が普段見せたことのない楽しそうな表情と動作で踊りを踊っている。河井継之助が町方の盆踊りに忍んで出かけた気持ちがよく分かる。

 先程酒を注いで行った若い衆が2人またやって来て湯飲み茶碗を出すので、それを受け取ったらなみなみと酒を注いでくれた。ぼくは冷や酒を一気に飲んで湯飲み茶碗を返した。若い衆2人はまた踊りの輪の外側を廻り初めて次に酒を振る舞う人のところへ向かった。

 盆踊りは、太鼓一つで輪になって延々と同じ踊りを踊っている。実にシンプルでいい。輪の流れに乗って村の若い衆が酒を振る舞いに来る。断ればいいのに、ぼくは最後まで受けて立った。

 そして踊りも終わった。従兄弟と家に帰ったぼくは、ダットサンに乗って帰路についた。今日中に帰らないと明日海水浴に行く連中が夜中に我が家に来ることになっている。母の実家を出るまでは何ともなかったように記憶している。

 親の意見と冷や酒は後からきいて来る。おーい。大丈夫かぁ。聞いたことのある声で起こされた。何だここは?。何だここはじゃない。おめーどうしたんだ。海水浴に行く連中がぼくが乗っているダットサンを見つけて起こしてくれた。

 あたりを見たら田圃の中に突っ込んでいた。というのは嘘で、へべれけに酔っぱらってこれ以上は運転不能になって道の端にダットサンを止めて寝ていた。

 おめー。こっちの道だと方向違いだぞ。そうか。じゃぁおれが運転して行くからお前が道案内しろ。夜中の何時頃だったか分からないが、がんがんする頭で石地海岸まで道案内して行った。

 若いということはいいことだな。へべれけに酔っぱらっていても次の日の午後になると二日酔いも直っていた。石地海岸は遠浅で海水浴にはもってこいだ。海無し県の悪友達は大喜びで海水浴を楽しんで新鮮な魚を食べて帰った。

 母の実家の盆踊りはあれ以来行ってない。着ている装束が違う、場所も違う、道具立ても違う、踊りも違うが子供の頃映画で見た南洋の土人さんの踊りに通じるものがある。

 まだあのシンプルなやり方でやっているのであればもう一回楽しんでみたい。酒は十分飲ませてもらったから、今度は踊りに混ぜて貰いたいと思っているが、なかなかその機会に恵まれないでいる。かなかなかなー。