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必殺始末人 村山集治

必殺始末人 村山集治
ムラヤマ・コンピュータのブログ

100円ライターと骨材

2009-01-21 10:35:50 | 月賦屋時代中期 仕事

 昭和45年当時、火を付けるにはマッチを使っていた。マッチをシュッと擦って火を付けた直後は硫黄の味がするので一瞬おいてマッチの木に燃え移ってからタバコに火をつけていた。

 ときたまライターでタバコの火を付ける人がいたが、それはハイカラな人がやることで普通の人は持っていなかった。ぼくも一時ハイカラな人をやったことがあるけど、その内にライターを無くしてしまって、ハイカラでなくなってしまった。

 休み時間は大体タバコを一服というところから始まる。3人か4人いるので誰かがマッチを持っている。マッチで火を付けるにも技があって、誰かが格好いい技で火を付けると、それどうするんだ教えてくれなんていいながら休み時間を過ごす。

 工場での仕事はラジオを付けっぱなしでやっている。昭和45年の夏だったと思うが、100円ライターを何月何日から発売するというCMがラジオから頻繁に流れてきた。ライターは100円じゃできないだろう、100円ライターってどんなやつだ、と思って聞いていた。

 ラジオのCMは毎日流れてくる。嫌がおうにもどんなやつだという期待感を煽る。ぼくは火を付けるだけならマッチで十分、金出してまで買うことはないと思っていたのだが、一緒に仕事をしている人が発売日に買いに行ってきた。

 これが100円ライターだよと火を付けて見せてくれた。へーこういう風に出来ているのか、発火石をこするところは押してからやるのか。ふーん。よく出来ているな。これは使い捨てだな。

 発売当時の100円ライターは、今のようなプラスチックの筐体にガスが入ったものではなく、もう少しがっしりした出来だった。昭和45年の100円というと使い捨てにはちょっともったいないという感じだった。

 MRのところの帳面付けしていた時に骨材と書いてある納品書があった。骨材って何だ?、と思いながらも仕入れ帳を付けていた。そしてMRのところに行ってダンプで砂利を運んで来た人が持って来た納品書に骨材と書いてあるのを見て初めて砂利や砂を骨材というのだということが分かった。

 ぼくがMRの所に行った時は、川砂利から砕石へと切り替わる過渡期で、まだ多少川砂利を使っていた。砂利なんか何でも同じだろうと思うかも知れないが、川砂利と川砂で練ったコンクリートの粘りは抜群にいい。

 コンクリートは最初の2日位で急速に固まった後、100年位かけて固まり続けていき、それを越えると段々もろくなって崩れていくとMRに教わった。100年先のことなど分からないから、へーそういうもんかいなと思った。

 ある日ダンプが砂利を運んで来た。ぼくはいつも通りそこに降ろしておいてと頼んだ。ダンプが帰った後MRがやって来て砂利を見て目の色を変えてこれはいい砂利だと言った。

 ええ!。砂利に良い悪いがあるのか。どこが良いのだと思ってぼくも手に持って眺めて見た。そう言えば今まで使っていた砂利とちょっと違うな。田舎の信濃川で見たことのある角の無い丸い砂利だった。

 今はもうこういう川砂利がなかなか手に入らないんだよ。よく持って来たなとMRが言っている。砂利なんか川を素掘りすればいくらでもあるべ。いやもう素掘りができなくなって大きな石を砕いて使っているんだ。へーそういうものかい。

 ぼくが田舎にいた頃は、信濃川の河原を重機で掘ってダンプで運び出していた。後に大きな穴が残る。雨で増水するとその穴に魚が迷い込んで閉じこめられる。ぼくはそういう魚をよく捕りにいった。

 群馬県に来てから魚捕りはしていないが、配達で利根川の近くを通るとダンプによく出会ったので、こちらでも様子は同じだろうと思っていたら、砂利や砂を掘り過ぎたので素堀をしてはいけないことになったようだ。そういえば利根川の近くにがらがら音を立てている砕石屋さんがあったが、あれはそういう背景があってできたのかと納得した。

 どんなにいい砂利や砂でも飾っておく訳にはいかない、ミキサーの中に水とセメント一緒に放り込んでよく練って型枠に入れてしまえば、もう良い悪いもなくなってしまう。骨材の良し悪しと言ってもそんなものだが、その後も骨材屋さんが、これは良い砂だという砂をダンプ一杯持って来てくれたことがあった。

 100年は経っていないが相当古いコンクリートの構築物を目にすることがある。表面のコンクリートがはげて骨材が見えているのを見ると、昔のコンクリートはいい骨材を使っていたなと思う。こういう骨材を使っていれば多少見栄えが悪くてもコンクリート本来の強度を保っているなと思う。


鉄筋

2009-01-19 11:02:25 | 月賦屋時代中期 仕事

 コンクリート製品には鉄筋を入れる。公共事業に使う製品だから鉄筋を縦に何本、横に何本入れろと言ってくる。何ミリだったか忘れたが太いのと細いのがあって、こんなのが入っているのかとびっくりした。

 MRの所には中古だが鉄筋の切断機、折り曲げ機、溶接機がある。鉄筋の仕事は、昼間の仕事が終わってから、明日使う分を加工する。ぼくもやってみた。鉄筋を受け棚の上に載せて溶接機で溶接する。

 じっじー。火花が散って溶接される。最初の内はなかなかじっじーといかない。こつんこつんと溶接棒の先をたたくようにして打ち付ける。駄目ならちょっとひねる、こつがあるのだがなかなか要領を得ないがその内に、じっじーと始まる。

 最初は溶接の火花を肉眼で見たのだが、駄目だこりゃ、お面を手に持って火花の先を見る。1カ所終わって次の箇所へ進む。お面以外はまったく無防備で溶接をしていたら、あっちっちー、手袋しないでやっていたら火傷しそうになった。その内に腕時計のガラスが溶接の火花にやられた。

 素人が見よう見まねでやるのだからそういうことになる。鉄筋は3メートルくらいの長さのものが来る。それを切断機に掛けて都合のいい長さに切断する。長さを計って先っちょの止め板を固定して、鉄筋を止め板まで伸ばして、がしゃんと切断する。間違って腕を入れると腕が切れる。

 その後折り曲げ機に鉄筋をセットしてスイッチを入れると、ぐりぐりぐりと折り曲げる。何本もの鉄筋を手に持っていなければならないのでかなり迫力がある作業だった。

 数年前、家の前の道路でガス管の埋設工事があった。ユンボで掘り下げた所にガス管を埋設していたのだが、少し離れた所に大きな発電機を載せた2トン車が止まっていた。ユンボの方にばかり気をとられて何をやっている車か分からなかったのだが、気になって見に行って見た。

 なんとガス管の溶接作業をやっていた。2本のガス管を溶接で繋ぎ合わせてあって、ユンボが穴掘りを終わるとそれを取りに来て、溶接した所に帯ロープをかけてぶら下げて持って行った。溶接がうまくいかなかったら真ん中からぽきりといく。プロの技だ。

 話をしてみたらこの溶接屋さんは越後の人だった。越後は天然ガスが出るから、ガス管の溶接屋さんを多く抱えているようだ。溶接屋さんは、船の溶接上がりですか?、と聞いたらそうだという。やっぱり並の技術じゃない。

 船の溶接とガス管の溶接はどちらの方が上ですか?、と聞いたら、こっちの方が上だと答えた。何で?、素人目には船の方が上のように見えるけど?、と聞いたら、船は屋根の下で作業をするが、こちらは野外で作業をする。と答えた。

 なるほどな。それではもっと上の技術レベルのところはどこ?、と聞いたらしばらく考えてから、後はロケットとか人工衛星というところだろうな。という話であった。なにげに話した溶接屋さんは、溶接ではトップレベルの腕前で、町の鉄工所の溶接屋さんが見上げる存在だった。当然ぼくの溶接とは比べるべくもない。

 話が逸れた、ある時MRが、検査する製品が分かっていれば正常に鉄筋を入れたやつに入れ替えるのだがなと言ったことがある。ええっ!。そんなことはできないだろう。そうだよな。前もって検査するのが分かれば、それだけ入れ替えておけばいいんだけどな。

 非破壊検査という手法がなかった時代は、抜き打ちでサンプルを破壊してちゃんと鉄筋が入っているかどうか検査していた。たしかに鉄筋の数を誤魔化せばその分製造原価は減る。コンクリートを流し込めば表面からは見えない。魅惑的な方法ではある。

 2005(平成17)年11月に発覚した耐震偽装問題は、ぼくに言わせれば起こるべくして起こったと言える。報道を見る限りでは、どうぞ誤魔化してくださいという感じだった。

 話がまた逸れた。ぼくはMRにもし鉄筋誤魔化したのが見つかったらどうするんだ?。と聞いたことがある。まぁ、その時は酒でも飲ませてうやむやにしてしまうんだよ。聞いているぼくの理解を超えた世界の話だ。

 コンクリートを流し込んでしまえば中がどうなっているかは分からないという見本が中国の四川地震で崩壊した学校だ。程度の差はあれ製造原価を減らす魅惑的な方法は、今も昔も国を越えても変わらないものだ。


新たな仕事へ

2009-01-15 11:35:08 | 月賦屋時代中期 仕事

 このエントリーから月賦屋時代中期のカテゴリーに入る。月賦屋とは違う仕事についたのだろう?、という疑問があると思うが、いずれその疑問は晴れると思うので、しばらくは疑問を抱いたまま読んで欲しい。

 昭和40年代に入るとボーリング場が全国的なブームとなり、伊勢崎にもボーリング場が出来た。どんなことをするんだろうと店の人と一緒に見に行った。一つやってんべと誘われたが、あんな玉ころ投げてどこが面白いんだと、やる気にならなくていつも一緒に行くと後ろで見ていた。
 
 そして、ぼくは、昭和45年6月30日をもって店を辞めた。次の仕事はMRの所と決めていた。MRはコンクリート製品を作っている。ぼくは、店にいる時からMRの帳面を見ており、仕事はきついがやりようによっては何とかなると見ていた。

 22歳というと生意気盛りで恐い者知らずだ。MRは、ぼくが寝泊まりするために6畳のプレハブ部屋を建ててくれた。ぼくはKO君に頼んでプレハブ部屋に特注カーテンを作ってもらって、ベットを置く空間との仕切りにした。

 田舎から出て来て1回目の引っ越しは、小さなベビーダンス一つとベッドだけというこじんまりとしたものだった。学校で使っていた教科書はもう使わないだろうという理由で処分してしまった。今考えるとあの教科書は処分すべきでなかったと悔やまれる。

 MRの仕事は肉体的にはきつい。50キロのセメント袋5袋を5メートルほど移動して積み上げろと言われたやったのだが、セメント袋はガタイの大きい家具の比ではない。3袋ほど運んだらふらふらになって、一休みしながらやっと運んだ。

 MRのところの仕事は幾つかのパートに分かれる。鉄筋と型枠の準備、ミキサーでコンクリートを練る、その間にコンクリートを流し込む型枠の備え付け、練ったコンクリートを型枠に流し込んでバイブレータをかけて空気を抜く、そしてシートをかけてボイラーから蒸気を送り込む。

 これを午前中に終えてボイラーで蒸気を入れて昼休みに入る。コンクリートは、湿気が多いと早く固まる。その性質を利用してボイラーから蒸気を送って上にシートを掛けると蒸し風呂状態になって早く固まる。こういうのを養生と言っていた。

 そうやっておいて、お昼休みが終わると蒸気を止めてシートを剥がすと湯気の出ているホカホカのコンクリート製品が姿を表す。素手で触ると火傷をするので厚手のゴム手袋して型枠から外して、フォークリフトで屋外に運ぶ。まだ生乾きなので慎重にやらないと崩れてしまう。

 午前中に仕込んだ製品を外に運び出した後は、もう一回午前中にやった作業を繰り返す。一日に二回仕込む訳だが、家具運んでいるのとは違って激しい肉体労働だ。何せ絶対重量が違う。

 最初の内はくたくたになりながらやっていたが、ぼくは気が付かなかったのだが次第に身体が慣れていったようだ。慣れていったと言ってもきついのはきつい。きつい仕事の合間に帳面付けをするのだが、うまくできない。頭では分かっているのだが、身体がソロバンパチパチすることを嫌がる。

 それでも何とかやるのだが、人間の身体というのは、重たい仕事をした後に帳面付けのような細かい仕事をしようとすると指先が震えてうまくいかないようにできているようだ。

 ある夏の日、MRの従兄弟が東京から遊びに来た。その日午後から一天俄にかき曇り、ごろごろ、ドッカーン。上州名物雷がやってきた。雷そのものはもう慣れているのだが、その日の雷は様子がちょっと違う。

 雷と同時に雨が降ってきた、と思ったら、大粒の雹が降ってきた。こりゃたまらん。全員屋根の下に避難。親指の頭くらいの雹がバラバラと降ってくる。トタン屋根に雹があたってばたばたうるさい。うるさいというより雹がトタン屋根を突き抜けてくるのではないかという恐怖があった。

 ひとしきり雹が降った後は、強い風と雨だけになった。ああやれやれ雹がおさまったか。上州の夏の夕立は荒々しいものがある。もう慣れっこになったが雹となると別だ。

 MRのところの仕事も次第に慣れていって重いコンクリート製品の扱い方もできるようになった。仕事が身体を鍛えてくれるもので、最初はよたよたしながら運んでいた50キロのセメント袋もが次第に運べるようになっていった。