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必殺始末人 村山集治

必殺始末人 村山集治
ムラヤマ・コンピュータのブログ

奨学金試験

2008-09-13 12:11:24 | 関東短大二部商経科

 夜間の短大1年生の時、奨学金の案内文書が学内に張り出された。日曜日に館林の本校で試験があるという。日曜日は休めないのだが、ちょっと無理言って休ませてもらって試験に受けに行ってくるか。と、安易に考えたのが甘かった。

 試験の当日休みを貰って館林の本校まで試験を受けに行った。試験会場には我にも奨学金をという人達が大勢集まっていた。こんなに大勢の人の中から選抜する試験をするのか?。試験問題見る前に人の数を見て、駄目だこりゃと思った。

 時刻になりそれぞれ席に着いて試験問題が配られた。定時制や夜間の短大とは違った緊張感がある。国語の問題を開いて解き始めたのだが、何が書いてあるかちんぷんかんぷんだった。確かに日本語で書いてあるのだが、分からない。廻りを見るとそういう問題を解いている。駄目だこりゃ。

 数学の問題。微分積分が出た。定時制で微分積分やったような気がするけど、あの時間は居眠りするにはもってこいだったから、まったく分からない。書いてある記号もよく分からない。駄目だこりゃ。

 英語の問題。何じゃこりゃ。すまんが日本語で書いてくれ。英語の問題でそういうことを言っても駄目だわな。定時制のチョウテン先生は、nelson提督で卒業させてくれたんだけど、奨学金の英語の問題は、まったく歯が立たない。駄目だこりゃ。

 忙しい日曜日に休みを貰って試験を受けに行ったのだが、まったく歯が立たなかった。昼間のやつらはああいう難しい問題を解くのか、一体どういう頭してんだろうと不思議に思った。

 試験結果はどうか?。確認するまでもない。ぼくは、奨学金の試験以来、試験受けなければならないことはしないことにした。昼間の連中は、ああいう難しい問題を解く。昼間と夜間ではハンディがありすぎて、まともに試験受けていたんでは敵わない。

 OK君は、全日制の普通高校を卒業して夜間の短大に入って来た。OK君卒業するまで簿記が分からない簿記が分からないと言っていた。ぼくは、簿記なんか簡単だんべがと言っていた。実際商業高校出身者にとて短大で習う簿記は簡単だった。これなら試験受けても大丈夫なんだが、奨学金の試験には簿記はなかった。かなかなかなー。


弱いところにしわよせがいく

2008-08-19 14:45:21 | 関東短大二部商経科

 確か農業経済学の教授だったと思うが、この教授は会社の社長だったかをやっていて講義の内容が実に分かり易かった。経済学は農業経済学から発展したものである。農業経済学を理解せずして経済学を理解することはできない。といった真面目な講義をする一方で、実際の世の中の動きも解説してくれた。

 静岡県は製紙会社が多い。製紙会社は大量の水を使うため井戸を掘る。井戸の深さが製紙会社の生死を決めることになる。井戸の深さつまり金だ。金がなければ隣の会社が深い井戸を掘ってもこちらも対抗して井戸を掘ることができない。井戸が浅ければ水が出ない。そうやって弱小製紙会社は淘汰されていく。ぼくが、この講義を聞いた当時すでにそういう現実があった。

 蚊遣りの話をしてくれたことがある。蚊遣りなんて言っても今の人は分からないかも知らないが、昔は今と違って蚊の発生源が家の廻りにいっぱいあった。夏になると大量の蚊が発生して、蚊帳を吊る時に蚊帳の中に蚊が入ってしまうと蚊帳にならなくなってしまう。

 そこで、蚊遣りといって家の中で煙がもくもくと出る生木をいぶす。当然家の中は煙だらけになってしまう。人間も大変だが蚊もたまったもんじゃないから逃げる。その隙に蚊帳を吊って寝場所を確保した。蚊帳を吊ってしまえば後は蚊帳の中に蚊が入らないようにすればいいだけだから、蚊遣りを焚くのはそこでおしまいだ。捕ってきた蛍を蚊帳の中に放して寝たことがある。

 話がそれ始めた。昔は蚊遣りを焚くのも金持ちが先に焚いて、それを次の家へと渡して行った。貧乏家に来るのは一番最後だ。最後の家で焚いた後、蚊遣りで蚊を追いながら村外れの家まで持って持って行ってそこでおしまいになる。

 ぼくが生まれたのは山の中だから、そこら辺に蚊遣りになる木は一杯あったから、木の少ない集落ではそういうこともあるのかなと思って聞いていた。実際にそうだったかどうかは別にして、教授は、蚊という来て欲しくないものに対処する場合でも、最後は村外れの家という、一番弱いところに持って行っておっ放す。しわ寄せは一番弱いところにいくもんだぞ。それが世の中の現実だぞと教えてくれた。

 ぼくも店で、売るのが先だ事務は後と言われて事務屋をやっていた。売る時は忙しいとがんがん応援にかり出されて、あーやっと終わったと思ったら机の上に紙切れの束がどっさり積まれている。誰か手伝ってくれよと思っても、誰もおら知ーらねーだった。だから、一番弱いところにしわ寄せが行くというのはよく理解できた。

 支配人に事務をやるために物を売っているのではない。物を売るから事務の仕事があるのだ。物の順序を間違えるなと言われると二の句が出なかった。

 農業経済学の教授は、講義の中でこれからの世の中は、税理士と公認会計士が求められている。この学校を卒業すると税理士と公認会計士の受験資格が与えられる。是非とも税理士か公認会計士になりたまえと励まされた。

 ぼくは、店を閉鎖したはるか後年、公認会計士の資格を持っている人と知り合った。一回目の試験は落ちたけど二回目で受かったと話してくれた。あれは、税理士より公認会計士の方が試験は簡単だよ。二回目は如何にしたら分かり易い文章を書くかに的を絞って勉強したら受かったよ。と話してくれたことがある。

 そういう裏話を短大の教授が話してくれればよかったのだが、所得税法とか、法人税法といった個別の受験科目になると、自分が受け持っている講義の範囲を超えるので話してくれなかった。試験の裏側を話してくれれば、ぼくもひょっとしたら公認会計士になっていたかも知れないのだが、まぁ勉強しないで酒ばっかり飲んでいたから無理だっただろうな。かなかなかなー。


酒乱封じ

2008-08-18 10:58:00 | 関東短大二部商経科

 夜間の短大の2年生の終わり頃、同じ商経科のNK君から酒を飲みに行くべと誘われた。ぼくは酒が嫌いじゃないから、いいよ、どこで飲む?。そっちのホームグランドの店で飲むべと、二つ返事で受けた。

 実は、同じ電車で通う仲間からNK君は酒乱だと聞いていたので、普通の人なら敬遠するところを、チョウテン先生の教えに従って迷うことなく難しい方を選んだ。まぁ別にチョウテン先生の教えがどうこうではなくて単に酒が飲みたかっただけなんだけどね。

 しかし、OKの返事を出したものの酒飲み始めて酒乱になったらどうしようという不安があった。まぁその時はその時だな。何曜日だったか忘れたが学校が終わった後、NK君の行きつけの店に行った。

 NK君が連れて行ってくれた店は、いわゆる昔の南町に属するところで飲屋街としては正当派の地域だ。ぼくは、街の中心商店街にある店の二階で寝泊まりしている。酒飲みに行くとなると絶好のロケーションなんだが、歩いて行くとなると南町はちょっと遠いので行ったことがない。まぁ南町まで足を伸ばさなくても店の近くに飲み屋があったので行く必要はなかったんだけどね。

 織物が盛んな頃の南町と言えばたいそう賑やかな歓楽街だったそうだが、織物の衰退と売春禁止法の施行で、昔の賑わいはなくなっていったが、それでも南町と言えば、飲屋街として有名なところだ。

 ぼくは、昔遊郭だった家に家具を配達に行ったことがある。部屋の作りがちょっと変わっていて、お女郎さんの逃げ口が用意してあった。しかし、時代が変わって本来の用途に使われなくなると、貸家になってそこに人が住むようになっていた。ぼくは、その家の大家さんを知っていたりする。

 話がそれた。NK君と一緒に入った店は小綺麗な小料理屋さんだった。さて、問題は酒乱だ。どうやって封じ込めるか。先にへべれけに酔っぱらってしまえば酒乱になることはあるまい。と考えたのがぼくの作戦だ。

 飲むほどに酔う。常にNK君より一歩先に酔う。酔った振りをする。先に相手が酔っぱらってしまうと、こちらが世話をしなくてはならない。それならこちらが先に酔っぱらってしまえば向こうが世話をしなくてはならなくなるだろう。十分に酒を飲んで常にNK君の一歩先を進んで酔っぱらった振りをした。

 NK君は酒乱どころの騒ぎではない。初めて連れてきた人が酔っぱらって店や、店のお客様に迷惑をかけてはいけないので、後手後手に廻りながら一緒に酒を飲んでいる。ぼくはその様子を見ながら、内心しめしめと思って飲んでいた。

 勘定はNK君が払ったように記憶している。ぼくは店がすぐ近くだから歩いて帰れるが、NK君は郊外から通って来ている。おい、よた老タクシー代寄こせと言われたので、酔っぱらった振りして小銭がぎっしり詰まった巾着ごと渡した。その後、卒業式はNK君と一緒に行ったのだが、終わった後飲みに行くかという雰囲気ではなかったので、あの時の飲み屋の借りがそのままになっている。

 そう言えば定時制の同級会は何回もやったが、短大の同級会はやっていない。短大の友人達も一番若い年代がそろそろ定年を迎える頃だ。全員集合は無理だとしても、伊勢崎線で通学した人達と同級会やってみたいものだ。今度は酔っぱらった振りをしないからね。かなかなかなー。


短大の新校舎

2008-08-17 14:39:01 | 関東短大二部商経科

 昭和43年ぼくは短大の2年生になった。0点もらった試験もあったけど、不思議にみんな留年しなかった。まぁ団塊の世代を受け入れた学校側もいちいち細かいこと言っていられなかったのだろう。

 学校側は別の所に用地を取得してそこに鉄筋コンクリートの校舎を建てていた。ぼくらは、2年生の時から新しい校舎に通うことになった。いい校舎だ。グラウンドも広いし、こんな校舎を2部の学生だけしか使わないのではもったないがなと思っていた。

 新しい校舎は、太田駅より一つ手間の細谷駅で降りて歩いて通う。歩く距離が短くなった。楽でいい。ただ、駅から直通で行く道がない。細い踏切渡って線路づたいに行って校舎の手前でまた踏切を渡って校舎にたどり着く。

 太田の校舎は、木造のおんぼろ校舎だったが、今度の校舎は、教室も綺麗でマイクの通りもいい。ぼくは、商業系の講義は教室の前の方の席で真剣に受けていたが、文学のように0点もらった講義は、出席しないと日数がたりないから行っていただけで、講義聞いてもどうせ分からないから後ろの方の席ですやすや寝ていた。

 校舎が新しくなったとはいえ、机や椅子といった備品は前の校舎から持って来ていたので新旧織り交ぜている。まぁ過渡期というのはそんなもんだな。短大にもパン屋さんがパンを売りに来ていた。ぼくはあまり買わなかったが、夜間の学校というのは、パン屋さんにとってはいい商売ができるところだ。

 12月に入ると、電車に乗る時はまだ明るいが、駅に着くととっぷりと日が暮れていた。暗い夜道を同じ電車で行った人達が線路の脇の道を行く。街灯がないから真っ暗だ。女性陣にとっては恐かったと思うが、そこは大勢で行くからそれほどではなかったのかも知れない。

 この年は暖冬だった。年が明けてしばらくしたら駅前のわずかな集落の家の梅がほころび始めたのを、暗い中でも見ることができた。梅一輪一輪ほどの暖かさ、とはいえ上州の冬は寒い。みんなもくもくと学校に向かって歩いていく。

 乗って来た電車に先行して歩いて行くと後ろから電車が抜き去っていく。たまに架線とパンタグラフの間がスパークしてその光が鮮やかだったことを鮮明に覚えている。

 学校へ行く時は同じ電車に乗って来た人達が、ひとかたまりに歩いて行くからいいのだが、帰りはバラバラと学校から駅に向かう。バラバラといっても同じ電車に乗る訳だから、後から出た人は電車に乗り遅れないように急いでいく。

 ある時、学校からの帰りいつものように線路脇を歩いていたら、電車が警笛鳴らしてもの凄い音を立てて急ブレーキをかけたことがあった。音も凄かったがスパークも凄かった。どうしたんだ?。と思ったが、どうやら後から学校を出た人が強引に踏切を渡ったようだ。

 夜間の学生だけが使っているのではもったいないと思った校舎だが、ぼくらが卒業した後、四年制の大学になって、大学院も併設されたと聞いた。それであんなに立派な校舎を造ったのかと思ったが、卒業後は行ってないので、その後のことは分からない。まだ電車を止める猛者がいるのかな。かなかなかなー。


意識のズレ

2008-08-16 14:03:33 | 関東短大二部商経科

 昭和42年、夜間の短大1年生の12月。学生総会を開いて次の年度の役員を決める。全日制出身で次期役員になろうと考えている人達がいた。問題はどうやって学生総会で選出してもらうかだが、夜間の連中を押さえ込むには、定時制出身の者の方がいいと考えたようだ。

 どこから聞き込んで来たのか、ぼくに学生総会の議長をやってくれと頼んで来た。ぼくは、出席時間にカウントされない学生総会は、欠席しようと思っていた。最初は断ったのだが、仕方がないから議長をやって、頼んできた人達を役員にしてやった。後は知らない、学生運動にはノータッチ。衣食住、あらゆる業種で、社会全体の欲求が牙をむいて襲い掛かってきている。仕事が忙しい。

 世の中忙しくなってきている。学生総会出ても出席日数には関係ない。次の年は学生総会に出てこない人が多く頭数が足りなくて、学生集会に切り替えた。集会に切り替えて採決をしたところで、意味の無い採決なんだが、昼間上がりの連中はこう悪知恵を持っている。

 会計問題でトラブルがあった。驚いた質問をした人がいる。学校の期末は3月末なのに、何で学生会計の期末は12月末なのか?。初等教育課の学生が真面目な顔をして聞いた。一見その通りの質問なんだが、企業会計原則を知ってない。初等教育科と商経科の違いが、質問という形でまざまざと現れた。

 昼間上がりの役員が、企業会計原則の継続性の原則と言えばいいのにもたもた答えていた。初等教育科、商経科、二つしか科がないが夜間の短大で意識のズレがある。昼間上がりと定時制上がりとのあいだで意識のズレがある。

 そのズレのある人達がこれからの社会を背負っていくことになる。そして、初等教育科を卒業して幼稚園、小学校の先生になる人達が、次の世代を担う子供達を教育していくことなる。二つしか科のない学校でこれだけ意識のズレがある。科や学部が多い大学ではどうか。

 東京の大学では、意識にズレのある連中が、タオルで顔を隠して、ヘルメットかぶって、棒っ切れ持って、わっしょわっしょいやっている。意識のズレにつけ込んでわっしょいわっしょいさせている連中がいる。若い学生は、自分の意識がズレていることに気が付かないで、わっしょいわっしょいやっている。とうとう女子学生が一人死んだ。それでもまだ。わっしょいわっしょいやっている。

 夜間の短大でも、昼間上がりの役員が、学生運動やるようなこと言うのだが、夜間の学生は話に乗ってこない。そんなことより目の前の仕事が忙しい。ぼくにも秋波を送ってきたが、ぼくは、わっしょいやっている連中を、何をあほなっことをやっているかと見ているから、学生運動は一切しない。目の前の仕事の方が忙しいから、そんなことやる理由が分からなかった。

 授業料値上げに反対しよう。昼間上がりの役員が餌を撒く。夜間の学生の中には会計事務所に勤めている人が何人かいる。その人が、授業料の値上げはやむを得ない。値上げの額を少なくするように交渉しろ。餌を撒いた昼間あがりの役員は、自分達で学校側と交渉しなければならなくなった。

 ぼくは、会計問題の帳尻が合わないことを質問した。ガチンコで簿記を覚えたぼくの質問に昼間上がりの役員は、まともに答えられない。調べて次回お答えしますと返答して質問をかわした。次回開いた時は、ぼくの方が学校に行かなかった。結局、会計問題はうやむやにして次の役員に引き継がれた。引き継いでしまえば後は知らない。昼間上がりの連中はこういう悪知恵を身につけている。

 悪い人間ではないのだが、意識にズレがある。一口に団塊の世代と言うが、個々人で見ると微妙に意識のズレがある。大雑把に分けると、学生時代に棒切れ持ってわっしょいわっしょいやった連中と、そうでない連中とに分けられるが、今の時代はそういう人達が働いてきて、今定年を迎えている。40年なんて早いもんだな。

 じゃぁお前は、意識がズレていないのかと聞かれれば、意識がズレいるから、こんなプログをやっているんだ。それを読んでいる人もいるだけどね。まぁ両方ともどこかズレているじゃないかな。べー


法学と法律

2008-06-29 15:02:53 | 関東短大二部商経科

 支配人が分厚い本を持っている。六法全書と書いてある。初めて見た時は、何じゃこりゃ!と思った。昼飯の交代時に読むことがある。文字が細かいくてが、難解な文字があってよく分からない。

 夜間の短大では、教科書を買わなければいけない。本屋まで行かなくても短大で買えるものは、大体教授が自分で書いた本が多かった。本書くようなエライ先生に教わるのか思っていたが、教授が給料の他に印税で稼いでいたと知ったのは随分後の話だ。

 その他に教授が指定した本を町の本屋で買うものがあった。田舎にいた時、小学生の時から一緒に遊んだ三つ年上の先輩が東京で古本屋をやっているのを思い出し、そこに電話して教科書を頼んだ。ついでに六法全書も頼んだ。田舎の先輩は原価で送ってくれた。

 ぼくは、自前の六法全書を事務所の机の脇だったかロッカーの中に保管して必要に応じて読むようになった。短大まで持って行ったことがあったかどうか記憶が定かでない。重いから持って行かなかったと思う。

 法に定めある場合は法に従え。
 法に定めなき場合は慣習に従え。
 慣習無き場合は信義に従え。

 法学の講義で何を教わったか今となっては記憶が定かでないが、上の三つは今でもはっきりと覚えている。

 裁判所が判断する場合は、上の三つの順序で判断するが、実際の社会生活は、信義、慣習、法律の順番で営まれている。何故かというと、人の営みは法律ができる以前からあって今に続いており、法律は後からできたものだからである。しかも法律は都合が悪くなると改正される。

 芝増上寺の側に東京タワーがあるのであって、東京タワーの側に芝増上寺があるのではない。目立つからといって後からできたものを基準に物事を判断してはならない。

 六十年間真面目にコツコツ生きてきたが、伊商の定時制でチョウテン先生に教わった上の言葉の方が、夜間の短大の法学の講義より上回っているように思う。とは言っても実際の世の中は法律で動いている。

 隣の家の竹藪から竹の根が伸びて来て自分の家の庭に筍が出てきた。さてこの筍は隣の家のものか、それとも自分の家のものか?。と聞かれた。こういう場合は、地べたから出てきた物は地べたの所有者のものだから、たとえ隣の竹藪から伸びてきた根であっても自分の所有地でに出てきたのものは自分の物だと考えるのが正しい。

 隣の屋敷に植えてある柿の木が繁って自分の家の庭にせり出し、柿の実が自分の家の庭に落ちた。この柿の実は誰の物か?。柿の実は隣の屋敷にはえている木から落ちたものだから、たとえ自分の屋敷に落ちても自分の物ではない。黙って頂戴すると泥棒になる。なんかややこしいな。

 人間が持っている人格を自然人格という。法律によって人格を与えられたものを法人格という。人格があると法律行為が出来る。なるほど会社というのは、法律によって人格を与えられたものなのか、だから人間と同じようにいろいろな商行為をしてお金を払ったり受け取ったりすることができる訳だな。

 一定の目的のもとに結合した人の集合体で、団体としての組織を有し団体自身が社会上一個の単一体としての存在を有するものを社団という。一方、一定の目的のために結合された財産の集合を財団という。

 分かりやすく言えば、一定の目的のために人がよったかったものが社団で、一定の目的のためにお宝がよったかったのを財団という。会社は、設立の時に資本金というお宝が集まる、そして人がよったかって企業活動を行なっていく。だから会社は財団であり社団である。

 一定の目的のために人がよったかって活動をするものであるが、法律によって人格が与えられていないものを人格無き社団という。こうなると何を講義されているのかさっぱり分からなくなって、社団と財団をうろ覚えに覚えている。

 公序良俗に反する特約は無効である。と教わった。ぼくは、店の契約書を読んで公序良俗に反することが書いてないかチェックしてみた。幸い公序良俗に反するようなことは書いてなかった。

 店を閉鎖したはるか後年、OAの○塚商会が持ってきた契約書に、お金を払わない場合は、買い主に断り無く事務所に立ち入って品物を引き上げることができものとする。という一節が入っていた。

 早速これは違うだろう、そちらの法務部は何を考えてこういう契約書を作ったんだと言ってやったら、警察官立会の上で事務所に立ち入るとか言ってきた。

 警察官が泥棒の現場に立ち会ったら捕まえるだろう。大体警察は民事不介入だからそんな立会はしないよ。と言ってやったことがある。

 結局部長が頭下げて問題条項の削除をしに来た。まぁこんな具合に公序良俗に反する特約を印刷してある契約書が世の中にはあるんだ。

 話がそれた、法学や法律を教わっていたが、日々の仕事の中で法律のお世話になることは、まずなかった。だから、教わってはみたものの法律をどう使うかはよく分からなかった。

 人間おぎゃーと生まれてから、警察や裁判所のお世話になること無く、一生を終えることができれば、それが一番幸せだな。ぼくはもう何回かお世話になってしまったけどね。かなかなかなー。


事務管理

2008-06-17 14:44:07 | 関東短大二部商経科

 事務管理の教授は確か現役の公認会計士だったように記憶している。教授が教壇に立つと、ねがいあげましてはー、と、ソロバンの読み上げ算をまずやる。ある時、読み上げ算の数値をノートに筆記して見ろと言われたことがある。

 教授が読み上げる数値をノートに筆記するのは、ソロバンパチパチするよりもっと難しい。ソロバンパチパチがよくできるようになると、数値をノートに筆記するのも速くなる。両方とも速くなるように練習しなさい。と言われた。

 ぼくの時代、電卓はまだ世の中に出ていない。ソロバン以外に計算する道具がない。手作業ですべての事務仕事をやっている。ソロバンパチやったら結果を紙に書かないといけない。ぼくは、伊商の定時制で数字の書き方を教わって、事務屋特有の右に傾斜した数字を書くようになっていたので、数字を速く正確に書くことについては多少の自信があった。

 しかし、読み上げ算をノートに筆記して見ろと言われたのにはたまげた。さすがに公認会計士だけある。数字を速く正確に書くということが如何に大事かということを読み上げ算の数値をノートに筆記させることによって教えてくれた。

 一人の人が一年に一回出すか出さない届けでも、その届けを大勢の人から受ける側になると、それは仕事としてやらなければならない。と言われたことがあった。それを聞いた時、ぼくはそれだ!。店でやっている仕事そのものだと、感じた。

 日本全国から集計結果が入った場合を考えてみよう。どれだけ頑張って正確な集計結果を送っても、ある一つの県だけいい加減な集計結果を送ってしまうと、全体の集計結果の正確性が損なわれてしまう。

 教授は、このことで二つのことを教えてくれた。一つは、統計とは本来そういう杜撰さを含んでいるものだから、傾向を見るには適しているが、正確性を期待してはいけない。もう一つは、正確にやらなければならないことを正確にやったつもりが、実は杜撰なものが混じっている場合があり得るので注意する必要があるというものである。

 簿記は、すべての取引を数値で記帳する。数値に換算できないものは、簿記では記帳の対象にならない。ならないというより、できないといった方が正確かもしれない。企業会計原則には真実の原則というのがあって、簿記の記帳もそれに基づいて行なわなければならない。当時は分からなかったが、この教授の講義は、どうしても合わない時は、間違って合ったことにするのもアリだぞ、ということを示唆したものだったのかもしれない。

 企業会計の実務に携わっているある教授の講義で、税務署が税務調査が来た時に、お茶を出したら税務署員が間違えて帳簿の上にお茶をちょっとこぼした。なぜこぼしてしまったか?。帳簿のインクのにじみ具合によって書かれた時期を判別することができる。

 ぼくは、金銭出納帳を万年筆で付けていたので、ドキリとした。しかし、一年分まとめてつけるようなことはしていないからお茶こぼされて大丈夫だと思った。ぼくは経験しなかったが、実際に税務署にお茶をこぼされた会社があったのかも知れない。

 一番信頼性の高い帳簿は、ノートだと教わった。バインダーだと書き損じた場合一ページ丸ごと書き直すことができる。ノートで片側一ページ破り捨てて書き直すと、反対側のページが宙に浮いてしまうので、一ページ破り捨てて書き直すことができない。銀行の預金通帳は、ノートの体裁をとっているのはそういうところからきている。

 ぼくも店の仕事で、バインダーの用紙一枚丸ごと書き換えた時があった。その場合、他の帳面を見ながら日毎に万年筆にしたり、ボールペンにしたり、同じ調子で文字を書かないようにしたりとしたことがある。早い話が面倒くさい。一番簡単な方法は破り捨てなくてもいいように日々の仕事をキチンとすることだ。

 事務管理の講義では、仕事の背景にある考え方、応用の仕方などすぐに役立つことを相対でいろいろ教えてもらった。100人以上の学生を相手にマイクを使った講義であってが、企業会計の第一線で仕事をしている教授が生の声を聞かせてくれるのだから、役に立つった。

 ボス猿は、戦犯で懲役ぶっくらって娑婆に出てきて、月賦屋の決算書の書き方分からないで月賦屋始めた。教授から教わる事務管理は、ボス猿とはひと味もふた味も違っていた。かなかなかなー。


複式簿記

2008-06-16 14:22:21 | 関東短大二部商経科

 日本の戦後の税制は、昭和24年と昭和25年に出されたシャウプ勧告によって大きく変貌した。シャウプ勧告の後の戦後の混乱期を乗り越えると、自主申告制とりわけ青色申告が奨励されていく。

 昭和三十年代は、戦後の混乱期を乗り越えてシャウプ勧告に従って青色申告をするための実務要員を必要としていた。ぼくが伊商の定時制で初めて簿記を習ったのが昭和三十八年、ボス猿から金銭出納帳を付けるように言われたのが昭和三十九年。ぼく自身にはシャウプ勧告の実務要員になるという感覚はまったくなかったのだが時代の要請にはまってしまったようだ。

 高度経済成長のいけいけどんどんが始まり、シャウプ勧告の実務要員をまだまだ必要としていた。昭和四十二年。ぼくが通った関東短期大学二部商経科太田分校もそういう時代の要請に応えていたものと思う。今思うと短大での講義は、卒業後即戦力になる学生を世の中に送り出すという雰囲気がかなりあって、短大の教授には公認会計士、税理士、会社の社長といった第一線で活躍している人がいた。

 簿記の講義は、商業高校出身者にとっては楽勝だったが、普通高校出身者にとっては難解そのものだったようだ。借方、貸方、貸借対照表、資産、負債、資本、損益計算書、利益、損失、試算表と訳の分からない言葉を並べられて講義をされると頭の中がごっちゃになってしまう。

 頭の中がごっちゃになっているところへ、現金で払わないものも、一回現金で払ったことにして、その後に戻してとやると、すべての取引が現金口座に書かれることになる。すべての取引を現金口座を通して仕訳をするというやり方もある。などと言われると、ごっちゃになっている頭の中がさらにごっちゃになって、この教授何を言ってるんだろう状態になってしまう。

 ぼくの方は、教授の言っていることはよく理解できたので、そういうやり方もあるなと思って聞いていた。実際、店で付けている金銭出納帳には、振替項目という蘭があって、金銭の受払以外の取引は振替項目に書かれていた。実務では、金銭出納帳にすべての取引が記入していたので、教授の言っていることの先をやっていた訳だ。

 工業簿記は、初めて習う科目だ。商業簿記とどこが違うのだろうと思っていたのだが、仕訳の仕方は同じなので、商業簿記と工業簿記の違いがよく分からなかった。

 ある日の講義で、加工するために原材料を使った場合は、消費とは言わず、費消という講義があったのをよく覚えている。消費と費消、文字がひっくり返っただけだけでどう違うのだろう何かマジックを見せられているような気持ちだった。

 消費と言った場合は、文字通り消えてなくなって戻ってこない場合を指す。一方、費消と言った場合、原材料が半製品、製品という形に変化しているのであって、原材料という形では消えてなくなっているが、製品という形に変化しているから、製品を販売することによってお金として戻って来る。だから費消は消費とは違う。

 原材料を加工して製品に仕上げるという仕事をしていれば、より実感として理解できたのだが、店は人が作った物を仕入れて売る仕事なので工業簿記は今ひとつ実感として理解できなかった。しかし、後年、工場の経理で製造原価報告書を見て、短大の時に習った、費消だとすぐに分かった。

 貸借対照表は、ある時点における資産、負債、資本を対照表示したものである。これに対して損益計算書は、一会計期間における収益と費用を対応させて純損益を計算したものである。

 複式簿記では、会計年度期間中における営業活動の結果を会計年度末における貸借対照表と会計年度期間中の損益計算書のセットで作成する。なぜセットで作成するかというと、純損益の計算を貸借対照表と損益計算書という二通りのやり方で計算する。

 純損益の計算をするのは、損益計算書だと勘違いしている人がいるかもしれないが、貸借対照表では、期首の貸借対照表と期末の貸借対照表を比較して、資産、負債、資本がどれだけ増減したかで純損益を計算している。貸借対照表と損益計算書二通りのやり方で計算した純損益が合致する。だから複式簿記という。

 日常の業務では、貸借対照表に記載される勘定科目と、損益計算書に記載される勘定科目がごっちゃになって発生する。それを残る物つまり貸借対照表に記載する物と、期間で計算して終わったらゼロからスタートする物つまり損益計算書に記載する物に分離して、両方で計算した純損益が一致するというやり方を発見した人はエライと思う。

 簿記の歴史を遡ると13世紀から15世紀イタリアのベニス、ゼノア、フローレンスなどの商人が、地中海貿易で船を仕立てて一航海した後の利益を配分するために考案された記帳方法だと言われている。日本では福沢諭吉がアメリカの簿記テキストを翻訳した帳合之法が複式簿記の始まりだと言われている。

 船を一艘仕立てて出す時の、お金や商品を出す方が貸方、それを預かって航海して帰ってくる方が借方。航海から帰ったら精算して残った利益を配分する。借方貸方の言葉の意味のルーツは、お金を出す方と預かる方とというようなところからきているではないかと思う。

 借方貸方を教わった時は、簿記のルーツを知らなかったので、借り貸しが逆ではないかという違和感があった。しかし、あまり難しく考えると日々の仕事に差し支える。借方貸方ときたら左側右側と翻訳して覚えた。それで全然問題なかった。ガチンコで簿記を覚えると、借方貸方なんてそんなもんだ。かなかなかなー。


ささやかなご馳走

2008-06-15 15:00:05 | 関東短大二部商経科

 夜間の短大には、四時四十五分頃の電車に乗って行く。最初は、伊商の定時制で一緒だったMTさん、HS、SK君しか顔見知りがいない。太田駅に着いて短大に向かう。同じ電車に乗って来た人達もぞろぞろ歩いて行く。富士重工の北の古い校舎についてやっと同じ目的で歩いて来たのを知った。

 短大での初日がどうであったかは記憶が定かでない。何日かしてオリエンテーションがあると知らされた。オリエンテーションってなんだい?。チョウテン先生は英語教えないで、NELSON提督で卒業させてくれたからハイカラナ言葉を言われても意味が分からないでおろおろした。

 オリエンテーションなんてハイカラナな言葉を使わないで新入生説明会と言ってくれればすぐに分かったのだが、短大ともなると英語が分からないと駄目なのかと不安でもあったが、講義が進むに連れてそういう不安も徐々に解消された。

 短大には大勢の人達が通ってきていた。講義が終わるとぞろぞろと駅に向かって歩いて行く、次第に他校から来た人達とも話をするようになる。短大で話をする時間はごく限られているので、学校への行き帰りに歩く時間が他校から来た人達と知り合いになるチャンスになった。

 夜間の短大は、初等教育科と商経科の二つの科がある。MTさんとHSは初等教育科で、SK君とぼくは商経科に行った。初等教育科と商経科は教室が別なので講義では別々になる。だから初等教育科でどういう講義があるかは分からない。

 教室は、100人以上が入る大きなもので講義はマイクを使って行なわれる。最初の内は真剣に聞いていたのだが、前期の試験が終わった当たりで、短大の雰囲気に慣れると、真剣に聞く講義とそうでない講義に分かれていった。これはぼくだけのことではなく、回りの学生全体がそうなっていった。だって文学の講義なんか聞いたって訳分からないもの。

 昭和42年夏。太田駅から校舎に向かう時はまだ明るかった。駅前のビルの屋上のビヤガーデンで、グループサウンズの曲が大きな音量で流されていた。テレビでは、ぼく達と同じ年代のグループサウンズが活躍していた頃だ。そして、講義が終わり太田駅に帰ってくると、ビヤガーデンの明かりがきれいにともって、霧の摩周湖が流れていた。

 明日の仕事に差し支えるので、おい、一杯飲みに行くかとは、誰も言わない。金も無かったしね。太田から、足利、大泉、桐生、伊勢崎の四方面の電車に分かれて帰路につく。

 途中の車窓で幅広く電気が煌々と灯っているところが見えた。何も無いところなのになと何だろうと思い、一緒に帰る人に、あれは何だ?。と聞いたことがある。みんな何だろうと不思議がっていたら、一人の友人が鶏舎だよと教えてくれた。へー。鶏は夜も寝ないで餌食べて卵を産まないといけないのか、鶏も大変だなと思った。

 ぼくが田舎にいた頃の卵の値段は、一個12円くらいだった。高度経済成長のいけいけどんどんが始まって、毎年物価が少しづつ上昇していったが、卵は物価の優等生だった。しかし、物価の優等生の裏側はこんなもんだ。

 そういう車窓での一風景も終わって、突然雷雨に襲われたことがある。電車に乗っている分には雨は問題ない。問題は駅に着いてからだ。この雨では飛び出せない。駅で雨足が引くのを待って、少し小振りになったところで一斉に雨の中を飛び出した。

 しかし、飛び出すのがちょっと早かった。再び雨足が強くなった。飛び出したいじょう引き返す訳にはいかない。そのまま突っ走って店に着いた時にはびしょ濡れだった。ぼくはその程度で済んだからまだよかった。駅から自転車で帰った人はもっと大変だった。まぁ一回濡れてしまえば同じだ。

 短大一年生の冬。休みの日の講義を受けて友人達と一緒に太田駅まで歩いて来た。ぼくは、この日の夕飯を太田で食べるつもりで来た。夕飯を見知らぬ土地で一人で食べるのはあの時代のぼくにとっては結構勇気のいることだった。他の友人を誘えばいいのだが、みんな明日の仕事があるからそれはできない。

 駅で友人達と別れ、駅前の脇通りに入ったら、餃子屋さんがあったのでそこに入った。餃子とお酒ください。餃子を肴にお酒を二本飲んで、湯麺と半ライスを食べて一列車遅れて帰った。あの時代、休みの日の学校の帰りに一人餃子屋さんに寄ってお酒付きの夕飯食べるのが、ちょっとした冒険であり、ささやかなご馳走だった。かなかなかなー。


SK君と絶交

2008-05-30 13:15:35 | 関東短大二部商経科

 定時制で一緒だったMMさん、HS、SK君も夜間の短大に通った。同じ電車で通学する。MMさんとHSは、初等教育科、SK君とぼくは商経科だ。電車で30分、駅から歩いて20分。その他に駅に行くまでの時間がそれぞれ必要だ。一番駅に近いぼくの所からでも片道1時間かかる。講義を受けて、また1時間かけて帰る。面白半分で入学したHSが途中脱落した。脱落して良かった。あんなのが小学校の先生になったら、日本の将来を担う子供達が、目茶目茶になって酒飲みばかり増えて困る。

 SK君は、時間から時間まで働いて学校に行く機会が多い、ぼくは店が忙しければ学校を休む。休んだ時のノートを見せてくれとSK君に頼んだ。SK君もミミズがのたくったような文字を書く。分からないと聞く。ミミズがのたくった同士でノートの貸し借りをする。最初はうまくいっていたのだが、ぼくの方がノートを借りる回数が多い。そのたびに分からないところをSK君に聞く。SK君はノートを貸さなくなってしまった。

 ぼくにすれば意地悪をされたと思っている。お前とは絶交だ!。顔合わせても口聞かない。SK君にやっちゃった。こうなるとお互いに突っ張り合いだ。同じ電車に乗って学校へ行って、同じ商経科で講義を受けて、同じ電車で帰るのだが、お互いに顔を合わせても口をきかない。

 卒業式まで絶交が続いた。卒業の頃になって、他の友人からSK君が東京の夜間の学校に進学すると聞いた。ボス猿から、卒業したら東京の夜間の学校へ進学したらどうかと言われて、定時制四年間、短大二年間、計六年通いました。もう夜勉強するのはいいです、と答えた後だ。SK君はまだ先を目指す。エライと思った。

 初等教育科に通うMMさんが、よた老君、SK君が口をきいてもらえないのを気にしているよと言ってくれた。言ってくれてもぼくは、SK君と顔を合わせても口をきかない。こうなったら突っ張った方が勝ちだ。

 卒業式は館林の本校で行なわれる。ぼくは乗用車1台借りて、他の友人2人乗せて本校に行った。ひとつ落としそうな科目が有った。レポート書いて卒業式に持って行って教授に渡すチャンスをうかがっていたのだが渡すチャンスがなく、ひやひやしながら卒業式に臨んだ。卒業証書は無事もらえた。ああやれやれ。

 卒業式に行ったが卒業証書を貰えない人が何人かいた。この学校の理事長のご先祖様は、上州館林松平家。将軍様を出したこともある血筋だ。やることが荒っぽい。卒業できるかどうかは卒業証書もらってみないと分からない。

 無事卒業証書をもらった。短大は人数が多すぎる。卒業記念大宴会をする雰囲気はまったくない。SK君に、今まで口をきかないでいて悪かった。おれは六年通ってもうギブアップだ。お前はあと二年やる。エライ。がんばれ。SK君と握手して絶交は終わった。

 ぼくのように15歳だったらまだ他人の飯を食べて育つことはできる。SK君はエライ。ぼくがギブアップしたその上に行った。22歳で東京という見ず知らずの土地に行って、他人の飯を食べるのは並大抵なことではない。そして学校を卒業した。インターンに入ったという。給料はろくに貰えない。

 あいつ給料ろくにもらってないけど大丈夫か?。定時制の悪がき達は顔を合わせるとSK君の心配をする。遠くだから行って様子を聞くこともできない。その内に嫁さんもらうと言ってきた。なんじゃこりゃ!。給料ろくにもらってないのに嫁さんもらって大丈夫か?。定時制の悪がき達は心配しながらも結婚式に招かれた。

 披露宴で友人代表として何か喋ってくれと言われて何か喋った。何喋ったか覚えていない。喋れば酒飲むのが仕事だ。披露宴が終わった後、式場の前の芝生の上でSK君を胴上げした。定時制の悪がき達は、何も言わなくても考えていることは同じだ。三回胴上げして最後に芝生の上に落とした。芝生の上なら接骨屋の世話にならなくてもいいだろう。SK君の仲人は、接骨院をしていた定時制の体育の先生だった。


夜間の短大

2008-05-29 09:24:56 | 関東短大二部商経科

 定時制4年生の冬、夜間の短大に行けるという話が出た。どこにあるんだい。太田に分校があるという。試験はどうすんだい?。おれ試験受けたら受からないぞ。推薦入学というのがあってそれなら試験受けなくても入学できるらしいという。そうか、それじゃ先生に聞いてみんべ。先生に聞いたら推薦入学ができるという。それじゃ行くか。

 我が愛すべきクラスの悪ガキどもの内4名が夜間の短大に進学した。2名は初等教育科、2名が商経科。短大への通学は電車で行く。4時半に仕事を終わらせないと電車に間に合わない。ボス猿に頼んで4時半で仕事を終わらしてもらった。自然同じ電車で短大に通う人と知り合う。また新たな出会いが始まった。電車の線路沿いに、新しく作った店の倉庫がある。用地と道路の間に金網のフェンスがある。絶好の広告ポイントだ。ボス猿に進言したがフェンスに広告看板は出なかった。

 OS君は、ぼくと同い歳だが同じ伊商の全日制の出身。1年ブランクがあって入学してきた。聞くと試験を受けて入学してきたという。えぇ!おめぇ試験受けて入学したのか?。そうだよ、当たり前だろう。おれなんか5千円払って入学したぞ。えぇ!。そういうのありかい?。そうだよ推薦入学というやつで入学金払っただけだぞ。おめえ試験受けたのか?。おめえ馬鹿だな。試験受けること無かったのに。OS君絶句!。

 OK君は、全日制の普通高校出身。簿記が分からない。簿記が分からない。商業高校出身のOS君とぼくは、簿記なんか簡単だんべがな。短大で教わる簿記は、商業高校出身者にとっては、高校時代のおさらいプラスアルファでしかないから余裕だった。しかし、短大で初めて簿記を教わる人にとって、簿記は難解そのものだったようだ。

 借方貸方。そんなの左側右側と覚えればいいんだよ。仕分方則さえ分かればいいんだ。後は機械的に元帳転記して計算すればいいんだ。そんなこと言われても分からない。おまけにソロバンが苦手と来ている。簿記が難しい、簿記が難しい。卒業するまで言ってた。

 短大1年生の時の文学の試験。早々と答案用紙出して帰ったやつがいる。答案用紙受け取った教授が怒っている。後で聞いたらダルマさん書いて出したという。手も足も出ないというのは聞いていたけど、本当にやっちゃたやつがいる。ぼくもその試験では生まれて初めて0点もらった。

 文学の講義なんか実務に直結する訳ではない。文字が書ければいいんだろうぐらいにしか考えていないから、高尚な講義聞いてもそんなん知らんもんねー。試験受ける時間の方がもったいない。答案用紙に名前書けば試験受けたことになる。ダルマさん書いて出した方が早く帰れる。

 短大になると人数が多い。教授はマイク使って講義をする。最年少が18歳全員昼間働いている。分からない連中は後ろの方でわいわいがやがやする。実務に直結する講義は前で聴くが、どうでもいいやつは後ろで聞く、電車の帰り時間が迫って来ても講義が終わらないと、みんなで拍手して終わらせてしまう。学校のタテマエとして何時までというのがあるが、夜間の連中そんなタテマエより帰りの電車の時刻の方が切実だ。

 教授にもいろいろなタイプがいる。ある教授はマイクを一切使わない。黒板に自分が持って来たノートの内容を書き始める。講義時間中ひたすら書いている。こちらはそれをノートに書く。騒がしくなくていい。ぼくは、その教授に卒業論文を出した。日本における月賦屋の歴史、という本を借りて来て、原稿用紙50枚分の文字を、毎日夜中の2時頃まで酒飲みながら丸写しにして出した。月賦屋の歴史なんか一部の人しか知らない。教授も初めて読んだ内容だ。今後も研究を続けるように、という有難いお言葉を頂戴して卒論OK。

 第2外国語は、フランス語とドイツ語のどちらか。ぼくはドイツ語を選択した。ドイツ語の講師は大学出たてのホヤホヤ。懸命に教える。レコードかけて歌を歌わせる。ぼくも懸命に歌ったがとっくの昔に忘れた。イヒ、アハ、エヘ位しか覚えていない。英語なんか分からない。なにせチョウテン先生は、NELSONで卒業させてくれたからね。講義を聴くのが苦痛だった。でも行かないと出席日数が足りなくなってしまうから行った。

 当然試験受けても駄目だ。どうやって卒業したか?。短大も入学させたいじょう卒業させなければならない。追試が易しかった。マイク一切使わなかった教授は、簡単なレポート出せばOKだった。英語の追試の答えは本屋に売っていた。買うと高いからOK君が職場のコピー機使わせてもらって1枚50円だったかで必要なページだけコピーしてくれた。書き写す方が面倒くさかった。全日制出身のOK君真面目だから、くすねてコピーする術をまだ持っていなかった。ゼロックスのコピー機が世の中に登場した頃の話だから、コピー機というのは便利なもんだと思った。かなかなかなー。