ぼくは、群馬県に就職し定時制高校に行くことが決まっていた。勉強は学校でするもので、家に帰ってまでするものではない。という大それた考えはなかったが、学校から帰るとカバン放り出して、川に魚捕りに行ったり、夏なら川で泳いでいた。当時ぼくらの学校にはプールがなかったので、信濃川は危ないから駄目だったが、他の川は魚捕るも泳ぐも出入り自由だった。さすがに大豪雪の年は冬場に魚捕りに行くということはなかったが、そうでない年はスキー履いて魚捕りに行ったこともある。要するに学校から帰ると遊んでばっかしいた。でも、大豪雪の前の冬休みは就職先の店で見習いアルバイトをしていた。
どんな大豪雪であっても中学3年生には、高校受験が目前に迫っている。授業は、臨時休校で遅れた分を取り戻して受験に備えるようになっていった。クラスの友達は就職組と受験組に分けられる。一部の授業が、就職組を置き去りにせざるを得なかったのは仕方がない。2学期までよかったぼくの成績は、3学期になると最下位まで落ちた。というのはウソで少し落ちた。ぼくは受験勉強をしないで、家に帰るとカバン放り出してシャベル1本持って雪片づけに励んでいたが、進学組の人達は受験勉強に励んで猛烈にスパートをかけてきていたからだ。
大豪雪も一段落して、出張で新潟市に行った先生が、新潟の道路の端には30センチくらいしか雪がなくて、道路はホコリがたっていたよ。という話をしてくれた。へー新潟はホコリがたっているのか。とクラス中が驚き、いいなー、とうらやましく思った。鉄道とバスが動き始めたといっても雪に埋もれてしまった長岡が雪から解放されるには春の雪融けを待たざるを得なかった。
2月20日過ぎになると大陸の移動性高気圧が順繰りにやってきて、いわゆる三寒四温という安定した気候になる。この時期になると昼間は暖かくなるが夜は放射冷却によって一段と冷え込むようになる。そういう冷え込むことを長岡の方言で「しみる」という。しみた日の朝は、雪の表面が硬くなって踏んでもどふらない。こういう日の登校はしみわたりといって道路を歩かないで田圃の中を歩く。田圃といってもあたり一面雪の原。車の心配しなくてもいいので、広い田圃のなかを歩くのは友達とわいわいがやがや実に楽しい。しかし、しみわたりができるのは朝だけ。気温が上昇すると雪の表面の硬い部分が融けてしまうので、朝できたしみわたりも下校時にはできなくなる。
普段の年だと卒業式のころになると道路脇の雪も少なくなるのだが、大豪雪の年は卒業式の頃になっても道路脇にはたっぷりと雪があった。ぼくが作った雪の城壁は少しやつれたがまだそびえ立っている。学校のグラウンドは雪の下。ところどころに穴を掘って地べたに太陽を当てて融雪を促すようにしてあった。3年生には声がかからなかったから、多分野球部の1・2年生がやったのだと思う。
ぼくが群馬県の就職先に向かったのは4月入ってからである。その頃には雪の城壁もやせ細ったので、トンネルを壊して道路までの通路を作った。すぐ上の兄貴が一緒に行ってくれるというので、母が作ってくれた朝食を三人で食べて、それでは行ってきますと言って家を後にした。汽車の窓から見る雪景色は、道路から見るのとはまた別のおもむきがあった。普段の年なら4月に入れば田圃に雪がないのだが、まだ一面雪の原。学校のグラウンドと同じように穴を掘って地べたに太陽があたるようにやっているところもあれば、焼いた籾殻を蒔いてあるところもあった。速く雪を溶かさないと田植えに支障がでるからである。大豪雪の時、新潟駅を出発した急行列車が上野駅に着くのに3日かかったのだが、今は順調に南へと進む。進むにつれ雪が多くなる。やがてトンネルの中に入った。
国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国ではなかった。山には雪があるが、その雪の量は新潟県側のものとは異質なものだった。トンネルを抜けて1時間くらいしたら、車窓の左側に裾野が長くなだらかな大きな山が見えた。冬休みにアルバイトに来た時にも思ったのだが、あの山にスキー場作ったらいいスキー場ができるだろうなと見ていた。その山がその後折に触れ眺めることになる赤城山だということはまだ知らなかった。
紅顔の美少年。15の春の巣立ち。
今では厚顔無恥のよたろう(^-^)。