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必殺始末人 村山集治

必殺始末人 村山集治
ムラヤマ・コンピュータのブログ

巣立ち

2008-01-20 10:25:44 | 昭和38年1月豪雪

 ぼくは、群馬県に就職し定時制高校に行くことが決まっていた。勉強は学校でするもので、家に帰ってまでするものではない。という大それた考えはなかったが、学校から帰るとカバン放り出して、川に魚捕りに行ったり、夏なら川で泳いでいた。当時ぼくらの学校にはプールがなかったので、信濃川は危ないから駄目だったが、他の川は魚捕るも泳ぐも出入り自由だった。さすがに大豪雪の年は冬場に魚捕りに行くということはなかったが、そうでない年はスキー履いて魚捕りに行ったこともある。要するに学校から帰ると遊んでばっかしいた。でも、大豪雪の前の冬休みは就職先の店で見習いアルバイトをしていた。

 どんな大豪雪であっても中学3年生には、高校受験が目前に迫っている。授業は、臨時休校で遅れた分を取り戻して受験に備えるようになっていった。クラスの友達は就職組と受験組に分けられる。一部の授業が、就職組を置き去りにせざるを得なかったのは仕方がない。2学期までよかったぼくの成績は、3学期になると最下位まで落ちた。というのはウソで少し落ちた。ぼくは受験勉強をしないで、家に帰るとカバン放り出してシャベル1本持って雪片づけに励んでいたが、進学組の人達は受験勉強に励んで猛烈にスパートをかけてきていたからだ。

  大豪雪も一段落して、出張で新潟市に行った先生が、新潟の道路の端には30センチくらいしか雪がなくて、道路はホコリがたっていたよ。という話をしてくれた。へー新潟はホコリがたっているのか。とクラス中が驚き、いいなー、とうらやましく思った。鉄道とバスが動き始めたといっても雪に埋もれてしまった長岡が雪から解放されるには春の雪融けを待たざるを得なかった。

 2月20日過ぎになると大陸の移動性高気圧が順繰りにやってきて、いわゆる三寒四温という安定した気候になる。この時期になると昼間は暖かくなるが夜は放射冷却によって一段と冷え込むようになる。そういう冷え込むことを長岡の方言で「しみる」という。しみた日の朝は、雪の表面が硬くなって踏んでもどふらない。こういう日の登校はしみわたりといって道路を歩かないで田圃の中を歩く。田圃といってもあたり一面雪の原。車の心配しなくてもいいので、広い田圃のなかを歩くのは友達とわいわいがやがや実に楽しい。しかし、しみわたりができるのは朝だけ。気温が上昇すると雪の表面の硬い部分が融けてしまうので、朝できたしみわたりも下校時にはできなくなる。

 普段の年だと卒業式のころになると道路脇の雪も少なくなるのだが、大豪雪の年は卒業式の頃になっても道路脇にはたっぷりと雪があった。ぼくが作った雪の城壁は少しやつれたがまだそびえ立っている。学校のグラウンドは雪の下。ところどころに穴を掘って地べたに太陽を当てて融雪を促すようにしてあった。3年生には声がかからなかったから、多分野球部の1・2年生がやったのだと思う。

 ぼくが群馬県の就職先に向かったのは4月入ってからである。その頃には雪の城壁もやせ細ったので、トンネルを壊して道路までの通路を作った。すぐ上の兄貴が一緒に行ってくれるというので、母が作ってくれた朝食を三人で食べて、それでは行ってきますと言って家を後にした。汽車の窓から見る雪景色は、道路から見るのとはまた別のおもむきがあった。普段の年なら4月に入れば田圃に雪がないのだが、まだ一面雪の原。学校のグラウンドと同じように穴を掘って地べたに太陽があたるようにやっているところもあれば、焼いた籾殻を蒔いてあるところもあった。速く雪を溶かさないと田植えに支障がでるからである。大豪雪の時、新潟駅を出発した急行列車が上野駅に着くのに3日かかったのだが、今は順調に南へと進む。進むにつれ雪が多くなる。やがてトンネルの中に入った。

 国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国ではなかった。山には雪があるが、その雪の量は新潟県側のものとは異質なものだった。トンネルを抜けて1時間くらいしたら、車窓の左側に裾野が長くなだらかな大きな山が見えた。冬休みにアルバイトに来た時にも思ったのだが、あの山にスキー場作ったらいいスキー場ができるだろうなと見ていた。その山がその後折に触れ眺めることになる赤城山だということはまだ知らなかった。

 紅顔の美少年。15の春の巣立ち。
 今では厚顔無恥のよたろう(^-^)。

 


太郎の家にも次郎の家にも雪は降る

2008-01-19 10:19:11 | 昭和38年1月豪雪

 家が雪の中に埋まってしまったので、まだまだ家の廻りの雪を片づけなくてはならない。家の中が真っ暗。明かり取りの為にガラス窓のところだけ雪を掘り起こしたのはずっと先の話。それまでは昼間でも電気をつけないといけなかった。あぁもったいない。雪国だから大豪雪の後も雪は降ったがそれほどではなかった。ガラス窓を掘り起こしたのは、2月に入ってからだったと思う。

 その後、秋口に地べたに穴を掘って埋めておいた根菜類を掘り起こした。埋めたあたりに直径4~5mの穴を掘っていく。穴掘ればその分家の廻りの雪が増える。なるべく家から遠い方に掘った雪を放り出した。放り出したといっても5m位の高さを掘っていくので、途中に雪をためておく中継場所を作って、途中で穴から上がってきて中継場所をに放り上げた雪を、穴の上に放り上げて、上に上って放り上げた雪を遠くに放り投げてと、下から放り上げる場所を確保しながらの繰り返しで、地べたまで到達して根菜類を掘り出すには何日もかかった。

  鉄道は、他県からの応援部隊と自衛隊による人海戦術で上下線だけは開通した。1ヶ月くらいはかかったんじゃないかと思う。鉄道が開通したといっても、操車場の再開は春の雪融けを待たざるを得なかったので、貨物輸送には大幅な支障が出た。

  太郎の家にも次郎の家にも雪は降る。金持ちの家にも貧乏人の家にも雪は降る。天から降って来るものには抗えない。昭和36年に試験的に施設された消雪パイプの威力はすごかった。ぼくも一段落してバスが開通する前に、友人と一緒に長岡の街まで歩いて行った時、その道路を見た。街の中は家の回りに雪を降ろす場所がないので道路に雪を降ろす。細い通りは屋根の上を歩いているも同然だった。しかし、消雪パイプが施設されていた道路は、アスファルトの舗装が見えていた。

 消雪パイプの実物を見るまでもなく、ポンプがある家では、いち早く地下水による消雪をやっていた。ホースの先を結んで、ホースの途中を錐で穴を開けて水を流してやると、錐で穴を開けたところから暖かい地下水が飛び出して雪を溶かす。消防のホースみたいなものを使う家もあれば、塩ビのパイプに穴を開けてやる家もあった。道路が開通するとトラックのある会社は、トラックに雪を積んで川に捨てに行っていた。ぼくは、あれができればいいなぁと思いながらも、雪で作った城壁の仕上がり具合を見上げてこれも悪くないなと思っていた。

 


校舎の雪降ろし

2008-01-18 15:57:42 | 昭和38年1月豪雪

  ぼくが通った宮内中学校の校舎は、長岡市内でも一番最初に鉄筋コンクリートになったと記憶している。2年前に3階建、1年前に2階建ての校舎が完成し、ぼくは3階建ての校舎で勉強していた。鉄筋コンクリートだから当然雪降ろしをしなくてもいいように設計されていた。しかし、あまりの積雪でコンクリートの壁にヒビが入ってしまった。先生から明日は校舎の雪降ろしをするので全員シャベルを担いで登校するように言われた。

  当日は快晴。カバンの他にシャベルを担いで学徒出陣。先生より屋上の転落防止用のコンクリート壁まで降ろせばいいのでくれぐれも下に落ちないよう注意するように言われた。いざ出陣。それぞれの家で真正面から大豪雪に対して立ち向かい、それを乗り越えて来た者達の目は輝いていた。

  屋上の扉を開けても空が見えない。先頭がシャベルで雪をこそぎ落とし、長靴で踏み固め屋上にはい上がるトンネルを掘った後は、蟻が穴からはい出すようにぞろぞろと屋上に上がって行く。端を降ろすのは早い者勝ち。端の手前1~2m位のところまでドフリながら歩いて行き、足場を確保しながら雪を掘る。一番端はシャベルで縦に切れ目を入れておいて、最後に足元の先にシャベルを入れてテコの原理で、ほいっと力を入れると雪が丸ごとごそっと落ちる。更に縦に堀り進んで転落防止用の壁に至った時には、ぼくの背丈の倍くらいあったので3メートルを優に越えていた。すぐに後続の人が頭の高さ位まで掘り進んで来ていた。上と下で呼吸を合わせながら屋上の端の雪を横に落として行く。足場さえ確保すれば、シャベルで切れ目を入れてテコの原理でほいとやると、大きな雪の壁がごそっと落ちる。おっかないけど大して力はいらないのでスリルがあって面白い。

 校舎の廻りはいっぱい空いている。鉄筋コンクリートの屋上は平らだから足場がいい。スリルがあるのは端の雪だけ、後は放り投げるだけだから簡単だ。青空の下、団塊の世代の全校生徒によるシャベルを持った雪合戦は実に楽しく午前中で終わった。こんなに楽しいことをしない手はないので雪降ろしが嫌でズル休みをしたという者はいなかった。もちろん落ちると痛いし格好悪いから落ちた者は一人もいなかった。
  校舎の中に入ったら何枚かの窓ガラスにヒビが入っていたが、それくらいは仕方がないだろう。午後は予定通り授業を受け下校した。

 その後のことは分からないが、生徒が校舎の雪降ろしをしたのは、あの大豪雪以外にはなかったのではないかと思う。校舎の雪降ろしは大変だったかと聞かれれば、全然大変ではなかった。校舎の上は平らなので足場の危険はない。校舎の廻りは空き地が十分あるから基本的には上から下へ落とすだけである。端がちょっと危険だけど、それは注意すればいいことで、万一落ちても下には雪があるので、最悪骨折するくらいで死ぬようなことはない。一人で全部やれと言われると大変だけど、天気さえ良よければ大勢でやる鉄筋コンクリートの校舎の雪降ろしは面白い。こういう面白いことを非雪国の生徒にやらせてみてはどうだろう。半日あれば終わるので遠足の延長と考えてバスで乗り込めばいい。

 雪国の人には、その程度のことで雪国を理解できるのかという思いがある。しかし、天気さえよければ校舎の雪降ろしは面白い。たとえわずかであっても、その面白いことを非雪国の生徒に体験させて、「雪とは何か?」ということを、肌身で感じさせるのは価値がある。少なくとも「雪国はつらつ条例」を「雪国はつらいよ条例」と教科書に誤記するような間違いは防げる。

 雪に対する備えが無い首都圏では、雪が降ると雪だ雪だと大騒ぎをする。雪が降る中ハイヒール履いたスカート姿の女性が傘差して歩いているのを見ると、おいおいそれじゃお姫様が風邪引くぞと思わずつぶやいてしまう。
 年末年始や冬場の連休になると冬山登山で遭難したというニュースが毎年のように伝えられる。なんでこんな悪天候の中、山に入ったんだといつも思う。行く方にすればそこしか休みが取れなかったという理由があるのだろうが、雪国で生まれ育った者の目から見ればそれは理由にならない。

 雪国の校舎の雪を非雪国の生徒の教育資源として解放し、中学、高校時代に雪を体験させるのは、非雪国において雪が降った場合の対処方法を学ぶことであり、雪国と非雪国との交流にもなる。それを通じて得たものは生涯の糧になるはずだ。受け入れる雪国側にとっては、一番面白い所をつまみ食いされるだけで面白くないだろうが、そこは非雪国側が頭を下げて頼めば、じゃ一緒にやろうかという運びにできるはずだ。長岡藩の米百俵の例を持ち出すまでもなく、国の根本は人にある。次代を担う若者の教育資源として雪を活用する。このアイデア悪くないと思う。

 


道路の除雪

2008-01-17 15:09:23 | 昭和38年1月豪雪

 1月の下旬だったか2月に入ってからか記憶が定かではないが、ある日家の前の道路の除雪をするので夕方から町内全員協力するようにと言われた。それぞれの家から人が出て道路に雪を放り出した。しばらくしたら大声で「道路に雪を出すな!」。と言いながらこちらに向かって来る人の声が聞こえた。

 ぼくは、折角作った雪の壁を壊したくなかったので、奥の雪を出していたが、奥から持ってくるのが大変だったので素直に雪を出すのを止めた。少しして「何を言っているのだ!。除雪するから協力してくれと言ったのはそっちだろう。お前の会社のバスだけが通れればいいという問題ではないだろう!」。というような怒鳴り声がした。それを聞いたぼくは、もの凄いことを言う人がいるな、これは大人の喧嘩が始まるぞとビックリした。しかし、その後道路に雪を出すなと言った人が平謝りしたのにはまたビックリした。その夜からショベルカーとダンプカーによる除雪作業が始まった。

  ぼくの家の前が除雪されたのは、天気の良い日中だった。学校を休んだ記憶がないので土曜の昼過ぎか日曜だったのではないかと思う。その光景は、運転席の前方にあるショベルが雪をすくって運転席の上を通って後方にいるダンプの荷台にショベルの雪を放り込むという今まで見たことがないものだった。多分、国道8号線を使って他県から応援に駆けつけた重機だと思う。ダンプは、折り返し場所がないのでバックして重機のところまで来ていた。(2014(H26).10.27この記述は昭和36年の豪雪だった。)

 昭和38年の大豪雪では、歩く以外に移動方法が無かったので、昼間は除雪しないで、道路の除雪は夜間に行なわれた。(2014(H26).10.27追加記述)

  除雪によって久しぶりに姿を見せた道路とトンネルとの高さは、ぼくの背丈を超えていた。トンネルの下を掘り下げて道路の高さに合わせなければならない。中学校3年生のぼくの頭では、家から道路まで安全に出るにはトンネル以外の方法を思いつかなかったので、トンネル掘って失敗したとは思わない。とりあえず道路からトンネルへの階段を作った。掘り出した雪を壁の上まで持っていくのが大変だったので除雪のどさくさに紛れて道路に放り出した。バス路線が開通したのは2月の下旬か3月に入ってからのような気がする。

 道路の除雪は車1台半くらいの幅で、バス停のところだけ少し広かったように記憶している。当時は、今のような車社会ではなかったので、歩く人は車が来ると端へよけた程度で、車が来ない時は道路の真ん中を堂々と歩いた。除雪すると車が通るので歩くのに危ない、というのは冗談で、鉄道の開通と道路の除雪によって人の移動が楽になり、物資の輸送ができるようになったので、段々と陸の孤島状態から抜け出せるようになっていった。


雪はつらいか?

2008-01-16 12:50:24 | 昭和38年1月豪雪

 雪はつらいか?。今の自分自身に問いかけている。あの時はつらかったか?。そらぁつらかったよ。本当につらかったか?。つらいなどと泣き言を言ってる暇はなかった。家が雪で押しつぶされるか守りきるか必死だった。たしかに身体はきつかったがその分身体が鍛えられたし、普段の年では絶対に体験できないできないものがいっぱいあった。

 雪がやんだら家の前の往来が賑やかになった。家の廻りがたっぷり空いていて自分のところがひとまず片づいた人がシャベル1本担いで屋込みの街中に雪降ろしの日傭取りに歩き出した。人手が不足しているからあっちでもこっちでも引っ張りだこだろう。

 南の方から荷物を積んだ雪ゾリが通って行った。馬はいなかったがあのソリは小さいときに見た記憶がある。よく今まで取ってあったな。そのソリがまた荷物を積んで街の方から戻ってきた。街中に必要なものを持って行って、村で必要なものを運んでいる。トラックだとよく分からないが、人が引くソリなら重くならないように余分なものが積んでないからよく分かる。
 そういえば雪が降っている最中にお使いに行った店ではカンジキの値段が3倍くらいになっていたから、今の街中ではもっと高いだろう。

 生鮮食料品が不足していると言っていたけど、このあたりでは毎年冬になる前に大根干して、芋を買い込んであるから家さえ守れば死ぬようなことはない。麦ご飯とみそ汁だったのは覚えているけど、おかずが何だったか覚えていない。現在のようにモノがあふれている時代ではなかったので質素だったのは確かだ。

 雪上車がやってきた。世の中には便利なものがあるもんだな。歩いている人には迷惑だけど一台だけだから通る時だけよければいいから誰も文句を言わない。子供心でも同じキャタピラーで動く自衛隊の戦車がこないかなとは思わなかった。

 うわぁ。あそこの父ちゃんの血相変えて道路に飛び出した。道路に積んでいた雪が崩れて歩いている人が下敷きになってるかもしれない?。と思った瞬間身体が宙を飛んでシャベル片手に飛び出していた。雪の下に人がいるからシャベルを縦に使えない。横にすくうか削るしかない。とにかく目の前の雪をどかさないといけない。どけた雪が歩いている人にあたるもへったくれもない。本能的に身体が動いた。さいわい崩れた雪の下には誰もいなかった。

 いろんな人が通る。南の方からシャベル担いで隊列組んだ人達が通って行く。高崎機関区?。雪が積もり過ぎたのでラッセル車じゃ役に立たない。本で見たロータリー車があるはずなんだけど、線路が完全に埋まってしまったからここまで来るには時間がかかるのだろう。鉄道には流雪溝があって、冬場の除雪をする水も人手も確保してある。しかし、あまりの積雪に人手が足りないので応援にきてくれた人達である。

 家の廻りの雪は高い所だけ空いているところへ送り出せばいいや。隣の家とのあいだの狭いところは前に出すしかないな。とりあえず格好がついた。今度は前に出した雪を道路に積もう。崩れるといけないから下の柔らかい雪を踏んでからやるか。積む雪は山ほどある。前を通る人が見たときに格好いいように前の方をシャベルの裏側でぺたぺた。シャベルの裏側ではあんまり見栄えがしないな。コスキでぺたぺた。これなら格好がいいや。これで雪を出せる場所が広がった。順繰りに雪を出してやれ。雪を積んでシャベルを立てて足で踏んでシャベルの裏側でぺたぺた。ときどきコスキでぺたぺた。道路から家に入るトンネルは掘ってあったから後から積んだ分だけ堀直すか。ぺたぺたした具合はどうだ。おう格好がいいや。トンネル掘り直す雪はたいした量じゃないから道路に放り投げちゃえ。

 また上に上って雪を積んでぺたぺた。家に電気を引き込む電柱には雪降ろしの時も雪をどかしている今も神経使ってるけど、こりゃ面白いや。道路に雪を積んでいったら電話の電信柱のてっぺんが腰の高さになった。こりゃ城壁だ。この位にしておこう。雪をどかす場所が広がったから、とりあえず後1回くらい雪降ろしができるだろう。

 気合いを入れて家の脇の雪をどかす。ガシッ。日が経つと雪が硬くなって重たいからちょっと大きめにして、シャベルに乗せて引きずれば持って歩くより楽だ。城壁作ってトンネル掘ったから雪をどかす場所が広くなったのでこの辺において。シャベルで、がしゃ。がしゃ。城壁の方へぽいっと。

 今から思うとスノーダンプがあれば楽だったと思う。しかし、あの当時スノーダンプはなかった。金持ちの家には雪樋があったけどぼくのところにはそういう便利なものはない。シャベルとコスキだけで大豪雪と格闘した訳だが、一段落して余裕ができると雪片づけも遊び心を持って臨むことができた。

 


自衛隊が鉄板敷いて来た

2008-01-15 12:53:25 | 昭和38年1月豪雪

  雪がやんだ直後の朝、家の前を歩いて学校へ行く友達に「おれは雪を片づけなければならないから今日は学校を休むので、先生にそう言ってくれ」。と頼んだ。その友達が、10時半頃帰ってきて、「学校は休みになったからお前は休んで良かった。」と言った。健康な状態であるにもかかわらず初めて自らの意思で学校を休むと決断した時の光景は今でも脳裏に焼き付いている。学校は3日くらい臨時休校になった。

 あした自衛隊が火炎放射器を使って雪を溶かすという知らせがあったのは雪がやんだ後だった。カエンホウシャキ?。もの凄いものを持ってきたな。果たしてうまくいくのかどうか。見に行きたいけど、目の前の雪を片づけるのが先だ。それにしてもどうやって持ってきたんだろう。飛行機なら音もするし、パラシュートならここから見えたはずなんだが。結局火炎放射器は、雪を焦がしただけだったという知らせを聞いたとき、やっぱりそうだったかと思った。

  新潟県には、陸上自衛隊の駐屯地が新発田と高田にある。単に来るだけであれば少し遠いが途中に山が無い新発田から来た方が速く着く。しかし、実際には高田の自衛隊が、国道8号線に鉄板敷いて山を越えて来た。

 なぜ高田の自衛隊が鉄板敷いて来たのか?。高田の方が近いということもあるが、長岡に通じる交通は、鉄道道路ともすべて雪で埋まってしまって動きが取れない。東京からの上越線は六日町あたりまで、信越線は高田、柏崎あたりまで行けるが、そこから先は歩く以外に移動手段がない。東京方面からの物資を鉄道で送れるところまで送って、そこから先の長岡への陸路を確保するのが最優先課題だった。そうすると柏崎から長岡への国道8号線が最短距離になる。除雪している暇はないので、雪の上に鉄板敷いて行けということになったのだと考えられる。

 大豪雪の渦中にあったぼくにとって、自衛隊がどうやって長岡まで来たかは謎であった。当時ぼくの家にはテレビはなかった。真空管のラジオでニュースや天気予報を聞いていたと思うが、満足に聞いていなかったと思う。輸送網が完全にマヒしたので新聞は来ない。学校の臨時休校が終わって登校した後、クラスの友人から自衛隊が国道8号線に鉄板敷いて来たと聞いて、どうやって来たのかという謎が初めて解けた。曾地峠に鉄板敷いて来たのか?。ものすごいことするなと思ったものである。しかし、自衛隊の活動は主に市街地だったので、ぼくらが自衛隊の姿を見ることはなかった。

 火炎放射器なんか使っても駄目だろうというのは、当時15歳だったぼくにも容易に想像できた。何故、自衛隊は火炎放射器などという物騒なものを使ったのか?。あるいは使わせたのか?。当時は分からなかったが今なら分かる。あれは、雪を溶かすのが目的ではなく、火炎放射器をもってしても、シャベル1本で雪降ろしをしている現地の人に敵わない。というシーンをテレビで流すのが目的だったのではないかと思う。

--- ふるさと長岡のあゆみ(長岡市役所発行)より引用 ---
 昭和三十六年につぐ昭和三十八年の豪雪は、市民の生活を苦しめた。
 輸送網は完全にマヒ。工場は軒並みに滞貨をかかえ、原材料は不足。煙突の煙も止まった。商店街は開店休業、野菜、鮮魚はジリジリと値上がりする。市民は、家庭でも職場でも雪おろしを日課とした。
 市街地だけでも延べ二万三千七百人の自衛隊の応援で、凍りついた道路の雪をツルハシで砕いて、ダンプカーで川に捨てた。その台数は延べ千七百台を超えた。酷道(国道)険道(県道)死道(市道)といわれながらも、人びとは必死に雪との戦いを続けたのである。
 ところがこのような異常豪雪下にもかかわらず。昭和三十六年に長岡で開発された「消雪パイプ」の施設道路は、わずか市内の二十一か所、延べ3・7キロメートルに過ぎなかったが、黒々とした路面を見せていた。
--- 引用終わり ---

 「ふるさと長岡のあゆみ」では、昭和36年と38年の豪雪をひとくくりにして記述している。雪国では毎年冬になると雪が降るのが当たり前。雪が降ったからといって雪だ、雪だと大騒ぎすることではない。という考え方が根底にあっての記述である。

  昭和36年も大雪だった。当時、ぼくは中学1年生。兄貴が会社から帰って来て、これから会社の雪降ろしに行くからお前も来いと言われて、二人してシャベル担いで屋根の高さと同じくらいになった街中の通りを歩いて行った記憶がある。それでも、昭和36年の時は、家から道路までトンネルを掘らなくてよかった。

 豪雪という言葉は後から付けるもので、その渦中にいる人間は、後から豪雪という言葉を聞かされて、そういえばあれは豪雪だったなと後になってから実感する。
 昭和38年の大豪雪の渦中にあったぼくも無我夢中で雪と格闘していただけで、あの時は大変だったという想いを抱いたのは何年か経った後のことである。

 


昭和38年の大豪雪

2008-01-14 15:22:22 | 昭和38年1月豪雪

  身体の弱い母とぼくの二人は、戦後に建てられた仮住まいのバラックでつつましく生活していた。広いのが取り柄だが、ひとたび雪が降ると雪降ろしが大変というのが冬の年中行事になっていた。

  あれは、ぼくが中学3年生の1月、冬休みが終わって数日した頃である。その日学校から帰るとカバンを放り出して、シャベル1本持って屋根にあがった。とにかく一番弱い下屋の雪を降ろさなければならない。軒先から上に向かって雪を降ろし、軒先に戻って雪を降ろすという繰り返しで下屋の雪を降ろし終わったときにはとっぷりと日がくれていた。雪明かりの中、雪降ろしをし始めた所をみたら、もうこんなに積もったのかという驚きの記憶がある。ウソ言うと1メートル位積もっていた。

  雪を降ろし終わったぼくは、道路まで形ばかりの通路をあけ、玄関の前の雪をどかして、梯子を片づけ「かぁちゃん。下屋の雪降ろしは終わったけど、雪がいっぺこと降ってきたからもう1回おろさなければならんけど、もう嫌になったから今日はこれでやめるて」。と言って家に入った。当時の新潟県長岡市の人口は15万。長岡が完全に陸の孤島となってしまった昭和38年1月豪雪の始まりである。

 ラジオで天気予報を聞いていたと思うがこの雪がどれくらい降り続くかは分からなかった。雪はしんしんと降り続いたが学校から帰るとカバンを放り出してすぐに屋根に上がって雪降ろしをしていた。2日目の晩遅くなって、信越線で長岡から3つ目の来迎寺から汽車に乗って長岡に勤めに来ている従姉妹が「一晩泊めてくれ」、と言って来た。「おまえさん。こんな雪の中会社に行ったのか?」。「汽車が止まったから長岡まで歩いて行ったらお昼すぎになったて。」「この雪の中を歩いて長岡まで来たのか?」。「私も仕事でなければこんなつらい思いをしてまで来なかったよ」。といった会話があったのを覚えている。

  翌朝ぼくが起きた時、従姉妹の姿はすでになく、家に帰ったのか会社に行ったのかは分からない。雪はその日も降り続いていた。学校から帰るとカバンを放り出して屋根に上がって、途中から雪上げになって、雪を降ろす場所を確保するために下に降りて、降ろした雪をどかして、また屋根に上がって雪をどかすということをやっていた。

  たしか4日くらい降り続いたと思うが、その間学校を休むことはなかった。家を守るのが先決なのでとにかく空いている所に雪を降ろす。自分の屋敷だとか隣の屋敷だとかというのはお互いに無し。道路であろうとなんであろう空いているところに降ろす。文字通り雪との格闘だった。

 そんな中、自衛隊が救援に駆けつけてくれるという知らせがあった。と同時に自衛隊に救援を要請しなければならないほどの雪だったのか、どうりですごい雪だと思った。小正月を田舎で過ごそうとした人達が長靴や革靴の上から滑り止めに藁縄を縛って、雪の降る中土産物を抱えて家の前の道路をぞろぞろ歩いて行った情景は鮮明に覚えている。汽車が止まった六日町あたりから歩いてきた人達である。

 記憶が定かではないが、3m80cm位降った。普通雪降ろしは、視界がよく足元がよい雪の晴れ間にやるものなのだが、あの時はそんな悠長なことは言っていられなかった。事前にこれだけ降るということが分かっていれば、それなりの準備や心構えができた思うが、ものすごいドカ雪だったというのは後から分かったことで、雪がやんだときにはあぁやれやれと思った。