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必殺始末人 村山集治

必殺始末人 村山集治
ムラヤマ・コンピュータのブログ

学校は楽しい

2008-04-14 10:16:04 | 伊商の定時制

 定時制の席順は、二年生の前期までは出席簿順だったように記憶している。ぼくのすぐ前の席に森が座っている。後になってから聞いた話だが森は、橋の下に捨てられて、子供時代はストリートチルドレンで生き延び、今の親に貰われてきたと話してくれたことがある。

 定時制とはいえ、前期と後期に試験がある。一年生の時の試験では、前に座っている森が振り向いてぼくの答案用紙を見ていた。騒がしくしないから黙ってやらせていた。定時制一年生の時は、お互いに気心が知れないからあまり話をしないし、お互いに様子見をしていたのではないかと思う。

 そして、定時制二年生の前期の試験で、前に座っている森が後ろを振り返って見せろ見せろうるさく言う。見せろと言われてもまだ試験問題解いている最中だ。うるさくて仕方が無いから上の方だけ前に出して試験問題を解いていた。もっと見せろとやかましく言う。えーい。うるさい。全部問題を書き終わって前に押しやって好きに見ろとやった。

 全教科で見せろ見せろと言ってうるさくて仕方がない。下手すると答案用紙引っ張って引きちぎられそうになる。答えだけ合っていても考え方が分からなければ身に付かないのに、見せろ見せろと言ってうるさくて仕方がない。そして全教科の試験が終わった。

 数日後、先生が答案用紙を返してくれた。我がクラスは全体として試験の成績が良かった。化学の先生が答案用紙を返してくれた時、クラスの成績が非常によいと言われた。しかし、先生の表情が喜んでいない。

 試験の成績はいいのだが、みんな同じ問題に同じ間違った答えを書いている。これは一体どういうことだ、と言って怒っている。ぼくは、その時、1問だけ間違えた。ぼくの答案用紙の答えを見た森を経由してクラス中にぼくの間違えた答えが伝播したようだ、と気付いたのは、しばらく経過してからだった。

 ぼくは、気付くのが一寸遅い。あっ!。そうか!。と気が付いた時はもう遅いということが、六十年間真面目にコツコツ生きて来た中で何回もあった。

 その後の試験では、森も見せろ見せろとうるさく言わなくなって、後ろを振り返って黙って見るようになった。ぼくも見せられる範囲で答案用紙を見やすい位置に置いて、試験問題を解くようになった。定時制でも、夜間の短大でもカンニングはアリだったが、ぼくの方からカンニングすることはなかった。

 試験なんてのは所詮そんなもんだ。ぼくが学校以外で受けた試験は、簿記の三級の試験と、バイク・普通車の運転免許だけだ。それ以外の試験を受けたことは無い。カンニングアリで、一夜漬けで受かればいい試験なんかアホらしくて受けるつもりにならなかった。

 話がそれた、定時制二年生の前期試験の後あたりから、ぼくの口から越後の訛りが消えていき上州弁が出るようになった。それに伴ってクラスの友人達とうち解け合って話ができるようになった。とりわけすぐ前の席に座っている森が良く声を掛けてきた。

 森は、ぼくより一つか二つ年上。同じく年上の辻君と仲が良かった。ぼくは、他国の出だからクラスの友人達とまんべんなく話をするように心がけていたが、次第によく話をする人が絞り込まれていった。

 クラスの最年長、妻子がいて老母を抱えて通ってきている松村さん。松村さんに一目も二目も置く保坂。ぼくより一つ年上の関矢。そしてぼくの四人が一つのグループを作って、他のグループが時々入ってきたり、他のグループが入って来たりした。そしてぼくも他のグループの人達の話の輪の中に入って行った。

 クラスの中には、市外の遠い所から通ってきている友人達もいる。年の違いや、住まいの違い、勤めの違い、仕事の違いを抱えながらクラスの友人達は、同じ学校で同じ時間を共有するという楽しみを育みながら授業を受けていく。

 定時制四年間は、学校へ行くのが辛いとは思わなかった。学校に行ってクラスの仲間と同じ時間を過ごすのが楽しかった。その楽しさがなかったら四年間通学出来なかったと思う。これは他のクラスの友人達も同じだ。でも、空っ風や雨や雪の中自転車こいで行くのは辛かった。記録によれば、昭和41年6月28日、台風4号のためホームルーム後、放課とある。

 寝てもいいが騒ぐな、と言われているから授業中に騒ぐ人はいない。ぼくは、ストーブに一番近い席で突っ伏して大イビキをかいた後は、眠くなっても机の上に突っ伏すことをしないようにした。それでも眠いと椅子に腰掛けたままうつらうつらする。慌てて首を左右に振って目をこすって眠気を覚ました。

 定時制の生徒は昼間働いているから、眠気と戦ったのはぼくだけではない。みんな眠気と戦いながら授業を受けていた。そして、昭和39年10月10日、東京オリンピックが開催された。学校の図書館と視聴覚ホールは前年に完成している。毎日ではないが、週に何回か授業を潰して視聴覚ホールで東京オリンピックの生中継を見た。

 最終日の閉会式は、学校の視聴覚ホールで生中継を見た。そして店に帰って仕事が終わってからダイジェスト版を見た。ぼくは、その時、店で金銭出納帳を付けるようになっていた。その後、中学校の同級生で東京の薬局へ就職した文通相手の女子から手紙が来た。東京オリンピックの閉会式で、アフリカの黒人選手がこうもり傘さして全身で喜びを表現していたと興奮の様子が書いてあった。

 記録によれば、昭和39年1月16日。パンと脱脂粉乳による給食を始める。給食費月額300円とある。専従の給食員さんが前段と後段の授業の合間に食べられるように給食を用意してくれた。脱脂粉乳といっても小学校の時に飲んだのほど臭くなかった。これで何とか店に帰って夕飯食べるまでのあいだの空腹を押さえられるようになった。

 


スチールギター

2008-03-24 12:32:58 | 伊商の定時制

 昭和38年。ぼくが入学した年、学校の図書館と視聴覚教室が完成した。鉄筋コンクリート二階作り。一階が図書館。二階が視聴覚教室だ。定時制の生徒は図書館を使うことはないが、二階の視聴覚教室をよく使った。生徒総会、生徒会役員の立会演説会、校内弁論大会、校内生活体験・芸能発表会、映画上映、東京オリンピックのテレビ観戦等々。

 いずれも思い出に残るものばかりだが、定時制一年の時、時期はそれほど寒い時期ではなかったと記憶している。夏でもなく真冬でもなかった。秋だと思う。完成したばかりの視聴覚教室でバンド演奏が行なわれたことがある。それもぼく達一年生のクラスから出た。ぼくは、全然知らなかったのだが、スチールギターをやっていた山田さんがバンドの仲間を集めていたようだ。

 そして、当日視聴覚教室に行ったら、山田さんがスチールギターを、猪熊君がドラムを、そして何人かが楽器を持っていた。どうやって練習したのか分からない。どうやって楽器を持ち込んだのかも分からない。とにかく蓋を開けてみたら山田さんが奏でるスチールギターでバンドが編成されていた。

 スチールギターときたらハワイアン。スチールギターは、立って演奏する。学生服を着た山田さんが立って演奏している。ドラムも学生服着た猪熊君がたたいている。他の人も学生服着てやっている。四年生から一年生まで唖然としながらもうっとりと聞いた。オープニングで二・三曲やったと思う。

 今度は、今まさに流行している流行歌の伴奏をして生で歌を歌わせてくれると言う。四年生が手を挙げた。エレキギターはなかったと思う。スチールギターとドラム、多分ウクレレかギターがあったと思う。カラオケはまだない。生演奏で歌を歌う。

 一曲終わると次々とレパートリーを披露して、次ぎに歌う人を求める。店の先輩、四年生の五十嵐さんも手を挙げて歌った。高校三年生を歌う人はいない。最新の流行歌を生演奏で歌う。次々と手を挙げて舞台に上がって歌う。四年生、三年生が生演奏で歌う。

 ぼく達一年生は、舞台の下で唖然としながら、それを鑑賞している。あいつら凄いことやるな。普段教室では見せたことのない側面をバンド演奏で見せている。あっという間に後段の授業時間が終わって、もっと歌いたい人が何人もいたが、時間切れで打ち切りになってしまった。

 教室に帰って後段の授業は終わりで、それぞれ帰路についた。彼らがどうやって楽器を持ち帰ったのか分からない。あいつらよくやるな。凄い奴がクラスにはいるなと思った。

 店に帰っても余韻が残っている。店を閉めて寮に帰ったら、先輩の五十嵐さんが、ケイちゃんに生演奏で歌を歌ってきたと熱っぽく語る。同じ一年生のクラスからバンドが出たという強烈なインパクトを持ったぼくとは別に、先輩の五十嵐さんは、生演奏で歌を歌ったという強烈なインパクトを持っていた。生だぞ!、生!で歌って来たぞ。

 山田さんがどうやって先生に話をして、視聴覚教室でバンド演奏までこぎ着けたのか分からない。学校側としてもバンド演奏は初めてのことではなかったかと思う。全日制にはブラスバンド部があるが、それとは異質のバンドだ。何せアンプを使って音量を大きくする。

 山田さんは、その後もバイクに乗って学校に通って来ていたが、ある日の帰り道で多分右側通行をしてきた自転車を避けたのではないかと思うが、反対側の交差点の角に突っ込んでしまった。ぼく達自転車組がその後に続いた。

 おい。山田さんが事故起こしてるぞ。すでに近くの人が警察に連絡し救急車を呼んであった。おい、救急車来るのを待つより、みんなで担いで行った方が早いぞ。五・六人で歩いて五分位の病院に担ぎ込んだ。歩かないよ、みんなで呼吸を合わせて小走りで担いで行った。

 病院の手術室まで担ぎ込んだところで、医者から手術室から出るように言われた。山田さんの家は、店のお客様だ。ぼくは、病院の公衆電話から店に電話をかけて、店の先輩ケイちゃんに事情を話し、家に連絡してくれるように頼んだ。月賦屋の情報網というのはこういう時に役立つ。まだ電話が各家庭に普及してない時代だ。

 店の先輩ケイちゃんは、親しくしている近所の自転車屋さんの従業員コウさんに話をして、コウさんが運転する自転車屋さんの乗用車に乗って山田さんの家まで急を知らせに行った。しかし、警察の方が一歩速かったみたいで、すでに山田さんの両親は病院に向かっていた。コウさんとケイちゃんは折り返し病院に向かった。ぼくは、事故現場に置いてあった自転車を取りに行って病院の廊下で待っていた。

 店で使うバイクは、店の近くの自転車屋さんで買って修理をしてもらっていたから、店の先輩ケイちゃんは、そこで住み込みで働いていた従業員と親しかった。

 山田さんの両親の方が早く病院に着いた。すでに手術は始まっている。両親が病院に着いてもたいしてやることがない。その後すぐにコウさんとケイちゃんが病院に着いた。これこれこういう訳で家まで迎えに行ったんだけど一足違いだったと話をした。ケイちゃんもぼくと一緒にしばらく病院の廊下にいたけど、コウさんとケイちゃんは先に帰った。

 ぼくやクラスの友人達は、しばらく病院の廊下にいたが、みんな明日の仕事がある。一人帰り二人帰りしてぼくも帰った。山田さんは、一ヶ月以上入院していたように思うが、退院後は、学校に通って来ていた。しかし、段々学校を休むようになって学校を辞めていった。

 山田さんが、四年間通学できたら毎年スチールギターのバンド演奏ができただろうにと思うと残念でならない。定時制の行事として年に一回、生活体験・芸能発表会がある。そしてこの行事で優秀なものは、伊定連で発表できることになっている。定時制四年間でバンド演奏があったのは、後にも先にも定時制一年生の時の山田さんが奏でたスチールギターだけだった。

 昭和38年の入学式は46名という記録がある。途中転入した人が1・2名、卒業したのは36名。定時制の生徒は、多かれ少なかれどうしても途中で挫折する。

 赤い夕陽が 校舎をそめて ニレの木陰に 弾む声。定時制の生徒は、いつまでも舟木一夫の歌の世界に浸っていられなかった。

 


母を思う

2008-03-22 13:27:40 | 伊商の定時制

 ぼくは、長岡商業高校の定時制の試験を受けた。長岡で入学式を終えた後、伊高の定時制に転校する計画だった。中学3年生の頭では、転校は素晴らしいアイデアだと思っていた。実際にやったら、高校で転校するには、1回入学しなければならない。そのためには入学金を払わなければならない。長岡の先生が心配してくれて、入学式が終わったにも関わらず、入学しなかったことにして翌日封筒を渡してくれた。

 だから、ぼくは、四月に入ってから店に入った。伊高の定時制に通っている店の先輩に封筒を渡して学校に持って行ってもらった。タテマエとして試験を受けろと言われて、試験を受けに行った。出された問題が「母について」書けという作文だった。

 みみずがのたくった文字で、真面目に母について書いた。試験発表を見に行ったら、一緒に補欠入試を受けた人達全員が合格していた。自分を産んで育ててくれた母親の悪口は絶対に書けない。自分の母をどう思っているのか?。試験問題として出す先生方もエライ。

 国語の先生は、宮沢賢治の「雨にも負けず」を黒板に書いてくれた。黒板に書かれたものは真面目にノートに書く。そして、定時制に通って来ている生徒達を励ましてくれる。ぼくたちは、文字通り雨にも負けず風にも負けず定時制に通ってきている。それよりももっと辛いことが詩に書いてある。「夏の寒さにも負けず」、というのがどうしても理解できなかった。

 ある日の国語の時間。先生が五七五七七で何か作って見ろと言った。クラスの友人達は適当に語呂合わせをしながら作って出した。ぼくも適当に語呂合わせをして出した。何と書いて出したか覚えていない。先生がぼくの書いたのを読んで誉めてくれた。そしてクラスの友人達に頑張れと励ましてくれた。ぼくが書いて出したやつの最後には、「遠く離れた母を思う」と書いてあった。

 クラスの友人達の中で親元を離れていたのはぼくだけだった。国語の先生は、そういうぼくの事情を知っていて、五七五七七の問題を出して、ぼくに「遠く離れた母を思う」を書かせ、それを使ってこれから悪ガキになっていく生徒達を導くのに使ったようだ。ぼくは、ありのままを書いただけだから、先生に誉められても、先生ちょっとそれは困るよと思っていた。

 定時制の悪ガキどもは、随分と悪いこと(大人の世界)をしたが、自分の母親の悪口は言わない。一人だけ悪口を言ったやつがいる。保坂は、二十歳位で入学してきたが、母親に早く死なれていた。おれを残して死んで行った、と母親の悪口を言う。

 母親の悪口だけは、絶対に言うなというのだが、おれを残して先に死んで行った、と言って母親の悪口を言う。いくら貧しくてもいい。ぼくの母親は生きている。保坂の言うことは理解できる。母親に早く死なれると、残された子供が大きくなってから母親の悪口を言う。

 松村さんは、二四歳くらいで入学してきたクラスの最年長。すでに女房子供がいる。そして自分を産んで育ててくれた老母を抱えている。その状態で、本番の入学試験を受けて入学してきた。正真正銘の苦心惨憺苦学夜学生だ。母親の悪口を言う保坂が松村さんに近づいて行った。そして松村さんに惚れ込んだ。

 保坂はまだ独身だ。自分より年齢が上で女房子供がいて老母を抱えている松村さんに一目も二目も置く。それでも松村さんに、おれの母親は、おれを残して先に死んだ、と母親の悪口を言う。これを言われると、まだ生きている老母を抱えている松村さんも返答に困る。

 もうすんだことだから母親の悪口は言うな。と言っても、おれを残して先に死んだ、と母親の悪口を言う。ああいう風に言えばいいのか。ぼくらも、もうすんだことだから母親の悪口は言うなと言う。母親の悪口を言う方と、言うなと言う方、時間がくると学校から帰る。

 父親に早く死なれるのはまだいい。母親に早く死なれるのは、父親に早く死なれるよりもっと悪い。経済的に豊であっても母親に早く死なれてしまうと、残された子供が別のダメージを受ける。今でも酒飲むと、おれを残して先に死んだと言って、自分を産んでくれた母親の悪口を言う。

 そう言いながら自分の子供を育て、男と女が騙し騙される人の世の人間ドラマを繰り広げている。一度、保坂の子供に会ったら、思いっきり父親の悪口を言って見ろ、と言ってみたいがそのチャンスに巡り会えないでいる。

 


柔道

2008-03-21 08:52:02 | 伊商の定時制

 体育の先生が、今度の授業は柔道場でやると言われた。柔道は中学生の時に、小学校の体育館で高校生だったか大学生が柔道の試合をしたのを一回か二回見に行っただけだ。柔道やるのは生まれて初めての経験だ。大体柔道場というのはどこにあるかも分からない。着る物をどうするかも分からない。

 次の体育の授業の日、みんながわいわい言いながら行くところに着いていった。ここが柔道場か。畳が敷いてある。壁には柔道着と帯が掛けてある。あれを着てやるのかな?。そこへ先生が柔道着を着て現れた。腰には黒帯が締められている。先生太っているけど柔道着着ると格好がいい。

 壁に掛かっている柔道着と帯使って身支度をしろと言う。下にはパンツ以外何も身につけるな。一同言われるがままに柔道着を着て白帯を締める。黒帯締めたくてもかかっていない。先生は黒帯なのに、おれ達は何で白帯なんだと言ったら、黒帯は有段者が締める帯だから、おれ達は締められないと言う友人がいた。すでに柔道を知っている。

 柔道の授業は、まず受身からやる。右手を下にして上半身を床に落とす。その時に右手をつかって受身をする。右手をやったら今度は左手で受け身をする。右手と左手を使った受身だけで一日終わったように思う。

 左右の手を使った受身の練習の後、今度は両手を使った受身の練習をする。両手を下げて上体を床に仰向けに倒す。その時、両手でしっかりと受身をして、頭を床にぶつけないようにする。両手を使った受身の練習をしたが、それを使うシーンが分からない。分からないながらも受身の練習はよくやった。

 受身の次は段取りを教えてくれる。壁に結んである帯を使って投げる練習をする。壁は投げられない。投げる時の肩の入れ具合、力の入れ具合、足の運びを練習する。両手の受身と段取りで一日終わったように思う。

 そして次の週、先生が柔道の経験のある人を相手に投げ技を教えてくれる。先生が投げると、投げられた人が宙を舞って片手で受身をしながら落ちる。受身は頭を打たないようにすることと、投げられたショックを少なくするためにやる。今度は先生が投げられる役をする。大きな身体が宙を舞ってドサッと落ちる。その時にきちっと受身をする。

 なるほどああいう風にやるのか、二人一組になって投げる役と、投げられる役に分かれて投げ技の練習をする。うまい具合に投げられるんだ。投げられた時も片手で受身をするとそれほど痛くない。投げ技を幾つか教わった後、先生が投げられ役で技を掛けてこいと言う。先生の身体は巨体だ。うまくいくかどうか自信がなかったけど、先生相手に投げ技をかけたらうまい具合に先生の巨体が宙を舞った。

 二人一組になって試合みたいな形で練習をする。ぼくが投げる場合もあれば投げられる場合もある。実戦形式で練習することで投げられないように工夫していく。別組の人が巴投げをやった。それを横目で見ていたぼくは、あぁいう風にやるのか、一緒に練習している人にいきなり巴投げをくらわした。見事にぼくの身体の上を飛んでひっくり返った。

 巴投げかけるのは早い者勝ち。ぼくは、何人もの人に巴投げを食らわしたように記憶している。ぼくも一回巴投げをくらった。年齢が同じくらいだから力がそれほど入っていない。両手の受身を意識しないで受けられた。一回巴投げを食らうと、ぼくも相手も用心して巴投げを食らわないようになる。それでもぼくは、隙あらば巴投げを食らわした。

 先生は投げることは教えたが投げられないようにすることは教えなかった。教えなくても本能的に身体が投げられないようにする。体育の授業は休む人が多い。二十歳を超えている保坂も休んでいた。柔道場は畳が敷いてあるから体操の床運動の練習をするのには持ってこいだ。

 放課後と言っても十分~十五分位しか時間がないけど、床運動の練習をしたことがある。中学校の時に体操部にいた人が、床運動の手ほどきをする。ぼくは飛び込み前転と三点倒立はできた。倒立は短い時間ならできた。飛び込み前転ができるなら。宙返りができるだろうと、宙返りをして見せて、ぼくにもやれっと言う。

 ぼくは宙返りの練習を何回もやった。畳の上だけど落ちるとおっかないし痛い。前方宙返りと後ろ宙返り。最初は手を付いてやる。手を付いてやるのはなんとか出来た。手を付かないでやれという。実際にやって見せて、こういう風にやれと言う。

 手を付かない宙返りはおっかない、失敗したら痛い。何回も失敗して一回くらいはできるようになった。時間がきたから帰らなければならない。店の閉店時間までに帰ってその日の集計をしなければならない。暇を見ては放課後に柔道場へ入って宙返りの練習をした。

 最後の一回か二回位はうまくいくようになるのだが、時間がないから自信に結びつけるところまでいかなかった。その内に一緒にやっている友人も飽きた。ぼくの方も店の閉店時間を気にしてやるのが嫌になった。放課後柔道場に行く人は何人かいたようだけど、ぼくの方が行かなくなった。

 そして、ある日の体育の授業で、それまで欠席していた保坂が出てきた。先生が来る前に一丁やってみるかと、ぼくを相手に柔道始めた。ぼくも受けてたった。保坂は、体育の時間休んでいるから柔道を知らないだろう。油断していたぼくの組み手は隙だらけ。

 保坂はいきなり巴投げをぼくにかけた。ぼくは保坂のはるか上を舞って、保坂の後ろに落ちた。保坂の腕力と脚力が強い。両手を使った受身が巴投げを食らった時に使う、というのが十分に分かっていなかったから頭を打ってしまった。

 いててて!。ぼくは頭を抱えてしまった。保坂は、何だお前巴投げの受身を知らなかったのか?。とぼくに聞く。聞かれて初めて両手を使った受身が巴投げの時の受身だと知った。巴投げ食らわせるのは何人もの人にやっていたが、ぼくが巴投げ食らったのはこれが二回目だ。最初の巴投げはやんわりと食らった。二回目は腕力、脚力とも強力な保坂にいきなり食らった。投げる前に受身のことを言ってくれればいいのに投げてから言っても遅いよ。いててて!。頭が痛い。巴投げの受身は頭が痛い思いをして覚えた。

 てめーこの野郎。おれも巴投げかけてやるからと、床から起きあがって組んでみたものの、保坂は技を掛けられない方法を知っているから巴投げを掛けさせない。ぼくも同じことを二度やられたらたまらないから、巴投げをかけさせない。保坂の方が年齢が上だ。柔道もやっている。今度は投げ技を掛けられてしまった。投げ技は、片手の受身だから投げられても大丈夫だ。

 しかし、保坂の方が腕力、脚力ともある。受身をしても床に落とされる力が強い。受身をしても痛い。それでも頭は打たない。まぁ柔道の受身をそうだけど、何でも痛い思いをして覚えたものでなければ本物ではないな。



体育の時間

2008-03-20 11:40:15 | 伊商の定時制

 体育の授業は前段に組まれている。春は陽気がいい。夏至に向かって日足が伸びる。初夏の体育の授業は屋外で行なわれる。一年生の時、一年から四年まで一緒になって、チームを作ってバレーボールの試合をしたことが一回だけある。

 まだ六人制が採用されていない頃だったから、一チーム九人を一年生から四年生まで混在で対抗試合をする。ぼくは一番後ろの真ん中を受け持った。サーブが来た。ちょっと高い。見逃せばラインを割るかどうかギリギリだ。ぼくは、それを手を上にかざして受けた。球足が速い。うまく受けきれない。手に弾かれた玉はコートの外に出て、一点取られた。

 手を下に組んでサーブを受けるのは中学校の時にやっているからできるのだが、ラインを見極めて、手を下に組んでサーブを受けるのが難しい。二回サーブを受けるのに失敗した。先輩から手を上にしてサーブを受けるなと怒られた。結局その試合は負けてしまった。中学生がやるサーブだったら受けられたのだが、定時制の先輩が繰り出すサーブは強くて受けられなかった。

 そして、別の日の体育の授業。クラスの友達で格好のいい体操着を着て来ている人がいる。いとも簡単に鉄棒の懸垂を何十回もやってみせる。ぼくは、懸垂が十回できるかどうかだ。でもこの人の懸垂の仕方は、力の入れ方が全然違う。中学校の時に体操部にいたのだという。ぼくのいた中学校にも体操部はあったが、こんな懸垂をしているのは見たことがない。身体の動かし方がまったく違う。

 東京オリンピックは、この年の翌年、昭和39年に開かれる。雪の降らない地方では、中学生の時から男子体操で技を競っていたようだ。彼が着ていた格好いい体操着は、翌年の東京オリンピックのテレビ中継で見たものと同じだった。彼は、体操の時間になると、先生が来る前の時間を使ってよく懸垂をしてみせた。

 体育の時間で屋外でやる授業は、主にバレーボールのコートとそれに隣接する懸垂棒で行なわれた。後は、体育館の中で行なわれる。一クラス40人以上いるから人数が多い。しかし、授業をさぼるやつが結構いたように思う。全日制の生徒が部活でバレーボールのネットを張ってあると、それをそのまま借用してバレーボールの練習と試合をする。

 その前に準備運動をする。保険体育の先生は、定年間近で接骨院をやっている先生だ。相撲のしこを踏んだり船を漕ぐような独特な準備運動を教えてくれた。戦前に柔道整復師の資格を取って接骨院やっている先生でなければこういう準備運動は教えてくれなかったと思う。中学校ではラジオ体操が準備運動だった。もっとも先生が接骨院やっていると知ったのはずっと後になってからだ。

 バスケットボールの試合をしたことがある。コートに出る者とそれを見守る者に分かれる。ぼくは、コートに出た。バスケットボールのルールは知っている。中学校の時に審判をやったこともある。

 中学校の時に運動部にいた井下君が強いシュートをぼくにめがけて打ってきた。ぼくは取り損ねてメガネが体育館の床に落ちた。井下君や他の人達が心配して駆け寄ってきた。メガネ大丈夫か?。メガネは大丈夫だった。メガネは高い。壊れると大出費になる。井下君はじめ試合をしていた他の人達は、メガネ代を心配して集まってくれた。定時制の生徒は、みんなお金に困りながらも学校に通って来ている。

 体育館で体育の授業が終わったある時、暑かったので上半身裸で教室に帰って行った。途中の職員室の廊下でクラス担任の川村先生に会った。川村先生は、ぼくの上半身をみて、よたろう君はいい体をしているなと誉めてくれた。ぼくは、昭和38年の大豪雪で雪降ろしをしてきましたからと答えた。

 定時制一年生の時の通知簿に身長164.4センチ、体重51.5キロ、胸囲77センチと書いてある。何月に測定したのか分からないが、今の身長は171.5センチ。定時制四年生の四月に行った関西への修学旅行の集合写真を見ると、身長ではクラスの一・二を争っている。ぼくは、自分では気づかなかったのだが就職してから身長がぐんぐん伸びていった。他人の飯を食っていても食う身体の方は正直だ。通知簿に書いてある身体の記録を測定した時は、すでに身長が伸び始めていた。

 昭和38年の大豪雪で雪と格闘したお陰で、身体が鍛えられていた。そして身長がぐんぐん伸びたお陰で、越後の訛りを発する他国者ながらクラスの友人とうち解け合うことができた。中学校時代はイジメにあったが、定時制ではイジメに遭うことはなかった。定時制のクラス全体でもイジメ問題はなかった。

 


友達を作りたい

2008-03-19 09:47:57 | 伊商の定時制

 定時制一年生の時の記憶が余りない。学校に早くついた人達がグループを作って話をしている。前段と後段の授業のあいまにグループを作って話をしている。主に同じ中学校を卒業した者同士がグループを作る。ぼくは共通の話題がないからそのグループに入れない。

 前段と後段の授業のあいだに街のパン屋さんがパンを売りに来る。大きな木の箱四つ位を持って来て、その木の箱を並べてパンを売る。お金がある人はそのパンを買って、夕飯までのつなぎにする。お金に余裕のある上級生が我先にと争ってパンを買う。5分位の間にあっという間にパンが売り切れる。パン屋さんは、店でパンを売るより定時制に持って来た方が効率よく商売ができる。

 ぼくは、最初からお金が無い口だから黙って辛抱するしかない。店に帰れば夕飯がある。パン買って食べたいけどお金が無いから辛抱するしかない。一年生のクラスは、何人かがパンを買って食べてたかもしれないが、ほとんどが辛抱している。

 就職してすぐ、店に並べてあった安物のレインコートを一着買った。月賦ではなく現金で買ったように記憶している。裾丈をうんと短くしてショートコートより短くしてもらった。膝小僧が出てしまってはレインコートにならないのだが、上着の丈より少し長めに詰めてもらった。

 春の夜は寒い。ぼくはそのレインコートを着て定時制四年生の店の先輩と一緒に通学した。お前、そのコート丈が短かすぎだぞ。と言われて少し短すぎるなと思った。短くしたものを長くすることはできない。雨が降っても役目を果たさないレインコートを着て通学した。店の先輩と一緒に通学したのは、ごくわずかな期間。先輩は、集金をやっている。学校へ行く時間が合わなくなった。ぼくは、月末月初めの忙しい時期は学校を休んだ。

 定時制の時の通知簿は取ってある。一年生の時の欠席日数は、23日。二年生の時の欠席日数は、44日。三年生の時の欠席日数は、53日。四年生の時の通知簿が見つからない。つい最近見た記憶があるから家の中のどこかにあると思うが探しても見つからない。年次が上がるに連れ欠席日数が増えている。月末月初めの忙しい時に休んだ他に、月曜日にずる休みをしたのが入っている。四年生の時は、もっと欠席していたと思う。

 話がそれた、クラスの友達を作ることだ。自転車で通学するコースが三つある。二つは直線道路なので、すぐに覚えた。自転車で通学する途中でクラスの友達の乗った自転車と会う。どういう話をしたか覚えていないが一緒に自転車を並べて走った。そして、その友達が三番目のコースを教えてくれた。富士重工の西を通る裏道を通って行く、または富士重工の東を通って北側を廻って学校の正門の所に出る。当時は、今ほど車の数は多くなかったが、富士重工の脇を通るコースの方が車が少なくていい。

 ぼくの口からは朴訥な越後の訛りが出る。クラスの友達は、その訛りが面白いのか新鮮なのか、多少距離を置きながらもぼくに近づいてくれる。ぼくもなるべく各グループに分かれて話をしている所に顔を出すようにした。ぼくは、積極的に話の輪に入るような性格ではない。どちらかと言えば引っ込みじあんの臆病者だ。

 でも段々とクラスの友達の輪の中に入っていくことができた。クラスの中には一つ年齢が上とか二つ上という友人が結構いる。妻子と老母を抱えて入学してきた松村さんがいる。二十歳くらいで入学してきた保坂もいる。一つ年齢が上の関矢がいる。松村さん。保坂、関矢とぼくの四人で自然とグループができた。そのグループの中に他のグループが顔を出すようになった。

 学校へ行く目的は三つある。一つ目は勉強すること。二つ目は良い友達を作ること。三つ目は良い先生に巡り会うこと。

 夜間の短大に進学する時に、ボス猿に上記のことを言われた。残念ながら夜間の短大では、定時制ほど濃密な時間を過ごすことができなかったので、良い先生との交わりが少なかった。良い友達も得たが、それぞれ仕事が忙しくて、卒業後もそれほど会っていない。

 六十年生きた今、振り返ってみると、伊商の定時制の四年間ほど濃密な時間を過ごした友人はいない。親友、悪友、ポン友色々いるが、良い友達を作ることができた。そして良い先生に巡り会うことができた。その良い先生もすでに鬼籍入られて二人しか生き残っていない。

 話を戻す。学校の休み時間に珠算クラブの人達のグループに顔を出した。ぼくは、クラブ活動があるのを知らなかった。日曜日に珠算の検定を受けに行ってきたという。ぼくは、それについて質問した。聞いていることは真剣なのだが、越後の訛りが出ている。ちょっと笑われた。これでは上州弁を覚えないとクラスの人の輪に入っていけない。

 店でも上州弁をマスターする必要に迫られている。越後の訛りをとっておいて、それとは別に上州弁をマスターすれば良かったのだが、15歳の少年の頭ではそこまで頭が回らない。自分が産まれ育った越後の訛りを捨て去って、上州弁をマスターした。越後の訛りを捨てるんじゃなかったと気が付いた時は後の祭り。あのイントネーションがもう出せない。

 越後の訛りはすぐに分かる。言っていることも理解できる。しかし、ぼくの口からは越後の訛り独特のイントネーションが出ない。代わりに、だんべー言葉で代表される上州弁が出る。上州の人特有のイントネーションは出せないが、それに近いイントネーションは出せる。

 今は、標準語と上州弁で話をしている。越後の訛りは理解できる。越後の訛りと標準語の通訳はできる。越後の訛りと上州弁の通訳もできる。と言っても余程山の中にでもいかないと通訳の必要はないだろう。

 学校でもクラスの友人達とうち解け合うことができた。あらたな友人の輪ができた。この友人の輪は四年間に渡って醸成されていく。ケンカはなかった。それに近いことは有ったが未然に防いだ。勉強し、友達を作り、良い先生に巡り会うことができた。払った代償は、生まれ育った越後の訛りを捨て去ったことだ。

 


定時制一年目

2008-03-18 11:57:21 | 伊商の定時制

 定時制高校に通い始めた。クラス担任の川村先生は三十歳位だ。とてもいい先生だった。新しいクラス友達は四十人以上いた。その中に紅一点女子がいた。クラスの宝物誰も手を出さない。定時制の授業は、午後五時半から七時までで2時限の単位になっている。これが前段の授業。七時から八時半までが2時限の単位になっている。これが後段の授業。一時限だけ授業をすることはない。

 前段の授業と後段の授業の間に五分位の休み時間がある。その五分が先送りされて後段の授業が終わるのが八時半少し過ぎていたかもしれない。よく覚えていない。学校から帰ると店の閉店時間の九時前だったのだけ覚えている。ソロバンパチパチその日の集計をした。

 入学式が終わって教室に入ると、座る席が決まっていた。出席簿順だ。ぼくは後ろから三つ目の位の席だ、ぼくの前には四~五の机があって、そこにそれぞれ人が座っている。クラス担任の川村先生の挨拶があった。なんと言ったか覚えていないが、定時制の悪ガキになめられるような挨拶はしなかった。そして、出席を取った。先生にしても生徒にしても初対面だ。クラス担任の川村先生は、先手で定時制の悪ガキどもを押さえた。

 学校の先生というのは、誠心誠意真面目でなければ勤まらない。まして、定時制の先生となったら誠心誠意真面目プラスアルファーがなければ勤まらない。出席を取った後、君たちは昼間働いて夜ここで学ぶ、眠いだろうけど我慢しなさい。しかし、我慢の限界を超えたら寝てもいい。寝てもいいが他の人の迷惑になるから、絶対に教室で騒ぐな。初手っぱしにこれを言われた。

 入学式の日に授業があったかどうか記憶にない。街の本屋さんに教科書を買いに行った記憶がないから、本屋さんが教科書を売りに来ていたのではないかと思う。教科書が無いと授業が始まらない。川村先生から授業割りを書いた紙を渡された。

 そして、入学式の翌日から授業割りにそって授業が始まった。先生も生徒も真剣に授業を受ける。騒がしくするものは一人もいない。クラス担任の川村先生は、商業一般と商業簿記を受け持っている。国語、地理、体育、英語、計算実務は別の先生が受け持たれた。あの時使った教科書があれば、振り返って見ることもできるし、再確認することができるのだが、すべて捨て去ってしまった。すべてお金を出して買ったものなのだが、教科書を全て捨ててしまったことを後悔している。

 計算実務の授業は、ねがいあげましては、で読み上げ算で始まる。これは四年間変わらないスタイルだった。夜間の短大に行っても同じスタイルだった。この計算実務の教科書に、アラビヤ数字という言葉で数字の書き方が書いてあった。当然逆Sの字で8を書く方法が書いてあった。計算実務の先生は、そこをさらっと解説しただけで次ぎに進んだように記憶している。

 実は、この数字の書き方は非常に重要な要素になる。手書き時代の事務屋の数字の書き方は、如何に速くそして見やすく書くかに力点が置かれている。事務屋の数字は、少し右斜めに傾斜して書いてある。その方が数字が書きやすいし、次の数字をすぐに書ける。そして一番の難関が逆Sの字の8の書き方だ。

 小学校の時からSの字で8を書くことを指が覚えている。この指が覚えているのを無理矢理矯正しなければならない。練習しながら矯正するのではなく、日々の忙しい仕事の中で矯正していかなければならない。これにはかなり手こずったが、何とか矯正できた。できると便利、数字の書き方が速くなる。

 少し右斜めに傾斜して、下を揃えた書き方をする。この書き方は、ソロバンパチパチ一回やって、メモとして鉛筆で書いておく。そして二回目のソロバンパチパチで検算をする。検算が合っていて始めてボールペンで書く。数字を速く、かつ見やすく書くことを実務が求めているのである。

 ソロバンパチパチは、中学校でも少しやっていたのでまだいい。商業一般と商業簿記は、初めて習う科目だ。商業一般は、社会科の授業の中の商業編と思えばいいので、それほど難しくはない。商業一般か簿記のどちらかの授業で、企業会計原則を教わったと思う。どちらで教わったか記憶が定かでない。

 そして、商業簿記。生まれて初めて習う科目だ。どのように教わったか定かでないが、借方貸方という言葉が出てきた。訳も分からず先生の教えてくれる通りにT字形の仕訳をした。先生は仕訳方則という言葉を使って、仕訳が一番大事だと教えてくれた。

 そして、仕訳帳に基づいて元帳転記をした。T字形の元帳だ。そして、元帳の合計をソロバンで計算しろという。計算が終わったら、元帳の合計を試算表に転記して、借方貸方の合計があっているか計算してみろと言う。ソロバンで計算するから必ず検算しなければならないので、あまり難しい取引を例に出してなかった。

 仕訳帳も元帳も試算表も専用の紙がある訳ではない。ノートにT字形の線を引いて書いた。試算表の借方貸方の合計が合った。先生は、よし合ったか。最初の仕訳がうまくいって、機械的に行なった元帳転記がうまくいった。元帳の合計の計算が合ったから、試算表の借方貸方の合計が合ったのだ。試算表の借方貸方の合計が合ったことによって、元帳転記がうまくいったことを確認できたのだ。試算表は、元帳転記がうまくいったか確認するために作るものだ、おまけとして各勘定科目の合計が一覧として表示される、と解説してくれた。

 最初が大事だ。最初の仕訳がうまくいってないと最後まで尾を引くことになる。資産、負債、資本、利益、損失、どれに属する勘定科目なのか、仕訳方則をきちんと押さえて仕訳をすれば、後は機械的に転記、計算するだけだ。君たちの勤めている会社にも総勘定元帳があるはずだ。それを見せてもらうといいと言う。

 店の二階の事務所で仕事をしているぼくの知る範囲では、長部さんもボス猿もそういう帳簿は付けていない。学校から帰ったぼくは、長部さんに学校で習った総勘定元帳の話をしたが、付けていないと言う。総勘定元帳がなければ試算表が無いのは、聞くまでもないことだ。貸借対照表や損益計算書を見せてくれというのは、15歳の小僧では無理だ。

 ボス猿は、東京の月賦屋に金を貸すときに、月賦屋が出してきた決算書を見ていたが、決算書の書き方を知らないで月賦屋を始めてしまった。ぼくは、そういうことを知らずに就職して、学校で簿記を習っていた。それもT字形のやり方だ。学校というのは基礎を教えるところだ。基礎を習うにはT字形の方がいい。

 しかし、実務ではT字形の基礎を踏襲しながらより書きやすく、分かりやすいやり方で記帳をする。それを知るのは、もっと先の話だ。ぼくは、商業簿記は四年間に渡り5をもらった。簿記は必死になって勉強した。学校から帰って勉強する時間はない。休みの日に勉強するほど優等生ではない。学校の授業時間だけが勉強する時間だ。

 地理の先生は、全日制とのかけ持ちまだ若い。上州の古い時代の話をしてくれる。このあたりは渡良瀬川の扇状地だという。初めて聞く話だ。勉強になる。後で知ったことだが、この先生は日教組に入っているという。しかし、定時制の生徒の前では絶対に半日教育はしなかったし、左翼めいた話は一切しなかった。誠心誠意真面目に授業してくれた。

 クラスには、ぼくよりも年齢が上の人が何人もいる。妻子と老母を抱えて入学してきた松村さんもいる。松村さんより少し年齢は下だが二十歳くらいの保坂もいる。下手に半日教育や左翼がかった話をすると、論破されて自分の身に跳ね返ってくるおそれがあったのかも知れない。

 ともあれ、定時制一年生のスタートは、教科書代と月謝払うのが辛かったが、なんとか無事にスタートした。

 


ガチンコで覚えた簿記

2008-01-30 13:05:13 | 伊商の定時制

 店でのぼくの仕事は事務だった。月賦屋は品物を先に渡して、後から金をもらう仕事なので事務量が多い。今と違ってソロバン片手ですべて手書きでやっていた。学校は8時半に終わる。店は9時までやっている。学校から帰ると学生服を着替えて店に出てその日の売上や入金を集計していた。ソロバンだから必ず2回計算して検算する。

 ある時、何回やっても計算が合わなかった、同期の幸次君にやってもらっても合わない。計算が合わないと店を閉じられない。イライラして見ていた社長が、「2回やるから計算が合わないのだ。ぼくなら1回で合う。」と言って自らソロバン持って計算して、「1回で計算が合うようにちゃんとソロバンできるようになれ」とはっぱをかけられた。翌日、ぼくがもう一回計算し直したら、社長の計算も間違っていたのは内緒(^-^)。

 ぼくに事務の仕事を教えてくれた長部さんは、ぼくが店に入って1年位して辞めた。社長から後はお前がやれと言われたときは、泣いて逃げ出したくなった。でもなんとかやった。ぼくは気が付かなかったのだが、税務調査があったようだ。ある日社長から、税理士さんつけるからお前が教わって帳面付けやれと言われた。勘弁して欲しかった。これ以上仕事が増えたんじゃたまらない。泣いて帰りたくても帰る汽車賃がないから、なんとかやった。

 金銭出納帳というのを付けて、月に1回税理士さんのところに持って行くと、しばらくして試算表と総勘定元帳を付けて返して来る。学校で簿記を習っているから試算表や総勘定元帳という言葉は分かる。しかし、学校で習っているT字形ではない。何が何だか分からないまま決算期を迎えた。

 決算という言葉も知らず、棚卸しをしろと言われ、訳が分からないままみんなで手分けしてやった。その次は、未収分の集計をした。といっても未収分の計算は量が多いので、ソロバンの段を持っている社長の奥さんがやってくれた。何がどうなっているのか分からないまま、言われた通りにやっていただけで、その数字が決算などという大それたことに使われていたとは夢にも思わなかった。

 そして、2回目の決算を迎えた。棚卸しは事情が分かってきていたので、みんなで手分けしてやった。未収分を集計してもらって数字が出そろったら、社長が去年の決算書を出して来て、これと比べてみろと言う。今まで見たことも聞いたこともない勘定科目が載っている決算書を見て頭を抱えてしまった。

 決算などという大それたことは考えていなかった去年のことを思い出しながら悪戦苦闘すること終日。事務の手伝いに来ているおばさんが、税理士さんに聞けばいいじゃないという。税理士さんがやった答えは去年の決算書として出ている。その答えを導き出した過程は税理士さんの商売。税理士さんの企業秘密というほど大袈裟なものではないが、それを何とか紐解いてやろうとやっていたが、時間が来たので学校へ行った。

 学校で簿記の先生に聞いたら、それは日商の1級の試験で出てくる勘定科目だから、高校ではやらないよと言われた。仕方がないので授業ほっぽり出して、持って行ったメモ見ながらソロバンパチパチやって悪戦苦闘していた。そういうぼくの姿を見ても先生やクラスの人達は何も言わない。

 前段の授業の終わり頃、突然なにかひらめいた。そのひらめきを確認すべく職員室で電話を借り、社長に電話をして決算書の数字を教えてくれと頼んだが、社長からは学校から帰ってからやれと言われた。ぼくとしてはこのひらめきが持続するかどうか自信がなかったが、なんとか持続しながら後段の授業を受けて学校から帰った。

 学校から帰るといつも通り店に出て、その日の売上と入金を計算して店を閉めて2階の事務所に上がった。ぼくは、夕飯も食べずに決算書とにらめっこしながら、ひらめきの裏付けを行なった。学校でひらめいた理屈は合っていた。とっかかりの理屈がひとつ解けた。後は次々と解けていく。18歳の誕生日を迎えた直後である。

 月賦屋の決算書には、割賦未収入金とか、割賦未実現利益といった一般の人には分からない勘定科目が載っている。なんとかその理屈をひもといた。それ以来、ぼくが毎日つけている金銭出納帳と、税理士さんが毎月作ってくれる試算表と総勘定元帳の関係が段々分かるようになっていった。ぼくの簿記は、実務で前を走りながら、後から学校で理屈を教わりながら覚えてたことになる。

 定時制2年の時、学校の先生から簿記の3級の試験を受けてみろと言われた。試験日が日曜日で店が忙しいからためらったのだが、店の社長に無理を言って受験した。半日とはいえ忙しい日曜日を休んだことに腹が立った(試験問題がやさしすぎた)。それ以来、簿記や珠算の試験を受けようと思わなくなった。とはいえ、ガチンコで覚えたぼくの簿記は、その後大いに役に立った。
 悪ガキでもちゃんとやることはやっていたのよ(^-^)。

 


酒とタバコ

2008-01-29 12:41:59 | 伊商の定時制

 ぼくが初めてビールを飲んだのは中学生の頃だったと思う。一口飲んで、うわぁこりゃ苦い。ぺっ!。大人はよくこんなものを飲んでいるなと不思議に思った。初めてタバコを吸ったのも中学生の頃だ。兄貴のタバコを1本失敬してマッチで火を付けて吸った瞬間、ゲホッゲホッ。大人はよくこんなもの金出して吸うなと不思議に思った。中学生の紅顔の美少年(^-^)にとっては酒もタバコも理解不能な世界だった。

  そんな紅顔の美少年(^-^)が定時制2年の冬になったら、クラスの誰かが担任の先生が結婚したと聞き込んで来た。そりゃお祝いに行くべ。ということでクラスの仲間3・4人で1升瓶ぶら下げて押し掛けた。みんなでわいわいがやがや1升持って行って2升飲んで帰って来た。悪ガキどもに酒が入ると分別も節操もなくなってしまう。押し掛けられた先生の方はいい迷惑だったかもしれないが、そういう顔は一切しない。全日制では絶対にできないことだが、学校を離れればお互いに社会人。定時制では、先生も生徒もこういうのはアリの世界だ。

 とは言っても悪ガキどもは、それほど給料もらっている訳じゃない。酒飲むにもタバコを吸うにも金がない。そういう悪ガキどもは、先生が結婚したと聞くと、ここぞとばかりに1升持っていって2升飲んでくるということを在学中に3・4回やらかした。嫌な顔をした先生は一人もいなかった。どの先生も喜んで迎え入れてくれて、教室ではできないノミニュケーションをしてくれた。コタツに手を入れた先生の奥さんの手を握ったのは、先生には内緒(^-^)。

 クラスには二十歳を超えた人が何人かいる。保坂は、たまに飲みに誘ってくれておごってくれる。あるとき、保坂に誘われて学校の帰りに焼鳥屋に飲みに行った。しばらくしたら、つい先程まで授業していた先生が入って来て目線が合った。ヤバイ!。と思って逃げようと思っても、入り口に先生がいるから逃げられない。退学を覚悟した瞬間、保坂が、「あぁ先生。しばらくでしたね」と言ったら、先生は、「おう保坂か、しばらくだったな」と何事もなかったかのように離れた席に座った。

 二十歳を超えていた保坂の機転で助かったが、ついさっきまで授業やってたんだから、「しばらくでしたねは、なかろう」、と保坂と目線で話をしながら酒を飲んでいたら、先生からの差し入れですと言って店の人がお銚子を持って来た。先生がいるから酔っぱらう訳にいかないので、先生にお礼を言ってありがたく頂戴して早々に切り上げた。

 ある時、校舎の裏側にタバコの吸い殻が落ちていたという話が伝わって来た。定時制の悪ガキどもは、吸い殻という証拠を残すようなことはしない。全日制にもワルがいるなと思った。クラスには二十歳を過ぎた人もいる。そういう人は休憩時間に職員室に行って堂々とタバコを吸える。それができない悪ガキどもは、夜タバコ吸うと遠くから見えるので、警備員さんの死角になっている校舎の裏側に行って、立小便してタバコを消して吸い殻をポケットに入れて持って帰った。最初は突っ張りで吸ったのだが、紅顔の美少年(^-^)も財布の中身と相談しながら段々と悪ガキに磨きがかかっていく。

 巷では舟木一夫の「高校1年生」や「修学旅行」の歌が流れていた。我が愛すべきクラスの悪ガキどもは、定時制2年の冬あたりから酒やタバコをたしなむ者が徐々に増えていき、定時制4年の春に行った関西への修学旅行では、その悪ガキぶりを遺憾なく発揮した。

 


日曜日は休めない

2008-01-28 11:35:43 | 伊商の定時制

 学校の行事で1年に1回校内弁論大会がある。各学年1人以上出ないといけないことになっている。誰も手をあげる者はいないので、先生が指名してほとんど強制的に出さされて、何かくっちゃべる。ぼくは越後の訛りが抜けてなかったので1年生の時の指名を免れた。

 しかし、2年生になったら指名されてしまった。仕方がないから何かくっちゃべったら、上位に入ってしまった。市内には定時制高校が4校ある。その4校の定時制で連絡協議会(伊定連)というのを作って交流している。伊定連の弁論大会に出ろと言われた。校内ならまだしも伊定連のやつは人数が多い。弱ったなぁ。

 無我夢中で伊定連の弁論大会でくっちゃべったら、また上位に入ってしまった。今度は県大会へ行って来いと言われた。勘弁してくれよ。仕方がないから電車に乗って一人で行って、ちょっと手を抜いてくっちゃべった。今度は上位に入らなかった。あぁよかった。

 3年生以降もお前出ろと言われて出たけど、今度はこつを飲み込んでいるので、手を抜いて適当にくっちゃべった。狙い通り県大会に行かずにすんだ。あぁよかった。

 定時制の生徒は、昼間の仕事を休む訳にはいかない、ということは先生方も承知しているので、どうしても昼間に行事をする場合は、日曜日にやる。ぼくが勤めている店の定休日は月曜日。日曜日は一番忙しい、ぼくもその忙中で働いているので、学校の行事で休ませてくださいとは言えない事情があった。

 3年生の後期に生徒会の選挙がある。おれは日曜日休めないから駄目だよと断った。そしたら先生がクラスの他の人達を集めてひそひそやった。生徒会長推薦委員会でお前を推薦することになった。冗談じゃない!。おれは日曜日休めないから嫌だ!。結局立候補させられてしまって、立会演説会に出た。おれは日曜日休めない。日曜日に生徒会の行事がある生徒会長はできないから、おれに投票しないでくれと頼んだ。

 頼んだって駄目だ。最上級生から生徒会長出さなければ面子にかかわる。クラスの悪ガキどもは、下級生を説得(脅迫)して当選させてしまった。まぁー、そのー、生徒会の役員をやっていると、なんだかんだと理由付けて授業をさぼることができるのでありまして、生徒会長といっても定時制の場合は、悪ガキどもがやらかすことの盾に使われる(先導する)訳であって、それはそれで時間があれば面白いことでもあります。

 学校のタテマエとしてクラブ活動がある。あるにはあるんだが継続した活動というのはない。他校との野球の試合が計画されるとなると、1年生から4年生まで出られる人が集まって一時的にチームを作って試合をする。こういう行事は日曜日に行なわれる。ぼくも一緒に行きたいが、いかんせん日曜日は休めない。日曜日にある生徒会の行事は他の人に代理で行ってもらった。

 ぼくが、学校の行事で昼間休んだのは、3年生の時に在校生として卒業式に出たのと、修学旅行と、自分自身の卒業式の3回くらいしかない。授業さぼったのは何回もあるけど(^-^)。

 


数字の8

2008-01-27 14:40:27 | 伊商の定時制

 商業高校では数字の書き方を教わる。えぇ!。数字の書き方なんか小学校で教わっただろう、と思われた方もいると思う。ソロバンパチパチやって手書きで事務処理する時代は、より速く数字を書くことを実務が要求していた。
 0~9まで右に傾斜した事務屋特有の数字の書き方は、覚えると即戦力になった。しかし、数字の8だけは、小学校で習ったS字を書いて右上に筆を運ぶのではなく、右上から斜め下に筆を運び逆Sの字を書く。小学校の時から指が覚えている運筆を矯正しなければならない。これにはかなり手こずった。

 慣れればなんてことない、逆Sの字を書く方が速くていい。税理士さんも、その担当者も逆Sの字で書いている。取引先から納品書や請求書などが来る。数字の書き方を見れば商業高校で数字の書き方を教わって、小学校で覚えた数字の書き方を矯正したかどうかが分かる。裏を返すと経理のレベルが分かる。

 はるか後年、大学を卒業する娘さんと面接したことがある。大学では簿記と会計学を勉強しましたか?。はい。では、簿記と会計学の違いを言ってごらんなさい?。違いが分からないから黙っちゃった。あなたは商業高校を卒業して大学に行った?。いえ普通高校です。そうか、ぼくの友達にもそういう人がいたけど、普通高校を卒業して大学で初めて簿記を学ぶとみんな四苦八苦なんだよね。会計学は学問。簿記はその学問に則って実際の記帳をするための方法論。こういう風に言えば、大学時代に教わった簿記と会計学をあなたの頭の中で切り分けることができますか?。はい。そう言われればその通りです。

 では、この紙に数字の8を書いてごらんなさい。この娘さんの時代になると幼稚園で数字の書き方を教わっている。Sの字の8を書いた。それは、小学校で習った書き方ですよ。実務ではこのように書くんですよと逆Sの字で書いてみせた。そしてその効用を説明した。今の年齢から数字の書き方を矯正するのは、大変だけどできることなら矯正した方がいいですよ。自分自身大変な思いをしているから、それがどれほど大変なことなのか身に染みて分かる。

 今はコンピュータでなんでもやるので、手書きで処理というのは少なくなった。逆Sの字で8を書いた手書きの紙を見ると、ある程度信用できるなと思う。ぼく自身、黙っていても指が逆Sの字で8を書くので、分かる人には分かってもらっている思っている。

 今は、平気で「騙し」をやる世の中になった。その道具がコンピュータだ。コンピュータが騙すのではなく、それを使う人間が素人を騙す。立派な身なりで口先で分かったようなことをペラペラしゃべって騙し始めたら、目の前で数字の8を書いてもらえば、どのレベルか分かる。「騙し屋」さんが、これを読んで付け焼き刃で逆Sの字の8を書こうと思っても、そうそう簡単にはいかないよ(^-^)。

 


ソロバン

2008-01-26 11:56:31 | 伊商の定時制

 中学3年の秋、母がソロバンができないと駄目だろうと言った。そりゃそうだろうと頭では分かっていたけど、遊ぶ方が忙しくてソロバンの練習は怠けていた。その内に大豪雪に見舞われてソロバンどころでなくなってしまった。就職したら毎日ソロバンをはじかなければならなくなった。遊んでいないでソロバンの練習しておくんだったと思っても後の祭り。

 学校は商業科だから1年から4年までソロバンは必須科目としてある。珠算の授業は、ねがいあげましてはー、で始まる読み上げ算から始まる。その後、教科書に従っていろいろな計算の仕方を教わる。

 卒業してからの話だけど、店の取引先に用を頼まれて行ったことがある。手元にソロバンがなかったので、ぼくよりずっと年輩でソロバンの腕前も上の安藤さんに、○○年○○月○○日から●●年●●月●●日を引いて何年何ヶ月何日か計算してくれませんか、と気楽に頼んだ。ええ!。そんなことソロバンではできませんよ。と言う。言われたぼくの方が驚いた。

 安藤さんのところに行って、ソロバン借りてパチパチ。こうするんですけど、学校で習いませんでした?。知らない初めて知った。お互いに不思議な国の生物を見るように見つめ合った。後で聞いたら安藤さんは、商業高校の出身ではなかった。

 珠算の授業は、日付の計算や度量衡の換算など、こと計算に関することをソロバンで行なうにはどうするかを習った。今ならコンピュータを使えば簡単だが、電卓すらなかった当時は、ソロバンが計算機だった。鉄砲なら下手でも数打ちゃ当たるが、ソロバンは必ず検算して合わなければ先に進めない。検算して合わないと泥沼に陥る。

 店でもパチパチ。学校でもパチパチ。下手でも数をこなせばそれなりに上手くなる。1年もしたら一丁前にパチパチできるようになったようだ。ぼくがその日の集計を店でパチパチやっていたら、それを見ていたお客様が、お前ソロバンうまいな、と言って誉めてくれた。ぼくは、まさかお客様が見ているとは思わなかったので、そうですか、てっへっへと頭をかいた。でも嬉しかった。母の杞憂は1年でなんとかクリアーできたようだ。

 足し算、引き算、掛け算はなんとかできる。割り算は面倒くさい。指が10本有っても足りない(うそ)。税理士さんのところの担当者も決算になるとソロバンではなくハンドルついた計算機を持って来て、ハンドルくるくる廻して割り算していた。

 店の仕事では、月に一度の集金率の計算を割り算でしなければならない。割り算は面倒くさい。検算が合わないと更に面倒くさくなる。割り算やるときは必死だった。紅顔の美少年(^-^)も段々と悪ガキになっていくのだが、簿記とソロバンは真面目にやった。

 その当時使っていたソロバンは、捨てるに捨てられず姉に押しつけた。今は電卓とパソコンで人が作ったソフトをぶつぶつ文句言いながら使っている。ぶつぶつ文句言われるのは大変だけど、ぶつぶつ文句言う方は楽でえーわい(^-^)。

 


寝てもいいが騒ぐな

2008-01-25 14:03:35 | 伊商の定時制

 上州名物空っ風とかかぁ天下。越後に雪や雨を降らした季節風が山を越えると上州では空っ風になる。お客様から冬は寒くて空っ風が大変だろう、とよく言われた。空っ風に向かって自転車こいで学校へ行くのは大変だった。風の強い日は自転車から降りて押して行ったこともあった。でも帰りは追い風だかららくちん。湿気のある越後と違って上州の空気は乾燥している。上州の冬の寒さは越後とは異質のものだった。空っ風が吹くともっと寒い。銭湯から帰ってくるとタオルがごわごわしていた。しかし、親元を離れて他人の飯を食っているいじょうその程度のことでへこたれる訳にいかない。だいいち泣いて帰りたくても帰る汽車賃がなかった。

  昼間働いて夜学ぶ。言葉の響きはいいがそんなに生易しいものではない。先生からは、昼間働いているんだから眠くなったら寝てもいいぞ。そのかわり他の人の迷惑になるから騒ぐんじゃないぞ、と言われていた。眠くなったら寝てもいいと言われても、その分授業についていけなくなるから、眠くなっても目をこすりながら授業を受けていた。それでも眠くなるとついうとうととする。慌てて起きて授業を受けていた。全日制だったらチョークが飛んで来るのだろうが、定時制の場合はチョークが飛んでこない。先生もクラスの人達も黙っている。

 定時制1年の冬、ぼくの席は一番前でストーブに一番近いところだった。当時はダルマストーブに石炭くべて燃やしていた。ストーブの一番近くだから暖かい。油断しているといい気持ちになって寝てしまう。気を引き締めながら授業を受けていたのだが、あるときいい気持ちですやすや寝てしまった。

 先生の声は耳に入っていたので爆睡ではなかったはずだった。もっと寝ていたかったのだが、授業が終わった気配がしたので、すくっと起立した。先生は何事もなかったような顔をしていたがクラスの雰囲気が少し違う。礼をして着席。

 先生が教室から出るとクラスの友達から「お前もよくやるな」。と言われた。事情が分からないぼくは、きょとんとしながら「何が?」。と聞いたのだが、にやにやして誰も何も言わない。よく見たら机の上によだれが垂れていた。どうやらぼくは、自分ではすやすや寝ていたつもりが、机の上に突っ伏してゴーゴーと大イビキをかいて、授業が終わるやいなやすくっと起立したようだ。

 寝てもいいが他の人の迷惑になるから騒ぐな。と言われていたので、眠くなってつい寝てしまったのだが、大イビキをかいちゃったもんで結果的に騒いでしまったことになる。先生も騒がしいと言って起こす訳にもいかず、大イビキのリズムに合わせて授業をし、クラスの人達も、こいつまったくしょうがないやつだなと思いながら授業を受けていたのだと思う。人のことは言えない明日は我が身という思いがクラス全員にあるから、おれ何やったんだ?、と聞いても、ただにやにやするだけでみんな笑って許してくれていた。だから、あの時ぼくが何をやったのかはいまだに謎のままである。

 


我が愛すべきクラスの悪ガキども

2008-01-24 13:11:44 | 伊商の定時制

 ぼくが就職した店は月賦屋だった。月賦屋という業態は、その後クレジット会社や信販会社の台頭によって淘汰されてしまい、今は無くなってしまったが、昭和38年当時は全盛期だった。ぼくは、その店に住み込みで働き、夜は伊勢崎高等学校商業科の定時制で学んだ。夜学校に行かせてもらう丁稚小僧である。

 ぼくが入学した時は、伊勢崎高等学校という名前だったが、2年後に伊勢崎商業高校という名前になった。伊高から伊商への移行期に入学して、卒業時には伊商になっていたということになる。前からあったものが基準だから本来なら「伊高の定時制」というカテゴリ名にすべきだが、商業科に入学したぼくにとっては普通高校という感覚は無かったので、あえて後からの名前である「伊商の定時制」をカテゴリ名にした。

 入学により新しい人達に巡り会うことになった。最初の1年くらいは恐かった。何が恐かったかというと言葉が恐かった。だんべー言葉で象徴される上州弁は、越後の田舎者にとっては喧嘩売られているような気持ちで、店でお客様と話をするにもクラスの友人と話をするにもおっかなびっくりだった。そのうちに、どうも上州では、あぁいう話し方が普通なんだと気づき、必死になって上州弁をマスターした。

 上州の言葉は荒い。荒いといってもそれは他国の人の言うことであって、その地の気候風土のなかで昔から使っている人達にとっては日常言語である。上州弁は言葉が荒いだけあってYES、NOがはっきりしている。他国の人が聞いたら喧嘩言葉であっても、YES、NOをはっきりさせているだけで本物の喧嘩にはならない。覚えるとこれがまた実に便利である。

 便利ではあるのだが、覚えるにつれて越後の訛りが抜けてしまった。越後の訛りを捨てるんじゃなかったと思った時は後の祭りで、60年生きて来て一番後悔していることは、生まれ育った郷里の訛りを捨て去ってしまったことだ。越後の訛りはすぐに理解できる。理解はできるが自分の口からもうあのイントネーションが出ない。

 標準語、YES、NOがはっきりしている上州弁、木訥な越後の訛りの三つを使い分けることができれば、その後の人生で大いに役立ったと思うが、15の紅顔の美少年(^-^)にとっては、そこまで頭が回らなかった。もっとも交通網が整備され、人の行き来が盛んになった現在では、ナマの上州弁が出るのはまれで、家族やごく親しい人達の間の会話でたまに出る程度になっている。

 雨の日に車が水をはねたら、水をはねた車の方があたった人の洋服のクリーニング代払わなければならない、というニュースを聞いた。雪国では、雨の日に車が通ったら傘を横にして、はねてくる水をよけるのが当たり前だったので、おかしなことを言う人がいるなと不思議に思った。西も東も分からない廻りを見ても他人だけ。言葉も慣習も違う世界で紅顔の美少年(^-^)の新たなスタートが始まった訳である。

 ぼくらの学年は、36人の入学だったと記憶している。団塊の世代ということもあって突出した人数だが、ぼくより上の年齢の人もいた。ぼくの時代の定時制は、経済的な理由で全日制に進学できないという人達と、全日制を受けたけど落ちてしまったという人達がいた。それでも夜学校に来るという熱意がなければできないことである。でも、先生から見れば36人の悪ガキどもだったと思う。紅顔の美少年(^-^)のぼくが、悪ガキに染まっていくのにそれほど時間がかからなかったのは言うまでもない。この我が愛すべきクラスの悪ガキどもを引率して関西旅行に行く担任の先生が赴任してくるのはこの2年後のことである。