定時制の席順は、二年生の前期までは出席簿順だったように記憶している。ぼくのすぐ前の席に森が座っている。後になってから聞いた話だが森は、橋の下に捨てられて、子供時代はストリートチルドレンで生き延び、今の親に貰われてきたと話してくれたことがある。
定時制とはいえ、前期と後期に試験がある。一年生の時の試験では、前に座っている森が振り向いてぼくの答案用紙を見ていた。騒がしくしないから黙ってやらせていた。定時制一年生の時は、お互いに気心が知れないからあまり話をしないし、お互いに様子見をしていたのではないかと思う。
そして、定時制二年生の前期の試験で、前に座っている森が後ろを振り返って見せろ見せろうるさく言う。見せろと言われてもまだ試験問題解いている最中だ。うるさくて仕方が無いから上の方だけ前に出して試験問題を解いていた。もっと見せろとやかましく言う。えーい。うるさい。全部問題を書き終わって前に押しやって好きに見ろとやった。
全教科で見せろ見せろと言ってうるさくて仕方がない。下手すると答案用紙引っ張って引きちぎられそうになる。答えだけ合っていても考え方が分からなければ身に付かないのに、見せろ見せろと言ってうるさくて仕方がない。そして全教科の試験が終わった。
数日後、先生が答案用紙を返してくれた。我がクラスは全体として試験の成績が良かった。化学の先生が答案用紙を返してくれた時、クラスの成績が非常によいと言われた。しかし、先生の表情が喜んでいない。
試験の成績はいいのだが、みんな同じ問題に同じ間違った答えを書いている。これは一体どういうことだ、と言って怒っている。ぼくは、その時、1問だけ間違えた。ぼくの答案用紙の答えを見た森を経由してクラス中にぼくの間違えた答えが伝播したようだ、と気付いたのは、しばらく経過してからだった。
ぼくは、気付くのが一寸遅い。あっ!。そうか!。と気が付いた時はもう遅いということが、六十年間真面目にコツコツ生きて来た中で何回もあった。
その後の試験では、森も見せろ見せろとうるさく言わなくなって、後ろを振り返って黙って見るようになった。ぼくも見せられる範囲で答案用紙を見やすい位置に置いて、試験問題を解くようになった。定時制でも、夜間の短大でもカンニングはアリだったが、ぼくの方からカンニングすることはなかった。
試験なんてのは所詮そんなもんだ。ぼくが学校以外で受けた試験は、簿記の三級の試験と、バイク・普通車の運転免許だけだ。それ以外の試験を受けたことは無い。カンニングアリで、一夜漬けで受かればいい試験なんかアホらしくて受けるつもりにならなかった。
話がそれた、定時制二年生の前期試験の後あたりから、ぼくの口から越後の訛りが消えていき上州弁が出るようになった。それに伴ってクラスの友人達とうち解け合って話ができるようになった。とりわけすぐ前の席に座っている森が良く声を掛けてきた。
森は、ぼくより一つか二つ年上。同じく年上の辻君と仲が良かった。ぼくは、他国の出だからクラスの友人達とまんべんなく話をするように心がけていたが、次第によく話をする人が絞り込まれていった。
クラスの最年長、妻子がいて老母を抱えて通ってきている松村さん。松村さんに一目も二目も置く保坂。ぼくより一つ年上の関矢。そしてぼくの四人が一つのグループを作って、他のグループが時々入ってきたり、他のグループが入って来たりした。そしてぼくも他のグループの人達の話の輪の中に入って行った。
クラスの中には、市外の遠い所から通ってきている友人達もいる。年の違いや、住まいの違い、勤めの違い、仕事の違いを抱えながらクラスの友人達は、同じ学校で同じ時間を共有するという楽しみを育みながら授業を受けていく。
定時制四年間は、学校へ行くのが辛いとは思わなかった。学校に行ってクラスの仲間と同じ時間を過ごすのが楽しかった。その楽しさがなかったら四年間通学出来なかったと思う。これは他のクラスの友人達も同じだ。でも、空っ風や雨や雪の中自転車こいで行くのは辛かった。記録によれば、昭和41年6月28日、台風4号のためホームルーム後、放課とある。
寝てもいいが騒ぐな、と言われているから授業中に騒ぐ人はいない。ぼくは、ストーブに一番近い席で突っ伏して大イビキをかいた後は、眠くなっても机の上に突っ伏すことをしないようにした。それでも眠いと椅子に腰掛けたままうつらうつらする。慌てて首を左右に振って目をこすって眠気を覚ました。
定時制の生徒は昼間働いているから、眠気と戦ったのはぼくだけではない。みんな眠気と戦いながら授業を受けていた。そして、昭和39年10月10日、東京オリンピックが開催された。学校の図書館と視聴覚ホールは前年に完成している。毎日ではないが、週に何回か授業を潰して視聴覚ホールで東京オリンピックの生中継を見た。
最終日の閉会式は、学校の視聴覚ホールで生中継を見た。そして店に帰って仕事が終わってからダイジェスト版を見た。ぼくは、その時、店で金銭出納帳を付けるようになっていた。その後、中学校の同級生で東京の薬局へ就職した文通相手の女子から手紙が来た。東京オリンピックの閉会式で、アフリカの黒人選手がこうもり傘さして全身で喜びを表現していたと興奮の様子が書いてあった。
記録によれば、昭和39年1月16日。パンと脱脂粉乳による給食を始める。給食費月額300円とある。専従の給食員さんが前段と後段の授業の合間に食べられるように給食を用意してくれた。脱脂粉乳といっても小学校の時に飲んだのほど臭くなかった。これで何とか店に帰って夕飯食べるまでのあいだの空腹を押さえられるようになった。