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必殺始末人 村山集治

必殺始末人 村山集治
ムラヤマ・コンピュータのブログ

金を払う方と集める方

2008-04-15 13:10:11 | 月賦屋時代前期 仕事外

 ボス猿は、商売の上では先手先手と手を打っていくが、従業員の数が足りない。ぼくが店に入って1年くらいしてやっと地元の炊事のおばさんが入った。ぼくらは、他人の飯を食って育っている。その他人の飯を作ってくれるおばさんだ。飯を作ってくれるおばさんには逆らえない。逆らうとまずい飯を食わされる。

 休みの日、店の二階でのんびりしていたら、炊事のおばさんが身綺麗な服装をしてやってきた。創価学会に入れと言う。嫌だ!。断ってもしつこい。とうとうその地区のエライさんの家に連れていかれた。お金がないから嫌だ!。新聞取らないといけないでしょう?。本買わないといけないでしょう?。そういうことは言わないから入れとしつこく言うが、相手の言うことを信用しない。お金が無いの一点張りで断った。実際お金がなかった。

 田舎のすぐ上の兄貴が創価学会入った。貧しさに負けてしまった。貧しい者同士の輪の中に入って抜け出せない。ぼくが帰省するたびに、入れ入れと迫ってくる。ぼくは頑として兄貴の誘いを拒んだ。母は兄貴が言うので名前だけ入ったが、あれは金ばっかりかかってどうしようもないと言う。貧しさのレベルが母の方が上だ。

 上州弁言葉が荒い。「なに!」たった二文字の発音だが、上州弁の発音は鋭い。YES、NOがはっきりしている。上州の人が日常言語で使っている言葉だ。上州弁を覚えたぼくは、田舎に帰省した時にごく普通に「なに!」と兄貴に言ったことがある。言われた兄貴の目の色が変わった。お前と喧嘩するつもりはないとなだめにきた。YES、NOがはっきりしている上州弁を他国の人に使うと非常に便利だ。

 創価学会の貧しい者同士という友達の輪に入った兄貴は、抜け出すことを考えないで、友達作りにのめり込んでしまった。ぼくが帰省するたびに入れ入れと言う、ぼくは頑として拒み、なんとか抜け出させようとするのだが、友達の輪の中に入った兄貴の方も頑として受け付けない。帰省のたびに苦々しい思いで兄貴を見ていた。

 この友達の輪は、なかなか抜け出せない。何かあれば信心が足りない、と自分のせいにされる。そして友達の輪でがっちりと囲んでいる。友達の輪が組織になっている。その組織の中に組み込まれていく。当事者にとって面白いと思うことを団体行動でする。その中に身を投じるようになった兄貴はもう抜け出せない。端から見ていると面白いどころではない。返って来ない元金投じて、身銭を切ってタダ働きをしているだけだ。

 夜行列車に乗って冨士登山に行って来た。組織でいろいろ面白いことをした話をしてぼくを誘う。組織が呼んだ外国の楽団の演奏会に連れて行ってもらったことがある。トランペット奏者がもの凄い息の長い演奏をした。会場に集まっている人達は感心しながら見ている。終わると万雷の拍手。

 演奏会が終わった後、兄貴はぼくを楽屋に連れて行って、自分の立場の凄さをぼくに見せる。ぼくは、店で芸能人呼んで楽屋裏を知っているから驚かない。兄貴がどうだ凄いだろう入れ入れと誘っても頑として入らない。金を集める方の仕事をしているから、金を払う方の人間にはなりたくない。

 ぼくは、月賦屋で事務の仕事をしている。集金したことはないが、金が集まってくる仕組みの中で仕事をしている。1年もやっていれば16歳でも金の集まり方、集め方を知るようになる。炊事のおばさんに誘われた時、創価学会は、うまい方法で金を集めるもんだな、あれはビジネスだと思っていた。

 月賦屋の事務屋は、仕事をしながら、月賦地獄からはい出すのに何年もかかった。利息をもらう方は好きだが、利息を払う方は嫌いだ。返ってこない元金払うのはもっと嫌いだ。身銭を切ってタダ働きするのは大嫌いだ。

 知らされないでソニータイマーの尻ぬぐいを5件やった。返ってこない元金投じて、身銭を切ってタダ働きをした。そういう仕事は大嫌いだ。金を払わないソニーが起こして来た債務不存在確認請求事件(前橋地方裁判所平成17年(ワ)第676号)の判決がある。

 裁判は時効で負けたが、ソニーが何をやったかは裁判所の公文書にして残してある。債務は時効で消滅してもやったことの事実は百年経っても消えない。

 ソニーの悪口ならいくらでも書ける。しかし、2007(H19)年1月25日ソニーとぼくとの裁判の判決が出た後、同年3月末で最高顧問出井伸之が退任し、同年6月ソニー・コンピュータエンターテイメントの代表取締役会長兼CEO久多良木健が、名誉会長に退き、同年6月の株主総会でソニーの中鉢良治社長がソニータイマーに言及し、ソニー本体に品質管理担当役員を置くようになった。

 プレイステーション3用に開発したセルは、スーパーコンピュータへの夢を秘めているのだが、それよりもソニータイマーという言葉で表象される低下してしまったソニー製品の品質を改善し、信用を回復する方が先だ。ソニーは、膨大な開発費がかかる半導体工場の生産ラインを東芝に売却した。

 今年に入ってソニーは、サムスンとの合弁による第二次液晶パネル生産工場の建設を拒んだ。それに伴って今までサムスンとの合弁会社一辺倒だった液晶パネルの調達先をシャープにシフトしてきた。そして、今年二月、シャープが2009(H21)年に稼働予定の世界最大級の液晶パネル生産工場の運営会社として、2009(H21)年4月にシャープと合弁会社を設立すると発表した。

 中東のオイルマネーが資本に入ったソニーは確実に良い方向に向かっているように思える。と書いたのだが、その後のソニーは赤字続きで泥沼から這い出せないでいる。ソニータイマーで失った信用は、そうそう簡単に回復させることはできないな。(2014(H26)年11月10日追記)

 ソニーは、ぼくに時効だから払わないと言えば裁判など起こさずにすんだことを、理不尽にも裁判を起こして勝った。そして、ソニーはよい方向に舵を切った。ぼくは、裁判に負けてお金が一銭もなくなってしまったが、理不尽な裁判を受けて立つことによって世の為人の為になることをしたと自負している。一切の業障海は皆妄想より生ず。まぁ妄想だな。

 ぼくは、店が閉鎖した数年後、日本銀行の本店の中に数回入ったことがある。ある相談事で地下金庫の中を見せてくれと言ったら、あそこは日銀の職員でもごく限られた人しか入ることができないので、部外者が立ち入ることはできません、と言われたことがある。お金があるところにはあるもんだが、なかなか拝ませてもらえないものだ。

 話がそれた、東京で結婚した姉は、同じ越後の出身、庭野日敬さんが始めた立正校正会に入っていた。ぼくにもそこに入れと言う。嫌だ!。絶対嫌だ!。同じお題目をあげているが、越後の兄貴と東京の姉とでは組織が違う。越後と東京の間の上州に身を置くぼくはどちらにも入らない。

 月賦屋という金が集まる仕組みの中に身を置いていると、お金を集める方は好きだが払う方は嫌いだ。利息払うほどあほらしいことはない。返って来ない元金を投じて身銭を切ってタダ働きをするのは絶対に嫌だ!。最近暇が出来てきたので、ボランティアを少しやって見ようかと思ったりもしているが、お金が無いと何も出来ない。上州は第二の故郷といってもお金が無いのが一番辛い。

 


焼きそば

2008-04-11 08:46:11 | 月賦屋時代前期 仕事外

 店の二階で寝泊まりするようになって、ボス猿から宿直・当直日誌を書くように言われた。その時に門限は十一時と言われた。下宿にいた時も十一時が一応の目安になっていたから、門限十一時というのは、抵抗はなかった。宿直・日直日誌をどう書けばいいのか分からなかった。

 先輩が、何月何日午後十一時見回り異常なし、と書いた。そしたら、ボス猿は翌日それを見て、何も言わずにハンコを押した。ああいうふうに書けばいいのか、宿直は、日替わりで番が回ってくるので、みんな右へならえで、何月何日午後十一時見回り異常なしと書いていた。そのうちに慣れてくると、文字数を省略して、午後十一時異常なし、と書くようになった。

 さて、日直だが、休みの日にお客様がお金を持ってお出にでなる場合があった。また、洋服のサイズ直しを取りにお見えになる場合があった。その他に電話が掛かってくるので、電話番をしなければならなかった。支配人が店の二階にいた時は、それをやっていたのだが、今度はそれを店の二階で寝泊まりする男組がやらなければならない。

 日直は、廻り番で順番が来るとやらないといけない。日直やると多少の手当が出る。そして、日直の日は遊びに行くことができないからお金を使わなくても済む。日直日誌は、電話の内容、お金を持って来てくださったお客様の人数、洋服のサイズ直しを取りに来られたお客様がいた場合は、何時何分に取りに来られたと書く。

 休みの日の飯は自分でお金を出して食べなければならない。朝食は抜き。昼食は出前を取るか、食堂に食べにいかなければならない。大体は、出前を取っていたように思うが、休みの日の昼食をどうしていたかは記憶が定かでない。日直だから学校を休んだという記憶がないので、夕方になると誰か戻ってきて代わってくれたんだと思う。休みの日にそんなにお客様が来る訳でもないし、電話がかかってくる訳でもないから日直は暇だ。

 休みの日の夕食で記憶に残っているのが、焼きそばだ。店の先輩がうまい焼きそば屋さんを見つけてきた。店から歩いて五分くらいところにある。品質のよい麺を使って独特のソースを使って味付けをする。ちょっと値段が高いがうまい。間口一間半位の店でカウンターだけだ。焼きそばの他に焼き鳥を焼いて売る。当然お酒も売るのだが、焼きそばを食べに来るお客様の方が多ので、お客様のガラが悪くない。

 焼きそばの中に焼き鳥をほぐして焼いてくれと言うお客様がたまにいた。ぼくは、お金が無いからそれはできない。注文の焼きそばが焼き上がると、次の注文の焼きそばを焼いていく。ある時は、焼くのを見ながら、ある時は、食べながら焼くのを見ていた。

 この焼きそば屋さんのお客様の中に、うちの店のお客様がおられた。店にご来店いただいて顔を合わせて、焼きそば屋さんでも顔を合わせた。このお客様は店の近くに住んでいる。ある時、店の閉店間近にご来店され、店が終わったら焼きそば食べに行こうと誘ってくれたことがある。

 焼きそばは、休みの日以外は食べに行かないのだが、幸次君と二人でお誘いを受けて行った。焼きそばの中に焼き鳥をほぐしたやつを食べろという。お金ないよ。お金はおれが払ってやるから食べろと言ってくださった。焼き上がるのが今か今かと思いながら食べた焼き鳥入りの焼きそばはうまかった。さすがに二人とも未成年だったから、酒までは飲ませてもらえなかった。

 ぼくは、定時制二年生くらいから四年生までのあいだは、休みの日になると学校の帰りに焼きそば屋さんによって、遅い夕飯を食べていた。この焼きそば屋さんは、昼時も営業しているが、昼間行った覚えがない。定時制の関矢君の職場がすぐそばなので、関矢君は昼飯をこの焼きそば屋さんで食べていたようだ。大人相手の焼きそば屋さんだったので、値段は少し高かったが、ここで食べた焼きそばの味は忘れられない。

 七年後に店を辞めて、子供相手の焼きそば屋さんに連れて行ってもらったことがあったが、麺も味も比べ物にならなかった。ぼくは、金が無い、金が無い、といいながらも一足早く大人の世界に首を突っ込んでいた。酒もタバコも十六歳位から味をしめた。

 


テレビ

2008-04-10 08:49:15 | 月賦屋時代前期 仕事外

 支配人が借家に出て、ぼく達は店の二階に引っ越してきた。支配人は、白黒テレビと電気洗濯機を置いていってくれた。電気洗濯機は、炊事のおばさんが使う。奥の八畳間には白黒テレビがある。仕事が終わって、奥の八畳間に入ると、蛍光灯を付けてテレビのスイッチを入れる。

 今のテレビと違って音が出るのにしばらく時間がかかる。音が出た後映る。夜九時からの時間帯はゴールデンタイム。プロレス中継をやる曜日は必ず見た。ボクシングのタイトルマッチの中継も必ず見た。先輩達と一緒に食い入るようにテレビを見た。曜日毎に各テレビ局が面白い番組を並べて来る。その中で一番面白そうなものを選んで見た。

 西部劇は良くみた。夜九時台のゴールデンタイムが終わると銭湯に行く、銭湯から帰るとまたテレビを見た。まだ深夜放送というのがなかった時代だから十二時頃に放送が終わる。布団の中で放送が終わるまで見て、テレビの電源切って寝た。

 当然朝は開店ギリギリまで寝ている。朝の連続テレビ小説が始まっていた頃だと思うが、その時間帯は、まだ寝ていたから、朝の連続テレビ小説を見る習慣がない。

 昼間は仕事だからテレビを見ることができない。テレビを見るのは夜仕事が終わってからだ。テレビ見るのが面白いから、今日は銭湯行くのやーめた、というのは結構あった。テレビが面白いから学校から帰って勉強なんてやったことがない。定時制は宿題出さないからいい。

 面白いドラマがあった。確か西郷輝彦が主演していたやつだと思ったが、赤いダイヤ、というドラマがあった。主人公が小豆相場師になっていく過程をドラマにしたものだったと思う。赤いダイヤって何だ?。小豆がダイヤになるのか?。という不思議な思いで見ていた。

 夕日と拳銃というドラマもあった。主人公伊達麟之助が満州の地で馬賊として活躍するドラマだ。馬賊って何だ?、と思いながらもドラマを見ていた。最後は、監獄に入れられてそこから脱獄を企て、また馬賊に戻ったものの捕っつかまっる時に、拳銃を一発撃ったように記憶している。

 昭和39年10月10日(土)。東京オリンピックが開催された。開催国の日本は一番最後に入場する。白黒テレビでは色は分からないが、男女とも上は赤いブレザー、男子は白いズボン、女子は白いスカートを履いて入場し、旗手が天皇陛下の席を通過する時に、旗を横に曲げ、それに続く選手が帽子を胸に当てて一斉に顔を天皇陛下に向けた。昼間は仕事でテレビを見られないが、夜仕事を終わってからダイジェスト版をを食い入るように見た。

 東京オリンピックの開催に合わせるため、この年の10月1日(木)に東海道新幹線が開通している。日本の戦後はもう終わった。自前の技術で東海道新幹線を開通させて、東京オリンピックを開催した。万里の長城、エジプトのピラミッドに続く世界の三大馬鹿と揶揄された東海道新幹線だが、今では三大馬鹿とは言われない。

 何故に三大馬鹿かと言うと、東海道新幹線は、踏切が一つもない。すべて高架か、土盛りをして下に道路を通している。東京大阪間に万里の長城を築いてその上に線路を走らせている。ぼくは、東海道新幹線の開通の一年半後に修学旅行の帰りに乗ることになるのだが、乗ってみるまで乗ることを知らなかった。

 東京オリンピックは、いろいろな種目がある。開催国日本は、ほとんどの種目に選手を出している。鬼の大松監督率いる日紡貝塚女子バレーボールのチームは、東洋の魔女と言われ、普通だったら取れないサーブを回転レシーブで受けて、快心の進撃で決勝まで勝ち上がって優勝した。あれを見た時は日本は凄いと思った。

 日本は、東京オリンピックで一杯金メダルを取った。陸上自衛隊重量挙げの三宅選手。体操の遠藤選手。重量挙げなんてのは知らなかった。ああいう風にして重たいものを持ち上げるのか。体操は、中学校で教わったこともない技で競技をする。へーあんなことができるのか。一瞬の隙をついて技をかけるレスリングも凄かった。プロレスとはまったく違う。両肩をついただけでフォールで負けてしまう。

 休みの日はどこにも出かけないで、テレビにかじりついて東京オリンピックを見ていた。そして、最終日、男子マラソンがある。ボス猿は、新聞のテレビ欄でマラソンのゴールの時間帯を割り出していたようで、事務所で仕事をしていたぼくに、マラソンを見ようとぼくに言った。

 ボス猿といえども仕事中に奥の八畳間のテレビを勝手に見ることはできない。ボス猿は、ぼくと炊事のおばさんを誘って、奥の八畳間でマラソンのテレビ中継を見始めた。アベベが先にスタジアムに入って来た。そして円谷が苦しそうな表情で入って来た。その後にしばらくして選手が入ってきた。

 アベべはぶっちぎりで一位。円谷がゴールできるか、トラック勝負になっていた。円谷は苦しそうな表情で走っている。後続の選手が追いあげてくる。円谷がんばれ。とうとう後続の選手に追い抜かれてしまった。炊事のおばさんが円谷が追い抜かれる瞬間思わず、ああと声を上げた。円谷がゴールしたところで、仕事中のテレビ観戦は終わり。

 店の人達で、マラソンのゴールを生中継で見たのは、ボス猿と炊事のおばさんと、ぼくの三人だけだ。ぼくは、その後学校に行って、視聴覚教室で閉会式の様子を生中継で見た。閉会式は、開会式のように整然と行進するのではなく、各国の選手達が自由に入場してきた。中でもアフリカの選手がこうもり傘さして踊るように入ってきたのが印象的だった。

 東京オリンピックも終わった。普段の落ち着きを取り戻し、仕事が終わるとテレビを見て銭湯に行き、帰ってから布団の中に入りながらテレビを見て、十二時頃に寝る普段のスタイルに戻った。

 そして数年後、ボス猿の家に行く用事があって、家の中に入れてもらった。ボス猿が戦犯で捕っつかまった時の話をしてくれた。一緒に監獄の中にいた人に伊達順之助という馬賊がいて、ここから脱獄して再起しよう、という話を持ちかけられたという。ボス猿はどちらでも良かったけど、ボス猿の上官がもうそういう時代じゃないからと言って断ったので、それに従ったという。

 ボス猿の上官の読みは当たっていた。伊達順之助は脱獄に成功して馬賊として再起したが結局捕まって死刑になった。夕日と拳銃のドラマを見た記憶もまばらになった頃この話を聞かされたので、ボス猿の言っていることと、ドラマの記憶が重ならなかった。夕日と拳銃、という文庫本を買って読んだが、伊達順之助をモデルにしたものだと知ったのは、はるか後年のことだ。

 寝るのが十二時頃で朝九時の開店ギリギリまで寝ている。十五歳の時からやっている生活スタイルはなかなか改善できない。六十年間真面目にコツコツ生きてきたが、朝の連続テレビ小説を見た期間は二年くらいだ。朝起きられないでビデオに撮ってみた時期もある。

 最近は、早起きするようになったがテレビが壊れてしまったので、テレビを見ない習慣が身に付いてしまった。テレビを見るとテレビの時間に合わせなくてはならないので、テレビを見るのは嫌だ。

 


10円麻雀

2008-04-02 11:03:38 | 月賦屋時代前期 仕事外

 海そば県出身の大谷さん。ボス猿にたたかれながらも必死に仕事をしている。どこで見つけて来たのか麻雀を買って来た。休みの日に、みんなを集めて麻雀教えてくれた。コタツ引っ張り出して来て、上に毛布乗せて麻雀教えてくれた。コタツに入るには、適当な時期ではない。汗かきながら麻雀教えてくれた。教えてくれたのが10円麻雀。ハコテンくらっても300円だが、当時の300円は貴重だ。

 ピンフーから役の作り方教えてくれる。満貫の役を並べて教えてくれる。そして実戦。底点から16,32,64、128、256,512と点数の数え方を教えてくれた。リーチ!。何じゃそりゃ?。リーチのかけ方も教えてくれた。10円麻雀だが金がかかっている。教わる方は必死になって覚えていく。

 大谷さんは、降りることを教えてくれない。リーチがかった場合は、場に出ているのが安全パイだ。そのスジを読め。イースーチー、リャンウーパー、サブロクキュー。イーリャンサンスウウーリューチーパー、今まで聞いた事の無い言葉で数字を言い始める。頭の中が嵐になりながら、みんな大きな手を狙う。

 細かい手は狙わない、満貫以上の役を狙いながら大胆にパイを切り出す。麻雀の腕は、教えている大谷さんの方が上だ。大谷さんも満貫以上の役作りをしながらぼくらに麻雀教えてくれた。

 大谷さんリーチかけて一発でつもった。裏ドラを見て、リーチ、一発、つも、ピンフー、ヒラヒラ、裏ドラバンバン。倍満には一つ足りないがハネ満だ。おれは親だ点棒払へ!。へーそういう役の作り方もあるのか?。不思議に思いながら親にハネ満の点棒払う。

 毛布じゃやりにくいし暑い。次の休みには、どこで見つけて来たのかゴムの麻雀板を買ってきて毎週のように麻雀をやる。最初の内は大谷さんが勝っていたが、覚える方も必死になって覚える。四人で囲んで四人とも満貫以上の役を狙いながら大胆にパイを切り出す。振り込めば必ず満貫以上の役が待っている。10円麻雀とは言えど金がかかっている。壮絶なバトルが続く。

 チョンボ!。それ出しちゃ駄目。どういう意味なのか分からず、点棒を払う。たまにチョンボやるが意味が分からない。大谷さんは、上がるのを諦めて降りるのに専念することを教えてくれない。自分もそういうことをしない。場に出ているのが安全パイだ。そのスジを読めとしか教えてくれない。反則技があることを教えてくれない。その内に大谷さんが店を辞めてしまった。

 しかし、大谷さんは、店の人達に麻雀の仕方を教えて行ってくれた。麻雀パイとゴムの板は、どこに行けば買えるか教えていってくれた。麻雀を積極的に覚えたのは三人だけ。一人足りない。一緒に覚えた店の人の中には、計算や言葉が面倒臭いと言って、仲間に入ってこなっかた人がいる。賭け事は嫌だと言って途中から降りた人もいる。一人足りない。道具はある。三人麻雀やっても面白くない。

 その内に、開店当初からいた先輩が結婚して、地元との血縁ができて付き合いで麻雀覚えた。カモだ!。嫁さん抱えている先輩。時間を作るのが難しい。毎週やる訳にいかない。四人の時間を合わせるのが難しい。休みの前の晩、やっと四人の時間が合った。やり始めたらお互いに面白い。徹夜麻雀しちゃった。翌朝帰ったら嫁さんにエライ怒られたそうだ。

 それでも麻雀は面白い、まだチョンボの意味がよく分からない同士が、おい今晩やるべ、門限12時で麻雀した。こうやって覚えた10円麻雀は、これから地元の人達を巻き込んでバトルを展開することになる。月賦屋の事務屋は、16歳で10円麻雀覚えた。そして、麻雀しながら世の中の表を見ている。

 


休みの日の遊び

2008-03-17 11:51:46 | 月賦屋時代前期 仕事外

 就職して最初の年は、先輩が映画のタダ券持っているので、映画を見に連れて行ってくれた。しかし、昼飯と夕飯は自分のお金を出して食べなければならない。これが一番辛かった。先輩は美味いもの食べさせるところに連れていく。油断して美味いものを食べると、給料日前になると金が無くなる。甘くない菓子パンが一袋百円。その菓子パン一袋でその日一日の食料にした。

 映画以外の遊びというと、ピンポンとローラスケートがある。当時は卓球場というのがあった。卓球の台が三台くらいあって、その内の二台を借りて先輩達が一台、山猿忍者と幸次君とぼくが一台借りて、ピンポンをする。月曜日の昼間は借り賃が安い。

 幸次君は、中学校の時に卓球部に入っていた。新入りの一年生はラケットの素振りからやらされる。ぼくは同じ中学校だったから幸次君が素振りしているのを見ている。ウサギ跳びやって、女子のマラソンコースを走って下半身を鍛えている。幸次君が繰り出すサーブは強くて受けられない。少し手加減してもらわないと後が続かない。

 ぼくも田舎にいた頃、町内の公民館に古い卓球台があって、冬が近づいて鉛色の空になって時雨れてくるころに、近所の子供達が公民館に集まって卓球をしていた。勝てばやり続けることが出来るが負けると、次と交代しなければならない。卓球のルールは、そこで覚えている。多少強いサーブを打つこともできる。そのサーブを幸次君に打っても、幸次君は何なく打ち返してくる。山猿忍者にその強いサーブを打つと最初の内は、手こずっているが段々慣れてきて、ぼくの真似をして強いサーブを打ってくる。

 幸次君のサーブは受けられなかったが、子供の頃にできなかったラリーをやることができた。ラリーの途中でお互いに隙があれば、ばちっと一発食らわせる。うまくいく場合といかない場合がある。卓球は二年くらいやったように思う。飽きたのと給料が上がって自由にできるお金が出来て、他の遊びをやるようになったからだ。

 六十歳の誕生日を迎えて二ヶ月。思わぬ所で卓球をやる機会に恵まれた。四十年以上卓球をしていない。おぼろげながらもラケットを運ぶ。結構ピンポンができる。子供の頃に覚えたちょっと強いサーブは打てる。まだラケットを平らに持って、身体の前で受けることしかできない。ラケットを右下に構えてラリーをすることができない。機会に恵まれたらチャレンジしてみたいと思っている。

 もう一つローラースケートがある。こちらは、ピンポンよりお金がかかる。ローラースケート場への入場料と、足の大きさにあったローラスケートの靴を借りなければならない。日曜日は高いが月曜日は安い。それでもピンポンやるより高い。中学三年生の冬休みにアルバイトに来た時、幸次君と二人でコタツ板を配達した家の近所だ。

 初めてローラスケートをやった時は、背を立てることができなかった。下はコンクリート。ひっくり返って頭を打ったら大変なことになる。先輩達の滑り方を見ながら、手を前屈みにしながら恐る恐る滑って見た。子供の頃にスキーをやっているから、それほど難しくなく滑ることができた。恐る恐る立って見たが大丈夫だ。

 ローラースケート場の回りをぐるぐる回った。時間で幾らなんだけど、一時間過ぎると滑るのに飽きてくる。途中休憩しながら二時間くらい滑ってやめた。就職した翌年は、多少お金に余裕が出来てきたので、店が終わってからローラースケートしに行った事もある。しかし、卓球もローラースケートも長続きしない。

 卓球場もローラースケート場も先輩が見つけて来た場所だ。見ず知らずの土地で働く先輩達が、休みの日の暇つぶしに見つけてきた場所だ。二十歳過ぎている先輩は、ぼく達の年齢を考えての手加減をしない。速くおれ達と同じ遊びができるようになれと、引っ張ってくれる。

 さすがに十五歳の時は無理だったが、十六歳になって少し給料が上がると、休みの日に、おい一緒について来いと言われて、パチンコ屋さんに連れて行ってもらった。ぼくは端で見ているだけ。玉を追いかけていると目が回る。玉が小さな箱の中に入るとじゃらじゃらと出て来る。なるほど、盤面の小さな箱に玉が入ればいいのか。

 しばらく先輩の盤面を見ていたら、じゃらじゃら玉が出てくる。おい箱持って来い。言われるがままにパチンコ屋さんのカウンターに行って箱を持ってきた。先輩はその箱の中にパチンコ玉を移している。おい、もう一つ箱持って来い。またパチンコ屋さんのカウンターに行って、箱を二つ持って来た。先輩はその箱にパチンコの玉を移している。

 一箱余計に持って来たのか。お前は気が利くな。これでパチンコをしろと言って、空いている隣の台の皿にパチンコの玉を二握り入れてくれた。当時のパチンコは、左手に玉を握って親指で一つづつ入れて、右手でレバーを弾きながら打つ。盤の上の真ん中狙って打て。先輩が撃ち方を教えてくれる。盤の上の真ん中を狙って左に弾かれるか、すーと真ん中に入るか、右にそれるかで入り方が違う。

 一番出る確立の高いののが、真ん中にすーと入るやつ。しかし、そのコースに入れるのが難しい。難しいながらも、ちんじゃちんじゃら出る。今のように電子制御ではない。釘士さんの腕と打ち手の相性次第で出る台と出ない台がある。

 先輩からもらった二握りの玉を元手に、あの台が出そうだけどまだやっている人がいるな。台が空いた。よしその台に行ってやってみよう。台の皿に先に玉を入れた方が勝ちだ。台を空けた人は釘との相性が悪かったみたいだ。ぼくは、一つ一つ真剣に玉を打つ。釘との相性が合った。ちんじゃらちんじゃらよく出る。

 やめ時が難しい。学校に行かなくてはならない時間が来た。夕方五時前、カウンターに行って箱を借りてきて、出た玉を箱に入れてカウンターに持って行った。玉はそれほどないが、チョコレート二~三個と交換してもらった。このパチンコ屋さんの玉係は店のお客様だ。交換してもらった後に端数の玉が残った。ポケットに入れて持って帰って、次の時に使う。

 越後の全日制の高校に進学した友人の中に、パチンコやっているのが見つかって、退学処分になったのがいる。ぼくは、十六歳からパチンコしたが、お巡りさんや先生には見つからなかった。こういうのは先手必勝。定時制の先生の家に一升瓶ぶら下げて行って二升飲んできたことが何回もある。

 


母ちゃん股引送ってくれ

2008-03-15 11:14:59 | 月賦屋時代前期 仕事外

 就職して初めての冬を迎える。上州の冬の様子が分からない。11月23日の勤労感謝の日あたりまでは、ポカポカしたいい陽気になる。小春日和という言葉は中学校で習っていたが、越後では小春日和という日はない。上州の小春日和の頃の越後は鉛色の空から時雨が降っている。

 小春日和は、生まれて初めて体験した。なるほど暖かくていい日和だ。このまま冬まで続くのかと思っていたら、いきなり寒波が来た。寒い。股引と長袖の下着が無い。給料日目前、ボス猿に給料前借りする訳にいかない。手元に金が無い。学校へ行って帰る自転車に乗っている時が一番寒い。

 母には毎月2000円仕送りしている。その他に定期積み金をしている。どっちを頼りにするべきか?。定期積み金を解約すると満期日がおかしくなる。同時に癖になってお金をためることができなくなる。母に手紙を書いた。母ちゃん上州の冬は寒い。股引と長袖の下着を送ってくれ。その後に給料をもらって仕送りの2000円を母に送った。越後の人間、冬は股引履いて長袖の下着を着るのが当たり前。

 そして、母から荷物が届いた。真新しい股引と長袖の下着だ。母ちゃん金使わせてすまない。午後五時に仕事を終え、学校へ行く前に股引と長袖の下着を着込んだ。十一月の末だったように記憶している。前日まで寒い思いをして自転車に乗っていたが、股引と長袖の下着を着込んだお陰で寒くなくなった。

 そして、その股引と長袖の下着で一冬乗り切ることができた。まだ自分のタンスを買ってない。その股引と長袖の下着をどこにしまったか記憶がない。母が身を切る思いで送ってくれた股引と長袖の下着だ。大切に保管した。翌年の勤労感謝の日を過ぎた当たりに、第一次寒波がやってきた時には、母が送ってくれた股引と長袖の下着を着て冬に備えた。もう学校の行き帰りの自転車で寒い思いをしなくてもすむ。

 ぼくは、毎月母に2000円仕送りしていた。ボーナスのほとんどは母に仕送りしていた。さすがにボーナスを仕送りする時は、現金封筒を使って仕送りしたが、毎月の仕送りは、現金封筒使うのが面倒臭いし、金がかかるから普通郵便で送っていた。

 ぼくが、母に何か買ってくれと頼んだのは、最初の年の股引と長袖の下着だけだ。それ以外に何か買ってくれとか、お金をくれと言ったことは一度もない。六十年生きて来て、母がお金をくれたことは何回かあったが、すべて三回断ってから、それでもやると言った時にもらった。ぼくがお金に困っているだろうと思った母が、母の余裕の範囲内でくれた物だ。

 月賦屋時代の後期になると店の社宅で一人住まいを始める。丁度、田舎のすぐ上の兄貴が結婚していて、嫁さん連れて家に入る時期だった。一人住まいをしていた母のお勝手道具が余った。母がそれをくれるというので、ぼくは、トラックに茶箱を三個積んで三国峠を越えてもらいに行った。

 親というのは有難いもんだ。母は使わなくなった食器を新聞紙で包んで待っていてくれた。ぼくは、それを茶箱の中に入れてトラックに積んだ。丁度隣の人がその様子を見ていた。親というのは有難いもんだ。と隣の人に言った記憶がある。ご飯を炊く炊飯器は無かったが、鍋は色々あった。薬缶もあった。魚を焼く網もあった。二つあっても無駄だというものはすべてもらってきた。

 あれから三十年。壊れてしまったものは捨てた。二個もらった薬缶のうち一個ははまだ壊れていないから毎日お湯を沸かすの使っている。食器戸棚の中の瀬戸物は半分は壊れてなくなってしまった。しかし、まだ三十年前にもらってきたものがいくつもある。

 男というのは、食器戸棚の中にあるものを買いに行くのが面倒臭い。自分で金出して買ったのはごくわずか。これは使わないのだがと思ってもそのまま取ってある。結婚式の引き物や、盆暮れの景品に皿を一枚づつもらったのが何枚かたまっている。ラーメンの丼も一年にニつづつ増えてたまっていた。

 たまったラーメンの丼の一つが、今ぼくが飯を食べる丼になっている。丼に飯を持った上におかずを載せると小皿を洗わなくて済む。食器を洗う手間が省ける。さすがにそれでは、飯がまずくなるので、100円ショップで小さな小皿を四個買ってきて、そこに漬け物などを載せている。丁度手頃な大きさの鉢を結婚式の引き物にもらったので、それは毎日使っている。

 たまにカレーを作る時は、何かの引き物でカレー皿をもらったので、それを使う。五枚一組なっているのだが、一枚しか使わない。

 母が使っていたお勝手道具を茶箱に入れて持って帰った後、中身を戸棚に入れて並べた。ご飯茶碗が無い。みそ汁入れるお椀がない。男というものは、食器戸棚の中身を買うのが面倒臭い。店のすぐ近くに瀬戸物屋がある。親父さんとは、朝一緒にラジオ体操をやっているから顔見知りだ。それでも買いに行かない。

 形状が違うが小鉢があった。それにご飯とみそ汁をよそって食べていた。食えればいいのだ。この話を書き始めるときりがなくなる。今は月賦屋時代の前期を書いている。

 ぼくは、母が三十八歳の時の子供だ。ぼくにとって、身体の弱い母は、生涯に渡って守るべき存在であって、スネをかじる存在ではなかった。月賦屋時代の前期は、毎月母に仕送りをしていた。ボーナスはほとんど母に送っていた。まだ口座振替などという便利なものが無い時代だ。その母も二年前(平成18年)に九十六歳で亡くなった。

 母ちゃん。最初の帰省の時の、ぴかぴかのホンコンシャツ二枚と、最初の冬を迎えた時の股引と長袖の下着。あれはありがたかった。助かったよ。

 


風邪をひいた

2008-03-14 09:11:53 | 月賦屋時代前期 仕事外

 風邪とどう付き合うか?。これは、他人の飯を食って育ったぼくにとって生涯の難事業だ。家族がそばにいない。風邪を引いても誰も助けてくれない。ぼくは、虚弱体質だ。あまり身体が強くない。下宿のトイレは下の階の奥にある。しかし、そこは大家さんの居住区だから入り難い。下宿に借りている家の裏に共同トイレがある。間口三尺奥行き四尺くらいのトイレだけの建物だ。あまり綺麗な建物ではない。

 大きい方は店のトイレでする。白くはないがちり紙がある。共同トイレにはちり紙が置いてない。子供の時に新聞紙で尻を拭いていたので、新聞紙で尻を拭くのはなんともない。使いやすい大きさに切るのが面倒臭い。それに一度ちり紙で尻を拭くと新聞紙で拭くのは嫌だ。だから大きいほうは店のトイレでしていた。休みの日も必ず店に行って大きい方をしていた。店に行かないと洗面道具がない。小さいほうをどうしていたかは記憶にない。

 いずれにしても下宿の裏にある共同トイレは、あまり行った記憶がない。無い記憶の中で鮮明に覚えているものがある。休みの日に下痢をした。店まで持たない。新聞紙つかんで共同トイレに駆け込んだ。間一髪間に合った。そして、下宿に戻って何かやっていたら、また下痢が来た。新聞紙つかんで共同トイレに駆け込んだ。間一髪間に合った。何回駆け込んだか覚えていない。水様の下痢がシャーシャー出た。

 遊びに行きたくても下痢で遊びに行けない。多分布団敷いて寝たのではないかと思う。何回も駆け込んで出すだけ出したら、出る物がなくなった。夏風邪を引いて下痢をしたようだったが、一日で収まって次ぐの日から普通に仕事に出た。15歳の少年の回復力はすごかったと今では思う。

 そして、翌年の夏、事務所で仕事をしていて、身体の様子がおかしい。熱があるのかどうか頭が痛い。我慢できる範囲を超えた。急いで社会保険証を持って、店の支配人に医者に行ってくると言って、店を飛び出した。

 医者はすぐ近くにある。医者の受付で社会保険証出して症状を言った。午前中だったが丁度空いている時間帯だった。渡された体温計を脇の下に入れること数分。夏だというのに寒気がする。名前を呼ばれて診察室に入った。

 年寄りの先生が椅子に腰をかけていた。体温計を見せてみろというから、脇の下から体温計を出して渡した。医者は体温計を見ると、扇風機を止めた方がいいか?、と聞いた。ぼくが、はい。と答えたら扇風機を止めてくれた。多分40度を超える熱が出ていたのではないかと思う。

 医者から渡された薬を持って、支配人に風邪引いたから休ませてくれと言って、渡された薬を服んで店の二階に布団を敷いて寝た。夏だというのに寒気がする。毛布一枚頭からかぶって寝た。汗がだくだくと出てくる。本能的なものだと思うが、ひたすら毛布一枚頭からかぶって汗をだくだく出した。

 その内に眠った。ニ時間眠ったのか三時間眠ったのかよく分からないが目が覚めた。毛布は、顔の下にあった。肩を冷やさないように毛布をかけて、身体を温めて汗が出るようにして寝ていた。店の人達はそれぞれ仕事がある。風邪をひいても誰も助けてくれない。一人で風邪を治さないといけない。

 毛布の下は汗でびっしょり。しかし、毛布を持ち上げると身体が冷える。肩を冷やさないように、身体を冷やさないように寝ていた。目は覚めている。汗はそれほど出ない。店の人はそれぞれ仕事があるから様子を見に来ない。店のすぐ裏に住んでいるおばさんが様子を見に来てくれた。このおばさんには、ぼくと同じ年齢くらいの息子さんがいる。

 おばさんが様子を見に来てくれたときは、だいぶ汗が引いてきていた。しかし、まだ毛布を持ち上げるには怖い。汗をかいて眠った後だったから多少の話はできた。でも、まだ毛布を持ち上げるには怖い時期だった。風邪引いたときに様子を見に来てくれた、このおばさんはありがたい人だ。見ず知らずの土地で他人の飯を食って風引を引いてみないと、このありがたさは分からない。

 おばさんが帰った後、どのくらい経ったか覚えていない。昼飯食ってないから腹が減っている。今なら一食抜く位それほど苦痛ではないが、育ち盛りの16歳の時に朝から何も食べていないのは堪える。夕方5時半頃。恐る恐る毛布を持ち上げてみた。

 夏だというのに室温がいい気持ちだ。油断していい気持ちになっているとまた熱が出る。何回も毛布を持ち上げて、持ち上げる時間を長くしていった。やがて毛布から身体を全部出した。急いで着るものを着た。身体を保温しておかないとまた熱が出る。本能的にそう考えてやった。

 そして、事務所に行って、やりかけになっていた仕事を片付けて、6時の夕飯一番最初に食べた。その後、店に出て店の人と夕飯の交代をした。夕飯食べ終わった支配人が、お前は風邪引いているんだから二階に上がって休めと言ってくれた。ぼくは素直に二階に上がって休んだ。布団に汗が染み込んでいたが、時間が遅くて干せない。ぼくの布団は汗と涙が染み込んでいる。

 当時の社会保険は、自己負担なし。タダで医者にかかれた。風邪を引いた時はいい制度だなと思っても、一年に一回か二回風邪引いた位では元が取れない。ボス猿がちゃんと説明すればよかったのに、事前の説明なしに社会保険と厚生年金入ったからなと言って、給料から天引きした。初めての給料は日割り計算だったが、風邪引いて休んだ時は、日割りで引かれなかった。完全月給制は、風邪を引いた後にもらった給料で確認した。

 今から思うと、ボス猿はいい時期に社会保険と厚生年金に入ってくれた。ボス猿はやることはちゃんとやっていた。世の中には未だに社会保険と厚生年金に入っていない会社がある。会社が社会保険と厚生年金に入っていても、派遣でその恩恵に預かれない人達がいる時代になっている。

 


ギター

2008-03-13 08:57:57 | 月賦屋時代前期 仕事外

 ぼくは、中学校二年生の春休みに、家の近くのダンボール工場にアルバイトに行った。学校の掲示板にアルバイト募集三名と書いた紙が掲示されたので、それに応募した。学校の先生は募集人員をオーバーした人数が集まったのを、どうやっていいか迷ったのかどうか知らないが、春休みが始まった当日の朝、そのダンボール工場に十人近くの人数がアルバイトとして集まった。

 ダンボール工場の人は、三人でいいのにこんなに集まったのかと、困惑しながらも応募した人全員をアルバイトに雇ってくれた。中学校二年生だから大事なことはさせられない。機械を操作する人にこれから機械に入れるダンボールの補給と、機械で加工したダンボールを別の所へ持っていく仕事をした。

 ダンボールの箱を作るにも色々な工程がある。全部見て廻った訳ではないが、一つの段ボール箱作るにも色々な工程がある。そして、春休みのアルバイトが終わった日にアルバイト代をもらった。ぼくは、そのアルバイト代をすべて母にやった。

 そして、中学三年生の春。修学旅行で日光と東京に行った。その土産話を持って、工場の二階に住んでいる若い工員さんのところに行った。ぼくの周りで若くて働いていて、なおかつ夜時間がある人はその人しかいなかった。最初は恐る恐る行ったのだが、向こうもよく来たなという感じで、ギターを弾いてくれた。

 中学校の吹奏楽部が使っている楽器とは違う。弾いている音色がいい音色だ。その若い工員さんが弾く音色に聞きほれていた。当時ラジオから流れていた流行歌だ。そして、ぼくにギターを貸してくれて弾き方を教えてくれた。最初に教えてもらった曲は、川の流れに身を流し、だった。

 でも、その若い工員さんは、その後会社を辞めてしまった。ギターはないけど、川の流れに身を流し、の弾き方は指が覚えている。そして、冬休みは店にアルバイトに来た。その後、アルバイトから帰って昭和38年の大豪雪と戦って、15歳の春に店に就職した。

 下宿に行ったら先輩が買ったギターがあった。ギターは先輩の私物。許可を得なければ使わせてもらえない。まず先輩が弾く。そのうちに飽きる。ケイちゃんが弾く。そのうちに飽きる。山猿忍者と幸次君、ぼくの順番に廻って来るのだが、ぼくのところに廻って来るころには寝る時間になっている。十一時まではやってもいいがそれ以降は駄目ということになっている。

 休みの日の午前中は、たらいで洗濯ごしごしやって干す。午後からは映画を見に行く。なにせ映画はタダで見られる。洗濯が終わって、映画を見に行くまでのわずかな時間でギターの取り合いをやる。やっとぼくの手元にギターが来た。迷わず、川の流れに身をまかせ、を弾いた。もう流行歌としては古い。もっと新しい流行歌の譜面を手に入れてギターを弾かなければならない。

 その譜面は、先輩が買って用意してあった。ぼくは、おたまじゃくしを読むことができる。歌うことはできないが、ギターで、おたまじゃくしをつっかえ、つっかえしながらつまびくことはできる。ギター熱も一時的なもので、半年位で熱が冷める。熱が冷めるとギターが空いているので、好きな時につまびくことができる。しかし、ぼくの方も熱が冷めているから本格的な練習はしない。

 練習しようにも教えてくれる人がいない。仲間がいない。これがよかった。この後、エレキギターのブームが起きるが、その時にはギターの熱が冷めていたので、大きい音でギターの音色が出るなと思って、どういう仕掛けであういう音が出るのだろうと、若いから興味を持ちながらも、エレキギターの熱にはまることはなかった。

 てけてけてけてー。てんてけてんてんてけ……。ぼくは、ベンチャーズのCDを持っている。音楽CDには興味がないぼくが、何故か持っている。若い頃はオーディオに興味があったがお金がなかった。やっと買ったアンプとチューナー付カセットデッキは、再生する機会があまりなく、経年劣化で使えなくなった。それ以来オーディオにはまったく興味がなくなった。

 しかし、ベンチャーズと西田佐知子そして五輪真弓のCDをお金を出して買った。ソニーのCDのジュークボックスをパソコンで制御するシステムを開発している時に、英語の歌では曲の識別ができないから買ったものだ。

 そのCDが手元に残ったが、再生する環境が無い。何回か本棚の整理をし、引越しをし、そして大規模な部屋の模様替えをしたが、そのCDは捨てられず残っている。そして今は、パソコンでCDを再生できるようになった。そのうちに聞いてみようと思っている。

 店では蓄音機を売っている。店の先輩が蓄音機を一台買って寮に持って来た。夜は蓄音機をかけることはできない。休みの日にかける。店の先輩は自分の好きな曲のレコードを買ってくる。最新の流行歌のレコードを買ってきてかける。ラジオやテレビと違って好きな時に流行歌を聞くことができる。

 店の先輩ケイちゃんは、小林旭のファン。蓄音機は一台あればいい。ケイちゃんは、次々と小林旭のレコードを買ってきてかけてくれる。そして、ツイストという踊りを踊る。ぼくも一緒になって何回もトライしたが、ついにツイストの踊りはできなかった。手の振り方と腰の振り方がうまくいかない。

 店の先輩がレコード買ってきてくれるおかげで、ぼくはレコードを一枚も買わずにすんだ。小林旭の歌の中で印象に残っているフレーズがある。雑草のように生きてきた。六十年間真面目にコツコツ生きてきたが、まさに、小林旭の歌のフレーズ通り、雑草のように生きてきた。

 


チョコレート

2008-03-12 11:02:10 | 月賦屋時代前期 仕事外

 就職した年、昭和38年。東京にいる姉に手紙を出した。姉はすでに結婚していて子供が一人いる。姉は、ぼくが小学生の時に東京に就職していて、姉と最後に会ったのは小学校6年生だったか中学校1年生だったように記憶している。田舎に帰って来た姉が塩が無い、塩が無い、と言いながらカレーライスを作っていた。出来たカレーは味噌味で、なんとも奇妙な味だった。

 その姉が生まれたばかりの子供の写真を送って来た。まだ会っていない姉の旦那の顔は写真で覚えた。姉ともしばらく会っていない。ぼくは送る写真がない。忙しいながらも姉に返事を書いた。

 姉が結婚する時、仲人さんが田舎にやって来た。ぼくは丁度風邪を引いて学校を休んで寝込んでいた。母は、近所の懇意にしている家に頼み込んで、ぼくはその家で寝ていた。しばらくしたら母が迎えに来た。一緒に来た人がスキーをしたいと言う。

 仲人さんと一緒に来た人は、姉の結婚相手の弟さんだった。家の土間にスキーの板が立てかけてあるのを見て、スキーがしたいと母に言ったのだ。カンダハンのスキー靴を弟さんに履かせて、ぼくは長靴履いてスキーの板担いで近くの跨線橋まで行った。

 この跨線橋は、スキー遊びをする絶好のポイント。学校が終わると近くの子供達が集まってわいわいと遊ぶ。跨線橋に登る坂道は、竹スキーを片手で操って滑る。夕方になると雪が締まってきてスピードが出てもっと面白い。

 跨線橋の一番上まで上った所で、弟さんにスキーを履かせて、ストックを持たせて手を離した。生まれて初めてスキーを履いた弟さんは、足が地につかない。地元の子供は竹スキーを片手で操り氷った斜面をすいすい降りるのだが、生まれて初めてスキーを履いたこの人は、ぼくが手を離した途端にスキーをしてみたい、どころの騒ぎではなくなってしまった。見ているこっちの方がおっかない。やっと尻餅ついたところでスキーを外してやった。

 ぼくは、スキーを履いた場合は、こっちの斜面を滑ると指さした。跨線橋に登る坂の土手の部分だ。生まれて初めてスキーを履いた弟さんには、絶壁に見える斜面だ。ここを滑るのか?。うんそうだよ。一つ滑って見せてくれないか。本当はスキー靴履いてスキーを固定しないといけないんだけど、スキー靴は弟さんが履いている。雪の上で靴履き替えるのは、冷たいから嫌だし面倒臭い。

 長靴のままスキーの板の上に乗ってストック持たずに滑り降りた。うまくいくかちょっと不安だったけど、うまく直滑降で滑りおりることができた。滑り降りたぼくは、スキーを担いで絶壁を登ってきた。上から見ていた弟さんは、宇宙人を見るような目でぼくを見ていた。

 ぼくよりずっと年上の弟さんは金持っている。帰りに近所のお店でガムとあめ玉を買ってくれた。ガムとあめ玉は、宇宙人の大好物。いがぐり頭の宇宙人は、風邪引いて学校休んで好物買ってもらって大喜びだ。もう一回来ないかなと思っていたが、翌年は、昭和38年の大豪雪が襲ってきて、スキーどころの騒ぎではない。

 家は貧しい、カンダハンのスキーは手足バタバタしてシーズンオフにやっと買ってもらったスキーだ。このスキーで学校のスキー教室に行くことはなかったが、昭和38年の大豪雪の時は、スキー靴が大活躍した。このスキー靴で足元を固めていなかたっらどうなっていたか分からない。

 手紙を出した姉から返事が来た。月に一回位近況を知らせあっていた。そして秋が深まった頃、姉から荷物が届いた。開けて見たら大量のチョコレートが入っていた。旦那が会社からもらってきた物だという。仕事中に食べる訳にいかない。自転車に乗って学校へ行く途中で生まれて初めてのチョコレートをかじった。あのチョコレートはうまかった。その時、両毛線は蒸気機関車が走っていた。いくらチョコレートが美味くても全部自分でかじることができない。店の人達や学校の友達にもかじってもらった。

 そして、冬を迎えた。バイクの運転免許を取るため、幸次君と二人で、店のスーパーカブを持ち出して運転免許を取る練習をした。その時撮った写真ができて来た。ぼくは、姉の所へ行く決意した。

 何月何日に店が終わったらそちらに行きたいので、電車の乗り換えを教えてくれ、と写真を同封して送った。折り返し姉の所へ行く電車の乗り換えが送られて来た。そして休みの前日、店が終わると汽車に乗って姉の所に行った。バイクの運転免許を取る前だったか、後だったかよく分からない。

 上野駅から山手線に乗り換えて東京駅まで出て、中央線に乗り換えた。何時に着くかは着いてみなければ分からない。向こうの駅に着いたのは夜中の12時過ぎ、姉夫婦が子供を抱えて駅に迎えに出てくれていた。お互いに写真では顔を知っているが、姉の旦那と会うのはこれが初めて。写真通りの顔だった。もうバスがない。タクシーに乗って団地まで行った。旦那はタクシーの運転手をしていたことがある。タクシーのごまかし方を知っている。タクシーの運転手にそれを言ってタダで乗せてもらった。

 旦那は、ぼくが来ると知って休みを取って待っていてくれた。まだ子供が小さい、夜が遅いが多少の酒盛りをして寝た。翌日よく寝て起きて、朝飯とも昼飯ともつかない姉の手作り料理を食べた後、姉夫婦は、午後から子供を連れて、ぼくを東京見物に連れて行ってくれた。東京でタクシーの流しをしていたことがあるからポイントは良く知っている。

 有楽町で生まれて初めて夕食にカツライスを食べさせてもらった。ナイフとフォークの使い方が良く分からない。フォークの背中にライス乗っけて食べた。不便な食べ方だが、回りがそうしているから同じようにした。今ならそういう不便な食べ方しない。最近、本場のインドカレーを食べる。本場だから手づかみで食べる。こっちの食べ方の方が美味い。

 その次ぎに行ったのが、デパートの100円均一セール。大勢のお客様が我先にと品物を買っている。ぼくも抱きかかえるほどいっぱいお菓子を買った。お金は姉の旦那が払ってくれた。そして駅に行った。もう暗い。帰りの切符を姉の旦那が買ってくれた。姉は切符を買ってもらって良かったね。と、ぼくに言う。本当に良かった。店に帰ったのは深夜。次の日は仕事だ。

 山を一つ越えただけで、越後と上州では所得格差がある。上州と東京でも所得格差がある。この所得格差を抱えながら、衣食住、すべての業種において、社会全体の欲求が牙を剥いて襲いかかってくる。

 ある時はその牙を受け止める方、ある時はその牙を剥く方。高度経済成長のいけいけどんどんが始まりつつある。東京オリンピックは、この年の秋に開かれる。東京のデパートでは100円均一セールをやっていたが、上州ではまだ100円均一セールをやっていない。

 


ボクシングのグローブ

2008-03-02 11:57:47 | 月賦屋時代前期 仕事外

 中学三年生の修学旅行で、日光と東京に行った。東京の宿で白黒テレビのプロレスを初めて見た。生ではないが、白黒テレビで見た力道山の空手チョップや、吉村の宙蹴りは、越後の中学生達の目を釘付けにした。そして、修学旅行から約1年後、店に就職した。

 店の仕事が終わった後は、女房子供を連れて店の二階で寝泊まりしている、支配人が使っている奥の八畳間に行かせてもらって、テレビを見た。白黒テレビだったけど内容に迫力がある。プロレス中継がある週のテレビは面白い。空飛ぶ忍者の支配人が一番面白がって見ている。たまにボクシングのタイトルマッチが放映される。

 店は朝九時から夜九時まで、支配人の部屋にお邪魔できるのは、午後十時までが限度、その後に銭湯行ったりしなければならない。下宿にはテレビはない。店が終わってから午後十時頃までは面白いテレビが見ることができる。毎日お邪魔できる訳ではない。お互いに都合がある。その日の流れによって、テレビを見させてもらった。

 ぼくが店に就職したときには、ボクシングのグローブが二組と、上からぶら下げるパンチグローブが一個あった。店の先輩達は、それを使ってボクシングの練習をしていた。二組しかないボクシングのグローブを使うのには、暗黙のルールがある。ぼくが使っていても先輩から、おい貸せと言われたら渡さなければならない。

 ボクシングの練習は、ぼくもやった。やり方はテレビで見ている。サンドバッグはなかったが、ジャブ打つ練習に使うやつがあった。それを見よう見真似でジャブの練習をする。時間は限られている。午後十時には銭湯にいかなかればならない。

 銭湯代がもったいない。考えることは先輩達も一緒だ。夏になると店の裏で水道のシャワーを浴びる。水道の水は冷たいが、夏場は銭湯に行かなくてもシャワーで用がたりる。石鹸は、店で景品用に使っている一番安い石鹸。顔を洗うと顔が突っ張るやつだが、若いからそういうのは全然気にしない。シャワー浴びた水は地面に垂れ流し。店が終わった後なら、垂れ流しで構わない。明日の開店時間までに乾いている。

 さすがに女の人の前ですっぽんぽんにはなれないが、そういう場合はうまい具合に住み分けられていて、シャワー浴びている時は女の人の視線がなかった。就職して二年目の夏、越後から来春高校を卒業するという、女子高生が夏休みのアルバイトに来た。二階の事務所では、ぼくがその子に仕事を手伝ってもらった。一歳年上のまばゆいばかりの女の子だ。親元から預かった大事な女の子だ。手は出せない。というか、その当時のぼくには、手の届く存在ではなかった。貧しい家の人ではない。ただひたすらまばゆい存在だった。

 ぼくは、給料が少し上がって、ボーナスをもらった後だったので、近所の洋品店で、真黄色のブリーフ買って履いていた。よせばいいのにその子がシャワーの所へ来る。男の人達は、すっぽんぽんの訳にいかない。ぼくは、シャワーを浴びた後、真黄色のブリーフ一枚で、他の人達と混じりながら、その子と話していた。結局その子は、翌春店に就職してこなかった。十六歳の時のぼくの勝負服は、鮮やかなイエローブリーフだった。

 金の無い時代の二年間の夏場は、冷たいシャワーで銭湯代を浮かせた。店の裏にはプールで使うシャワーと同じノズルがビニールホースと一緒にぶら下がっていた。昼間はホースを外して邪魔にならないように柱に縛ってあり、仕事が終わると、そのホースを水道の蛇口につないで簡易シャワーになっていた。そこにトタンの洗い場あって、朝下宿から店へ来ると、そこで顔を洗っていた。

 夏場シャワーを浴びたのは二年間だけだった。この二年間の中にいろいろな思い出がある。今それを掘り起こしている。やがて、先輩達はボクシングに飽き、ボクシングのグローブは、山猿忍者と幸次君そしてぼくの三人で使えるようになる。やがてそれも飽きてしまう。

 ぼくが、店に就職して三年目の夏、店の裏に軽量鉄骨作りの店舗が増築されて、シャワーを浴びられなくなった。しかしそのボクシングのグローブは最後まで残された。上から吊してジャブを練習するやつは、どこへ行ったか分からない。ボクシングのグローブと、上から吊すジャブの練習をする、小さなバッグのお金がどこから出たのか分からない。多分、ボス猿が東京から買って来たのではないかと思う。ボクシングのグローブで殴れてもそれほど痛くない。素手の殴り合いはやらなかったが、ボクシングのグローブを使った痛くない殴り合いは結構やった。二年もやると飽きる。

 そして、ぼくが店に入って四年後、同じ中学校で学んだ、五十嵐君が店に就職してきた。五十嵐君は、幸次君とぼくと同い年、ぼくは、普通車の運転免許を取って、夜間の短大に通っていた。幸次君とぼくは、その時もうボクシングのグローブには飽きていたので、そのボクシングのグローブは、五十嵐君が主に一人で使っていた。

 


ストリップ劇場

2008-02-10 09:45:46 | 月賦屋時代前期 仕事外

 就職した翌年の2月。一晩泊まりで伊香保温泉に旅行に連れて行ってもらった。社長は行かない。支配人の奥さんが引率した。渋川からバスに乗って行った。スケート場へ行ってスケートをした。スキーなら子供のころからやっているからできるのだが、スケートは勝手が違う。最初の内はよろよろしていたのだが、何とか滑れるようになってきた。スキーと違って漕がないといけないのでくたびれる。ひっくり返ると冷たい。氷の上だから余計冷たい。日陰に入るとエライ寒いなんてものじゃない。3時前にやめて宿に入った。

 風呂に入って暖まった。部屋で先輩からビールの入ったコップを渡された。飲め!。苦いからいやだと思ったが喉が渇いているので、恐る恐る飲んだ。うまい!。もう一杯ちょうだい。先輩は気前よくついでくれた。2杯目も飲んだ。先輩は自腹を切ってビールを飲んでいる。もう一杯欲しかったがビールがなくなっていた。

 夕飯では、先輩がお酒を飲めとついでくれた。飲んだ。不味くない。夕飯代は店持ちだ。景気よくついでくれる。うまいものを一杯食べた。酒の飲み方も教わった。夕飯食べて部屋に帰ったら、先輩達が一緒に来いという。連れて行ってもらった先がストリップ劇場!。16歳でストリップ劇場に入っちゃた!。

 場内は満員のお客様。むんむんしている。えーこちらは、エロエッチケー。場内アナウンスに従って登場した、お姫様が怪しげな踊りを始めた。着ている物を一枚づつ、ぱらり、ぱらりと脱いでいく。よしよしもっと脱げよ、速く脱げ。おっぱいまで脱いだ。薄手の綺麗なベールで覆ってチラチラしか見せない。くそったれ。速く見せろ。場内のお客様はやしたてる。じらしにじらしてやっと全部見せた。場内のお客様万雷の拍手。下も脱げ。下も脱ぎ始めた。ベールでちらちら隠してよく見えない。くそったれ。速く見せろ。場内のお客様はやしたてる。最後にぱっと見せて終わった。それだけか。もっとよく見せろ。場内のお客様はどよめく。

 えーこちらは、エロエッチケー。今布団用意している男だって、はやしたてれば服脱ぐよ。さぁ皆様、お姫様が登場します。拍手を持ってお迎えください。場内アナウンスがお客様をあおる。お姫様が登場すると場内は万雷の拍手で迎える。お姫様は、蚊帳の中の布団の上で何か腰をくねくねやっている。何やってんだ?。寝転がってなにかやっている。裸なのは分かるが寝転がってやっているからよく見えない。そのまま終わってしまった。何やってたんだ?。先輩は、にかにかしながらいい腰使いだったなというのだが意味が分からない。

 翌日、タクシーに乗って榛名湖に行った。馬車の遊覧が有ったが寒いから乗らなかった。榛名湖は全面氷結している。湖が氷っているのなんか生まれて初めて見た。湖上のスケート場でスケートをした。寒い。湖畔でコカコーラを買って、栓を開けたらその場で氷った。コカコーラ飲みたくても飲めない。榛名湖の寒さは半端じゃない。雪国の寒さとは異質のものだった。

 えーこちらは、エロエッチケー。もう一度行ってみたかったのだが、店が忙しくなってきて、旅行どころではなくなってきた。店の旅行はこれが最後になった。しかし、この旅行で酒の飲み方覚えた。大人の女の人はおかしなことをするなぁ?。

 そして、10年くらいしてから、山猿と後から店に入った五十嵐君とぼくの三人で、車に乗って紅葉見物、飯坂温泉に行った。五十嵐君は同じ中学校の出身で同い年。酒が飲めない。夕飯で山猿と芸者頼むか?。玉代聞いたら高いからやめた。酒飲みながら夕飯を食べる。下戸の五十嵐君も少しは飲む。下戸が一緒に行ってくれると車の運転してくれるから楽だ。

 山猿とぼくは芸者が駄目ならストリップに行くことを考えている。五十嵐君に少し余計目に飲ませた。夕飯が終わった。下戸の五十嵐君を連れてストリップ見に行った。五十嵐君は生まれて初めての経験だ。山猿とぼくは久しぶりのストリップだ。場内に入ったらうまい具合にかぶりつきの一番いいところが空いていた。かまうこっちゃない座っちゃえ。五十嵐君はこれから始まることがよく分からない。

 この頃になるとむんむんするような熱気がない。しかしお客様は結構入っている。場内アナウンスもお客様をあおらない。怪しげな音楽とともにお姫様の登場だ。かぶりつきに座っているぼくは、拍手して大声でお姫様をおだててはやし立てる。見ていたお客様は、ああいう風にやるのか?。一緒になってはやし立てる。おだてられたお姫様いい気分だ。よく見せる。

 お姫様綺麗ね。こっちへきてもっと見せてー。かぶりつきからはやし立てながらお願い(脅迫)する。お姫様来たけど、威勢のいい若い衆に何される分からないから半歩手前に止まってちらっと見せる。遠くて薄暗いからよく見えない。ぼくはかぶりつきの先頭の一番いいところに座っている。お姫様はかぶりつきの左右のお客様にサービスしながら、ぼくのところにやって来てステージに帰る。

 場内のお客様は大喜び。ああやって見せてもらうのか?。盛んにはやし立てる。年寄りには近づくのだが、ぼくの所に来ると半歩手前で止まってちらっ。何回も来てくれて、ぼくにはちらっちらっの回数をサービスしてくれるのだが半歩手前だ。回数来てくれるから場内のお客様は大喜びだ。こっちは半歩手前じゃよく見えない。間違ったことにして触らないからもっとこっちへ来い。くそったれ。

 棒きれ持って蛇たたいて遊んでいた山猿もこういうことになると勝手が違う。宿に帰ったら、おめえは一番いい場所で一人でいい思いしてたな、と山猿が言う。今頃言っても遅いよ。薄暗がりの中で山猿の忍者に勝った。

 旅の恥は掻き捨て、お姫様は見せるのが商売、面白くてなんぼの世界だ。場内のお客様を興奮のるつぼに巻き込んで、のりにのって見せる方が、見せるお姫様も面白い。場内のお客様を引きずり込んで、わんわんとはやしたてて木戸銭払った以上に楽しんで来た。かぶりつきに座ったウブな五十嵐君あっけに取られながらも十分に楽しんだ(飲めない酒飲ませておいた)。ああ面白かった(^-^)。

 


ヒグラシ

2008-02-09 09:38:48 | 月賦屋時代前期 仕事外

 就職して4ヶ月、お盆休みがある。お盆休みといっても20日過ぎの定休日の翌日を臨時休業にして2日間の休みだ。日曜日の仕事を終え、先輩と一緒にバスに乗って駅に行く。風呂に入っている間がないから着替えして直行だ。何せ店の閉店時間は9時。時刻表で汽車の時間を調べるなどということはしない。先輩の言うままに行って、駅で汽車が来るのを待つ。

 やがて汽車が来て乗り込んだ、夜行列車で帰る。しばらくしたら先輩がこっちへ来いという。言われるがままについて行ったら一等車に連れて行かれた。そこへ座れ。先輩が座ったけど、おれ金ないよ。いいから座れ、恐る恐る座った。一等車は居心地がいい。でもお金ないよ。不安だよ。先輩が早く寝ろという。金持ってないよ。不安だよ。いいから寝ろ、車掌が来たら寝たふりしろ。車掌に起こされて金払えと言われたら気が気ではない。寝られない。とうとう車掌さんが来た。寝たふりした。車掌さんは黙って通り過ぎた。ああびっくりした。その後は、一等車で寝て帰った。でもよく眠れない。

 田舎の駅には朝の4時か5時頃つく。まだバスは動いていない。歩いて家まで帰った。4ヶ月ぶりに帰る我が家。ただいまー。母が笑顔で迎えてくれた。母が作ってくれた朝飯を食べて、食器を流しに持って行った。ほう、おまえは食器を流しに持っていくのか?。うん店でそうしろと言われたから、毎回そうしているよ。これ今月分の仕送り。

 山を越えただけだが越後と上州では所得格差がある。たとえ他人の飯でも食う身体は正直だ。ぼくは就職してから数年で身長が10センチ以上伸びた。奉公に出した子供が休みをもらって帰って来る。飯を食わせて躾をして育ててくれて給金くれる。休みにはお土産持たせて帰してくれる。明治生まれの母には、ぼくが一回りたくましくなって見えたようだ。

 おまえ見慣れないシャツを着ているが買ったのか?。いや。洗濯している暇がなくて、普段着ているのが汚れていたので、先輩から借りてきた。借り着をしてきたのか?。うん。お昼過ぎ、母はぼくを街まで連れて行ってピカピカのホンコンシャツを2枚買ってくれた。お金を払うを母を見ながら、母ちゃんそんなにお金使って大丈夫かと心配だった。

 家は貧しい。中学3年生の時、ノートを使い終わっても新しいノート買ってくれと母に言えず、最初のページに戻って消しゴムで消してノートをつけていた。中学3年生の冬は、靴下を買ってくれ、上履きを買ってくれと言わないで、裸足で過ごした。雪の中素足で歩いたこともある。お姫様じゃない若様が風邪引いちゃうよ。ぼくは給料をもらうと母に仕送りしていた。ボーナスは全部母に送っていた。仕送りしなければならない事情があった。身体の弱い母は、ぼくにとって守るべき存在であって、スネかじる存在ではない。

 翌日、母が作ってくれた夕飯を早めに食べて、ピカピカのホンコンシャツ来て汽車に乗った。汽車に乗った時はまだ明るかった。行くにつれ日が暮れる。かなかなかなー。ヒグラシの鳴き声のなか汽車は南に進んで行く。やがて日がとっぷりと暮れてヒグラシの鳴き声も聞こえなくなった。

 夜遅く店についた。明日の仕事がある。布団を敷いて寝た。布団の中に入ったら今まで何もなかった、ぼくの身体に異変が起きた。その夜ぼくは涙で枕を濡らしてしまった。ヒグラシの鳴き声を聞くとあの夜のことが思い起こされる。かなかなかなー。

 


文通

2008-02-08 10:40:37 | 月賦屋時代前期 仕事外

 ぼくの小学校時代は平和そのものだった。中学校に入学したら、同じクラスの他の小学校出身の者からイジメを受けた。上級生が下級生に生意気だとやるのは聞いていたが、同じクラスの者から、生意気だ、態度が悪いとやられた。真面目に言われるままに注意していればよかった。しかし段々とイジメがエスカレートして行き、同じ小学校出身の者からもイジメを受けるようになった。

 学校の帰りに上級生から石ぶつけられたこともある。イジメは学校内と下校時にやられる。中学3年の時、同じクラスの同じ小学校出身の者からイジメられた。クラスの人達は知っていても何も言わない。とうとうイジメを受けているぼくの限度を越えた。

 教室の後ろの方で休み時間にイジメられていたのだが、イジメているやつに思い切りビンタくれた。ほっぺたに赤い手の跡が残った。音が聞こえているはずだが、クラスの人達は何も言わない。それ以来ぼくに対するイジメはなくなった。

 就職して店に行ったら、社長から手紙を3通渡された。差出人はすべて女。4月に入ってから就職したぼくより、手紙の方が早く店に着いていた。あの小猿め見かけによらずマセガキと思ったかどうかは知らない。ぼくがマセガキなんじゃなくて手紙くれた女の方がマセ女なんだからね。

 教室にいた時は話をしたことがない女子だったが、3人とも就職した女の子だ。1人は東京へ就職した女の子。残る2人は地元に就職した女の子だ。慣れない仕事をしながら真面目に学校へ行く。その合間を縫って返事を書く。こうして中学生の時に同じクラスだった女の子と文通が始まった。

 ぼくは、ミミズがのたくったような文字を書く。ぼくのミミズがのたくったような文字で書かれた集金手形で集金の人が集金して廻る。お客様は10ヶ月間ミミズがのたくったような文字を見なければならない。読まされる方はたまったもんじゃない。店の支配人から、どんなに達筆で上手い字を書いても読めなければ何もならない。下手でもいいから読める字を書けと言われた。ミミズがのたくっていても数書いていけば、読めるようになる。読めるようにはなったが、ぼくの悪筆は生涯直らない。

 その内に高校に進学した男子からも手紙が来るようになる。他国で働くぼくにとっては、かっての同級生との文通が唯一の楽しみになった。今と違って時間にせわしくない時代だ。月に1回くらいのやりとりで文通していた。手紙をもらうのは嬉しいのだが返事を書くのが大変だ。大変ながらも文通を続けていた。

 年が変わって昭和39年の夏頃。昼飯を食べようと椅子に座った時、グラグラっと来た。地震だ!。急いで店に飛び出した。店は狭い。整理ダンスの上に整理ダンスを乗せてある。食器戸棚の上に食器戸棚を乗せてある。洋服タンスの上には小さなベビーダンスを乗せてある。上に乗っかているものが落ちないように手で押さえた。しばらくして揺れはおさまった。幸い家具は倒れなかった。しかし倒れたら一番危ないところに身を置いていた。

 それが新潟地震だったのは後の報道で知った。長岡には被害はない。地震のことはすっかり忘れて仕事をしていた。1ヶ月くらいしたら母から手紙が来た。中に一通の手紙が入っていた。差出人は女の子。名前には心当たりがある。手紙を開けて読んだ。新潟地震で何か手伝いができることがないかという。

 中学3年生の時、NHKの基礎英語のテキストを買ってもらって、ラジオで聞いていた。テキストの読者投稿欄に、投稿した人の住所氏名が書いてあった。そこへいきなり文通しましょうと手紙を送ったけど返事がなかった人だ。高校へ進学し、新潟地震を知ってクラスの人達と相談して、ぼくに白羽の矢が刺さった。

 ご厚意はありがたいが、これこれしかじかで今は上州で仕事をしながら学校へ通っていると返事を出した。返事は来なかった。店の先輩方の間でも文通はブームになったことがある。文通用の雑誌を買って来てくれた。タダで読める。北海道の同じ年頃の女の子に目をつけて、文通しましょうと手紙を出したら返事がきた。

 時代は高度経済成長のいけいけどんどんに入ってくる。お互いに忙しくて手紙を書いている暇がない。就職した女の子との文通が途絶え初めてきた。北海道の女の子とは最後まで文通が続いた。修学旅行で函館に行って来たといって写真を送ってきた。ぽちゃりしたいい女だ。ぼくも悪ガキでない写真を送った。

 いかせん忙しくなって手紙を書いている暇がない。年賀状1回やりとりして、ぼくの方が年賀状出さなくなった。それから数年。思い出したように年賀状出したら、覚えていてくれてありがとう、と返事が来た。

 酒飲む時間はあるのだが、文通を再開しようと思っても、手紙書いている暇がない。ぽちゃりしたいい女だ、会って話をしたいのだが、北海道では遠すぎて駄目だ。ぼくは悪ガキを卒業して悪大人になっている。北海道でよかったね(^-^)。

 


食べくらべ

2008-02-05 09:37:20 | 月賦屋時代前期 仕事外

 店に入って2ヶ月後。6月の給料と一緒に初めてのボーナスをもらった。休みの日。ぼくが外から帰ったらテーブルの上に大きなバナナの房が載っている。そばに幸次君がいる。どうしたんだ?。食え。という。バナナはな、おれが子供の頃、親父が死んで仏壇に供えて日が経って黒くなったのを、少しもらって食べたことがあるんだけど、あれは美味かったな。幸次君と一緒にバナナを食べた。そうなんだよな。おれもバナナ腹いっぱい食べたいと思って、初めてボーナスもらったら買ってこようと思ってたんだ。一緒に食べようと思ってお前が帰って来るのを待っていたんだ。もう嫌というほどバナナを食った。

 今度はぼくがお返しだ。学校でコロッケ山ほど食うとうまいという話をを聞き込んできたので、揚げたてのコロッケ山ほど買ってきて、新聞紙にくるんであるコロッケにソースぶっかけて二人で食った。10個も食うと腹一杯になる。それでも二人でどっちがいっぱい食うか競争して食った。もう嫌というほどコロッケ食って両方ともギブアップ。

 正月は大きな鏡餅を店に飾る。7日過ぎると店先から引っ込める。今と違って防腐剤が入っていない。鏡餅の下にはうっすらとカビがはえている。11日なるとカビだらけ、それを炊事のおばさんが砕いてお昼にお汁粉を作ってくれた。幸次君と二人でどっちがいっぱい食うか食べくらべを始めた。餅はいっぱいある。10杯くらいおかわりすると腹がいっぱいになる。後は二人共意地で食っている。炊事のおばさん餅を焼くのが忙しい。とうとう二人ともギブアップ。餅は腹持ちがいい。その夜の夕飯は食べる気が起きなかった。しかし、残すと次から食わせてもらえない。ほうほうのていで夕飯食べた。

 紅顔の美少年二人は、まだ悪ガキになっていない。何年かした後、コロッケじゃもの足りない。肉屋に頼んで草鞋みたいなカツを揚げてもらって食ったことがある。コロッケと違って肉はうまい。草鞋みいたいなカツを1枚食うと腹一杯になった。それ以来休みの日は草鞋みたいなカツを何回も食べるようになった。給料が上がったから草鞋が食えたが、あの頃はまだ色気より食い気だった。