中学校一年生の時の遠足でバスに乗って開通したばかりの三国トンネルまで行った。長岡から名前ばかりが国道の17号線をバスに乗って南へ向かう。舗装してあるところもあるが、ほとんどが砂利道だった。
幕末河合継之介が命がけで冬の三国峠越えした時より少しはよくなっているが、基本的には河井継之介の時代と変わらない。バスは、山の中の三国街道を進み新しくできたばかりの三国トンネルに入った。
バスガイドさんが、ここが新潟県と群馬県の境です、というところを越えて先に向かう。国境の長いトンネルを抜けると、そこにはバラスを敷いた広い工事中の道路が待っていた。
バスから降りてあたりを眺める。といっても山の中だから何もない。バラスが敷いてあるだけという印象しか残っていない。就職してから、道路は東京に近い方から先によくなるということ体験したが、中学一年生の時の遠足はその一番最初の体験だったのかも知れない。
古くからある三国街道は、狭い街中を通っている。それとは別に国道を作る計画が進行していたようで、群馬県側から三国トンネルにいたる三国峠の道路は着々と工事が進んでいたようだ。車が普及していなかった三国トンネルが出来る前の冬場の陸上交通は、多分河井継之助の時代と対して変わらなかったのではないかと思う。
昭和38年の大豪雪では見たこともないような除雪車が来ていた。三国トンネルを通って関東地方から来たのか、それとも高崎から国道18号線で長野回りで8号線を経由してきたのか。大豪雪の渦中にいたぼくにはまったく分からない。ただ、長岡から小千谷に行く弾丸道路はまだできていなかったのは覚えている。
清水トンネルに遠足に行ってから8年、昭和38年の大豪雪から6年。ぼくは、ダットサンに乗って夏帰省することになった。ダットサンに乗って行けば汽車賃かからなくてすむ。ボス猿の実家まで持っていく荷物を積んで、それじゃ行くか。KO君が別の車で一緒に行く。
深夜の国道17号線をひた走りに走る。道路地図は持っていったが道路標識が出ているから大丈夫だ。猿ヶ京を通過していよいよ三国峠へ入った。しばらくのあいだコーナリングをお楽しみ下さい。なんてことは言ってられない初めての峠道は恐い。それも深夜だ。慎重にコーナリングしながら先に進む。
そして車は三国トンネルに突入。トンネルに入ってしばらくは明るかった照明が暗くなり長いトンネルの中を走っていく。中学一年生の遠足で見に来たトンネルを今こうやって逆側から入って走っていると思うと、あの当時考えも付かなかったことをやっていると思った。
トンネルを出るとなだらかな坂を下って行く。下った先に苗場スキー場ができていたかどうかは記憶にない。車はいくつか小さなトンネルを抜けて急にきついカーブにさしかかった。なんじゃこりゃ馬鹿にきついカーブだな。エンジンブレーキ掛けて慎重に降りて行った。
夜の山道とはいえトンネルの中と違って廻りは多少見える。越後湯沢に降りる坂を下って三国峠越えは終わった。後は道なりに北へ向かうだけである。田圃の中に新しく出来た道をがんがん飛ばして行く。
聞き覚えのある地名の道路標識をいくつも通過し、やがて小千谷から長岡への弾丸道路を走り始めた。昭和38年の大豪雪を終えた4月初め自転車に乗ってこの道を小千谷まで行ったことがある。あのでこぼこの砂利道がこの道かと思うと感慨深いものがある。
夜が白々と明けてきた頃家に着いた。ただいまー。かーちゃん少し寝かせてくれー。時間にして6~7時間だったか8時間くらいかかったか記憶が定かでないが、結構くたびれた。数時間寝て母が作ってくれた朝飯を食べて、ボス猿の実家に荷物を届けて来た。
さて、ちょっと行って来るか。ぼくはダットサンに乗って長生橋を越えた。おぼろげな記憶を頼りに何回か行ったり来たりしながら、ここだと場所を特定した。ぼくが生まれた頃は山の中だったそうだが、今は丘陵地の畑になっている。囲炉裏のある家があるはずだったのだが、家のあったあたりだけが草むらになっていた。
ぼくの記憶にはないが、ぼくはここで生まれ、2~3歳の頃ここで疫痢になって医者に注射を打ってもらった後、後はこの子の生命力次第だと言われたことがある。その後囲炉裏に落ちて火傷をしている。その火傷の痕は今でもある。あの時の囲炉裏がないかと思って来てみたのだが、時の流れに流されてしまった後だった。かなかなかなー。