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必殺始末人 村山集治

必殺始末人 村山集治
ムラヤマ・コンピュータのブログ

ダットサンで三国峠超え

2008-07-03 13:57:47 | 月賦屋時代前期 仕事外

 中学校一年生の時の遠足でバスに乗って開通したばかりの三国トンネルまで行った。長岡から名前ばかりが国道の17号線をバスに乗って南へ向かう。舗装してあるところもあるが、ほとんどが砂利道だった。

 幕末河合継之介が命がけで冬の三国峠越えした時より少しはよくなっているが、基本的には河井継之介の時代と変わらない。バスは、山の中の三国街道を進み新しくできたばかりの三国トンネルに入った。

 バスガイドさんが、ここが新潟県と群馬県の境です、というところを越えて先に向かう。国境の長いトンネルを抜けると、そこにはバラスを敷いた広い工事中の道路が待っていた。

 バスから降りてあたりを眺める。といっても山の中だから何もない。バラスが敷いてあるだけという印象しか残っていない。就職してから、道路は東京に近い方から先によくなるということ体験したが、中学一年生の時の遠足はその一番最初の体験だったのかも知れない。

 古くからある三国街道は、狭い街中を通っている。それとは別に国道を作る計画が進行していたようで、群馬県側から三国トンネルにいたる三国峠の道路は着々と工事が進んでいたようだ。車が普及していなかった三国トンネルが出来る前の冬場の陸上交通は、多分河井継之助の時代と対して変わらなかったのではないかと思う。

 昭和38年の大豪雪では見たこともないような除雪車が来ていた。三国トンネルを通って関東地方から来たのか、それとも高崎から国道18号線で長野回りで8号線を経由してきたのか。大豪雪の渦中にいたぼくにはまったく分からない。ただ、長岡から小千谷に行く弾丸道路はまだできていなかったのは覚えている。

 清水トンネルに遠足に行ってから8年、昭和38年の大豪雪から6年。ぼくは、ダットサンに乗って夏帰省することになった。ダットサンに乗って行けば汽車賃かからなくてすむ。ボス猿の実家まで持っていく荷物を積んで、それじゃ行くか。KO君が別の車で一緒に行く。

 深夜の国道17号線をひた走りに走る。道路地図は持っていったが道路標識が出ているから大丈夫だ。猿ヶ京を通過していよいよ三国峠へ入った。しばらくのあいだコーナリングをお楽しみ下さい。なんてことは言ってられない初めての峠道は恐い。それも深夜だ。慎重にコーナリングしながら先に進む。

 そして車は三国トンネルに突入。トンネルに入ってしばらくは明るかった照明が暗くなり長いトンネルの中を走っていく。中学一年生の遠足で見に来たトンネルを今こうやって逆側から入って走っていると思うと、あの当時考えも付かなかったことをやっていると思った。

 トンネルを出るとなだらかな坂を下って行く。下った先に苗場スキー場ができていたかどうかは記憶にない。車はいくつか小さなトンネルを抜けて急にきついカーブにさしかかった。なんじゃこりゃ馬鹿にきついカーブだな。エンジンブレーキ掛けて慎重に降りて行った。

 夜の山道とはいえトンネルの中と違って廻りは多少見える。越後湯沢に降りる坂を下って三国峠越えは終わった。後は道なりに北へ向かうだけである。田圃の中に新しく出来た道をがんがん飛ばして行く。

 聞き覚えのある地名の道路標識をいくつも通過し、やがて小千谷から長岡への弾丸道路を走り始めた。昭和38年の大豪雪を終えた4月初め自転車に乗ってこの道を小千谷まで行ったことがある。あのでこぼこの砂利道がこの道かと思うと感慨深いものがある。

 夜が白々と明けてきた頃家に着いた。ただいまー。かーちゃん少し寝かせてくれー。時間にして6~7時間だったか8時間くらいかかったか記憶が定かでないが、結構くたびれた。数時間寝て母が作ってくれた朝飯を食べて、ボス猿の実家に荷物を届けて来た。

 さて、ちょっと行って来るか。ぼくはダットサンに乗って長生橋を越えた。おぼろげな記憶を頼りに何回か行ったり来たりしながら、ここだと場所を特定した。ぼくが生まれた頃は山の中だったそうだが、今は丘陵地の畑になっている。囲炉裏のある家があるはずだったのだが、家のあったあたりだけが草むらになっていた。

 ぼくの記憶にはないが、ぼくはここで生まれ、2~3歳の頃ここで疫痢になって医者に注射を打ってもらった後、後はこの子の生命力次第だと言われたことがある。その後囲炉裏に落ちて火傷をしている。その火傷の痕は今でもある。あの時の囲炉裏がないかと思って来てみたのだが、時の流れに流されてしまった後だった。かなかなかなー。


鍵を作っちゃえ

2008-06-28 11:05:51 | 月賦屋時代前期 仕事外

 店の裏の増築が終わった後、いつ頃だったか記憶が定かでないが、店と二階に警報機のセンサーが配線された。閉店後警報機のスイッチが入れた状態で鍵の掛かっているところを無理矢理開けようとする警報機が鳴る。

 警報機そのものはそれで良いのだが、何せ朝九時の開店ギリギリまで寝ているので、開店前に店に用があって裏口から入って来た人が、二階に上がって声をかけてくれればいいのに鍵がかっているドアを開けようとする警報機が鳴る。

 あわてて飛び起きて下に降りていくと、鍵のかかっているドアを開けようとしている人がいる。お客様だと怒る訳にいかない。と、言って店の鍵がかかっているので応対もできない。警報機付けるのはいいけど、店の鍵をかけられたままではどうしようもない。寝ている時にやられるとうるさくて仕方がない。

 そこで一計を案じ、泥棒さんが使う金具をちょこちょこっと作って、黒板の下に忍ばせておいた。本当はこういうことをしてはいけないのだが、火事や緊急の場合に店の鍵を開けることができないで、店の人間が指をくわえて見ているだけというのもよくない訳で、そういう場合に備えて作っておいた訳だ。

 シリンダー錠だとプロが使う工具がないと駄目だが南京錠だったから比較的簡単に腕力で作れた。どうやって作ったかは内緒。南京錠の鍵穴に差し込んでこの辺に当たりがあるはずだが、よいしょっと。カチャリ。うんうまい具合に開いた。ちょっとヤスリをかけておくか。

 休みの日や閉店後に店に来られたお客様に対応するため、この工具は何回か役に立った。警報機のセンサーは、細いリード線が切れたりして、その後の補修をしなかったので、その内に警報機の役割を果たさなくなった。朝起こされなくなってよかった。

 さて今度は悪戯だ。店の裏に道具置き場がある。そこに半田と半田ごてがある。店の仕事でペースト付けて半田付けをする機会はそれほど多くないのだが、休みの日に練習をしたことがある。

 そして、ある日の休みの日に車庫に行ってダットサンのキーを差し込む所をぐるっと廻したらうまい具合に廻って外れた。どんな具合になっているんだと押し込んで下へ出してみたら、線が三本だったか繋がっていた。

 キーは持っていない。店から持ってきたリード線をこっちの線とあっちの線とつなげてみたらセルモータが廻った。エンジンかかったから線を外してと、しめしめこことここを繋げばセルモータが廻るのか。もう一回やってみよう。なるほど間違いないな。その日はそれで終わり。

 休みが終わって仕事の途中に電気屋さんからプッシュ式スイッチを買ってきた。オスとメスのプラグは店にある。プッシュ式スイッチに電気のコードを入れて半田付けをして反対側をオスのプラグに接続。よーし。これで用意周到準備万端整った。あとは休みの日が来るのを待つだけだ。

 そして次の休みの日、ダットサンからキーを差し込む部分を取り外して店に持ち帰った。どことどこを繋ぐとセルモーターが廻るか確認してあったので、線のコネクターの下部に電気のコード半田付けして、反対側をメスのプラグに接続。よーしこれでうまくいくはずだ。

 ダットサンに戻って外してきたものを元に戻した。この時点でメスのプラグが付いている。さてと、ポケットから取り出したオスのプラグを差し込んで、プッシュスイッチを押した。グルルル。よーし、うまくエンジンがかかった。エンジン止めるのはどうしたんだったかな。忘れた。

 さて今日はこれで短大まで行ってくるか。短大一年生の時は真面目に電車で通学していたのだが、行き帰りに駅まで歩くのが面倒くさい。免許は125ccまでしか乗れないのだが、KO君が借りたままになっていた250ccのバイクがあったので、夏はそれに乗って短大まで通学していた。冬はバイクだと寒い。

 冬は、ダットサンをちょこっと借りて学校へ行っていた。毎週やるとばれるから、ばれない範囲でやっていた。これは、今初めてばらすことだから多分誰も知らなかったことだと思う。でもよい子の皆さんはこういう事はしてはいけないよ。今の車はこういうことができないように出来ているはずだからね。かなかなかなー


戦争中の寄宿先

2008-06-19 08:53:08 | 月賦屋時代前期 仕事外

 昭和四十二年三月。ぼくは、伊商の定時制を卒業して推薦入学で関東短大へ行くことになった。願書を学校まで持っていかないといけないのだが場所がよく分からないと支配人に言ったら、今度の休みに俺が乗せて行ってやると言われた。ありがたくお言葉に甘えることにした。

 館林は五万分の一の地図を四枚貼り合わせたのでは出て来ない。二階の事務所の壁に貼ってある作戦本部の地図で位置を確認。どうやら境県道を真っ直ぐいけば近くに出そうだ。どこをどう廻ったのかよく覚えていないが、とにかく学校にたどり着いた。

 受付でこれこれしかじかと話をして願書と入学金を払ってきた。館林の本校に行ったのは、これ以外には体育の授業と卒業式だけだったと思う。本校で入学金払って、その後はずっと太田分校で講義を受けた。

 推薦入学というのは入学金払えば入学させてもらえるのだから誠に便利なものだとつくづく思った。何せチョウテン先生の英語の授業は、NELSON提督だったから、入学試験受けてたら絶対に受からなかったと思う。その前に入学試験受けるというような無謀なことはしなかったと思う。

 さて話はがらっと変わる。ぼくが車の運転免許を取ったのは短大に入学してから一ヶ月後だ。その前に山猿忍者達と一緒に日光に行ってきた話を支配人にしていた。その話の中に宇都宮という地名が出ていた。

 今度の休みに宇都宮に行くからお前も一緒についてこいと支配人に言われた。宇都宮なら日光に行く時に近くを通ったから方向は分かるけど何しに行くのだろうと思いながら一緒に乗って行った。

 支配人が車の中で、少年航空兵だった時に宇都宮の民家に寄宿して訓練を受けていたことを話してくれた。そして、これからその時にお世話になった寄宿先を訪ねて行くという。

 戦争が終わって22年。戦後の混乱期が終わって、やっと支配人は訪ねて行くことができるようになった。この当たりの感慨は戦争を体験した人でないと分からないものだと思う。宇都宮について、飛行場があった所に行ってみた。飛行場の面影はなくあたり一面畑になっていた。

 支配人は、古い記憶たどって昔お世話になった家にたどり着いた。戦争中に寄宿でお世話になったご夫婦はすでに他界しており、支配人と同じ世代のご夫婦が農業をやっておられた。同じ屋根の下で過ごしたから、お互いに顔を知っている。おー。よく来たね。

 お互いに懐かしい。しかし、戦後生まれのぼくには分からない世界だ。30分程話をした後、宇都宮を後にして帰った。支配人はこの程度の為にわざわざ宇都宮まで来たのかとその時は不思議だった。

 数年後これと同じ体験を店のお客様がした。お客様から戦争中に伊勢崎の工場で女子挺身隊として働いた時に寄宿した家があのあたりにあったのだが、今は家がなくてどこへ行ったか分からないという話を聞いた。

 お客様があのあたりといった所にぼくがいつも買い物に行く店があったので、買い物ついでにその話をしたら、そこの親父さんが、戦争中のことをよく知っていて、その家も知っているという。昔から商売をしている所というのはこういう時に役に立つもんだね。

 その家はどこそこへ引っ越していると教えてくれた。店に帰って電話帳めくってみたらその町名でその名字の家は一軒だけしかない。それをメモしてお客様の所に行った時に渡してきた。

 ぼくはもうそのことは忘れて仕事をしていた。ある日いつものように配達から帰ったら、お前が以前探した家に今日お客様が訪ねて行って来たそうだ。さっき家を探してくれてありがとうございました。と言ってお礼に来たぞ、と支配人から言われた。

 ぼくは、あー、会えたのかそれは良かったなと思った。ぼくにすれば、単にいつも買い物に行く店で世間話ついでにしたら、たまたま分かったことなんだけど、お客様にすれば戦争で離ればなれになって、いつか会いたいと思って消息を探していたことなんだと思う。

 支配人とお客様、男と女、互いに立場は異なっても戦争中に寄宿でお世話になった家というのは、戦後生まれのぼくらには分からないものがあるのかも知れない。かなかなかなー。


銭湯

2008-06-12 09:18:24 | 月賦屋時代前期 仕事外

 この前アップした火事で一番近くの銭湯が焼けてしまった。毎日行っているところがある日突然無くなると次の日から困る。別の銭湯を探さなければならない。今日はこっちの銭湯、明日はあっちの銭湯というようなことはしない。歩いて行くから近い所がよい。銭湯は、記憶にあるだけでも四件の銭湯を渡り歩いているが、火事の後は、ホルモン焼き屋さんの先にある銭湯に行き始めと思う。

 銭湯へ行く時間帯は同じ、そうすると銭湯に集まる人も大体同じになる。おうお前さんもこっちへ来たか。前の銭湯で一緒だった人と顔を合わせることになる。前々からそこの銭湯に来ている人と顔なじみになる。

 裸の付き合いではないが、いろいろな人と顔見知りになる。あの時代、夜の九時半頃というとぼくのような若い年齢の者はもう銭湯には来ていない。自然年齢が上の人と顔なじみになる。店の名前を言う訳ではないし、自分の名前を言う訳ではないが、ああ、あの当たりの人だなとお互いに分かる。

 夜の九時半頃に町場の銭湯に来る人と言うのは大体商店関係の人が多い。店を閉めて多少の片づけ事をしてというと大体九時半頃になる。たわいの無いことを話しながら風呂に入って身体を洗って出る。ただそれだけの中で色々気付くことがある。

 袋に塩を入れて持ってくるおじさんがいた。何をするんだろうと見ていたら、風呂から上がったら身体に塩を擦りこんで洗っていた。ある時思い切って何でそんなことをするんですか?、と、聞いたことがある。こうすると身体が温まるという。その時はふーんと聞いていた。今考えると温泉の中の塩化物泉を人工的にやっていたのだと思う。

 ぼくも冷え性だから試してみようと思っているが、風呂に入ると忘れてしまう。銭湯は、お湯がたっぷりなので、人間が湯に入っても湯全体の湯温がそれほど下がらない。だから身体が温まる。家庭の内風呂だと湯温が同じでも、湯の量が少ないので身体を入れると湯温が下がってしまい身体がそれほど温まらない。と、いうことに気付いたのは、30歳過ぎてからだ。それまでの期間はずっと銭湯に行っていたから気が付かなかった。

 話が飛んじゃった。銭湯に来る人の中に野球が好きな人がいた。ぼくは野球はあまり好きじゃない。IK君が一緒になって話をしている。ナイターの話をしていたと思ったら、今度の休みに一緒にナイター見に行かないかと言う。

 後でIK君に、休みの日だから往きは大丈夫だけど、帰りはどうするんだ?。と、聞いたら帰りはギリギリ帰ってこれる電車があるという。よーく調べたなと思った。お前行くのか?。いやおれは行かない。そうか、おれでもそういう無茶なやり方で帰って来ると次の日差し支えるから行かないな。

 伊勢崎から東京へ出るには二つのルートがある。一つは伊勢崎から両毛線に乗って高崎で上越線に乗り換えるルート。もう一つは、伊勢崎から路線バスに乗って本庄に出て、本庄から上越線に乗るルート。伊勢崎から東京方面へ行く場合は、路線バスに乗って本庄に出る方が時間的に速い。

 往きは、時間があるからどのルートで行ってもいいのだが、帰りは、本庄から路線バスに乗って伊勢崎まで帰って来るルートを使うことになる。問題は終バスに間に合うかどうかだが、後楽園球場でナイター見た後終バスにギリギリ間に合うように帰って来るという話だった。

 終バスに乗り遅れたらタクシーで帰ってこないといけない。まだ上越新幹線ができていない時代に、上州から東京までナイター見に行くとなると決死(大袈裟)の覚悟が必要だった。そのおじさんは、何回か一人でナイターを見に行って来てその話を聞かせてくれた。

 風呂から上がると冷たい牛乳を1本飲む。身支度をしてしている人が、晒しを腰に巻いていた。へー。ああいうふうにして晒しをまくのか。東映のヤクザ映画で高倉健が腰に巻いた晒しにドスをさして…というのは、映画で見たが、なるほど晒しというのはそうやって巻くのか思った。

 ぼくは、冷え性だと自覚したのは30歳過ぎてからだが、20歳くらいの時には、なんとなく腹巻きをするようになっていた。別に腰が冷えるという感覚はなかったのだが、やっていても違和感がなかったから外さなかった。最初は晒しではなかったのだが、その内に晒しを腹に巻くようになった。

 普段行く銭湯が休みの日は別の銭湯に行った。普段行く銭湯と同じ側の戸を開けたら、女湯でびっくりしたことがある。もう少しゆっくり見ればよかったなと思ったのは内緒(^-^)。銭湯に行くのが夜の九時半頃ぎ。帰りは赤提灯がぶら下がっている所を通るのだがのだが、懐具合と相談しながら店に帰っていた。かなかなかなー。


蚊豚と昼寝

2008-06-10 13:34:01 | 月賦屋時代前期 仕事外

 店の二階で寝泊まりするようになったのが昭和39年だったと思う。奥の八畳間に山猿忍者、KO君、ぼくの三人が川の字になって寝る。もう一人いたような気がするけど記憶が定かでない。三人とも育ち盛りだから寝相がよくない。布団被っているうちはいいのだが、夏になると掛け布団無しで寝る。

 上州の夏は暑い。蚊もいる。下宿にいたときは蚊帳を吊って寝ていたが、街中は市役所が夜中に消毒車を廻してくれるから蚊帳を吊るほどでもない。蚊取り線香をつけて夏の夜を過ごす。蚊帳から解放された。

 蚊取り線香が入っている缶の蓋の上に蚊取り線香をセットしてマッチで火を付ける。蚊取り線香というのは見ていると目が回る。その内に誰かが蚊豚を買って来た。豚が大きな口をあけて胴体の中に蚊取り線香をセットするというやつだ。安物の焼き物なんだが愛嬌のある格好をしている。

 ある夏の朝。ぼくは、六時頃目が覚めてトイレに行った。隣の布団を見るとKO君が六時の方向を向いて、つまり180度ひっくり返って寝ていた。おかしなことをするなと思いながら眠い目をこすりながら小便して帰ってまた寝た。

 開店ギリギリまで寝ているぼくらにとっては、朝六時は真夜中だ。その内に胸の上が重いのに気が付いて寝ぼけ眼で見てみたらKO君の頭がぼくの胸の上にあった。眠いのが先だから片手でどけてまた寝た。

 いつもの開店ギリギリタイムにみんな一斉に起きたらKO君の頭は、ちゃんと枕の上にあった。おめー一晩の内に布団の上を360度回転したぞ。と、言ったら、KO君は、おら寝てたからそんなの知らないと言ってた。まぁ、育ち盛りだからあまり人のことは言えない。

 そして、店を開けて仕事をしていて昼飯食べたら、ボス猿が昼寝をしてもいいと言った。昼間の店の二階は暑いが、敷き布団敷いて寝た。時間が来たので起きた。あーよく寝た。歯を磨いて顔を洗って仕事を始めた。

 東京の大きな月賦屋さんがヨーロッパに視察に行ったら向こうでは昼寝の習慣があって、昼寝をすると仕事の効率がよいということで、それを日本でも取り入れようと動きがあって、ボス猿が店でそれをやってみたのだが、開店ギリギリまで寝ている連中に昼寝をさせても駄目だわな。

 戦後二十年くらいしかたっていない段階では、いろいろなことを手探りで行なっている。今では金さえあれば海外旅行に行けるが、外貨規制があった当時、海外に視察に行って見聞してきたことは、先進的なハイカラなことだ。

 結局昼寝しても仕事の効率は上がらないということが分かって、昼寝は少しの期間で終わった。東京オリンピックが終わって高度経済成長のいけいけどんどんが始まってきた。衣食住、あらゆる業種において社会全体の欲求が牙を剥いて襲いかかってくる。のんびりと昼寝なんかしていられない。

 そして夏が終わり出番が無くなった蚊豚が部屋の隅に鎮座している。中には蚊取り線香の燃えがらが山となっている。部屋の大掃除は、大体コタツを出す時にやる。その時に蚊豚も蚊取り線香の燃えがらを出して、ヤニで汚れた内部をたわしに石鹸付けてごしごし洗う。安物の焼き物なので注意して洗わないと割れてしまう。そして新聞紙に包まれて保管される。

 毎年夏になると蚊豚が出てきて蚊取り線香がともされていたのだが、電気マット式の蚊取り機が発売されると出番がなくなった。テレビでキンチョウーの夏、日本の夏。というCMが流され始めた頃かな。

 渦巻き式の蚊取り線香は今でも売られているが、蚊豚を見かけない。なかなか愛嬌のある形だったが昭和四十八年のオイルショック以降ああいう安物は作られなくなった。その前に使われなくなった。かなかなかなー。


おい、飲みに行くぞ

2008-06-09 12:56:54 | 月賦屋時代前期 仕事外

 仕事が終わった後、先輩から、おい、飲みに行くぞと言われてついて行った。行った先が飲みねー、食いねー、寿司食いねーの寿司屋なんだが、寿司を食べないで酒飲んで帰ってきた。中学三年の冬休みにアルバイトに来た時にボス猿の家で寿司桶に入った寿司をご馳走になったが、行った店では寿司桶に入った寿司を見なかったので、最初は寿司屋だと気が付かなかった。

 何事も最初が肝心。焼鳥屋で軽く一杯というのもあるのだが、店の先輩は、いきなり寿司屋に連れていってくれた。寿司屋のカウンターで酒を飲むのがちと粋な酒の飲み方だということを知らないで酒飲んで、酒というのはこういう風に飲むもんだ思ってしまった。

 店のお客様の中には焼鳥屋さんもあっが、店の先輩は焼鳥屋さんには連れて行かなかった。毎日飲みに行く訳ではない。十日に一回とか月に二回とかその位のペースで、おい、飲みに行くぞと言われてついて行った。最初は先輩からおごってもらっていたのだが、三回目くらいになると一緒について行った山猿忍者が今日はおれが払うと言って払った。

 次ぎに、おい、飲みに行くぞと言われてついて行った時は、自然の成り行きとしてKO君かぼくが払う番になる。先輩が二・三回払った後に山猿忍者が払い、その後KO君とぼくが払うようなローティションが出来た。ワリカンというのは無かった。飲みに行った時は誰かが払うか、自分が払うかどっちかだった。

 三つ子の魂百までではないが、十六・七でそういうもんだで覚えてしまったからワリカンと言われた時は何のことだろうと思ったことがある。ワリカンはやってみればあれはあれでいいやり方だと思うが、ぼくはあまりワリカンで酒を飲んだことがない。一緒に行った場合は、大体金払ってもらって飲んでいる方が多い。(^-^)

 話がそれた。寿司屋だ。この寿司屋にはその後もよく行くようになる。寿司屋の板さんは、カウンターに座ったぼくらに、小さなまな板に下駄の足を付けたようなやつを出して、その上につまみを出してくれていた。カウンターの別の席に座ったお客様が寿司を頼んだ場合は、小さなまな板に下駄の足を付けたようなものの上に握った寿司を二つ出していた。

 この小さなまな板に下駄の足をつけたようなものが寿司桶だったらすぐに分かったのだが、ボス猿の所で面接の時にご馳走になった寿司とは寿司は寿司でも似て非なるものだなと思っていた。

 別のお客様がお土産にと言うと、握った寿司を折りに入れて渡していた。人様が頼んだものをしげしげと見る訳にはいかないからちらっと見る程度だがやっぱりこれは、ボス猿の所でご馳走になった寿司とは別のものだなと思っていた。

 何回か行く内に、出前に行く寿司を握っている現場を目撃した。寿司桶だ。寿司桶というのは出前で持って行く寿司を入れる入れ物なんだ。ああやっぱりここは、ボス猿の所で面接の時にご馳走になった寿司と同じ寿司を握って出す寿司屋さんなんだとやっと気が付いた。

 知らないということは、罪なことだというか、まぁこんなもんですな。それにしても金も無いのに寿司屋で酒を飲むのを覚えるとは、知らないにも程があるというか、まぁこの寿司屋さんには次第に足を運ぶ回数が増えて行った。

 月賦屋時代中期になると銭湯の帰りに毎晩この寿司屋さんに顔を出さないと一日が終わらなくなるのであるが、今は月賦屋時代の前期を書いているので、その話はちょっとおいておく。

 おい、酒飲みにいくぞ、と言って誘ってくれた店の先輩が結婚し、お誘いが掛からなくなった頃、銭湯からちょっと行った先にホルモン焼き屋さんができた。IK君は下戸。酒は飲めない。タバコも吸わない。品行方正でありまして、ちとそういう面では付き合いがたい。

 それでも、銭湯の帰りに一緒にホルモン焼き屋に行く。IK君は酒を飲まないから自然別のグリルでじゅうじゅうやる。ぼくは向かい側の別のグリルでホルモン焼きを焼きながら酒をちびりちびりと飲む。

 給料貰ってお金に余裕がある時は、銭湯の帰りに、IK君におれ今日は寿司屋に行くわと言って寿司屋に行くこともあった。毎晩銭湯の帰りにホルモン焼き屋さんや寿司屋には行けない。お金と相談しながらいろいろなことを見聞して上州での生活に慣れていった。この前アップした火事の話は、その頃の話だ。かなかなかなー。


休みの日の遊び

2008-06-07 08:24:15 | 月賦屋時代前期 仕事外

 後手後手になっているが、店の従業員も増えている。男だけで野球チームができる人数になった。ケチなボス猿に黙って野球道具一式揃えた。ぼくが揃えたんではないよ。ぼくが気が付いた時は請求書を持って来てたんだ。ぼくは、ケチなボス猿から金を払ってもらう係りになってしまった。ボス猿の思考パターンが分かってきている。

 恐る恐るも大胆無礼に、社長これ福利厚生費でお願いします。ケチなボス猿黙って払ってくれた。まあー、そのー、ボス猿に聞こえるように、飯食いながら、野球やろう、野球やろう、野球やるにも道具がない、道具がないと、店のみんなと一緒に、騒いでいたんだけね。

 金払ってもらえばこっちのもんだ。ぼくは、それを金銭出納帳に付ける。定休日になると店の男の人達全員が野球場に集まって野球の練習を始める。定休日は月曜日、野球場は空いている。貸してくださいという断りもなく勝手に練習を始めた。バッター交代で野球をやる。

 交代するにはホームと守備位置のあいだを行ったり来たりしなければならない。その他にホームと外野のあいだを連絡に行ったり来たりしなければならない。ぼくは、連絡役。走って行ってはくたびれる。バイクに乗って芝生の上を走って行く。三回くらいバイクで行ったり来たりしたら、とうとう野球場の管理人さんにバイクで芝生の上を走らないでくれと言われた。無断で使っているのは怒られない。怒られなければこっちのもんだ。何回も無断で野球の練習しに行った。もうバイクには乗らない。当時野球をやった野球場は、今遊園地になっている。

 田舎には、江戸時代に作られた幅四間の大きな農業用水がある。信濃川から水を引いているから魚が一杯いる。秋になって水位が下がるとハユ(上州ではクキと言う。全国的にはウグイと言うようだ)がわんさかいて、ハユ捕りの絶好のポイントになる。

 どこら当たりにナマズがいるか、どこら当たりに鯉がいるか。護岸の石組みに手を突っ込むと必ずといっていいほど鮒がいた。夏場の水量の多い時は、魚がいそうな場所にもぐって素手で捕っていた。川の流れが速くてなかなかうまく捕れない。家は貧しい。捕った魚がそのまま食料になった。

 ぼくは、中学生の時に友達と一緒にこの川を4キロくらい歩いて遡って、泳いで川下りをしたことがある。信濃川の本流は遊泳禁止だったが、この川は泳いでもOKだった。夏休みになるとこの川に近所の子供達が集まって水泳をする。水泳が上達するとどっちが長く潜っていられるか競争をする。そして素手で魚捕りを競い始める。

 その他に川幅が一間位の魚が一杯いる川がある。これも古い時代に作られた農業用水路だ。こちらの川は魚釣りのポイントが一杯ある。水量が少なくなったら、中に入って網を置いて上流からごそごそしながら魚を網に追い込んで捕る。

 大人の人達は、田植えが終わると、カーバイトランプ持って行って、田圃の中に紛れ込んでいる鯉をノコギリで捕まえる。投網を持っている人は、ぼくらを連れて投網を打ちに行く。ぼくらは一緒に付いて行って分け前をもらう。魚捕りや川遊びは、ぼくの得意なジャンルだ。年代が違ってもボス猿や支配人も子供の頃、同じことをやっていた。

 市内に新しいプールが出来た。早速支配人誘って行って見た。支配人一回だけプールに入って泳いだら日向ぼっこ始めた。いくら誘ってもプールに入ろうとしない。ぼくらは元気がいい。川と違ってプールなら深みにはまって溺れることはない。

 一丁どの位潜水できるかやってんべ。店の人達と潜水の距離競走をした。ぼくは、25メートルを折り返した後に、ぷかっと浮いた。他の人達より勝った。川と違ってプールは流れがないから面白くない。支配人は、プールから帰ると大急ぎで風呂に入って身体を温めたそうだ。その気持ち今のぼくにはよく分かる。

 冷えは万病のもと。身体を冷やさないようにした方がいい。

 そして、1・2年後、店の人達と一緒に利根川に泳ぎに行った。利根川の本流は、流れが速くて真ん中に深みがあって面白い。一緒に行った人達がいっせいに川の中に入る。ぼくも一緒になって入る。真ん中は流れが速くて面白い。足が届かないからスリル満点だ。

 ぼくは、そこでぷくっと身体を沈めた。後は川の流れに身を任せれば勝手に流れて行く、ちょっと漕いで先に行った。ぼくにすれば大した距離ではないが、ぷくっと浮き上がった。下に足がつく所でそれを見ていた女房子供がいるYZさんが、ぼくが溺れたのではないかと驚いて駆け寄って来た。おい、大丈夫か?。

 うん、大丈夫だよ。こっちの方が面白いよ。ぼくは、YZさんの手を掴んで足が届かない方に引っ張って行った。YZさんは金槌。足が届かないと恐くて仕方がない。川の中で手を握ったら、握った方の勝ち。女房子供がいるYZさんを川の深みまで連れてきて、水泳の練習をさせてやった。どうやって救助するかは心得ている。後ろに廻って首を掴んで呼吸を確保しながら浅瀬まで泳いで連れてきた。大した時間や距離ではない。大人でも水の中なら軽い。

 その後YZさんは、どう誘っても深みまで来なくなった。絶対に腰から下の浅い所で手をふりほどく。それでは水泳の練習にならない。手を握って引っ張って行くのだが、YZさんの方が力が強い、女房子供と自分の命がかかっている。絶対に腰から下の浅い所で手をふりほどく。ぼくは、溺れても助ける術を知っているから大丈夫だと言っても来ない。

 それでも、その後、休みになると泳ぐ場所を変えながら何回も利根川に泳ぎに行った。YZさんも一緒にくるのだが、絶対に深い所に来ない。なんとか騙して深みに誘おうと思っても乗ってこない。手を握ろうと思っても握らせてくれない。ぼくは深い所、YZさんは浅いところで川遊びをした。

 今から考えると、月賦屋の事務屋は随分と荒っぽいことをしたようだ。かなかなかなー。


火事だー!

2008-06-06 08:30:30 | 月賦屋時代前期 仕事外

 IK君が店に入ってきたのは、昭和42年春。ぼくが伊商の定時制を卒業して関東短大の二部に進学した年だ。IK君は同じ中学校の同期の卒業。中学校の時の卒業記念アルバムを引っ張り出してきて、どんな顔したやつだったかなと思い出していた。中学校は八組まであったので、一年、二年で一緒にならないとその他大勢になってしまって分からない。

 多分昭和43年の初冬だったように記憶している。銭湯から帰って店の二階でテレビを見ていたら火事を知らせる消防署のサイレンが鳴った。どこが火事なんだろうと急いで店の裏の事務所に行ったら、事務所の横の廊下の窓から火の手が見えた。

 すぐ近くだ。店の奥からサンダル履いて出たけど構わないこのまま行っちゃえIK君と二人そのまま外に飛び出した。まだ消防自動車は来ていない。現場へ行く途中で新婚ほやほやの若夫婦が、下着一枚でこちらにかけてくるのとすれ違った。

 火はさっき風呂に入った銭湯の当たりから出て類焼し始めている。ぼくは、店でテレビのアンテナなどを買う電気屋さんの所に行った。電気屋のYさんが気が狂ったように表からシャッターを開けようとしていた。中からでなければ開かないけどなと思っていたけど、その内に開いた。

 それ行け。品物出すぞ。ホルモン焼き屋の親父が一番最初に飛び込んだ。続いてぼくが飛び込んだ。ホルモン焼き屋の親父がトースター持ってきたので、安い物はどうでもいい、値段の高いものを出すんだ。それを洗濯機の中に入れてこっちへ来い。火事場になると年齢が上だとかどうとか構ってられない。とにかく値段の高い商品を外に出して火事から守らなければならない。

 一番奥に陳列してある冷蔵庫を斜めにして、おい、そっちを持ってくれ。二人で冷蔵庫を出していく頃には別の人達がやってきて次々と商品を外に出す。隣がすでに燃えている。こちらに延焼するのは時間の問題だ。電気屋さんの向かい側にちょっとした空き地がある。そこに商品を運び出した。

 もう少し運び出したかったのだが、火事で店内の照明が消えた。真っ暗では素人は手が出せない。電気屋さんを後にして火が出ている南に向かった。路地がある。火は路地に面した家の裏の家まで来ている。消防が早いか、火が廻るのが早いか。路地に面している家に上がって、タンスを外に出した。

 火事場の馬鹿力とはよくいったもんだ。空っぽのタンスなら普段扱っているけど、中身の入っているタンスは重い。それでも一人で外に出した。向かい側に小さなお店があるので、そのお店の中に入れさせてもらった。路地一つだが防火帯になって消防の方が間に合うだろうと思ったが、お店の人にとってもすぐそこに火がせまっており、自分の所に火が廻ってくるのではないかと気が気ではなかったと思う。

 IK君は別の家に手伝いに行っていた。そして、火事が鎮火した。よかった。結局ぼくがタンスを運び出した家は類焼を免れた。もう夜も遅い。帰って寝なければならない。そのまま店に帰った。

 店に帰ったら、支配人や社宅にいる人達が店の方が火事だということで店に来て成り行きを見守っていた。ぼくとIK君は、火を見ると同時に飛び出していたけど、店には女の子がいた。ぼくとIK君が店に帰ると社宅組のYZさんが店の女の子を抱えるようにして事務所の脇の廊下に立っていた。

 どうしたんだと言ったら、いやこの人の家が火事になったことがあって、炎を見たらそれを思い出して立ちすくんで倒れそうになったので、倒れないように抱えているんだという。そりゃそうだろう火事は怖いからな。

 翌日、タンスを運び込んだ店に迷惑かけたからと思っていたら、その店の若大将が一升瓶ぶら下げて昨日はお世話になりました、と言ってやってきた。迷惑かけたのはこっちなんだがなと思っていた。火元は銭湯ということになったようだが、類焼を受けた家では別の所が火元だろうと言っていたが、ぼくにはよく分からない。

 店の中から品物を出した電気屋さんは、丁度火災保険の期限が切れて、次の更新のお金を払う所だった。火災保険の期限が切れたのが分かっていたも、忙しいのが先に立って契約の更新を後回しにして仕事に追われてしまったのだ。高度経済成長いけいけどんどんにの悲劇だ。

 あれから40年あまり経って電気屋さんと話をすることがあり、火事の時に向かい側の空き地に出した商品が盗まれたことを知った。火事場泥棒という言葉があるけど、まさかあそこでやられていたとは知らなんだ。かなかなかなー。


麻雀でバトル

2008-06-01 15:37:40 | 月賦屋時代前期 仕事外

 街の真ん中で店の二階に寝泊まりするというのは、遊びにも絶好のロケーションということである。ぼくより年齢が一つ上で、地元の中学校を卒業した後、東京の商店に見習いに行っていたSEちゃんが戻ってきた。

 SEちゃんはちょっと離れた所の商店の倅。営業時間は店と同じ。SEちゃんの同級生でTTさんが店のすぐ近くにいる。SEちゃんは、仕事が終わるとTTさんと一緒に店の二階に遊びにやってくる。

 ぼくの時代、中卒で社会に出る人というのが急激に少なくなってきていた。SEちゃんもTTさんも中卒で社会に出たものの高校に進学した人達と時間が合わなかったり、話をしても話が合わなかったりで、地元で一緒にわいわいやれる友達がいなかった。

 店の二階で寝泊まりするぼくらにとってもそれは共通のことであり、SEちゃんやTTさんが遊びに来てくれることを拒む理由はなかった。女の子を連れてきてくればもっとよかったのだが、二人ともそこまで交友関係が深くなかったようだ。

 最初の内はたわいもない話をしていたのだが、麻雀すんべという流れになって行くのにはそれほど時間がかからなかった。週に1・2回遊びに来て麻雀をやるようになる。

 ぼくらは、1000点10円で麻雀を覚えている。リーチかけられても降りることをしない。ひたすら大きな役を狙って役作りをしていく。遊びに来たSEちゃんもTTさんも一緒になって大きな役作りをしていく。たまに白のみなんて役で上がると、おめー白だけかよ、しょうがないな後一役位付けろやなどと言ってやっていた。

 四人が四人とも降りることをしないで大きな役作りをしているから面白い。あがると大体満貫だった。そして夜も更けて十二時頃になると散会した。お互いに明日の仕事がある。何時にやめるか?。これは誰がどう決めなくても自然に決まった。

 店でガソリンを入れているガソリンスタンドの店長はITさんと言う。ガソリンスタンドは店から歩いて一分位の所にある。この時代ガソリンスタンドは宿直を置いている。国道沿いならともかく街の真ん中のガソリンスタンドは、夜九時の閉店時間を過ぎるとお客様が来ない。

 おい今夜宿直だから麻雀すんべ。ITさんからお声がかかる。店では麻雀やるメンバーが一人足りない。店を閉めるとコタツ板の麻雀板とパイを持って、KEちゃん、山猿忍者、ぼくの三人がガソリンスタンドの二階に駆けつけて、がらこんがらこん麻雀をおっぱじめる。

 街の真ん中で近くというのは便利なもんだ。おい。今夜やんべ。はいよ。コタツ板とパイ持って行ってがらこんがらこん麻雀やる。お互いに明日の仕事があるから、やっても十二時までそれ以上はやらない。

 商店街というのは開店時間も閉店時間も同じだから、やれる時間は同じだ。ボス猿から門限十一時と言われているけど、宿直日誌上は、午後十一異常なし書いていた。

 終わるとコタツ板とパイを持って帰るからガソリンスタンドには麻雀やったという証拠は残らない。残るのはタバコの吸い殻くらいだが、吸い殻の始末はITさんに任せておけばOK。タバコの吸い殻の始末はガソリンスタンドの大事な仕事だ。

 一度夜中の十二時頃ガラの悪いお客様がガソリンスタンドにやってきて、勝手にガソリン入れようとして、がちゃがちゃやりはじめた。二階だから下まで行くのに時間がかかる。ITさん、がちゃがちゃやっているお客様を怒鳴りつけながら下に降りて行った。

 怒鳴りつけた相手が悪かった。お客様を怒鳴りつけるとは何だ。ヤの字さんが言い返してきた。給油ハンドルを壊されそうな勢いだったので、思わず口から出てしまったのだが、お客様相手に喧嘩はできない。ヤの字さんは、こういう場合のいちゃもんつけには慣れたもんですったもんだやっていた。

 ぼくは、下の様子をみるためにガソリンスタンドの二階の出口に出て見た。18・19の若造が夜中の十二時頃ガソリンスタンドの二階にいるのが不自然な時代だ。お前は何をやっているんだ。ヤの字さんが怒鳴りつけてきた。麻雀やっているんだけど。ぼくは馬鹿正直に答えた。若いもんがこんな時間まで麻雀やってんじゃない。ぼくに向かって怒鳴りつける。

 普通ヤの字さんに威勢をつけられる恐いものだが、店にはヤの字さんのお客様もいて、ぼくはそこへ配達に行くこともある。多少の武勇伝を聞かせてもらうことがある。下と二階という物理的距離もあるので、それほど恐くなかった。余計なお世話だと思っていた。それよりもITさん大丈夫かなと思った。

 しばらくITさんとヤの字さんのやりとりがあって、ガソリンを給油して帰った。ITさん二階に上がって来て、ああいうのがいるんだよ。いざとなれば三人いるんだから誰か警察まで走ってもらえばいいやと思っていたと話した。

 そうなんだ、ちょっと走れば警察署がすぐそこだから、そろそろ行った方がいいかなと思って様子を見に出たんだ。警察に行って、逆にお前は何をやっていたんだと聞かれたら困るなと思っていたけど。家庭裁判所に呼び出されるのは恐いよ。かなかなかなー。


日光へ行く

2008-05-31 13:11:55 | 月賦屋時代前期 仕事外

 KO君とぼくが車の運転免許を取る前に、山猿忍者がまたバッタ屋さんから今度の休みに乗用車借りたから日光へ行こうと言った。日光?。どこにあるんだと思った。

 山猿忍者はこういうことになるとすばしっこい。確かKEちゃんも一緒に行ったように記憶しているから四人で行った。尾瀬に行った時のように時間待ちの麻雀はしない。日曜日の仕事が終わると、借りて来た乗用車に乗って、佐野へ向かって夜道を走る。

 佐野から小山へ出て国道四号線を北上した。このルートはマットレス屋さんのトラックで初めての長距離ドライブで経験したルートだ。前回は昼間だったが今回は夜走る。国道四号線は、東北地方との陸の大動脈だけあって交通量が多い。途中に小山遊園地があった。おやまゆーえんち。というCMが流れていたけどここがそこか。夜だから人気がないわい。

 国道四号線を北上している途中で、車を運転している山猿忍者が、いけねえガソリン入れてくるのを忘れたと言った。見るとフューエルゲージが限りなくゼロに近かった。やばい、ガソリンスタンドあったら構わないからガソリン入れてもらえ。夜中の一時か二時頃だった思う。四号線沿いのガソリンスタンドに車を入れて、宿直の人を起こしてガソリンを入れてもらった。

 宿直の人は寝ていたらしく眠い目をこすりながらガソリンを入れてくれた。今では考えられないかもしれないが、あの時代のガソリンスタンドは、宿直の人がいて夜中でもガソリンを入れてくれた。

 ガソリンを入れてもらって国道四号線から鹿沼へ、そして鹿沼から今市に抜けるところで夜が明けた。日光杉並木を通ったのは朝の六時頃だったと思う。車二台がやっとすれ違える位の舗装してない道の両脇に大きな杉の木が植えられていた。道路地図と道路の案内標識でたどり着いたのだが、大きな杉並木があるなと思っただけで、それが植えられた歴史的背景など知らないで通った。

 あの杉並木に車が大挙して押し掛けるのは無理だろうから、多分今は車の交通が規制されているのではないかと思う。ぼくが行った四十二年くらい前は車が通れた。日光にはその後何回か行っているが、杉並木を通る機会に恵まれていない。あの時は、道に迷ってたまたま杉並木を通った。

 そして、いろは坂を通って日光に登る。まだ第二いろは坂ができる前だ。月曜日だから混雑していない。車を駐車場に止めて、日光東照宮に参拝。陽明門を見た瞬間憶が甦った。

 ああ、同じだ。中学校の修学旅行で見たやつだ。あの時と同じ門だ。へー同じ所へ来たんだ。陽明門をためつすがめつ見て中に入った。中学校の修学旅行は団体旅行だったから好きな所を見ることができなかったが、今回は好きなところを見ることができる。眠り猫がある。見猿聞か猿言わ猿がある。

 残念ながら当時は、日光東照宮が建てられた歴史的背景を知らなかったので、ただ建物の大きさや形、装飾に目を奪われるだけで、その歴史的背景まで思いを寄せて見ていた訳ではない。日光東照宮が、チョウテン先生から教わった神仏混淆で時を経、明治の廃仏棄釈で日光東照宮と二荒山神社、日光輪王寺に分かれたということを知っていればまた違った趣で見られたと思う。

 色々なものがある。奥の方に石灯籠が一杯並んでいるところがあった。各地の藩主が寄進した物であることが名前から分かる。江戸幕府の力の強さが、石灯籠の形でよく分かる。当時の人はこんな大きくて重い物をどうやって持ってきたのだろうと思った。

 この先に二荒山神社があるという案内板が出ていた。少し歩き始めたのだが、一向にそれらしき建物が見えない。やーめた。途中で引き返した。何せ夜中走って来て、今日中に帰らなければならない強行軍で来ている。時間の無駄使いはできない。

 車に戻って、戦場ヶ原へ向かう。確かに戦場ヶ原と名付けるのにぴったりのところだ。陸上自衛隊の戦車が出てきてもおかしくない。車から降りてしばらく眺めた後、車で華厳の滝へ向かった。

 華厳の滝というからどんな滝だろうと思っていたのだが、ぼくらが行った時はそれほど水量が多くなくこれといった印象が残っていない。わずかながらに残っている記憶では、真っ正面から眺めたのではなく、横方向から眺めたように思う。

 そして帰路、運転手はKEちゃんと山猿忍者の二人。KO君とぼくは交代で助手席に乗って道路地図を見ながらナビゲータ。四十二年前の日光へのドライブは今ほど道路が整備されている訳でなく、案内標識も整備されていないから一本道を間違えるととんでもないところへ行ってしまう。

 夜遅く店に帰ってきて、日光東照宮で買った紙のお札を食堂の壁の上に貼って寝た。翌日は仕事。店を開けて二階の事務所で仕事を始めたら炊事のおばさんが出勤してきて、魔札!。魔札!。叫んだ。何事かと椅子から立ち上がって見たら、昨日の夜貼った札が風に吹かれたか、ひらりと床に落ちた。炊事のおばさん形相を変えて、魔札、魔札と言って紙の札を足で踏みつけたのにはたまげた。

 別に炊事のおばさんに悪気があって札を買って来て食堂の壁の上に貼った訳ではないのだが、炊事のおばさんは鶴のマークだ。鶴のマークがここまで徹底しているとは思わなかった。ぼくは炊事のおばさんに鶴のマークに誘われたのだが入らなくて良かったと思った。入っていたら日光東照宮へ行くこともできない。かなかなかなー。


月賦地獄に陥っていく

2008-05-02 08:55:11 | 月賦屋時代前期 仕事外

 昭和三十八年の冬は、シャギーのショートコートを月賦で買って、学生服の上にショートコートを着て自転車で通学した。ショートコートを着ないと寒くて仕方がなかった。山猿忍者と幸次君は、夜自転車に乗ることがないから紺のブレザーを買った。ぼくも紺のブレザーが欲しかったのだがお金が無い。ショートコートの月賦を払うだけで精一杯だった。

 翌昭和三十九年秋、ショートコートの月賦を払い終わったので、長靴屋さん商売で仕入れてあった背広上下を大胆不敵にもまた月賦で買った。紺のブレザーは買わない、いきなり背広上下を買った。初めて買った背広上下はグレーの地味な柄だった。

 段々と月賦地獄に陥っていくのだが、最初の二年間はなんとか払える範囲で押さえていた。初めて買った背広上下を着て、東京の姉の所に行った。中学校の同級生草間さんに会いに行った。そして休みの日の学校にも着て行った。休みの日だけだよ。休みでないときはちゃんと学生服着て行ったんだからね。ボス猿は、ぼくが休みの日に背広着て学校へ行ってることを知らなかったはずだ。

 昭和四十年秋、グレーの背広上下の月賦を払い終わった後、やはり長靴屋さん商売で仕入れてあった紺の背広上下を買った。定時制三年生の秋だ。買うのが早すぎた。遅れて白いカーディガンが店に並んだ。こっちは長靴屋さん商売で仕入れたものではない。従業員価格で買えると言っても仕入れ価格が高い。

 よせばいいのに白いカーディガンを二着買った。格好いい革靴も買った。背広上下の月賦と重なって月賦地獄に陥った。抜け出すのに十ヶ月かかる。ぼくが集金手形を作って、ぼくが集金の人ごとに計算して渡している。集金の人から毎月金払えと言われるのが辛いのなんのって。

 そういう月賦地獄に陥った昭和四十年十一月。店の人達と前橋からバスに乗って赤城山に行った。その時の写真がある。ショートコートは着ていない。紺の背広上下に白いカーディガンを着ている。ロープウエイに乗る時寒かった記憶があるから、十一月十五日か二十二日の月曜日だと思う。もう紅葉は終わっていた。

 長部さんがオーバー着て赤城山に登ったのが、昭和三十八年十二月。それに遅れること二年で赤城山に登った。大沼からリフトに乗ってロープウエイの乗り場まで行く。冬はこのリフトの所がスキー場になるのだという。緩斜面の初心者コースだ。滑っても面白くなさそうだなと思うと同時に雪降るのかなと思った。

 ロープウエイに乗って山のてっぺんに登る。何だあれは?。大きな電波塔が建っている。これが店の二階から見ていたやつの正体か。地蔵岳のてっぺんに電波塔が建っているのを実物を見て確認した。地蔵岳のてっぺんから見る関東平野の景色は絶景だった。あいにく曇っていたので富士山は見えない。

 前橋の街が見える。伊勢崎はあのあたりか。遠くは曇っていて見えないな。寒い。山のてっぺんは寒い。今度来る時はもっと暖かいときに来よう。それにしても長部さんは二年前十九歳の時に一人でここに登った。長部さんはあの時どんな気持ちで関東平野を眺めたんだろう。

 赤城山のロープウエイは、東武鉄道がやっていた。地蔵岳の真後ろにそびえる黒檜そして、その下に広がるカルデラ湖の大沼。それらをロープウエイの車窓から見ながら下山。リフトがとことこ遅いこと。

 大沼からバスに乗って帰路につく。赤城山の南側に出たところで途中下車。四本楢のつつじ、という看板をバックにした写真がある。まだヘアースタイルが固まっていなかったようで、頭が鳥の巣のようになっている。春ならつつじが見られたのだが、あいにくつつじの時期ではない。牛が放牧されていたように思うが、次のバスが来るまで散策して帰った。

 月賦地獄に陥りながらも毎日仕事をし、学校に行っている。なんで月賦地獄かというと、ぼくは、この翌年の四月に関西への修学旅行を控えている。その修学旅行の小遣いのために少し無理して定期積金をしていた。定期積金するのをやめれば月賦地獄に陥らずに済んだのだが、定期積金だけはやめなかった。

 親元を離れて見ず知らずの土地で働いている者が、無から有にするには定期積金しか考えられなかった。定期積金をしているのは、ぼくだけではない。店の人全員がやっている。月賦地獄に陥っても歯を食いしばって定期積金はやめなかった。そしてたまに先輩に誘われて酒飲みにいった。もうタバコを吸っていたから立派な悪ガキだよ。

 歯を食いしばって定期積金したお陰で楽しい関西への修学旅行ができた。修学旅行の話は、伊商の定時制のカテゴリーで書く。定時制三年の時の欠席日数53日。だんだんとずる休みを覚えてきた。十七歳は一番危険な年だがぼくは月賦地獄に陥っていた。

 


尾瀬に行く

2008-05-01 08:51:26 | 月賦屋時代前期 仕事外

 山猿忍者が車の運転免許を取ったのが昭和四十年か昭和四十一年。ダットサンに乗って消防自動車にぶつかってボンネットへこました。大したへこみ具合ではなかった。運転免許取ってすぐは誰でもちょこっとやるもんだ。

 昭和四十一年初夏。山猿忍者がバッタ屋さんから今度の休みの日に乗用車を借りるから尾瀬に行こうという。尾瀬?。名前は聞いたこともあるし映画で見たこともあるが、どこにあるのか知らなかった。

 山猿忍者は、山のことになるとすばしっこい。おれにまかせておけという。新しい事務所では、ボス猿が古い事務所で使っていた机にデュプロの印刷機を載せて使っている。日曜日の仕事が終わった後、デュプロの印刷機を集金の人達の机の上に移動して、コタツ板の麻雀板を乗せてがらがらがら麻雀をおっぱじめた。

 幸次君は麻雀しないんだけど、今日は特別に仲間に入った。出発までの時間つぶしだ。夜中の十二時頃まで麻雀して、さぁこれから出発だという。炊事のおばさんに作ってもらったお握りと、鍋と即席ラーメンをリュックに入れて、バッタ屋さんから借りた乗用車に乗って出発進行。エクセルで作った昭和四十一年のカレンダーを見ると、五月三十日か、六月六日かどっちかの休みだったと思う。

 乗用車の運転は山猿忍者。幸次君とぼくの二人はまだ車の運転免許を持っていない。スバルサンバーなら無免許で運転できるけど、日産ブルーバードの運転は自信がない。

 石田さんの話によると休みの日に、支配人と山猿忍者と三人でダットサンに乗って丸沼までワカサギ釣りに行ったことがあると言う。石田さんは地元上州の人だから地理に詳しい。山猿忍者はその時に尾瀬に行く道を覚えたのだと思う。車は国道十七号線を北上する。真夜中に走るから景色がどうなっているかはまったく分からない。

 沼田から国道120号線に入って真夜中の奥利根路を走り、片品村の鎌田を左に入って大清水に向かう。舗装してない砂利道を走って大清水に着いたのが午前三時頃。回りには尾瀬に行く人が大勢いるがまだ登り始める人はいない。

 山猿忍者が、四時頃まで一休みしようというので車の中で横になった。しばらくしたら車の外が騒がしい。まだ三時半だというのに登り始める人が出てきた。おい。おれ達も登るべ、と山猿忍者が言うので眠い目をこすりながら車の外に出た。

 まだ真っ暗だよ。しかし、登り初めている人達がいる。その人達の後ろについて登り始めた。懐中電灯持って行かなかったけど前を歩いている人の後ろについて真っ暗な山道を登って行った。四時過ぎだったように記憶しているが段々と明るくなってきて、登るにつれて夜が明けた。

 遠くでウグイスの声が聞こえる。カタカタと木を突っつく音が聞こえる。あれ何だ?。キツツキが木を突っついている音だよ。山猿忍者は山の事に詳しい。生まれて初めてキツツキが木を突っつく音を聞いた。やがて山を登りながらそのキツツキが木を突っついて現場を見た。本当に突っついている。あれやられたら木がたまらないなと思った。

 尾瀬への登山は、最初は緩やかな山道だったのだが、最後の方になると傾斜がきつくなる。まだ若かったからそれほど気にならない。がむしゃらに登って行く。雪だ!。今頃まだ山に雪があるぞ。雪国の人間雪には慣れているがこの季節に雪があるのにはたまげた。そして、雪の斜面をせっせと登り切った。

 雪の斜面を登り切って上に着いたのが六時頃。そこでお握りを取り出して食べた。あのお握りはうまかった。腹ごしらえをしてさて行くべか。残雪の山のてっぺんを更に進むと湖が見えて来た。なんじゃありゃ!。山猿忍者が尾瀬沼だと答える。そうかあれが尾瀬沼か。さらに進むと尾瀬沼の全容が見えた。映画でしか見たことが無い世界が眼前に広がっている。

 ここを降りて尾瀬沼まで行くという。スキーの板担いでくればスキーで降りられたのにと思いながらも無い物ねだりをして仕方がない。前に降りた人の跡を伝って下へ降りた。これが尾瀬沼か水が綺麗だな。山猿忍者は道を右に取って歩き始めた。

 所々で水芭蕉が咲いている。水芭蕉をみるのは生まれて初めてだ。綺麗だな。ぼく達は、尾瀬沼の東側をぐるっと廻って対岸に出た。このコースは遠回りになるのであまり人が来ない。対岸から更に進むと今度は人が大勢来る。木道で人とすれ違う場合は、見知らぬ人でも挨拶をする。山ならではの慣習のようだ。

 尾瀬沼を通り過ぎて更に奥に進む。山の縁を歩いて尾瀬ヶ原に着いた。山小屋がある。小便タイム。山猿忍者は更に進むと言う。尾瀬ヶ原の中間当たりまで行ったところで引き返した。余り進むと帰れなくなる。そして尾瀬ヶ原から尾瀬沼に戻る途中で昼飯。

 道から少し入った所で、石ころをかき集めて簡易カマドを作り、鍋に尾瀬沼の水を汲んで、新聞紙と枯葉を燃料にしてインスタントラーメンを作って食べた。店の食堂にあったアルミの小さな鍋をリュックサックの中に入れて持って行ったんだが、鍋をいくつ持って行ったか記憶にない。多分交代で食べたのではないかと思う。昼飯に食べたインスタントラーメンはそりゃもう美味かった。

 鍋とインスタントラーメン持って山に行くという発想は当時の人達でも特異なものであったようで、そばを通る人達も羨ましそうに見ていた。今尾瀬に行って新聞紙と枯葉を燃料にしてインスタントラーメンを作るなどということは出来ないと思うが、四十年以上前は出来た。でも今のよい子の皆さんは、山で火を燃やすと山火事の恐れがあるからやっちゃだめだよ。

 昼飯を食べると帰路につく。もう尾瀬沼をぐるりと一周している時間がない。尾瀬沼を渡る船が出ていた。帰りはその船に乗って対岸に渡った。船に乗ると金がかかるんだよ。そして、今朝来た道を降りて行く。さらば尾瀬よ。

 朝登る時は気が付かなかったのだが、山道は、雪解け水がちょろちょろ流れている。ぼくは、中学生の時憧れの的だった底の厚いバスケットシューズを履いて行った。真っ白いバスケットシューズが泥水で汚れていく。靴の中に水が染み込んで来たけど、若いからそれほど気にならなかった。

 途中で下から登って来る人と何人もすれ違った。この時間に登ってきても今日帰ることができないだろうにと思ってすれ違っていたが、ローヒールの靴を履いて来た若い女性の二人組と出会った。よくここまで登ってきたなと思いながら、その靴じゃここから先は無理だよと声を掛けたら、分かっているけど東京から来たので行けるところまで行って見ると言って登って行った。

 ぼくもバスケットシューズで登ったから人の事は言えないけど、山を見くびると痛い思いをすると思う。ウグイイスの鳴き声や、キツツキが木を突っつく音や、野鳥の鳴き声を聞きながら大清水まで下山した。午後四時過ぎでなかったかと思う。

 車に乗り込んで靴を脱いでそのままバタンキューで一休み。くたびれたのなんのって、二時間位したらエンジンを掛ける音がした。あたりは薄暗くなってきている。山猿忍者がこれから運転して帰ると言う。おい。もう少し寝てから帰るべと言っても、おれが運転して帰るから寝ていろと言う。最初は起きていたんだが、段々眠くなって車の中で爆睡。

 結局店に帰るまで爆睡していた。山猿忍者はタフだよ。ぼくらが寝ているあいだ運転して帰ったんだから。よく居眠り運転で事故らなかったと思う。店に帰ってから歩いた距離を測ってみたら40キロ位歩いていた。

 その後帰省した時にバスに乗ったら山男の姿をした中学校の同窓生にばったり会った。どこに行って来たの?と聞いたら、尾瀬に行って来たという。尾瀬か。尾瀬ならおれも行ったことがあるよという会話になった。ぼくの方が尾瀬に行くのが早かった。

 それからしばらくして、幸次君が実家の近くで親しくしていた中学校の同窓生が山の事故で亡くなったという悲しい知らせが入って来た。ぼくも確か中学校一年生の時に同じクラスだったか隣のクラスだったかで話をしたことがあってよく知っている人だ。

 衣食住、あらゆる業種において、社会全体の欲求が牙を剥いて襲いかかってきている。まだ知識や装備が十分でなかった頃の山登りで中学校の同窓生が一人世を去ってしまった。尾瀬はその後大勢の人が押し寄せることになるが、ぼくが尾瀬に行ったのはあれが最初で最後だった。

 最初で最後の尾瀬行きは超強行軍だった。山猿忍者はスピード違反で免停くらって家庭裁判所に呼び出されたことがある。他の人は、保護者同伴だったけど、山猿忍者は一人で前橋の家庭裁判所まで行って勘弁して貰ってきたことがあるという強者だ。十七歳、十八歳は、危険な年齢だ。

 


あれはうまかった!

2008-04-26 12:42:37 | 月賦屋時代前期 仕事外

 お客様の中には農家がたくさんおられる。集金の人が休みの日に懇意になった農家から、にわとりを二羽もらって来た。おい。にわとりもらって来たぞ。焼いて食うべ!。さっきまで庭先でこっこ、こっこと歩いていたやつだ。

 早速ガスレンジに焼き網を載せて、にわとりを焼き始めた。ぼくは、タレを作る。大目の砂糖の中に醤油を入れて煮立てただけ。焼き上がったにわとりをタレの中にくぐらせて、さらにもう一回焼く。焼き上がった。さあ食うべ。

 砂糖を多めに入れてあるからうまい。さっきまで生きていたから、羽のむしり残しがあるが、そんなことは気にしない。うまい。みんなで食べる。うまい。またもらって来てくれ。うん。分かった。もうちょっと待っていろ。一年に二回くらいは、にわとりをもらってきて食べた、あれはうまかった。

 そして、店の近くに室内釣り堀ができた。鯉や鮒やウナギを釣らせる。やっているのは、ヤの字さんの手下。ウナギのいけすだけは別になっている。

 ウナギの釣り竿(割り箸にテグスを付けただけ)の値段が二種類ある。安い釣り竿買ってやってみてもテグスが切れて釣れない。他の人のを見ていると、釣れる場合もある。店番の人がウナギを針で引っかけてテグスをぐるぐる巻き付ける釣り方をやって見せた。

 店番の人が使った釣り竿なら必ず釣れる。少し高いがウナギ一匹買うより安い。高い釣り竿でウナギを二匹釣った。店に持って帰ってウナギを捌く。プロが捌く訳ではないから、綺麗には捌けない。ぐじゅぐじゅになりながらもなんとか捌いた。また、ガスレンジに焼網を載せて、ウナギを焼いた。

 ぼくは、タレを作る。大目の砂糖の中に醤油を入れて煮立てただけ。焼き上がったウナギをタレにくぐらせて、もう一回焼く。うまい。ウナギはうまい。次の休みにまた行って焼いて食った。ウナギは買うより釣り堀で釣った方が安い。

 また行ったらウナギのいけすがなくなっていた。釣りたくても釣れない。ウナギは食いたいが高くて食えない。それから数年後、店の人達が休みの前の晩に利根川に夜釣りに行った。なんの巡り合わせか、小さなウナギが入れ食いでかかった。

 そして明けて休みの日、二十匹近い小さなウナギを捌いた。この頃になるとウナギの捌き方もうまくなっている。ぼくが、定時制四年の修学旅行で関西に行った時に土産として買って来た、包丁の三点セットの中に出刃包丁があった。

 また、ガスレンジに焼網を載せてウナギを焼き始めた。焼いているあいだにタレを作るのは、ぼくの係り。焼き上がったウナギにタレをくぐらせて、網の上に載せてまた焼く。焼き上がったうなぎは、小さくてもウナギはウナギだ。うまい!。今度の休みにまた釣りに行くべ、ウナギは買うより川で釣った方が安い。

 翌週の休みの前夜、ぼくも一緒に利根川に行った。台風が近づいているからかウナギが釣れない。ウナギどころか他の魚も釣れない。風が強くなって雨が降り始め釣りどころではなくなってしまった。ほうほうのていで引き上げてきた。それ以降、何回か夜釣りに行ったがウナギは釣れなかった。小さかったがあのウナギは、うまかった!。

 上州に来て一番やりたいと思ったのは魚捕りだ。何せ中学生の時は、学校から帰るとカバン放り出して魚捕りばかりやっていた。休みの日に魚捕りに行きたいのだが、上州の川の様子は、田舎と様子が違う。簡単な道具で魚捕りするのに手頃な川がない。

 夏帰省した時、田舎の家の近くにウナギの問屋さんができていた。小売りもする。ウナギは高くて手が出ない。ドジョウを売っていた。ドジョウを買ってきて、千枚通しでドジョウの頭をまな板に打ち付けてドジョウを捌いた。ドジョウ捌くのはウナギより面倒臭い。でもやり方は同じだ。

 捌いたドジョウで柳川作って母と一緒に食べた。母はお酒を用意してくれた。母と一緒に酒飲みながら食べたあの柳川はうまかった!。

 魚捕りして育った所だから、いつ頃どの川に行けばどういう魚が捕れるかは知っている。しかし、魚捕りをした川が耕地整理でコンクリートになってしまったので魚が捕れない。

 帰省の休みが二日しかない、のんびり魚捕りをしている時間が無い、金出してドジョウを買わなければならなくなってしまった。

 衣食住、あらゆる業種において、社会全体の欲求が牙を剥いて襲いかかってきた。その結果がコンクリートの用水路になって現れている。子供時代とは時間の移ろいが速くなって魚捕りができなくなってしまった。

 


長距離ドライブ

2008-04-24 11:01:18 | 月賦屋時代前期 仕事外

  バッタ屋さんと取引が始まったのが昭和三十九年だったと記憶している。そのバッタ屋さんの関連会社でマットレスを作っている会社があった。そのマットレス屋さんとは直接の取引関係はなく、バッタ屋さんを介して品物を仕入れていた。

 ある休みの日の朝早く、マットレス屋さんのトラックの運転手さんが、これから配達に行くから一緒に来ないかと言って来た。多分、ケイちゃんと事前に話をしていたのだと思うが、ケイちゃんがお前も一緒に来い、と言うので一緒に付いて行った。店の裏口から店の前に廻ったらロングボデーの二トン車の運転席の上から荷台まで大きな幌をかけたトラックが止まっていた。

 トラックに乗り込んでいざ出発進行。マットレスを満載にしたトラックは一路東に進んでいく。多分、佐野の国道五十号線を目指して行ったと思うのだが、今のように道路事情がよくない。道路事情の良い道を選んでいく。この運転手さんは、長距離運転をやっているので道をよく知っている。

 ぼくらのように見ず知らずの土地で五万分の一の地図を頼りに近場を廻っているのと違って、行動範囲のスケールが違う。佐野から国道五十号線に入り、小山で国道四号線に入って一路北進する。この時代でも国道の桁数が一桁になると走っている車の台数が多い。そりゃそうだ、国道四号線は、東京と東北を結ぶ陸の大動脈だ。

 ケイちゃんは、助手席の窓際に座っている。ぼくは真ん中に座っている。窓から手が出せると楽なんだけど贅沢は言ってられない。運転台の高い二トン車の助手席に乗せてもらってタダで長距離ドライブができる。

 確か道路地図があったと思う。その道路地図を見ながらこれから行く先を確認していた。今のように案内標識が完備されていない時代だったが、ちゃんとそれなりに案内標識が出ていて、行き先を間違わないように誘導していた。

 中学校の時に習った地名が出てくる。汽車に乗って行く以外に行けないと思っていた所をトラックは進んでいく。トラックは国道四号線を北上して行く。宇都宮を過ぎた。更に北上し那須高原の山を抜けた。陽気の良い頃だったから気持ちがいい。とうとう郡山まで来た。ここから西へ向かって猪苗代湖を目指すと言う。

 どこまで行くんだ?。迷子になったらどうすんだ?。と不安はあったが、運転手さんに身を委ねるしかない。そして、猪苗代湖が眼前に開け、猪苗代湖の脇を通りながら会津若松に入ったが更に先に進む。越後街道に入って砂利道の峠を越え、案内標識に「新潟」の文字が出た後の、問屋さんの庭先でトラックは止まった。

 運転手さんが荷台の幌をあげると、むき出しのマットレスが平積みで幌の天井まで積んであった。一番上を降ろすのが大変だ。その一番大変な一番上を降ろして、ケイちゃんとぼくは、問屋さんの倉庫に積み込んだ。一番最後に運転席の上に積んであるマットレスを降ろして、ビニールの袋をまとめて降ろし、これに入れて出荷してください、で荷下ろしは終わった。

 荷下ろしが終わった後、今度は荷台に掛けてあった幌を剥がして畳む。運転手さんは手慣れた手つきで幌を畳んでいく。ケイちゃんとぼくの二人はそれを手伝う。幌が畳み終わったら、荷台に付けてあった骨組みの鉄パイプを外して、トラックの後ろの下に収納する。うまい具合にできている。トラックの荷台は空っぽになって畳んだ幌だけが載った。これなら帰りが空車で楽だ。

 そうこうしている内に問屋さんがお茶を入れてくれるというので、中に入れてもらった。この問屋さんは旧家で商談するところに囲炉裏があって、そこでお茶をご馳走になった。今の時代トラックに荷物満載にして遠くから持って行っても、トラックの運転手にお茶を入れてくれるようなことはないだろうから昔はよかった。

 お茶をご馳走になって帰路につく。砂利道の越後街道の峠を越えるところで、下から荷物を積んだトラックがやってきた。トラックの運転手さんは、手前でで止まって、荷物を積んだトラックに道を譲った。相手の運転手さんは手を挙げて坂道を上って行った。たとえ見知らぬ人でもトラックの運転者内ではそうするのが礼儀なんだそうだ。

 砂利道の越後峠を越えて道が平坦になったところでケイちゃんが運転を代わった。ケイちゃんは前橋の運転試験場へ行って一発で普通車の運転免許を取ってきたけど、なかなか車に乗る機会に恵まれない。まして長距離ドライブとなったらなおさらだ。往きはマットレスを満載していたから車の運転を代わらなかったけど。帰りは空車なので空気抵抗がない。

 来た道をとんぼ返りで戻って行く。二トン車の運転台は高いから眺めがいい。猪苗代湖を過ぎて郡山へと向かう。途中車の運転を代わって、国道四号線を南下する。追い越すトラックはほとんど荷物を積んでいる。空荷で南下するトラックは少ない。時速100キロ出すということはないが、制限速度を守るという感覚はなく、自分に合った速度で運転している。

 どこら当たりで日が暮れて来たか記憶が定かでない。暗くなってきたのでライトを付けた。ライトを上向き下向きにするスイッチはクラッチペダルの脇についている。ぼくは、スイッチの切り替えをやらせてもらった。前から車が来たらスイッチを踏むと、ライトが下向きになる。

 前から来る車と距離の呼吸を合わせながら、足を踏み込んでカチッとスイッチを切り替える。すれ違ったら再度足を踏み込んでカチッとスイッチを切り替える。ある時こちらがライトを下げても上向きのまま来る車があった。てめーこの野郎。足を踏み込んでライトを上向きしてやったら、あわてて向こうもライトを下げた。

 おお。お前なかなかやるな。運転手さんとケイちゃんが声をかけた。うん。まあね。と言いながら再度足を踏み込んでライトを下げた。なにしろ運転席の高い二トン車に乗るのは初めてだから珍しくて仕方がない。

 今だったらそんな長距離トラックに乗って行くと言われたら滅相もございません、で断るけど当時はやること見ること珍しくて仕方がない。初めての長距離ドライブは疲れたという感覚はない。また行きたかったけどもう誘ってくれなかった。行った街を地図で見てみたがどこだったか分からなくなってしまった。

 


東京まで会いに行く

2008-04-16 10:27:50 | 月賦屋時代前期 仕事外

 ぼくは、休みの日になるとよく東京に行った。行き先は姉の所ともう一カ所、中学校の同級生で東京の薬局へ就職した女子の草間さんだ。草間さんに会いに行ったのは三回くらいあると思う。男女の仲になるには年齢が若すぎる。上州と東京では距離が遠すぎる。

 草間さんとぼくとでは休みが異なる。最初に草間さんに会いに行った時は草間さんが休みを取ってくれた。文通でやりとりして待ち合わせ場所を決めた。待ち合わせ場所は東京駅のホーム。男と女が待ち合わせするには味も素っ気もない場所だ。しかし、ぼくは東京の地理に不案内だ迷子になるのが一番恐い。駅のホームなら迷子になる心配がない。

 最初に草間さんに会いに行った時、草間さんは、都電に乗ってかっての同級生佐藤君に会いに連れて行ってくれた。東京は広い、中学校の同級生が何人もいる。草間さんは、同じ小学校・中学校で学んだ佐藤君と連絡を取っていたようだ。生まれて初めて喫茶店に入った。ぼくは何を頼んだか記憶にない。草間さんはメニューを見ないで、クリームメロンを頼んだ。

 クリームメロンて何だ?。と思いながら出てくるのを待っていた。佐藤君はコックの見習いをしていたように思う。中学校を卒業して以来、身の上に起きた変化を話しながらオーダーしたものが出てくるのを待っていた。やがてクリームメロンが出て来た。

 緑色をした液体の上にアイスクリームが載っかっていてスプーンとストローがついている。美味そうだな。スプーンでクリームを下に入れると、ジュブジュブと音がして泡が立ってくる。緑色の液がこぼれそうになるので、すかさずストローで飲む。面白そうだな。ぼくも今度頼む時はクリームレメロンにしよう。

 六十年間真面目にコツコツ生きて来たが、昼間喫茶店に入る機会は滅多になかった。それでも昼間喫茶店に入った時は、大体クリームメロンを頼んできた。それは、草間さんに会いに東京に出て行った時、草間さんが頼んだクリームメロンを見た時の衝撃が残っているからだ。

 話が横にそれた、佐藤君はコックの見習い。昼休み時間を利用して職場を抜け出してきた。話したいことは色々あったけど、時間になったので帰った。残った草間さんとぼくの二人は別に行く所がない。

 草間さんに連れられて都電に乗って、駅まで行った。今では道路を走る都電はなくなってしまったが、当時は都電がバス替わりだった。車掌さんが次の停留所を案内すると、降りるお客さんが、天井を走っている紐を引っ張ると、運転席の鐘がなるようになっていたと記憶している。東京って便利だなと思った。

 二回目に草間さんに会いに東京まで出て行ったときは、草間さんは休みを取っていなかった。そりゃそうだ。そうそう休みは取れない。東京駅で待ち合わせをして、その足で皇居と二重橋を見た。中学三年生の修学旅行で来て以来の皇居と二重橋だ。東京の人はいつでも皇居と二重橋が見られるのかと思って羨ましかった。

 皇居と二重橋を見た後、昼飯食いにビル街に入った。大きなビルが立ち並んでいる。これは一体何なんだろうと思った。デパートのビルなら見たことがあるがオフィスビルを見るのは生まれて初めての経験だ。石に、なんとかビルジング、と彫られたものがビルの前に置いてあったり、ビルの壁に入れてあった。どちらにしても、生まれて初めて見たオフィスビルは、ぼくの目に異様に写った。

 そのオフィスビルの中に昼飯を食べさせるところを発見。迷わず草間さんと一緒にそこに入った。ぼくが頼んだのはカツライス。一番最初に姉の所に行った時に姉の旦那が夕飯にご馳走してくれたカツライスが強烈なインパクトで頭に残っていたからだ。

 草間さんが何を頼んだか覚えていない。二人ともナイフとフォークで食べるものを頼んだ。頼んだものが来る前にナイフとフォークがテーブルの上にセットされた。ぼくは、手が滑ってフォークを床に落としてしまった。まだ、16歳か17歳。お上りさんでウブだから係りの人に頼んで新しいフォークを持って来て貰う勇気がない。

 ぼくが、そわそわしていたら係りの人が気が付いて、ぼくの席に来てくれた。どうかしましたか?。実はフォークを床に落としてしまったのですが、それでは別のフォークを持ってきましょう。ああ助かった。係りの人が気が付いてくれなかったらどうなっていたやら。

 今のぼくでは考えられないことだが、16歳か17歳のお上りさんのぼくは、ウブだったんだよ。でもタバコを吸っていたと思う。やがてカツカレーが来た。フォークの背中にライスを乗せて食べる。今ではそういう面倒くさい食べ方はしないが、当時はそういう風に食べるものだと思っていたから、真面目にそうやって食べた。日本人は手先が器用だ。

 昼飯を食べ終わると、草間さんとはそこでお別れ。ぼくは、電車に乗って姉の所へ行った。姉には行くという連絡をしてない。まだ各家庭に電話が入っていない時代だ。手紙か電報以外に通信手段がない。いきなり行っても怒られないで、おおよく来たねと歓迎された時代だ。

 姉は、都営住宅の団地に住んでいる。姉の旦那は陸上自衛隊で大型免許を取って、それが二種免許になっていた。戦後復興が進み二種免許を必要とする車が増えて、早い時代に取った人の免許を、二種免許に格上げしたんだと思う。店の支配人の普通車の免許も二種免許だった。

 姉の旦那は、団地がある地元のバス会社に就職し、観光部門で働くようになっていた。陸上自衛隊で大型トラックの運転を仕込まれている。運転の技はプロ中のプロだ。姉の旦那はこの後、時代のニーズに合わせて何十人ものお客様の命を観光バスに乗せて日本全国を飛び回ることになる。

 ぼくが、行った時はまだ日本全国を飛び回る時代ではなかったが、日帰りの団体旅行が多かったので、夜になると家に帰ってきた。姉の所では二番目の子供が生まれた頃だ。ぼくは、二人の子供の遊び相手をしながら姉の旦那の帰りを待つ。

 姉の旦那が帰ってくると夕飯の準備ができていて、酒盛りが始まる。とはいっても二日酔いになるほど飲まない。ぼくは、姉の手料理が楽しみで東京に出て行った。一晩泊めて貰って翌朝帰る。

 朝九時の開店ギリギリまで寝ている習慣がついているぼくにとって早起きは大の苦手だ。朝五時頃起きてバスに乗らないと店の開店時間に間に合わない。姉の旦那は、前夜の内に電車の乗り換え駅とホームの番号をメモに書いて渡してくれていた。このメモが無いと途中の乗換駅でギツバタしてすんなりと乗り換えができない。

 そして、朝五時目覚まし時計で起きて、朝飯食わずにバスに乗って開店前の店に帰った。上州と東京との間の物理的距離は今でも変わらない。新幹線や高速道路ができていない時代の話だ。朝早く東京から上州に帰ったから殺人的な通勤ラッシュは知らない。六十年間真面目にコツコツ生きてきたが通勤ラッシュとは無縁だった。