2014/6/15
敗戦時の混乱で、家族と生き別れとなった全ての日本人の方々。
高齢となっており、もう時間は残されていない。
どうか、一刻も早く祖国の土を踏めることを望む。
もう少しの我慢である。
安倍政権なら必ずやってくれる。
72年の日中国交回復後には、メディアで残留孤児の紹介がされ、過酷な人生を歩んだ同胞に日本中が関心をもった。
実現のあかつきには、また北朝鮮残留者の紹介がなされるものと思う。
戦後69年を数え、皆高齢である。心安らぐ余生となってほしい。
北朝鮮への国交回復後の扱い、中共の轍を踏むことのないよう熟慮すべき。
★
<拉致再調査>本当の「戦後」を…残留日本人の家族も望み
毎日新聞 6月15日(日)8時8分配
<拉致再調査>本当の「戦後」を…残留日本人の家族も望み
北朝鮮で再会した姉と、今も行方が分からない父と妹の写真を見つめる丸山さん=横浜市栄区の自宅で2014年5月20日午後4時4分、黒田阿紗子撮影
北朝鮮が国内にいるすべての日本人の安否確認のため、特別調査委員会の設立を表明して2週間がたった。再会を心待ちにするのは、拉致被害者や拉致の疑いが排除できない「特定失踪者」の家族にとどまらない。横浜市栄区の丸山毅さん(80)は、敗戦時に生き別れとなった北朝鮮残留日本人の父と妹を捜し続けてきた。「家族の消息をつかむチャンスが巡ってきた」と期待を寄せる。【黒田阿紗子】
丸山さんは戦時中、今の軍事境界線に近い北朝鮮の開城(ケソン)で、果樹園を営む両親らと暮らしていた。ところが敗戦の直前、父が姉節子さんと妹みどりさんを連れて中国に旅行に出かけ、そのまま離れ離れになった。
丸山さんは残った兄弟2人や母とともに、帰還する日本人の世話をしながら1年以上帰りを待った。しかし音信はなく、1946年冬、最後の引き揚げ船で日本に戻った。
「あの旅行は姉と私が行くはずだったのに、父に『お前はもっと勉強しろ』と言われ、代わりに妹が行った。今ごろ北朝鮮にいるのは、私かもしれなかった」。複雑な感情が心に影を落とす。
同じように北朝鮮に親族が残る日本人の紹介で、節子さんの居所が分かったのは52年のことだ。開城から約500キロ離れた北朝鮮北部の清津(チョンジン)だった。以来、250通以上の手紙が届いたが、朝鮮人と結婚して9人の子をもうけたことを知らせ、物資を送ってほしいと頼んでくるばかりで、一緒にいたはずの父と妹の消息は分からなかった。
64年に1度だけ父から国際郵便で手紙が届いた。妻と息子たちの消息を逆に案じ、「私の生活も安定した」とあった。しかし、封筒に書かれた投函(とうかん)日は14年前。だいぶ時間がたっていたせいか、北朝鮮南部の住所地に何度も手紙を出したが、返事はなかった。
丸山さんは2010年、朝鮮総連に依頼して在日朝鮮人の親族訪問団とともに訪朝。首都平壌(ピョンヤン)で節子さんと65年ぶりの再会を果たし、生き別れた後の出来事を聞いた。旧ソ連軍の侵攻で開城の自宅に戻れず、父は姉妹の身を守るために頭を丸坊主にさせ、各地を逃げ惑った。逃亡生活が3年になったころ、18歳になった節子さんだけが知人の朝鮮人に預けられ、生きるために結婚させられた。父と妹のその後の足取りは知らないという。
「帰りたい?」。再会の席で出た問いかけに、節子さんは「当たり前でしょ」と即答したという。「私は日本人なんだから、日本で死にたい」
節子さんは現在、85歳。行方の分からない父は生きていれば107歳、妹は76歳だ。北朝鮮は特別調査委の設置を先月29日に表明。生存者の処遇について日本と協議する、としている。
「年齢的に父は難しいが妹は生きているかもしれない。少なくとも姉とは日本で一緒に暮らしたい」。丸山さんは家族で撮った約75年前の写真を見つめ、声を絞り出した。「北朝鮮残留日本人は長い間放置され、悔しい思いをしてきた家族はたくさんいるはずだ。私たちはまだ本当の『戦後』を迎えていない」
敗戦時の混乱で、家族と生き別れとなった全ての日本人の方々。
高齢となっており、もう時間は残されていない。
どうか、一刻も早く祖国の土を踏めることを望む。
もう少しの我慢である。
安倍政権なら必ずやってくれる。
72年の日中国交回復後には、メディアで残留孤児の紹介がされ、過酷な人生を歩んだ同胞に日本中が関心をもった。
実現のあかつきには、また北朝鮮残留者の紹介がなされるものと思う。
戦後69年を数え、皆高齢である。心安らぐ余生となってほしい。
北朝鮮への国交回復後の扱い、中共の轍を踏むことのないよう熟慮すべき。
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<拉致再調査>本当の「戦後」を…残留日本人の家族も望み
毎日新聞 6月15日(日)8時8分配
<拉致再調査>本当の「戦後」を…残留日本人の家族も望み
北朝鮮で再会した姉と、今も行方が分からない父と妹の写真を見つめる丸山さん=横浜市栄区の自宅で2014年5月20日午後4時4分、黒田阿紗子撮影
北朝鮮が国内にいるすべての日本人の安否確認のため、特別調査委員会の設立を表明して2週間がたった。再会を心待ちにするのは、拉致被害者や拉致の疑いが排除できない「特定失踪者」の家族にとどまらない。横浜市栄区の丸山毅さん(80)は、敗戦時に生き別れとなった北朝鮮残留日本人の父と妹を捜し続けてきた。「家族の消息をつかむチャンスが巡ってきた」と期待を寄せる。【黒田阿紗子】
丸山さんは戦時中、今の軍事境界線に近い北朝鮮の開城(ケソン)で、果樹園を営む両親らと暮らしていた。ところが敗戦の直前、父が姉節子さんと妹みどりさんを連れて中国に旅行に出かけ、そのまま離れ離れになった。
丸山さんは残った兄弟2人や母とともに、帰還する日本人の世話をしながら1年以上帰りを待った。しかし音信はなく、1946年冬、最後の引き揚げ船で日本に戻った。
「あの旅行は姉と私が行くはずだったのに、父に『お前はもっと勉強しろ』と言われ、代わりに妹が行った。今ごろ北朝鮮にいるのは、私かもしれなかった」。複雑な感情が心に影を落とす。
同じように北朝鮮に親族が残る日本人の紹介で、節子さんの居所が分かったのは52年のことだ。開城から約500キロ離れた北朝鮮北部の清津(チョンジン)だった。以来、250通以上の手紙が届いたが、朝鮮人と結婚して9人の子をもうけたことを知らせ、物資を送ってほしいと頼んでくるばかりで、一緒にいたはずの父と妹の消息は分からなかった。
64年に1度だけ父から国際郵便で手紙が届いた。妻と息子たちの消息を逆に案じ、「私の生活も安定した」とあった。しかし、封筒に書かれた投函(とうかん)日は14年前。だいぶ時間がたっていたせいか、北朝鮮南部の住所地に何度も手紙を出したが、返事はなかった。
丸山さんは2010年、朝鮮総連に依頼して在日朝鮮人の親族訪問団とともに訪朝。首都平壌(ピョンヤン)で節子さんと65年ぶりの再会を果たし、生き別れた後の出来事を聞いた。旧ソ連軍の侵攻で開城の自宅に戻れず、父は姉妹の身を守るために頭を丸坊主にさせ、各地を逃げ惑った。逃亡生活が3年になったころ、18歳になった節子さんだけが知人の朝鮮人に預けられ、生きるために結婚させられた。父と妹のその後の足取りは知らないという。
「帰りたい?」。再会の席で出た問いかけに、節子さんは「当たり前でしょ」と即答したという。「私は日本人なんだから、日本で死にたい」
節子さんは現在、85歳。行方の分からない父は生きていれば107歳、妹は76歳だ。北朝鮮は特別調査委の設置を先月29日に表明。生存者の処遇について日本と協議する、としている。
「年齢的に父は難しいが妹は生きているかもしれない。少なくとも姉とは日本で一緒に暮らしたい」。丸山さんは家族で撮った約75年前の写真を見つめ、声を絞り出した。「北朝鮮残留日本人は長い間放置され、悔しい思いをしてきた家族はたくさんいるはずだ。私たちはまだ本当の『戦後』を迎えていない」