想い出の作品
友 遠方より来る
石黒宗麿、小山冨士夫、荒川豊蔵先生
40年近くこの仕事をしていますが、最も思い出深い作品です。
石黒宗麿先生の鉄釉の瓶です。
1975年の秋頃だったでしょうか、奈良県在住のお客様が一つの壺を入手されました。
箱が無く、拝見しましたところ作風、銘などから石黒宗麿先生の作品ではなかろうかと
なりましたが、もとより確証はありません。
そこで当時ご健在だった小山冨士夫先生に鑑ていただくべく、岐阜県土岐市の花ノ木窯へ
持参いたしました。
二階の広間に通されたのですが、小山先生は部屋の奥のほうに坐しておられ、私共は
入口近くに控えて、壺を取り出しました。多分に遠目であったのですが先生は即座に
「石黒さんだね」と言われました。
それから、やおら電話の受話器を取りダイヤルを回されて、相手の方に「君、久し振りに
友達が訪ねて来てくれた」とおっしゃったように私には聞こえました。
しばらくして、人が訪ねてこられましたが、それは荒川豊蔵先生でした。
その後の情景は、いまだに私の目の奥に焼き付いています。
石黒先生の壺を真ん中にして左右に、普段から寡黙であった荒川先生はもとより、日頃は
比較的饒舌であった小山先生も何も語らず黙して、ずっと坐しておられました。
そこには私共余人の立ち入ることできない石黒宗麿、小山冨士夫、荒川豊蔵先生の
想いが立ちこめていました。
後日談)
小山先生に箱書していただいた石黒先生の壺を、奈良のお客様にお納めさせて以来30数年余
昨年どうしても、もう一度拝見したくなりお訪ねしましたところ、自宅が火事にあわれ、
建て替え中でした。もしやと思っていましたが、今夏改めてお聞きしましたら無事とのこと
こうしてここにご紹介出来たことは何よりも幸甚でございます。
酒盃はその時頂戴した、花の木窯で焼かれた種子島です。
友 遠方より来る
石黒宗麿、小山冨士夫、荒川豊蔵先生
40年近くこの仕事をしていますが、最も思い出深い作品です。
石黒宗麿先生の鉄釉の瓶です。
1975年の秋頃だったでしょうか、奈良県在住のお客様が一つの壺を入手されました。
箱が無く、拝見しましたところ作風、銘などから石黒宗麿先生の作品ではなかろうかと
なりましたが、もとより確証はありません。
そこで当時ご健在だった小山冨士夫先生に鑑ていただくべく、岐阜県土岐市の花ノ木窯へ
持参いたしました。
二階の広間に通されたのですが、小山先生は部屋の奥のほうに坐しておられ、私共は
入口近くに控えて、壺を取り出しました。多分に遠目であったのですが先生は即座に
「石黒さんだね」と言われました。
それから、やおら電話の受話器を取りダイヤルを回されて、相手の方に「君、久し振りに
友達が訪ねて来てくれた」とおっしゃったように私には聞こえました。
しばらくして、人が訪ねてこられましたが、それは荒川豊蔵先生でした。
その後の情景は、いまだに私の目の奥に焼き付いています。
石黒先生の壺を真ん中にして左右に、普段から寡黙であった荒川先生はもとより、日頃は
比較的饒舌であった小山先生も何も語らず黙して、ずっと坐しておられました。
そこには私共余人の立ち入ることできない石黒宗麿、小山冨士夫、荒川豊蔵先生の
想いが立ちこめていました。
後日談)
小山先生に箱書していただいた石黒先生の壺を、奈良のお客様にお納めさせて以来30数年余
昨年どうしても、もう一度拝見したくなりお訪ねしましたところ、自宅が火事にあわれ、
建て替え中でした。もしやと思っていましたが、今夏改めてお聞きしましたら無事とのこと
こうしてここにご紹介出来たことは何よりも幸甚でございます。
酒盃はその時頂戴した、花の木窯で焼かれた種子島です。
川瀬竹志さんとの思い出
川瀬竹志さんとの事は、何故か、楽しくお酒を飲んだ
ことばかり思い起こされます。
お若い頃大阪で、川瀬竹志、田原謙次(当代陶兵衛)、西岡良弘
三人展を何度か開催させていただきました。
それぞれ父君が健在で、次代をになう若手の展覧会でした。
お互いに若かったので、夜は昼より元気で賑やかに過ごしました。
大磯では竹春先生、忍さんとともに、湯河原では陶房で作品を
拝見したり、美意識、感性を磨くために身近に置いておられた
中国古代の金属器を肴にお酒をいただきました。
川瀬竹志さんはサラリーマン生活を経て、陶芸の世界に入られた
ようですが、当初は二代竹春先生が大磯に興された古余呂伎窯の
染付、色絵の仕事に専念されていました。
初代竹春先生からの染付、色絵の作品には、川瀬家でなければ
できない、見られない独特のものがあります。
兄の忍さんが、青磁の作家として既に一家をなしておられたので
川瀬家の伝統を継承するという、責任感もお有りだったようです。
作家としての自身の作品は、白磁をテーマに追及されました。
兄の忍さんの青磁と同様、古典に学びながらも創造的な
作品を生み出そうと努力されていたと思います。
実現し得なかった私の夢として、「川瀬 忍・川瀬 竹志
青瓷・白磁展」開催がありました。
この陶硯は、我が家の文机の上にあって、たまに墨、筆を
とる時に使わせていただいています。
川瀬竹志さんとの事は、何故か、楽しくお酒を飲んだ
ことばかり思い起こされます。
お若い頃大阪で、川瀬竹志、田原謙次(当代陶兵衛)、西岡良弘
三人展を何度か開催させていただきました。
それぞれ父君が健在で、次代をになう若手の展覧会でした。
お互いに若かったので、夜は昼より元気で賑やかに過ごしました。
大磯では竹春先生、忍さんとともに、湯河原では陶房で作品を
拝見したり、美意識、感性を磨くために身近に置いておられた
中国古代の金属器を肴にお酒をいただきました。
川瀬竹志さんはサラリーマン生活を経て、陶芸の世界に入られた
ようですが、当初は二代竹春先生が大磯に興された古余呂伎窯の
染付、色絵の仕事に専念されていました。
初代竹春先生からの染付、色絵の作品には、川瀬家でなければ
できない、見られない独特のものがあります。
兄の忍さんが、青磁の作家として既に一家をなしておられたので
川瀬家の伝統を継承するという、責任感もお有りだったようです。
作家としての自身の作品は、白磁をテーマに追及されました。
兄の忍さんの青磁と同様、古典に学びながらも創造的な
作品を生み出そうと努力されていたと思います。
実現し得なかった私の夢として、「川瀬 忍・川瀬 竹志
青瓷・白磁展」開催がありました。
この陶硯は、我が家の文机の上にあって、たまに墨、筆を
とる時に使わせていただいています。
二代 川瀬竹春先生のこと
1977年、大阪で初めての個展を開催させていただいた時は
染付祥瑞で無形文化財に指定されていた、初代竹春先生が
ご健在で、本名の「川瀬順一作陶展」でした。
しかしその頃で、二代竹春先生の作陶歴はすでに40年近くにおよび
中国陶磁の元、明、清の染付、祥瑞、古染付、釉裏紅、赤絵、金襴手、
黄地紅彩、緑地黄彩、黄地染付、豆彩、など精磁のすべての技法を
手のうちにされておられました。
ことに成化豆彩は、先代を継承されたものではなく、独自に研究され
今日まで、現代陶芸界でそれ以上の作品を拝見したことがありません。
竹春先生の作品を語っているうちに、現代の焼き物作家、愛好家、私共が
焼き物を見るにあたっての重要なことに気が付きました。
それは焼き物のに関してよく言われる「写し」倣古という言葉です。
1979年、壺中居で開催された「二代竹春襲名展」での竹春先生挨拶文に
「私の憧れる中国彩磁の研究を続け理論ではなく其の素晴らしさの中に
埋没しそこから自分を見出し度いと考え、倣古的であるとの批判を受けても
安易な創造は流行であると信じ、理想とするものが偉大であって乗り越える
ことが叶わぬともこれが自分の道だと信じております。」とありますが
ここに、この事の真意の一つが覗えると思います。
竹春先生の元染風のデミタスカップです、伝世品では釉裏紅の盤がのみが有り
中央の窪みから、盃台と考えられたのでしょうか、このように創造されました。
中国彩磁の精髄に近迫された竹春先生ですが、その作品には常に先生の香りが
ただよっていました。
川瀬家は先の戦時中に、京都の五条坂から立ち退きにあい、神奈川県大磯に移住
されたのですが、二代竹春先生も外地からの帰還後、その地の三井本家別宅内の
城山荘の登窯での仕事では、いわゆる土物も作られたようで、ことに唐津は
先代と共にお好きだったようです。
唐津の西岡小十先生のお供で、川瀬家の茶会に招かれたことがありました
焼き物は、古唐津づくしで、おそらく小十先生に鑑定していただこうとの
気持ちも、おありだったのでしょうか。
小十先生は、お道具のうち何点かは「古唐津では見たことがありません」と
表現されましたが、小十先生が見たことがないということは、古唐津ではない
ということでしょうか。
茶道具として、雅味、お茶気のある唐津物は、どうも京唐津が多いようです。
小十先生の論では、多くの古唐津は「素朴で簡素」なもので、それ故に
味わいのある、独自の小十唐津を創り出そうとされたのだと思います。
大磯の川瀬家にお伺いするたびに、羨ましく思っていたことがあります。
応接室に置いておられた、灰皿です。
当時、川瀬家の皆様が愛煙家だったようで、各所に自前、自作の灰皿が
置いてありました。万歴赤絵の大振りもの、小振りの染付、色絵など、
うらやましく思いましたが、譲っていただきたいとは言い出しがたく
何人かの、親しい若い陶芸家によく似たものを依頼したこともありましたが
どうも川瀬家のようにはいきませんでした。
竹春先生のお悔やみに大磯に行き忍さんと、竹春先生、竹志さんとの
いろいろの思い出話中で、灰皿のことも言ったようです。
後日、忍さんが来阪された折、竹春先生が作り、愛用されていた
この灰皿を記念にと持参していただき、頂戴しました。
煙草をやめられなくて、唯一の恵みです。嬉しいことでもあり
悲しいことでもあります。
1977年、大阪で初めての個展を開催させていただいた時は
染付祥瑞で無形文化財に指定されていた、初代竹春先生が
ご健在で、本名の「川瀬順一作陶展」でした。
しかしその頃で、二代竹春先生の作陶歴はすでに40年近くにおよび
中国陶磁の元、明、清の染付、祥瑞、古染付、釉裏紅、赤絵、金襴手、
黄地紅彩、緑地黄彩、黄地染付、豆彩、など精磁のすべての技法を
手のうちにされておられました。
ことに成化豆彩は、先代を継承されたものではなく、独自に研究され
今日まで、現代陶芸界でそれ以上の作品を拝見したことがありません。
竹春先生の作品を語っているうちに、現代の焼き物作家、愛好家、私共が
焼き物を見るにあたっての重要なことに気が付きました。
それは焼き物のに関してよく言われる「写し」倣古という言葉です。
1979年、壺中居で開催された「二代竹春襲名展」での竹春先生挨拶文に
「私の憧れる中国彩磁の研究を続け理論ではなく其の素晴らしさの中に
埋没しそこから自分を見出し度いと考え、倣古的であるとの批判を受けても
安易な創造は流行であると信じ、理想とするものが偉大であって乗り越える
ことが叶わぬともこれが自分の道だと信じております。」とありますが
ここに、この事の真意の一つが覗えると思います。
竹春先生の元染風のデミタスカップです、伝世品では釉裏紅の盤がのみが有り
中央の窪みから、盃台と考えられたのでしょうか、このように創造されました。
中国彩磁の精髄に近迫された竹春先生ですが、その作品には常に先生の香りが
ただよっていました。
川瀬家は先の戦時中に、京都の五条坂から立ち退きにあい、神奈川県大磯に移住
されたのですが、二代竹春先生も外地からの帰還後、その地の三井本家別宅内の
城山荘の登窯での仕事では、いわゆる土物も作られたようで、ことに唐津は
先代と共にお好きだったようです。
唐津の西岡小十先生のお供で、川瀬家の茶会に招かれたことがありました
焼き物は、古唐津づくしで、おそらく小十先生に鑑定していただこうとの
気持ちも、おありだったのでしょうか。
小十先生は、お道具のうち何点かは「古唐津では見たことがありません」と
表現されましたが、小十先生が見たことがないということは、古唐津ではない
ということでしょうか。
茶道具として、雅味、お茶気のある唐津物は、どうも京唐津が多いようです。
小十先生の論では、多くの古唐津は「素朴で簡素」なもので、それ故に
味わいのある、独自の小十唐津を創り出そうとされたのだと思います。
大磯の川瀬家にお伺いするたびに、羨ましく思っていたことがあります。
応接室に置いておられた、灰皿です。
当時、川瀬家の皆様が愛煙家だったようで、各所に自前、自作の灰皿が
置いてありました。万歴赤絵の大振りもの、小振りの染付、色絵など、
うらやましく思いましたが、譲っていただきたいとは言い出しがたく
何人かの、親しい若い陶芸家によく似たものを依頼したこともありましたが
どうも川瀬家のようにはいきませんでした。
竹春先生のお悔やみに大磯に行き忍さんと、竹春先生、竹志さんとの
いろいろの思い出話中で、灰皿のことも言ったようです。
後日、忍さんが来阪された折、竹春先生が作り、愛用されていた
この灰皿を記念にと持参していただき、頂戴しました。
煙草をやめられなくて、唯一の恵みです。嬉しいことでもあり
悲しいことでもあります。
小山冨士夫先生と永江港史先生
今年の夏から秋にかけて、訃報が相次ぎました。
8月には川瀬竹志先生、9月には二代川瀬竹春先生、10月は永江港史先生と
日頃筆の進まない私ですが、永年親しくしていただいた お三方の訃報に接し
さすがに感慨深く、様々なことが思い起こされます。
永江港史先生も、小山冨士夫先生に紹介していただいた、陶芸家のお一人です。
岐阜の花の木窯をお訪ねした ある日。 美濃焼を代表する「織部の一番
いい人はどなたですか」とお伺いしたところ「となりに居てる永江さんや」
とのお答えでした。
小山先生の花の木窯は、土岐の市街地から県道を北へ、大萱へ行く途中
県道より脇道にはいった、谷の突き当りにありました。
その間、民家は一軒のみ、それが永江先生の陶房でした。
さっそく永江先生のところへ行き、拝見した織部焼は魅力にあふれた
独特の焼き物でした。
永江先生の織部焼きは、細部まで目の行き届いた丁寧な作り、
端正でありながら柔らかな、品のある造形。
なによりも鉄絵の部分には長石釉がかけられて、志野のような緋色と
トロリとした肌合いを持ち、緑釉は草色で明るく、微妙な濃淡がある
志野と織部という相矛盾した焼成を、一つの器の中に具現した織部です。
そのような織部は伝世品にも、ごくわずかしか見られません。
唐津の西岡小十先生と同様に、ただ単に古い物を写し再現するのではなく
自身の美意識によって、古唐津、古織部以上のものを作ろうとした
現代陶芸の、作家としての姿勢、生き方、苦労を、お二人に見てきました。
永江港史先生は、知る人ぞ知る 織部焼の名匠ではありましたが
長年、食器造りに専念されて、展覧会の比較的少ない陶芸家でした。
そのせいもあって、名前を知っていても実物をあまり見たことが無い方
若い人では、名前も知らない方々が結構おられるようです。
あらためて、永江港史先生の陶歴をご紹介しておきます。
1926 岐阜県土岐市に生まれる
1955 父 陶六(多治見県立陶磁試験場工芸室に勤務)に師事
1961 松山祐利先生(武蔵野美術大学講師)に師事
1964 桃山古窯の地 五斗蒔に(市の沢窯)を築き独立
1972 日本橋三越本店工芸サロンにてグループ展(以降五回)
1977 大阪セントラルギャラリーにて個展(以降八回)
1986 京都 野村美術館にて作陶展
1999 織部焼にて土岐市の無形文化財保持者に認定
2002 日本橋三越本店にて個展
ギャラリー縄にて個展
2004 ギャラリー縄にて個展
2007 10月 逝去
20年来、これで お茶を毎日飲ませていただいています
小ぶりの湯飲み碗です。
たまには お酒もはいります。
今年の夏から秋にかけて、訃報が相次ぎました。
8月には川瀬竹志先生、9月には二代川瀬竹春先生、10月は永江港史先生と
日頃筆の進まない私ですが、永年親しくしていただいた お三方の訃報に接し
さすがに感慨深く、様々なことが思い起こされます。
永江港史先生も、小山冨士夫先生に紹介していただいた、陶芸家のお一人です。
岐阜の花の木窯をお訪ねした ある日。 美濃焼を代表する「織部の一番
いい人はどなたですか」とお伺いしたところ「となりに居てる永江さんや」
とのお答えでした。
小山先生の花の木窯は、土岐の市街地から県道を北へ、大萱へ行く途中
県道より脇道にはいった、谷の突き当りにありました。
その間、民家は一軒のみ、それが永江先生の陶房でした。
さっそく永江先生のところへ行き、拝見した織部焼は魅力にあふれた
独特の焼き物でした。
永江先生の織部焼きは、細部まで目の行き届いた丁寧な作り、
端正でありながら柔らかな、品のある造形。
なによりも鉄絵の部分には長石釉がかけられて、志野のような緋色と
トロリとした肌合いを持ち、緑釉は草色で明るく、微妙な濃淡がある
志野と織部という相矛盾した焼成を、一つの器の中に具現した織部です。
そのような織部は伝世品にも、ごくわずかしか見られません。
唐津の西岡小十先生と同様に、ただ単に古い物を写し再現するのではなく
自身の美意識によって、古唐津、古織部以上のものを作ろうとした
現代陶芸の、作家としての姿勢、生き方、苦労を、お二人に見てきました。
永江港史先生は、知る人ぞ知る 織部焼の名匠ではありましたが
長年、食器造りに専念されて、展覧会の比較的少ない陶芸家でした。
そのせいもあって、名前を知っていても実物をあまり見たことが無い方
若い人では、名前も知らない方々が結構おられるようです。
あらためて、永江港史先生の陶歴をご紹介しておきます。
1926 岐阜県土岐市に生まれる
1955 父 陶六(多治見県立陶磁試験場工芸室に勤務)に師事
1961 松山祐利先生(武蔵野美術大学講師)に師事
1964 桃山古窯の地 五斗蒔に(市の沢窯)を築き独立
1972 日本橋三越本店工芸サロンにてグループ展(以降五回)
1977 大阪セントラルギャラリーにて個展(以降八回)
1986 京都 野村美術館にて作陶展
1999 織部焼にて土岐市の無形文化財保持者に認定
2002 日本橋三越本店にて個展
ギャラリー縄にて個展
2004 ギャラリー縄にて個展
2007 10月 逝去
20年来、これで お茶を毎日飲ませていただいています
小ぶりの湯飲み碗です。
たまには お酒もはいります。
小山先生と小十先生
今年の3月の末、京都の大徳寺の別院、徳禅寺で唐津の
西岡小十先生の追善法要がいとなまれました。
昨年の8月30日に、89歳で亡くなられた西岡小十先生との
出会いをつくっていただいたのも、小山冨士夫先生です。
昭和49年(1974年)の晩秋か、昭和50年の冬のだったでしょうか。
岐阜県土岐市の花の木窯に、小山冨士夫先生をお訪ねしました。
昼間にもかかわらず小山先生は、大振りの徳利を手にされ、
いつものように「まあ、一杯」という事になりました。
そのうち先生が「この徳利、君らどう思うと」と問われました。
私どもは、なけなしの知恵を絞り「古唐津ではないでしょうか」と
恐るおそる返答しましたが、小山先生は、我が意を得たりとの
表情で「実は、西岡小十さんという人が今作ってる物で、
西岡さんは、唐津の神様のような人です」と言われれました。
朝鮮唐津の、徳利と言うよりか、今風に言えば、大振りの
「徳利花入」でしょうが、充分に焼けて、首が傾いでいました。
2003年開催された、「小山冨士夫の眼と技」展の小山先生旧蔵の
出品作のような気がします。
その時、私がまず感じた事は、当時、74歳で陶磁器研究家として
世界的評価を得ている小山先生が、当時無名で、57歳の小十先生を
「神様」と表されたことです。 なにか奇異な感じをうけました。
しかしその後、小山先生の人柄を知るにつけ、不思議ではなくなり
ましたが。
写真の左は、小山先生の小十先生の窯で焼かれた斑唐津山盃、
右は、小十先生の斑唐津の徳利で、小山先生の影響が感じられます。
いずれも、その頃、花の木窯、小次郎窯で分けていただいた作品で、
その後、ずいぶんお酒を吸っています。
追記) 右の徳利の首は、阪神大震災の折、損傷し
金繕いをしています。
今年の3月の末、京都の大徳寺の別院、徳禅寺で唐津の
西岡小十先生の追善法要がいとなまれました。
昨年の8月30日に、89歳で亡くなられた西岡小十先生との
出会いをつくっていただいたのも、小山冨士夫先生です。
昭和49年(1974年)の晩秋か、昭和50年の冬のだったでしょうか。
岐阜県土岐市の花の木窯に、小山冨士夫先生をお訪ねしました。
昼間にもかかわらず小山先生は、大振りの徳利を手にされ、
いつものように「まあ、一杯」という事になりました。
そのうち先生が「この徳利、君らどう思うと」と問われました。
私どもは、なけなしの知恵を絞り「古唐津ではないでしょうか」と
恐るおそる返答しましたが、小山先生は、我が意を得たりとの
表情で「実は、西岡小十さんという人が今作ってる物で、
西岡さんは、唐津の神様のような人です」と言われれました。
朝鮮唐津の、徳利と言うよりか、今風に言えば、大振りの
「徳利花入」でしょうが、充分に焼けて、首が傾いでいました。
2003年開催された、「小山冨士夫の眼と技」展の小山先生旧蔵の
出品作のような気がします。
その時、私がまず感じた事は、当時、74歳で陶磁器研究家として
世界的評価を得ている小山先生が、当時無名で、57歳の小十先生を
「神様」と表されたことです。 なにか奇異な感じをうけました。
しかしその後、小山先生の人柄を知るにつけ、不思議ではなくなり
ましたが。
写真の左は、小山先生の小十先生の窯で焼かれた斑唐津山盃、
右は、小十先生の斑唐津の徳利で、小山先生の影響が感じられます。
いずれも、その頃、花の木窯、小次郎窯で分けていただいた作品で、
その後、ずいぶんお酒を吸っています。
追記) 右の徳利の首は、阪神大震災の折、損傷し
金繕いをしています。
思い出の作品 邂逅
愚生 尾崎正男も昨秋、満60歳を迎え、懐旧の念にかられることも
ままあります。
先頃、ギャラリー縄で開催していました水谷渉展に、鯉江良二先生が
来廊されました。 水谷さんも、弟子の一人のようです。
鯉江先生は、私とは30数年振りの再会のごとく、懐かしそうに
「昔、お世話になりました」と言われました。
実はその間、若干お会いしたことがありますが、ゆっくり話を
するのは久し振りです。
1973年、大阪セントラルギャラリーのオープン時の引き出物を
鯉江良二先生に作っていただきました。
白磁の小鉢様のもので、灰皿として使用される方が多かった
かと思います。
前衛陶芸の先鋭的な旗手として、過激に生きておられた
鯉江先生でしたが、当時、貧困の極みだったように
お見受けしました。
追記)
家内に「前文の終わり方、唐突ではないですか」と言われた
ちょっとした一言により、文章が止まってしまいました。
勇を期して再開します。
前述の縁により、鯉江良二先生には、1974,5年頃、1,2回
ロクロ作品による展覧会を、セントラルギャラリーで
していただきました。1回目は白磁、2回目は焼締めだった
ように思います。
写真の作品は焼〆の鉢で、それ以来我が家では、小物入れとして
重宝しています。
展覧会の紹介文は、八木一夫先生が文をよせていただきました。
この様な、文章でした。
「常滑の古陶には、他の古窯ものにみられるような内攻性はすくない。
むしろ海洋的なひろがりを私は感じるのである。
鯉江良二君は、その常滑の最も進歩的な作家の一人だ。
古い家をつぶして、その古材で野焼きを敢行した、そのことだけでも
仰天したのに、その作品というのが、見ればただの土くれを
焼き固めたものばかり。
ただごろごろと画廊の床全面に敷きつめているのだった。
やきものというものの原理それっきりの提示。
感覚とか造型とか美とか、やきものに附随するさまざまの
後天的な要素を振り払っての、それは思弁的行為だった。
今度の展示は、やや進展して、轆轤、釉薬、焼成といった
技術と、作者のかかわりを、原点的にみつめ直そうとしている
ように私にはみえる。
彼に潜在している強いふてぶてしさ、さらに加えて、
ひと一倍の優しさすらが、もうその原点的表情から
匂い立っている。」
八木一夫(陶芸家)
先日、7月3日、三重県のパラミタ美術館で
鯉江良二先生にお会いしました。
人間というのは、変わらないものです。
愚生 尾崎正男も昨秋、満60歳を迎え、懐旧の念にかられることも
ままあります。
先頃、ギャラリー縄で開催していました水谷渉展に、鯉江良二先生が
来廊されました。 水谷さんも、弟子の一人のようです。
鯉江先生は、私とは30数年振りの再会のごとく、懐かしそうに
「昔、お世話になりました」と言われました。
実はその間、若干お会いしたことがありますが、ゆっくり話を
するのは久し振りです。
1973年、大阪セントラルギャラリーのオープン時の引き出物を
鯉江良二先生に作っていただきました。
白磁の小鉢様のもので、灰皿として使用される方が多かった
かと思います。
前衛陶芸の先鋭的な旗手として、過激に生きておられた
鯉江先生でしたが、当時、貧困の極みだったように
お見受けしました。
追記)
家内に「前文の終わり方、唐突ではないですか」と言われた
ちょっとした一言により、文章が止まってしまいました。
勇を期して再開します。
前述の縁により、鯉江良二先生には、1974,5年頃、1,2回
ロクロ作品による展覧会を、セントラルギャラリーで
していただきました。1回目は白磁、2回目は焼締めだった
ように思います。
写真の作品は焼〆の鉢で、それ以来我が家では、小物入れとして
重宝しています。
展覧会の紹介文は、八木一夫先生が文をよせていただきました。
この様な、文章でした。
「常滑の古陶には、他の古窯ものにみられるような内攻性はすくない。
むしろ海洋的なひろがりを私は感じるのである。
鯉江良二君は、その常滑の最も進歩的な作家の一人だ。
古い家をつぶして、その古材で野焼きを敢行した、そのことだけでも
仰天したのに、その作品というのが、見ればただの土くれを
焼き固めたものばかり。
ただごろごろと画廊の床全面に敷きつめているのだった。
やきものというものの原理それっきりの提示。
感覚とか造型とか美とか、やきものに附随するさまざまの
後天的な要素を振り払っての、それは思弁的行為だった。
今度の展示は、やや進展して、轆轤、釉薬、焼成といった
技術と、作者のかかわりを、原点的にみつめ直そうとしている
ように私にはみえる。
彼に潜在している強いふてぶてしさ、さらに加えて、
ひと一倍の優しさすらが、もうその原点的表情から
匂い立っている。」
八木一夫(陶芸家)
先日、7月3日、三重県のパラミタ美術館で
鯉江良二先生にお会いしました。
人間というのは、変わらないものです。