今日は女の子の祭、しかし、孫はいないし訳有って田舎から急きょ身を寄せていた義母も、小さいながらも庭のある義妹の家へと行きました。
この半年間の、心の嵐は、大きなダメージを与えたかに見えたけれど、吹きすぎてみると、思いのほか大したことはなく、ずっしりとした手ごたえのある置き土産が残ったのです。
今、姑は、娘との生活のうれしくてたまらない様子が電話から伝わってくるから、良い選択だったと思う。「かあさん、よかったね。」
今年は甲午。何事か、新しく始まり、変革する年らしく、いろいろと気持ちの在り方が変わったり、物事が始まったりしている。
いま、ここに書けることと言ったら、漢詩をつくる気になったこと。
詩吟仲間から、作り方のレクチャーを受けた時は、心が動かなかったのだが、確実に私の中に種が植えつけられていたことを知る。
孔子様を愛し、漢詩の美しさを教えてくださった須藤先生の愛あふれる言葉に触発され、固かった種が芽を吹きだしたようだ。
漢詩といえば、完全にこれは私の勉強不足なのだけれど、好みに合った詩がないと思っていた。
でも、そうではなかったなぁ。
そんな漢詩の良さを知らないで続けていた詩吟って、私にとって何だったのだろうなぁ。
そういう私が詩吟の先生なんて、おかしいよねぇ。
それでは、少しはましな人になりつつあり、もう少し深みのある詩吟をやれるようになることを期待するとしよう。
とりあえず資料を参考に、作った詩を先輩にみていただいて、チェックャCントをやり直し,推敲の真似事をはじめているところ。
元の詩は、あっという間にできたのだけれど、さて、見えなかった大きな壁があることを知る。
とりあえず平仄と韻を合わせて、一応の完成としよう。
詩を作り始めるにあたって、テーマとして浮かび上がったのは、佐藤鷺照先生のこと。
長く、お亡くなりになったことを知らず、きちんと送別の思いをあらわさず来てしまいました。先生のカセットテープを聞いては、存命のごとくにしていました。
ここらで、きちんとお送りせねばと思っていたので、先生を思い送る詩を作ろう。
さて、いかなるものが出来上がりますやら。
出来上がったら、関西吟詩文化協会の吟詩日本に投稿しようとしたのだが、指定の内容でないと受け付けられないと分かり、投稿は断念するか、それとも、ちょっと脇に置いて、四月の初めに締め切りが來る「夏」を主題とした詩を作り直すのか、いまだ思案中。
それにしても、孔子様を読みとく須藤先生との出会いと、吟友の種まきがなかったら、ただ声を出すだけの人として、満足しきっていたなぁと思う。
姑の置き土産その1でありました。
その2以降は、プライベートすぎる内容で、ここには書けません。あしからず。
そのような思いの中にいる先日の中央会では、野田 芦孝先生不在のため、偉そうに声の出し方を講義してしまった。
幹事長の教案をもとに、日頃思っていることを、忌憚なく表現させていただきました。
山口先生の願うみな等しく理想の発声ができるようになるためには、繰り返し飽きずに練習することという言葉が、山口先生の直弟子を訓練する言葉の中にありました。
頭や文字からの情報に頼るのではなく、繰り返し体に覚えさせる。
自分の体という楽器を思い通り操るには、メンテナンスをせねばね。
そして、さびをとったら、最高の音を奏でてあげなければ、せっかくの楽器が泣いてしまう。
せっかくの名器を持ちながら、使いきれてない人があまりに多い気がします。
この私でさえわかるのだから。。。
その願いを、どうかなえたらよいのだろう?
続けること、あきらめないことは必須で、その上にはなにが? (3/5)
この半年間の、心の嵐は、大きなダメージを与えたかに見えたけれど、吹きすぎてみると、思いのほか大したことはなく、ずっしりとした手ごたえのある置き土産が残ったのです。
今、姑は、娘との生活のうれしくてたまらない様子が電話から伝わってくるから、良い選択だったと思う。「かあさん、よかったね。」
今年は甲午。何事か、新しく始まり、変革する年らしく、いろいろと気持ちの在り方が変わったり、物事が始まったりしている。
いま、ここに書けることと言ったら、漢詩をつくる気になったこと。
詩吟仲間から、作り方のレクチャーを受けた時は、心が動かなかったのだが、確実に私の中に種が植えつけられていたことを知る。
孔子様を愛し、漢詩の美しさを教えてくださった須藤先生の愛あふれる言葉に触発され、固かった種が芽を吹きだしたようだ。
漢詩といえば、完全にこれは私の勉強不足なのだけれど、好みに合った詩がないと思っていた。
でも、そうではなかったなぁ。
そんな漢詩の良さを知らないで続けていた詩吟って、私にとって何だったのだろうなぁ。
そういう私が詩吟の先生なんて、おかしいよねぇ。
それでは、少しはましな人になりつつあり、もう少し深みのある詩吟をやれるようになることを期待するとしよう。
とりあえず資料を参考に、作った詩を先輩にみていただいて、チェックャCントをやり直し,推敲の真似事をはじめているところ。
元の詩は、あっという間にできたのだけれど、さて、見えなかった大きな壁があることを知る。
とりあえず平仄と韻を合わせて、一応の完成としよう。
詩を作り始めるにあたって、テーマとして浮かび上がったのは、佐藤鷺照先生のこと。
長く、お亡くなりになったことを知らず、きちんと送別の思いをあらわさず来てしまいました。先生のカセットテープを聞いては、存命のごとくにしていました。
ここらで、きちんとお送りせねばと思っていたので、先生を思い送る詩を作ろう。
さて、いかなるものが出来上がりますやら。
出来上がったら、関西吟詩文化協会の吟詩日本に投稿しようとしたのだが、指定の内容でないと受け付けられないと分かり、投稿は断念するか、それとも、ちょっと脇に置いて、四月の初めに締め切りが來る「夏」を主題とした詩を作り直すのか、いまだ思案中。
それにしても、孔子様を読みとく須藤先生との出会いと、吟友の種まきがなかったら、ただ声を出すだけの人として、満足しきっていたなぁと思う。
姑の置き土産その1でありました。
その2以降は、プライベートすぎる内容で、ここには書けません。あしからず。
そのような思いの中にいる先日の中央会では、野田 芦孝先生不在のため、偉そうに声の出し方を講義してしまった。
幹事長の教案をもとに、日頃思っていることを、忌憚なく表現させていただきました。
山口先生の願うみな等しく理想の発声ができるようになるためには、繰り返し飽きずに練習することという言葉が、山口先生の直弟子を訓練する言葉の中にありました。
頭や文字からの情報に頼るのではなく、繰り返し体に覚えさせる。
自分の体という楽器を思い通り操るには、メンテナンスをせねばね。
そして、さびをとったら、最高の音を奏でてあげなければ、せっかくの楽器が泣いてしまう。
せっかくの名器を持ちながら、使いきれてない人があまりに多い気がします。
この私でさえわかるのだから。。。
その願いを、どうかなえたらよいのだろう?
続けること、あきらめないことは必須で、その上にはなにが? (3/5)