東大島教室に参加しました。
久し振りの野田会長の指導教場です。
一通りの講義と練習の後の一人一吟では、今日習った「江雪」でも「梅一輪」でもなく、来週のことぶき吟詠大会の吟題を聞いていただきました。
野田会長のご指摘は、あくまでも優しく、それだけ?といつも思います。
それに対し、Uさんの『三行に命をかけた吟詠』とのコメントに、吾ながら、
おかしいくらいに喜んでしまいました。
命をかけるという言葉に、学生のように反応し、「古い時代の吟詠をする人」
と更に言われた言葉もいかにもと思いました。
あまりに的確に私の吟詠を表しすべて包括している言葉でした。
こんな明快な言葉は、一言でど真ん中に届くものなのですねぇ。
私に取って大事な「照」であることの自負を持ち続けていたことへのご褒美
でもあると思う。
鷺照先生は、すでに鬼籍に入っており、故郷で活躍する今の「照」たちは、
どんな思いを抱きどんな吟詠をしているのだろうか?
昭和48年に、そこを出てきた私は、その時の教えをそのまま大事に続け
ていままで変わることはありません。
変わらないでいたということは、芦孝先生のとてつもなく大きな包容力と配慮
の賜物であると思いました。
心地よい居場所、練習場所を準備し提供し、何の束縛もなくすべての人を
大きな心で迎えてくださり、私には「照」のままで居させて下さった。
今更ながらにその大きさを知り、うかうかと恩恵の享受だけしてきたと思いました。
いろいろと考えていると、いろんなもやもやが、一気に形を成しながら
まとまって、しかるべきところにまっすぐに動いていて整理されていく。
目の前がドンドン晴れていくようでした。
それと同時に、見ないふりをしていたこともはっきりと見えて、これからの
事を自分らしく過ごすことに弾みがつきそうです。
古い時代の吟詠では、教える価値がないでしょうか。
そのところを良く考える必要があります。
せっかく期待を持って夢松風と吟友草加の会員となってくださった方々に、
どう対して行くかをしっかりと考え直さねばなりません。
「命をかける吟」「古い吟詠」「新しい吟詠」
「芦」に居ながら「照」であり続けたこと、これからも変わることは無い。
そのことで新しく分かってくることについては、余り短絡しないでじっくり
考えていこうと思います。
物事が整理され、行く方向が決まってくることを予想すると、背骨が通じる
思いがする。
それにしても、「照」の心意気を思い出して、心から安堵し、違った自信が
沸き上がってくるのも感じます。
「片隅で静かに続ける」という言葉には、少し毒気があるような気がします。
ただ、よく考えてみると、その言葉に近い思いを抱いていたことも無いわけでは無いときづくと、また新しい気持ちがわいてくるから、がっかりすることは無い。
これから先の限りない可能性を持った若い人には、選択する自由をどう説明し
たらよいのか。
基本の基が終わる時は、いつなのか具体的に考えたことは無いが、肝心要は
そこだろう。