トゥールさんのSAVE THE CHILDRENへの付き添いはなくなりました。
それは先週からのことだったのですが、迂闊にも1回限りだと思ったのです。彼女は、毎週と言ったというのですが、今更水鰍ッ論です。
私の授業に付き合うのは、彼女にとって出る幕がほとんど無い為、居なくてもよい存在であると思ったようです。
その上、彼女は先週、施設の先生たちにトゥールさんが居なくても、私たちは十分会話を楽しんだとからかわれた事にもプライドが傷ついたようでした。
その一言の、通訳でどれだけ助かるか分からないこともあるのに。
それが、伝わらなかった。
お手伝いをしてくれている代わりに、彼女が始めた日本語の授業のための手助けを惜しみなくしていることも、卒論のために2冊の辞書を贈ったこともすっかり忘れていると言うより、なぜ贈られたか、いろいろしてあげているのかわかっていなかったようです。
出来るからする。してもらったことに始めは、ありがたく思っても、次の日になるともう、それが当たり前、さらにさらにと駄目もとで要求や欲望が増えていく。
それが、私にはあわよくばと映るのです。
わざわざ彼女のために出かけて行って本を借りてあげると言うことも、彼女にとって、できるからしてくれるのであって、出来なければ断られてもいい、それはそれで仕方が無い、一つの行動が次への何のつながりも無く、その場限りでおしまい。
実にさっぱりとしています。
あれで、これが、こうなってと複雑に物事を絡ませて考える私は、馬鹿みたい。
駄目なことは断ればよい、昨日はやってあげても今日は気分次第で断ったとしても何の恨みも無いと、あまりにさばさばしている考えに、唖然とするが、そこにこだわって、「してあげている」と言い張る私は、小さな人間なのだなぁ。
そうなれたら、ありがとうの一言だけがほしいとこだわっている私は居なくなって、とても楽になるだろう。
一回り大きい人間になれるだろうか。
小さいことにこだわらない夫も、別の件で今私の抱えている思いは共感してくれているから、やはりその出来事は特別なことと考えて良い事なのだろう。分かってくれている人が居るだけでよい。もう済んだこととして、さばさばと忘れてしまおう。
子供たちに「とってください」「ありがとう」を教えている私は、一体何?
空しくなってはいけない。がんばれすみこ!