衆議院の本会議での、教育基本法改正案の審議を録画で見ていました。ま、とにかく、政府や各党がどんなことを言っているのか理解したかったんです。
それなりになかなか面白かったんですけど、その中で、小坂憲次文部科学大臣の答弁になると、私は話に集中して聞いていることができなくなっちゃうんです。
私は、いつのまにやら考え事にふけったり、手近の新聞を読み出したりしています。いけない、いけない、ちゃんと聞かなければ、と気を引き締めるんだけど、はっと気がつくと聞いていない。それでも頑張って聞いていると、声は耳に入るのですが、「この人はこういうことを言いたいのだ」というものが形成されません。
話が一区切りついた瞬間にふっとアタマの中が白紙状態なんです。小坂大臣の声を聞くと「あ、この人の言葉は人格と遊離した作り物だ。」と感じるためです。
小坂さん、ごめんなさい。私の事情に過ぎません。でも、それは私にとっては現実問題で、とにかく、いったい何の話だったのか、さっぱりわからないのです。小泉や鳩山や大田の話はわかるのだから、国語能力の問題でないことは確かです。
「授業がわからない」という現象の多くは、実はこれなんです。先生の言葉が、生徒の中に実像を結ばないのです。
「先生が何を言っているのかさっぱりわからない」のは、先生の資質、生徒の資質、そのときの状況、この三つが複雑にからみあった現象です。なかなか原因もわからないし、対策もわからない。でも、その生徒が学べるかどうかに最も決定的なことなのです。
教育問題って、こういう次元のことなんです。人間そのものの性質、感覚、心のひだに深く根ざしています。そういうものにいつも直面しているのが、教師であり、生徒なんです。
法律が私に「国会答弁をわかるようになれ」と命じてもどうしようもないし、法律が大臣に「すべての人にわかるように答弁しろ」と命じても、どうしようもないのです。そんな次元のことなんです。
それを、「幅広い知識と教養を身につけ、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとおもに、健やかな身体を養うこと」が教育の目標であるという法律を作り、行政官が教師たちにそれを指示すれば、教育がうまくいくんだそうです。
これは、言ってることがではなくて、理屈がわからない。
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