雨の新御堂筋。 - カトカト日記 ~霊園・墓石の株式会社加登 公式ブログ~

雨の新御堂筋。

小ぬか雨ふる新御堂筋を北上し、帰途に就く。
しばらく日記を更新しない間に、気がつけば雪の季節が目前に迫っていました。

冬に備えて皮下脂肪を蓄えんと躍起になっているのか、幾らジムで走ろうと僕の体重は一向に減る気配を見せません。

何か知らんが、秋は食べ物が旨いのです。
春や夏、それから、冬と大体同じくらい旨い。

それはそうと。
今日のテーマは、相互理解について。

唐突ですが、我々の世界は、すべて言語で出来ている。
言語「的」に説明し切れない事象は、存在しないのと同じだ。

虹は7色だと我々日本人は信じて疑わないが、フランスでは虹は5色だ。
「ドレミファソラシド」の音階のなかに、アラブの人々はその十数倍もの微妙な音階を聞き分けている。たとえば、西洋音楽で育った人間が聞くとどれも「ラ」にしか聞こえない3つの音を、彼らは全く別の音として認識しているというのです。

自分にとって存在しない音を聞いている人もいれば、自分がふだん当たり前のように認識している色が、見えていない人もいる。

いや、実際は聞こえているし、見えているのです。
ただ、それを分節する言葉を持たないだけ。

虹の色にしても、「ここからがオレンジで、それ以上は茶色ね」という言語的な取り決めがなければ、全部(たとえば)「オレンジ」ってことになってしまう。


photo by Mihoko Ozaki

そもそも僕らは、得てして他人のことを判ったつもりでいるわけです。
文化が違えば当然分節の単位も違う、これは誰にでも分かります。

けれど、同じ文化圏で、たとえば毎日顔を合わせているもの同士でも、この分節の基準って結構違うんですよね。
むしろ、その基準を共有しているという幻想自体が大なり小なりその共同体の求心力を保持する原動力となっているのではとさえ思うわけです。

そして、自身の基準イコール他人の基準だと思い違いしている人には、留保がない。ひとたび「こいつは悪い人間だ」などと決め付けてしまうと、その人の言動のすべてはたちまちその枠の中に無理矢理押し込められてしまう。

心から反省して述べられた言葉も「これはポーズに過ぎない。心底反省なんてするわけがない」と一蹴。実際そうかもしれないのだけれど、そうでないかもしれない可能性については一切顧みることをしない。

そもそも他人の気持ちなんて分かるはずがないのです。他人の気持ちを語っているつもりの言葉は、既に自身の言葉なのですから。自らの、限られたボキャブラリーの範疇でしか他者の内部(と思われるもの)は語れない。究極的に互いが理解し合えるはずがないという前提のもとにしか、コミュニケーションは成立し得ないという逆説がここにある。

とある格闘技の世界戦後の騒動を見ていると、ふとそんな気持ちになりました。
他者に対する配慮とは、自身が他者を理解し得るという傲慢さの対極にあるのではないでしょうか。戦争のない世界は、そういうところから始まるんだ、なんていうと笑われそうだな。


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