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"Momotaro" as Invader(s)(Oct 26, 2014)

2014-10-26 21:34:09 | 時事ネタ(国内)
何か知らんが、義家 弘介(Kohsuke YOSHI-IE)氏が教科書検定に絡めて妙なことを述べていた。
・子供が使う教科書だからこそ 衆院議員・義家 弘介 (2014年10月25日 sankei.com)

この論説の前フリというか前半では、現在の政権が教科書検定の基準を変更した「実績」とやらを喧伝していた。
で、本番の後半部分で義家氏は、池澤 夏樹(Natsuki IKEZAWA)氏の著書を取り上げた国語の教科書に関して妙な見解を示していた。
以下、2014年10月25日分 sankei.com『子供が使う~』から後半部分を(略)。
読んだ後で、某漫画のキャラクターがとっていたポーズを真似して尾骨を骨折しないように!(不謹慎)

---- 以下引用 ----
(中略)
しかし、これで終わったわけではない。教科書問題というと、とかく社会科の教科書の記述ばかりが論じられるが、それ以外の教科においても到底看過できない記述が検定をすり抜けて子供たちに届けられた、という歴史が繰り返されてきた。

 例えば、平成10年度から14年度まで使用された高校の教科書「国語I」(筑摩書房)には、作家の池澤 夏樹氏の「狩猟民の心」を取り上げた単元があった。
以下、その一部を引用する。

日本人の(略)心性を最もよく表現している物語は何か。ぼくはそれは「桃太郎」だと思う。あれは一方的な征伐の話だ。鬼は最初から鬼と規定されているのであって、桃太郎一族に害をなしたわけではない。しかも桃太郎と一緒に行くのは友人でも同志でもなくて、黍(きび)団子というあやしげな給料で雇われた傭兵(ようへい)なのだ。更(さら)に言えば、彼らはすべて士官である桃太郎よりも劣る人間以下の兵卒として(略)、動物という限定的な身分を与えられている。彼らは鬼ケ島を攻撃し、征服し、略奪して戻る。この話には侵略戦争の思想以外のものは何もない

 わが国では思想及び良心の自由、表現の自由が保障されている。
作者が作家としてどのような表現で思想を開陳しようとも、法に触れない限り自由である。
しかし、おそらく伝統的な日本人なら誰もが唖然(あぜん)とするであろう一方的な思想と見解が、公教育で用いる教科書の検定を堂々と通過して、子供たちの元に届けられた、という事実に私は驚きを隠せない。

 例えばこの単元を用いて、偏向した考えを持つ教師が「日本人の心性とは、どのようなものであると筆者は指摘しているか。漢字4字で書きなさい」などという問題を作成したら一体どうなるか。
生徒たちは「侵略思想」と答えるしかないだろう。

 歴史を超えて語り継いできたお伽噺(とぎばなし)が侵略思想の権化としてすり替わり、子供たちを巻き込んで展開されていくことなど公教育の現場ではあってはならないことだ。

 教科書改善の活動はまだ道半ばである。
今後も継続して取り組んでいく決意だ。
---- 引用以上 ----

四文字熟語・・・。
義家氏は、高校で教員をしてた際にそういう教員を見た事があるんだろうか?(違)


ってのはともかく。

義家氏が問題視してる池澤氏の著書については、もっと重要な問いかけが秘められてる模様。
・船で沖へ釣りへ/アイヌのはなし(2012年9月5日 L'Ecume des Jours)

上の記事で井口 和泉さん(本職は料理家)は、『狩猟民の心』におけるアイヌの昔話を引用した部分を紹介していた。
参考までに、2012年9月5日分L'Ecume des Jours『船で沖へ釣りへ~』から、さっき義家氏が引用した部分の後を紹介した部分(ややこしい)を(略)

---- 以下引用 ----
[その前には義家氏が引用した部分がある]
(中略)
狩猟民族は動物を殺して食べるから野蛮で残虐、農耕民族は畑のものを食べるから温和という常識があるとすれば、これほど見当違いな誤解はない。
それはライオンがカモシカやシマウマを食べるから残虐だと避難することに近い。
本当を言えば、人は畑を作ることでひたすら攻撃的になり、貪欲になり、残虐にもなったのである。
畑や水田によって人の生活やすっかり安定した。
なんといっても狩猟採集経済に比べれば、農耕の土地利用効率は二桁か三桁は高い。
毎年確実に食料が手に入るというのは素晴らしいことではないか。
この高い効率は食料の余剰を生む。
時には食べきれないほどの収穫があり、それを蓄積して富というものが生じた。
そして、富は当然収奪の大量となり、そこから大きな権力と戦争が生まれた。
文明というものの歴史を最も簡単に要約すればそういうことになる。
そういう長い争いの歳月の果てに、今のぼくたちの生活がある。

食料をはじめとする必需品がそろっているから、比較的少しの人たちが食料供給に従事するだけで社会全体に食べるものがいきわたる。
だから人におもしろい話をする(あるいはそれを書く)ことだけを専門とするぼくのような人間も生きてゆける。
文明はありがたいものであり、すばらしいものだ。
しかし、その一方で、われわれはあまりに強くなり、欲張りになり、わがままになった。
つまり、人の富を奪っていい気になっている桃太郎だ。
そういう自分たちの実像は忘れない方がいい。
アイヌの人たちに対してシャモ[引用者注:アイヌ語で言う所の日本人・・・らしい]が何をしたか、今何をしているか、それも知っておいた方がいい。
そういうことを忘れたふりをするのは卑怯であると思う」
(以下略)
---- 引用以上 ----

筑摩書房の国語Iで池澤氏の著書がどの程度引用されてるのか不明だが・・・。
いずれにしろ、義家氏の主張はかなり無理矢理感があるのは否めない。


というか、桃太郎が侵略者という面を併せ持ってるのは否定できないんだよな(おまけ参照)。
そもそも、そんな桃太郎のイメージを生み出したのは日本社会自体なわけで。
ってのを踏まえると、桃太郎については、もっと深いレベルでの読み込みが必要な気がする。
まぁ、今に始まったことじゃないんだろうが・・・。


おまけ:芥川 龍之介による『桃太郎』(1924年7月発表)では、桃太郎が侵略者であることを強調した描写となっている。
また、桃太郎が鬼達の世界に与えた影響について描いてるのが注目すべき点か。
・桃太郎(aozora.gr.jp)

参考までに、aozora.gr.jp『桃太郎』から第5節を(略)

---- 以下引用 ----
(中略)
日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹と、人質に取った鬼の子供に宝物の車を引かせながら、得々と故郷へ凱旋がいせんした。
――これだけはもう日本中の子供のとうに知っている話である。
しかし桃太郎は必ずしも幸福に一生を送った訣ではない。
鬼の子供は一人前になると番人の雉を噛かみ殺した上、たちまち鬼が島へ逐電した。
のみならず鬼が島に生き残った鬼は時々海を渡って来ては、桃太郎の屋形へ火をつけたり、桃太郎の寝首をかこうとした。
何でも猿の殺されたのは人違いだったらしいという噂である。
桃太郎はこういう重ね重ねの不幸に嘆息を洩らさずにはいられなかった。
「どうも鬼というものの執念の深いのには困ったものだ。」
「やっと命を助けて頂いた御主人の大恩さえ忘れるとは怪しからぬ奴等でございます。」
 犬も桃太郎の渋面を見ると、口惜にいつも唸ったものである。
 その間も寂しい鬼が島の磯には、美しい熱帯の月明を浴びた鬼の若者が五六人、鬼が島の独立を計画するため、椰子の実に爆弾を仕こんでいた。
優しい鬼の娘たちに恋をすることさえ忘れたのか、黙々と、しかし嬉しそうに茶碗ほどの目の玉を赫かせながら。……
---- 引用以上 ----

ジョセフ・コンラッドの『闇の奥(Heart of Darkness)』(帝国主義の害を説きつつも帝国主義を肯定している)に通じるものがある気がするのは俺だけ?
↓参照。
・2007年3月24日(土)(2007年 ひらげ日記)

なお、芥川 龍之介による『桃太郎』の〆は、新たな侵略者の出現を示唆している非常に不気味なものとなっている。
時間のある人は読んでみよう(謎)。


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