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Sandel 氏の論じ方にも問題があるんだろうが

2010-10-15 21:06:12 | その他
色んな意味で話題になってる Michael Sandel氏の著作こと『Justice: What's the Right Thing to Do?(日本語タイトル:これからの「正義」の話をしよう -- いまを生き延びるための哲学』。
これに関しては色んな人達が、それぞれの立場から議論をしているらしい(詳細はよう知らん)
これに関して、坂村 健氏がなんで Sandel 氏の話が話題になったのかについて分析していたのだが・・・。
・難しい時代だから「正義」を語る(2010年10月7日 iza.ne.jp)

つーか、Sandel 氏の著作を読んでないので「正義」に関する話にはついてけない部分がある俺(馬鹿)
そもそも、いつの時代でも「正義」ってのを語ること自体難しいんだろうが・・・。

ってのはともかく、この論説で坂村氏は、米国で放送された TV 番組(Sandel 氏の講義を収録したもの)や書籍が日本や韓国でウケた理由について色々述べていた。
その上で、Sandel 氏の著作や講義が持ってる意義について以下の用に指摘していた。
以下、2010年10月7日 iza.ne.jp『難しい時代だから~』からその部分を(略

---- 以下引用 ----
(中略)
 ≪氾濫する分かりやすい解説≫

 そして重要なのは、これが「難しい話を分かりやすく『難しい』と示してくれる」稀有(けう)な番組であり本であるということだ。

 「難しい話を分かりやすく解説してくれる」本は巷(ちまた)に溢(あふ)れ、そういう解説番組も増えている。
地上波が現実逃避的番組ばかりではなくなったのはうれしいが、いまだにマスコミは視聴者のレベルを低く見積もりすぎているのではないかと思う。
「分かりやすく解説」は、結局問題の単純化であり、予定調和して一つの単純な答えに至る。
それに対し、サンデル教授の本が「分かりやすく『難しい』と示してくれる」ということは、その問題がなぜ単純でないかを理解させてくれるという意味だ。
(以下略)
---- 引用以上 ----

確かにな~。
難しい話を「簡単に」解説する以上に、「難しい」と示すのは全然厳しいからな~。
その意味で、Sandel 氏の講義ってのは色んな意味で貴重なのかもしれん。
ただ、Sandel 氏の講義ってのは、人によってはシニニズムに陥らせる危険なブツかもしれんけど(読んでないので詳細知らん)。

これに続き、坂村氏は Sandel 氏の講義について軽く触れた後、この講義が持つ意味について述べていた。
以下、2010年10月7日分 iza.ne.jp『難しい時代だから~』からその部分を(略

---- 以下引用 ----
(中略)
≪複雑な現実、単純化は危険≫

 米国で大きな議論になったさまざまな実例を取り上げ、先人の提示したさまざまな「正義」を適用して違いを見る。
そして結論に違和感があるなら、それをまた反映して考えを深化していく。

 教授自身が講義で語るように哲学は危険だ。
各自が「すでに持っていると思っていたモノサシ」の欠点を暴き、アリストテレス以来の多くの賢人がその問題で悩んでいたことが提示され、今も正解は決まっていないと知らされる。
講義を受けた後の方が、より知的になったと思える半面、より不安になっていてもおかしくはない。

 しかし、そもそも社会は複雑な問題で溢れているのであって、それを単純化してはいけない。
難しい問題を難しいと理解し、なお咀嚼(そしゃく)する知的体力が今、日本に求められているのである。
(以下略)
---- 引用以上 ----

確かにな。
世の中の問題を単純化するってのは、良くない結果を生むこともありうるからな。
特に経済や政治の世界は。

ここまで触れた部分については、坂村氏の論に問題はないと思う俺。
そう、ここで終わっておけば良かったのに。


問題はこの後。
坂村氏は、Sandel 氏自身が持ってる判断基準として「コミュニタリアニズム(Communitarianism)」について触れていた。
ただ、コミュニタリアニズムに関しては、問題点の検証が終わってないらしいが・・・。
この辺については以下参照(手抜き)
・「コミュニタリアニズム」の自己検証――マイケル・サンデルのハーバード大学講義(2)(2010年6月26日 一酔人経綸問答)
・サンデル教授の「コミュニタリアニズム的」共和主義を斬る (2010年8月30日 webronza.asahi.com)

その上で、坂村氏は、Sandel 氏が「過去に対する責任感」を「愛国心」と切り離されないものとして語ってる、と説明したうえで少し不思議な論理展開を・・・。
以下、2010年10月7日分 iza.ne.jp『難しい時代だから~』からその部分を(略

---- 以下引用 ----
(中略)
著書では、決して絶対的ではないとしつつ、自身のモノサシも示される。
一般に「コミュニタリアニズム」と言われる立場だ。

 そこで提示される、過去の世代に対するコミュニティーとしての責任問題は、米国も含む世界の蛮行の中に慰安婦問題を入れていることもあり、日本でも話題にしている人がいる。
しかし、よく読むと分かるが、サンデル教授は「過去に対する責任感」を「愛国心」と切り離されないものとして語っている。
「愛国心」を否定しながら、「過去に対する責任感」をことさら言うのは、謝罪する主体と自らを切り離したいという責任逃れを感じさせて筋が悪い。

 また、教授も「では、ハワイを返そう」とはいってないわけで、謝罪はあくまで謝罪。
無限責任ではない。
「謝罪の限界」を考えに入れた「正義」について、ぜひ教授に聞いてみたいところだ。
---- 引用以上 ----

「コミュニタリアニズム」の問題点について、俺は未だに理解してないのだが・・・。
坂村氏のこの論理展開は、結構謎だと思う。
そもそも、Sandel 氏の言うように、「過去に対する責任感」ってのが「愛国心」と切り離せないとしたら、以下のような状況はどう説明するのよ?


例:I 国と L 国が、30年前から5年に渡って戦争を行った。
この戦争では、I 国と L国の人達だけでなく、(I 国と L国に住んでいた)それ以外の国の人達も相当数殺害されたが・・・。

そして、戦争終結後、I 国と L国はお互い戦争犯罪と戦争責任について処理を行った。
だが、(I 国と L国に住んでいた)それ以外の国の人達への加害責任は、(I 国 と L 国の不安定化を望まない各国の「働きかけ」で)ついに問われなかった。

しかし、近年、I 国と L国の人達だけでなく、それ以外の国の人達の呼びかけにより、改めて I 国と L 国の戦争犯罪と戦争責任を問うことになった・・・。



こういう状況に至った根本の理由が「過去に対する責任感」によるものだとしても、果たしてこれは「愛国心」と切り離せないのか?
仮にそうだとしたら、I国や L 国出身でない人達が I 国と L 国への「愛国心」を抱いてしまうことになると思う。
それが良いか悪いかどうかは別だが・・・。

それと、国境を越えて活動する非国家組織による犯罪行為についてどうなるのか?
おそらく、坂村氏的には、非国家組織を放置した国家への「愛国心」から「過去に対する責任感」を負ってることになるんだろう。
が、それだと、責任追及を行ったとしても、国家の壁にぶつかって「以上」になるの関の山・・・。
他の国の人達とも協力しない限り無理だったりするのがオチだ。


つーか、坂村氏の論で出てくる従軍慰安婦の場合、謝罪を求める人達の多くは現在日本国籍を持ってない以上、日本の「過去に対する責任感」を「愛国心」から切り離すのは自然の流れだったりする。
というか、なんで坂村氏は従軍慰安婦ネタに持っていったんだ?


それにしても。
Sandel 氏も、日本や韓国で自分の講義がここまでネタにされるとは思ってなかったんだろうな(苦笑)


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