粗茶淡飯

中国・台湾・日本のお茶に関する色々。執筆者・徳田志保。

原始的な茶園管理@鳳凰単叢

2016-08-09 19:00:13 | 烏龍茶(中国茶・台湾茶)

今のようにお茶の産量が多くなかった頃、
鳳凰単叢の夏の茶園管理は雑草取り。秋冬は耕起と、夏に取った雑草と山からとってきた土をすき込み、これを肥料とすることだったそうです。

摘採期から逆算して施肥をする、日本の茶業とは大分違います。

山土をウードン村まで運ぶのはとても大変なのと、
即効性がないことから、2000年以降は苗を植える時に鶏糞をやったり、成長した茶樹に化学肥料を使うところも出てきたいましたが、幸運にも(?)この数年は山土を与えることが出来ています。



理由は上部の画像。自宅兼茶工場、新たに造られた宿泊施設等の建設ラッシュです。
この際に掘り起こした土を茶畑に回すことが出来ています。

問題は…この建設ラッシュが終わってからでしょうね。





能登の紅茶

2016-08-08 18:00:14 | 国産紅茶(和紅茶・日本茶)

ブログをお休みした数日間、石川県七尾市能登島にある茶畑を見に行って来ました。

ここのお茶は全部紅茶になるそうです。



茶畑から海が見えます。内海なので、塩害はあまりなさそうです。

石川県で茶畑!?と思う方も多いかと思いますが、
この地には江戸時代から茶畑があったそうで、
昭和30〜40年代まではあちらこちらで茶畑が見られたそうです。

画像のこの地は皆んなが和気藹々と集う茶畑として、とても好条件だと思いました。お茶を作って、かの有名な加賀屋がある和倉温泉、能登島水族館、野生のイルカウォッチングなど、家族皆んなで楽しめそうですね。

昔話@鳳凰単叢④

2016-08-03 21:55:42 | 烏龍茶(中国茶・台湾茶)


鳳凰単叢の転機

ウードン山は換金作物がお茶しかなく、中華人民共和国建国後は、国にお茶を納めて、その分のお米を貰う生活だったそうです。当然のことながら、それでは全く足りず、貧しい生活を強いられてきました。

ある年には、お茶の収穫直前に雹が降って、収穫がほぼゼロになり、その年に生まれた子供は跡取りになる男の子以外は全員里子に出したことがあったとか。

そんな事から山の麓の街の人達は

「太陽が西から上がっても、ウードンの連中にはお金を貸すな。」

とよく言ったそうです。

その歴史上、転機は1つではありませんが、質の高い良茶を産出するウードン山の村民からすると76年は無視することのできない転機だったのかもしれません。

文革が終了したのが76年、
人民公社が実質解体したのが78年ということになっていますが実際は人民公社は地域によって76年には集団生産制から個人生産制へ試験的に移行し始めていたようで

ウードン山の村々もその中に入っていたそうです。

ウードン山のある潮安県鳳凰鎮一帯は、その動きが一番早く、ウードン村は真っ先にその対象になったそうですが、その理由はなんとも皮肉なもので、

「生産性が一番低く、連中にとって俺達はお荷物だったからだ!早く切り捨てたかったんだよ!」


と、年長者は異口同音に断言してました。(苦笑)

ウードン山は昔から換金作物はお茶しかなかったので、お茶の換金価値がとても低かった当時は、ウードン山の村々は周囲にとってはお荷物でしかなかったのでしょう。
個人生産性へ移行した当初、村民は見放され、今後は食べていけないのではないかと不安だったそうですが、そこはお茶を大量に消費する土地柄…翌年から周辺地域から個人でお茶を求める来訪者が現れ始め、以後お茶の価格は毎年数倍単位で上昇し始めたそうです。

そんなこんなでウードンの年長者は
改革開放政策と、それを行った鄧小平氏に感謝している人が多いです。


昔話@鳳凰単叢③

2016-08-02 11:40:11 | 烏龍茶(中国茶・台湾茶)



輋門単叢の「輋」

産地から出ると、このお茶は城門単叢などの名前に変わるようですが、実はこの「輋」は、あちらの言葉では茶園を意味するそうで、輋門は、「皇帝に献上する御茶園の入口辺りにあった」茶樹であったことから、名づけられたとのこと。地元の若い人や外部の人は、そのストーリーを知らないこと、そして「輋」の字に馴染みがないため、市場に出ると名前が変わってしまうようなのです。ちなみにこの輋門はとてもバランスが良く落ち着きのある優しい味わいで、私が大好きなお茶の1つなのですが、ハッキリわかりやすい特徴がある訳ではないせいか、市場では比較的地味な存在です。

最近は専門書籍が、出てきてますが…

ここ数年は黄柏梓氏、葉漢鐘氏の著書が、現在一般流通の書籍の中でメジャーだとはおもいますが、実は、この内容(というより重要事項のほとんど)は、楊帯栄氏が自ら90年代に調査し、編集した「潮安県茶区概況及茶葉資源利用調査」が基礎になっています。特に茶樹、栽培、製造に関する情報収集や調査結果は、この楊氏の苦労なしには存在し得ませんでした。残念なのは楊氏は公務員であり、その調査結果は当時「内部資料」として一部にのみ流通していため、楊氏の貢献が表舞台に出なかったことです。

発展の基礎を築いた立役者が、発展を遂げた時に、必ずしも陽の光の当たるところにいるとは限らない…どの分野にもよくある事ではありますが、少し寂しい気もします。

余計なお世話とも思いますが、事実は事実ですので、ここには記しておこうと思います。