私の研究日記(映画編)

ここは『智に働けば角が立つ』の姉妹ブログ。映画の感想や、その映画を通してあれこれ考えたことを紹介しております。

『マレーナ』(DVD)

2008-09-29 21:20:45 | ま行
 実は、この映画は昨年末にケーブルテレビで見たばかりなのだが、たまたまAmazonで安値の中古DVDが売りに出ているのを発見し、迷わず購入。届いてすぐに鑑賞した。

 ジュゼッペ・トルナトーレ監督の代表作の一つである。物語の舞台は、第二次世界大戦中のシラクサ。トルナトーレ作品ではお馴染みのシチリア島の都市である。どこかで聞いたことがある名前だという方には、『走れメロス』の舞台といったらピンと来るだろうか。主人公は12歳の少年レナート(ジュゼッペ・スルファーロ)。父親に自転車を買ってもらったある日、彼はある軍人の妻マレーナ(モニカ・ベルッチ)に一目惚れし、すっかり夢中になってしまう。この作品はマレーナという大人の女性に対する、かなり一方的な片思いを通じて、大人へと成長していく少年の物語だ。

【ネタばれ注意!!】
 マレーナは、老若問わず町中の男達の注目を浴び、女達からは敵意の目を向けられている女性。誰もが認める美女である。そのうえ結婚もしている彼女は、レナート少年にとってまさに高嶺の花。彼は、マレーナに話しかけることもできず、思いを胸の内に秘めたまま、誰にも打ち明けることができない。彼女の後をつけ回しては、街中ですれ違うふりをしながら彼女に近づいたり、彼女の部屋を覗きみる日々である。少年の行動は、現代でいえば明らかなストーカー行為である。こうした演出は、女性にはきついかもしれない。

 マレーナは次々と悲劇に襲われる女性である。まず夫戦死の訃報が届き、さらには近所に暮らしていた父が空襲で亡くなるのである。ついには、生きていくために、ドイツ将校を相手とする高級娼婦に身をやつしてしまう。そんな彼女を、町中の女という女はもちろん、男達まで冷ややかに見るようになった。女性たちが以前以上に敵意を剥き出しにするようになったのは当然だと思うが、男性たちの変わり様はひどい。あぁ、男って・・・。自分も含め性に関する男のご都合主義というのは、どこへ行ってもいつの時代も同じなのだろうか・・・。

 そんな中、唯一ほっとするのは、ただ一人レナートだけが、一途にマレーナを慕い続けていることだ。マレーナが体を売ることに涙し、気絶する程心を痛めたレナートだったが、町の人々のように彼女を軽蔑したり嘲笑することもない。むしろ、彼女への批判を耳にするたびに、いつも心の中で彼女をかばうのであった。日々彼女をつけ回していただけに、彼女が今もただ夫だけを愛し、娼婦に身を落とした状況が悲劇以外の何物でもないことを知っているのだ。

 やがてイタリアが連合国に降伏し、ムッソリーニは殺される。ドイツ将校に体を売っていたマレーナは、当然、後ろ盾を失ってしまったことになる。その結果、マレーナの身に再び襲い掛かる悲劇は、凄惨極まりない。彼女を羨望し、軽蔑し憎悪してきた町の女性たちが、彼女を路傍に引きずり出し、羽交い絞めにしたまま激しい暴行を加えるのだ。

 このシーンは、昔見たNHKスペシャル『映像の世紀』の一映像を思い起こさせる。ナチスの占領から解放されたのパリで、ドイツの将校や兵隊と交際していたパリジェンヌたちが、町の女性達からひどい暴行を受けているという記録映像である。服を引き裂かれ、鼻血を垂れ流し、はさみで髪を切られ、挙句の果てに首に看板(何が書いてあったかは憶えていないが)をぶら下げて町中を引き回されているというむごい映像だった。

 マレーナの受けた暴行もこれと全く同じである。こうした人間の尊厳を踏みにじるような行為は、当然許されるべきものではない。が、そもそも戦争が起こらなければ、マレーナの夫が戦死することもなく、父親が空襲で亡くなることもなかった。夫婦仲睦まじく暮らしているマレーナに対する、男達の誘惑が全く無かった・・・、(美女だけに)とは言い切れないが、まだましであったろう。そのため町の女性たちが敵意を剥き出しにすることもなかった。いわば誰もが戦争に翻弄された時代だったのである。憎むべきは戦争といえようか。

 結局、マレーナは逃げるようにして町を出て行く。その後、マレーナの家に片腕のない一人の男性が現れる。戦死したはずのマレーナの夫である。彼女の夫は死んでいなかったのだ。しかし、そこにマレーナはもういない。マレーナの行方を探す彼に対し、町の人々は実に素っ気なかった。マレーナを襲った悲劇を押し隠すように、誰もが知らないと答えるだけなのである。体を引きずるようにマレーナを探し続ける夫だったが、ある時、彼は一通の手紙を受け取る。そこには、マレーナの行き先と「彼女はあなただけを愛していました」というメッセージが書かれていた。彼女の行方を唯一知っているレナートからの手紙である。手紙を受け取ると、夫はマレーナの後を追うように列車に飛び乗る。それを見つめるレナートの姿がとても切なかった。
 
 ラストは、その1年後にマレーナが夫ともにシラクサへ帰ってきた場面。この場面で、少年はマレーナと初めて言葉を交わす。「マレーナさん、お幸せに」。これまでマレーナが背負ってきた悲劇、そんな彼女に対する少年の一途な愛などを考えると、その一つ一つの単語が本来持っている以上の、深い意味を感じさせる一言である。

 この映画が出来た頃トルナトーレ監督が、これを見た女性にこれほど自分が愛されたことがあるか考えてほしいと語ったそうだ。マレーナに対する少年の思慕は、ストーカー的行為などを考えてみても、確かに強烈なものといえるだろう。余りにも狂おしく、それでいて叶わぬ恋であるだけに、見る側を切なくするほどである。

 ところで、この作品で面白いのは、マレーナの人格が全く描かれていないことである。マレーナに対する全ての描写は、レナートの視点を通じたもので、その大部分が沈黙するマレーナだからである。見る側は、マレーナのセリフや人格を意識する必要がないため、ただ彼女の姿だけを見つめていれば良いことになる。美しいシラクサの町を歩くマレーナの姿はまるで絵画のようで、とても美しい。中でも、彼女が白いワンピース姿で通りを歩く場面は、鮮烈過ぎて一度見たら一生忘れられないない場面となるだろう。

 この作品は感動させられる映画ではあるが、少なくとも私にとっては、他のトルナトーレ作品のように号泣するというほどのものではなかった。ただ、この映画は、他の作品と比べ、美しいシラクサの町並みやマレーナの姿など、ビジュアル部分が非常に優れているので、そうした点を楽しめる人には、ぜひともお勧めしたい作品である。

『オール・ザ・キングスメン』(DVD)

2008-09-26 16:40:20 | あ行
 DVDにて鑑賞。
 
 以前劇場で、ショーン・ペン、ジュード・ロウ、ケイト・ウィンスレット、アンソニー・ホプキンスらが出演した豪華リメイク版を見たが、今回見たのはその元となった1949年版である。

 監督は『ハスラー』で有名なロバート・ロッセン。主演はブロデリック・クロフォードである。

 物語の主人公は、メイン州の会計主任ウィリー・スターク(ブロデリック・クロフォード)。メイスン市の学校建設に不正があったと非難の声を上げた下級役人である。ウィリーの非難は、当の学校で大事故が起きたことで、庶民の共感を勝ち得る。やがて、民衆の支持のもとに、ウィリーはメイン州知事に当選する。実直な役人だった彼は、知事になった途端、汚職にまみれていく・・・。

 権力を握った後のウィリーの変化は物凄い。立場が変わると人格まで変わってしまうという人はよくいるが、そういう人物をブロデリック・クロフォードが見事に演じている。はじめはいかにも実直な下っ端役人だったウィリーが、知事に当選すると立派な権力者の姿に変わっている。

 以前『スミス都へ行く』のところでも書いたが、政治には「仏の顔と鬼の顔」がある。この映画は、政治の「鬼の顔」の側面を徹底して描き出した作品であるといえる。

 別に汚職を肯定しているわけではないが、政治の世界に汚職はつきもの。「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」という、歴史学者ジョン・アクトンの言葉の通りである。では、権力はどのように腐敗していくのであろうか。という疑問に、この作品が出した答えは2つ。すなわち、権力を握るために人は腐敗し、その権力を維持するために権力者は腐敗するのである。実話が元になっているだけに、物語にはとても説得力があった。

 そういえば、世界各国の汚職度を調査し一般に公表しているNGO団体 トランスペアレンシー・インターナショナルTransparancy Internationalが、先日、2008年度の国別汚職度ランキングを発表した。アメリカは、G8に参加する国の中では下から2番目で18位だった。日本はどうだったかというと、アメリカと同じく18位(G8の中ではフランスの汚職度が最も高かった)。

 麻生太郎新内閣が発足し、衆議院の解散総選挙も近いといわれる今日この頃。政治関連のニュースが、新聞やテレビニュースを賑わせている。そうした時、政治ってどんなものだろうかと、ちょっと立ち止まって確認するのに、この作品は手頃な1本といえるだろう。

『素晴らしき哉、人生!』(DVD)

2008-09-24 15:50:09 | さ行
 DVDにて『素晴らしき哉、人生!』を見た。以前見た『スミス都へ行く』のフランク・キャプラン監督作品。主演は、これまた『スミス』と同じジェームズ・スチュワート。

 物語の舞台は、アメリカの小さな町ベタフォード(地図で調べたが見つからなかった)。作中、世界恐慌や戦争が起きていることから、時代は1930年代から40年代が想定されていると思われる。
 物語は、冒頭から印象的。クリスマスの華やいだ映像の中、死の淵に立つジョージ(ジェームズ・スチュワート)を救ってほしいという、彼の妻と子供たちの祈りの声とともに物語が始まる。これが何を意味するのかという疑問が湧いてくるが、物語の全貌が見えないこの時点では知りようがない。従って、否応なく物語への関心が高まっていく。見事な導入であるといえるだろう。
 主人公ジョージは、父から受け継いだ小さな低所得者向け住宅金融を経営する青年。美しい妻メリイ(ドナ・リード)と子供達とともに暮らしている。身を粉にして働いているが、若い頃に抱いていた夢をどれ一つ叶えられず、鬱屈とした気持ちも抱えている。
 ある年のクリスマス、ある事件が起き、そのことでジョージは強欲な資産家で会社の株主でもあるポッター(ライオネル・バリモア)によって、死の淵へと追い込まれていく。会社を救うために、ジョージに残された選択肢は、ただ一つ、死ぬこと。こうして、自分などこの世に生まれてこなければと不運を嘆きながら、川にかかる橋の柵に体を寄せた。橋の下には冬の冷たい水が流れている・・・。

【ネタばれ注意!!】
 この後の展開には、思わず鳥肌が立ってしまった。窮地に立つジョージを二つの奇跡が救うのである。

 まず、冒頭の妻や子供たちの祈りは、ここに繋がってくる。祈りに応じ、二級天使クラレンスが登場。自分など存在しなければと自棄になっているジョージに対し、天使がとった秘策はジョージの存在しない世界を見せることだった。その世界のベタフォードは、ポッターに支配され、至る所でネオンがケバケバしく光る町。ジョージに救われるはずであった薬屋の店主は不幸に陥り、戦争で活躍するはずの弟は幼くして死んでいる(本当はジョージが助けるはずであった)。低所得者向けに建設したニュータウンには住宅の影も形もなく、ただ薄暗い墓場が広がっている。愛するメリイは結婚できず、図書館で働きながら細々と暮らしていた。愛する子供たちは当然生まれてすらいない。散々な目に会いながらも、ジョージは無事元の世界に戻ってくる。そして、元の世界に帰れた喜びから、妻と子供たちの待つ我が家に帰っていった。身はたとえ無事であっても、元の世界の彼が不幸のどん底にいることに変わりはない。だが、帰宅した彼の所へやって来たのは、思いがけないもう一つの奇跡だった。ジョージの窮地を知った町の人々が、彼を助けるためやって来たのである。そこへ、クラレンスからのメッセージが届く。

Dear George
 Remember no man is failure who has friends.Thanks for the wings! Love Clarence

こうして、天使からの思いがけないクリスマスプレゼントにより、ジョージは救われたのであった。

 私などしょっちゅうだが、自分の存在意義が分からなくなったことの1回や2回、誰にでも経験があるだろう。巷で、ちょうど話題になっている『悩む力』(姜尚中、集英社新書)で、姜尚中教授は、生きる意義を確認するには自己-他者の絶え間ない相互承認が必要であると訴えている。この映画でジョージの存在しない世界が含意するのも、『悩む力』と同様のメッセージであるといえるだろう。すなわち、一人の個人は本人が考えている以上に多くの人生に関わっており、そういう意味で誰の人生にも価値があると。

 穿った見方をすれば、話が出来すぎの作品ともいえるが、作品のメッセージが明確でストレートに心に響いてくる。とても励まされた。アメリカ映画協会が「元気が出るアメリカ映画ベスト100」の1位に選んだだけのことはある。素晴らしい作品であった。

 ところで、作品の公開は1946年。日本は戦後の荒廃の真っ只中にある時期だ。こうした古典映画を見るといつも思うが、印象に残る冒頭といい、物語の斬新な展開といい、60年以上前の作品とは思えないほど面白い。現在の映像技術に慣れ親しんだわれわれのような現代人は、古典作品の映像をお世辞にも美しいとはいえない。それでも面白いと思うのだから、ストーリーの面白さと役者の演技力が相当優れているという証拠でといえよう。

 ちなみに、 主演のジェームス・スチュワートは、この映画の公開時38歳。彼が31歳の時に公開された『スミス都へ行く』(1939年)から7年の歳月が経っているが、 『スミス』と比べると凄みが倍増したかのような迫力があった。調べてみたら、この間、彼は陸軍パイロットとして爆撃機に乗り込み第二次世界大戦に従軍したそうである。こうした経験が、芸に凄みを増すきっかけとなったのだろう。

『おくりびと』(Theater)

2008-09-17 16:35:03 | あ行

 海浜幕張シネプレックスにて『おくりびと』を見てきた。

【ネタばれ注意!!】
 主人公は、小林大悟(本木雅弘)。ようやく入団したオーケストラが解散し、失意のまま妻(広末涼子)と共に実家の山形に戻った元チェリストである。実家に戻った大悟が就職したのが、NKエージェントという会社。「NK」の「N」は「のう」、「K」は「かん」、「のうかん」つまり遺体を棺に納める納棺を業とする会社であった。この物語は、納棺師となった大悟の視点を通じて、最後の別れを迎えた人々の様々な人間模様を描いた作品である。

 映画を見てこんなに泣いたことってあっただろうか?と思わされるぐらい涙が止まらなかった。一般的に、お葬式の場面というと、故人を喪った悲しみの場面を想像するかもしれない。だが、この作品がこうも泣かせるのは、単に各場面が悲しいものだったからというわけではないと思う。

 むしろ納棺の場面は、作中の大悟の言葉を借りるならば、「別れの場に立会い故人を送るそれは何より優しい愛情に満ちている」。例えば、ある女性の納棺では、その夫が美しく化粧された妻を見てむせび泣く。ある青年の納棺では、その父親が息子の納棺について礼を述べながら絶句してしまう。またある女学生は、亡くなった祖母の生前の望みといって、ルーズソックスを履かせてあげようとする。別の場面では、納棺される男性の額と頬に、妻と娘、孫娘がキスマークを残していく(素敵だ^^)。こうして次から次と映し出される、最愛の人との別れ際の様子は圧倒的である。映画を見ていて涙が出てしまったのは、こうした「何より優しい愛情に満ちている」場面に、心がほだされたからだと思う。

 考えてみると、実際、故人と別れる時の悲しみというのは、故人に対する愛情の表れともいえる。愛情が深いほど、悲しみも深くなるからだ。その限りでは、そもそもお葬式というのは、愛情に満ちた場なのだといえるだろう。だとすれば、一般的に映画の中で描かれるような、ただ悲しみに満ちただけのお葬式の場面というのは、遺された人々の心情の一面だけしか表していないということになる。そういう意味で、この作品は遺された人々の悲しみだけでなく、そこに隠れた愛情をも描こうとした作品といえる。いわば、愛する人の死に向き合っている人たちの心情を、丁寧かつ丹念に描き出そうという誠意に溢れた作品といえるのではないだろうか。見終えた後、そんな風に思った。

 いずれにしても、一度緩んだ涙腺は、最後まで締まることがなかった。嗚咽を抑えられず 4、5回は声を上げたはずだ。一緒に見た方の中に、上映中不気味な声を聴いたという人がいたら、それは間違いなく私の嗚咽である(笑)。

 また、映画の舞台となった山形県酒田市の情景は、言葉が出ないほど美しかった。酒田市といえば、最上川下流に広がる庄内平野の米どころ。美しい田園地帯は、冬になると雪に覆われ雪原に変わり、そこで白鳥たちが戯れている。また、その背後に映し出される月山(鳥海山かも)の姿も、これみよかしでなく控えめな美しさが素敵だ。その他、川沿いの桜並木など、四季折々の美しい風景を存分に楽しむことができた。 

 劇中で流れるチェロの演奏は、それだけで聞き惚れてしまいそうだが、物語の雰囲気ともうまくマッチしている。美しい音楽と美しい風景、愛情と優しさに満ちた物語の調和が、大好きなジョゼッペ・トルナトーレ監督の作品のようであった。文句なしにすばらしい映画であった。邦画では、間違いなく今年のマイベストである。 

『夜のピクニック』(CATV)

2008-09-11 23:59:35 | や行
 前回書いた『日本以外全部沈没』同様、こちらも8月の終わり頃に見た作品である。

 原作は、恩田陸の同名小説『夜のピクニック』。

 茨城県のとある高校の伝統行事「歩行祭」。1000人の生徒が24時間徹夜で80キロを歩き通すという行事である。物語は、高校最後の「歩行祭」を迎えた主人公、甲田貴子(多部未華子)を通して進む。「歩行祭」に臨む貴子は、密かに賭けをしている。それは、「歩行祭」の間に、一度も話したことのないクラスメイトの融(石田卓也)に話しかけること。「歩行祭」が始まり、クラスの友人達と歩いていく貴子は、なかなか融に話しかけることができない。そうしている間に、貴子や融たち、1000人の高校生は徐々にゴールへと近づいていく。

 ひたすら歩き続けるという作品。主人公 貴子と融の関係を軸に、登場人物たちの会話や回想、時折起こるアクシデントにより、場面が展開していく。ちなみに、当初はこの作品を、二人の淡い恋愛を描いた、青春ラブストーリーだろうと想像していた。だが、ふたを開けてみれば、恋愛映画などではない。二人の関係には秘密があるのだが、ネタばれになるので、ここには書かない。

 それはともかくとして、登場人物のゆっくりとした歩みとともに、物語は進行(あ、上にも書いているか)。あえてジャンルをつけるならば、青春ものということになるのだろうが、当然『ウォーター・ボーイズ』や『スイング ガールズ』のような派手さはない。ひたすら歩くだけなので。物語は淡々と進んでいくのである。

 でも、始まってから終わるまでの約2時間、飽きることは全くなかった。

 どう説明すればよいのだろう。旅行などのイベントになると、いつも以上に友人達との会話が盛り上がったり、普段話さないような人と話したり、普段なら絶対に言わない本音を話すことができたり、相手の言葉がやたらと胸に響くことがないだろうか。うまく言えないが、この映画を見ていると、そうしたある種の興奮状態が伝わってくるのだ。

 そういう意味で重要な役割を果たしていたのが、登場人物たちである。原作の人物設定が実際どうなっているのかわからないので、あくまで私の印象だが、主人公 貴子は物静かで控えめだが、意思が強そうな女の子。融はやはりどちらかというと寡黙なスポーツマン。貴子の親友 遊佐美和子(西原亜希)は、文武両道で何かとリーダーを任されそうなしっかりさん。融の親友 戸田忍(郭智博)は、飄々としているが意外と信念を持ったハンサム(死語?)。貴子のクラスメイトの後藤梨香(貫地谷しほり)は、明るく元気なクラスのムードメーカーであろう。良い味を出していた高見光一郎(柄本佑)は、性格の良いロック小僧。

 どの登場人物も、別に現実離れしているほど個性的というわけではない。逆に、こういうやつっていたよなーと思うような人物ばかり。このキャラって●●に似ているなとか、△△さんもこんな子だったなーと。思わず自分の中学高校時代の友人達と重ね合わせてしまう。そうしたリアリティが、登場人物に妙な親近感を抱かせ物語へと引き込んでいく。こうして、見ているうちに、自分も一緒に歩いているような錯覚にとらわれてしまうのである。淡々と進む物語に飽きようはずもなかった。

 そして、もう一つ私をぐいぐい物語に引き込んでいったのが、ビジュアル部分である。物語の舞台となっているのは、水戸市とその周辺部。登場人物たちがゴールへ向かって歩いていく途中、広大な田園とレタス(?)畑などが映し出される。田園は稲の香りが今にも匂ってきそうなほど青々としている。素朴だがとても美しい景色だなのだ。

 また、時間ごとに変わりゆく情景の描写には、思わずため息が出る。見事という他ない。しみじみと夕日に照らし出される筑波山を見ていると、残像が目に焼きつきそう、日の出前の薄暗い森林や朝もやのかかった田園では、見ているこちら側までマイナスイオンを感じるようだった。

 何気なく暮らしていると見過ごしてしまうような日常の景色が、時間によって美しい姿に変貌することがあると思うが、この映画ではそうした美しさがうまく捉えられている。「時間が目に見える」という融の親友 戸田忍のセリフは、まさに言いえて妙といえるだろう。

 高校時代の記憶を思い出して懐かしくなることや、切なくなることは、誰にでもあると思うが、まとめると、この映画はそんな気持ちに浸れる作品である。作品ホームページで恩田陸が「誰でも映画を見ている間は18歳になれます」と述べているが、まさにその通りだと思う。とりあえず、映画を見終わった後、母校の卒業アルバムを開き、ホームページをチェック。しんみり高校時代を懐かしんでみた(笑)。

 もう一度見たいと思える良い映画であった。今年見た邦画の中では、今のところベストである。原作もぜひ読んでみたい!

(ところで、この作品は原作者 恩田陸の母校、水戸第一高校で実際に行われている行事が元になっているのだという。どの高校にもかわった伝統行事があるもので、この映画のホームページに行くと、「全国高校 おもしろ行事MAP」で学校の面白行事を調べることができる。夜ピク系の行事が多いが、男子が上半身裸だったり山の中を歩いたりと、歩き方も様々なようだ。)

『日本以外全部沈没』(CATV)

2008-09-11 15:14:45 | な行
 8月の終わり頃、「ムービープラス」で『日本以外全部沈没』を見た。

 『日本沈没』がどちらかというと、危機に追い込まれた時の人の愛や献身に主眼を置いているのに対し、『日本以外全部沈没』の視点はあくまでシュールである。
 この映画では、日本に逃げ込んで来る外国人に対し、日本人があくまで高圧的、排他的。『日本沈没』では、こうした危機に置かれた人々の醜い姿が余り描かれておらず、リアリティに欠けていると感じたが、『日本以外全部沈没』は余りにシュール過ぎて、逆にリアリティの欠如を感じる。

 また、もともと原作が「ナショナリズムや人種差別に対する逆説的な強い批判精神」に基づいて書かれたということは知っているが、少なくとも映画の方はパロディ部分を強調し過ぎな気がする。映画批評については甘口であることを自負している私も、珍しく見終えた後に不愉快な気持ちになった。