私の研究日記(映画編)

ここは『智に働けば角が立つ』の姉妹ブログ。映画の感想や、その映画を通してあれこれ考えたことを紹介しております。

『スミス都へ行く』(DVD)

2008-05-26 19:16:16 | さ行
 先日、土曜の休日を利用して、DVD『スミス都へ行く』を観た

 1939年にアカデミー賞原案賞を受賞した作品。今から約70年前の作品であることが信じられないほど、おもしろい作品であった。

 ボーイスカウトの団長を勤めていたスミス(ジェームス・スチュワート)は、突如として上院議員に選出される。登院したスミスが議会で知るのは、自分を議員に選出してくれたペイン議員(クロード・レインズ)の汚職であった。議会で孤立しながら、純粋なスミスは汚職と戦うことを決意する。というのが、本作の物語の概要である。

 主人公のスミスは、純朴な青年そのもので、物語の中でサンダース秘書(ジーン・アーサー)などからドン・キ・ホーテに喩えられている。しかし、ドン・キ・ホーテの喩えはまだましなほうで、老練な政治家と較べた純朴なスミスを見て、私が思い出したのは『白痴』(ドストエフスキー)の主人公ムイシュキン公爵であった。

 そんな新人議員のスミスが、議会の大物ペイン議員と戦おうというのである。ペインの工作は凄まじく、議会だけではなく、故郷においてもスミスは孤立する。まさしく蟷螂の斧という他ない。にもかかわらずスミスは戦い続ける。生まれたての子鹿のように足腰をふらつかせ、声をかすれさせ、意識を朦朧とさせながら24時間という大演説を行うのである。この最後のシーンは圧巻。大演説が徒労に終ろうとしたその時、心打たれたペイン議員が自らの汚職を暴露する場面には、鳥肌が立ってしまった。

 ところで、政治には「仏の顔と鬼の顔」があるという。つまり、政治=政治家が国民のために政策を考え、実施していくことだとするイメージと、汚職や賄賂、権力闘争といったダークなイメージがある。すなわち、前のイメージが仏の顔であり、後者が鬼の顔である。映画で、スミスはまさしく「仏の顔」を代表し、ペイン議員は鬼の顔の代表であった。いわば、仏の顔と鬼の顔の対決の物語であったといえる。他にも、物語では、フィリバスター(議事妨害)や、アメリカの過去の議会制度を垣間見ることもでき、まるで政治学のテキストのような作品である。
 
 政治に関心のある人はもちろんであるが、関心はないけど映画が好きという人や、単に面白いものを求めているという人でも、観て決して損はない映画であると思う。

『それでもボクはやっていない』(CATV)

2008-05-25 10:14:21 | さ行
 休日中、たまたまケーブルテレビでやっていた『それでも私はやっていない』を観た。

 この作品は、痴漢による冤罪を描いた作品である。

 自分は、通勤、通学でラッシュ時の電車に乗る時は、必ず片手でカバンを前に抱え込み、もう片方の手でつり皮をつかむようにする。つり皮をつかめない時は、読まなくても本か雑誌を持つようにしている。とにかく手が空かないようにする。満員電車に乗る時は、このようにどこか緊張している。
 この映画で、痴漢に間違われた主人公は、数ヶ月間拘禁され、その後行われた刑事裁判で懲役の判決を受けてしまう。「こうした冤罪が起こってはならない」と憤りを感じるよりも、冤罪が他人事と思えず怖いと感じさせる作品だった。

 もう一つ、この映画で、M.ウェーバーの有名な言葉を思い出した。曰く、国家は正統な物理的暴力行使を独占すると。
 この映画の主人公が拘禁中に受けた身体的、精神的苦痛は、暴力以外の何者でもない。しかし、この映画で暴力を行使しした警官が、罪を問われ責められることはなかった。警察はまさしく国家(の代行者)なのであり、その暴力は正当化されこそすれ、罪を問うのは難しいのである。

 普通に生活していると忘れがちな国家の「正当な物理的暴力の行使」という、ウェーバーの命題を、改めて考えさせられる映画であった。 

『ナルニア国物語 第1章 ライオンと魔女』(DVD)

2008-05-24 16:34:59 | な行
 DVDにて『ナルニア国物語 第1章 ライオンと魔女』を見た。2年前に映画館で観ているので、2度目の鑑賞。現在公開中の『第2章 カスピアン王子の角笛』を観るに当たっての復習である。

 『ナルニア』のように、現実世界の登場人物が幻想世界へ迷い込んでしまうという筋書きは、ファンタジーものの物語では、『不思議の国のアリス』や『ピーター・パンとウェンディ』以来の王道パターンである。最近読んだ『神秘の短剣 ライラの冒険Ⅱ』も、空間を切り取って作られた不思議な窓から、パラレルワールドに迷い込んでしまうという作品であった。

 このように、現実世界と幻想世界との往来が、割とありがちな設定であるとしても、『ナルニア』ほど素敵な幻想世界への入り口はないように思える。子供の頃、よく家の中の押入れやトイレの扉を前にして、この扉を開けたら別の世界だったらどうしよう?などと想像力を膨らませた経験があるからだ。『ナルニア』は、そんな子供の頃の想像を、映像技術を使って実現してくれる作品だ。大きな屋敷の中のある部屋に、いかにも意味あり気にポツンと一つ置かれた大きなタンス。そのタンスの扉を開け、中に入っていくと白銀の世界が待っている。何度観ても素敵な設定である。

 また、ファンタジーと映画いえば、映像の美しさも気になるところ。この点も問題はない。タムナスの住む雪の岩山、4人の兄弟たちを乗せた列車が走る平原と森のシーン、雪上の平原など、美しい情景が目に焼きつく。中でも、雪の降る森の中に一本のガス灯の建つシーン(ルーシーとタムナスとの出会いの場面)は詩的でとても美しいと思う。映像の美しさといえば、ファンタジー作品の中では『ロード・オブ・ザ・リング』がピカイチであると思うが、それほどでないにしても『ナルニア』の映像は十分に目を楽しませてくれる作品である。

 登場人物については、映画館で観た時も思ったが、4人兄弟の末っ子、ルーシー役のジョージ・ヘンリーの演技のうまさが目に付く。うれしい時、悲しい時の表情、泣いている時の声音などが自然で違和感を全く感じさせない。

 ストーリー全体を通してみても、落ち着いて最後まで楽しめる作品である。強いて不満を挙げるとすれば、一つは、魔女の誘惑にだまされてから、幽閉、救出、改心するまでのエドモンドを取り巻く状況。見ているこちらまで説教されているような気になる。次に、アスラン復活。絶望的な状況があっさりと取り除けられてしまうところが物足りない。もともと原作がキリスト教の影響を受けていることや、映画化をディズニーが手がけたということもあると思うが、大人が見るには、ストーリーが優等生的過ぎるのではないだろうか。

 おまけであるが、『ナルニア』のホームページ(http://www.disney.co.jp/movies/narnia/shell_content.html)に行くと、「あなたのタムナス度チェック」をすることができる。試しにやってみた所、「かなりタムナスさん」だった・・・。ご興味がある方は、ぜひチャレンジしてみて下さい。

『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』(Theater)

2008-05-21 08:35:16 | た行
 先日、大学からの帰宅途中で『チャーリー・ウィルソンズウォー』を観てきた。

 冷戦真っ只中の1980年代。舞台は、ソ連のアフガニスタン進攻が始まった頃のアメリカワシントンである。この作品は、トム・ハンクス演じる主人公の連邦議会議員チャーリー・ウィルソンが、進攻を受けたアフガニスタンに対する軍事支援と、ソ連からの解放を実現していくまでの物語である。

 美人秘書軍団(その名もチャーリーズエンジェル(^○^))を従え、議員室で酒は飲むは、支援者の娘をお持ち帰りしてしまうは、チャーリーウィルソンは、破天荒な連邦議会議員として描かれている。アフガニスタンのソ連からの解放の背後に、このような破天荒な人物がいたというギャップが、面白いところなのかもしれない。

 ちなみに、映画で描かれているアフガニスタンへの軍事支援が、後のアルカイーダを生むことになる。これが悲劇の始まりだったといえるだろう。
 
 純粋な面白さを求めるのであれば、この映画は、自信を持ってお勧めできる映画とはいえない。

 まず、ストーリーの展開にどんでん返しがなかった。CMさえ観れば映画の内容は、だいたい理解できたといえる。

 また、CMから、軽目のコメディー映画をイメージしていたのに、軽いのはチャーリー・ウィルソンのキャラクターだけで、ストーリーは決して軽いものではない。

 ソ連のアフガニスタン侵攻は、国際社会からの猛烈な批判を浴びた出来事だった。当時のアフガニスタンの惨憺たる様子は、今年2月に観た『君のためなら千回でも』でも描かれていたが、『チャーリー』の描くアフガニスタンもほとんど同じだ。コメディ部分もあることにはあるが、最初の2、30分だけで、チャーリーがアフガニスタンを訪れた後の映画の内容は、非常に硬い映画であったといえる。

 さらに、トム・ハンクスの演技が映画の硬さに拍車をかけていたように思われる。トム・ハンクス自身は嫌いではないが、『グリーン・マイル』や『アポロ13』など、お堅いキャラのイメージが強すぎて、チャーリー・ウィルソンのような破天荒でプレイボーイの政治家としては違和感を感じてしまう。

 ちなみに、実際のチャーリー・ウィルソンがどのような人物なのか、ウィキペディアで調べてみた所、なかなかのイケメンであった。個人的にはジョージ・クルーニーやリチャード・ギアあたりが適役だったのではないかと思った。

 このような意味で、コメディを期待してこの映画を観た人には、裏切られた感が強いかもしれない。
 
 ただし、ソ連のアフガン侵攻に対するアメリカの対応について知りたいという人にとっては、議会の様子やCIAの様子なども含めて非常に勉強になる。

 また、細かい点であるが、議員や議員秘書たちの多忙さが、詳細に描かれている点が個人的には面白かった。分刻みで人と会い、それが終わると電話で話し、それが終わるとまた別の人と会うという様子は、アメリカだけではなく、日本の国会議員にも当てはまりそうである。

 この映画に登場しているなかでは、2人の俳優が光っていたように思う。

 まず、CIAの諜報員ガストを演じる フィリップ・シーモア・ホフマン。『カポーティ』でアカデミー賞助演男優賞を受賞した人である。見た目は三枚目オヤジなのに、渋く凄みのあるいかにも諜報員という感じの役柄を好演している。この人は、この映画のガストのように、世間ずれした自信家という感じの役柄が良く似合う。

 次に、美人秘書軍団のリーダー、ボニー役を務めたエイミー・アダムス。この人は、ついこないだまで上映されていた『魔法にかけられて』のお姫様だった人である。上司に忠実なキャリア・ウーマンの一面と、かわいらしい一面とを交互に演じ分けている。映画の中の一癖も二癖もあるような登場人物の中では、唯一ほっとする存在だった。これは演技というより、そういうキャラクター設定によるのかもしれないが、だとすればその役割は十分果たされていたといえるだろう。

 
 


『バブルへGo! タイムマシンはドラム式』(CATV)

2008-05-10 18:04:39 | は行
 GWの合間。ケーブルテレビでやっていた『バブルでGo!』を観ました。

 バブル崩壊の原因となった(とされる)不動産融資に対する「総量規制」(1990年、大蔵省)を、タイムマシンで1990年に戻り止めさせるというのが、映画のストーリー。

 で、無事崩壊を食い止めてしまいますw(゜o゜)w。

 歴史的にみればバブルは必ず崩壊するもので、総量規制が布かれなかったとしても、また別の何かがきっかけとなって、バブルは崩壊していたのではないでしょうか。

 そんな話はさておき、映画のコメディ部分はなかなか面白く、純粋に楽しむことが出来ました。

 バブル時代といえば、私はまだ中学生。スターどっきりまる秘報告、お立ち台、極太眉、ファジー家電などなど、随所に登場してくるものは、懐かいものばかりです。
 特に、プリンセスプリンセスの「ダイアモンド」は、初めて買ったCDだっただけに、劇中曲としてこの曲が流れた時には懐かしさも一入でした(T_T)。

 バブルを多少なりとも経験している私やそれ以上の世代は、面白さを実感できるこの映画。バブルが崩壊した後に生まれた若い世代が、この面白さを共有することはできないでしょう。この世代にとって、バブルは中学・高校で習う歴史の一現象に過ぎないからです。
 この意味で、この映画はあくまで「大人向けの映画」(ちょっといやらしい響きがありますね)で、万人向けとは言いがたい気がします。別の言い方をすると、この映画は、ストーリーで楽しませるというよりは、バブルの経験に基づく体感型の映画といえるのではないでしょうか <(_ _)>。
 
 

『パンズ・ラビリンス』(DVD)

2008-05-05 10:24:49 | は行
 去年、公開時に見逃してしまった『パンズ・ラビリンス』。とうとう観ました。

 物語の舞台は、1944年のスペイン。この頃のスペインは、フランコの独裁政権と反対派との、止めどのない内戦を引きずっているという時期です。

 ピカソが『ゲルニカ』を描いたのが、映画の時代設定よりもほんの少し前の時期です。絵に秘められたピカソの怒りがスペイン人の怒りを代弁したものだったとすれば、当時のスペイン国内の対立が、いかに激しいものだったかが容易に想像できます。

 また、物語の主人公「オフェリア」という少女の名前は、『ハムレット』で溺死してしまう悲劇のヒロイン「オフィーリア」に似ています。

 このように映画の要所に、物語の悲劇性や暗さが隠れております。

 妖精に誘われて、牧神パンのもとへと連れて行かれたオフェリア。彼女は、牧神パンから、自分が本当は地底にある王国の王女であり、それを確かめるのに3つの試練を乗り越えなければならないと告げられる。
 3つの試練に対するオフェリアの挑戦を軸に、後の物語が展開していきます。

 物語の雰囲気は最初から最後まで一貫して暗く、物語の軸にぶれもありません。途中混乱することなく安心して物語を追うことができました。

 さらに、内戦、冷酷な義父、母の死など、主人公の置かれた悲劇性には、同情心をぐいぐい引き込まれてしまいます。
 願いかなって、オフェリアがラビリンスへとやって来る最後の場面は、『マッチ売りの少女』を彷彿とさせます。この場面で私は泣いてしまいました。余りにもかわいそうで。

 映画を観て感動の余り涙を流してしまうことは、もともと涙腺の緩いたちの私にはままあることです。ですが、可哀そうという気持ちや、同情心から涙を流してしまったことは、今回が初めてかもしれません。そういう点で、自分にとっては衝撃的な映画でした。

 ところで、戦時中という時代設定は、今度2作目が公開される『ナルニア国物語』と共通しております。『ナルニア』は第二次大戦中のイギリスを舞台とした物語でした(確か、ドイツの空襲避けるため、4人の兄弟たちが田舎へ疎開する場面から始まる物語だったかと思います)。
 
 『パンズ』と『ナルニア』で共通しているのは、物語の中の幻想世界が、主人公にとって、(戦争という)現実からの逃げ場となっているという点です。

 昔にさかのぼって『ネバー エンディング ストーリー』などもそうですが、しばしばファンタジー映画の幻想世界は、主人公が現実から逃げこむ場所として位置づけられます。今年2月に観た『テラビシアにかける橋』では、明らかにそのような位置づけとなっておりました。
 ただ、『ナルニア』、『ネバーエンディング』にしても、『テラビシア』も、主人公は幻想世界でたくましく成長し現実世界に戻っていきます。それが、ある種ファンタジー映画の王道パターンだったといえるでしょう 
 
 そういう意味で『パンズ』は、王道パターンから完全に外れた作品といえます。オフェリアが幻想世界で成長するわけではないし、最終的に現実世界に戻ることもできなくなります。オフェリアが救われることをずっと願いながら観ておりましたが、最後までその願いは叶いませんでした。

 いろいろと考えさせる映画で、未だに考えがまとまっておりません(だからこんなにだらだらと書いてしまうのですが)。いずれにせよ、非常に良い作品だったといえます。

 
 監督のギレルモ・デル・トロは、『ロード・オブ・ザ・リング』の前章である『ホビットの冒険』(原作トルーキン)の監督に就任することが決まったようで、これも期待大です。