私の研究日記(映画編)

ここは『智に働けば角が立つ』の姉妹ブログ。映画の感想や、その映画を通してあれこれ考えたことを紹介しております。

『ミーアキャット(日本語吹替え版)』(Theater)

2009-01-31 00:54:35 | ま行
監督 ジェームズ・ハニーボーン
撮影 バリー・ブリットン
音楽 サラ・クラス
製作会社 BBC
ナレーション ポール・ニューマン
製作年 2008年
製作国 イギリス
上映時間 : 83分



 シネプレックス幕張にて鑑賞(2009年1月14日)。

 アフリカのカラハリ砂漠で暮らすミーアキャット。その生態について、生まれたばかりのミーアキャットの赤ん坊コロを中心に描き出していくというドキュメンタリー映画である。

 最近見たドキュメンタリー映画(『ブロードウェイ♪ブロードウェイ』、『ヤング@ハート』、『ザ・ムーン』)は、何というかストーリーで楽しませるというところがあったが、この作品はとにか映像によって、2つの楽しみ方ができるという映画である。

 まずはミーアキャットの可愛らしさ。これについては、オフィシャルページの画像が雄弁に物語っているので、ここであえて説明する必要もないだろう。
 ところで、日記に「あぁ、できることならば、スクリーンの中のミーアキャットを連れ帰り、手を繋いで散歩してみたかった(笑)」などと書いているが、よくよく調べてみると、ミーアキャットの体長は、成長しても30㎝ほどにしかならないそうだ。身長177㎝の私がミーアキャットと手を繋いで散歩するのは、どうやら難しいようだ。残念 >< (私が屈み腰で歩くなら可能だが、腰痛持ちの私には無理)。



 また、ミーアキャットは意外と社会的な動物である。コロの群れはお父さんとお母さん、その兄弟達と子ども達からなる大家族。その中でコロの教育役を任されたのは、コロの実の兄である。他にも見張り役や、食料を探しに行く役がいたりと、群れの中の役割分担が決まっている。調べてみると、数頭から数十頭という群れの中で繁殖をするのも、1匹のオスと1匹のメスに限られているのだそうだ。確かチンパンジーだって、これほど(?)複雑な分業を行っていないはずなので、ある意味、ミーアキャットは人間に最も近い動物といえるのかもしれない。


 さて、もう一つ映像で楽しませてくれるのは、雄大なアフリカの自然である。さすが『ディープ・ブルー』や『アース』を製作したBBCだけはある。特に、広大なアフリカの大地を空から撮影した映像では、まるで鳥になって空を飛んでいるようで爽快であり、かつ圧倒される。



 ただし、アフリカの自然は、その美しさとは裏腹に、そこで暮らすあらゆる動物たちにとっては、生きるか死ぬかの過酷な世界である。コロたちミーアキャットにとってもそれは例外ではない。映画を見ていると、彼らがコブラや鷲、ライオンに狙われ、常に危険と隣り合わせで生きていることがよくわかる。それを最も実感したのは、コロの教育係だった兄が、コロの身代わりで鷲に連れ去られた場面。とても可哀相な場面だった。

 それにしても気になるのは、ミーアキャットの生態をどう撮影したのかということ。特に巣穴の中のミーアキャットの様子は、どう撮影すればあのような映像が撮れるのだろうか。DVD化の際、ぜひともこの作品のメーキング映像を入れてほしい。

 たった90分という短い作品だが、十分楽しむことができた。惜しむらくは、日本語吹替えだったこと。三谷幸喜のナレーションも決して悪くなかったが、できれば亡くなったポール・ニューマンのナレーションも聞いてみたかった。しょうがないので、いずれDVDを買おうと思う。


『バティニョールおじさん』(TV)

2009-01-27 16:04:53 | は行

監督 ジェラール・ジュニョ
製作 ジェラール・ジュニョ、ドミニク・ファルジア、オリヴィエ・グラニエ
脚本 ジェラール・ジュニョ、フィリップ・ロペス=キュルヴァル
出演者 ジェラール・ジュニョ
音楽 カトリーヌ・ケルベル
製作国 フランス・ドイツ
公開 フランス:2002年3月6日、日本:2003年1月11日
時間 100分




 NHKBSの深夜映画でたまたま放送されていた。自宅にて観賞(2009年1月10日)。

 あらすじは次の通り。「ナチス・ドイツの占領下にあるフランス。総菜屋を経営するバティニョール(ジェラール・ジュニョ)は気のいい中年男だが、ある日、ひょんなことから隣のユダヤ人、バーンスタイン家の摘発に関わってしまう。ナチ信奉者である娘婿の計らいで、バーンスタインの豪華なアパートまで手に入れたバティニョールだが、ドイツ大佐を招いたパーティの真っ最中、バーンスタイン家の息子・シモンがひょっこり帰ってきた。とっさにシモンを匿ったバティニョールは、シモンをスイスへ逃がすことに…」(以上『映画生活』からの引用)。




 『ナチスと映画 ヒトラーとナチスはどう描かれてきたか』という本を読んだばかりだが(⇒本の感想)、今回見た『バティニョールおじさん』も、まさにこの本で述べられている「ナチス映画」の一つ。もう少し明確に位置付けるなら、その中でも、ユダヤ人の強制収容を背景とした本作は「ホロコースト映画」の一つといえるだろう。ちなみに、ホロコースト映画は、『戦場のピアニスト』や『シンドラーのリスト』など名作ぞろい。その中でいえば、コメディータッチさから、『ライフ・イズ・ビューティフル』と同じ系統に分類できる作品といえようか。 


 頑固でまじめな世話やきだが、若干優柔不断。妻からはどことなく馬鹿にされている。バティニョールは、どこにでもいそうな冴えないおじさんである。そんなバティニョールが、本人の意思と無関係に、あれよあれよという間にユダヤ人の子供たちを助けるヒーローになっていく。こうした物語展開の面白さと、場面展開のテンポの良さも相まって、全く飽きることがなかった。

 何といっても見どころは、可愛らしい子供たちとバティニョールとのやり取り。隠れていたはずのシモンが屋根の上で近所の子供たちと遊んでいたり、スイス国境へと向かう列車ではシモンの嘘のせいで骨継をさせられたりと、生意気盛りのシモンの言動に、バティニョールはたじろぎ、ただ悪態を返すことしかできない。そんな二人のやり取りは、まるで漫才を見ているようで、たびたび笑ってしまった。でも、悪態をつきながら、なんだかんだ子供たちのために奔走するバティニョールの姿には心温まる。はじめは突然舞い込んだ災難のように見ていた子供たちに対し、だんだんと父親のような愛情を寄せていくバティニョールの心情の変化にも注目。私は胸を熱くさせられずにいられなかった。

 それにしても、ひどい男だと思ったのがバティニョールの娘婿。自分の出世とバティニョールの娘と結婚したいという願望のために、ほんの幼い子供たちをナチスに売り渡そうとする男である。あんなに可愛らしい子供たちに何てひどいことをするんだ!!と、映画だということも忘れて本気で腹が立ってしまった。最近見た映画の中では、間違いなく一番嫌いなキャラである。


 この映画は実話がもとになっている。調べてみると、第二次大戦中、パティニョールのように庶民でありながら密かにユダヤ人を支援していたという人々は、たくさんいたそうだ。でも、大戦中のユダヤ人救出というと、実業家のシンドラーや外交官の杉原千畝のように、社会的に表舞台に立ちやすい人ばかりを注目してしまう。そういう意味でこの映画は、人々の歴史の記憶から忘れられかけている庶民のユダヤ人支援に、再び光を当てたといえるような作品である。新聞のテレビ欄を見るまで、タイトルも含めてこの作品のことを全く知らなかったが、見て良かった思わせる秀作であった。
 


『永遠のこどもたち』(Theater)

2009-01-24 14:03:00 | あ行

監督 J・A・バヨナ
総指揮 ギレルモ・デル・トロ
出演 ベレン・ルエダ 、フェルナンド・カヨ 、ロジャー・プリンセブ 、マベル・リベラ 、モンセラット・カルージャ
製作年 2007年
製作国 スペイン=メキシコ

 シネカノン有楽町1丁目にて鑑賞(2009年1月6日)。



 幼い頃、海辺の孤児院で暮らしていたラウラ(ベレン・ルエダ)。30年後、ラウラは、閉鎖されていたこの孤児院を買い取り、障害を持つ子供のためのホームとして再建しようと、夫カルロス(フェルナンド・カヨ)と息子のシモンとともに移り住んでくる。ホームへの改築が進む中、シモンは空想上の友達を作って遊ぶようになる。これを心配するラウラ。だが、シモンはそこにいるはずのない遊び相手に名前をつけ、空想遊びはエスカレートしていくばかり。

 そんなある日、入園希望者を集めたパーティが開かれる。客の応対に忙しいラウラは、自分の気を引こうとするシモンを叱りつけてしまう。そのことを気にやんだラウラがシモンを探していると、突然、覆面を被った少年が現れ、ラウラをバスルームに閉じ込めてしまう。何とか救出されたラウラはシモンを探すが、シモンは神隠しにあったように、忽然と姿を消してしまったのだった。



 この作品対する他の方のレビューで、この映画は「怖いというより不気味」といった感想を見かけたが、「不気味というより怖い」の間違いではなかろうか。少なくとも私はそう感じた。

 とにかく怖かった。余りにも怖いので、所々で目を半開きにして怖い場面をやり過ごそうという姑息な技を使ってしまった。ホラーファンに話したら「もったいない!!」と叱られそうだし、自分でも男としてそれはどうなのろうか?と思わず疑問に感じてしまう。でも、実際に怖かったのだから仕方あるまい。覆面の少年や暗い建物の中の不気味さ、何かが自分の家にいる、自分の近くにいるという切迫感、そうして緊張している中でのすさまじい音響。恐怖感の演出が余りに見事過ぎた、そう信じたい(笑)。

 ところで、日記ブログの方にも書いたが、ホラーを見るのは久しぶり。実はホラー映画は割と好きな私なのだが、昨年は一作品も見ていない。最後にホラーを見たのっていつだろうか。恐らく一昨年CATVで見た『着信アリ final』だろう。ちなみに、覆面の少年を見て『エレファント・マン』を思い出したのは、私だけ?



 怖さもさることながら、ラストの展開に驚かされた。まさか!あんな悲しいことって。ラストシーンは、意外な結末に驚かされると同時に、涙がツーとしたたり落ちる場面である。シモンに対するラウラの狂おしいほどの愛が、胸が締め付けられるように切なく悲しかった。「愛を信じたら、本物の光が見える」というのが、この映画の宣伝文句だが、この言葉の真意はラストシーンになればわかるだろう。詳しく書くこともできないが、似ているなーと思ったのは、残された最後のマッチを使い、大好きだったおばあちゃんと再会することで幸せだが悲しい結末を迎える『マッチ売りの少女』。

 と、ここまで書いたところで、以前『パンズ・ラビリンス』のレビューでも似たようなことを書いたのを思い出した。総指揮のギレルモ・デル・トロらしさが良く出た作品といえるだろう。また、幻想的、魅惑的な美しさの中に不気味さが漂った独特の映像美も、良い意味で『パンズ・ラビリンス』とよく似ていたように思う。

 ラウラ役のベレン・エルダは、この作品で初めて見た女優さん。この映画はストーリーもさることながら、彼女の迫真の演技に支えられている部分が大きいように思う。わが子に対する母親の狂おしいほどの愛情や悲哀がよく伝わってくる。見ていて切なくなるほど。

 母親がわが子を探す、という設定の物語は最近割と多いような気がする(私が見た中では、『フライト・プラン』、『フリーダム・ランド』、『題名のない子守唄』などなど)。そういう意味でありがちな物語ともいえる本作だが、恐怖感とラストの悲しさは、他の映画ではなかなか味わうことができないと思う。少なくとも私は、強烈な印象を焼き付けられた作品である。ホラーが苦手でなければという条件は付くが、人にお薦めできる素晴らしい映画だった。


『そして、私たちは愛に帰る』(Theater)

2009-01-23 02:53:50 | さ行
監督 ファティ・アキン
脚本 ファティ・アキン
音楽 シャンテル
出演 バーキ・ダヴラク、トゥンジェル・クルティズ、ヌルギュル・イェシルチャイ、ハンナ・シグラ、
  ヌルセル・キョセ、パトリシア・ジオクロースカ
製作年 2007
製作国 ドイツ・トルコ
上映時間 122分

 シネスイッチ銀座にて鑑賞(2008年12月26日)



 「ハンブルクに住む大学教授のネジャットの老父アリはブレーメンで一人暮らしだったが、同郷の娼婦イェテルと暮らし始める。ところが、アリは誤って イェテルを死なせてしまう。ネジャットはイェテルが故郷トルコに残してきた娘アイテンに会うためにイスタンブールに向かう。そのアイテンは反政府活動家と して警察に追われ、出稼ぎでドイツへ渡った母を頼って偽造パスポートで出国し、ドイツ人学生ロッテと知りあう。」(『goo映画』から引用)

 ドイツで暮らすトルコ系移民の父と息子、ドイツで娼婦をするクルド人の母とトルコで政治活動をするその娘、ドイツ人の母と娘。この三組の親子を中心に、物語はたんたんと、かつ断片的に進んでいく。



 はじめは、この映画が一体何を描こうとしているのか、全く分からなかった。それを一変させたのが、「たとえ神を敵にしても息子を守る」というワンフレーズ。この言葉によって、私の頭の中で物語の各場面が意味づけされ、断片が一本の物語へと繋がっていった。なるほど!そういうことだったのか!と。

 この言葉が物語の構成上重要なことはもちろんだが、それ以上の意味がこの言葉にはある。この言葉が、敬謙とはいえないまでも、れっきとしたイスラム教徒の老人アリの言葉だからである。

 コーランや旧約聖書には、神の命令でわが子を生贄に差し出そうとするアブラハムの物語があるが、神への絶対的な服従が求められるイスラム教徒が、神よりも子供を選ぶと言っているのだから、「たとえ神を敵にしても息子を守る」という言葉の重みがどれほどのものか想像がつくだろう。独身の私には当然子供もいないので、十分理解できたかどうかは分からないが、子に対する親の狂おしいほどの愛情が伝わってくる言葉であるといえるだろう。とても印象に残る言葉だ。

 行間読みを強いられるようで、若干難しさを感じる映画だった。が、いつもすれ違ってばかりなのに、それでも親子の愛情は何よりも深い、というある意味当たり前の真理が見事に描き出されている。そうしたメッセージ性とインパクトのある作品だった。


『ガタカ』(CATV)

2009-01-22 20:18:38 | か行
監督 アンドリュー・ニコル
製作 ダニー・デウ゛ィート
マイケル・シャンバーグ
ステイシー・シェール
脚本 アンドリュー・ニコル
出演者 イーサン・ホーク、ユマ・サーマン、ジュード・ロウ
音楽 マイケル・ナイマン
公開 1997年
時間 101分
製作国 アメリカ

 自宅、CATVムービープラスにて鑑賞(2008年12月26日)。

 生まれてくる子供の遺伝子を事前に操作し、優秀な人間を生み出すことが可能となった未来社会。そこは、遺伝子の優劣が人生を左右する格差社会でもある。子供たちは、遺伝子操作によって優秀な遺伝子を持って生まれてくる。だが、物語の主人公ビンセント(イーサン・ホーク)は、そのような世界で自然出産によって生まれたという人物。つまり、遺伝子操作されていない普通の人間である。幼い頃、医者から30歳までしか生きられないと通告された彼は、宇宙飛行士になることを夢描いて成長していく。青年となり家を出たビンセントは、夢を実現するため宇宙開発会社「ガタカ」の入社試験を受ける。だが、結局、遺伝子検査で不適格者の烙印を押され、試験に落ちてしまう。どうしても夢を諦めきれないビンセント。そんな彼は、ついに違法な手段に手を出してしまう。それは、優秀な遺伝子を持つジェローム(ジュード・ロウ)に成りすますこと。そして、無事ガタカに入社した彼は、とうとう土星の衛星タイタンの探査ロケットの飛行士に選ばれるが・・・。

 この作品を通して描き出されるのは、遺伝子によって決定付けられた運命を変えようという、ビンセントのすさまじいほどの意思の力。執念とよぶべきかもしれない。

 一見すると、運命は意思の力で変えることができるのだ、という感動的な作品とも思えなくもない。が、私はこの映画を二度見て、二度ともそのような感動を得ることはできなかった。感動とは遠く離れた愕然たる思いがするというのが、正直な気持ちである。夢を実現しようとする時、何かを犠牲にしなければならないという点は、この映画だけではなく、恐らく現実の世界も同じといえるだろう。睡眠時間を削る、節約する、勉強する、お金を貯めるなどなど、日々人はいろいろな努力をしているに違いない。だが、夢を実現するために、ビンセントに対しあのような努力を強いる未来の格差社会は一体何なのだろうか。世代的な影響を強く受けているのだと思うが、私は未来の世界に対して、どうしても透明チューブの中を空飛ぶ車が走っているというイメージを思い描いてしまう。人々は銀色の服を着て、町の中を動く歩道に乗って移動していく。この映画を見ると、そんな夢のような未来像が崩されてしまう。未来は余り良い世界ではないかもしれない、と暗い気持ちになってしまうのである。

 近年、遺伝子工学の発達は目覚しいものがあるが、それによって生じかねない未来の強烈な格差社会。監督・脚本は、昨年秋に見た『トルーマン・ショー』のアンドリュー・ニコル。『トルーマン・ショー』同様に、彼の強烈な問題意識に基づいて作られた作品といえるだろう。
 確かに、遺伝子工学やクローン技術などのバイオテクノロジーの発達は、特に医療やエネルギー、食料などの分野に計り知れない恩恵をもたらすともいわれている。だが一方で、バイオテクノロジーのあり方は、今やアメリカやヨーロッパなどでは、特に倫理性や安全性の観点から論争の的となっており、重要な政治的争点の一つにもなっている。
 こうしたバイオテクノロジーの持つ二面性は、今でこそ当然のことともなっているが、作品が公開された1997年当時は、その光の面ばかりが強調され、影の側面は余り意識されていなかったのではないだろうか。確信を持っていえるのは、この作品が公開された1997年当時から見ると、現在のバイオテクノロジーが一層進んでいるということ。恐らく公開当時より現時点の方が、作品の描く格差社会によりリアリティを実感できるだろう。そういう意味で、この映画はバイオテクノロジーの影の部分をいち早く描き出した、先駆的な作品といえるのではなかろうか。


 それにしても、この作品に出演しているイーサン・ホーク、ジュード・ロウ、ユマ・サーマン。かなり豪華な若手出演陣といえるだろう。そして、彼らの美しい容姿を見ていると、嫌が応でも劣性遺伝子を感じてしまう自分が、少しだけ悲しかった(笑)。

『山河遥かなり』(DVD)

2009-01-13 00:56:08 | さ行

監督 フレッド・ジンネマン
製作 ラザール・ヴェヒスラー
脚本 リチャード・シュヴァイザー
出演 イワン・ヤンドル、モンゴメリー・クリフト、ヤルミラ・ノヴォトナ、アリーン・マクマホン
製作 1947年
製作国 アメリカ
時間 106分
 
 自宅DVDにて鑑賞(2008年12月26日)

 物語の舞台は第二次世界大戦後のドイツ。進攻してきたドイツ軍に捕らえられ、離れ離れになってしまった少年とその母が、戦後、親切なアメリカ人に助けられながら、奇跡的に再会するまでを描いた作品。



  製作は1947年。終戦からまだ2年しか経っていない時期である。作品には空爆で崩壊した建物の並ぶ町並みが映し出されているが、当然これはセットなどではなく本物である。この作品の時代背景となっている戦争孤児の問題は、当時現在進行形で起こっていた問題でもあるのだ。こうした戦争孤児は、第二次世界大戦中のナチス・ドイツがヨーロッパに残した傷跡。先日、『ナチスと映画』を読んだことを日記に書いているが、当然この映画も、ナチス映画に分類される作品の一つといえるだろう。
 時代背景に関してもう一つ気になったのが、少年や母親を助ける親切なGIたち。穿った見方をすると、ヨーロッパからファシズムを駆逐した、解放者としての良きアメリカが演出されているようにも感じられる。製作されたのがまさに冷戦が始まろうとしていた時期だけに、政治的な意図があったように思われてならない作品でもある。




 とはいえ私は、いわば第二次大戦版『母を訪ねて三千里』といったこの作品に、素直に引き込まれずにはいられなかった。離れ離れになってしまった少年とその母親。少年は記憶を失い何も思い出すことができない。そして、そんな少年を必死に捜し求める母親。二人が無事再会することができるのかが気になり、ぐいぐいと物語に引き込まれていった。また、すんなりと感情移入できたのは、主人公の少年カレルを演じるイワン・ヤンドルの悲しみに満ちた表情に負うところも大である(上の画像参照)。こんな子どもがいたら、誰もが何とか助けてあげたいと思うに違いない。記憶を失くしていた少年が徐々に母を思い出し、ある時手で顔を覆って涙する場面は、激しく胸が打たれる場面。母と子が再会を果たす最後の場面は、涙なしではみることができなかった。

 映画の古さというよりDVDの質が原因だと思うが、映像が若干ボケ気味だったのが残念なところ。だが、総じていうならば、人にお薦めできる素晴らしい作品であるといえるだろう。
 

『マルタのやさしい刺繍』(Theater)

2009-01-10 21:00:27 | ま行
監督 ベティナ・オベルリ
出演 シュテファニー・グラーザー、アンネマリー・デューリンガー 、 ハイジ=マリア・グレスナー 、モニカ・グプサー
製作年 2006年
製作国 スイス
上映時間 89分

 シネスイッチ銀座にて鑑賞(12月21日)

 スイス・エメンタール地方の小さな村で暮らす80歳のマルタ(シュテファニー・グラーザー)は、長年連れ添った夫を失い、悲しみに打ちひしがれてながら暮らしている。ある日、村で開かれる合唱祭の旗の補修を依頼されたマルタは、補修に必要な布を手に入れるため、仲の良いリージ(ハイジ=マリア・グレスナー)やフリーダ(アンネマリー・デューリンガー)、ハンニ(モニカ・グプサー)と連れだってベルンの布屋を訪れる。そこで見つけたフリルの刺繍を手に取り心踊らせるマルタ。自分で刺繍したランジェリー・ショップをオープンさせるという若い頃の夢を思い出したのである。そしてその夢を実現するため、マルタは親友達の助けを借り、保守的な村の人々の嫌がらせにあいながらも奮闘していく。



 一般的には、人間は年を取るほど保守的な考えになっていくとされるが、この映画の面白いところは、そうした一般的な常識を逆転させたところ。80歳のマルタが若者のように夢を描き、彼女より若い人々が村の伝統や建前に固執している。中でも、マルタの息子や村の政治リーダーは、ランジェリーショップを開店するというマルタの夢を村の恥だと軽蔑し、あからさまな妨害を試みる。その嫌がらせたるや、映画だとは分かっているのに、なんて人たちなんだ!と怒りが込み上げ、思わずこぶしを握り締めてしまったほどである。

 そんな妨害にくじけそうになりがらも、心厚い親友の助けを借り、また心ある人たちからの協力を得ながら、自分の夢を何とか実現しようとするマルタがいじらしく、応援せずにはいられなかった。気落ちしているマルタのためにと、マルタを手助けするリージやフリーダ、ハンニら3人の友情も、押し付けがましくなく見ていて心温まる。そして、最後の合唱際の場面で村の政治リーダーをやりこめる逆転劇は、とても爽快である。

 もう一つ忘れてはならないのは、美しいスイスの風景。画面いっぱいに映し出される山々の大パノラマは、それだけをひたすら見ていても良いぐらいだった。他にも、ゲーテに「これほど美しい街を見たことがない」と言わしめたベルンの町並みなども映し出され(ほんのわずかしか登場しないので、ちょっぴり残念だが)、映像的に楽しめること請け合いである。

 爽やかな感動を得られ映像まで楽しめてしまうという良い作品。秀作だといえるだろう。それにしても、以前『ヤング@ハート』を見たときにも思ったが、年を取ってからも何かに打ち込める人生って、やはり素敵なことだ。



『エレファントマン』(DVD)

2009-01-08 09:29:18 | あ行

監督 デヴィッド・リンチ
脚本 クリストファー・デヴォア
   エリック・バーグレン
   デヴィッド・リンチ
出演 ジョン・ハート、アンソニー・ホプキンス、ジョン・ギールグッド
音楽 ジョン・モリス
公開 1980年10月10日(アメリカ)
    1981年5月9日(日本)
時間 124分
製作国 イギリス、アメリカ合衆国

 自宅DVDにて鑑賞(12月13日)。

 「19世紀末。ロンドン病院の外科医トリーヴズ(アンソニー・ホプキンス)は、町の見世物小屋で“エレファント・マン”と呼ばれる青年に出会う。彼の本当の名はジョン・メリック(ジョン・ハート)。かつて、彼を身ごもっていた母親がゾウに襲われその時の恐怖心が原因で、彼は醜い異形の姿となって生を受けたのだ。研究対象としてジョンに感心を抱いたトリーヴズは、興行師のバイツを説得し、病院で引き受けることにする。人々の侮蔑や、バイツの虐待を長年に渡って受けてきたジョン。優しく接してくれるトリーヴズとの交流によって彼は人間としての尊厳を取り戻していくが・・・」(DVDパッケージから引用)。

 という、見世物小屋の見世物に過ぎなかったジョン・メリックが、人間としての尊厳を獲得していく苦難を描いた物語。彼の姿は、確かに恐怖感を感じるほどに醜い。だが、人々は彼の心の優しさにほだされ、徐々に彼に共感していく。人々のそうした心情の変化が面白い所であり、また感動的な部分だった。

 また、『マルホランド・ドライブ』などリンチ監督の後の作品のように、映像のメリハリのつけ方に彼らしさがよく表れていた。モノクロ映像が一見作品の古さを感じさせるが、1980年代の作品。どのような意図で映像をモノクロにしたのかは分からない。が、私自身は次のように感じた。まず、モノクロの独特な陰影が、エレファントマンの醜さや覆面をした時の不気味さを引き立たせている。一方で、エレファントマンは優しく誠実であり、聖書を暗唱するほど教養のある人物。モノクロには、エレファントマンの外見の醜さと内面の美しさとのギャップを際立たせ、人物像のインパクトを鮮烈にする効果があったように思われる。

 ちなみに、監督がデヴィッド・リンチと聞くと、『ツイン・ピークス』や『マルホランド・ドライブ』のように、場面展開を追うのに集中力を要する難解な作品かと思わず身構えてしまう。が、本作はストーリーも単純だし場面展開も難なく追うことができた。リンチ映画の取っ掛かりとして相応しい作品といえるのではないだろうか。

『青い鳥』(Theater)

2009-01-07 17:20:35 | あ行
監督 中西健二
原作 重松清
出演 阿部寛、本郷奏多、伊藤歩、太賀、鈴木達也
製作年 2008年
製作国 日本
時間 105分

 京成ローザにて『青い鳥』を鑑賞(2008年12月13日)。

 新学期を迎えた東ヶ丘中学校の2年1組。前の学期、このクラスではイジメを原因とする自殺未遂事件が起きた。幸い大事には至らなかったものの、自殺しようとした野口は転校し、担任教師は重圧から休職した。新学期が始まり、事件の動揺がようやく静まった2年1組に、臨時教師として村内(阿部寛)が赴任する。
重度の吃音癖を持つ村内は、決して饒舌とはいえない。が、彼はどもりながらもゆっくりと生徒たちに語りかける。「忘れるなんて、卑怯だな」。片付けられていた野口の机を元に戻させ、その机に向かって「野口くん、おはよう」と毎朝声をかける。彼の静かな言動が、ようやく日常に戻った生徒達を動揺させていく。



 原作を書いた重松清は、以前日記でも取り上げているように、好きな作家の一人である。重松作品の重要なキーワードとなるのが、家族や友達、学校、仕事など、われわれの生活の大部分を構成するような身近な要素である。そして、重松作品の多くに共通しているテーマは、こうした身近な生活の中での暴力とでもいえようか。DVやイジメ、セクハラ、パワハラ、モラハラなど、われわれの生活の中には常に様々な暴力が潜んでいる。また、これらがわれわれの生活から切り離しがたいほど身近な家庭や学校、職場で起こるからこそ、問題が深刻化し、当事者は絶望的な状況へと追い詰められてしまうのであろう。こうして、登場人物を時にどうしようもないほど絶望的な状況に追い込みながらも、最後に必ず希望を残しておくというストーリー展開が、重松作品の好きな所である。



 本作もそのような作品の一つといえる。クラスメイトからのイジメに対し追い詰められた野口は、自殺しようとし、それを果たせずに転校していく。一方で追い詰められている人物がもう一人。園部真一(本郷奏多)である。彼は率先して野口をイジメていたわけではないが、つい一度だけ他の仲間たちと一緒にふざけてしまう。自殺未遂事件が起きて以来、園部はそのことを悔やみ続け次第に追い詰められていく。

 ちなみに、テレビドラマなどで、いじめられっ子を自殺に追いやったいじめっ子たちが、開き直っている場面を時折見ることがある。が、私には今時の子ども達を悪く捉え過ぎているように思えて、いまいちリアリティを感じない。恐らくワイドショーなどで映し出される今時の子どもの外見だけを演出しているのであろう。もちろん、人を死に追いやって開き直れるような子どもも世の中にはいると思うが、そうした子どもを一般化することには疑問を感じる。私は塾の講師をやっているが、少なくとも私が教えてきた子ども達には、そんな子はほとんどいなかったと思う。

 そういう意味で、本作の園部は無表情で、一見野口の自殺未遂に何も感じていないようにも見える。その限りではいわゆる「今時の子ども」のようだ。が、実は園部は野口の自殺未遂で深く傷ついている。子どもの無表情の解釈については、心理学的にも諸説あるようだが、私は無表情こそ何かを隠し守ろうとしている自己防衛の表情だと思う。ワイドショーなどでは、そうした無表情を捉えて「今時の子ども達は!」と目くじらを立てているが、それは子ども達の表面しか捉えていないのではないだろうか。一見何も感じていなようで実は深い傷を負っているという園部の姿は、今の子ども達をリアルに捉えていると思った。

 いずれにしても、追い詰められていく園部は、静かに穏やかに語りかけてくる村内を前に、ぼろぼろに泣き崩れながら感情を爆発させ、村内の言葉によって希望を見出していく。この辺りは、園部役の本郷奏多が多感で繊細な年頃の子どもの姿をよく演じており、見事だと思った。また、こうした絶望の中で見出す一筋の希望という構図は、上でも述べているように重松作品にはおなじみのものだが、どんな時でも希望があると励まされるようで私は好きである。

 それにしても、村内の言葉にハッとさせられるものが多かった。いじめられっ子といじめっ子の記憶の話や、だからこそ忘れないでいることが大切だという話には、なるほどな~、と「うんうん」うなるしかなかった。私も塾の講師をやっているが、生徒たちにどれだけ心に響く言葉を語っているだろうか。子どものイジメの問題を扱ってはいるが、実はイジメそのものというより、それを表面的にしか捉えようとしない大人の姿を、吃音を持ちながらも物事の本質を捉えようとする村内との対比によって、批判的に描き出した作品といえるのかもしれない。心温まる、そしていろいろと考えさせる作品だったと思う。