【霊性こそが真の自分である】
【司会者】:生老病死,我們舉個例子,我舉個帝王的例子,比如說秦始皇我們都知道,他很希望長生不死。如果今天他能聽到佛法,他一定會跪在這對著老教授,對著您講「老人家,我不想死,在佛法有沒有方法?」
生老病死について、私は帝王の例を挙げてみます。例えば秦の始皇帝は私たちは皆知っています。彼は不老長寿を強く願っていました。もし今日彼が仏法を聞いたなら、彼は必ずここに跪いて、「老法師さま。私は死にたくありません。仏法の中に何か方法はありませんか?」と老教授に尋ねるかもしれません。
【浄空法師】:佛法是有方法,但是一般人很難信受。佛法告訴你,根本沒有生死,這是講真的,生死現象是什麼?是這個肉體。肉體不是我,肉體是什麼?佛法講是我所有的,就像衣服一樣,衣服不是我,是我所有的,衣服穿壞了換一件。身體不是我,身體用的時間用久了它也壞了,換個身體,所以生命是永恆的。現在外國哲學家講「我思故我在」,那是靈魂,他承認身體不是我,靈魂是我。靈魂實際上也不是我,靈魂不是的,靈魂出不了六道輪迴。真正的我不在六道輪迴,叫靈性,靈性才是真正的我,永遠不生不滅。所以學佛就是明心見性,見到這個靈性,父母未生前本來面目,這真的,這一點不假。現在靈性在哪裡?現在靈性就在自己身上,你不知道,你迷了。你要是覺悟,你就曉得沒有生死,迷了有生死,悟了就沒有生死。而且身體在這個世間可以隨意住世,我願意多住幾年可以,我願意什麼時候走也可以,自在。身體住在這個世間幹什麼?絕對是利益眾生的,它不是為自己。
仏法には方法があります。しかし一般の人には受け入れ難いものです。仏法があなたに説くのは、根本的に生死はないということです。これは真実を説いています。生死の現象とは何でしょう?この肉体です。肉体は自分ではありません。肉体とは何でしょう?仏法では、自分が所有するものと説かれています。ちょうど衣服と同じようなものです。衣服は自分ではなく、自分が所有するもので、古くなれば交換します。身体は自分ではありません。身体は長い時間使っていればやはり壊れ、身体を交換します。ですから生命は永久不変です。外国の哲学では「われ思う。故にわれあり」と言いますが、あれは霊魂であり、身体は自分ではなく霊魂が自分だと思っています。しかし霊魂は実際には自分ではありません。霊魂は違います。霊魂は六道輪廻を出られません。真の自分は六道輪廻にはなく、霊性と言います。霊性こそが真の自分であり、永遠に不生不滅です。ですから仏法を学ぶとは明心見性であり、この霊性、父母未生前の本来面目を見極めることです。これは真実であり、嘘偽りではありません。今霊性はどこにあるのでしょうか?今霊性は自分の身体にあり、あなたは知りません。迷っています。あなたがもし悟れば、生死が無いことを理解します。迷えば生死があり、悟れば生死はありません。しかも身体はこの世間に意のままに留まることができます。自分があと数年留まろうと思えば留まることができ、いつ頃逝きたいと思えば逝くこともできます。自在です。身体をこの世間に留めて何をするのでしょうか?絶対に衆生のご利益の為であり、自分の為ではありません。
【司会者】:確實有些學佛人講過這樣的話,年歲很大了說,我現在可以多住一段時間,就是在人世間多生活一段時間,可以;我現在要是想走,也可以。
確かにある仏教者たちはそのようなお話をしています。高齢になってから、私は今もう少し世間の生活に留まることができるし、今逝きたいと思えばそれもできると言います。
【浄空法師】:也可以,是。
できます。そうです。
【司会者】:那很多人看了之後簡直目瞪口呆,怎麼會這麼自在!
それでは多くの人はそれを聞くと、ほとんど唖然としてしまいます。どうしてそこまで自在なのでしょうか!
【浄空法師】:一點不假,是自在,一點不假,確實,而且這個事情並不難做到,在家居士做到的不少。
まったく偽りではありません。自在なのです。何の偽りもありません。確かにそうなのです。しかもこの事は、特に難しいことではありません。在家の居士でできる人も少なくありません。
【司会者】:就是普通學佛人。
つまり普通に仏法を学ぶ人ですね。
【浄空法師】:都可以做到。
皆できるようになります。
【司会者】:我們看到這個人確實去世了,如果說他沒死,他去到哪裡了?
私たちは確かに人が亡くなるのを見ます。もし死なないのであれば、その人はどこに行くのでしょうか?
【浄空法師】:對,他自己知道,他不是不知道,清清楚楚從哪裡來的,到哪裡去的。
そうです。その人自身が知っています。知らない訳ではありません。どこから来て、どこに行くのかがはっきりしています。
【司会者】:那就是他沒死。
それならその人は死んでいません。
【浄空法師】:是沒有死!
死ぬことはありません!
【司会者】:我們看到這個遺體。
私たちは遺体を見ています。
【浄空法師】:你是看到的是這軀殼,就是看衣服一樣,好像我衣服髒的時候,我脫下來丟在那裡,你看到衣服,真的人你沒看到,身體就跟衣服一樣。
見ているものは有形の肉体です。衣服を見ているのと同じです。ちょうど衣服が汚れた時に、そこに脱ぎ捨てるのと同じです。あなたは衣服を見ています。本当の本人は見えません。身体は衣服と同じです。
【司会者】:我們日常生活中看到的就是衣服。
私たちが日常で見ているのは衣服なのですね。
【浄空法師】:沒錯,是,你看到的是假相,不是真的。
その通りです。あなたが見ているのは仮相です。真実ではありません。
【司会者】:我們生活了這麼多年,世世代代這麼多的人類,他每天照鏡子,他每天你我,他最後還是不知道他自己是誰。
私たちは長年生活をして、子々孫々これほど多くの人類が、毎日鏡を見ていますが、最後まで自分が誰なのかを知りません。
【浄空法師】:不知道,是不知道。
知りません。知らないのです。
【司会者】:他一直在看一件衣服,假我。
ずっと衣服、仮相の自分を見ています。
【浄空法師】:沒錯,把這個假的當作真的,虧吃大了,為這個假我造作無量無邊罪業。你說值得嗎?這人不叫糊塗人,誰叫糊塗人?
その通りです。この偽物を本物だと思い込めば、大きな損をします。この偽我の為に無量無辺の罪業を犯します。これに価値があるでしょうか?この人を愚鈍な人と言わずに、誰を愚鈍な人というのでしょうか?
【司会者】:是不是學佛到了一定的程度,他就一定會明白?
仏法を学んで一定の程度に達すれば、その人は必ず理解できるのでしょうか?
【浄空法師】:會明白,只要你鍥而不捨,你要天天幹。我也不是個上上根人,上上根人一接觸的時候就明瞭了,我搞了二、三十年才明瞭,這就說明我的根性是中下根性。但是我天天搞,我現在搞了五十七年,沒有一天放棄的,樂此不疲。
理解できます。怠ることなく、毎日実行しなければなりません。私も上上根【注】の人ではありません。上上根の人は、少し触れただけで理解できます。私は二、三十年してようやく分かりました。これは私の根性は中下根だということです。しかし私は毎日実行しています。私は今五十七年行って、一日も放棄していません。楽しんで疲れを知りません。
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【注】 仏法の教えを理解・実行する能力のことを根性(こんじょう)と言い、上根(じょうこん)、中根(ちゅうこん)、下根(げこん)に大別される。上上根は上根の中でも最も優れた資質のこと。中下根は中の下の資質ということ。
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【因果の原理】
【司会者】:我記得有些人他講過這樣的話,說你們不要相信因果,這些都是迷信,你看看這些惡人他不是在享福嗎?善人他不是在受苦嗎?我記得您曾經很嚴的警告過他們,不要散布這些,你不信可以,你散布之後你將來會受很大的罪。
私はある人たちがこのような話をしたのを覚えています。「因果を信じてはいけません。それは全部迷信です。悪い人たちが福を享受しているではないですか?善人が苦しみを受けているではないですか?」と。私はかつて老法師が彼らを厳しく警告されたのを覚えています。「このようなことをまき散らしてはならない。あなたが信じないのは構わないが、まき散らした後、あなたは将来大きな罪を受けることになる」と。
【浄空法師】:不錯,你誤導別人,這個因果責任很重,確實這不假。
その通りです。人を誤って導けば、その因果の責任は重いものです。確かにこれは偽りではありません。
【司会者】:現在講「人不為己,天誅地滅」,這樣的話的人很多。
今では「自分の為にしなければ、天罰が下る」などと話す人がたくさんいます。
【浄空法師】:這句話何守信曾經問過我,亞視的一個導播,他來訪問我的時候,他就問我這句話。我說這句話誤導了許多眾生,你要負因果責任。我說什麼?孔老夫子一生不為自己,天沒有誅他,地也沒有滅他;釋迦牟尼佛一生不為自己,天也不誅他,地也不滅他;我一生不為自己,老天爺也沒有誅我,地也沒有滅我。這個話是假的不是真的,哪有這種道理?人應當捨己為人,那個多快樂;如果人念念都想為己,煩惱多多,為什麼?患得患失。沒有得到的想得到,得到的天天怎麼樣保存?怎麼不會丟掉?你說那個生活過得多痛苦!苦樂就擺在面前,最快樂的就是念念為別人。
この話は何守信が私に質問したことがあります。アジア・テレビ(香港)のプロデューサーです。彼が私を訪問した時に、この言葉について質問しました。私は、この言葉は多くの衆生を誤って導いているから、因果の責任を負わなければならないと言いました。私は何と言ったでしょう?孔夫子の一生は自分の為ではありませんが、天罰は下されません。釈迦牟尼仏の一生は自分の為ではありませんが、天罰は下されません。私の一生も自分の為ではありませんが、天罰は下されません。この言葉は間違いです。真実ではありません。どこにそのような道理があるのでしょうか?人は己を捨てて人に奉仕すべきであり、それは幸せなことです。もし自分のことばかり考えていれば、煩悩が多くなります。なぜでしょう?損得にこだわるからです。得ていないものを得たいと思い、得たものは毎日どう保存するのか、どうすれば失わなくて済むのかと考えます。この生活はどれほど苦しいことでしょうか!苦楽を目の前に並べてみれば、最も幸せなのは人の為を考えることです。
【司会者】:沒有自己。
自分ではない。
【浄空法師】:沒有自己。比如說我們做一樁事情利益別人的,事情做成功了,他有福,不是我有功勞;沒有做成功,他沒有福報,我沒做錯,你說多快樂!成與不成與我沒關係,眾生的福祉。
自分ではありません。例えば私たちが人のご利益になる事をして、それが成功すればその人に福があったのです。私に功労があるのではありません。成功しなければ、その人に福報がなかったのであり、私は間違ったことはしていません。どれほど幸せなことでしょう!成功するかどうかは私とは関係ありません。衆生の福によるのです。
【司会者】:有這樣一副對聯,老教授您印證一下是不是對的?「行善不昌」,做善事他不發達,「必有餘殃,殃盡必昌」。
このような対聯がありますが、正しいかどうか証明して頂けませんか?「行善不昌」、善事を行って発達せず、「必有余殃,殃尽必昌」。
【浄空法師】:對。
そうです。
【司会者】:反過來,「行惡不殃,必有餘昌,昌盡必殃」。
反対に、「行悪不殃,必有余昌,昌尽必殃」。【注】
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【注】
「行善不昌,必有余殃,殃尽必昌」
善を行ひて昌ならざるは、必ず余殃あり。殃尽くれば必ず昌なり。
善を行って繁栄しないのは、必ず災いの残りがあるからである。災いが尽きれば必ず繁栄するものである。
「行悪不殃,必有余昌,昌尽必殃」。
悪を行ひて殃ならざるは、必ず余昌あり。昌尽くれば必ず殃なり。
悪を行って災いがないのは、必ず繁栄の余韻があるからである。繁栄が尽きれば必ず災いが降りかかるのである。
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【浄空法師】:沒錯,一點都不錯。
その通りです。少しも間違ってはいません。
【司会者】:這是真理。
これは真理ですね。
【浄空法師】:真理,這是事實真相。
真理です。これは事実の真相です。
【司会者】:這是普世價值,可以廣泛的教育給大家聽。
これは世の中の価値として、幅広く皆に聴かせて良いですね。
【浄空法師】:不錯。所以惡人作惡,他日子過得很好,還是升官發財必有餘昌,但是那個昌盡了之後,災難就來了;一生造善,生活過得很清苦,甚至於受很多侮辱,那什麼?那是你有餘殃,殃盡了你就興旺起來。
その通りです。ですから悪人は悪事を働いて、快適な生活をして、更に出世して財を得るなら、必ず繁栄の余韻が残っているのです。しかしその繁栄が尽きれば、災難がやって来ます。一生善を造り、慎ましく生活して、ひどい場合はたくさん侮辱されます。それは何でしょう?それはあなたに災いの名残り(余殃)があるからです。災いが尽きれば盛んになって来ます。
【司会者】:善惡,自己做的善、惡能抵消嗎?
自分で行った善と悪は相殺できるのでしょうか?
【浄空法師】:能抵消。
相殺できます。
【司会者】:比如說我做了很多惡事,然後我再做很多善事,我希望把惡報給它抵消掉。
例えば私が多くの悪事を働いたとします。後から再び多くの善事を行って、悪報を相殺したいと願います。
【浄空法師】:抵消在因果上講是講不通的,不是抵消的,有前後。你如果天天做善,善就先報,惡就退後。
相殺は因果の上では話が通りません。相殺されるのではなく、前後があるのです。あなたが毎日善を行えば、先に善の報いがあり、悪は後に退きます。
【司会者】:還是要報。
やはり報いがある。
【浄空法師】:退後,如果你繼續不斷的在做善,惡漸漸它就不報了,它就沒有了。
後に退きます。もし継続して善を行い続けていれば、悪の報いは少しずつ無くなってしまいます。
【司会者】:惡緣斷了。
悪縁を断った。
【浄空法師】:對,就斷掉了,道理在此地。所以斷惡修善真正懂這個道理,你這一生當中再也不作惡,惡的念頭都斷掉,這個惡慢慢就消掉,那真的消掉。
そうです。断ち切ったのです。道理はここにあります。ですから悪を断って善を修める、この道理を本当に理解すれば、あなたは一生で二度と悪事を働きません。悪い念を断ち切って、その悪は少しずつ消えていきます。それは本当に消えます。
【司会者】:我們聽到您講冤親債主,佛家老講冤親債主,冤是仇人,親是什麼意思?
私たちは老法師の恨みを持った人(冤親債主)のお話を聞きました。仏家ではよくこれを説いています。「冤」とは仇敵ですが、「親」とはどのような意味でしょうか?
【浄空法師】:親是你親愛的人。
「親」はあなたの親しい人です。
【司会者】:家裡的親人嗎?
家の親兄弟のことでしょうか?
【浄空法師】:對,不錯。冤會變到親,親會變到怨,它會轉變的。
そう。その通りです。「冤」は「親」に変わり、「親」は「怨」に変わり、それは変化します。
【司会者】:仇人和親人都有問題嗎?
仇敵と親類とはすべて問題があるのでしょうか?
【浄空法師】:對,都有問題。仇人到你家來投胎,變成你的兒孫,你很喜歡他,長大之後他是敗家子,為什麼?他來報仇的。慈禧太后是葉赫那拉氏的,這是滿清的冤親債主,對頭,這個族被滅的時候酋長對天發誓,我這個族只剩一個女人也要報仇。所以清朝入關之後,政權鞏固,宮廷裡面就有這個條例,葉赫那拉氏的人決定不可以留在宮中。到兩百年之後大家都疏忽了,兩百年了,哪有這個事情?所以那個時候慈禧太后進宮,知道她是葉赫那拉氏,無所謂,最後清朝亡在她的手上。報仇的!
そうです。すべて問題があります。仇敵があなたの家に生まれて子孫になると、あなたはその子を喜びますが、成長すると放蕩息子に変わります。なぜでしょう?その子は敵討ちに来たからです。慈禧太后(じきたいこう=西太后)は葉赫那拉(エホナラ)氏です。これは清朝に恨みを持った人(冤親債主)であり、仇敵です。この一族が滅ぼされる時、首長は「我が一族は女性一人しか残されていなくても復讐する」と天に誓いました。ですから清朝内部の政権は強固で、宮廷には葉赫那拉氏の人間は絶対に宮中に入れてはならないという条例がありました。二百年経つと皆それを疎かにするようになりました。二百年です。どこにそのような事があるでしょう?あの頃に慈禧太后が宮中に入りました。彼女が葉赫那拉氏だと知っても、気に留めなかったのです。最後に清朝は彼女の手で滅びました。復讐です!
【司会者】:這麼長時間。
それほど長い時間。
【浄空法師】:對,是,他能夠等兩百年,等你氣衰了他再來。
そうです。彼は二百年待つことができました。衰えるのを待って再びやって来たのです。
>>千古不変の真理 ― 因果の定律06/06につづく・・・。
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