浄空法師説法研究

浄空法師の説法に学びながら、日本語に翻訳して紹介しています。

掲示板

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學佛的目的就是轉業報身為智慧報身

2023-07-25 | 聴師父説
學佛的目的就是轉業報身為智慧報身
仏法を学ぶ目的は「業報身」を転じて「智慧報身」と為すことである
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常に両親と先生を安心させる

2020-08-10 | 聴師父説
 
時時刻刻讓父母老師放心 / 常に両親と先生を安心させる
台南極樂寺會客談話 2019/12/27 台灣台南極樂寺 檔名:32-264-0022

  小孩你自己不管做什麼事情,都要向父母報告,讓父母都要知道你現在在哪裡、你在做什麼,這是應該的。父母擔心,你不知道,你不牽掛父母,父母牽掛你。所以東方人,父母對兒女的愛護是永恆的。從生到死,一切時、一切處,父母都要知道兒女在哪裡、在幹什麼。中國人對老師跟對父母一樣,老師愛學生,時時刻刻掛念在心。
子どもはどのような事であろうと両親に話します。両親に自分がどこにいるのか、何をしているのかを知らせなければなりません。それは当然のことです。両親が心配します。子どもは知りません。子どもが両親を気に掛けなくても、両親が子どもを気に掛けています。ですから東洋人は、両親の子どもに対する愛護は永久不変です。生まれてから死ぬまで、あらゆる時、あらゆる場所で、両親は子どもがどこで何をしているかを知ろうとします。中国人は先生に対しても両親と同じです。先生は学生を可愛がり、常に気に掛けています。

  中國人講關心,關係的關,關心就是牽掛、掛念。念念沒有忘記,天天都想到,這就是愛。要關愛,關心、愛護他,他現在在做什麼。所以做兒女的、做學生的,每一天行為要報告老師,以免老師掛念;我今天一天過得很好,讀書、念佛沒有缺課。
中国人は関心を重んじます。関係の関です。関心とは気に掛けることです。いつも心に置いて忘れません。毎日気に掛けています。これこそが愛です。その人は今何をしているのかを思いやり、関心を持ち、愛護します。ですから子どもや学生は、「私は今日良い一日を過ごしました。書物を読み、念仏も欠席していません」と毎日の行動を報告して、先生に心配をかけないようにします。
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子どもをしっかり教えれば、世界は平和になる

2020-08-10 | 聴師父説

教好孩子 天下太平 / 子どもをしっかり教えれば、世界は平和になる
聽師父說有聲書 203
法國巴黎會客談話—教好孩子 天下太平(第五十五集)2019/10/6
法國巴黎精舍 檔名:32-298-0055

  世界為什麼這麼亂?想錯了!誰想錯了?孩子想錯了。孩子不曉得孝順父母,怨恨父母,天下就大亂了。為什麼?都說別人的爸爸會賺錢,他的爸爸比不上人家會賺錢,怨恨他。不孝父母、不敬老師,這就是危機。如果你有能力能夠讓大家安定下來,懂得孝順父母、孝敬老師,這就是福報。為什麼?這是安定社會。安定社會的人是修大福報的人,你能教大家都得福報、都得安穩,這個功德很大。換句話說,決定不能夠挑動紛爭,找別人麻煩。
世界はなぜこれほど乱れているのでしょうか?思い違いをしているからです!誰が思い違いをしているのでしょうか?子どもが思い違いをしています。子どもが両親を大切にすることを知らず、両親を恨んでいれば、世界は大きく乱れます。なぜでしょうか?他人の父親は稼ぎが良い、自分の父親はよその父親より稼ぎが悪いと言って親を恨みます。親不孝で、先生を敬いません。これこそが危機です。もしあなたに皆を安定させる力があるなら、両親を大切にし、先生を敬うことを理解しているはずです。これこそが福報です。なぜでしょうか?これは社会を安定させるからです。社会を安定させる人は大きな福報を修める人です。あなたは皆が福報を得、安定を得ることを教えることができます。この功徳は大きなものです。言い換えれば、紛争を起こしたり、人に迷惑をかけることは絶対にできません。

  學佛,像我這樣的年齡,早就應該走了。有一點點機會,勸勸大家,修這麼一點點小福報。讓世界能夠得到安定、和平,這大福報!怎麼個做法?《聖學根之根》,這個東西能救社會,勸人安定。心安,一切都安了;心不安,在那裡動晃的,製造很多糾紛,那個不是修福,那是造業。
仏に学んで、私のような年齢であれば、ずっと前に逝っていてもおかしくありません。少しばかり機会があり、皆さんにお勧めして、少しばかり福報を修めました。世界に安定と平和をもたらすこと、これは大きな福報です!どうすれば良いのでしょうか?『聖学根之根』、この書物は社会を救い、人に安定を勧めます。心が安定すれば、すべてが安定します。心が不安定で揺れ動いていれば、多くの紛糾を作り出します。それは福を修めることはなく、業を作ることです。

  古時候社會亂了,人家問我怎麼辦?回家教小孩,社會就安定。你要問老祖宗怎麼辦,老祖宗會教你,你回家去把孩子教好。妙極了!人家一說頭昏了,找不到頭,怎麼辦?教小孩。「建國君民,教學為先」,你抓到這一句,你就能治國平天下。建國君民,教學為先,人人、家家都把孩子教好了,社會就安定了,天下就太平。不知道問題出在哪裡,問題出在小孩不懂教育。你說重不重要?到小孩問題出來了,動亂的現象出來了,怎麼辦?要自己跟孩子合作,就看到太平現象。
昔は社会が乱れたらどうしていたのか、人は私に質問します。家に帰って子どもを教えれば、社会は安定します。あなたがご先祖様にどうすれば良いかと質問すれば、ご先祖様は「家に帰って子どもをきちんと教えなさい」と教えるでしょう。絶妙この上ありません!人は迷走して問題の根源が見つかりません。どうすれば良いのでしょう?子どもを教えることです。「国を建て民に君たるに、教学を先と為す」。この一句にたどり着けば、国を治め天下を平らかにすることができます。「国を建て民に君たるに、教学を先と為す」、どの人も、どの家でも子どもをしっかり教えていれば、社会は安定し、世界は平和になります。(しかし多くの人は)問題がどこから生じているのかを知りません。問題は子どもの教育に対する無知から生じています。あなたは重要だと思うでしょうか?子どもに問題が生じて来て、動乱の現象が出てきたら、どうすれば良いのでしょうか?自分が子どもに協力することで、平和の現象を見ることができるでしょう。
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浄空老法師九十四歳誕生日の開示

2020-04-09 | 聴師父説
 
淨空老法師 九十四歲壽辰開示 / 浄空老法師九十四歳誕生日の開示
2020/3/8 台灣台南極樂寺 檔名:32-357-0001

  感謝諸位同修、諸位同學。今天是淨空九十四年誕辰,承蒙各地的同修舉行這個紀念會,心裡非常感激。
門徒の皆さま、学生の皆さまに感謝いたします。本日は浄空九十四歳(数え年)の誕生日です。各地の門徒に記念会を挙行していただき、とても感激しております。

  童年遇到七七事變,一生沒有受到好的教育,幾乎都是在困苦艱難當中度日子。可以說遇到的都是很艱苦的日子,所以學業沒有完成。命中很早就聽聞壽命只有四十五歲,我很相信。我一家,從祖父、父親,都沒有過五十歲,四十五歲過世的;我自己的命運,有人給我算命,也是過不了四十五歲。所以這一生異常辛苦。
幼少期に七七事変(盧溝橋事件のこと。1937年7月7日に発生。日中戦争に発展する)があり、一生良い(学校)教育は受けていません。ほとんど艱難辛苦の中を過ごしてきました。とても苦難に満ちた日々と言うことができます。ですから学業はやり遂げていません。早くから寿命は四十五歳しかないと聞いていて、私はそれを信じていました。私の家族は、祖父から父親まですべて五十歳を超えていません。四十五歳で亡くなっています。私自身の運命も、ある人に運勢を占ってもらうと、やはり四十五歳を超えられないということでした。ですからこの一生は異常な苦しさです。

  方東美先生介紹我學佛。我跟他學哲學,他告訴我,世界上哲學最好的東西都在佛經上,學佛是最高的哲學,引導我死心塌地,我對他老人家很相信。佛法最好的東西是在中國,引起我對於國學不能不認真學習。正好遇到李老師,我跟李老師十年,這十年從奠定基礎到深入經藏。多半都是李老師與方東美先生指導,自己也讀了一點書,奠定一點基礎。方老師介紹給我,東西方講哲學,都在經典裡面,指導我這個方向。我把一點微薄的收入都拿去印經。路雖然明白了,緣不足,我要工作、要生活。老師抽點時間給我,我感恩,我很認真。章嘉大師教我感應,我相信有感應,認真努力學習,奠定基礎。我離開台中,發心學習老師,老師一生講經教學,我利用假期,星期假期,把李老師在台中所講的佛經重新講一遍,用這個來學習,不至於自己退墮。東西方法緣是這麼開的。
方東美先生は私に仏法を紹介してくださいました。私は方先生に哲学を学びました。方先生は私に「世界の哲学で最も良いものはすべて仏経の中にある。仏法は最高の哲学である」と言って懸命に私を導きました。私はご老人を信じました。仏法の最も良いものは中国にあります。私は国学を真剣に学習しなければならないと喚起されました。折よく李老師と出会い、私は李老師に十年師事しました。この十年で基礎を固め、経蔵を深く掘り下げました。半分以上は李老師と方東美先生の指導です。自分でも少々書物を読んで、基礎を少しばかり固めました。方老師は私に、洋の東西で説かれている哲学は、すべて(仏法の)経典の中にあると紹介して下さいました。この方向に私を指導されました。私は少しばかりの収入を経を印刷するのに使いました。(進むべき)路は分かっていても、ご縁に恵まれず、私は仕事をして生活しなければなりませんでした。老師は私のために時間を割いて下さいました。私は感謝して、真剣に学びました。章嘉大師は感応を教えて下さいました。私は感応があることを信じて、真摯に努力して学び、基礎を固めました。私は台中を離れ、老師に学ぶことを発心しました。老師は一生講経(こうきょう:仏法経典を講じること)教学をされていました。私は毎週の休みを利用して、李老師が台中で講じた仏経をもう一度講じました。このようにして学び、後退することはありませんでした。東西の法縁はこのように開いたのです。

  希望我們記住,依舊認真學習方老師的哲學、章嘉大師的佛學、李炳南老居士的教誨,要抓住時間,認真努力。學佛要解行合一,不是只念經、只念佛,不是的,是要做到,用中國傳統的方法,學以致用。無論學什麼,扎根很重要。中國國學是世界上最難得、最好的教導。學以致用,用是要做到,學了沒做到不算真學,一定要把它落實在日常生活當中。我的成就就靠這三位老師,永遠懷念老師,永遠學習老師,沒有老師,那我變成一事無成;虧了這三位老師,我感恩。我對老師尊重,對同學愛護,都把它落實在日常生活上。所以學的東西實用,學了真的用上,用在日常生活當中。
覚えておいてください。これまで通り方老師の哲学、章嘉大師の仏学、李炳南居士の教誨を真剣に学ばなければなりません。時間を惜しんで真剣に努力しなければなりません。仏に学ぶには「解行合一」でなければなりません。ただ経を念じるだけ、ただ念仏するだけではありません。実行できなければなりません。中国伝統の方法を用いて、学んで実際に役立てなければなりません。何を学ぶにも根づかせることが重要です。中国の国学は世界で最も得難く、最も良い教導です。学んで用いることです。用いるとは実行できなければなりません。学んで実行できないなら真に学んだことにはなりません。必ずそれを日常生活の中で実行しなければなりません。私の成就はこの三人の老師のお陰です。永遠に老師を慕い、永遠に老師に学びます。老師がいなければ、私は何一つ成し遂げられませんでした。この三名の老師のお陰です。感謝しています。私は老師を敬うこと、学友を思いやることを、すべて日常生活で実行しました。ですから学んだものは役に立ちます。学んで本当に用います。日常生活の中で使うのです。

  世界演變到今天,看到心裡很難過。到底是什麼問題?實實在在說,文化教育出了問題。文化教育,我們跟古聖先賢一比較就明白了。古聖先賢都是歷代一代一代傳下來,沒有敢變動,才有中國傳統文化。這一改變,麻煩大了,中國傳統文化沒有了,有的是什麼?西方科學技術的文化,這個問題非常嚴重。回過頭來再看東方老祖宗傳給我們的,我們佩服得五體投地。我們心心念念,只希望把傳統文化復興,它能救國、它能救家,所以晚年這些年不遺餘力在宣揚傳統。
世界は今日のように変わりました。それを見て心が痛みます。いったい何が問題なのでしょうか?実のところ、文化教育に問題が生じていると言えます。文化教育について、私たちは古聖先賢と比較してみれば分かります。古聖先賢は代々伝えて、変えることはありません。それでこそ中国伝統の文化です。これを一たび変えてしまえば、面倒なことになります。中国伝統の文化はなくなってしまいます。あるのは何でしょうか?西洋の科学技術の文化です。この問題は非常に深刻です。振り返って東洋のご先祖様が伝えたものは、五体投地(ごたいとうち:仏教徒が行う最敬礼)するほど敬服します。私たちは心の中で、伝統文化の復興だけを願っています。それは国を救い、家を救うことができます。ですから晩年のここ数年は全力を尽くして伝統を宣伝しています。

  中國人最懂得教育,對教育有經驗、有信心,我們不能把祖宗東西丟掉。把祖宗東西找回來,社會就安定,安定就找回來了。有證明嗎?有,台中弘明學校。是李老師教導我們的,可以實驗,具體實驗做出來給我們看,我去看了很歡喜。
中国人は最も教育を理解しており、教育に対する経験があり、自信があります。私たちはご先祖様のものを捨てることはできません。ご先祖様のものを取り戻せば、社会は安定します。安定を取り戻すことができます。証拠があるでしょうか?あります。台中の弘明学校です。李老師が私たちを教え導いたものを実験することができます。具体的に実験して見せてくれました。私はそれを見てとても喜びました。

  中國的教育,小學目標在做人,怎麼做人,學做人是小學教學的宗旨,中年學習辦事,老年享福,我想把這個恢復出來。能做到?能。做出來之後,外國人看到了,這個社會好!少年學習倫理道德,中年履行倫理道德,晚年享受,都不離開倫理道德。
中国の教育は、小学の目標は人としてどう身を処するかにあります。身の処し方を学ぶのは小学の教学の宗旨です。中年で実務を学び、老年で福を享受します。私はこれを元に戻したいのです。できるでしょうか?できます。できた後で外国人が見れば、この社会は良いと思うでしょう。少年で倫理道徳を学び、中年で倫理道徳を実行し、晩年で享受します。すべて倫理道徳から離れることはありません。

  外國人有養老院,我到國外喜歡去參觀,跟我們中國人講的養老育幼有很大一截差距,不是我們的理想。所以我們要培養中國人的理想,少年要學習孝親尊師,老年人才有幸福。外國人有少年樂園,我們中國的是老人樂園,我見到過,民國初年,我希望將來老人有樂園。中國的教育要做到老年享福、中年造福、青年奠基,一個階段一個階段認真努力來學習,達到三種教育都能恢復。青少年的教育、中年的教育、老年的教育,中國古書裡頭全都有。老祖宗對得起我們,我們不相信老祖宗,我們對不起老祖宗。
外国人には老人ホームがあります。私は国外で喜んで見学しました。私たち中国人が言う「老人をいたわり養い、幼い子を育てる」とは大きな隔たりがあります。私たちの理想ではありません。ですから私たちは中国人の理想を育てなければなりません。少年で「親に孝行し、師を尊ぶ」ことを学んでこそ、老人に幸福があるのです。外国人には少年の天国がありますが、私たち中国のものは老人の天国です。私は見たことがあります。民国の初年(1912年)です。私は将来老人に天国があることを願っています。中国の教育は老年で福の享受を実現できます。中年で福を積み、青年で基礎を固めます。一つ一つの段階で真剣に努力して学び、三つの教育を取り戻すのです。青少年の教育、中年の教育、老年の教育。中国の古書の中にすべてあります。ご先祖様は私たちの期待に背きません。私たちがご先祖様を信じなければ、私たちはご先祖様に申し訳が立ちません。

  今天我們利用聯合國做個窗口,把我們古聖先賢的東西從這個窗口傳出去,讓全世界人看到,讓外國看看中國人真會享福、真會造福。中國有真東西、好東西;外國有,點點滴滴,不完整、不完全。應當把我們自己老祖宗的東西抬出來,中國文化的精華展示出來,讓全世界人嚮往、學習。好東西全在儒釋道。
本日私たちは国連の窓口を利用して、私たちの古聖先賢のものをこの窓口から伝えています。全世界の人に見せます。外国に中国人は本当に福を享受し、本当に福をもたらすことができることを見せるのです。中国には本物があり、良いものがあります。外国にもありますが、わずかばかりです。すべてそろっておらず、完全ではありません。私たち自身のご先祖様のものを掲げて、中国文化の精華(せいか:真髄)をはっきりと示して、全世界の人に心を傾け、学ばせるのです。良いものはすべて儒教、道教、仏教の中にあります。

  今天我的話就說到此地,謝謝大家!
今日の私の話はここまでとします。皆さま、ありがとうございました!
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念がないことが正念である

2020-03-22 | 聴師父説

沒有念頭就是正念 / 念がないことが正念である
2019/7/30 台灣台南極樂寺 檔名:32-264-0013

  放得下是定,看得破是慧。我能領悟到,曉得古代的祖師大德,開悟就是一句二句,言下大悟。所以,八萬四千法門走的一條路;戒,放下,定慧就現前。這入門高明,一切經你展開,好像都懂了。我走這條路,我明白了,我知道,釋迦牟尼佛一生所說的經典你要想悟入,跟禪宗、教下沒有兩樣。
放下することは定(じよう:禅定)であり、看破することは慧(え:智慧)です。私は納得できます。古代の祖師大徳たちは、開悟するのは正に一句二句であり、言下に大悟したことが理解できます。ですから八万四千の法門が歩むのは一本の道です。戒(かい:戒律)、放下によって、定(じょう)と慧(え)が現れます。この入門は優れています。一切の経を開いて、すべて理解できてしまうのです。私はこの道を歩みました。私は理解しました。釈迦牟尼仏が一生で説かれた経典に対して悟入(ごにゅう)したいと思うなら、禅宗、教下【注】とも異なる所はありません。

  看破是什麼?事理明白了。看破,徹底放下。放下,清淨心不就現前了?清淨心就是如來藏。一般人為什麼不能悟入?心裡妄念太多。妄念、正念都沒有,才能入這個境界。正念也是假的,執著不行,開不了悟。邪念、正念統統放下,沒有念頭就是正念,有念就不正。
看破とは何でしょうか?事、理がはっきりすることです。看破すれば、徹底的に放下します。放下すれば、清浄心が現れるでしょう?清浄心とは如来蔵です。一般の人はなぜ悟入できないのでしょうか?心の中に妄念が多過ぎるからです。妄念、正念すべて無くなって、ようやくこの境界(きょうがい:境地)に入ることができるのです。正念もまた偽りです。執著してはなりません。(執著すれば)悟りは開けません。邪念、正念すべてを放下します。念がないことが正念であり、念があれば正しくないのです。

  關鍵難就難在放下、看破;肯看破放下,決定有一天開悟,只有他自己曉得。這些人開悟之後,就是宗門講的明心見性。見性之後找師父印證,那個印證就是你入門的導師。現在人為什麼開不了悟?這關過不去,妄念太多。什麼叫正念是妄念?自性清淨心裡頭沒有念頭,你怎麼會搞個念頭在裡頭?道理才搞清楚。八萬四千法門、無量法門,一鼻孔出氣。這是佛法的妙,悟了之後什麼都好辦,圓融了。
難しさの鍵は放下、看破です。進んで看破、放下すれば、必ずいつの日か開悟します。その人にだけ分かることです。これらの人が開悟した後では、正に宗門(禅宗)でいうところの明心見性です。見性した後で師を探して印証してもらいます。その印証(してくれる人)があなたの入門の導師です。今の人はなぜ悟りを開けないのでしょうか?この関を越えられないのは、妄念が多過ぎるからです。正念、妄念とは何でしょうか?自性の清浄心の中に念はありません。どうして念を入れることなどできるでしょうか?ようやく道理がはっきりします。八万四千の法門、無量の法門は、一つの鼻から息を出す(もともと源を同じくするということ)のです。これが仏法の妙であり、悟った後では何でもやりやすくなり、円融(えんゆう)になります。

  高僧大德去請教,關鍵的那一點,點到為止,你有清淨心的進去了,沒有清淨心的攔住了。這是解門,悟門跟解門是通的。悟之後怎麼保持?保持就是定功。永遠不能有妄念,正念也是妄念。染淨兩邊都不染,這是真的,經書、古大德的著作你都看得懂,都不會看錯,這叫真功夫。
高僧大徳に教えを請うのに、鍵となるのはその一点です。その一点までです。あなたに清浄心があれば中に入り、清浄心がなければ入れません。これは解門です。悟門は解門に通じます。悟った後どのように維持するのでしょうか?維持するのは定功(禅定の技量)です。永遠に妄念があってはなりません。正念もまた妄念です。染、浄のどちらにも染まりません。これは本当です。経書、古の大徳の著作はすべて理解することができます。すべて見間違うことはありません。これが真の技量というものです。

【注】 教下・・・・宋、明代では天台、法相、賢首の三つの宗派を指し、教下三家とも称した。近代に至り、(中国の)浄土宗は自らを教下と称している。(「百度百科」調べ。以下、原文を抜粋)
教下,汉传佛教术语,在宋明时代,意指天台、法相、贤首三个宗派,又称教下三家。而新兴的禅宗,则自认为是教外别传,自称宗门。至近代,佛教净土宗则自称为教下。
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放下すればすぐに得られる

2020-03-15 | 聴師父説

放下即得到 / 放下すればすぐに得られる
2018/5/20 法國巴黎精舍 檔名:32-298-0002

  破迷開悟之後,他的認知跟神是完全平等,這種全知全能是人類本來有的。怎麼丟掉的?丟掉是六根在六塵境界,眼在色、耳在音聲,被外面色聲香味觸法迷了,迷了就是說不知道了。如何把迷掉的再找回來?這就是佛的教學。用什麼方法?戒定慧。從戒下手,就教你放下;真放下之後,就看破了;看破就是覺悟了,完全明白了。
迷いを破り悟りを開いた後では、その人の認知は神と完全に平等です。このような全知全能は人類が本来持っているものです。なぜ失ったのでしょうか?失ったのは六根が六塵の境界にあって、眼で色を見、耳で音を聞き、外の色声香味触法【注】に迷わせられます。迷うとは分からないということです。如何にして迷いから再び立ち返るのでしょうか?これが正に仏の教学です。どのような方法を用いるのでしょうか?戒(かい:戒律)定(じょう:禅定)慧(え:智慧)です。戒律から着手して、放下することを教えます。本当に放下した後、看破できます。看破とは悟ることであり、完全に理解することです。

  所以佛法教學,無論是大乘小乘、顯教密教,離不開戒定慧;離開戒定慧,那不是釋迦牟尼佛傳的。釋迦佛所傳的、所講的,都是人的本能,各個人都有,沒什麼稀奇,佛有,大家都有。佛為什麼能顯?他沒有障礙。我們不能顯,妄想、分別、執著太多了,障礙住了。
ですから仏法の教学は、大乗小乗、顕教密教に関わらず、戒・定・慧を離れることはできません。戒・定・慧を離れていれば、それは釈迦牟尼仏が伝えたものではありません。釈迦牟尼仏が伝えたもの、講じたものは、すべて人本来の能力であり、誰にでもあり、珍しいことではありません。仏にあり、皆さんにもすべてあるものです。仏はなぜ現すことができたのでしょうか?彼には障碍がありません。私たちは現すことができません。妄想、分別、執著(しゅうじゃく:執着)が多すぎて、障碍になっているのです。

  中國這個例子很多,歷朝歷代,出家、在家的,像惠能是個很明顯的例子:沒開悟之前,什麼都不知道,悟了之後什麼都知道。佛法要求的是開悟,不要求別的。開悟必須具備的條件:看破、放下。放下是定,開悟是慧。自性本定,自性本有的智慧,不是從外來,外面沒有東西。學佛多年,定慧不能現前,是沒放下,叫你放下你沒放下。放下就是,所以妙不可言。
中国にはこの事例がたくさんあります。歴代の王朝や、出家、在家のものです。慧能(えのう)大師は明らかな例です。悟りを開く前は、何も分かりません。悟った後では何でもすべて分かります。仏法が要求するのは悟りを開くことであり、他のことではありません。悟りを開くのに必ず具えていなければならない条件は、看破(かんぱ:真相を見極めること)、放下(ほうげ:執着を捨てること)です。放下は定(じょう:禅定)であり、開悟は慧(え:智慧)です。自性本定。自性に本来具わっている智慧は、外から来たものではありません。外には何もありません。仏に長年学んで定も慧も現れないのは、放下していないからです。あなたに放下させるにも、あなたが放下しないのです。放下するだけのことです。その妙は口では言い表せません。

  我們讀《聖經》、讀《古蘭經》,不懂的,在佛教裡頭去找,有解釋的。為什麼?到達那個境界,所講的東西通的,所以一門通了,門門都通了。所有宗教,你想耶穌、佛陀,真的搞明白了,原來耶穌跟佛陀是一個,不是兩個,這是真的,不是假的。所以我們提倡的眾神是一體,宗教是一家。
私たちが『聖書』を読み、『コーラン』を読んで理解できないところは、仏教の中で探せば、その解釈があるものです。なぜでしょうか?その境界(きょうがい:境地)に到達すれば、説かれている内容に通じるからです。ですから一門に通じれば、どの門にも通じます。あらゆる宗教、あなたがイエスや仏陀を思いを寄せ、本当に明らかになれば、もともとイエスと仏陀は一つのことであり、二つのことではありません。これは本当です。嘘ではありません。ですから私たちは衆生と神とは一体であり、宗教は家族であることを提唱しています。

  達到菩薩的境界,所以佛教有三個等級,阿羅漢、菩薩、佛,就像現在學校的學位一樣,佛是博士、菩薩是碩士、阿羅漢是學士,程度不一樣。他要念到博士學位,跟他是完全貫通,所以是一不是二。如果孔子要生在印度,印度人叫他佛陀。他雖然叫的不一樣,實際上他是一樁事情,都達到最高峰了,最高稱為佛陀。所以,佛陀要生在中國,中國人稱他聖人,孔子是聖人,聖人跟印度佛陀完全平等。
菩薩の境界に達します。仏教には阿羅漢、菩薩、仏の三つの等級があります。ちょうど今の学校の学位と同じようなものです。仏は博士、菩薩は修士、阿羅漢は学士です。程度が異なります。その人が博士の学位まで念仏できれば、その人は完全に通じます。ですから一(同じ一つのこと)であり二(異なる二つのこと)ではありません。もし孔子がインドに生まれていれば、インド人は彼を仏陀と呼んだでしょう。呼び方は異なっても、実際には一つのことなのです。どちらも最高峰に達したのであり、最も高いものを仏陀と呼んだのです。ですから仏陀がもし中国に生まれていれば、中国人は彼を聖人と呼んだことでしょう。孔子は聖人です。聖人とインドの仏陀とは完全に平等です。

  最高的境界是什麼?念頭沒有了。眼所見的,這個色相,不起分別心,沒有分別、沒有執著,心是清淨的,完全用清淨心來接受外面的宇宙大自然;你所見到的是真相,諸法實相。我們今天所見到的,裡面摻雜無量無邊的妄想、分別、執著,叫胡思亂想。
最高の境界(きょうがい:境地)とは何でしょうか?念(思い)がなくなることです。眼で見るもの、その色相に対して分別心を起こしません。分別せず、執著(しゅうじゃく:執着)しません。心は清浄(しょうじょう:清らか)です。完全に清浄心で外界の宇宙大自然を受け入れます。その人が見るものは真相であり、諸法実相です。私たちが今日見ているものは、その中に無量無辺の妄想、分別、執著が入り混じっています。あれやこれやと思いを巡らせています。

  睜開眼睛看到大千世界,不起心不動念、不分別不執著,這是戒律。戒律功夫得力,智慧就開了;智慧開就是大徹大悟、明心見性。到大徹大悟、明心見性,就回歸到佛,你本來是佛。中國歷代都有這樣的人出現,這個一百年沒有了。虛雲老和尚這是見性的人,像他這樣的人不多,現在沒有了。現在為什麼沒有了?科學技術玩具太多,大家被它迷了。你看看,這手機裝在身上就被它迷了,你就沒有一樣自在,你的整個精神跟它都連著的,它就把你迷住了。我連手機、電話都沒有,什麼都沒有,所以得到一點清淨。
眼を見開いて大千世界を見て、心を起こさず念を動かさず、分別せず、執著しない。これは戒律です。戒律の技量が力を得て働き、智慧が開かれます。智慧が開けば正に大徹大悟、明心見性です。大徹大悟、明心見性に至れば、仏に回帰します。あなたは本来仏なのです。中国では歴代すべてこのような人が現れましたが、この百年はいなくなりました。虚雲和尚は見性した人ですが、このような人は多くありません。今ではいなくなりました。今はどうしていないのでしょうか?科学技術の玩具が多すぎて、皆がそれに迷わされているからです。ご覧なさい。携帯電話を持つようになってそれに迷わされています。あなたは一つも自在ではなく、あなたの全精神はそれと繋がっています。それはあなたを迷わせています。私は携帯電話さえ持ちません。何もありません。ですから少しばかり清浄を得ています。

<参考>
六根
(ろっこん)・・・・人間の感覚器官。
 眼(視覚)、(聴覚)、(嗅覚)、(味覚)、(触覚)、(意識)
六塵(ろくじん)・・・・六根が知覚する対象
 色(見た目)、(音)、(香り)、(味わい)、(触感)、(思考)

(視覚)→(見た目)
(聴覚)→(音)
(嗅覚)→(香り)
(味覚)→(味わい)
(触覚)→(触感)
(意識)→(思考)
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心は湖水のように清らかに

2020-03-01 | 聴師父説

心要像湖水一樣乾乾淨淨 / 心は湖水のように清らかに
2019/6/5 法國巴黎精舍 檔名:32-295-0021

  乾乾淨淨那叫淨土,你不能帶染污進去。告訴你這個極樂世界的祕密,誰能去誰不能去?有絲毫妄念都不能去。你要放得乾淨,為什麼?不能把垃圾帶到淨土去,沒有這個道理。只要你心裡面還有念頭在,你就去不了。我們要幹什麼?放,天天在放,練這個功夫。名聞利養放,所有一切正常、不正常統統要放,極樂世界沒有。
清らかできれいさっぱり何もない、それを浄土と言います。あなたは染汚(せんお:穢れ)を持って入ることはできません。あなたにこの極楽世界の秘密をお話しします。誰が行けて、誰が行けないのでしょうか?少しでも邪念があれば行けません。あなたはきれいに手放さなければなりません。なぜでしょうか?ゴミを浄土に持って行くことはできません。(ゴミを持って行けるなどという)そのような道理はありません。あなたの心にまだ思いがあるだけでも、あなたは行けません。私たちは何をしなければならないのでしょうか?手放すことです。毎日手放して、その技量を練ることです。名聞利養(みょうもんりよう:名声と利得)を手放し、あらゆる一切の正常、不正常(という分別心)をすべて手放さなければなりません。(それらは)極楽世界にはありません。

  極樂世界打個轉,回來就是菩薩。為什麼要回來?大慈大悲。只有這條生路,你要不放下,依舊在這個地方搞輪迴、搞報應。心裡不服氣,拉著你,你上不去,你放下就上去了。為什麼還要計較?計較是造業,六道輪迴裡面的業報,三善道裡面的業報。學佛心地清淨,這個境界一現前,像鏡子一樣,馬上就有反應,清清楚楚、明明白白。這境界現前,我們自己喜怒哀樂、恩怨仇報,這個念頭起來了,壞了,把你墮三途、墮地獄,這個苦報現前,不是好事。所以什麼是好、什麼是壞,不在外,在我們的反應,我反應不理它,統統放下,好境界;這是我的仇人,以前他找過我,我現在找他麻煩,報,這就是惡報。善惡在一念,外面是一面鏡子,給你照,讓你起,看你什麼念頭起來,你哪一個煩惱、哪個習氣跟它對應。冤冤相報很可怕,何必要搞這個?
極楽世界から戻り、帰ってくれば菩薩です。なぜ戻ってくるのでしょうか?大慈大悲(広大無辺な慈悲)です。この活路だけは手放してはなりません。相変わらずこの場所で輪廻と報いを繰り返すことになります。心の中で納得できず、引っ張られていては、あなたは行けません。放下すれば行けます。どうしてまだこだわるのでしょうか?こだわることは業を作ることです。六道輪廻の中の業報、三善道の中の業報です。仏法を学んで心が清浄(しょうじょう:清らか)になり、その境界(きょうがい:境地)が現れれば、まるで鏡のように、すぐに反応があります。はっきりと、明瞭に。この境界が現れても、私たち自身が喜怒哀楽、恩と恨みを報い合う意識を起こせば、(境地は)壊れてしまいます。あなたは三途(さんず:地獄道、畜生道、餓鬼道)に堕ちます。その苦報が現れます。良いことではありません。ですから何が良くて、何が悪いかは、外にはありません。私たちの反応にあります。自分がそれらに構わず、すべて放下すれば良い境地です。ある人は自分のかたきで、以前その人は私を探していました。自分は今その人を探して面倒をかけ、報いる。これが正に悪報です。善悪は一念にあります。外のことは鏡のようなものです。あなたを映し、あなたに(思いを)起こさせます。あなたがどのような思いを起こすのか、どのような煩悩、どのような習気(じっけ)で応対するのかを見ています。お互いに報い合うことは恐ろしいことです。そのようなことをする必要があるでしょうか?

  權力握在手上,勢力抓在手上,幹什麼?報應、報復,對不起我的人,一個一個我都要收拾他、都要報復他。這個念頭很多人有,有這個念頭不好,這個念頭是地獄的念頭。你報過去了,他要不要報你?會,比你還要嚴重。那麼一次碰到,怨恨加深,報復加重,玩這種把戲,在六道輪迴,這是聰明還是愚痴?自己去想去。
権力を握り、勢力を手中に収めてどうするのでしょうか?自分に顔向けできない事をした人には、一人一人痛い目に合わせ、報復すること。このような思いを持つ人がいます。この思いを持つことは良くありません。この思いは地獄の思いです。あなたが報いれば、相手はあなたに報いようとするでしょうか?するでしょう。あなたより更に深刻になります。一度ぶつかると恨み辛みは更に深まり、報復は更に重くなります。このようなカラクリで遊び、六道輪廻にいること。これは聡明なことでしょうか。それとも愚かなことでしょうか?自分で考えてください。

  一筆勾消,一切化解,不要再去想它了。每天都是在做榜樣給大家看,這叫度化眾生。表什麼法?看破、放下。這個世間,無論是善、是不善,貪戀的心沒有了,這個放下了。其次一個是最重要的,人與人之間的恩怨,假的,不是真的,你以為來生還會在一起?只有往生才在一起;不是往生的,三途六道,各走各的路,再見面不認識。
一切帳消しにして、一切を消し去って、二度とそのことを考えてはなりません。毎日手本を示して皆に見せること。これが衆生を教え導くこと(度化衆生)です。何を表すのでしょうか?看破(かんぱ:真相を見極めること)、放下(ほうげ:執着を捨てること)です。この世間の、善であろうと不善であろうと、執着する心が無くなること。これが放下です。次に最も重要なのは、人と人との恩と恨みは偽りです。真実ではありません。あなたは来世もまた一緒だと思うでしょうか?極楽往生した時だけ一緒になります。往生するのでなければ三途(さんず)、六道であり、それぞれの道を行くのです。再び会っても分かりません。

  佛給我們開一門大道,念佛求生淨土,無比的莊嚴、無量的幸福,我們自己不走,不能怪佛菩薩不慈悲。是你還記著怨恨、你還記著報復,你走不了,是你自己障住你自己,與任何人不相干,這點總要記住。明白了,真搞清楚了,叫看破;看破之後,心像湖水一樣乾乾淨淨,一點波浪都沒有,那是到極樂世界的樣子。
仏は私たちに大道を開いて下さいました。念仏して浄土を求生することは、この上なく荘厳で、計り知れない幸福であり、私たちが自分で行かないのであれば、仏菩薩(ほとけぼさつ)が無慈悲だなどと咎めることはできません。まだ恨み辛みや、報復することを覚えているようなら、あなたは行けません。あなたは自分で自分を妨げているのであり、如何なる人とも関係ありません。この点は覚えておいて下さい。理解すること、本当に明らかになることを看破と言います。看破した後には、心は湖水のように清らかになります。少しの波さえありません。それは極楽世界に行ったかのようです。

  所以人要看破,看破心就平了,就放下了。放不下的原因是什麼?我還要報復他,這個念頭你就走不了。算了,不要了,就走了,極樂世界去了。全操在自己手上,與任何人不相干,與佛菩薩更不相干。道理要搞懂、要搞清楚,你才真正能做到。
ですから人は看破しなければなりません。看破すれば心は平らかになります。放下できない原因は何でしょうか?まだ報復しようという思いがあるなら、あなたは行けません。やめにしてしまえば行きます。極楽世界に行きます。すべて自分の手中で操作しているのであり、如何なる人とも関係ありません。仏菩薩とも関係はありません。道理を理解し、明らかにしなければなりません。そうしてこそ本当に実行できるのです。
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二つの世界を自分で選択する

2020-02-29 | 聴師父説

兩個世界 自己選擇 / 二つの世界を自分で選択する
2019/7/7 台南極樂寺 檔名:32-258-0053

  到極樂世界,見到阿彌陀佛,機會就要抓住;機會不抓住,第二次遇到很難。我們常常懷念的是就希望見阿彌陀佛,就希望到極樂世界。沾一點邊,一步跨過去,這就對了。不要再猶豫,不要想這個想那個,機會來的時候匆忙,走了也匆忙。
極楽世界に行き、阿弥陀仏に会うには、機会をつかまなければなりません。機会をつかまなければ、次に(その機会に)巡り合うことは難しいのです。私たちがいつも心にかけて思うのは阿弥陀仏に会うことであり、極楽世界に行くことです。少し手をつけたら、一歩踏み出してみる。それで良いのです。再び躊躇してはなりません。あれこれ考えてはなりません。機会が来た時に慌ててしまい、機会を失ってまた慌ててしまいます。

  不容易!不退轉。你想想看,在這個世間,五欲六塵誘惑人,有幾個人能不退轉、不動心?我們就知道,那是很大的善根、很大的福報,真正做到不退轉。不退轉,問題解決了。平常也要放下,這個世界是假的,不是真的,凡所有相皆是虛妄。能夠把這個世界放下,徹底放下,才可以做到不退轉,所以不退轉的境界很高。念佛確實要念到一心不亂,才證到三種不退的功夫、境界,幫助一個人最後往生有絕對的把握。功夫在平時,平時什麼都要放下。
「不退転」(ふたいてん:到達した境地から後戻りしないこと)は容易ではありません。考えてもみて下さい。この世間において、五欲(ごよく:財欲、色欲、名誉欲、食欲、睡眠欲)、六塵(ろくじん:色・声・香・味・触・法)に誘惑されて、不退転、不動心でいられる人は何人いるでしょうか?それは大きな善根であり、大きな福報だということが分かります。本当に不退転を成し遂げます。不退転となれば問題は解決します。日頃から放下(ほうげ:執着を捨てること)しなければなりません。この世界は偽りです。本当ではありません。「凡(およ)そ相(そう)有(あ)る所(ところ)皆(みな)是(これ)虚妄(きょもう)なり」(すべて姿形あるものには実体がない)。この世界を放下し、徹底して放下してこそ不退転を成し遂げることができます。ですから不退転の境地は高いものです。念仏は一心不乱(の境地)まで念じて、ようやく三種類の不退の技量、境地を証得することができます。人が最後に往生するのに絶対的な自信となります。技量は平時にあり、平時から何でもすべて放下しなければなりません。

  兩個世界,極樂世界、娑婆世界,由自己選擇,選擇了就不放鬆,你一定可以證得。一條直路,我決定往生,有決心、有正念。發願往生的人精神都非常好,不受外面干擾。
二つの世界、極楽世界と娑婆世界。自分の選択にかかっています。選択したら疎かにしてはなりません。あなたは必ず証得しなければなりません。一筋の道を、自分は必ず往生するという決心と、正念(しょうねん:正しい思念)を持つことです。極楽往生を願う人は精神状態が非常に良く、外界の障害を受けません。

  看破、放下重要。看破,真的明白了、覺悟了,宇宙人生的真相見到了。沒有任何一樁事情可留戀的,這才行;還有一樁事情留戀、放不下,就是麻煩,有的時候往生,臨終時候遇到障礙,就這麼發生的。臨命終時,一些娑婆世間的瑣碎事徹底放下,就沒有障礙了;一心嚮往極樂世界,就成功了。諸佛剎土,一切眾生天人的剎土,比不上極樂世界。所以選擇重要,平常就選擇,有事就不慌張,穩穩定定的一條直路,直通極樂世界。
看破(かんぱ:真相を見極めること)、放下(ほうげ:執着を捨てること)は重要です。看破とは本当に理解し、悟り、宇宙・人生の真相を見定めたということです。如何なることにも未練を残しません。これで良いのです。まだ一つでも未練が残り、放下できなければ、面倒なことになります。時には臨終のときに障碍を受けてしまいます。そのようなことが発生します。臨終の時、娑婆世界の細々とした事を徹底して放下して、障害がなくなり、一心に極楽世界に心を傾ければ成功します。諸仏(しょぶつ)の刹土(せつど:国土)、一切衆生(いっさいしゅじょう:生きとし生けるもの)天人(てんじん:六道の中の天道に住む人)の刹土は、極楽世界とは比べものになりません。ですから選択は重要です。平時は正に選択です。事が起きても慌てずに、落ち着いて、一筋の道をまっすぐに極楽世界に行くのです。
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身心の安定は成功の礎石

2020-02-24 | 聴師父説

身心安定是成功的基石 / 身心の安定は成功の礎石
2020/2/13 台灣台南極樂寺 檔名:32-258-0061

  我們現在迫切需要的是安定、和諧,中國傳統的教育就抓住了這個核心。安定、和諧,個人需要,無論你從事哪個行業,環境安定,容易成功。人與人之間、家與家之間、社會與社會之間,迫切需要的就是安定和諧。中國自古以來,兩千多年來,教學的宗旨,幫助學生身心安定,無論環境怎麼動,你動我不動,這就是聖教。
私たちに今切迫して必要なのは安定、調和です。中国伝統の教育はこの核心をつかんでいます。安定と調和は、個人として必要です。あなたがどのような職業に従事していようと、環境が安定すれば成功するのは容易です。人と人との間、家と家との間、社会と社会との間に切迫して必要なものは、正に安定と調和なのです。中国では古来より、二千年以上昔から、教学の宗旨は学生の身心の安定を助けることです。環境がどのように動こうとも、人が動いても、自分は動きません。これこそが聖人の教えです。

  在安定的環境裡,心情都不受外面環境干擾。所以我說我只相信老祖宗,自古以來,老祖宗都是教給我們穩重、安定、和諧;你的眼睛放光了,你的心情也放光了,心情放光你就能照見,這個世界你看得清清楚楚、明明白白。不受外面人事物的干擾,你心是定的。定能看到真相,亂看不到真相。所以老祖宗只教給我們安定,把心安定在倫理道德上,你自然就聰明。混亂你不亂,不亂才能認出哪個對我有利、哪個對我有害,你不會選錯。
安定した環境において、心は外の環境に邪魔されません。だからこそ私はただご先祖様を信じると言っているのです。昔からご先祖様は私たちに落ち着き、安定、調和を教えています。あなたの目は発光します。あなたの心も発光します。心が発光すればあなたは照見(しょうけん:真相を明らかに見極める)することができます。あなたはこの世界をはっきりと、明らかに見極めることができます。外の世間のことに邪魔されなければ、あなたの心は安定します。安定してこそ真相を見ることができます。乱れていては真相は見えません。だからこそご先祖様はただ安定だけを私たちに教えるのです。心を倫理道徳の上に安定させれば、あなたは自然と聡明になります。(外界が)混乱していてもあなたは乱れません。乱れなければ何が自分に利となるか、何が害となるかが分かります。選び間違ってはなりません。

  起心動念要想念到祖宗,祖宗給我們的東西非常寶貴,沒有做對不起我們的事情,這就是我們的祖宗對後代寬恕,我們要感恩,我們要以良心來報答。祖宗教我們什麼?祖宗教我們孝悌忠信、禮義廉恥,我們要把它守住,一切時一切處,別人不遵守我遵守、我遵循。
起心動念(心の起こり、念の動き)はご先祖様を思うことです。ご先祖様が残したものは非常に貴重であり、私たちに申し訳ない事はしません。これは正に私たちのご先祖様の子孫に対する寛恕(かんじょ:心が広く思いやりのあること)です。私たちは感謝しなければなりません。私たちは良心をもってご恩に報いなければなりません。ご先祖様は私たちに何を教えたのでしょうか?ご先祖様は孝・悌・忠・信、礼・義・廉・恥を教えました。私たちはそれを守らなければなりません。いかなる時、いかなる場所でも、人が守らなくても自分は守り、従うことです。

<参考>
(親孝行)、(年長者に仕えること)、(忠義を尽くすこと)、(信義を重んじること)
(礼節)、(道義に背かないこと)、(清く正しいこと)、(恥を知ること)

四維
1 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/1d84721e1389a8449ff2c2bceb0af00b
2 http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/c32704e2c242b66135eb1e581d8c8ca8
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新年に心を入れかえた人になる

2020-01-11 | 聴師父説
 
台南極樂寺餐後開示—新年做個新人(第五十八集)
台南極楽寺における食後の開示 新年に心を入れかえた人になる
2020/1/1 台灣台南極樂寺 檔名:32-258-0058

  佛教給我們重新做人,過去那個事走過了,就不要再回憶了,做個新人。第一個,記住,希望今後在這個世界上,不得罪任何一個人,不做一樁錯事,晚年就多福,你就有福報;得罪人划不來,結冤仇,冤冤相報,沒完沒了,絕不跟人結冤仇。
仏は私たちに真人間として生まれ変わることを教えています。過去のことは過ぎ去ってしまえば、二度と振り返ってはなりません。心を入れかえた新しい人になるのです。第一に――覚えておいてください――今後この世界で誰の恨みも買わないこと、誤ったことをしないよう願います。そうすれば晩年に幸せになれます。あなたには福報があります。人の恨みを買うのは割に合いません。恨みの縁を結べば、互いに恨みを報い合って切りがありません。絶対に人と恨み辛みの縁を結んではなりません。

  有小孩的,什麼是你將來的本錢?你的小孩,你的小孩懂事、懂禮、有前途,是你一生的福報。出家人要把出家的徒弟、在家的徒弟教好,不違背聖教,給社會大眾做好榜樣,你的功德就無量無邊。
子どもがいる人は、何が将来の元手となるのでしょうか?あなたの子どもが物分かりがよく、礼儀をわきまえ、前途があれば、これがあなたの一生の福報です。出家した人は出家した徒弟、在家の徒弟をしっかり教えて、聖教に背くことなく、社会の大衆の良いお手本になること。そうなればあなたの功徳は無量無辺です。

  眼前要吃虧,要不知道吃虧,你是個糊塗人,愚痴。眼前我樣樣都清楚、樣樣都明白,樣樣都能夠放下、都能捨掉。捨是福,不知道捨的人沒福。我們看一般的社會大眾教我們,哪個人有福、哪個人沒有福?能捨的人有福,不能捨的人沒福。
目の前のことについては、損をすることです。もし損すること(の本当のご利益)を知らないなら、あなたは愚かな人です。道理に暗い人です。目の前のことを何事もはっきりとよく見極めて、どれもすべて放下すること。すべて捨て去ることです。捨てることは福です。捨てることを知らない人には福がありません。一般社会の大衆は私たちに教えてくれます。どの人に福があり、どの人に福がないのでしょうか?捨てられる人には福があり、捨てられない人には福がないのです。
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悟りはあなた自身が開くものであり、他人が助けてくれるものではない

2019-10-14 | 聴師父説


開悟是你自己開的,不是別人幫你開的 / 悟りはあなた自身が開くものであり、他人が助けてくれるものではない
法國巴黎會客談話 2019/6/24 法國巴黎精舍 檔名:32-298-0048

  佛法開悟就明白了,完全明白了,沒有學過的東西,聽別人一說你就懂;別人不懂,你聽得懂。怎麼會開悟?用真心就開悟,用妄心就迷惑。所以一般人用的心是妄心。妄心,你心裡面有很多東西,這就妄心;心裡頭乾乾淨淨,什麼都沒有,真心。真心管用,真心一看就明白、一聽就明白,不需要人講的。
仏法は開悟すれば分かります。完全に分かります。学んでいないことも、人が話せばすぐに理解できます。人が理解できなくても、あなたは聞いて理解できます。どのように開悟するのでしょうか?真心を用いれば開悟します。妄心を用いれば迷います。ですから一般の人が用いている心は妄心です。妄心とはあなたの心の中に多くのことがあること。これが妄心です。心の中がきれいさっぱりで、何もなければ真心です。真心は役に立ちます。真心は見ればすぐに分かります。聞けばすぐに分かります。人が説明する必要はありません。

  所以真正修行人,高明的人,修心。我們常常鼓勵大家存好心、說好話、行好事,什麼是好?關鍵就在心,心乾淨就好。心裡頭還有東西、還有妄念,那就不乾淨了,你用的是妄心。所以一般世間人用的全是妄心,妄心只看到虛妄,凡所有相皆是虛妄,你看的環境、境界統統是虛妄的。
ですから真の修行者、優れた人は、心を修めます。私たちはいつも良い心を留め、良い言葉を話し、良いことをするように皆を励ましています。良いとはどういうことでしょうか?鍵となるのは心です。心が清らかであれば良いのです。心の中にものがあり、妄念があれば、それは清らかではありません。あなたが用いるのは妄心です。ですから一般の世間に人はすべて妄心を用いています。妄心は虚妄を見るだけです。「凡(およ)そ相(そう)有る所皆是(これ)虚妄なり」。あなたが見る環境、境界(きょうがい:境地)はすべて虚妄なのです。

  所以佛法是講悟,要悟入的話是真的,不是假的。佛教修行就在怎麼樣你能夠開悟、悟入,關鍵在這裡,不在讀的書多、看的經書多,不在這個。這一招很難,所有的佛法進門都要從這個地方進去。走這條路很難走,為什麼很難走?真心太難了,一般人全是妄心。什麼人天天念佛,心裡頭只有佛,除佛之外什麼都沒有,這是修心,久而久之會開悟。聽經把意思聽錯了,開不了悟,把妄念統統放下就開悟了。
ですから仏法は悟りを重んじます。「悟入」すれば本物です。偽物ではありません。仏法修行は如何にしてあなたが開悟できるか、悟入できるか、鍵はここにあるのです。読んだ書物の多さ、見た経書の多さではありません。この一手は難しく、あらゆる仏法の入門はすべてここから入るのです。この道を歩むのは難しいことです。なぜ難しいのでしょうか?真心は難し過ぎます。一般の人はすべて妄心です。どの人が毎日念仏して、心の中に仏しかおらず、仏に他に何もないのでしょうか。これが心を修めることであり、それを久しく続ければ開悟することができます。経を聞いて意味を聞き間違えれば、悟りは開けません。妄念をことごとく放下すれば悟りを開けます。

  所以看破、放下,看破是智慧,放下是手段。你要想入佛門,你心裡面什麼都沒有就進去了,跟禪宗講的完全一樣。大乘佛法,八萬四千法門,祕訣就在此地。戒定慧三學,統統放下是定,定就開智慧,開智慧就能入進去,所以必須修戒定慧。現在學佛的人把戒定慧都丟掉了,所以他一輩子無論怎麼樣用功,不能入門,不守規矩。開悟是你自己開的,不是別人幫你開的。所以,學了一輩子佛學到什麼?自以為是,完了!你的門永遠沒打開過,戒定慧三個字沒有。戒是幫助你得定的,定是幫助你開慧的,這是方法。
ですから看破、放下。看破は智慧であり、放下は手段です。あなたが仏門に入りたければ、心の中に何もなければ入れます。禅宗が説くところと完全に同じです。大乗仏法八万四千の法門の秘訣はここにあります。(かい:戒律)(じょう:禅定)(え:智慧)の三学です。すべてを放下するのは定であり、定を得れば智慧は開きます。智慧が開けば(仏門に)入ることができます。ですから必ず戒定慧を修めなければなりません。今の仏法を学ぶ人は戒定慧さえ疎かにしています。ですからその人は一生涯どのようにお勤めしようと入門することができません。規則を守りません。悟りはあなた自身が開くものであり、他人が助けてくれるものではありません。ですから一生涯仏法を学んで何を学び得るのでしょうか?自分は正しいと思い込みます。それでは終わりです!あなたの門は永遠に開きません。戒定慧の三字がありません。戒(かい:戒律)はあなたが定(じょう:禅定)を得るのを助けます。定はあなたが智慧を開くのを助けます。これが方法です。

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あなたはまだ何に未練を持っているのですか?

2019-07-24 | 聴師父説


你還在留戀什麼? / あなたはまだ何に未練を持っているのですか?
2019/1/15 香港佛陀教育協會 檔名:32-280-0013

  一心念佛,求生淨土,完全正確!這個世界不值得留戀,無論做什麼好事都不值得留戀,全是假的。我二十六歲學佛,從那天起我就知道,過去生中沒有修福報,所以一生要過一個苦日子,財富我命裡頭沒有。我選擇經教,跟李老師學講經,跟他十年,專攻佛經。他講的經我都聽了,而且都複講,他講一遍,我也講一遍,有少數幾部經我講了三遍、五遍。學佛,跟方老師進入佛門。進入佛門,認識章嘉大師,我第一個問題向他請教的,學佛有沒有捷徑?有沒有近路讓我快一點可以進去、契入境界?告訴我六個字,你要想入佛門,要想真正向佛學習,必須要做到「看得破,放得下」,就這六個字。我懂了,我明白了。老師又告訴我:「我今天告訴你六個字,你要認真好好的去做六年。」
一心に念仏し、浄土に求生(ぐしょう:生まれることを求める)する。これは完全に正しいことです!この世界は未練を持つ価値がありません。どのような良い事をしようと未練を持つ価値はありません。すべて実体はありません。私は二十六歳で仏法を学び、その日から過去生の中で福報を修めていなかったことを知りました。だから一生苦しい生活を送らなければならず、財産や富は命(めい:運命)の中にありませんでした。私は経教(きょうぎょう:経典の教え)を選びました。李老師について講経(こうきょう:経典を講じること)を学びました。李老師に十年、仏経(ぶっきょう:仏教の経典)を専攻しました。李老師が講じた経を私はすべて聴き、その上すべて復唱しました。李老師が一度講じたら、私も一度講じました。いくつかの経を私は三度、五度と講じました。仏に学び、方老師と仏門に入りました。仏門に入り、章嘉大師と出会い、私は一つ目の質問をして教えを請いました。「仏法を学ぶのに近道はあるのでしょうか?早く境地に入る近道はあるのでしょうか?」。(すると大師は)六字で仰いました。もし仏門にはいり、本当に仏に学びたいなら、必ず「看破できれば(看得破)放下できる(放得下)【注】を実践できなければなりません。この六字です。私は理解しました。私は分かりました。老師は更に私に仰いました。「私が今日話した六字を、六年間真剣に取り組みなさい」。
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【注】看破(かんぱ)・・・森羅万象、事実の真相を見極めること。
   放下(ほうげ)・・・
執著を離れ、手放すこと。
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  看破幫助你放下,放下幫助你看破。看破是了解事實真相,這個宇宙,這個地球,這個太陽系、銀河系,假的,不是真的。我們想想,平常多想,冷靜的去觀察,昨天過去了,你得到什麼?什麼都得不到。晚上睡覺作夢,夢醒了,想想夢裡頭那些東西在哪裡?假的。佛告訴我們,「凡所有相,皆是虛妄」。眼前這些人事物,一秒一秒鐘過去,再不回來,哪裡去了?它從哪裡來?它到哪裡去?無始無終,消失了,消失在意識裡頭。唯心所現,唯識所變,意識是識,第一個變化變現的是心,第二個變化是識。第一個變化凡夫不知道,不覺,真正修行人知道,所以他放下。你抓不住,一秒一秒過去了,你能把它抓住?抓不住,秒秒都過去。實際上比秒還快,秒我們有個概念,再快速的概念都沒有。
看破はあなたが放下するのを助け、放下はあなたが看破するのを助けます。看破とは事実の真相を理解することです。この宇宙、この地球、この太陽系、銀河系。偽りです。真実ではありません。よく考えてみましょう。平素からよく考えて、冷静に観察してみれば、昨日は過ぎ去りました。あなたは何を得たのでしょうか?何も得られません。夜中に寝ていると夢を見ます。夢から覚めると、夢の中に出てきたものはどこにあるのでしょうか?偽りです。仏は私たちに説かれています。「凡(およ)そ相(そう:姿形)有る所、皆(みな)是(これ)虚妄(きょうもう)なり」。現前の物事は、一秒一秒と過ぎ去って、再び戻ることはありません。どこに行ったのでしょうか?それはどこから来るのでしょうか?それはどこに行ったのでしょうか?始めは無く終わりも無く、消失します。意識の中において消失します。唯だ心の現るる所(唯心所現)、唯だ識の変ずる所(唯識所変)。意識は識です。最初に変化して現れるのは心であり、次に変化するのは識です。最初の変化は凡夫には分かりません。自覚できません。本当の修行者は知っています。ですからその人は放下します。あなたには捉えられません。一秒一秒と過ぎ去っていくのです。あなたはそれを捉えることができるでしょうか?捉えられません。一秒一秒すべて過ぎ去ります。実際には秒よりも速いものです。秒と言えは私たちにはその概念がありますが、更に速い概念はありません。

  這是勸你放下,放下我,放下我所有。為什麼?全是假的,沒有一樣是真的,秒秒鐘過去了。一彈指三十二億百千念,多少個念頭?三十二億再乘一百、再乘一千,我們講天文數字。這樣快速的消失,哪一樣是你的?你這個要佔有,那個要希望得到,全是虛妄!真正知道它是虛妄,不要求了,放下不要了,隨緣度日,慢慢就自在了。隨緣,有很好,沒有也很好。有也不起心動念,別以為這是我的,我擁有、我佔有;你連這身體都保不住,哪樣東西能佔有?要想佔有,第一個是身體,身體沒有,假的,分分秒秒就沒有,過去了,昨天的我沒有了、不在了,一秒鐘以前的我不在了,正在講的這一秒的時候也消失、也不見了。
これはあなたに放下を勧めているのです。自分を放下し、自分の所有物を放下します。なぜでしょうか?ずべて偽りだからです。どれも(実体がなく)真実ではありません。一秒ごとに過ぎ去っていきます。「一弾指三十二億百千念」(一度指を弾く間に三十二億百千の念が生じる、の意)とは、幾つの念があるのでしょうか?三十二億に更に百を掛けて、更に千を掛けるのです。天文学的数字です。これほど速い消失です。どれがあなたのものなのでしょうか?あなたがそれを占有し、それを得たいとしても、すべて虚妄です!本当にそれが虚妄であることを知れば、求めなくなります。放下して要らなくなります。縁に随って日を送り、少しずつ自在になっていきます。縁に随います。あっても良いし、無くても良いのです。あっても心を起こさず念を動かしません。それを自分のものだ、自分が持っている、自分が占有している、などと思ってはなりません。あなたは自分の身体を保つことさえ出来ません。どこに占有できるものがあるのでしょうか?占有したい第一のものは身体です。身体はありません。偽りです。時々刻々と過ぎてなくなります。過ぎ去ります。昨日の自分はありません。なくなります。一秒前の自分もありません。今話しているこの一秒さえも消失して、なくなります。

  佛教我們作觀,觀想,觀什麼?觀這些現象。為什麼要學觀?觀成了,你才知道全是假的,你才肯放下!到你肯放下、真放下,功夫得力了,八萬四千法門,隨便哪一個法門,都能成無上道。我們今天選的法門,選念佛,為什麼?這個法門殊勝,這個法門我們真正有能力掌握住,掌握住是這一句佛號不間斷。我聽佛的話,我跟佛學,佛教給我。老師不會騙我,佛不會騙我。
仏は私たちに作観、観想を教えています。何を観ずるのでしょうか。それらの現象を観ずるのです。なぜ観想を学ぶのでしょうか?観ずることができてこそ、あなたはすべて偽りであることを知り、放下できるのです!あなたが放下できるようになり、本当に放下すれば、技量が得られます。八万四千の法門のうち、どの法門であろうと、無上道を成し遂げることができます。私たちが今日選んだ法門は、念仏です。なぜでしょうか?この法門は殊勝であり、この法門は私たちが本当に掌握することができます。この一句の仏号を途切れさせないこと。それを掌握することができます。私は仏の教えに従います。私は仏に学びます。仏は私に教えて下さいます。老師は私を騙しません。仏は私を騙しません。

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開悟した人は自分の為を思わない

2018-08-19 | 聴師父説


開悟的人不會為自己想 / 開悟した人は自分の為を思わない
2018-05-24@フランス、パリ

神は世人を愛す。キリスト教のこの言葉は非常に素晴らしい教義です。核心的価値観はここにあるのです。神はどこにいるのでしょうか?神は人の心の中にいます。自分でそれを見つけ、迷うことなく、神に学び、神の愛を心の中に留め、神の愛をもって世人を愛し、神の代表として世人を愛すること。これで良いのです。どうして人と対立できるでしょうか?あれとこれとを区別するのでしょうか?神はあれとこれとを区別しません。私たちはそれを学ばなければなりません。世人はすべて神が愛するところのものです。すべて神の骨肉です。中国人は肉親と言います。どうして子どもを尊重しないでいられるでしょうか。どうしていたわらないでいられるでしょうか。

ですからこの道理を理解したら、自分は神を愛し、世人を愛し、神の愛を自分の身体で体現して世人を愛すること。これで良いのです。あなたは真のキリスト教徒です。もしあなたが世人を愛さず、あれとこれとを区別して、これは私のものだとか、あの人は教えを信じないとか、・・・教えを信じない人も世人なのです。神は宗教を信奉する人だけを愛するとは言っていません。「世人」とはすべての種族、すべての宗教をその中に含んでいます。平等心で世人に接することです。これを理解しなければなりません。私たちは神を本当に学び、大慈大悲、無条件の愛を学ぶことです。親子よりも親しくなります。親子にはある種の条件があります。神が世人を愛するのは親子よりも親しいのです。条件はありません。これで良いのです。

ですから神職の人、信徒は神の愛を演じて、大衆を教化し、大衆の愛を興させることです。その国土は正に天国です。人と人とが愛し合い、少しも疑うことがなく、妄語はなく、二枚舌は使いません。あらゆる宗教経典にすべて接触して、すべてを見て、そこに見られる共通する部分、どれにも説かれていること。それが重要です。個別のものではありません。その種族だけに説いたものではありません。それは格別の慈悲であり、機に応じて教えを説いたものです。その人が何を必要としていて、何を理解できるのか。それによって説く、それが善巧方便です。

ある成功している政治家が私に一つ質問をしました。その人は言いました。「聞いたところによると、法師はいろいろな場所に行ったことがあり、国の指導者にも会われています。法師はこの世界にはまだ平和があると思われますか」。私にこのような質問をしました。私は驚きました。その人は普通の人ではありません。なぜこのような問題を私に質問するのでしょうか?
私はその時、四つのことができれば世界は平和になると答えました。どのような四つでしょうか。一つ目は、国と国とが平等に接し、互いに仲睦まじいこと。二つ目は、政党と政党。三つめは、民族と民族。四つ目は、宗教と宗教。この四つの方面ができれば、世界は平和になります。その人はそれを聞いて何も言えませんでした。
最後に私は言いました。この事は難しいことであり、容易ではありません。しかし宗教から着手するなら方法があります。宗教は教育です。中国の古人は「教学を先と為す」(教学為先)と説きました。大小どのような事であろうと、教育できれば出来るのです。しっかりと教えることです。何を教えるのでしょうか?宗教教育を教えます。なぜでしょうか?宗教教育の教材の中には倫理があり、道徳があり、因果があり、また聖人の智慧があります。イエスキリスト、ムハンマドのような、彼らの智慧は経典の中にあります。真剣に学習すべきです。しっかりと国民を教えることです。

開悟した人は自分の為を思いません。あらゆる苦難の衆生の為を思います。私たち自身が出来なければなりません。私たちに出来れば、正に享受します。間違いなく神聖な享受です。この使命を担い、この世界の対立を解消し、衝突を解消するのを助け、平和と和諧(調和)を社会に取り戻すこと。これこそが神聖な事業です。非常に意義があり、無量の功徳があります。

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今日の行為があなたの未来を決定する

2018-08-06 | 聴師父説


今天的行為決定你的未來 / 今日の行為があなたの未来を決定する
2018-05-24@フランス・パリ

私は方東美先生に仏法を学びました。彼は哲学者です。彼は大学教授です。私たちはご縁があって知り合いました。私は以前仏経は迷信だと思っていたので、まったく受け入れることは出来ませんでした。方先生は私に哲学概論を講じて下さり、最後の単元では仏経哲学を講じて下さいました。

私は方先生に質問しました。「仏法は宗教です。迷信です。どうして哲学があるのでしょうか?」方先生は仰いました。「君はまだ若いから理解していないのです。釈迦牟尼仏は世界で最も偉大な教育者であり、仏経(ぶっきょう:仏典のこと)哲学は全世界の哲学の最高峰です」。方先生はこのように私に紹介して下さいました。「仏に学ぶことは人生最高の享受です」。これにはとても誘惑する力があり、私を仏教の中に引き入れました。方先生は本当に実行していました。嘘ではありません。

講義は方先生の家で行われました。私に「今の学校ではものを学ぶことは出来ない」と仰いました。何が原因なのでしょうか?先生と学生との関係は真誠(しんせい:誠の心)、尊敬が頼りです。あなたに先生に対する誠意がなく、恭敬心(きょうけいしん:敬う心)がないのであれば、どれほど良い先生であっても教えることは出来ません。なぜでしょうか?あなたは受け入れられないからです。受け入れようがありません。先生が教えないのではありません。ですから私に「一分の誠敬があれば一分のご利益を得て、十分の誠敬があれば十分のご利益を得る」と仰いました。それでは今の学生のどこに誠敬を見い出せば良いのでしょうか?ありません。学生は家では親不孝で、学校では先生を敬いません。それでどのように変わったでしょうか?学校は意味を説明するだけで、先生はこれを頼りに生計を立てています。学生は卒業証書が欲しいのであって、その他のことは重要ではありません。それならどの学生にも良い成績をあげて、学生に卒業証書を与えて帰らせ、要求を満足させます。ですからものを学ぶことは出来ません。

大乗経典は哲学であり、科学の最高峰です。「一弾指三十二億百千念」(一たび指を弾く間に三十二億百千(320兆)もの念が起こる、の意)。これは科学です。これは事実の真相です。何を説明しているのでしょうか?「万法皆空」(万法は皆空である)とは、なぜ空なのでしょうか?この真相が明らかになれば、あなたは理解します。確かに空であり、確かに捉えることは出来ません。どの念も捉えることは出来ません。どの一念があなたなのでしょうか?捉えることは出来ません。だからあなたに放下(ほうげ:執著を手放すこと)を教えるのです。放下するとどうなるでしょうか?真心が現れます。それは真実の智慧であり、仏知仏見です。

私たちは今日一切の罪業を作っています。それは分別があり、執著(しゅうじゃく:執着)があり、貪瞋痴慢(とんじんちまん:貪は貪り。瞋は怒り。痴は愚かな迷い。慢は傲慢)があるからです。このような業を作り、このような事をすれば、その心の働きや言葉や行為は、酷ければ人を陥れます。それでは来世は面倒なことになります!あなたは絶対に来世から逃れることは出来ません。来世は六道輪廻があり、十法界があります。来世はどうなるでしょうか?来世も「一弾指三十二億百千念」であり、それは繋がっているのです。来世と今世、過去世とはすべて繋がっています。これは事実の真相です。これが仏経の中で説かれている科学です。

科学でも今これを説いています。宇宙はどこから来たのでしょうか?念から起こったのです。心の起こり、念の動き(起心動念)です。あなたが心を起こさず、念を動かさなければ(不起心不動念)、これ(宇宙)はありません。それは何でしょうか?それは一片の光明(こうみょう)です。仏経では大光明蔵と形容されます。円満の智慧があり、過去、現在、未来、あなたは一つとして知らないことはありません。あなたと縁のある衆生は――仏は縁ある人を済度し、無縁の人を済度することはできないので――あなたと縁のある衆生は、この機会に出会えば、あなたはその人に教えます。その人は、聞けばすぐに理解できます。真心を用いて妄心を用いなければ、自在なものです。心は平然と落ち着いています。記憶する必要はありません。記憶そのものが虚妄なのですから、それを覚えてどうするのでしょうか?あなたはただその虚妄を証明して、人を助けて虚妄であることを認識させます。これを伝法と言います。仏門では、中国人は印鑑を使うことを好みます。何の印でしょうか?証拠です。法印と言います。法印は空(くう:実体がないこと)です。有(う:あること)ではありません。

空であっても空の相に執著してはなりません。それで開悟します。空にもその印象があり、つまり空相ですが、あなたがそこに留まっていれば、開悟することはできません。空さえも取り払った時、開悟します。その後で仏経を読んでみれば味わいがあります。仏が説かれたことをあなたは完全に理解します。味わいがあります。あなたはどうすべきかが分かります。人は幸福円満の一生を送らなければなりません。それができるでしょうか? できます。誰が出来るのでしょうか?菩薩にはできます。一つ低い阿羅漢にも出来ますが、まだ円満ではありません。菩薩は円満です。修身(しゅうしん:身を修める)、斉家(せいか:家を整える)、治国(ちこく:国を治める)、最後は平天下(へいてんか:天下を平らかにする)です。平とは何でしょうか?平安、和平です。天下とは全宇宙です。全宇宙が和気に包まれれば、それは何と楽しく、自在であることでしょうか!

ですから彼らはどのようなな仕事をするでしょうか?どのような業界に現れようと、すべて教育、教学をします。その教学は完全に奉仕であり、ほんのわずかな利益もありません。時間給はありません。要求はしません。ただ志を同じくして、あなたが聞いて理解できるなら、あなたがこのような優れた人に出会えば、その人は喜んで講じてくれます。なぜでしょうか?それがその人の使命だからです。その人が理解しているところを、あなたに伝道して、一切衆生(いっさいしゅじょう:生きとし生けるもの)が宇宙の真相を悟入(ごにゅう:悟りの境地に入ること)するのを助けます。ですから仏経の中には哲学があり、科学があり、詩(し)詞(し)歌(か)賦(ふ)があり、何でも揃っています。(境地に)入ることができれば、この一生で喜びを享受できます。ですから理解してみれば、明らかにしてみれば、本来仏教は教育なのです。

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人と対立しないことは福報である

2018-05-27 | 聴師父説


不跟人對立是福報 / 人と対立しないことは福報である

私は一生、人を罵ることはしません。人が罵っていても、私はありがたく拝聴します。
ひと言も話しません。その人が罵り疲れるまで待って、罵らなくなったら私は立ち去ります。

人を罵るのも疲れます。謝る必要もありません。ただ聴くだけです。
その人は必ず罵り疲れます。

一時間、二時間、三時間も罵っていれば疲れて耐えられません。
その人自身に帰って反省させます。

一生人と対立しないこと、それは福報です。
恨みはありません。人に誤解されても、長い時間が経てば少しずつ気がつくものです。
ある人が私を嫌って、私に恨み辛みを言います。私はそれらを見て避けます。
一緒に集まっているなら、何を言われようと私たちは口を開きません。

一切衆生には皆仏性があり、本来仏なのです。
いま仏に成りたければ、どの人でも仏に成れるのです。
これは本当です。嘘ではありません。

ただ仏だけがこの世間をはっきりと見極めています。見て分かっています。
この世間は偽りであり、真実ではありません。

それを真に受ければ、あなたは完全に顛倒(てんとう:誤った見方をすること)しています。
あなたは迷います。それが本当のことだと執著します。

ことごとく偽りなのであれば、
放下(ほうげ:執着を捨て去ること)するのは容易です。

放下できなければ真に受けます。
偽りを真実だと思い、業(ごう)を造ります。

業を造ればその果報は自分で受けるのです。
それは大きな間違いです。

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