浄空法師説法研究

浄空法師の説法に学びながら、日本語に翻訳して紹介しています。

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南無阿彌陀佛

2024-07-07 | 【修行の方法】
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浄空老法師

2024-07-07 | 【修行の方法】
淨空老法師直播台 
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乗願再来

2022-09-18 | 【修行の方法】
乘願再來
(1995-05-10朝食)

自己不肯認真修行,你的身體業報是命中注定的;如果自己肯發憤為佛法獻身,為一切眾生獻身,那你這個身體就不是你自己的了,而是乘願再來的。
自ら真剣に修行しようとしなければ、あなたの身体の業報【注1】は運命に定められた通りです。もし自ら堅く決心して仏法の為に身を捧げ、一切衆生の為に身を捧げるなら、あなたの身体はあなたのものではなくなり、乗願再来【注2】となります。

因此不必等到了西方極樂世界再來投生,只要現在的願力一轉,就能把自己業報的身轉成願力的身,這就是乘願再來。「乘願再來」是一念之間可以做得到的,這裡面一絲毫假都不能摻,是純真無妄的,摻一點假還是要受業報。
ですから西方極楽世界に行ってから、またこの世に生まれるのを待つ必要はありません。今の願力を転ずれば、自分の業報の身体は願力の身体になります。これこそが乗願再来です。「乗願再来」とは一念の間にできることなのです。この(一念の)中には少しの偽りも混ざってはなりません。純真(じゅんしん:心に穢れがないこと)無妄(むもう:偽りがないこと)です。少しでも偽りが混ざれば、やはり業報を受けます。

<注>
1.業報(ごうほう)前世や過去に行った善悪の行為による報い。(デジタル大辞泉より)
2.乗願再来(じょうがんさいらい)一切衆生に奉仕する決意をもってこの世に来ること。

<参考>
乗願再来
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最高の免疫力はどのように得られるか(再掲載)

2020-05-16 | 【修行の方法】

怎樣得到最好的免疫力 / 最高の免疫力はどのように得られるか
文摘恭錄—淨土大經解演義(第一二一集)2010/8/23 檔名:02-039-0121

我們永遠記住,時時刻刻記住,「一切法從心想生」,心想就是念頭,我們的念頭善,一切境界沒有一樣不善,都是善的;我們的念頭不善,沒有一樣是善。我們要想,頭一個想自身,這都是佛說的,「相由心生」,我們的相像菩薩一樣,金剛不壞身,永遠沒有煩惱、沒有妄念就是菩薩相。只要把那個念頭息掉就好了,妄念、不善的念頭統統息掉,完全存那個善念,身心健康,百病不生。有同學從網路上下載的新聞告訴我,拿來給我看,在印度最近發現一種病毒,傳染病,已經傳到澳洲,聽說香港有一個例子,有一個病例。
私たちは永遠に覚えておかなければなりません。いつでも覚えておかなければなりません。「すべては心から生じる」(一切法従心想生)のです【注1】。「心想」とは気持ちのことです。私たちの気持ちが善であれば、一切の境界(きょうがい:境地)に一つとして不善はありません。すべてが善になります。私たちの気持ちが不善であれば、一つとして善はなくなります。私たちはまず自分自身のことを考えなければなりません。これはすべて仏が説かれた「相は心より生じる」(相由心生)ということです。私たちの(本来の)相は菩薩と同じように、金剛不壊身(こんごうふえしん)【注2】なのです。永遠に煩悩が無くなり、妄念が無くなれば菩薩相です。ただ考えるのをやめれば良いのです。妄念や不善の思いをすべてやめてしまい、完全に善念を留めていれば、心身ともに健康で、病気にかかることもありません。ある学生がインターネットの新聞を私に見せてくれました。インドで最近ウィルスが発見されたようです。伝染病です。すでにオーストラリアに広まって、話によると香港でも一人だけ感染した例があるようです。

這種傳染病預測可能會傳遍全世界,沒有任何抗生素能夠有效的防止,換句話說,沒藥可治。得到這個病,大概三、四個小時就走了,這麼快,這很可怕。這個信息去年世界衛生組織已經發表,我們已經看到這個新聞。可是也有信息告訴我們可以不會受感染,什麼樣的人?心態好的人、念佛的人、吃素的人、心地善良的人不會受感染。我們能相信嗎?能,這佛經上有講的道理,邪不勝正。
この伝染病は、おそらく全世界に蔓延すると予想されています。如何なるワクチンも予防の役に立ちません。言い換えれば、治せる薬がないということです。この病にかかったら三、四時間ほどで亡くなります。それほど早いのです。これは恐ろしいものです。この情報は去年WHO(世界保健機関)が発表しています。私たちはすでにこの情報を見ています。しかしまた、私たちが感染しない為の情報もあります。どんな人が感染しないのでしょうか?精神状態の良い人、念仏する人、菜食の人、心の善良な人は感染しないそうです。私たちは信じることができるでしょうか?信じて良いでしょう。これは仏経に説かれている道理であり、邪は正には勝てません。

那個病毒是邪,是邪惡的,你心正,它不會侵犯你。現在醫學上免疫的能力,這個免疫能力是什麼?心地清淨、善良、素食、不殺生,不跟這些眾生結冤仇。它這病毒是來報仇的!現在念佛得真念佛、真學佛才行,搞假的不行,搞假的時候,這個病毒還會感染你。如果你真正是學佛的人,心地善良,像我們念佛的人念念就是阿彌陀佛,除了阿彌陀佛之外沒有第二個念頭,這樣的人,這個病毒不會干擾你。
ウィルスは邪であり、邪悪なものです。あなたが心を正せば、ウィルスは侵入することはできません。現代医学でいう免疫の力です。この免疫の力とは何でしょう?心の清浄(しょうじょう:清らかさ)、善良、菜食、不殺生です。それらの衆生(ウィルス)と恨みの縁を結ばないことです。そのウィルスは敵討ちに来たのです!今念仏する人は本当に念仏し、本当に仏法を学べば良いのです。偽物では駄目です。偽物であれば、ウィルスはあなたに感染します。もしあなたが本当に仏法を学ぶ人なら、心は善良で、私たちのようにいつも阿弥陀仏を念じて、阿弥陀仏の他に何の考えもありません。このような人は、ウィルスに侵されることはありません。

<注>
1.一切法従心想生・・・・一切の法(有形無形の存在)は心の想いより生じる。すべては心から生じる。

2.金剛不壊身(こんごうふえしん)・・・・「金剛不壊」とは非常に堅固で壊れないこと。「金剛不壊身」とは、それほど健康で丈夫な身体ということ。

第一回翻訳 2012-12-23
第一回訂正 2016-08-11
第二回訂正 2020-05-16
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どのように持戒すれば功徳があるのか

2020-03-29 | 【修行の方法】

持戒如何持得有功德? / どのように持戒すれば功徳があるのか
1998/4/26 新加坡佛教居士林(節錄自大乘無量壽經02-034-0008集)檔名:29-511-0331

  定能伏業,能夠伏住罪業;慧能夠破罪業。
定(じょう:禅定)は業を抑えることができます。罪業を抑えることができます。慧(え:智慧)は罪業を打ち破ることができます。

  由此可知,我們的修學,依戒生定,因定開慧,這就行了。所以持戒,諸位要知道,持戒如果不能得定,這個持戒是福,世間有漏的福報,不能轉業,不能夠滅罪;不但是滅罪,伏罪都伏不住,這個一定要懂得。戒要得定,戒就有功德了;戒不能得定,這個戒是福德,不是功德。所以持戒,有福德、有功德,他得定就有功德。功德能了生死、出三界,福德不能。為什麼有一類持戒的人,他不能成就功德?還是妄想、分別、執著。自己戒持得很嚴、很清淨,難得,大家都讚歎是好事情,可是他還是有煩惱。什麼煩惱?看到那個人破戒,那個人不持戒,他還有這些分別;這些分別,就把他持戒的功德破壞掉了,他怎麼能得定。
ここから分かることは、私たちの修学は、戒(かい:戒律)によって定(じょう:禅定)が生じ、定によって慧(え:智慧)が開くということです。これで良いのです。ですから持戒は――皆さん知っておいてください――持戒して定を得られなければ、その持戒は福です。世間の漏れのある福報です。業を転じることはできません。罪を滅することはできません。罪を滅するどころか、罪を抑えることさえできません。これは必ず理解しなければなりません。戒は定を得なければならず、(定を得られれば)戒には功徳があります。功徳は生死を終わらせ、三界(さんがい:欲界、色界、無色界)を出ることができます。福徳ではできません。なぜある種の持戒をする人が功徳を成就することが出来ないのでしょうか?まだ妄想、分別、執著があるからです。自分で持戒するのにとても厳しく清浄にしています。得難い事です。皆がそれを良い事だと称賛しています。しかしその人にはまだ煩悩があるのです。何の煩悩でしょうか?あの人は戒を破っている、この人は持戒していないなどと、そのような分別をしています。これらの分別は、その人の持戒の功徳を壊してしまいます。その人はどうして定を得ることができるでしょうか。
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あなたは「修行」ができますか?

2019-02-24 | 【修行の方法】


你會「修行」嗎? / あなたは「修行」ができますか?

修行はどこで修めるのでしょうか?経を読むことは修行でしょうか?違います。教えを聞くことは修行でしょうか?それも違います。毎日念仏して叩頭(こうとう:ひれ伏して頭を地面につけて行う礼)することは修行でしょうか?それも違います。

それでは何を修行と言うのでしょうか?「修」は修正すること。「行」は行為です。行為はとても多く、雑然としたものです。仏はそれを大きく三つに帰納されました。身(しん)口(く)意(い)。「身」とはあなたが行った行為です。「口」で言う言葉は行為です。「意」の起心動念(心の動き、念の動き)は行為です。もし身で行うこと、口で言うこと、心で思うことに、まだ私利私欲があり、まだ名聞利養(みょうもんりよう:名声や利得に対する執著)があり、まだ貪瞋痴慢(とんじんちまん:貪り、怒り、迷い、傲慢の心)があるなら、それは修行ではありません。私たちは経を聞き、経教を研究し、念仏するのに、不善の心を捨てなければなりません。これを修行と言います。眼で「色」を見、耳で「声」を聞いて念を動かし、好むものに貪心を動かし、好まないものには瞋恚(しんに:怒り)の心を動かすこと。それはすべて誤った行為なのです。

どのように修めるのでしょうか?一句の名号を用います。貪心が起こったら、南無阿弥陀仏。貪心を取り換えて無くします。この仏号を用いて、貪心を取り換えて無くしてしまいます。瞋恚の心が起こったら、阿弥陀仏を唱えて瞋恚の心と取り換えます。これを真の修行というのです。これが真に念ずることができるということです。あなたはこの仏号を念ずればとても役に立ちます。あなたの煩悩の習気(じっけ)、業障(ごっしょう)をすべて念じて無くすことができます。もし私たちが念仏し、経を聞き、教えを学ぶのに、私たちの煩悩や業障と関係が生じないなら、それはすべて無駄に念じているのです。それは修行ではありません。偽りであり、本物ではありません。あなたの誤った考え、誤った言論、誤った行為は、まったく修正されることはありません。このような修学の仕方では、一生修めても役には立ちません。最後にはまた六道輪廻を続けるのです。六道輪廻は面倒です!

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運命の加減乗除

2018-08-12 | 【修行の方法】


命運的加減乘除 / 運命の加減乗除
文摘恭錄—淨土大經解演義(第五四三集)2011/8/16 檔名:02-039-0543

我們沒有辦法,我們是業報,不來也得來,你造的這個業,你得受這個報,報完不走也得走。所以這個身叫業報身,壽命是有一定的。但是長短自己可以操縱,佛法講宿命,但是不是定論,你要是斷惡修善、積功累德,壽命會延長。我們看《了凡四訓》,了凡先生遇到那個算命的孔先生,那是非常高明,他確實把他的流年算得一點都不差。
私たちにはどうにもなりません。私たちは業報です。(報いは)否が応でも来るのです。あなたが作った業はあなたが受けなければなりません。報いが終われば否が応でも去っていきます。ですからこの身のことを業報身と言い、寿命には限りがあります。しかし(寿命の)長短は自分でコントロールできます。仏法は宿命を説きますが、定論ではありません。あなたが悪を断ち善を修め、功徳を積み重ねれば、寿命は延長できます。私たちは『了凡四訓』を見ますと、了凡先生は算命(さんめい:占いのこと)の孔先生と出会います。非常に優れた人で、確かに彼の人生を少しも違うことなく占いました。

十五歲,這個老人給他算命,二十年當中沒有一年是有一點點差錯。二十年,了凡先生三十五歲了,三十五歲這一年遇到雲谷禪師,跟雲谷禪師在禪房裡面坐了三天三夜,這是參禪,坐三天三夜,了凡先生沒有起一個妄念。雲谷禪師很佩服他,問他,你修的是什麼法門,功夫不錯,三天三夜沒有一個妄想,一般普通人做不到。了凡先生說實話,我沒有功夫,我只是因為命被孔先生算定,二十年來一絲毫差錯都沒有,他非常相信。所以他說我什麼都不想了,想了也沒用,命被人算定了。
十五歳(の時に)この老人は了凡先生を占って、二十年もの間、毎年少しの間違いもありませんでした。二十年経って了凡先生は三十五歳になりました。三十五歳の年に雲谷禅師と出会い、雲谷禅師と禅堂で三日三晩座りました。これは参禅です。三日三晩座り、了凡先生はまったく妄念を起こしませんでした。雲谷禅師は了凡先生に敬服して聞きました。「あなたはどの法門を修めたのでしょうか。素晴らしい技量です。三日三晩まったく妄念を起こさないなど、普通の人に出来ることではありません」。了凡先生は正直に話しました。「私は自分の運命を孔先生に占われて、二十年来寸分も違わないのです」。彼は(自分の運命を)信じていました。ですから彼は何も考えたくなくなりました。考えても役に立ちません。運命は人に算定されているのです。

每個人都是有一定的命運,但是現在算命的人困難,遇到好的高明人也算不出來。為什麼?你每天都有加減乘除,你動一個惡念,馬上降下,就減了,動一個善念,它就升了,每一天有升有降。小善就小升,加個一、二分,小惡減個一、二分,差不多,如果是大善,那就是乘,大惡就是除,所以加減乘除。現在人那個念頭起伏太大,大概善的比較少,惡的就特別多。所以現在人福報是很大,由於念頭不正,大幅度的虧折,譬如財富,命裡面可能有百億的財富,但是他不用正當手段,還是用欺騙別人,不正當手段去經營,他虧了。他這一生賺到六十個億,賺到八十個億,覺得很不錯了,其實六十個億虧了四十個億,八十個億也虧了二十個億,這一點都不錯。
どの人にも一定の運命があります。しかし今算命する人は困難です。素晴らしく優れた人に出会っても占えません。なぜでしょうか?あなたには毎日加減乗除があります。あなたが悪念を一つ動かせばすぐに下がります。減ってしまいます。善念を一つ動かせばすぐに上がります。毎日上がり下がりしています。小さな善は小さく上がり、一つ二つと加算されます(加)。小さな悪は一つ二つと引かれます(減)。もし大きな善であれば掛けられ(乗)、大きな悪であれば割られます(除)。ですから加減乗除です。現代人はその念の起伏が大き過ぎるのです。だいたい善念は少なく、悪念は非常に多いものです。ですから現代人の福報はとても大きいのですが、念が正しくないために大幅に損をしています。例えば富であれば、命(めい:運命)の中に百億の富があるとします。しかしその人は不正な手段を用いたり、或いは人を騙したり、不正な手段で経営すれば損をします。その人はこの一生で六十億、八十億を稼いで、大したものだと思います。その実六十億では四十億損をしています。八十億でも二十億損をしています。これは少しの誤りもありません。

你問了凡先生,他知道。所以雲谷禪師教他改造命運,斷一切惡,修一切善,每一天反省,檢點自己的過失,改過自新。他照做,立刻就改變了。人只要心一念,感應就現前。第二年參加考試,孔先生算他是第三名,他考取第一名,頭一次不準確了,以後完全改了。命裡沒有功名,就是說沒有舉人的命、沒有進士的命,他全都考取了,考中了,這命裡沒有的。命裡沒有兒子,命只有五十三歲,他活到七十四歲,多活了二十一年。他自己說他沒有求長壽,求功名他是發心求的,求考取舉人、考取進士,這個他有求,求兒子,他有求,沒有求長壽。所以你就曉得,造惡是減,修善是加分,你懂得這個道理,你修大善那就乘,不知道要加多少倍。
了凡先生に聞くと、彼は知っていました。ですから雲谷禅師は運命を変えることを教えました。一切の悪を断ち、一切の善を修め、毎日反省を行い、自分の過失を点検して、過ちを改めることです。人は心の一念だけで、感応はすぐに現前します。翌年試験に参加すると、孔先生の占いでは彼は三位でしたが、彼は一位になりました。初めて外れたのです。以後完全に改まりました。命の中に功名はありませんでした。つまり科挙に合格する命、進士に合格する命はなかったのですが、彼はすべて合格しました。これは命の中になかったものです。命の中には子どもはなく、寿命は五十三歳でした。彼は七十四歳まで生きました。二十一年多く生きました。彼自身は長寿は求めなかったと言いました。功名は求めました。科挙に合格して進士になることは求めました。子どもも求めました。長寿は求めていません。これで理解できるでしょう。悪を行えば減り、善を修めれば加算されるのです。あなたが大きな善を修めれば掛けられ、何倍になるか知れません。

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身の処し方の原則における古今の違いはどこにあるのか

2018-06-10 | 【修行の方法】


古今做人總原則差別在哪裡 / 身の処し方の原則における古今の違いはどこにあるのか

學佛的人知道,報應,善有善報,惡有惡報,人做不了主。真正學佛,就是希望在這一生當中自己能做主宰,這就沒有白來。改正我們的方向、道路,我們走更幸福的道路、更殊勝的道路,這就對了。
仏に学ぶ人は応報を知っています。善には善の報いがあり、悪には悪の報いがあります。人には制御できません。真に仏に学ぶこと、それはこの一生の中で自分を掌握することであり、そうなれば無駄にこの世に来たことにはなりません。私たちの方向、道を改めて、私たちがより幸せな道、より殊勝な道に進むこと。それで良いのです。

  這就要把老祖宗的東西找回來。老祖宗都講到了,只是現在人沒讀書,不知道,也沒聽老人講過。現在的老人是前一代的孩子,前一代孩子疏忽了,沒有認真讀聖賢書,這遭這個大難。
それにはご先祖様のものを取り戻さなければなりません。ご先祖様はすべてを説き明かしています。ただ今の人は書物を読みません。知らないのです。年寄りの話を聞いたこともありません。今の老人は一世代前の子どもです。一世代前の子どもは疎かにしました。真面目に聖賢の書物を読みませんでした。それでこの大難に遭っているのです。

可是總原則要能掌握到,古人做人,先想別人,後想自己,這個好。現在人是先想自己,不想別人,別人死活跟我沒關係。他不知道,別人死活跟我有大關係,這是真的,不是假的。
しかし大原則は掌握しなければなりません。古人の身の処し方は、先に人のことを考えて、後から自分のことを考えました。これは素晴らしいことです。今の人は、先に自分のことを考えて、人のことは考えません。人の生き死には自分とは関係ないと思っています。その人は知りません。人の生き死には自分と大いに関係があります。これは真実です。嘘ではありません。

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一生はすべて仏のはからい

2018-01-21 | 【修行の方法】


一生統統是佛安排的 / 一生はすべて仏のはからい
文摘恭錄—二零一二淨土大經科註(第三七五集)2013/7/25 檔名:02-040-0375

妙覺如來回歸常寂光,常寂光裡頭一法不立,但是眾生有感,他就有應。他那個應就是無作而作,自然的,他沒有起心動念,但是一切眾生起心動念、言語造作他全知道,沒有一樣不知道的。眾生極其微細的念頭,自己不知道,佛知道,他知道應該來幫助你,他就來現形。應以什麼身,不是佛自己想像的,是眾生心裡希望的。佛菩薩來幫助,佛菩薩就現身,希望佛就現佛身,希望菩薩就現菩薩身,像觀世音菩薩三十二應。
妙覚如来は常寂光(じょうじゃっこう:下記参照)に回帰しています。常寂光の中には一つの法もありません。しかし衆生が感ずれば(働きかければ)、彼は応じます。彼が応じるのは正に行わずして行うのであり、自然です。彼には心の起こりや念の動き(起心動念)はありません。しかし一切衆生の心の起こりや念の動き、言葉や動作をすべて知っています。何一つ知らないことはありません。衆生は極微細な念を自分で分かりませんが、仏は知っています。あなたを助けるべきだと彼が知れば、彼は姿を現します。どのような姿かは、仏自身が想像するのではなく、衆生が心の中で望むものです。仏菩薩(ほとけぼさつ)が助けるなら、仏菩薩が身を現します。仏を望むなら仏身を現し、菩薩を望むなら菩薩身を現します。ちょうど観世音菩薩三十二応のようにです。

所以現身說法不是佛那邊的事情,是我們眾生這邊,我們動什麼念頭,他有什麼樣的反應。就像江本博士的水實驗,我們起心動念頭,水自然現出結晶來給我們看,我們念頭善,非常之美;我們念頭不善,那圖案現出來很難看。自性,就是常寂光,跟一切眾生感應,就跟這個樣子相似,跟水實驗相似,感應道交不可思議。
ですから身を現して説法するのは仏側の事ではなく、私たち衆生側の事であり、私たちがどのような念を動かしたかによって、彼はそのような反応をします。ちょうど江本博士の水の実験のように、私たちが念を動かせば、水は自然に結晶を現して私たちに見せてくれます。私たちの念が善であれば美しくなり、念が不善であれば醜い結晶が現れます。自性【注】とは正に常寂光であり、一切衆生と感応します。この様子はよく似ています。水の実験と似ています。感応道交は不可思議なものです。
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【注】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ:宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)。本来具えている性質。
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所以我們對佛要有決定的信心,佛在幫助我們,我們的一生統統是佛安排的。無論什麼境界,順境逆境、善緣惡緣,我們講境是環境,外面的環境有順境、有逆境,小環境是我們居住這個地區,大環境是我們住的這個地球;緣是人事環境,我們面對這一切人,人有善人、有惡人。佛用一個境、一個緣就統統包括了,境是物質環境,緣是人事環境。在境緣當中自己能做得了主,不為環境所干擾,這個很重要。
ですから私たちは仏に対して絶対の信心がなければなりません。仏は私たちを助けています。私たちの一生はすべて仏のはからいなのです。どのような境界(きょうがい:境地)であろうと、順境、逆境、善縁、悪縁、私たちの言う「境」とは環境のことですが、外の環境には順境があり、逆境があります。小さな環境では私たちが住んでいる地区であり、大きな環境では私たちが住んでいるこの地球です。「縁」とは人間関係の環境です。私たちが接する一切の人です。人には善人がいて、悪人がいます。仏は一つの境、一つの縁を用い、すべて包括しています。境とは物質的な環境であり、縁とは人間関係の環境です。境と縁の中で自分は自分を制御して、環境に惑わされないこと。これはとても重要です。

自己要能做主,不要被環境轉了,我們要轉環境。要相信佛的一句話說「境隨心轉」,心做得了主,整個環境,人事環境、物質環境都跟著你轉了。自己做不了主,在環境裡頭起貪瞋痴慢,生起七情五欲,那你就被環境轉了。學佛的人,真正學佛,功夫就在這個地方看,在境緣裡頭你有智慧做主,不是感情用事。初學的人轉不了環境,受不了環境的壓迫、環境的誘惑,你就用念佛這個方法,心裡念念是阿彌陀佛,裡外清清楚楚,我佛號不間斷。我實在沒辦法了,求佛力加持,環境自然會轉變。
自分で自分を制御しなければなりません。環境に左右されてはなりません。私たちが環境を転じるのです。仏の言葉「境隋心転」(環境は心に随って転じる)を信じなければなりません。心を制御できれば、すべての環境、人間関係の環境、物質的な環境はすべてあなたに従って転じます。自分を制御できなければ、環境の中で貪瞋痴慢(貪り、怒り、無知、傲慢)の心が起こり、七情五欲が起こります。それではあなたは環境に左右されているのです。仏に学ぶ人、本当に仏に学ぶ人の実力はここを見ます。境と縁の中で智慧を用います。感情を用いるのではありません。初心の人は環境を転じることはできません。環境の圧迫、環境の誘惑に耐えられません。あなたは念仏の方法を用い、心の中をすべて阿弥陀仏にして、内と外とを明瞭にして、仏号を中断しないことです。自分で本当にどうにもならなくなったら、仏力(ぶつりき:仏の持つ計り知れない力)の加持を求めれば、環境は自然に変わっていきます。

<仏法の世界観>
【浄土】(じょうど)
常寂光土(=寂光浄土)    生滅の無い世界  
真理そのものの根源的な境界
    ↑ ↑    
十法界(四聖法界+六道輪廻) 生滅のある世界
【四聖法界】(悟界)仏界、菩薩界、縁覚界、声聞界
    ↑ ↑
【穢土】(えど)
【六道輪廻】(迷界)天界、人界、修羅界、畜生界、地獄界

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清浄心は無我から着手する

2018-01-21 | 【修行の方法】


清淨心要從無我下手 / 清浄心(しょうじょうしん)は無我から着手する
文摘恭錄—二零一二淨土大經科註(第三七五集)2013/7/25 檔名:02-040-0375

修行,肯定先得清淨心,染污沒有了。清淨心要從無我下手。怎麼無我?我念念都想眾生,不要去想我,我就淡化了。念念想正法久住,念念想幫助眾生離苦得樂,從來沒有想過我。把我變成一切眾生,把我變成諸佛如來的正法,不是一尊佛,十方三世一切佛。慢慢,自自然然,我們的心識融入自性。要把心識化解,融入自性。融入自性之後知道,遍法界虛空界跟自己是一體,這是真的,不是假的。你入這個境界,這就成佛。佛以法為身,叫法身。法身就是你承認遍法界虛空界是我自己,這就叫證得法身。所以講倫理,倫理是講關係,中國人講人與人的關係五大類:父子、夫婦、君臣、長幼、朋友,這人事關係。
修行はまず清浄心(しょうじょうしん:清らかな心)を得なければなりません。染汚(ぜんま:穢れ、煩悩)をなくします。清浄心は無我から着手します。どのようにして無我になるのでしょうか?思いのすべてが衆生を思い、自分を考えなければ、「我」は薄らいでいきます。正法がこの世に永く留まること(正法久住)を思い、衆生の離苦得楽(苦しみを離れ安らぎを得ること)を助けることを思い、自分のことを考えません。自分は一切衆生(いっさいじゅじょう:生きとし生けるもの)に変わり、自分は諸仏如来の正法に変わります。一つの仏ではなく、十方三世一切の仏です。少しずつ、極自然に、私たちの心識は自性【注】に融け込みます。心識を消し去り、自性に融け込みます。自性に融け込んだ後で、遍法界虚空界(全宇宙)は自分と一体であることが分かります。これは本当です。嘘ではありません。あなたがこの境界(きょうがい:境地)に入れば、これこそが成仏(仏に成ること)です。仏は法をもって身となします。これを法身と言います。法身とは正に遍法界虚空界は自分自身であると承認したことであり、これを証得法身と言います。ですから倫理を重んじます。倫理は関係を重んじます。中国人は人と人との関係五種類を重んじます。父子、夫婦、君臣、長幼、朋友、これは人間関係です。
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【注】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ:宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)。本来具えている性質。
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佛法講,講絕了,佛法講一體。這些人,我們可以把他講成五倫一家人,達到極處,六道裡頭的人道,人道是一家人,這個範圍擴大了,人道一家人。可是佛更大,佛說遍法界虛空界一切法是自體,跟我是一體。比一家人還親切,一家人不是一體,佛講是一體。為什麼是一體?是一個自性變的。自性是一個,遍法界虛空界一切諸佛剎土、一切眾生,一體。確實的,一體,哪有不愛的道理?一體,哪有不全心全力協助的道理?全心全力去照顧、去關懷,那是什麼人?法身菩薩,因為他知道一切法是自己,照顧得無微不至。在這個境界裡才真正了解,世出世間一切法,沒有比佛法更好的,沒有比佛法更殊勝的,作佛真正是第一等人。方老師告訴我:「學佛是人生最高的享受。」我得到了,我從這六十二年當中得到的,真的是人生最高的享受,真正是叫人法喜充滿。
仏法では説き尽くされています。仏法は一体であると説いています。私たちはこれら五倫の人々を家族と見なすことができます。極限に達すれば六道の中の人道は家族です。範囲を拡大すれば人道は家族です。しかし仏は更に大きく、遍法界虚空界は自体であり、自分と一体であると説かれています。家族よりも更に親しいのです。家族は一体ではありません。仏は一体であると説かれています。なぜ一体なのでしょうか?自性が変化したものだからです。自性は一つです。遍法界虚空界、一切諸仏刹土、一切衆生は一体です。確かに一体なのであれば、愛さないという道理があるでしょうか?一体なのです。全力で助けないという道理があるでしょうか?全力で助け、関心を寄せるのです。それは誰でしょうか?法身菩薩です。彼はすべては自分であると知っているので、至れり尽くせりの配慮をします。この境界(きょうがい:境地)において世出世間(せしゅっせけん:俗世間とそこから離れた悟りの境界)一切の法で仏法より優れた法はなく、仏法より殊勝なものはないことを真に理解します。仏に成るのは真に第一等の人です。方老師は私に「仏に学ぶことは人生最高の享受である」と仰いました。私はそれを得ました。私は六十二年の中で得たのです。本当に人生最高の享受です。本当に人を法喜充満(ほうきじゅうまん:法の喜びに満ち溢れること)にさせます。

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心が真に清浄であれば、環境の変化に影響を受けない

2017-05-06 | 【修行の方法】


心真的清淨,不會受環境改變的影響 / 心が真に清浄(しょうじょう)であれば、環境の変化に影響を受けない
文摘恭錄—淨土大經解演義(第四八三集)2011/7/7 檔名:02-039-0483

心淨則佛土淨,我們修行,心不能不淨,功夫要在日常生活當中去練,不能躲避。有人說我心不清淨,我看到了會動心,聽到了會動心,我找個山洞裡面去躲起來。行不行?有,古時候就有。你看看《竹窗隨筆》,蓮池大師,裡頭還記了一個例子。有一個老法師住在山上,山上住茅蓬,修得很不錯,自己以為萬緣放下了,在山上住了幾十年。城裡面有些學佛的大富長者,聽到有這麼一個人在山上幾十年不下山,去朝山,去親近老和尚。真有道行,佩服得五體投地,禮請老和尚下山去弘法,請他到都市裡去。住了沒多久,一、二年,道行沒有了,完全被染污,可惜了。山上覺得不錯,可是禁不起考試,以為很清淨了,一到都市花花世界馬上就亂了,貪瞋痴慢都起來了。這個老和尚去看蓮池大師,蓮池大師就講這個故事,說有一個人,他還問這個人是誰?蓮池大師說就是老兄!他自己還不知道。這個事情講真功夫,他沒有真放下,他是遠離,心裡沒放下。
心浄(きよ)ければ則ち仏土浄(きよ)し」(心淨則佛土淨)。私たちの修行は、心を浄(きよ)くしなければなりません。技量は日常生活の中で練らなければならず、(それを)避けてはなりません。ある人は自分の心が清浄(しょうじょう:清らかであること)ではないと言い、ものを見れば心が動き、ものを聞けば心が動くので、山の洞窟の中で避けようとします。それで良いのでしょうか?(このことは)昔からありました。『竹窓随筆』を見ると、蓮池大師【注】がその中に一つの例を記されています。ある老法師は山上に住んでいました。山上でかやぶきの小屋に住み、よく修めていて、自分でも万縁を放下したと思っていました。山上に数十年住んでいました。町には仏法を学ぶ長者がいて、山上に住んで何十年も下山しない人がいると聞くと、山に出向いて老和尚と親交を結びました。真の道行があり、五体投地するほど敬服しました。そこで老和尚に下山して説法してほしいと頼み、町に来て頂きました。町に住んでしばらく経つと、一、二年すると、道行は無くなりました。完全に染汚(ぜんま:穢れること)されてしまいました。残念なことです。山上では良いと思っていましたが、試練に耐えられませんでした。清浄(しょうじょう)になったと思っていましたが、ひとたび都市の俗世間に来ると乱れてしまいました。貪瞋痴慢(とんじんちまん、貪り・怒り・無知・傲慢)が全部起こりました。この老和尚は蓮池大師と面会しました。すると蓮池大師はこの話をしました。このような人がいると。老和尚が「その人は誰ですか?」と聞くと、蓮池大師は「あなたですよ」と言いました。老和尚は自分で分かっていなかったのです。この事は真の技量について説かれたものです。彼は真に放下していませんでした。彼は離れていましたが、心の中で放下していませんでした。
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【注】 蓮池大師(れんちだいし)・・・・蓮池祩宏(1535-1615)、中国浄土宗の第八代祖師。
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心裡真放下,離不離無所謂,你要離它幹什麼?它是假象,凡所有相皆是虛妄。你能把這個花花世界看成電影,看成電視屏幕,你可以欣賞它,你得不到它,你不能控制它,它的所有活動是業力在控制。所以你不失清淨心。問題是你沒有真看破,住山沒用,閉關沒用。真正看破放下了,閉關住山有用,不住山、不閉關也有用。釋迦牟尼佛一生沒有閉過關,惠能大師一生也沒有閉過關。惠能大師大徹大悟之後,在獵人隊裡頭當伙夫,天天在廚房裡面做廚房工作,去服侍這些打獵的人。打獵的人天天吃肉,你看他跟大家說得很清楚,他吃肉邊菜,他拿青菜放在肉鍋裡頭煮,他吃肉邊菜。十五年!能大師在獵人隊裡面變成長工,他在那裡做了十五年,做廚房,那是什麼?修行。
心の中で真に放下していれば、離れているかどうかは関係ありません。離れてどうするのでしょうか?それは偽りの現象です。「凡(およ)そ相(そう:姿・形)有る所,皆(みな)是(これ)虚妄(きょもう)なり」(凡所有相皆是虚妄:すべて姿形あるものには実体がない)。あなたはこの俗世間を映画と見なすことができます。テレビの映像スクリーンと見なすことができます。あなたはそれを鑑賞することはできますが、得ることはできません。制御することはできません。あらゆる活動は業力(ごうりき:果報を生じる業因の力)が制御しています。ですからあなたは清浄心(しょうじょうしん:清らかな心)を失いません。問題はあなたが真に看破していないことであり、山に籠っても、門を閉ざしても役には立ちません。真に看破し、放下していれば、山に籠ることは役に立ちます。山に籠らなくても、門を閉ざさなくても役に立ちます。釈迦牟尼仏は一生涯門を閉ざして籠ったことはありません。慧能大師も籠ったことはありません。慧能大師は大徹大悟した後、猟師たちの中で炊事夫をしていました。毎日厨房の中で仕事をして、猟師たちの面倒を見ていました。猟師たちは毎日肉を食べます。彼は皆にはっきりと言います。彼は肉の隣りの野菜(肉辺の菜)を食べました。彼は肉の鍋に青菜を入れて煮て、野菜を食べていました。十五年です!慧能大師は猟師の中で常雇いとなって、そこで十五年やっていました。厨房の仕事をしました。それは何でしょうか?修行です。

他修行功夫一天沒間斷,修什麼?看破放下,放下看破,他修這個。十五年的鍛鍊,功德圓滿,這個時候出來,弘法利生,緣也成熟了。緣不成熟有磨難,緣成熟了磨難就沒有了。這些道理,佛祖給我們做的這些例子,表演給我們看,我們要看懂,要能體會得到,要能學到,我們這一生才能成就。如果看不懂,不能體會,我們的修行就非常困難。所以你看智慧發光,你看它前面是歡喜,見道了,見道了歡喜,往後就是修道。修道頭一個就是離垢,離垢就是放下,放下智慧就開了,就發光,這光愈來愈大。
彼は修行を一日も中断していません。何を修めたのでしょうか?看破、放下。放下、看破。彼はこれを修めたのです。十五年の鍛錬で功徳は円満になりました。この時に(世に)出ます。弘法利生(こうぼうりしょう:仏法を世間に広め衆生(しゅじょう:生きとし生けるもの)に利益(りやく)を与えること)の縁が熟したのです。縁が熟さなければ難儀をします。縁が熟せば難儀はなくなります。これらの道理、仏祖が私たちに演じて見せてくれた事例を理解しなければなりません。私たちは理解しなければなりません。理解して、学び取ることができてこそ、私たちはこの一生で成就することができるのです。もし見ても理解できないのであれば、私たちの修行は非常に困難です。智慧は光を放ちます。その前には歓喜があります。見道(けんどう)すれば歓喜します。その後は修道です。修道の最初は離垢(りく:穢れを離れること)です。離垢とは放下のことです。放下すれば智慧が開き、発光します。この光はますます大きくなります。

<参考>
中国浄土宗歴代祖師
初祖 慧遠(334-416)
二祖 善導(613-681)
三祖 承遠(712-802)
四祖 法照(?-?)
五祖 少康(?-805)
六祖 延壽(904-975)
七祖 省常(959-1020)
八祖 蓮池祩宏(1535-1615)
九祖 蕅益智旭(1599-1655)
十祖 行策(1628-1682)
十一祖 実賢(1686-1734)
十二祖 際醒(1741-1810)
十三祖 印光(1862-1940)

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縁に従う中で縁にすがらないこと。これを妙用と言う

2016-02-28 | 【修行の方法】


隨緣當中不攀緣,這叫妙用 / 縁に従う(隨縁)中で縁にすがらない(攀縁)こと。これを妙用と言う
節錄自淨土大經科註 (第五0六集) 2012/9/10

真誠心就得到感應,我們用真誠心去感,自然就有應。學佛、學聖賢從哪裡學起?就從真誠­學起,你的真誠心現出來,你就是聖賢。剛剛現出來,小聖、小賢,從這個地方慢慢擴充,­擴充需要多少時間不一定,因人而異,因心而異,全在自己。外面境界實在講是沒有干涉的­,干涉從哪裡來?干涉是自己去攀緣。
真誠心(しんせいしん:まことの心)は感応が得られます。私たちは真誠心を用いて「感」(働きかけること)ずれば、自然に「応」ぜられます。仏に学び、聖賢に学ぶにはどこから学べば良いのでしょうか?真誠から学びます。あなたの真誠心が現れれば、あなたは聖賢です。現れたばかりであれば小聖、小賢です。ここから少しずつ広げます。広げるのに必要な時間は一定ではありません。人によって異なり、心によって異なり、すべて自分にかかっています。外の境界(きょうがい)は実のところ干渉していません。干渉はどこから来るのでしょうか?干渉は自分で攀縁【注1】しているのです。
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 【注】 攀縁(はんえん)・・・・俗事にひかれること。「攀」には「すがる」、「たよる」、「たのむ」などの意。
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外面的境緣我們不攀它,它對我們一點妨礙都沒有,我們攀緣問題就來了,就受到障礙,不­攀緣,是決定不受障礙的,這個道理一定要懂。然後我們才真正肯定,不再懷疑,一切法從­心想生,自己的心想。自己心裡頭有真誠,你就入了大聖大賢、諸佛菩薩的境界,心裡面還­有貪瞋痴慢、還有七情五欲,這是六道的境界。
外の境縁に攀縁することがなければ、それは私たちに対して少しも差し支えになりません。私たちが攀縁すれば問題がやって来て、障碍を受けます。攀縁しなければ、絶対に障碍を受けることはありません。この道理を必ず理解しなければなりません。そうして私たちは本当に肯定します。もう疑うことはありません。「すべては心の思いから生じる」のです。自分の心の思いです。自分の心の中に真誠があれば、あなたは大聖大賢、諸仏菩薩の境界(きょうがい:きょうち)に入ります。心の中に貪瞋痴慢(貪り、怒り、愚痴、真理に対する懐疑)、七情、五欲があれば、それは六道の境界です。

情執愈重,《楞嚴經》上所說的,就往下面墜落。只有想沒有情,想幫你提升,情幫助你下­墜,你要想提升,還是想墮落,都在自己,與什麼都不相干。外面財色名食睡的誘惑,為什­麼有人不受影響,有人受嚴重傷害?這就是你攀不攀緣的事情。你要攀緣它,你得受傷害;­你不攀緣它,沒事,理事無礙,事事無礙。什麼叫攀緣?起心動念是攀緣,輕;分別是攀緣­;執著,希望擁有它,希望佔有它,希望控制它,這是嚴重的攀緣。嚴重的攀緣就是造三途­罪業,多半都是在地獄。
情執が重ければ重いほど、『楞厳経』に説かれているように、下に堕ちていきます。思い(想)だけで情がなければ、思い(想)はあなたを高める助けとなります。情はあなたを落とす助けとなります。あなたは向上したいでしょうか。それとも堕落したいでしょうか。すべて自分にかかっています。何とも関係はありません。外の財・色・名・食・睡の誘惑に、なぜある人は影響を受けず、ある人は重大な傷を受けるのでしょうか?これこそが攀縁するかどうかの事なのです。それらに攀縁すれば、あなたは傷つきます。攀縁しなければ、何でもありません。理事無碍、事事無碍です。攀縁とは何でしょうか?心を起こし念を動かすことが攀縁です。これは軽いものです。分別することが攀縁です。執著して、それを持ちたい、占有したい、思う通りにしたい。これは深刻な攀縁です。深刻な攀縁は三途(さんず)の罪業を作り、半数以上は地獄に行きます。

佛教我們隨緣,不但隨緣還得妙用,妙用就是什麼?隨緣當中不攀緣,這叫妙用。隨緣跟不­攀緣是同時的,沒有先後,這個妙!隨緣是恆順眾生,不攀緣是什麼?雖然隨緣,不起心不­動念、不分別不執著,事情做得圓圓滿滿,心裡頭如如不動。不動心是真心,真心生智慧。­心動搖了,起心動念動搖了,分別執著動搖了,這一動搖就造業,善業三善道的果報,惡業­三惡道的果報。學佛必須把這些事理搞清楚、搞明白,這真學佛,真正得受用,過佛菩薩的­生活。
仏は私たちに隨縁【注2】を教えています。隨縁というだけでなく、妙用でなければなりません。妙用とは何でしょうか?縁に従う(隨縁)中で縁にすがらない(攀縁)こと。これを妙用と言います。隨縁と攀縁しないことは同時です。後先はありません。これは妙です!隨縁は衆生に従うことです。攀縁しないとはどういうことでしょうか?隨縁しても心を起こさず、念を動かさず、分別せず、執著せず、物事を円満に行いながら心の中は動かしません。不動心は真心です。真心は智慧を生みます。心を動揺させて、起心動念が動揺し、分別・執著して動揺すれば、動揺した途端に業を作ります。善業には三善道の果報、悪業には三悪道の果報があります。仏に学ぶには必ずこれらの事を理解し、明らかにしなけれなりません。それが仏に学ぶということです。本当にご利益を得ます。仏菩薩の生活を送るのです。
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 【注2】 隨縁(ずいえん)・・・・縁に従うこと。
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隨縁(ずいえん)とは何か

2016-02-21 | 【修行の方法】


什麼是隨緣 / 隨縁(ずいえん)とは何か
文摘恭錄—大方廣佛華嚴經(第二一一一卷)2010/2/18 檔名:12-17-2111

生在我們這個時代這種眾生,對佛法生起信心,是非常非常艱難!學佛的人很多,真信的人­不多。真信,人家真有成就;懷疑,就不會有成就。沒有成就,會造成負面影響,那你就是­造罪業,你在造罪業。你是佛門大護法,人家看到你真正修行人,到最後的時候,你走得不­好,讓人家看到,這佛教是迷信,是假的,不是真的,你看,他學佛這一生,最後這個樣子­。你就曉得,你有多重的罪過!你破壞佛教形象,你讓多少人看到你這個樣子退心,這個因­果你要不要背?沒辦法,背不起還是要背。你要是把方方面面都看到了,然後你就會知道,­學佛不是容易事。《還源觀》上講的「四淨」,你才會真正重視它,隨緣妙用。
この時代に生まれた衆生は、仏法に対する信心を起こすことは非常に難かしいのです!仏に学ぶ人は多くいますが、本当に信じている人は多くはありません。本当に信じていれば、その人は本当に成就します。疑いがあれば、成就することはありません。成就しなければ悪い影響をもたらします。それではあなたは罪業を作ります。あなたは罪業を作っているのです。あなたが仏門を保護する人で、人々はあなたを真の修行者だと見なしています。最期の時になってあなたがこの世を去る様子が悪ければ、人々はそれを見て仏教は迷信だ、偽りだ、真実ではないと思います。一生涯仏法を学んで、最期はそのような様子なのです。どれほど重たい罪過でしょうか!その人は仏教に対するイメージを壊し、大勢の人がその様子を見て退心させられるのです。この因果をあなたは負えるのでしょうか?どうにもなりません。負えなくても負わなければなりません。いろいろ見えてくると、あなたはよく分かります。仏法を学ぶことは容易なことではありません。あなたは『還源観』に説かれている「四浄徳」【注】を本当に重視するようになります。隨縁妙用です。
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 【注】 『妄尽還源観』 四浄徳 (四つの性徳)
  隨縁妙用・・・・縁に従うことで生じる不思議な作用のこと。
  威儀有則・・・・戒を堅く守り、衆生に模範を示すこと。
  質直柔和・・・・衆生に対して真心で接し、親切にすること。
  代衆生苦・・・・衆生に代わって苦しみを引き受けること。
 【参考】 「人類の知らない宇宙・人生の真相09/10」 *「四徳」の解説あり
  http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/d8deb0d3451940078e35813752d241c3
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  什麼是「隨緣」?我們今天很具體的給諸位說出來,我們能夠把《弟子規》百分之百的做到­,那叫隨緣;把《感應篇》落實,是隨緣;把「十善業」做好,是隨緣,這隨緣。「妙用」­是什麼?妙用就是,心裡面痕跡都不著,只有一句阿彌陀佛,那叫妙用。大乘經教裡面給我­們講妙用,是講三輪體空,三輪體空做不到,決定不是我們的境界;我們的境界,只要做到­心裡只有阿彌陀佛,那就叫妙用。為什麼?你肯定往生,你能跟世間人做個最好的榜樣,幫­助世間人能夠長學佛的信心,長念佛的信心,長往生的信心,你這個功多大!這是­真正的清淨。一句「南無阿彌陀佛」,帶給你清涼自在,宿世今生的業障統統消除。
隨縁」(ずいえん)とは何でしょうか?今日は具体的に皆さんにお話ししましょう。私たちが『弟子規』を百パーセント実行できれば、それを隨縁と言います。『太上感応篇』を実行できれば隨縁です。「十善業」を実行できれば隨縁です。これは隨縁です。「妙用」とはなんでしょうか?妙用とは、心の中に痕跡も残さず、ただ一句の阿弥陀仏だけであること、それが妙用です。大乗の経教(きょうぎょう)の中には妙用が説かれています。三輪体空です。三輪体空は出来ません。絶対に私たちの境界(きょうがい:境地)ではありません。私たちの境界では、ただ心の中に阿弥陀仏があるだけ、それなら妙用と言えます。なぜでしょうか?あなたは間違いなく往生します。あなたは世間の人の最も良いお手本になることができ、世間の人が仏法への信心を深める助けとなります。念仏の信心を深めます。往生の信心を深めます。この功徳はどれほど大きいことでしょうか!これは真の清浄です。一句の「南無阿弥陀仏」は、あなたに清らかさと自在をもたらし、宿世(すくせ:前世)今生の業障(ごっしょう:過去の悪業によって生じた障害)をすべて消し去ります。

  要相信,釋迦佛告訴我們,真誠心念這一句阿彌陀佛,能消八十(億)劫生死重罪。頭一個­,我們相信,佛不打妄語。那我們念的,天天念阿彌陀佛,我們的業障為什麼消不了?說明­什麼?無始劫到今天的時候,業障太重了,一念消八十億劫,念念都消不了,念了幾十年都­消不了,你這業障多重!業障重,生不生畏懼之心?畏懼的心生起來了,畏懼什麼?墮三途­。
信じなければなりません。釈迦牟尼仏は説かれています。真誠心(しんせいしん:まことの心)で阿弥陀仏を念じれば、八十億劫の生死の重罪を消すことができます。まず第一に、私たちは信じなければなりません。仏は妄語は言いません。では私たちは毎日阿弥陀仏を念じているのに、なぜ業障が消えないのでしょうか?それはどういうことなのでしょうか?無始劫(果てしなく遠い過去)から今日に至るまでの、業障が重すぎるのです。一念で八十億劫消すとしても、念じても念じても消えません。数十年念じても消えません。あなたの業はどれほど重いことでしょうか!業障が重ければ、恐れの心が生じることがあるでしょうか?もし(臨終の際に)恐れの心が生じるとどうなるでしょうか?三途(さんず:餓鬼道、畜生道、地獄道)に堕ちるのです。

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布施は福を修めること、忍辱は徳を積むこと

2016-02-14 | 【修行の方法】


布施是修福,忍辱是積! / 布施は福を修めること、忍辱は徳を積むこと
文摘恭錄—二零一二淨土大經科註(第三十五集)2012/11/26 檔名:02-040-0035

中國古人有所謂,「子不教,人心壞了;家不齊,社會亂了」。今天就是這個樣子,小孩沒人教。家呢?家沒有了。但是今天我們解釋中國的家,可以用社團,它是個社會團體。從前的家庭是大家庭,家裡人口少的,也差不多有三百人,普通家庭四、五百人,人丁興旺有七、八百人。
中国の古人の言うところの、「子に教えなければ、人心は壊れる。家を整えなければ、社会は乱れる」です。今は正にこのようです。子どもに教える人がいません。家はどうでしょうか?家はなくなりました。今日私たちが中国の家を解釈するなら、社会団体です。それは社会団体でした。昔の家庭は大家族でした。家の人口は少なくとも三百人はいました。普通の家庭は四、五百人です。人口が増えると七、八百人です。

我們在歷史上還看到有一家有一千多人,好像是明朝,明太祖那個時代。什麼人我記不得,明太祖送他們家一個匾額,「天下第一家」,超過一千人,這麼大的家庭。皇帝佩服,問他,你這個家你怎麼治的?治得能夠一家和和睦睦的,怎麼治好的?這老先生給他寫了一張字,一百個忍字,人人都學會忍,就和睦相處了,寫了一百個忍。很有道理!那都是家親骨肉,一定要忍。
歴史上には一千人以上の家庭も見られます。おそらく明朝、明の太祖の時代です。誰かは覚えていませんが、明の太祖は彼らの家に「天下第一家」という額を送りました。一千人を超える、それほど大きな家庭です。皇帝は敬服して、その人に「あなたはどのように家を治めているのか?」と尋ねました。一家を仲睦まじく治めるには、どう治めたら良いのでしょうか?そのお年寄りは字を書きました。百個の「忍」の字です。誰もが「忍」を身につけていれば、仲睦まじくなります。忍の字を百個書いたのです。とても道理があります!それは血のつながった肉親です。必ず忍ばなければなりません。

忍辱波羅蜜,佛法重視這個忍。六度裡頭,布施跟忍辱這兩個是關鍵,布施是修福,忍辱是積,你光修福不能忍都漏掉了。所以忍能成就,成就後面精進、禪定、般若,都要靠這個忍字。世出世間法,有多大的成就?也看這個忍,你忍的功夫有多少,你有多大的成就,所以小不忍則亂大謀。
忍辱波羅密、仏法ではこの「忍」を重視します。六度の中では、布施と忍辱の二つが鍵です。布施は福を修めることであり、忍辱は徳を積むことです。あなたは福を修めるだけで、耐え忍べなければ、すべて漏れてしまいます。ですから「忍」は成就させます。あとの精進・禅定・般若を成就させるのは、すべてこの「忍」の字が頼りです。世間・出世間の法において、どれほど大きく成就するのか。それもこの「忍」によります。どれほど耐え忍べるかによって、あなたがどれほど成就するかが決まります。ですから、「小(しょう)忍ばざれば、則ち大謀を乱る」(小不忍、則乱大謀)【注1】ということです。
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 【注1】 小不忍、則乱大謀・・・・『論語』衛霊公の一節。
  小不忍、則乱大謀。
  小(しょう)忍ばざれば、則ち大謀を乱る。
  小さなことを我慢できなければ、大きな仕事の妨げになる。
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中國古人對這個字非常重視,平常在日常生活當中就要練。做事、待人接物,樣樣清楚、樣樣明白,這是智慧,你不糊塗。看到一些小小過失,不放在心上,這是忍。不是很重要的過失,不批評。管教,父母管教兒女,小孩犯過失,告訴他母親、告訴他父親,讓他父母在適當的時候教他,這就對了。
中国の古人はこの字を非常に重視しました。普段の日常生活の中で訓練しなければなりません。事を処理すること、人と接すること、すべてが明らかで、すべてが明瞭であること。これが智慧です。愚かではありません。小さな過失を見ても、心には留めません。これが「忍」です。重大な過失を咎めないということではありません。しつけは、父母が子どもをしつけます。子どもが間違った事をしたのを見たら、母親に言います。父親に言います。適切な時に父母に教えさせます。これで良いのです。

古時候教人的,能說過失的三個人,父母、老師。你的祖父母都不會說你過失,你有過失他看到笑笑,不是重大的過失,無關重要的話,根本就不理;要是很大的過失的話,會告訴你父母,告訴你老師。
昔、人を教える人、(子どもに)過失を指摘できるのは、父母と先生の三人です。祖父母は(孫の)過失を指摘しません。間違った事をしても笑っています。重大な間違いではありません。重要でない事には、根本的に関知しません。もし大きな過失であれば、それを父母、先生に言います。

而在老師、父母,也要觀機,在適當的機會裡頭說他,他能接受,他能懺悔改過。人要善教,那個教是要有善巧方便才能把人教出來,真正有成效,而且他還很歡喜,他很願意接受。所以做老師沒有很高忍辱波羅蜜,那教不好學生的,有智慧、有善巧、有方便才能把學生教好。
先生、父母は、タイミングを見定めなければなりません。適切なタイミングで子どもに言うと、子どもは受け入れます。子どもは反省して悔い改めます。人には善なる教えが必要です。教えは善巧方便(ぜんぎょうほうべん)【注2】であってこそ、人を教えることができます。本当に効果があり、しかも子どもが喜んで、進んで受け入れようとします。ですから先生は高い忍辱波羅密がなければ、学生を教えることはできません。智慧があり、善巧(ぜんぎょう)があり、方便があれば、しっかりと学生を教えることができます。
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 【注2】 善巧方便(ぜんぎょうほうべん)・・・・臨機応変に、巧みに手だてを講じて人を導くこと。(デジタル大辞泉)
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古時候有環境,環境好,人人都懂禮,人人都遵守仁義禮智信,榜樣太多,好教。現在榜樣沒有了,標準沒有了,價值觀歪扭了,這個麻煩大了,怎麼個教法?自己做出端莊的樣子,他看了不順眼,說你作怪,裝模作樣,你虛偽,你還有什麼法子?所以現在的父母難做,現在的老師難當。真正的好老師不教書了,隱居到山林裡面去了。為什麼?學生不接受教誨,學校商業化,老師也變成經商,販賣知識,全都變成商業,一切都向商看齊。
昔は良い環境がありました。誰もが礼を理解して、仁義礼智信を遵守していました。手本となる人がたくさんいたので、教えやすかったのです。今は手本となる人がいません。基準がありません。価値観が歪んでしまいました。これは面倒なことです。どう教えれば良いのでしょうか?自分が正しい姿を見せても、子どもは目障りだと思い、おかしな事をしている、もったいぶっている、見せかけだと言われれば、あなたは他にどうすれば良いのでしょうか?ですから今の父母はやり難く、今の先生はやり難いのです。本当に良い先生は勉強を教えずに、山林の中で隠居しています。なぜでしょうか?学生が教えを受け入れないからです。学校は商業化して、先生も商売に変わりました。知識を売っています。すべてが商業に変わっています。すべて商業に見習っています。

所以現前這個世間的文化,商文化。商就是要錢,錢是第一,只認識錢,除這個之外都不知道,人都變成自私自利。人沒有情、沒有義,怎麼結合的?利害,於我有利,我得要好好利用他;沒有利就走了,再也不顧你。
ですから今のこの世間の文化は、商業文化です。商業にはお金が要ります。お金が第一です。お金のことばかりでその他の事を何も知らなければ、人は私利私欲の人に変わります。人に情がなく、義がなければ、どのように結びつくのでしょうか?利害です。自分に利があればしっかりと人を利用して、利がなくなれば立ち去り、二度と顧みることはありません。

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人の過失を心に留めていれば、自分が大損をする

2016-02-13 | 【修行の方法】


把別人的過錯放在心上,自己吃的虧大了 / 人の過失を心に留めていれば、自分が大損をする
文摘恭錄—二零一二淨土大經科註(第九十三集)2012/12/28 檔名:02-040-0093

瞋忿就是心裡頭有怨恨,「謂人於違情之境,不順己意,便發恚怒,而忘失正念」。有人起心動念、所作所為我看不慣,懷恨在心。這種怨恨障礙我修道,障礙修定、障礙觀想、障礙念佛,念佛堂障礙念佛。所以真正修行人,要保持心平氣和,不要把別人的過錯放在自己心上,我們自己吃的虧大了。決定不能冤冤相報,結怨成仇這個事情就麻煩大,佛教導我們決定要避免。
瞋忿(しんふん)とは心の中に怨恨(えんこん:恨み)があることです。「人と感情的な相違が生じた状況で、自分の思い通りにならずに怒り出し、正念を忘れてしまうことを言う」(謂人於違情之境,不順己意,便發恚怒,而忘失正念)【注:訳者意訳】。ある人のやることなすことが気に入らず、恨みを心に抱きます。このような怨恨は自分の修道の障碍になります。定(じょう)を修める障碍になり、観想の障碍になり、念仏の障碍になります。念仏堂での念仏の障碍になります。ですから真の修行者は、心を平静に、和やかに保たなければなりません。人の過失を自分の心に留めていてはなりません。私たち自身が大損をします。決して恨みを報い合ってはなりません。恨みの縁を結ぶことは、とても面倒なことです。仏は私たちに絶対に避けるよう教えています。

吃虧了也不跟他結怨,上當了,受他的陷害、受他的羞辱,都沒有報復的念頭,成就你自己的行,忍辱波羅蜜。你能忍就能修定,能修定就能開智慧。《金剛經》上講六度,最重要的兩門就是布施、忍辱。布施是修福,忍辱能夠積,讓你所修的福不會失掉。不能忍,一面修一面就失掉了,有漏,又漏掉了,就是功漏掉了,修一點福報而已。福報,來生在人天,不能往生,這個必定要知道。
損をしたとしても、その人とは恨みの縁を結びません。騙されたとしても、陥れられても、恥辱を受けても、報復する考えは持ちません。あなた自身の徳行を成就させます。忍辱波羅蜜です。あなたが耐え「忍」ぶことができれば「定」を修めることができ、「定」を修めることができれば「智慧」を開くことができます。『金剛経』では六度を説きますが、最も重要な二つは、布施と忍辱です。布施は福を修めます。忍辱は徳を積みます。あなたが修めた福を失くしません。耐え忍ぶことができなければ、一方で修めながら、一方で失っています。漏れがあり、漏れ尽くしてしまいます。つまり功徳が漏れ尽くして、少しばかり福報を修めただけになります。福報では、来世は人天(人道・天道)に生まれ、往生は出来ません。これは必ず知っておかなければなりません。

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