ある上人の名聞の為に堂を建て、天狗になること
ある上人(しょうにん:僧の敬称)が名聞(みょうもん:世間の評判)の為にお堂を建てて、天狗になったこと
ある山寺に、徳高く聞こゆる聖ありけり。
ある山寺に、徳が高いと評判の聖(ひじり:僧、行者の意)がいました。
年ごろ、堂を建て、仏造り、さまざまな功徳を営み、尊く行ひけるが、終わり目出たくてありければ、弟子も辺りの人も、疑ひなき往生人と信じて過ぎけるに程に、ある人にかの聖の霊付きて、心得ぬさまのことども言ふ。
長年お堂を建てたり、仏像を造ったり、様々な功徳を積んで、尊い行いをしていましたが、その最期も見事であったので、弟子も近所の人も、「疑いなく極楽往生した人だ」と信じて過ごしていたところ、ある人にその聖(ひじり)の霊が憑依して、理解し難いことなどを言いました。
聞けば、早、天狗になりたりけり。
聞くと、もう天狗になってしまったといいます。
弟子ども主思ひの外なる心地して、いみじく口惜しく思へども力なく覚束なきことなど問ひければ、不思議のことども言ふ中に、
弟子たちは、お師匠様が意外なことになったと思い、たいそう残念に思いましたがどうにもならず、よく分からないことなどを(聖の霊に)尋ねたところ、不思議なことなどを言う中に、
「わが在世の間、深く名聞に住して、無き徳を称じて、人を誑かして作りし仏なれば、かかる身となりて後は、この寺を人の拝み尊ぶ日に、我が苦患まさるなり」とこそ言ひけれ。
「わたしが生きていた間、深く名聞(みょうもん:世間の評判)にこだわって、無い徳をあるかのように言い、人を騙して作った仏像なので、このような身となってしまった後では、この寺を人が拝んで尊ぶたびに、わたしの苦しみが増すのです」と言ったのです。
いみじき功徳を作るとも、心調はずは、甲斐なかるべし。
たいそうな功徳を積んだとしても、心が伴っていなければ甲斐のないことなのです。
「今のことなれば、名は確かなれど、殊更顕さず」とぞ、ある人語り侍りし。
「最近のことなので、その聖の名前もはっきりしていますが、あえて明らかにはしますまい」と、ある人が(この話を)語られたのでした。(『発心集』より)
『発心集』(ほっしんしゅう)・・・・鎌倉時代の仏教説話集。1216年以前の成立とされる。鴨長明著。
・原文はネット上で拾ったもの。
・訳は筆者。
<参考>
功徳と福徳 2012-09-23
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/367bcb2b686895cafc8d2309df235c05
功徳と福徳の区別 2013-02-16
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/e/ca56572351b7c495b6e7ab41c43ef8a3