學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第十二集)
※翻訳文は後日掲載します。
Learning of God Loves All Beings 05
學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第五集)
2018/8/31 英國威爾士三一聖大衛大學.蘭彼得校區 檔名:21-786-0005
諸位法師、諸位同學,大家好。今天我們接著看《神愛世人》這個小冊子。
第一個宗教,巴哈伊教。巴哈伊是新興的宗教,很難得,裡面的內容,好像是所有宗教裡面都談到。特別是他們能夠拓開心量,肯定眾神是一體,非常難得,整個宇宙是一家,非常契合我們這個課題。
法師各位、学生の皆さま、こんにちは。今日私たちは引き続きこの小冊子『神は世人を愛す』を見ていきます。最初の宗教は、バハーイー教(イスラム教シーア派から分派した一神教)です。バハーイーは新興の宗教です。得難いことに、その内容はあらゆる宗教の中で語られているもののようです。特に彼らは心を開き、人々と神とが一体であることを肯定しています。非常に得難いことです。全宇宙は家族であり、私たちの課題と合致しています。
在它的經典上,我們節錄了幾段,這是前面的第一段:「上帝對人類派遣了他的先知、使者們,其目的有二:首先,他要使他的人類孩子們,從無知的黑暗中走出,並引導他們走向真知的光明;第二,他是要藉此來維繫人類的和平,與其心靈上的安寧,並且要為和平與安寧的實現,提供一些可行的方法。」
その経典から、私たちは数段を抜粋しました。これは最初の第一段です。
「神は人類に対して預言者、使者たちを派遣した。その目的は二つある。まず、神が人類という子どもたちを無知の暗闇から抜け出させ、彼らを正しい認識の光明に導くことである。二つ目は、神が人類の平和を維持し、その心の安寧、そして平和と安寧を実現するために、いくつか実行可能な方法を提供することである」
(God’s purpose in sending His Prophets unto men is twofold. The first is to liberate the children of men from the darkness of ignorance, and guide them to the light of true understanding. The second is to ensure the peace and tranquility of mankind, and provide all the means by which they can be established.)
這些方法,在東方,中國五千年的文化;在西方有宗教,許許多多的宗教。為什麼會有這個現象?我們深入經藏之後,逐漸體會到了,大乘經教裡面交代得很清楚。神,一個真神,眾生無量無邊,體是一個,眾神一體,眾生跟神也是一體。體是誰?用佛法來說,就是自己的法身。法身沒有形相,證得法身,沒有圓滿,稱為法身菩薩;證得圓滿,就稱之為佛陀。
それらの方法は、東洋では中国五千年の文化があり、西洋では宗教があります。数多くの宗教です。なぜこのような現象があるのでしょうか?私たちは経蔵に深く入れば、少しずつ理解することができます。大乗の経教の中にはっきりと語り伝えられています。神は一つの神であり、衆生(しゅじょう:命あるもの)は無量無辺(むりょうむへん:計り知れないこと)です。体(たい:本体)は一つです。人々と神とは一体であり、衆生と神もまた一体なのです。体とは誰でしょうか?仏法を用いて言えば、正に自分の法身です。法身には形相はありません。法身を証得して、円満でないものを法身菩薩と言います。円満に証得していれば、それを仏陀と言います。
沒有圓滿的時候,我們看到很多,像這個經上所講的,他們在無知的黑暗裡面生活,所以神要幫助他們回頭、幫助他們回歸自性,方法很多。為什麼有那麼多方法?眾生根性不一樣。神、佛菩薩說法叫應機而說,你是什麼樣的根性,就給你說什麼法,你容易契入、容易明白,道理在此地。方法無量無邊,佛法裡面講八萬四千法門、無量法門,你是什麼樣的根性,就用什麼方法教你,你真正遇到高明。高明在佛教裡面講,佛、菩薩,這是高明;阿羅漢雖然覺悟,並沒有深入。菩薩還分等級,五十一個位次,像讀書一樣,一年級、二年級、三年級……大乘教裡頭五十一個班級。最高的,十個位次,加上等覺,十一個位次,那個境界差不多都是圓滿的。經歷五十一個階級,再上面就是佛陀,功德就圓滿了。
円満ではない時、私たちは多くのものを見ると、この経典に説かれているように、無知の暗闇の中で生活しているようなものです。だからこそ神は彼らが改心するのを助け、彼らが自性に回帰するのを助けるのです。方法はたくさんあります。なぜそれほど多くの方法があるのでしょうか?衆生の資質が異なるからです。神、仏菩薩の説法は機(き:機根、資質)に応じて説くと言われます。あなたがどのような資質なのかによって、法を説きます。あなたは境地に入り易く、理解し易くなります。道理はここにあります。方法は無量無辺にあり、仏法では八万四千の法門、無量の法門と言われます。あなたがどのような資質なのかによって、(適切な)方法を用いて教えます。あなたは真に優れた人に出会ったのです。優れた人とは仏教の中では、仏、菩薩と言われます。これが優れた人です。阿羅漢は悟ってはいますが、深くはありません。菩薩はさらに等級が分かれます。五十一の位があり、学校と同じように、一年生、二年生、三年生・・・・大乗教の中では五十一の学年とクラスがあります。最も高いものは、十の位、加えて等覚、十一の位、その境界(きょうがい:境地)がほぼ円満です。五十一の階級を経て、更に上は仏陀であり、功徳は円満になります。
大乘在中國有十個宗派,每一個宗下面又分派,所以「方便有多門,歸元無二路」,門門都能成無上道。那為什麼要設這麼多法門?根性不一樣。其實給你說真話,佛無有法教給你,你開悟了,是你自己開悟的;他有方法幫助你開悟,破迷開悟。你不經歷這些方法,你雖然開悟是自己的事情,你自己不會,迷失了方向,所以你得不到佛法的利益。因此,就要設許許多多的方便,對無量無邊的眾生,乃至於為一個眾生,也開了很多法門。這些道理我們現在慢慢都體會到了。像我們求學一樣,童年的時候讀小學,有小學課本,有小學教學法;再長大了,小學畢業了升到中學,中學有中學的教科書,有中學的教學法;乃至於大學。
大乗は中国では十の宗派があり、どの宗にも更に分派があります。ですから「方便有多門,帰元無二路」(方便として多くの門があるが、根元に帰ればニつの路は無い)と言うように、どの法門もこの上ない道なのです。それではなぜこれほど多くの法門を設けるのでしょうか?資質が異なるためです。実のところ、あなたに本当の話をすれば、仏はあなたに教える法など無いのです。あなたが悟りを開くのは、あなた自身で悟りを開くのです。仏はあなたが悟りを開くこと、迷いを破り悟りを開く(破迷開悟)のを助ける方法を持っています。あなたはこれらの方法を経験せず、たとえ悟りを開くことが自分の事だとしても、あなた自身で出来なければ、方向を見失い、仏法のご利益を得ることは出来ません。このことから様々な方便を設け、無量無辺の衆生に対して、乃至は一人の衆生の為にも多くの法門を開いたのです。これらの道理を私たちは少しずつ理解しています。ちょうど私たちが学校で学ぶのと同じように、子どもの頃は小学校で学び、小学校の教科書があり、小学校の教学法があるのです。更に大きくなれば、小学校を卒業して中学校に進学します。中学校には中学校の教科書があり、中学校の教学法があります。そして大学です。
上帝愛世人,上帝幫助世人,派使節,像我們現在講派代表、派老師。宗教,我們把它比喻學校,上帝是校長,他的助教很多,他下面的老師很多。這些老師執行任務,幫助眾生破迷開悟、離苦得樂,所以設八萬四千法門,或者說設無量法門。在我們這個地球上,所有不同的宗教、不同的聖人、不同的先知,他們真身就是上帝;換句話說,他們都是上帝的分身、上帝的化身,是一體。
神は世人を愛し、神は世人を助け、使節を派遣しました。ちょうど私たちが代表を派遣したり、先生を派遣したりするようなものです。宗教を学校に例えれば、神は校長です。彼の助教はたくさんいます。彼の下にはたくさんの先生がいます。これらの先生が任務を執行します。衆生が迷いを破り悟りを開き(破迷開悟)、苦しみを離れて安らぎを得る(離苦得楽)のを助けます。そのため八万四千の法門、或いは無量の法門を設けたのです。この地球上の、あらゆる異なる宗教、異なる聖人、異なる先覚者。彼らの真身(しんしん:本体)は神なのです。言い換えれば、彼らは皆神の分身、神の化身であり、一体なのです。
我們再看下面這一段,這段非常重要:「你們都是同一棵樹木的葉子,都是同一個大海中的水滴。」一滴水。這個話我們一聽就明白了,一體。他用樹跟樹葉來比喻,那一棵大樹就是上帝,變現出無量的眾生、無量的世界。一個星球是一個世界,太空當中有多少星球?數不清,我們能見到的少數,還有許許多多距離太遠了;本身放光的,我們比較容易見到,不放光的不知道有多少。科學家告訴我們,太陽系放光的就一個,太陽;不放光的有九大行星,行星還有衛星,在太陽反射之下我們見到了,反射不到的我們不知道。
次の一段を見ましょう。この段は非常に重要です。
「あなた方は同じ樹木の葉であり、すべて同じ大海の中の水滴である」。
(You are all the leaves of one tree and the drops of one ocean.)
一滴の水です。私たちはこの話を聞いてすぐに理解できます。一体です。(バハイ教では)樹木と葉とを用いて例えています。その大樹は正に神であり、無量の衆生、無量の世界に変化して現れます。一つの星は一つの世界です。宇宙にはどれほどの星があるのでしょうか?数え切れません。私たちが見ることのできるのは少数で、まだまだ遠い彼方には数限りなくあります。それ自身が発光するものは見え易いですが、発光しないものがどれほどあるか知れません。科学者は言います。太陽系で発光するのはただ一つ、太陽です。発光しないのは九つの惑星があり、惑星には更に衛星があります。太陽の反射を受けて私たちは見ることが出来ます。反射しなければ私たちには分かりません。
科學不斷的在提升,我們的視野不斷的在擴大,這是得利於科學,發明許多儀器,幫助我們看到肉眼所很難見到的,我們都見到了;這宏觀世界。再看另外一頭,微觀世界,生物更多了,它幫助我們看到肉眼看不到的細胞、細菌。我們從科學報告裡頭知道這些常識,是不是就是這麼多?不敢說,肯定不是這麼多,有更多。我們等待科學儀器再提升,不斷的進步,使所有看不見的,在顯微鏡裡面統統看到。說明我們是同一個法身,這裡講的,同一棵樹木的葉子。
科学は絶えず進歩しています。私たちの視野は絶えず広がっています。これは科学のお陰を被っています。様々な計測機器を発明して、私たちが肉眼で見られないものを見るのを助けてくれています。これはマクロの世界です。また別の一方を見れば、ミクロの世界です。生物は更に多く、それは私たちが肉眼で見られない細胞、細菌を見るのを助けてくれます。私たちは科学のリポートからこれらの常識を知っています。それだけなのでしょうか?そうとは言えません。間違いなくそれだけではなく、もっと多いでしょう。科学の計測器が更に進化し、絶えず進歩すれば、すべての見えないものを顕微鏡の中で見ることが出来るでしょう。私たちは同じ一つの法身であることの証明です。ここで説かれている、同じ一つの樹木の葉なのです。
我們這邊走出去,街道的兩旁邊是公園,樹木有年代了,都非常高大,所以有很好的樹蔭給我們乘涼。所有這麼多樹,就像經上講的,你們有這麼多人,都是一棵樹木的葉子。親切,不是獨立的樹,我們是樹上一片樹葉。
ここから外に出ると、道の両辺は公園で、年数を経た樹木があります。どれも高くて大きいので、良い木陰ができて涼むことができます。これらの樹木は、経に説かれているように、――皆さんはこのようにたくさんいますが――すべて一つの樹木の葉なのです。親しみがわきます。独立した樹ではなく、私たちは樹木の一葉なのです。
後面還有一句:「都是同一個大海的水滴。」大海距離我們不遠,巴黎的外面是大西洋,大海望不到邊際,芸芸眾生就像一滴海水一樣。這個比喻很親切,把我們人與人、人與上帝的關係講清楚了、講明白了。我們有沒有接受?沒有。為什麼沒有?我們迷得太深、迷得太厚了。
その後更に一句「すべて同じ大海の中の水滴である」とあります。大海はここから遠くはありません。パリの外は大西洋です。大海はその果てを望むことはできません。あらゆる衆生は一滴の海水のようなものです。この比喩はとても親しみがわきます。私たち人と人、人と神との関係をはっきりと、明瞭に説いています。私たちはそれを受け入れているでしょうか?受け入れていません。なぜでしょうか?私たちの迷いが深く深刻だからです。
所以我們不能離開上帝,不能離開上帝派到這個世間來的使者。使者是上帝的助教、是我們的老師,我們對他要尊重、我們對他要信任,不能懷疑。帶著懷疑的心來學道,難;帶著懷疑去學科學,行,學道不行,道是形而上的。所以我們要肯定,這些都是上帝的話,都是上帝使者教給我們的,我們信心從這裡建立。有了信心之後,我們再來解決問題。
ですから私たちは神を離れることはできません。使者たちは神がこの世に派遣しました。使者は神の助教であり、私たちの先生です。私たちはその人を尊重し、信頼して、疑うことはできません。懐疑的な心を持って道を学ぶのは、難しいものです。懐疑的な心を持って科学を学ぶのは良いのです。道を学ぶことはできません。道は形而上のものです。ですから私たちは肯定しなければなりません。これらはすべて神の話であり、すべて神の使者が私たちに教えたものなのです。私たちの信心はここから打ち建てます。信心が生まれた後、私たちは更に問題を解決します。
修行,依照經典的教訓認真學習,把經典的教訓變成自己生活的規範。起心動念不離開經典,言語造作不離開經典,這是上帝的兒女,這是聖賢的弟子。
修行は経典の教訓に照らして真摯に学びます。経典の教訓を自分の生活規範に変えるのです。心の働きは経典を離れず、言葉や行為は経典を離れません。これが神の子です。これが聖賢の弟子です。
有同修告訴我,我們很想學習,但是就是入不了境界,怎麼辦?我告訴大家從哪裡入門,儒、佛,再看一切宗教經典,能入門要行、證。我們聽講聽明白、聽懂了,沒有把它變成我們的生活行為,那不管用,我們入不進去。幾乎所有宗教也是同樣的道理,都是主張從放下入門。放下什麼?放下妄想、放下分別、放下執著,你就會看到門,你就能入門。
ある人が私に言いました。「私たちは学びたいと思っていますが、境界(きょうがい:境地)に入ることが出来ません。どうしたものでしょうか」。私はどこから入門すべきかを皆に話しました。儒、仏、そして一切の宗教経典を見ます。入門するには行(ぎょう:修行)、証(しょう:証得)をしければなりません。私たちは説くところを明瞭にし、理解しなければなりません。それを私たちの生活、行為に変えていないのであれば、役には立ちません。(境界に)入ることはできません。およそあらゆる宗教も同じ道理であり、すべて放下(ほうげ:執著を捨てること)から入門することを主張しています。何を放下するのでしょうか?妄想を放下し、分別を放下し、執著を放下すれば、あなたは門を見るに到ります。あなたは入門することができるのです。
有些同修告訴我,就是放不下,怎麼辦?我勸你學經教。你為什麼放不下?你不了解事實真相,所以你放不下;如果了解事實真相,你就不會把它放在心上,自自然然放下。放下就自在,放下就生智慧。那我再告訴你,你真正想學,學道,這十個宗教都合起來,無論你學哪一個,沒有例外的,都是從把煩惱習氣放下。煩惱習氣是根,樹木的根,根放下了,枝葉自然就沒有了。
ある人たちは私に言います。「正に放下することが出来ないのです。どうしたものでしょうか」。私は経教に学ぶことを勧めます。あなたはなぜ放下できないのでしょうか?あなたは事実の真相を理解していません。だから放下できないのです。もし事実の真相を理解すれば、あなたはそれを心に留めたりしません。極自然に放下します。放下すれば自在になります。放下すれば智慧が生じます。私は更に言います。あなたが本当に道を学びたいなら、この十の宗教を合わせて、あなたはどれを学ぼうと、例外はありません。すべて煩悩の習気(じっけ)を放下することからです。煩悩の習気は根であり、樹木の根です。根を放下すれば、枝葉は自然になくなります。
中國的儒,儒家從哪入門?格物、致知;然後才有修身、齊家、治國、平天下。那儒家這個根什麼意思?不能不懂,不能不講究。格物,格是格鬥,打仗,跟誰打仗?跟自己打仗。物是什麼?物是欲望。這個東西害死我們,我們時時刻刻沒辦法離開,眼見色、耳聞聲、鼻嗅香、舌嘗味,它起作用。起的作用是迷,不是覺。覺怎樣呢?不起作用的時候就覺了。所以從哪裡下手?放下物欲、放下煩惱、放下習氣、放下一切錯誤。
中国の儒、儒家はどこから入門するのでしょうか?格物(かくぶつ)、致知(ちち)です。その後で修身(しゅうしん:身を修めること)、斉家(せいか:家を整えること)、治国(ちこく:国を治めること)、平天下(へいてんか:天下を平和にすること)が出てきます。儒家のこの根はどのような意味でしょうか?理解しなければなりません。研究しなければなりません。格物の「格」とは格闘です。戦いです。誰と戦うのでしょうか?自分と戦うのです。「物」とは何でしょうか?「物」とは欲望です。これは私たちを害するものです。私たちは時々刻々離れることが出来ません。眼で色を見て、耳で音を聞き、鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を味わいます。それが作用を起こします。起こる作用は迷いであり、覚りではありません。覚りとはどのようなものでしょうか?作用が起きなくなった時が覚りです。ですからどこから着手すべきでしょうか?物欲を放下し、煩悩を放下し、習気(じっけ)を放下し、一切の誤りを放下することです。
知道錯了馬上就要改,怎麼改法?先放下,再學習,功夫就得力了。你一面放下一面又再做,那你怎麼能放得下?放下之後智慧就現前,所以致知。智慧從哪裡來的?煩惱輕的人智慧就多,煩惱重的人智慧就少。妄想、分別、執著只生煩惱,不生智慧;可是妄想、分別、執著你就放不下,你不但不肯放,你還在上添油添醋。這是念經沒錯,修行錯了,方向、路統統走錯了。
誤りと知ったらすぐに改めなければなりません。どのように改めるのでしょうか?まず放下して、更に学習すれば、技量を得ることが出来ます。あなたが一方で放下して、一方ではまた繰り返すのであれば、どうして放下出来るのでしょうか?放下した後で智慧が現れます。だから致知(知を致す)なのです。智慧はどこから来るのでしょうか?煩悩が軽い人は智慧が多く、煩悩が重い人は智慧が少ないものです。妄想、分別、執著はただ煩悩を生むばかりで、智慧を生みません。しかし妄想、分別、執著を放下出来ないのは、あなたが放下しようとしないばかりか、あなたが自分で味付けをしているのです。これは経を正しく読みながら、修行を誤っています。方向、道、すべて誤っています。
佛法裡面講看破、放下,儒家講的格物、致知。格物就是跟物欲打仗,要把它打敗;致知就是開智慧。我們現在沒有智慧,是因為欲望太多、妄想太多,那不是真的。從今之後,我們要把這個放下,不放在心上,心上只放上帝的愛。我們這裡總標題是「上帝愛世人」,沒有一部經典不講上帝愛世人,上帝愛世人是真的,不是假的。我們一定要曉得,一定要把它搞清楚,在這裡下手就對了。
仏法の中では看破、放下を説き、儒家では格物、致知を説きます。格物とは物欲との戦いです。それを打ち負かさなければなりません。致知とは智慧を開くことです。私たちは今は智慧がありません。それは欲望が多く、妄想が多いためです。それは真実ではありません。今からはこれを放下して、心の中に留めず、心の中には神の愛だけを留めます。私たちのここでの題目は「神は世人を愛す」です。どの経典でも神が世人を愛することを説かないものはありません。神は世人を愛するのは真実です。偽りではありません。私たちは必ず理解しなければなりません。必ずそれをはっきりさせ、ここから着手すれば良いのです。
循著這個順序不斷向上提升,提到最後,治國、平天下;這是講我們沒有離開地球,還住在這邊,你的功德圓滿。再向上提升,我們就會跟上帝在一起,生到天國去了,佛法生到極樂世界去。這問題才是徹底搞清楚了,徹底終極最高的利益我們真正得到了,大圓滿,這是我們努力的方向。所有的這些經典、神聖、先知告訴我們,我們可以做到,不是做不到。只要下定決心,真肯幹,我們共同在一起互相幫助,不斷的向上提升。
この順序に従って絶えず向上したなら、最後は治国、平天下です。これは私たちが地球を離れることなく、ここに住んでいながら、功徳が円満になることです。さらに向上すれば、私たちは神と共にあり、天国に生まれます。仏法では極楽世界に生まれます。これで問題が徹底的にはっきりします。徹底して最高のご利益を得るのです。大円満です。これが私たちの努力の方向です。あらゆる経典、神聖、先覚者は、私たちには出来ると言います。出来なくはありません。ただ決心をして、本当に実行することです。私たちはお互いに助け合って、絶えず向上していきます。
今天時間到了,我們就學習到此地。
時間になりました。学習はここまでとします。
Learning of God Loves All Beings 04
學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第四集)
2018/8/30 英國威爾士三一聖大衛大學.蘭彼得校區 檔名:21-786-0004
諸位法師、諸位同學,大家好。今天我們繼續來談《神愛世人》。
宗教團結的深化,必須要建立在各宗教彼此深入學習對方的經典,在這個基礎上才能夠達成。各宗教的傳教師與信徒們,都可以認識到彼此經典的共通之處,彼此都是同一位真神的子民。
法師各位、学生の皆さま、こんにちは。今日は引き続き『神は世人を愛す』についてお話し致します。宗教の団結を深めるには、必ず各宗教でお互いに相手の経典を深く学習しなければなりません。この基礎の上においてこそ達成できるのです。各宗教の伝教師と信徒たちは、お互いに経典の共通するところや、お互いが同じ神の子であることを認識することが出来ます。
有鑑於對於各宗教經典的認識與學習是如此的重要,我們這一次從世界十一大宗教的聖典之中,擷取出各宗教經典中的一些精華經句,讓讀者認識到,眾神確實是一體的,他們都擁有著一體不二的大愛、一體不二的真心。這是我們學習的基礎、是我們學習的核心,否則的話,宗教團結的意義就失掉了。《神愛世人》這個小冊子,可以幫助我們契入境界。
その点を考慮しますと、各宗教の経典に対する認識と学習はこれほど重要なのです。私たちはこの度、世界十一大宗教の聖典の中で、各宗教経典の中のエッセンスとなる言葉を抜粋し、読者に人々(衆)と神とは一体であることを認識できるようにしました。彼らはすべて一体不二の大いなる愛、一体不二の真心を備えています。これは私たちの学習の基礎であり、学習の核心です。そうでなければ、宗教団結の意義が失われます。『神は世人を愛す』という小冊子は、私たちが境界(きょうがい:境地)に入る助けとなります。
我們知道,學習的根夾在這一句話裡頭:一體不二的大愛、一體不二的真心。首先肯定,完全沒有懷疑,從經典上認識,每個宗教都建立在神聖教誨的基礎上。我們要怎樣把這個愛找到?這個愛,神聖的愛,是從真心流露出來的,妄心裡頭沒有。什麼叫妄心?有分別、有執著是妄心;或者我們總的說一句,起心動念是妄心,分別、執著是妄心。必須要把這個妄心放下,真心就現前。真心就是上帝的愛心;真心,一切眾生跟上帝沒有兩樣。
私たちは知っています。学習の根本はこの一句の中にあるのです。一体不二の大いなる愛、一体不二の真心。まずそれを肯定して、完全に疑わないこと。経典の中から、どの宗教もすべて神聖な教誨(きょうかい:教え)を基礎としていることを認識します。私たちはどのようにその愛を見つけるのでしょうか?その愛、神聖な愛は、真心の中から流露するもので、妄心の中にはありません。妄心とは何でしょうか?分別があり、執著があるのが妄心です。或いは総じて言えば、起心動念(きしんどうねん:心の起こり、念の動き)は妄心です。分別、執著は妄心です。必ずその妄心を放下(ほうげ:手放すこと)しなければなりません。真心はそうして現れます。真心とは神の愛です。真心は、一切衆生(いっさいしゅじょう:生きとし生けるもの)と神とは何も違いはありません。
所以說到最後,我們會體認到,經教裡面所說的這些句子,我們節錄下來了,往下我們都能看到,不但眾神是一體,整個宇宙是真心所現,妄心所變。真心顯露的是天堂、是極樂世界,妄心所現的是十法界;十法界跟極樂世界、跟天堂,也是一不是二。
結論を言えば、経典の中のそれらの言葉を、私たちは体験して認識することができます。私たちは要点を抜粋しています。後ほどすべてお見せします。人々(衆)と神とは一体であるばかりか、全宇宙は真心の現れであり、妄心によって変化したものなのです。真心が現すものは天国であり、極楽世界です。妄心が現すのは十法界です。十法界は極楽世界や天国と一つであり、二つではないのです。
經典上都說得好,「凡所有相,皆是虛妄」,這是真的不是假的。我們能把虛妄的放下,不要放在心上,這個時候我們的心就是真心。那些開悟的人、明心見性的人,跟我們的差別在哪裡?就在這個地方。明心見性的人,眼見色,不起心不動念,看得清清楚楚、了了分明;耳聽聲音,聽得清楚、聽得明白,也是不起心不動念。我們從這裡就了解,古聖先賢他們修行證果的祕訣在哪裡。搞清楚了、搞明白了,要學!學就叫功夫、學就叫修行。行就是動,行動。凡夫的行動,裡面有妄想、分別、執著,有煩惱、有習氣;明心見性的人,他六根在六塵境界上,真正是不起心不動念、不分別不執著,差別就在此地。
経典に説かれています。「およそ姿・形あるものは、すべて実体がない」(凡所有相,皆是虚妄)。これは真実であり、偽りではありません。私たちは実体のない虚妄を放下して、心の中に留めてはなりません。その時の私たちの心こそが真心です。開悟した人、明心見性した人と、私たちとの違いはどこにあるのでしょうか?違いは正にここにあります。明心見性した人は、眼で物を見ても、心を起こさず、念を動かしません。はっきりと明瞭に見えています。耳に音を聞くと、はっきりと明瞭に聞こえていますが、やはり心を起こさず、念を動かしません。私たちはここから理解することが出来ます。古(いにしえ)の聖なる先賢たちの修行と証果の秘訣はここにあるのです。はっきりと、明瞭になったら、学ばなければなりません!学びとは技量であり、学びとは修行です。行とは動、行動です。凡夫の行動は、その中に妄想、分別、執著があり、煩悩があり、習気(じっけ)があります。明心見性した人は六根が六塵の境界にあって、本当に心を起こさず念を動かさず、分別せず執著しません。違いはここにあるのです。
明心見性不是要離開世間,那你就錯了!世間是離不開的,真妄是在一體,你怎麼能離得開?怎麼辦?佛菩薩教給我們,所有宗教的教主、上帝,以及上帝的使者、教化六道眾生這些大德、大師,他們不但教給我們,而且給我們做模範、做榜樣;我們能契入他們的境界,俗話說「得道」,你得到了,得到什麼?你得到明心見性的道路,你就曉得怎麼走法,就是六根在六塵境界上學習。眼見色是修行,是學習明心見性。現在開始下手,就是所見的色相,不分別、不執著、不放在心上,就對了。
明心見性とは世間を離れることではありません。それは間違いです!世間とは離れられません。真と妄とは一体です。あなたはどのように離れるのでしょうか?どうするのでしょうか?仏菩薩は私たちに教えています。あらゆる宗教の教主、神、及び神の使者、六道の衆生を教化する大徳、大師、彼らは私たちを教えるだけでなく、私たちの模範になってくれます。私たちが彼らの境界に入ることが出来ると、俗にいう「得道」すると、あなたは何を得るのでしょうか?あなたは明心見性への道を得ます。あなたはどのように行けば良いのかが分かります。つまり六根が六塵の境界にあって学ぶのです。眼で物を見るのは修行です。明心見性を学ぶのです。今から着手するなら、眼に見える色相に対して分別せず、執著せず、心に留めないこと。それで良いのです。
一般凡夫他的問題在哪裡?問題是把所有的現象,真的、假的,統統放在心上。他不知道真心、本性裡面是清淨的,一塵不染,雖見色,沒放在心上;雖聞聲,也沒有放在心上;乃至於鼻嗅香、舌嘗味,都不放在心上。所以稱它叫一如、真如。真如是什麼意思?真妄是一不是二,叫一如、叫真如。不起分別、不生執著,這是入門的地方,要用功夫去練。你真正做到了,方東美先生教我的一句話你也得到了,「學佛是人生最高的享受」,得到了;我得到了、你也得到了、他也得到了、人人得到了。怎麼得到的?不起心不動念、不分別不執著、不放在心上,就對了。放在心上的是凡夫,把真心變成妄心,把本性變成習性,問題就出在這裡。我證實了方先生這句話,「人生最高的享受」。
普通の凡夫の問題はどこにあるのでしょうか?問題はあらゆる現象、本当のこと、偽りのこと、すべてを心に留めていることです。その人は真心を知りません。本性は清浄(しょうじょう:清らかなこと)であり、一塵にも染まらず、物を見たとしても、心に留めません。音を聞いたとしても、やはり心に留めません。または鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を味わったとしても、すべて心に留めません。ですからそれを一如、真如と言います。真如とはどのような意味でしょうか?真と妄とは一つであり二つではありません。これを一如と言い、真如と言います。分別を起こさず、執著を起こさないこと。これが入門の場所であり、時間を掛けて訓練しなければなりません。あなたは本当にできるようになれば、あなたも方東美先生が私に教えた言葉を得るのです。「仏に学ぶことは人生最高の享受である」。それを得るのです。私は得ていますし、あなたも得るのです。彼も得ますし、誰もが得るのです。どうすれば得られるのでしょうか?心を起こさず、念を動かさず、分別せず、執著せず、心に留めないこと。それで良いのです。心に留めるのは凡夫です。真心が妄心に変わります。本性が習性に変わります。問題はここに出てくるのです。私は方先生の「人生最高の享受」という言葉を実証しました。
有人問我:我修了幾十年了,煩惱重重,沒有得到安樂,你是怎麼得到的?我告訴他:你要跟我學,你也會得到,學什麼?不放在心上。這句話說得容易,做起來很難。為什麼?你已經把起心動念、分別執著養成一種習慣;眼見色立刻就起心動念,耳聞聲立刻也起心動念,六根在六塵境界上,個個都忙著起心動念,這麻煩可大了!心上有起心動念叫做妄心,不是真心。把起心動念放下、分別執著放下,心上什麼都沒有,那是真心、那是自性。千經萬論幫助我們認識諸法實相,一切法的真相認識;認識之後,認識是在解,信、解、行、證,認識是在解,你沒修行。行是什麼?是放下。這一放下,你的認識就變成智慧,不是煩惱。
ある人が私に聞きました。「私は数十年修めましたが、煩悩が重く、安らぎを得られません。法師はどのように得られたのでしょうか」。私はその人に言いました。「あなたが私と学ぶなら、あなたにも得られます。何を学ぶのでしょうか?心に留めないことです。この話は言うのは簡単ですが、行ってみれば難しいものです。なぜでしょうか?あなたは心を起こし、念を動かし、分別し、執著することが一つの習慣として身についているからです。眼に物を見れば、すぐに念を動かし、耳に音を聞けば、すぐに念を動かし、六根が六塵の境界にあれば、忙しく念を起こし、念を動かすのです。これは面倒なことです!心の中に念を起こし、念を動かすことを妄心と言います。真心ではありません。心を起こりと念の動き、分別と執著を放下して、心の中に何もなければ、それを真心と言います。それが自性です。千経万論は私たちが諸法実相、一切法の真相を認識する助けとなります。認識は「解」(理解、解釈)にあたります。信(教義を信じること)、解(教義を理解すること)、行(教義を実践すること)、証(証得すること)。認識は解にあたります。あなたはまだ修行をしていません。「行」(ぎょう)とは何でしょうか?(行とは)放下です。ひとたび放下すれば、あなたの認識は智慧に変わります。煩悩ではありません。
放下是你的修行。所以我向章嘉大師請教,佛門有沒有方法讓我們很快就契入?他老人家聽了我這個問題之後,看著我,我看著他,我們兩個對看了半個小時。他看著我,我不知道什麼意思,他是在等我靜下來,不靜下來,老師講的你不相信。半個小時就像入定一樣,定了半個小時,心清淨了,沒有雜念了,他說了一個字:有。那我們的注意力就集中了,又錯了,又起心動念了,他就又不說了,大概又看了十分鐘。前面三十分鐘,定下來了,他說個有,我們的心又動了、又起分別執著,有了,所以他就不講了。十分鐘之後,我就又定下來,告訴我:「看得破、放得下,看破幫助你放下,放下幫助你看破。」我就明白這個方法了,佛法的修行是什麼?看破、放下,看破是智慧,放下是功夫。
放下はあなたの修行です。私は章嘉大師に「仏門には私たちが早く境地に入れる方法はありますか?」と教えを請うたことがあります。ご老人は私の質問を聞いた後、私を見ていました。私はご老人を見ていました。私たち二人は三十分見合っていました。ご老人は私を見ていましたが、私はどういう意味か分かりません。ご老人は私の心が静まるのを待っていました。心が静まらなければ、先生が話しても信じられません。三十分はまるで入定したようでした。三十分落ち着いて、心が清浄になり、雑念がなくなると、ご老人はひと言「あります」と言いました。それで私の注意力は集中し、また誤りを犯しました。また心を起こし、念を動かしたのです。ご老人はまた話さなくなりました。だいたい十分ほどです。最初は三十分で落ち着きました。ご老人が「あります」と言うと、私の心はまた動き、分別と執著を起こしました。それがあるので、ご老人は話さなくなりました。十分後に、私はまた落ち着きました。そして「看破できれば、放下できる。看破は放下を助け、放下は看破を助ける」と私に言いました。私はこの方法を理解しました。仏法の修行とは何でしょうか?看破、放下です。看破は智慧であり、放下は技量です。
在日常生活當中,你要想得到受用,不能不把人事統統放下,不放在心上,你就有智慧。好處太多了!你能慢慢的入佛境界,佛菩薩明心見性,你也明心見性了。明心見性是自性本有的,不是外頭來的。功夫也是本有的,功夫是禪定,心裡有事就不定了;妄想、分別、執著統統放下,心定下來。定生智慧,智慧是自性本有的。然後經愈看愈深入,它的深度、它的廣度慢慢你就看到。這個我們不能不知道,希望同學們慢慢琢磨。
日常生活の中でご利益(りやく)を得たいと思うなら、世間のことを放下しなければなりません。心に留めなければ、あなたには智慧が生じます。良いところがたくさんあります!あなたは少しずつ仏の境界(きょうがい:境地)に入ることができます。仏菩薩(ほとけぼさつ)は明心見性しています。あなたも明心見性するのです。明心見性は自性にもともとあるもので、外から来るものではありません。技量もまたもともとあるものです。技量とは禅譲です。心の中に物事を留めていれば落ち着けません。妄想、分別、執著をすべて放下すると、心が落ち着いて来ます。定(じょう:禅定)は智慧を生み、智慧は自性にもともとあるものです。その後は経にますます深く入ります。その深さ、その広さを少しずつ知るのです。これは知っておかなければなりません。学生の皆さんが少しずつ研鑽されることを願っています。
最好,這是福報,一生能夠不管人、不管事、不管錢。把人放下、把事放下,事來的時候做,做完了不放在心上,錢放下。方先生這句話,「學佛是人生最高的享受」,你就體會到了。
最も良いのは、これは福報だということです。一生人、事、お金に関わりません。人を放下し、事を放下して、用事が来れば対処して、対処し終えたら心に留めません。お金も放下します。「仏に学ぶのは人生最高の享受です」という方先生の言葉を、あなたは体験することができるのです。
時間到了,我們就學習到此地。
時間になりました。学習はここまでとします。
Learning of God Loves All Beings 03
學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第三集)
2018/8/26 英國倫敦Excel展覽中心 檔名:21-786-0003
諸位法師、諸位同學,大家好。今天我們繼續來談談「神愛世人」。前面有一個報告還沒講完,今天我們繼續講。
法師各位、学生の皆さま、こんにちは。今日私たちは引き続き「神は世人を愛す」についてお話し致します。先の報告につきましてはまだ話し終えておりません。今日は引き続きお話し致します。
英國歷史哲學家湯恩比博士曾經說到,所有宗教的創始人都是那個時代偉大的社會教育家,一直到今天,我們還深受影響。由此可知,宗教教育深得人心。如果我們疏忽了,失去對宗教的信仰,那就是文明走向崩潰的時刻。
イギリスの歴史哲学者トインビー博士はかつて、すべての宗教の創始者はその時代の偉大な社会教育者であると語っています。今日に至るまで、私たちは深い影響を受けております。このことから分かるのは、宗教教育は深く人心を得ているということです。もし私たちが疎かにすれば、宗教に対する信仰を失ってしまい、それは正に文明が崩壊に向かう時です。
我們不斷的接觸宗教、認識經典,在這當中深深體會到,一切宗教與真神的聖哲都是一體的,他們所有的核心就是一個「愛」字,宗教教育就是愛的教育。它的核心,就是引導人們去把愛發揚光大,讓人們真正懂得,如何用一顆無私的心去愛他人、去愛一切生命、去愛整個宇宙。愛是自性、是真心第一德。
私たちは絶えず宗教に触れて、経典を知り、その中で深く身にしみていることは、一切の宗教と神の聖哲はすべて一体であり、すべての核心は正に「愛」の一字であり、宗教教育は正に愛の教育であるということです。その核心は、人々の愛を発揚するように導くものであり、如何にして無私の心で人を愛し、一切の生命を愛し、全宇宙を愛するのかを人々に真に理解させるものです。愛は自性【注】であり、真心の第一の徳です。
--------------------------------------------------------------------------
【注】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ:宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)。本来具えている性質。
--------------------------------------------------------------------------
我們學習宗教,受經典的薰習,「上帝愛世人」就是宗教的核心。我遇到過不少人,問我,宗教是什麼?我告訴他,宗教就是愛,宗教是教育,宗教是愛的教育。如何學會把神愛世人這種大公無私的愛,放在我們自己心上,我們代表上帝去愛世人,上帝愛世人這就落實了;否則的話,上帝愛世人是一句空話。
私たちは宗教を学び、経典の薫陶を受けました。「神は世人を愛す」は正に宗教の核心です。私は「宗教とは何ですか」と質問する人にたくさん出会いました。私は言います。「宗教は愛です。宗教は教育です。宗教は愛の教育です」。如何にして「神は世人を愛す」といった公正無私の愛を身につけ、自分の心に留めるか。私たちが神を代表して世人を愛すること、「神は世人を愛す」はそれで実行されます。そうしなければ、「神は世人を愛す」は空論に過ぎません。
我們追問一句,上帝怎麼愛世人?這個理、事我們都要搞清楚、搞明白。上帝的愛,是大公無私的愛、是沒有條件的愛。為什麼?幾乎每個宗教都給我們講到眾神是一體的,往後我們學習每個宗教,在經文裡面就看到了,「眾神一體,宗教一家」。如果我們能夠契入這種認知、這個境界,那麼我們距離宗教的大團結就不遠了。宗教團結帶給人類真正的幸福,眾神歡喜。
私たちは問いかけます。神はどのように世人を愛するのでしょうか?私たちはこの理、事をはっきりと、明確にしければなりません。神の愛は公正無私の愛であり、無条件の愛です。なぜでしょうか?どの宗教でもすべて人々(衆)と神とは一体であると説いています。後になって各宗教を学ぶと、経文の中に見られます。「人々と神とは一体であり、宗教は家族である」。もし私たちがこのような認知、この境界(きょうがい:境地)に入ることができれば、宗教の大団結はそう遠くはないでしょう。宗教の団結は人類に真の幸福をもたらします。人々と神とが喜びます。
這種無私的大愛、真實的愛心,就是上帝的大愛、佛陀的慈悲,他們彼此是一不是二。他們其實,所有宗教經典裡面講的愛,是同一個愛。宗教的信徒,特別是神職人員,都能夠代表上帝去愛世人時,上帝的天堂就會降臨到這個地球上。我們確實都有責任,把上帝的天堂帶到這個苦難的人間。
このような無私の愛、真実の愛は、正に神の大いなる愛であり、仏陀の慈悲であり、それらはそれぞれ一つの事なのです。実のところ、すべての宗教経典の中で説かれている愛とは、同じ愛なのです。宗教の信徒、特に神職者が神の愛を代表して世人を愛することが出来れば、神の国はこの地球上に降臨するのです。私たちは間違いなく誰もが責任を負っています。神の国をこの苦難の人間界にもたらすことを。
多年來我們團結宗教,我是在一九九八年、一九九九年在新加坡嘗試著做,做成功了,用了一年的時間。二OOO年我移民到澳洲,在澳洲也做實驗,做成功了,時間長一些。新加坡一年做圓滿,澳洲我們用了比較長的時間,我記得好像是十三年,我們才做成功。現在這個社會,沒有好的榜樣,大家很難相信,最好是做出來,他看到了,親身體會到了,他才相信。怎麼做?人與人之間最重要的是接觸,如果不接觸就難了。
長年私たちは宗教を団結させてきました。私は一九九八年、一九九九年にシンガポールで試みて、成功しました。一年の時間がかかりました。二〇〇〇年に私はオーストラリアに移住して、オーストラリアでも実験をして成功しました。時間は少し長くかかりました。シンガポールでは一年で円満になり、オーストラリアでは長い時間がかかりました。私の記憶ではおそらく十三年です。私たちはようやく成功しました。今のこの社会には良い見本がありません。皆なかなか信じません。一番良いのはやって見せることです。人はそれを見て、自分の身をもって体験して、ようやく信じるのです。どのようにするのでしょうか?人と人との間で最も重要なのは接触することです。接触しなければ難しいでしょう。
我在澳洲圖文巴這個城市,怎麼樣跟大家交朋友?我初到澳洲的時候,買了個教堂,把教堂改成佛堂,除了把十字架換成阿彌陀佛之外,教堂絲毫沒有改變。沒想到得到當地人的歡喜,知道我們不破壞文化,我們要保留文化,他們在旁邊看。開幕這一天,我們邀請了街道上兩邊的鄰居,參加我們移民到圖文巴,建立一個佛堂歡喜的日子。晚上我們用晚宴、素食招待他們,給他們做報告,我們為什麼到這邊來。想做實驗,我們所理想的,「宗教是一家,眾神是一體」。
私はオーストラリアのトゥウンバ(Toowoomba)で、どのように友達付き合いをしたのでしょうか?私は初めてオーストラリアに行った時、教会を買いました。教会を仏堂に変えたのです。十字架を阿弥陀仏に変えた以外は、教会は何も変えていません。思いがけず現地の人が喜びました。私たちが文化を壊さないことを知ったのです。私たちは文化を残さなければなりません。彼らは隣で見ていました。開幕した日、私たちは通りの両隣の人を招待しました。私たちがトゥウンバに移住して、仏堂を建てた喜ばしい日に参加してもらいました。私たちは夜の宴会を開き、精進料理で彼らをもてなして、私たちがなぜここに来たのかを彼らに報告しました。私たちが理想とする「宗教は家族であり、人々と神とは一体である」ことを実験をしたかったのです。
晚宴散會的時候,有十幾個街坊來看我,我接見他們,他們提出問題:「法師,你辦這個活動我們很歡喜,能不能常常辦?」我非常歡喜,一個星期辦一次,他們都皆大歡喜。所以,我們在那裡團結大眾,用的是溫馨晚宴,每個禮拜六晚上舉行一次,大家歡歡喜喜在一塊聚餐、在一塊交流。他們對佛教不了解,很好奇,喜歡問,我們為他解答。一年一年過去,都沒有改變,一直到今天,還是星期六晚宴,溫馨晚宴。
宴会をお開きにした時、十数人の隣近所の人々が来て、私は彼らとお会いました。彼らは問題を提起しました。「法師、あなたがこのような活動をすることを私たちは嬉しく思います。頻繁に行うことは可能でしょうか?」。私は喜んで、一週間に一度やりましょうと言うと、彼らは皆大喜びしました。そうして、私たちはそこで大衆を団結させました。用いたのは暖かい夜の宴会です。毎週土曜日に一度行い、皆は喜んで一緒に食事をして、一緒に交流しました。彼らは仏教に対して理解しておらず、好奇心をもって質問しました。私たちは彼らの質問に答えました。一年一年と過ぎて、すべて変わっていません。今日に至るまで、やはり土曜日の夜に宴会を開いています。暖かい宴会です。
我們心目當中,就是佛陀的慈悲、上帝的大愛,突破了宗教的界限,宗教與宗教之間和睦相處。十三年,十幾個宗教團體,他們的領導、代表人來找我。告訴我,他們對我們在圖文巴這麼多年的貢獻非常感謝,我們願意團結起來,給其他的大眾做一個榜樣:宗教是可以團結的,宗教是可以變成一家人,相親相愛,互助合作;做到了,我看到很歡喜。
私たちの心の中では、正に仏陀の慈悲、神の大いなる愛は宗教の境界線を突破しており、宗教と宗教との間も仲睦まじくすべきなのです。十三年経ち、十数種類の宗教団体の指導者、代表者が私に会いに来ました。彼らは私たちのトゥウンバでの多年にわたる貢献に対して非常に感謝していると言いました。私たちは団結を望んでおり、他の大衆に一つの手本を示したいのです。宗教は団結できるのだと。宗教は家族になることができ、お互いに愛し合い、助け合うことが出来るのだと。それが出来て、私は嬉しく思います。
去年三月,巴黎聯合國教科文組織有九位大使,我們邀請他們到圖文巴來考察、來觀光,他們看到了,對於我們常常在一起交流、討論,希望宗教團結、希望宗教回歸教育。圖文巴看過之後,這個信心升起來,他們回來做了一份詳細報告,還附帶為我要了一個辦公室,就是我們今天活動這個場所,我起了個名字——「淨空之友社」。這是教科文組織長年的做團結宗教、做宗教教育,我們擔任了這一門。這正是我們的願望,是聯合國他們章程上的主要活動。
去年の三月、パリのユネスコ(UNESCO、国連教育科学文化機関)の九人の大使をトゥウンバの視察と観光に招待しました。彼らは見ました。私たちが頻繁に交流し、討論していることに対して、宗教の団結を希望され、宗教が教育に回帰することを希望されました。トゥウンバを見た後、その自信が高まり、彼らは帰国して詳細な報告を行い、更に私のために事務室を設けて下さいました。それが今日活動しているこの場所です。私は「浄空之友社」と名付けました。これはユネスコが長期的に宗教の団結を行い、宗教教育を行うもので、私たちはこの部門を担当します。これは正に私たちの願いであり、国連憲章における主要な活動なのです。
這個學社成立了,使用這個攝影棚做我們的活動工具、做我們的教室,我這今天是第二天。由於身體比去年差很多,古人所講的年歲不饒人,去年有感覺、不嚴重,今年比去年嚴重很多。
この学社は成立しました。この撮影室を私たちの活動手段として、私たちの教室として、私は今日で二日目になります。去年より身体が衰えたために――古人が言うところの「歳月は人を待たず」です――去年は厳しくないと感じていましたが、今年は去年よりもだいぶ厳しくなりました。
我講經六十年,有同學,這有心人,幫助我做整理,蒐集六十年講經的這些教材、筆記,很完整的一些資料,我自己看到都感到驚訝。過去年輕,身體不錯,有體力、有精神,一天可以講四個小時。當年講《華嚴經》,沒有感覺得到累,音聲宏亮。有不少的一部分,留著有錄影帶,錄影、錄像,我們講錄像,現在依然可以用。我讓同學們在這個裡面,選擇我們大家需要聽的、想聽的經,我這裡有現成的,可以用衛星或者是網路來傳播,提供初學同學們做參考。這些資料,聽過的人很多,依教修行的人也很多,確實帶給我們信解行證。
私が講経(こうきょう:経を講じること。説法)を行った六十年。心ある学生たちが六十年講経してきたそれらの教材、筆記を整理して下さり、資料をすべて揃えました。私自身それを見て驚きました。昔は若くて、身体も健康で、体力があり、気力があり、一日に四時間講じることが出来ました。当時『華厳経』を講じていて、疲れを感じたことはありません。声も大きくてよく通りました。ある部分はビデオテープが残っていて、今でも使うことが出来ます。私はその中から皆さんが必要とするもの、聞きたいであろう経を選びました。ここにあるものは衛星テレビやインターネットを使って放送し、初学者の参考として提供することが出来ます。これらの資料は、聞いたことがある人はたくさんいます。教えに従って修行する人もたくさんいます。間違いなく信(教義を信じること)、解(教義を理解すること)、行(教義を実践すること)、証(証得すること)をもたらすものです。
信是信心,對佛法生起信心;解,是對於經典明白了、理解了;行,是依教修行,經典裡面所說的,我們完全接受過來,變成我們自己的思想、言行,甚至於對我們日常生活、我們從事的這些行業都有很大的幫助。所以,證明佛教是教育,我們將來把這個擴大,所有的宗教都是教育。
信とは信心です。仏法に対する信心を起こすことです。解とは経典を明らかにすること、理解することです。行とは教えに従って修行すること。経典の中に説かれていることを、完全に受け入れて、私たち自身の思想、言行に変えることです。そのうえ日常生活、私たちが従事する業種に対する大きな助けとなるのです。ですから仏教は教育であると証明することができます。私たちは将来「あらゆる宗教は教育である」ことを推し広めていきます。
教什麼?教倫理、教道德、教因果、教聖賢的智慧。這四門在今天教育疏忽了,學校教育,甚至於宗教教育,都很少講這四門功課,這四門功課非常重要,我們把它找回來。我們來做,希望由我們來牽頭;終極的目標,希望所有的宗教我們集合成一體,我們確實認知,所有宗教的神聖都是一個真神的化身。換句話說,所有宗教的神聖是一個真神,「眾神一體,宗教一家」。宗教可以復興,西方的社會可以恢復秩序,社會安定和諧;東方恢復儒釋道的教學,中國傳統的教育。
何を教えるのでしょうか?倫理、道徳、因果、聖賢の智慧を教えます。この四つは今日の教育では疎かになっています。学校教育、そして宗教教育においてもこの四つの課目はあまり講じられていません。この四つの課目は非常に重要です。それを取り戻さなければなりません。私たちが行います。私たちが先頭に立って行います。最終的な目標は、あらゆる宗教が集まって一体となることです。私たちは確かに認識しています。あらゆる宗教の神聖(な聖者)は一つの神の化身であること。言い換えれば、あらゆる宗教の神聖(な聖者)は一つの神なのです。「人々と神とは一体であり、宗教は家族である」。宗教は復興出来ます。西洋の社会は秩序を回復し、社会を安定させ、調和させることが出来ます。東洋は儒教、仏教、道教の教学、中国伝統の教育を回復させます。
在今天,無論是中國、外國,我們細心去觀察,具足倫理、道德、因果,中國有。其他的有沒有?有,我們在各個宗教經典裡面看到,不是沒有;沒有人講、沒有人提倡、沒有人落實,所以沒辦法傳出來。我們今天明白了、認識了,從「神愛世人」這裡做起。我們要把所有宗教經典裡面,所講的「神愛世人」、所講的「眾神一體」、所說的「宗教一家」,從我們身上做出來給大家看。用這個方法恢復西方的宗教教育、恢復中國傳統的教育,來幫助社會、幫助地球化解衝突、促進安定和諧。這是我們淨空之友社要做的事業。
今日、中国であろうと外国であろうと、私たちは注意深く観察してみると、倫理、道徳、因果は中国にあるものです。その他にもあるでしょうか?あります。私たちは各宗教の経典の中に見ることができます。無いのではなくて、講じる人がいないのです。提唱する人がいないのです。実行する人がいないのです。そのため伝えることが出来ません。私たちは今日はっきりと認識しています。「神は世人を愛す」から実行し始めることです。私たちはあらゆる宗教の経典の中に説かれている「神は世人を愛す」、「人々と神とは一体である」、「宗教は家族である」を、私たち自身から行って人々に見せなければなりません。この方法を用いて西洋の宗教教育を回復させ、中国伝統の教育を回復させ、社会を助け、地球の衝突を解消させ、安定と調和を促進する助けとするのです。これが私たち浄空之友社がやるべき事業です。
今天時間到了,我們就講到此地。祝福大家,身心健康,法喜充滿!
今日は時間になりましたので、学習はここまでとします。皆さまのご健康、並びに法喜充満(ほうきじゅうまん:法の喜びに満ち溢れること)を祝福致します!
Learning of God Loves All Beings 02
學習《神愛世人》/ 『神は世人を愛す』を学ぶ(第二集)
2018/8/25 英國倫敦Excel展覽中心 檔名:21-786-0002
諸位同學、諸位朋友,今天我們開闢這個單元——《神愛世人》。為什麼要開這個單元?便利於對宗教諮詢的同學們。這些年來,我們做宗教團結的工作,有一點成就,現在大家都知道,宗教團結是有必要的,因為它能夠幫助我們化解衝突、化解對立、促進社會安定和諧。
学生の皆さま、友人の皆さま、今日私たちは『神は世人を愛す』という単元を始めます。なぜこの単元を開かなければならないのでしょうか?宗教の質問をする学生の皆さまのためです。ここ数年来、私たちは宗教を団結させる仕事をしており、少しばかり成就しました。今では皆が、宗教の団結が必要であることを知っています。なぜならそれは衝突を解消し、対立を解消し、社会の安定と調和を促進する助けとなるからです。
我是從二十六歲,遇到方東美先生,我跟他學哲學。最後一個單元,他給我講佛經哲學,我感到很詫異,我說佛是宗教,它怎麼會有哲學?老師告訴我:你還年輕(那年我二十六歲),你不知道,釋迦牟尼是世界上最偉大的哲學家,大乘經典是全世界哲學的最高峰。確實我沒聽說過,第一次聽方先生講。
私は二十六歳から、方東美先生と出会い哲学を学びました。最後の単元は、方先生は仏経哲学を講じて下さいました。私はいぶかしく思いました。私は「仏教は宗教です。それにどうして哲学があるのでしょうか」と言いました。先生は「君はまだ若いから知らないのです。釈迦牟尼仏は世界で最も偉大な哲学者であり、大乗仏典は全世界の哲学の最高峰です」と私に言いました。私は(そのような話は)聞いたことがありませんでした。方先生から初めて聞いたのです。
我接受他的教誨,在最後,總結我們的課程,他提出來,佛教是哲學,學佛是人生最高的享受。這句話很動聽,對我們年輕人來說是很契機,我們聽了很喜歡。真的學佛能帶給我們一生幸福快樂嗎?人生最高的享受?我今年九十二歲,通過六十年的學習,證明老師的話是真的,我佩服到五體投地。
私は方先生の教誨(きょうかい:教え諭すこと)を受け入れました。最後に、課程の総括をする段になると、方先生は提起されました。「仏教は哲学である」「仏に学ぶことは人生最高の享受である」。この言葉は人を引きつけました。私たち若者にとっては契機となり、私たちはそれを聞いて喜びました。本当に仏に学ぶことは私たちに一生幸福と喜びをもたらすのでしょうか?人生最高の享受なのでしょうか?私は今年で九十二歳になります。六十年の学習を通じて、先生の話が本当だったことを証明しています。私は五体投地(ごたいとうち:仏教の最敬礼)するほど敬服しています。
世界上所有宗教的創始人,都是明心見性的社會教育家。這是我跟方先生,他為我開了這門課,我非常感謝他!這堂課時間並不很長,才三、四個月,我重新認識宗教,肯定世界上所有宗教的創始人,都是明心見性的社會教育家。方老師教我這些,我通過六十年的學習,肯定他的話是正確的。
世界のあらゆる宗教の創始者は、明心見性した社会教育者です。方先生は私のためにこの講義を開講して下さったのです。私は方先生にとても感謝しています!この講義は時間としてはさほど長くはなく、三、四ヶ月ほどです。私は宗教を再認識し、世界のあらゆる宗教の創始者は、明心見性した社会教育者であると認めました。方先生は私にこれらの事を教えました。私は六十年の学習を経て、先生の話は正しかったと思います。
「明心見性」是佛教的術語,佛教修學最高的境界就是明心見性,明心見性就叫成佛。佛陀的教育它有四個層次:信、解、行、證。第一個是講信仰,你對它要有真誠的信心,才能夠得到利益。這個道理,在中國過去,不是宗教的,是教育裡面所要求的,中國古人非常重視教育。
「明心見性」とは仏教の術語(じゅつご:専門用語)です。仏教修学の最高の境界(きょうがい:境地のこと)とは明心見性です。明心見性のことを成仏(仏に成る)と言います。仏陀の教育には四つの段階があります。信(教義を信じること)、解(教義を理解すること)、行(教義を実践すること)、証(証得すること)。一つ目は信仰です。あなたはそれに対する真誠(しんせい:まこと)の信心がなければなりません。それでこそご利益を得ることが出来るのです。この道理は、中国では昔、宗教ではなく教育の中で要求されました。中国の古人は非常に教育を重視していました。
兩千多年前,孔子可以說是開私人教學的,用現在的話說私人辦學,做得很成功。從此之後,歷代讀書人都重視教學。而讀書人,幾乎他們唯一的前途,將來怎麼生活,多半靠教學,私塾裡面的老師。教的學生不多,少的五、六個,多的二、三十個;二、三十個就很多了,通常十幾個學生,一個老師,私塾教學。教什麼?教倫理、教道德、教因果、教聖賢承傳下來的智慧,這是私塾教學的內容、教材。
二千年余り前、孔子は個人の教学をしました。今の言葉で言えば私塾を開いて成功したのです。それ以降、歴代の読書人は教学を重視しました。また読書人は、ほとんど彼らの唯一の前途、将来どのように生活するか、その大半は教学に頼っていました。私塾の先生です。教える学生は多くはありません。少なければ五、六人。多ければ二、三十人。二、三十人では多いほうです。通常では十数人の学生に一人の先生です。私塾の教学です。何を教えたのでしょうか?倫理、道徳、因果、聖賢が伝えた智慧を教えました。これが私塾教学の内容、教材です。
一千多年前,我們的老祖宗,世世代代,從生活經驗體會當中,觀察小孩要受什麼教育─—童蒙教育——應該教些什麼。小孩從什麼時候開始教?一般是三歲,上私塾。古人編的這套教材,現在我們把它蒐集起來,總共有二十三種,把它印成一套,《聖學根之根》。根之根就是扎根教育,像一棵樹一樣,根深蒂固才能夠長成大樹,所以中國人重視扎根教育。
一千年余り前、私たちのご先祖様は、代々、生活経験の中から、子どもに何の教育を受けさせるか――童蒙教育(幼児教育のこと)――では何を教えるべきかを観察していました。古人が編纂したそれらの教材、私たちはそれを集めました。合わせて二十三種あり、それを一つにまとめたものが『聖学根之根』(という本)です。根本の根本とはつまりは根(基礎)を張る教育です。ちょうど樹木のように、根を深く張ってこそ大樹に育つことができるようなものです。ですから中国人は根を張る教育を重視していました。
對小孩教育從什麼時候開始?更早的從胎教開始;也就是說,母親懷孕,懷孕這十個月之間,就要注意怎樣能養一個好兒女。母親的責任很重,這十個月期間,心沒有妄想、沒有雜念,因為妄想、雜念會影響嬰兒的智慧、德行,會影響。所以,凡是負面的言行、思想都不能有,要重視倫理道德,把這個影響傳給下一代。小孩出生之後,母親是第一任的老師,在嬰兒面前,言行舉止都要端莊,沒有邪思、沒有惡念。言行舉止都要合乎規矩,規矩是我們自己從小學的,現在要用來教下一代。所以中國古時候的教育,大概從三歲正式入學,就入私塾,由老師教了;從出生到三歲是母親教、父親教。
子どもの教育はいつから始めるのでしょうか?更に早く胎教から始めます。つまり母親が妊娠して、妊娠している十ヶ月間に、どのように良い子を育てるかに注意を払わなければなりません。母親の責任は重いです。この十ヶ月の期間、心に妄想をせず、雑念を持ちません。なぜなら妄想、雑念は胎児の智慧、徳行に影響するからです。ですからおよそ良くない言行(ごんぎょう:言葉と行為)、思想があってはなりません。倫理道徳を重視しなければなりません。これは次世代に影響します。子どもが生まれた後、母親は最初の先生になります。子どもの前では、言行、振る舞いを正さなければなりません。邪(よこしま)な思い、悪い念があってはなりません。言行、振る舞いは規律正しくなければなりません。規律は私たち自身が子供の頃から学んだことです。今それを次の世代に教えなければなりません。中国の昔の教育は、だいたい三歳から正式に入学します。私塾に入ります。先生が教えます。生まれてから三歳までは母親が教え、父親が教えます。
童蒙養正的教科書,古人編寫的這個,在中國用了一千多年。最晚的,明清時候編的,也有七百多年。成功了,這教學成功了。小學學業完成了,向上提升,我們今天做為中學。中學學什麼?學四書五經,這個裡面講求的,修身、齊家、治國、平天下。儒家講得多,經驗非常豐富。所以聖賢教育!
幼児を正しく育てる教科書について、古人はこれを編纂しており、中国では一千年余り用いられました。最も遅いもので、明、清代の編纂され、それでも七百年以上です。成功しました。この教学は成功しました。小学校の学業が完成したら、上に上がります。私たちは今日中学としています。中学では何を学ぶのでしょうか?四書五経【注】を学びます。この中で求めるものは、修身(しゅうしん:自分の身を修めること)、斉家(せいか:家を整えること)、治国(ちこく:国を治めること)、平天下(へいてんか:天下太平の世を築くこと)です。儒家は多くを説いており、経験も非常に豊富です。ですから(教えるものは)聖賢の教育です!
---------------------------------------------------------------------
【注】 四書五経(ししょごきょう)・・・・儒教の基本書とされる書物。
四書・・・・『大学』 『中庸』 『論語』 『孟子』
五経・・・・『易経』 『詩経』 『書経』 『礼記』 『春秋』
---------------------------------------------------------------------
養小孩,無論是男的是女的,都希望他長大成聖人、成賢人,是以這個為目標。跟現在不一樣,現在的教育重視知識,是為了將來自己生活。古時候不是這個,古時候聖賢教育是學聖人、學賢人;像學佛,希望自己能證得阿羅漢、菩薩,當然最高的是希望能成佛。確實如此。
子どもを育てるのに、男であろうと女であろうと、成長したら聖人、賢人になることを願いました。それを目標としました。今とは違います。今の教育は知識を重視して、将来の自分の生活のために学んでいます。昔はそうではありません。昔の聖賢の教育は聖人に学び、賢人に学ぶのです。仏に学ぶように、自分が阿羅漢、菩薩の境地を証得したいと願いました。当然最も高いものは仏に成ることです。間違いなくこのようでした。
所以可以說,世界上所有宗教的創始人,都是明心見性的社會教育家,跟現在教學的目的不一樣。東方有儒釋道,西方宗教教育,宗教教育裡面,我們看西方宗教的經典,也都是至善圓滿的教育。我們能夠肯定,東西方教育,西方教育是宗教,宗教教育裡面補足了東方的倫理、道德、因果、智慧。都是一個時代偉大的社會教育家。
世界のあらゆる宗教の創始者は、すべて明心見性した社会教育者だったと言えます。今の教学の目的とは違います。東方には儒教・仏教・道教があり、西洋は宗教教育です。宗教教育の中には、西洋の宗教の経典を見ますと、この上なく円満な教育があります。私たちは東西の教育を肯定することが出来ます。西洋の教育は宗教であり、宗教教育の中に東方の倫理、道徳、因果、智慧の教育を補足するのです。すべて一つの時代の偉大な社会教育者です。
湯恩比說過一句話,說得好,他說:宗教教育確實是人類不能缺少的根本教育。我們學習宗教六十年了,我覺得湯恩比這句話說得非常好,是他一生研究人類文明歷史的心得總結。他也說過,當人們失去對於既有宗教的信仰時,那就是文明走向崩潰。
トインビー【注】はある言葉を述べています。よく言ったものです。彼は「宗教教育は間違いなく人類が欠かすことのできない根本教育である」と言いました。私たちは宗教を六十年学習しました。私はトインビーのその言葉は素晴らしいと思います。これは彼が一生涯人類の文明と歴史を研究して得られた総括です。彼はまた「人々が宗教の信仰を失った時、それは正に文明が崩壊に向かっているのである」と言っています。
---------------------------------------------------------------------
【注】 アーノルド・ジョセフ・トインビー(Arnold Joseph Toynbee)(1889-1975)・・・・英国の歴史家・文明批評家。歴史の基礎を文明におき、文明の消長の一般法則を体系づけ、独自の歴史観を展開した。著書に『歴史の研究』、『試練に立つ文明』などがある。トインビー氏は「21世紀の人類社会を救うのは、中国の儒教思想と大乗仏教しかない」との見解を示している。
---------------------------------------------------------------------
今天我們有憂慮。二O一五年,我跟威爾士大學校長見了面,我談到我有憂慮。他問我什麼憂慮?我擔心東方的漢學會失傳,東方是儒釋道,就是中國傳統文化。為什麼?現在沒人學了。老一代,我年輕的時候,還能找到二、三十個人,對中國國學有根柢的人,一些老教授;現在這些人都走了,剩下恐怕十個都不到。再過十年,他們全都走了,你要想學,沒人教你了,這太可怕了!世界、社會為什麼這麼混亂?與教育的關係太大了!東方人修的,確實學做人,怎麼樣做一個好人,怎麼樣做一個真正對於社會、對人類有貢獻的好人,我們學這個,現在沒有人學了。我這個顧慮,校長有同感,我們談了很長的時間,談了三個多小時。
今日私たちは憂慮しています。二〇一五年、私はウェールズ大学の校長とお会いした時、私には憂慮していることがあると話しました。彼は私が何を憂慮しているのかと聞きました。私は東方の漢学の伝承が絶えることを心配しています。東方は儒教・仏教・道教、つまり中国の伝統文化です。なぜでしょうか?今では学ぶ人がいないからです。一つ上の世代、私が若い頃には、まだ二、三十人はいました。中国の国学に対する造詣が深い人、老教授たちです。今これらの人はこの世を去りました。残っているのは十人にも満たないかもしれません。更に十年も経てば、彼らは全員世を去ります。あなたが学びたくても、教える人がいなくなります。これは恐ろしいことです!世界、社会はなぜこれほど混乱しているのか?これは教育と大いに関係があります!東方の人が修めるのは、間違いなく人としての身の処し方です。如何にして良い人になるか。如何にして真に社会に対し、人類に対して貢献できる良い人になるか。私たちはこれを学ぶのです。今では学ぶ人がいません。私はこのような心配があります。校長も同感されていました。私たちは長い時間話しました。三時間余り話しました。
我回到香港,過了一個月,校長帶了他們學校的兩位教授到香港來看我,我們就談這個問題。他很積極,提出一個方案,我們共同來辦一個漢學院,這就是今天的英國的漢學院。現在是第二個學期,第二個學期結束之後,下面就第三個學期。我們招收一批年輕人,給他獎學金,勸他來讀書,我們希望他們這批人,能夠繼承中國儒釋道的聖賢教育,不能讓它斷掉。
私は香港に帰りました。一ヶ月が過ぎると、校長は彼らの学校の二人の教授と共に香港にやってきました。私たちはこの問題を語り合いました。彼はとても積極的で、ある提案を出されました。共同で漢学院を作ることです。これが今日のイギリスの漢学院です。現在第二学期です。第二学期が終わった後、次は第三学期です。私たちは若者を募集しました。奨学金を出して、学習することを勧めたのです。私たちは彼らが中国の儒教・仏教・道教の聖賢教育を継承して絶やさないことを願っています。
他們也想到宗教,校長想到宗教,提出了一個方案,辦一個宗教傳教師的博士班。招收二十五個學生,三年畢業,宗教傳教師。把宗教傳教師的學位提升,現在拿到博士學位的人不多,希望將來每個傳教師都有宗教博士學位。好事情!我贊成。這個也開班了,非常難得。
彼らは宗教にも思い至りました。校長は宗教に思い至り、一つの提案をしました。宗教の伝教師の博士コースを作ることです。二十五人の学生を募集して、三年で卒業です。宗教の伝教師です。宗教の伝教師の学位を引き上げます。現在博士号を取得する人は多くありません。将来どの伝教師も宗教の博士号を持っているようにします。良い事です!私は賛成しました。これもまた開講しました。非常に得難いことです。
只要有後繼,繼承傳人,我們心就安了。希望世世代代,把宗教教育,宗教一定要回歸教育,把東方的中國傳統文化復興起來。為什麼?衝突可以化解。人學過聖賢、讀過聖賢書,決定在一生不會跟任何人發生衝突,別人惡意的對我,我以善意回報。絕大多數的人都被感化了,惡人變成善人,壞人變成好人。
後継がいさえすれば、継承者に伝えさえすれば、私たちは安心です。代々宗教教育を――宗教は必ず教育に回帰しなければなりません――東方の中国伝統文化を復興させることを願っています。なぜでしょうか?衝突が解消されるからです。人は聖賢に学んだことがあり、聖賢の書を読んだことがあれば、必ずや一生で如何なる人とも衝突せず、人が悪意を持って接してきても、自分は善意で報いるものです。大多数の人は感化され、悪人は善人に変わり、悪党は良い人に変わるのです。
宗教師。中國教小朋友的,私塾,這童蒙老師,三家村的私塾老師,他們講求信解行證,相信聖賢教育,對自己有大利益。用它來修身、用它來齊家,家庭幸福;用它來創業,你的事業有著正面的發展,好啊!如果再提升,我們用現在的話說大家容易懂,小學小私塾課程畢業之後,提升,中學,跟小學相彷彿,學四書五經。這個裡面有很多講的是治國、平天下的這些學問、知識,學了以後,可以貢獻給社會、貢獻給國家。你懂得治國,現在的社會,你是很好的議員;你懂得平天下,你是很好的領導。難得!
宗教の先生。中国で子どもを教える人、私塾の幼児を教える先生、田舎の私塾の先生。彼らは信(教義を信じること)、解(教義を理解すること)、行(教義を実践すること)、証(証得すること)を求めます。聖賢の教育を信じることは、自分にとって大きなご利益があります。それを用いて身を修め、それを用いて家を整え、家庭を幸せにします。それを用いて仕事をすれば、あなたの事業はまっすぐに発展します。良い事です!今の言葉で言えば皆さん理解しやすいでしょう。私塾の小学の課程を卒業した後、上に上がり、中学では小学と同じように四書五経を学びます。この中には国を治めること、天下を平らかにするといった学問、知識がたくさんあります。学んだあとで、社会に貢献し、国家に貢献することができます。あなたが国を治めること、今の社会を治めることを理解していれば、あなたは良い議員です。あなたは天下を平らかにすることを知っています。あなたは良いリーダーです。得難いことです!
所以宗教是什麼,我們現在搞清楚了,宗教是教育。教什麼?所有宗教經典裡面,我們去讀它,哪一個字出現得最多?愛。所以我肯定,宗教教育是愛的教育。我們向上帝學習,學習祂的大愛;學習了之後,代表上帝,愛世人,愛地球上所有的生物;這是上帝的子女、上帝的學生。所以宗教要回歸教育,宗教要辦學,像現在辦這個大學,好啊!學什麼?學這些課程,學會愛世人、學會化解衝突。
宗教とは何か。今明らかになりました。宗教は教育です。何を教えるのでしょうか?あらゆる宗教経典の中に、私たちはそれを読んでみて、どの字が最も多いでしょうか?愛です。ですから私は宗教教育は愛の教育であると認めています。私たちは神に学び、神の大いなる愛に学ぶのです。学んだ後は、神を代表して世人を愛し、地球上のすべての生物を愛すのです。これが神の子、神の学生です。ですから宗教は教育に回帰しなければなりません。宗教は学校を創立しなければなりません。ちょうど今この大学のように。良い事です!何を学ぶのかと言えば、世人を愛すること、衝突を解消するといった課程を学ぶのです。
今天時間到了,我們就學習到此地。
今日は時間になりましたので、学習はここまでとします。