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浄空法師説法研究

浄空法師の説法に学びながら、日本語に翻訳して紹介しています。

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無量壽經科註 第四回學習班 第222集

2018-08-05 | 【生死の大事を語る】

無量壽經科註 第四回學習班 第222集(有字幕)

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生死の根本は、欲を第一と為す

2013-02-26 | 【生死の大事を語る】


生死根本,欲為第一 / 生死の根本は、欲を第一と為す
文摘恭錄—淨土大經解演義(第五二五集)2011/8/5 檔名:02-039-0525

「邪者邪不正,惡者惡毒不善」,這是念老給我們破字,邪是什麼意思,惡是什麼意思。「《會疏》曰:邪謂邪曲,惡謂罪惡。婬妷者」,這個下面注音,「妷音逸」,同下面這個字也念逸,「婸也」。婸是什麼意思?「婸者,淫也,放也」。「婬」,淫蕩,貪色,「貪色不以禮交也」,這個禮就是婚禮,不應該沒有這種婚姻關係有這種交往都叫邪淫。「又婬者,乃十惡之一」,這是佛家所說的,「婬為枷鎖,縛眾生故;婬為罪源,生諸厄故。一切眾生皆因婬欲而入生死,故云:生死根本,欲為第一」,這是佛經上講淫欲的過惡。
邪者横邪不正,悪者悪毒不善」(「邪」とは横邪にして不正なことである。「悪」とは悪毒にして不善なるものである。)これは黄念祖居士【注1】による破字【注2】です。「邪」はどのような意味で、「悪」はどのような意味なのか。「《會疏》曰:邪謂邪曲,悪謂罪悪。婬妷者」(『會疏』に言う。邪は邪曲を言う。悪は罪悪を言う。婬・妷とは、)この次は音の注です。「妷音逸」(妷の音は逸( yi )である)。(「妷」は)同じように逸( yi )と読みます。「婸也」(婸である)。「婸」とはどのような意味でしょうか?「婸者,淫也,放也」(「婸」とは、「淫」である。「放」である。)。「」とは淫蕩(いんとう=酒色に耽ること)、貪色(たんしょく=女色を貪ること)です。「貪色不以礼交也」(貪色とは礼を以て交わらないことである)。この「礼」とは「婚礼」のことです。婚姻関係もなくそのような交際をすることを、すべて邪淫と言います。「又婬者,乃十悪之一」(また婬とは、即ち十悪の一つである)。これは仏家が説くところの、「婬為枷鎖,縛衆生故;婬為罪源,生諸厄故。一切衆生皆因婬欲而入生死,故云:生死根本,欲為第一」(「婬」を首かせとするのは、衆生を縛るからである。「婬」を罪悪の根源とするのは、諸々の厄(わざわい)を生むからである。一切の衆生は皆淫欲によって生死に入るのである。故に言う。生死の根本は、欲を第一と為す)ということです。これは仏典に説かれている淫欲の過失と罪悪です。

佛講戒律,戒律講得很多,但是殺跟淫都擺在第一。在家戒律是把殺生擺在第一,出家的戒律是把淫欲擺在第一,很有道理。經上用比喻來說,淫是個枷鎖,枷鎖是刑具,能縛眾生。眾生不能了生死、不能出三界,什麼原因?就是這個,眾生因淫欲造作無量無邊的罪業,根是它。歷代我們看這個歷史,末代的皇帝,為什麼把國家丟掉了,最後落得真是國破家亡,生命保不住,都被殺了?你細心去看他的因,淫是第一,都是因為這個亡國的。所以佛把它列為根本大戒,根本大戒是四個,殺盜淫妄,淫是罪源,一切罪的根源。生諸厄故,這個厄是苦難、災難,一切災難是從它而生。所以佛講,一切眾生皆因婬欲而入生死,就是生死輪迴。故云:生死根本,欲為第一。淫欲斷了,輪迴就斷了,你真正能超越三界。
仏陀は戒律を説かれました。戒律について多くのことを説かれました。しかし「殺生」と「淫欲」はすべて第一に置かれています。在家の戒律は殺生を第一に置き、出家の戒律は淫欲を第一に置かれています。とても道理のあることです。経典には比喩を用いて説かれています。「淫」は首かせです。「首かせ」とは刑具であり、衆生を縛ることができます。衆生は生死を明らかにすることができず、三界(欲界、色界、無色界)を出ることができません。何が原因なのでしょうか?正にこれです。衆生は淫欲によって無量無辺の罪業を造りますが、根源はそこにあるのです。
私たちは歴史を見てみますと、最後の皇帝はなぜ国を滅ぼしたのでしょうか。なぜ最後には国を滅ぼし、命も保証されず、殺されたのでしょうか?注意深く彼のその原因を見てみれば、淫欲が第一であり、ほとんどこれによって国を滅ぼしています。そのため仏陀はそれを根本の大戒としました。根本の大戒は殺・盗・淫・妄(殺生・窃盗・邪淫・妄語)の四つです。邪淫は罪の源です。一切の罪の根源です。「諸々の厄を生む」の「厄」とは苦難、災難のことです。一切の災難はそこから生じるものなのです。ですから仏陀は、一切の衆生は皆淫欲によって生死に入る、つまり生死の輪廻に入ると説かれています。故に言う。生死の根本は、欲を第一と為す。淫欲を断てば輪廻は断たれ、あなたは本当に三界を超越することができます。

「如下引諸經論,皆備言淫欲之患」,下面念老引用經論,全是佛在經上說的,論是祖師們詮述的。「《沙彌律》曰:在家五戒,惟制邪婬;出家十戒,全斷婬欲」。沙彌戒,今天能把沙彌律儀做好,就是真善知識,這是蕅益大師給我們做出的榜樣。蕅益大師,明朝末年人,他出生在明朝,圓寂的時候在清朝,我們淨土宗第九代的祖師,九祖。八祖是蓮池大師。這兩個人在淨宗祖師裡頭特別令人尊敬,什麼原因?那個時候淨宗衰,衰到底谷,沒有這兩個人可能淨宗就滅了,他們兩個人把淨土宗復興起來,再帶起來,這是了不起的兩位尊者。
如下引諸経論,皆備言淫欲之患」(下記に諸の経論を引用する、皆すべて淫欲の患を言ったものである)。次は黄念祖居士が経論を引用しています。すべて仏陀が仏典において説かれ、その論は祖師たちが解説したものです。「《沙彌律》曰:在家五戒,惟制邪婬;出家十戒,全断婬欲」(『沙弥律儀』に言う。在家の五戒は、ただ邪淫を制することである。出家の十戒は、全て淫欲を断つことである。) 沙弥戒、今日『沙弥律儀』を実行できるのであれば、正に真の善知識【注3】です。これは蕅益大師【注4】が私たちに模範を示して下さいました。蕅益大師は明朝末期の人です。彼は明朝に生まれ、円寂(えんじゃく)の時は清朝でした。私たち浄土宗の第九代の祖師、九祖です。八祖は蓮池大師です。この二人は浄宗の祖師の中でも特に人から尊敬されています。原因は何でしょう?その頃浄土宗は谷底まで衰退してしまい、この二人がいなければ滅んでいたかもしれません。彼ら二人は浄土宗を復興させ、再び教え導いた、素晴らしい尊者です。

《沙彌律儀》是為在家,他講的,「在家五戒,惟制邪婬」,只禁止邪淫;但是出家十戒,沙彌是出家的,十條戒律,全斷淫欲。「但干犯世間一切男女,悉名破戒」。戒律,戒律沒有了,佛法就沒有了;禮要沒有了,儒家就沒有了;因果沒有了,道家就沒有了,這是儒釋道的三個根。今天儒釋道都衰了,也可以說衰到低谷,誰能夠發心把儒釋道再興旺起來,那是大,這個人是大聖大賢,是佛菩薩再來,不是這樣的人他做不到。 
『沙彌律儀』は在家の為に、「在家五戒,惟制邪婬」(在家の五戒は、ただ邪淫を制することである)と説かれています。ただ邪淫を禁止するだけです。しかし出家の十戒は、「沙弥」とは出家僧のことですが、十箇条の戒律は全て淫欲を断つことです。「但干犯世間一切男女,悉名破戒」(但し世間一切の男女が(戒を)犯すことは、すべて破戒と言う)。「戒律」がなくなれば、仏法はなくなります。「」がなくなれば、儒家はなくなります。「因果」の教えがなくなれば、道家はなくなります。これは儒教・仏教・道教の三つの根本です。今日儒教・仏教・道教は衰退しました。谷底まで衰退したと言っても良いでしょう。儒教・仏教・道教の復興を発心する人がいれば、その人は大徳です。その人は大聖賢であり、仏菩薩の再来です。そのような人でなければ、できるものではありません。

<脚注>
1.黄念祖居士(1912-1992)・・・・本籍は湖北省江陵。無線通信技術を専攻し、大学卒業後はラジオ局に勤めた。解放後は北洋大学、天津大学、北京郵電学院にて教授を歴任。若い頃から仏法を学び、経典研究に専念し、叔父にあたる梅光羲について仏法を学び、虚雲和尚に帰依して禅を学んだ。また諾那活仏の弟子である王家斉、及び貢噶上師より密教のニンマ派(紅教)・カルギュパ派(白教)を学んだ。夏蓮居に師事して浄宗発揚の必要性を学んだ。(百度百科より抜粋して翻訳)
(注) 「解放」は1949年10月1日中華人民共和国成立の意。
    「北洋大学」は天津大学の前身の名称。

2.破字(はじ)・・・・古書の註解などで、文字の意味を解釈する方法のこと。『説文解字』に見られるような、漢字の解説の方法のことだと思われる。(筆者)

3.善知識(ぜんちしき)・・・・人々を仏の道へ導く人。高徳の僧のこと。

4.蕅益大師(ぐうえきだいし)・・・・藕益智旭(1599-1655)。(蕅=藕)。俗姓を鍾、字は智旭、号を藕益、又は西有と号した。別号は八不道人。江蘇省木瀆人。明朝末期の四大高僧の一人で、淨土宗九祖として尊ばれた。晩年は浙江省杭県の霊峰に住んだ。このことから、霊峰藕益大師とも尊称されている。藕益大師の著作には、『阿彌陀經要解』 『梵網經玄義』 『菩薩戒本箋要』 『法華經玄義節要』 『法華經會義』 『楞嚴經玄義』 『楞嚴經文句』 『閱藏知津』 『法海觀瀾』 『周易禪解』 等数十種がある。今日全21冊の『藕益大師全集』が伝わっている。(中国語版ウィキペディアを参照した)

第一回更新 2013-02-26
第一回訂正 2014-07-31

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生死の根本は、淫欲が第一である

2013-02-26 | 【生死の大事を語る】


生死根本,淫欲是第一 / 生死の根本は、淫欲が第一である
文摘恭錄—淨土大經解演義(第五二六集)2011/8/6 檔名:02-039-0526

「《沙彌律》曰:在家五戒,惟制邪婬;出家十戒,全斷婬欲。但干犯世間一切男女,悉名破戒」。我們前面講到這個地方,今天我們接著看下面文。「乃至世人因欲,殺身亡家,出俗為僧,豈得更犯,生死根本,欲為第一,故經云,婬泆而生,不如貞潔而死。」這一大段的經文,是講的五惡、五痛、五燒,這五種惡就是殺盜淫妄酒,就是五戒。這品經內容就是五戒十善,是《無量壽經》裡面所講的戒律,這一大段經文講得很細。前面黃念老引用《沙彌律儀》這段話,下面是他老人家總結的這個經教。乃至世間人因為這個欲,是愛欲、是情欲,殺身亡家,這一句我們能夠看到歷史。
《沙彌律》曰:在家五戒,惟制邪婬;出家十戒,全断婬欲。但干犯世間一切男女,悉名破戒」(『沙弥律儀』に言う。在家の五戒は、ただ邪淫を制することである。出家の十戒は、全て淫欲を断つことである。)。前の講義ではここまでを解説しました。今日は引き続き次の文を見ていきましょう。「乃至世人因欲,殺身亡家,出俗為僧,豈得更犯,生死根本,欲為第一,故經云,婬泆而生,不如貞潔而死。」(乃至は世間の人は欲によって、人を殺し家を没落させる。世俗を出て僧と為り、どうして更に(戒を)犯すことがあるだろうか。生死の根本は、欲が第一なのである。故に経に言う。淫泆(いんいつ)に生きることは、貞潔を守って死ぬことには及ばない。)この大きな段落の経文は、五悪、五焼を説いています。この五種類の悪とは、殺・盗・淫・妄・酒(殺生・窃盗・邪淫・妄語・飲酒)、つまり五戒です。このお経の内容は五戒十善であり、『無量寿経』の中に説かれている戒律を、この経文は詳細に説いています。先に黄念祖居士が引用された『沙弥律儀』の内容ですが、黄念祖居士は次に経教の総括をされています。乃至は世間の人はこの欲によって、つまり愛欲、情欲によって、人を殺し家を没落させる。この言葉は私たちは歴史の中に見ることができます。

夏商周,在中國古代,末代的皇帝因為什麼家破身亡,政權失掉了?幾乎統統是淫欲,這是歷史上記載得很清楚的。我們再細心觀察,在中國每一個朝代最後亡國的這個君王,可以說五戒全都犯了,殺盜淫妄酒。所以政權丟了,家破身亡。你就知道佛給我們定的五戒它的重要性,在世間都造成極大的災難,何況出家了,出家為僧,豈得更犯。它嚴重到什麼程度?生死根本,淫欲是第一。所以經上說「婬泆而生,不如貞潔而死」,這話是真的嗎?是真的。婬泆而生,將來死了之後墮地獄,地獄經裡頭講銅牆鐵柱,這些都是犯婬泆之罪而得的果報。貞潔而死的,絕大多數都生天。
夏・商・周、中国古代において、最後の皇帝は何によって家を没落させ、身を滅ぼし、政権を失ったのでしょうか?ほとんどすべてが淫欲です。これは歴史上の記載によって、はっきりしています。私たちは更によく観察して見れば、中国のどの王朝も最後の亡国の君主は、五戒(殺生・窃盗・邪淫・妄語・飲酒)をすべて犯したと言って良いでしょう。そのために政権を失い、家を没落させ、身を滅ぼしました。あなたは仏陀が定めた五戒の重要性を理解できるはずです。世間においてとてつもなく大きな災難をもたらしました。ましてや出家は尚更です。出家して僧となり、どうして更に(戒を)犯すことができるでしょうか。それはどれほど重大なことでしょうか?生死の根本は、淫欲が第一です。ですから経文には、「婬泆而生,不如貞潔而死」(淫泆に生きることは、貞潔を守って死ぬことには及ばない)と説かれています。この言葉は本当でしょうか?本当です。淫泆(いんいつ)に生きれば、将来死んだ後で地獄に堕ちるのです。地獄経の中には(灼熱の)銅壁・鉄柱と説かれており、それらは淫泆を犯した罪によって得ることになる果報です。貞潔を守って死んだ人は、大多数が天道に生まれます。

天堂地獄差別很大,所以我們要冷靜往前面去想想,我是願意到天堂,還是願意到地獄。這個得頭腦清醒,真信因果。佛在經上講的五戒,五惡,殺盜淫妄酒是五種惡,造這五惡的,來生人身都得不到,生天、往生沒分,這個不能不知道。你看看淨土經論,我們展開經文就看到「善男子,善女人」,帶業往生的也是善男子、善女人,經上講造五逆十惡之罪,他知道懺悔,他知道改過。至少他的這些惡業,這一句佛號能伏得住,這才能往生。
天国と地獄の差はとても大きなものです。ですから私たちは冷静に先のことをよく考えなければなりません。自分は天国に行きたいのでしょうか、それとも地獄に行きたいのでしょうか。これは頭をよく覚まして、本当に因果を信じていなければなりません。仏陀が経典において説かれた五戒、五悪とは、殺生・窃盗・邪淫・妄語・飲酒の五種類の悪です。五悪を犯した人は、来世では人身さえ得ることはできず、天道に生まれることも、往生することも分不相応なのです。このことは知っておかなければなりません。浄土経論を見て下さい。私たちは経文を開くと「善男子,善女人」とあるのが見られます。業をもったまま往生しても善男子、善女人です。経に説かれている五逆・十悪の罪について、彼らは懺悔することを知っています。悔い改めることを知っています。少なくとも彼らの悪業は、この仏号(南無阿弥陀仏)で抑えることができます。それでこそ往生することができるのです。

第一回更新 2013-02-26
第一回訂正 2014-07-31

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念仏して自在に往生した実例

2013-02-02 | 【生死の大事を語る】


念佛自在往生的實例 / 念仏して自在に往生した実例
文摘恭錄—淨土大經解演義(第二五二集)2011/1/25 檔名:02-039-0252

大乘經教,你看看這部經書,念老這個註解引用一百九十三種經論,句句都是提醒我們放下萬緣,一向專念阿彌陀佛,就是住平等住。要真正的認識這一句佛號就是實相,這句佛號就是法界全體,你念這句佛號,你的心、你的身就跟法界全體融成一體,你就回歸實相、回歸法界。再說得現實一點,你什麼災難都沒有了,實相裡頭沒災難,法界裡頭沒有繫縛。即是諸法平等體性。這句佛號,你看看多不可思議,諸法平等的體性,這還得了!但能念念相繼,念而無念,無念而念,那你真的得平等住了。念四個字、六個字都是一樣的,沒有差別,念四個字行,念六個字也行。
大乗の経教というものは、この経書を見てもそうです。黄念祖居士(注1)の註解は百九十三種類の経論を引用していますが、その一字一句すべてが、万縁を放下して一心に阿弥陀仏を唱えるよう私たちを促すものなのです。つまり「平等住」に住することです。この仏号こそが実相であるということを、真に認識しなければなりません。この仏号こそが法界全体なのであり、この仏号を唱えれば、あなたの心、あなたの身体は法界全体と一体になるのです。あなたは実相に回帰し、法界に回帰するのです。更に現実的な事を言えば、あなたには何の災難も無くなります。実相の中に災難は存在せず、法界の中に束縛はありません。即ち諸法平等体性です。この仏号はどれほど不可思議なことでしょうか。諸法平等の体性、これはとてつもないものです!しかし唱え続けて、唱えて無念、無念で唱えれば、あなたは本当に「平等住」を得ることができます。四字(阿弥陀仏)を唱えても、六字(南無阿弥陀仏)を唱えても同じです。区別はありません。四字を唱えても良く、六字を唱えても良いのです。

就像諦閑老法師平常教人,這句佛號念下去,念累了就休息,休息好了你就接著再念。你看多自在,一絲毫的壓力都沒有,累了就休息,休息好了,一醒過來接著再念。這叫淨念相繼,不懷疑、不夾雜,一天到晚就這一句佛號。鍋漏匠念成功了,三年,預知時至,沒有生病,站著往生,死了之後還站了三天,等他師父替他辦後事,站了三天。
諦閑老法師(注2)が平素から人に教えていたように、仏号を唱えて、唱え疲れたら休み、休み終わったら続けて唱えるのです。どれほど自在なことでしょうか。少しも無理するところがありません。疲れたら休み、休み終えて、目が覚めたら続けて唱えるのです。これを「浄念相継」と言います。疑わず、雑念を挟まず、朝から晩までこの仏号だけです。鍋漏匠は念仏に成功しました。三年で予めお迎えの時を悟り、病気をすることなく、立ったまま往生しました。死んだ後も三日間立ち続けて、彼の師父が後の事をしてくれるのを待っていました。三日間立っていたのです。

大概在四十多年前,將近五十年的樣子,四十多年前我在佛光山教書。佛光山有個長工告訴我,他們的鄰居,一位老太太念佛,也就是一句佛號念了三年,也是預知時至,站著往生的。他親眼看見的,告訴我們,這是真的,一點都不假。我那個時候帶了差不多十幾個學生,夜晚月亮非常好,在一個小池塘旁邊,我們在討論佛法,他走到我們圈子裡給我們講開示,勸我們念佛。我們永遠不會忘記。也是念三年,這樣的例子很多!
約四十数年前、ほとんど五十年近くになるでしょう。四十数年前、私は佛光山(注3)で講義していました。佛光山のある作業員が話してくれたことですが、彼らの隣に住んでいたお婆さんは、仏号を唱えて三年で、やはり予めお迎えの時を悟り、立ったまま往生しました。彼は自分の目で見たことを、私たちに話してくれたのです。これは真実であり、決して偽りではありません。私はあの時、だいたい十数人の学生を連れていました。夜の月がきれいで、私たちは小さな池の畔で仏法のことを討論していました。彼は私たちの輪の中に入って、私たちに開示し、念仏することを勧めて下さったのです。私たちは永遠に忘れることはありません。やはり三年唱えたのです。このような事例はたくさんあります!

<脚注>
1.黄念祖居士(1912-1992)・・・・本籍は湖北省江陵。無線通信技術を専攻し、大学卒業後はラジオ局に勤めた。解放後は北洋大学、天津大学、北京郵電学院にて教授を歴任。若い頃から仏法を学び、経典研究に専念し、叔父にあたる梅光羲について仏法を学び、虚雲和尚に帰依して禅を学んだ。また諾那活仏の弟子である王家斉、及び貢噶上師より密教のニンマ派(紅教)・カルギュパ派(白教)を学んだ。夏蓮居に師事して浄宗発揚の必要性を学んだ。(百度百科より抜粋して翻訳)
(注) 「解放」は1949年10月1日中華人民共和国成立の意。
    「北洋大学」は天津大学の前身の名称。

2.諦閑法師
(1858-1932)・・・・浙江省黄岩の人。号は卓三。法師は終生弘法に勤め、人々を教え導かれ、その教えは三蔵に通じ、一乗を学究された、天台の泰斗である。衰退した近代仏教を支えた功績がある。またその梵行は高尚であり、多くの弟子を育成した。一生の著述は非常に豊富で、『大乗頂首楞厳経序指昧疏』等がある。(百度百科より抜粋して意訳)
http://baike.baidu.com/view/657758.htm

3.佛光山(ぶっこうざん)・・・・大乗仏教の寺院。1967年に星雲大師により開山された。総本山は台湾の高雄市大樹区にあり、目下世界各国におおくの別院がある。星雲大師は著名な仏教僧侶であり学者でもある。「人間佛教」を提唱し,中国仏教臨済宗の法脈を伝承している。(中国語版ウィキペディアより抜粋して翻訳)
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%9B%E5%85%89%E5%B1%B1

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往生の実例

2012-11-10 | 【生死の大事を語る】


往生實例 / 往生の実例
文摘恭錄—大方廣佛華嚴經(第二O九四)2010/1/27 檔名:12-17-2094

宋朝瑩珂法師,《淨土聖賢錄》上有他的記載,《往生傳》裡也有他的行誼,那不是假的,是真的,三天成功。至誠懺悔,真誠到極處,那個真誠心怎麼樣?就好像我已經被閻王判到­下地獄,馬上就要執行了,這個時候有人告訴你,阿彌陀佛可以救你,你一心念他,他就幫你,這個時候至誠心能生起來。
宋朝の瑩珂法師については、『浄土聖賢録』に記載があり、『往生伝』にも彼の行いを見ることができます。あれは偽りではなく、真実です。三日で成功しています。至誠をもって懺悔し、誠の心が極限に達したのです。至誠の心があるとどうでしょう?自分が閻魔王に地獄に行く判決を下されて、すぐに執行されようとしていても、正にその時、誰かが「阿弥陀様が救って下さいます。あなたが一心に念じれば、助けて下さいます。」とあなたに言うようです。その時に至誠の心を起こすことができます。

  早年,這是二十多年前,我在美國,「華府」佛教會同修遇到的一個居士,一位,那他還不信佛,周廣大先生,開麵包店的,得了癌症,末期,醫生放棄治療,他的家人才到處求佛問­神,看看有沒有什麼奇跡,找到我們佛教會。我們同修去把這個方法告訴他,看他樣子不行了,教他不必求病好,把念頭轉一轉,求往生,這個世界太苦了。他有善根,跟他一說,他­就明白了,他就接受了,讓他家人一起幫他助念,三天之後往生,他真往生了,瑞相希有。這是我們看到的三天念佛成功的,給我們美國各地淨宗學會的同修,做了很好的證明,這個­事情不是假的。
これは二十年以上前のことですが、私はアメリカの「華府」仏教会で一人の居士と会いました。彼は仏法を信じていませんでした。彼は周広大さんといって、パン屋を経営していましたが、末期癌になり、医者も治療できませんでした。彼の家族はあちこちに神仏を求めるようになり、何とかして奇跡が起こらないものかと思い、私たちの仏教会にたどりつきました。私たちの門徒はこのような方法を彼に伝えました。彼の容体が良くないのを見て、病気が良くなることを願わずに、気持ちを入れ替えて往生を求めることを教えました。この世界は苦しすぎます。彼には善根がありました。彼にそう話すと、彼はすぐに理解しました。すぐに受け入れました。彼の家族に一緒に念仏してもらい、三日後に往生しました。彼は本当に往生しました。稀に見る瑞相です。これは私たちが見た三日念仏して成功した実例です。アメリカ各地の浄宗学会の門徒に対して、とても良い証明をしてくれました。この事は偽りではありません。

  我們在美國住了那麼多年,同修當中念佛,站著走的沒聽說,坐著走的有好幾位,不生病,其中在舊金山有一位老居士,兒子在美國念書,畢業之後在美國工作、結婚、也生了小孩,­兒子、媳婦就把她請到美國去,照顧家事,幫他看孫子。在美國住了幾年,她學佛,她念佛,家裡人不知道。而且她真放下了,走的那一天很瀟灑,她沒有告訴她家裡人。因為每天早­晨都是她做家務,這一天早晨起來,老太太沒有起來燒早飯,所以兒子媳婦感覺到很奇怪,就推開她房間的門,看到她衣服穿得很整齊,穿得很新,坐在床上。仔細一看,她走了,也­不知道什麼時候走的。
私たちはアメリカに何年も住んでいましたが、門徒の中で、立ったまま往生したというのは聴いたことがありませんが、座ったまま往生した人は何人もいます。病気にもなりません。その中のサンフランシスコのある老居士は、子どもがアメリカの学校に通い、卒業した後アメリカで仕事をし、結婚して子供を産み、息子の嫁が彼女をアメリカに呼んだので、家事を手伝い、孫の面倒を見ていました。アメリカに何年か住んでいましたが、彼女が仏法を学び、念仏していることを、家族は知りませんでした。しかも彼女は本当に(執着を)放下していて、往生した日はとても見事なものでした。彼女は家族にも言いませんでした。彼女は毎日、朝早くから家事をしていましたが、その日は朝御飯を作るのに起きて来ませんでした。ですから息子と息子の嫁は変だと思って、彼女の部屋のドアを開けました。すると彼女はきちんと服を着て、新しい服に着替えてベッドに腰掛けていました。よく見ると、彼女は亡くなっていました。いつ逝ったのかも分かりません。

而且她床邊,把兒子、媳婦、孫子的孝服都做好了,留了有遺囑。這個老太太聰明!一聲不響,我們從她這一些後事方面來說,她預知時至,至少幾個月以前。­她給家裡人,你看,孝服統統都做好了,一份一份疊得整整齊齊,放在她旁邊,她盤腿打坐走的。這是真的,不是假的!舊金山一帶念佛人都去看她,這個事情是當時甘太太打電話告­訴我的,這個老太太跟她是老朋友。那麼她念佛的功夫,時間也不算太長,五、六年而已,真有成就。
彼女のベッドの傍には、息子、息子の嫁、孫の喪服が作ってあり、遺言書が残されていました。そのお婆さんは聡明です!ひとことも言いませんでした。これらの事から言えるのは、彼女は前もってその時が来るのを知っていたのです。少なくとも何か月も前からです。彼女は家族の為に喪服を作り、一着ずつ丁寧に畳んで、傍に置いておいたのです。彼女は坐禅を組んで亡くなりました。これは本当です。偽りではありません!サンフランシスコ一帯の念仏する門徒たちは皆彼女を見ています。この事は当時甘さんが電話で知らせてくれました。甘さんと彼女は古い友人です。それでは彼女の念仏の習熟はどうかといえば、それほど長くはありません。五、六年に過ぎません。本当に成就したのです。

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往生は究極円満の成就である

2012-11-09 | 【生死の大事を語る】


往生是究竟圓滿的成就 / 往生は究極円満の成就である
文摘恭錄—大方廣佛華嚴經(第二O八八卷)2010/1/21 檔名:12-17-2088

學佛人,生生世世累積的因緣,佛法也是因緣生,離不開因緣。但是在因緣當中,你能把握著方向,把握著目標。現在是末法時期,業障很重,自己的業障重,外面誘惑的力量非常之­強,比古人超過一百倍不只。難!真難!難能成就,是真成就。在現在這個時期,修到這個清淨心,古人不能不佩服。古人要生在我們這個時代的時候,很多人不能成就,遇緣不同!­這是我們一定要清楚的,我們只有一個目標,一個方向。一個目標,極樂世界,一個方向,西方淨土。
仏法を学ぶ人は、何度も生まれ変わって因縁を積み重ねます。仏法もまた因縁を生み、因縁を離れることはできません。しかし因縁の中で、あなたは方向を把握し、目標を把握していることができます。今は末法の時期なので、業障(注1)はとても重いのです。自分の業障は重いものです。外からの誘惑の力は非常に強く、それは古人と比べて百倍を優に超えているでしょう。難しいことです!本当に難しいことです!難しい中で成就したなら、それは本当の成就です。今このような時に清浄心を修めるなら、古人も敬服せずにはいられません。古人が私たちの時代に生まれていれば、多くの人は成就できないでしょう。遇縁(ぐうえん)が異なります。私たちがはっきりさせなければならないのは、私たちは一つの目標、一つの方向しかないということです。一つの目標とは極楽世界であり、一つの方向とは西方浄土です。

往生就是成就,不但是成就,確實如佛所說,如祖師所說的,是究竟圓滿的成就­。這個法門,古聖先賢都稱之為難信法門,真難信。但是它易行,易行是跟八萬四千法門比較,它容易。實際上呢?實際上也不容易。不容易在哪裡?不容易是你放不下。你真肯放下­,就容易。不你肯放下,就不容易。你必須把名聞利養,是我,貪瞋痴慢放下。你這一生穩穩當當的成就。
往生することが成就なのです。ただの成就ではなく、仏陀が説かれ、祖師が説かれるところの、究極円満の成就です。この法門は、昔の聖賢も “信じ難い法門” と言っていますが、本当に信じ難いものです。しかし容易に行うことができます。容易に行えるというのは、八万四千の法門と比較して容易なのです。実際はどうでしょうか?実際には容易ではありません。どこが容易でないのでしょうか?容易でないのは、あなたが(執着を)放下(注2)できないことです。あなたが本当に進んで放下するなら、容易です。あなたが進んで放下しないなら、容易ではありません。あなたは必ず名聞利養(注3)、是我(注4)、貪瞋痴慢(注5)を放下しなければなりません。(それができれば)あなたはこの一生で難なく成就することができるでしょう。

<脚注>
1.業障(ごうしょう/ごっょう)・・・・過去の悪業によって生じた障害のこと。

2.放下(ほうげ)・・・一切の執着を捨て去ること。手放すこと。

3.名聞利養(みょうもんりよう)・・・・名声と利得。名誉欲と財欲に駆り立てるもの。

4.是我(ぜが)・・・・是非正邪にとらわれる我見。

5.貪嗔痴慢(とん・じん・ち・まん)・・・・「」は貪り、「」は怒り、「」は無知・愚かさ、「」は傲慢さ。

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長寿を求めることはない

2012-11-08 | 【生死の大事を語る】


不用求長壽 / 長寿を求めることはない
文摘恭錄—大方廣佛華嚴經  (第二0五六卷)  2009/11/8  檔名:12-17-2056

我要不是學佛,我可以說我早就不在這人世了。我從小就相信命運,我也沒有求長壽,很多人告訴我,我的壽命只有四十五歲,我相信。我現在看到我的家譜,我的祖父四十五歲走的­,我的伯父也是四十五歲走的,我父親也是四十五歲走的,前面這幾代好像壽命都不長,所以人家說我過不了四十五歲我相信。我也沒有求長壽,我只是遇到佛法,希望能往生淨土。­
私はもし仏法を学んでいなかったら、とうの昔にこの世にいなかったでしょう。私は子どもの頃から運命を信じていました。また長寿を求めることもありません。多くの人が私に、私の寿命は四十五歳しかないと言ったので、私はそれを信じていました。私の家譜を見てみると、私の祖父は四十五歳で亡くなり、私の叔父も四十五歳で亡くなっています。私の父親も四十五歳で亡くなりました。先の数世代はすべて寿命が短いので、私は四十五歳を越えられないと人から言われて、それを信じていました。私も長寿を求めませんでした。私は仏法を知ったので、浄土に往生したいと思っていました。

四十五歲那年確實生了一場病,我自己心裡有數,壽命到了要走了,所以我也不看醫生也不吃藥,為什麼?我懂得醫生只能醫病不能醫命,壽命到了他沒法子。所以我求生淨土。沒想­到過一個多月病就好了,也沒有想到能活這麼大年歲,沒想到。我在七十九歲那一年,到北京去訪問,生了一場病,四天,這裡頭有一天我有一次瀕死的經驗。我了解,自己親身體驗­到了,很難得。那是一個夢,但是也不像夢,為什麼?它太清楚了,平常做夢是模糊,沒那麼清楚,境界太清楚了。
四十五歳になると、本当に病気になりました。私は心の中で分かっていました。寿命が来たので逝かなければなりません。ですから私は医者に診てもらうことも、薬を飲むこともしませんでした。なぜでしょう?医者は病気は治せても、運命は治せないことを知っているからです。寿命が来たのであれば、医者はどうすることもできません。ですから私は浄土を求めました。思いがけず一箇月すると病気は治ってしまいました。これほど長く生きるとは、思ってもみませんでした。私は七十九歳のあの年、北京を訪問したとき病気になりました。四日間です。その中のある一日、私は瀕死の状態を経験しました。私は自分の身をもって体験しました。とても得難いことです。あれは夢でした。しかし夢のようでもありません。なぜでしょう?それは非常にはっきりしていたからです。通常の夢はあいまいで、それほどはっきりしませんが、あの時は非常にはっきりしていました。

見到釋迦牟尼佛,見到阿彌陀佛,見到毗盧遮那佛,見到觀世音菩­薩,我真的很想跟他們去!可是那個時候我說了一句話,如果佛菩薩要我再留在這個世間幫助苦難眾生,我說也可以。這就清醒過來了,這個境界馬上就沒有了。可是我的病就好了,­燒就退了、就沒有了,人的精神非常好。第二天我就回到香港,我記得在香港休養了兩個星期就恢復講經。所以活在這個世間已經沒有自己了,與自己毫不相干,活在這個世間全心全­力為兩樁事情,第一正法久住,第二個,幫助苦難眾生。我懂得。
釈迦牟尼仏が見え、阿弥陀仏が見え、毗盧遮那仏が見え、観世音菩薩が見えて、私は本当に彼らと行きたいと思いました!しかしあの時、私は一言こう言いました。もし仏・菩薩が私をこの世間に留めて苦難の中にある衆生を助けよと言われるなら、私はそれでも良いです、と言いました。そして目が覚めました。その境界はすぐに無くなりました。しかし私の病気は良くなって、熱も下がりました。非常に元気になりました。翌日私は香港に戻り、香港で二週間休養してから説法を再開しました。ですからこの世間に生きていて、すでに自分はありません。自分とはまったく関係なく、この世間に生きているのは、二つの事の為です。
一つ目は、正法がこの世に長く留まるように努めること。二つ目は、苦難の中にある衆生を助けることです。私はそう理解しています。

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回り道をしてはならない

2012-11-07 | 【生死の大事を語る】


不要走彎路 / 回り道をしてはならない
文摘恭錄—修華嚴奧旨妄盡還源觀 (第一0七集) 2009/9/18 檔名:12-47-107

  眾生迷失了自性,在六道裡頭長劫輪迴,惡業愈造愈深,回不了頭,完全迷失。諸佛如來大慈大悲於一念中,此地要我們注意到一念,一念是什麼?一念是真心,一念是無念,二念、三念是凡夫。一念就是《彌陀經》上講的「一心不亂」,他才能利益一切眾生。饒是豐饒,最圓滿的利益來幫助一切眾生,幫助他覺悟,幫助他回頭。就像我們看到很多造作一切惡業眾生,真的把佛法聽懂、聽明白,他真後悔,為什麼沒有早接觸到?為什麼到中年才接觸到?已經造了十幾、二十幾年的罪惡;如果早接觸到就不會走這些彎路,就不會造這麼多罪業。發露懺悔,這是諸佛菩薩神通的加持。
衆生は自性(注1)を見失っているのです。六道(注2)の果てしなく長い輪廻において、悪業は犯せば犯すほど深まり、改心できなくなり、完全に(自性を)見失ってしまいます。諸仏如来の大慈大悲は一念の中にあります。そのことからも、私たちは一念に注意しなければなりません。一念とは何でしょうか?一念とは真心です。一念とは無念です。二つ、三つと念を起こすのは凡夫です。一念とは『阿弥陀経』に説かれている「一心不乱」であり、それでこそ衆生にご利益をもたらすことができるのです。「」とは豊饒のことで、最も円満なご利益をもって一切の衆生を助けることです。衆生が悟り、改心するのを助けます。ちょうど私たちが、ありとあらゆる悪業を犯してきた衆生を見るようなものです。本当に仏法を聴いて理解した時、そのような人はなぜもっと早く知らなかったのか、なぜ中年になって知ったのかと本当に後悔します。すでに十数年、二十数年の罪悪を犯しています。もし早くから知っていれば、そのような回り道をしなかったでしょう。それほど多くの罪業を犯さなかったでしょう。懺悔の心を発露すること、それは諸仏菩薩の不思議なご加護なのです。

佛菩薩為什麼加持他不加持我?你要找這個原因,他能回頭,他能懺悔,他能改過,人只要有這樣的心,真心,真幹,佛菩薩就加持你,你肯定就能得到。如果你說發露懺悔,我做的那麼多壞事,我不好意思講給人聽,面子問題,就把佛菩薩的加持障礙住。你還要面子,說出來難為情,說不出口,這真叫大病。到什麼時候你才能說出口?你到地獄、餓鬼、畜生,這裡面轉一圈之後,你才知道果報的可怕。
それではなぜ人に仏・菩薩のご加護があって、自分にはないのでしょう?あなたはその原因を考えなければなりません。その人は改心することができ、懺悔することができ、悔い改めることができたのです。人にこのような真心があり、本当に実行するなら、仏・菩薩はあなたを護って下さいます。あなたは必ず(ご加護を)得ることができます。もしあなたが懺悔を発露したとしても、自分の犯した多くの悪事を人に言えないなら、それは面子の問題であり、仏・菩薩のご加護に障害が生じます。あなたにはまだ面子があり、言うのが気まずくて、言い出せないようなら、それは本当に大病と言うものです。いつになったらあなたは言うことができるのでしょう?地獄道、餓鬼道、畜生道(注3)に堕ちて、そこを一周した後で、あなたはようやく果報の恐ろしさを知るのです。

人要能夠怕惡報,勇氣就能現前,為什麼?再嚴重的罪業只要一懺悔就消!你要是不懺悔,那個病根永遠在阿耶識。所以現在西方人講什麼?隱私權,這個隱私是很糟糕的。隱私是什麼?自己造作很多罪惡不跟人說,那就是你的病根,不但現在你身體的病根,而且是三途業報的病根。你將來到哪裡去?地獄、餓鬼、畜生你有分,修再多的福報,你到惡道裡面去享福,不在人間,不在天上。這要不是深入經藏的老同修,他不曉得,他還在迷惑顛倒。
人は悪報を恐れていれば、(悪事を告白する)勇気が出てくるものです。なぜでしょう?どれほど重い罪業も、ひとたび懺悔すれば解消されるのです!あなたが懺悔しなければ、その病根は永遠に阿頼耶識(注4)の中に残ります。今の西洋人は何と言うでしょうか?プライバシーの権利です。このプライバシーの権利というのは、非常に良くないことです。プライバシーとは何でしょう?自分が犯した数々の罪悪を、人に言わないことです。それこそがあなたの病根であり、今のあなたの身体の病根であるばかりか、三途(さんず/脚注3参照)の業報の病根なのです。あなたは将来どこに行くのでしょうか?あなたは地獄、餓鬼、畜生に相応しく、少しばかり福を修めても、あなたは悪道の中で福を享受するのです。人間道でも、天道でもありません。これは経蔵を深く学んだ人でない限り、理解していないでしょう。その(ことを知らない)人は、依然として迷いの中にいるのです。

<脚注>
1.自性(じしょう)・・・・私たちが本来備えている真の性質のこと。真如法性(しんにょほっしょう)。

2.六道(ろくどう)・・・・衆生が業によっておもむく六種の世界。生死を繰り返す迷いの世界。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道のこと。六趣、六界。

3.地獄道、餓鬼道、畜生道・・・・三途(さんず)、三悪道(=三悪趣)のこと。迷いと苦しみの世界。

4.阿頼耶識(あらやしき)・・・・宇宙万有の展開の根源とされる心の主体。万有を有することから蔵識、万有発生の種子(しゅじ)を蔵するところから種子識ともいわれる。

<参考>
仏教の世界観
十界(じっかい)・・・・悟りの世界を四つ(四聖法界)、迷いの世界を六つ(六道輪廻)に分けた世界観。
  【悟界】(四聖法界)
   ・仏界、菩薩界、縁覚(えんがく)界、声聞(しょうもん)界。
  【迷界】(六道輪廻)
   ・天上界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界。

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臨終の時、なぜ亡くなった人が見えるのか

2012-11-07 | 【生死の大事を語る】


臨終時為什麼看到過世的人 / 臨終の時、なぜ亡くなった人が見えるのか
文摘恭錄—修華嚴奧旨妄盡還源觀 (第九十四集) 2009/9/5 檔名:12-47-94

  你自己真正修行,心地清淨,一塵不染,你的冤親債主不會找你麻煩,而且你有護法神。如果心地不清淨,還是自私自利,還搞名聞利養,搞假的,冤親債主瞧不起。他現在不來找你麻煩,為什麼?你壽命沒到。等你壽命快到了,全來了。很多人臨命終時,說看到這個人、那個人,他所講的人都是已經過世的親朋好友,他們要來接引他。那是不是真的?不是的。
あなた自身が本当に修行して、心が清らかで俗塵に染まらなければ、恨みを持っている鬼神はあなたを邪魔することはできません。その上、護法神(仏法を守護する善神)のご加護があります。もし心が清らかでなく、依然として利己主義で、名聞利養(注1)にこだわり、偽りを行っているなら、恨みを持っている鬼神に侮られます。彼らは今はあなたに面倒をかけません。なぜでしょう?まだ寿命があるからです。あなたの寿命が尽きそうになるのを待って、すべてやって来ます。多くの人が臨終の時に、あの人が見えた、この人が見えたと言います。その人が言うのは、すでに亡くなられた親しい友人たちで、彼らはその人を迎え入れようとします。それは本物なのでしょうか?そうではありません。

《地藏經》上講得很清楚,是冤親債主變成他的家親眷屬來引誘他,把他帶走之後,再現本來面目跟他算帳。臨終關懷,最重要的就是在這個時候提醒他,幫助他,看到任何境界不理會,老實念佛,這個現象就不見了。你不要怕他,不要理會他,一個心就是求生極樂世界,就是等待阿彌陀佛來接引,這就對,不能有雜念!
『地蔵経』には明確に説かれています。恨みを持っている鬼神が、その人の親類縁者に化けて誘い込もうとしているのです。その人を引き込んだ後、再び本来の姿が現れてその人に仕返しをするのです。臨終の際の配慮において最も重要なのは、その時に注意を促すこと、助けることです。何が見えようと相手にせず、静かに念仏すれば、この現象は見えなくなります。それを怖がってはなりません。それを相手にしてはなりません。心はただ極楽世界に生まれることを願い、阿弥陀仏のお迎えを待てば良いのです。雑念があってはなりません!

  知道自己這一生做錯了很多事情,得罪很多眾生,真正發菩提心,求生淨土。到西方極樂世界,學成之後,倒駕慈航來幫助他們。這就是大乘教裡常講的,佛不度無緣眾生,這些跟你都有緣,無論是善緣、惡緣,都一律平等看待。自己修成之後,一個不漏,不管他們在哪一道,他有苦難需要人幫忙,這個訊息你就能收到,你就能現身幫助他。到那個時候才真正知道,他跟我是一體。那時的感應,無論他有心還是無心,無心都有感應。
自分がこの一生で多くの過ちを犯したこと、多くの衆生に罪を犯したことを知ったなら、真に菩提心を起こして、浄土に生まれることを願うことです。西方極楽世界に行って、修行が成就してから、菩薩の化身となって(倒駕慈航(注2)、彼らを助けに行きます。これが大乗教でよく説かれている、「仏は無縁の衆生を済度しない」ということです。あなたと縁があるなら善縁・悪縁に関わらず、すべて一律平等に対応します。自分の修業が成就した後であれば、彼らがどの世界にいようと、苦難に遭って助けが必要なら、あなたは一人残らずそれを知ることができます。あなたは菩薩の化身となって彼らを助けることができるのです。その時に至って、ようやく他者と自分が一体であるということを本当に理解するでしょう。その時の感応は、その人が意識するかしないかは関係なく、意識しなくても感応はあります。

<脚注>
1.名聞利養(みょうもんりよう)・・・・名声と利得。名誉欲と財欲に駆り立てるもの。

2.「倒駕慈航」・・・本来すでに成仏している人が、菩薩の化身となって現れること。
 「倒」は後ろに下がること、「駕」は駕籠(かご)・乗り物、「慈」は慈悲心、「航」は舟で渡ること。
 解釈は下記を参照した:
 「倒駕慈航」:就是隱大示小,他本來已經成佛了,現在又示現菩薩身,化身來做觀世音菩薩。
 http://www.longbeachmonastery.org/DaBeiGwanShiYinPuSa-c.htm

 *「冤親債主」は適当な訳がないので、ここでは意訳して「恨みを持っている鬼神」とした。(訳者)

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生死は身体を換えることに過ぎない

2012-11-06 | 【生死の大事を語る】


生死只是換個身體而已 / 生死は身体を換えることに過ぎない
文摘恭錄--修華嚴奧旨妄盡還源觀(第八十一集)2009/8/23 檔名:12-47-81

  人沒有真正出生過,也從來沒有真正死過,生死只是換個身體而已,真的就像換一件衣服一樣。所以不必害怕,不要留戀,身體是愈換愈好。人生在世,總結人生的意義是什麼?不斷的學習,不斷的提升。沒有學佛,不知道最高的是什麼,以為最高的像神一樣的。學佛法後知道「妄盡還源」,回到究竟圓滿的自性,佛法最高的境界是跟自性融成一體。
人は本当に生まれたことがなく、これまで本当に死んだこともありません。生死は身体を換えることに過ぎません。本当に服を着替えるようなものです。ですから怖がる必要はありませんし、名残を惜しむこともありません。身体は換えれば換えるほど良くなります。人がこの世に生きる、人生の意義を総括してみるなら、それは何でしょうか?それは絶え間なく学び、絶え間なく向上することです。仏法を学んでいなければ、最高のものは何なのかを知りません。最高のものは神と同じようなものだと思うでしょう。
仏法を学んだ後、「妄尽還源」(妄念が尽きれば根源に還る)ということ、究極円満の自性(注1)に回帰することを知るのです。仏法最高の境地は、自性と一体になることです。

佛經上比喻像海水,佛把海水比喻作自性,我們迷了自性,就像海水裡面起一個水泡,修行終極的目標是把這個水泡打破,就是海水了。菩薩們知道沒有打破還是海水,這就是菩薩在十法界應化。但是凡夫不知道,他認為他那個水泡是獨立的,跟別的水泡、跟大海不相干,這就完全迷失了自性。
仏典では海水に喩えられます。仏陀は海水を自性の比喩としています。私たちは自性に迷いが生じていて、それはちょうど海水に泡ができるようなものです。修行の究極的な目標は、この泡を打ち破ることであり、海水そのものなのです。菩薩たちは(泡を)打ち破らなくてもやはり同じ海水なのだと知っています。これは菩薩が十法界に応化しているのです。しかし凡夫はこのことを知らず、この泡は独立したもので、別の泡や、大海とは関係がないと思い込んでいます。これは完全に自性を見失っているのです。

<脚注>
1. 自性(じしょう)・・・・私たちが本来備えている真の性質のこと。真如法性(しんにょほっしょう)。

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