『礼記』学記第十八
管理人曰:
実は某社の大学入試向けの赤本の背表紙にこの言葉が書かれていました。
浄空法師もよく引用されているので馴染みのある言葉ですが、出典が『礼記』であることを初めて知りました。
ただその書き下し文は「教学を先とす」となっていました。
「為」はサ変動詞と見れば「す」と読みますから「教学為先」を「教学を先とす」としても意味は通りますが、漢文の書き下しの習慣として「教学を先と為(な)す」と読んだ方が自然な気がします。
『送孟東野序』(唐・韓愈)より
大凡物不得其平則鳴。
大凡(およ)そ物其の平を得ざれば則ち鳴る。
およそ物は平常の状態を保てないときに鳴る。
草木之無聲,風撓之鳴。
草木の聲無きも、風之を撓(たわ)ませば鳴る。
草木のように声の無いものでも、風がこれをたわませると鳴る。
水之無聲,風蕩之鳴。
水の聾無きも、風之を蕩(とろか)せば鳴る。
水のように声の無いものでも、風がこれをゆり動かせば鳴る。
其躍也,或激之。
其の躍るや、之を激す或ればなり。
水が跳ね上がるのは、これに激しくぶつかるものがあるからである。
其趨也,或梗之。
其の趨るや、之を梗ぐ或ればなり。
水が急にとび出すのは、これを梗(ふさ)ぐものがあるからである。
其沸也,或炙之。
其の沸くや、之を炙(あぶ)る或ればなり。
水が沸くのは、これを熱するものがあるからである。
金石之無聲,或擊之鳴。
金石の聾無きも、之を撃つ或れは鳴る。
金属や石など声の無いものでも、これを打つものがあれば鳴るのである。
人之於言也亦然。
人の言に於(お)けるや亦(また)然(しか)り。
人の言葉の場合もまたそうである。
有不得已者而後言,
已むを得ざる者有って而る後に言ふ。
やむを得ない状況があって、その後でものを言うのである。
其謌也有思,
其の歌ふや思ふこと有ればなり。
人が歌うのは、心に思うところがあるからである。
其哭也有懷。
其の哭くや懐(おも)ふこと有ればなり。
人が声をあげて泣くのは、心に思うことがあるからである。
凡出乎口而為聲者,
凡そ口より出でて聲を為す者は、
およそ口から音を出す者は、
其皆有弗平者乎。
其れ皆平かならざる者有るか。
みな心に平らかでないものがあるからではないだろうか。
(以下省略)
子曰、君子和而不同、小人同而不和。
子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。
孔子は言った。君子は心から和するが、無暗に同調したりはしない。
小人は無闇に同調しながら、心から和することはない。
『論語』 子路23
清明時節雨紛紛
清明(せいめい)の時節 雨紛紛(ふんぷん)
路上行人欲断魂
路上の行人(こうじん) 魂(こん)を断たんと欲す
借問酒家何處有
借問(しゃもん)す 酒家(しゅか)は何(いず)れの処(ところ)にか有る
牧童遙指杏花村
牧童(ぼくどう)遥かに指さす 杏花(きょうか)の村(むら)
杜牧(803~853、晩唐の詩人)
「清明」は二十四節気の一つ。
中国では清明節と言い、この時期にお墓参りをします。
杜牧の詩の冒頭にあるように、
奇しくも今日は日本でも中国でも、雨模様の地域が多いようです。
贈蕭瑀 李世民(唐太宗)
蕭瑀(しょう う)に贈る
疾風知勁草
疾風(しっぷう)に勁草(けいそう)を知り、
激しい風が吹いてはじめて丈夫な草が見分けられるように、
板蕩識忠臣
板蕩(はんとう)に忠臣を識(し)る。
世の中が乱れてはじめて真の忠臣を見い出すことができる。
勇夫安知義
勇夫安(いず)くんぞ義を知らん。
勇ましい者が正しい道(義)をわきまえているとは限らない。
智者必懐仁
智者必ず仁を懐(おも)ふ。
(しかし)道理に通じた人(智者)は必ず思いやりの心(仁)を持っているものである。
(読み下し文、訳はご参考まで)
<注>
蕭瑀(しょうう、575-648)・・・・隋、唐時代の政治家。
李世民(りせいみん、598-649)・・・・唐朝第二代皇帝。太宗。
冒頭の「疾風に勁草を知る」は『後漢書』「王覇伝」からの引用。
<参考>
http://www.estmue.tp.edu.tw/~library/101/101-1poetry/poem99/99-02-07.htm(中国語)
移風易俗,莫善於楽。
風(ふう)を移し俗を易(か)ふるは、楽(がく)より善きは莫(な)し。
世間の風俗を(良い方向に)変えるには、音楽より良いものはない。
―――『孝経』 広要道章
孔子曰、
孔子曰く、
孔子は言った。
不知命、無以為君子也。
命を知らざれば、以て君子たること無きなり。
天命を自覚していなければ、君子になることはできない。
不知禮、無以立也。
礼を知らざれば、以て立つこと無きなり。
礼節を知らなければ、(社会生活で)自立することはできない。
不知言、無以知人也。
言を知らざれば、以て人を知ること無きなり。
言葉に通じていなければ、人を理解することはできない。
『論語』 堯曰五
管理人曰:
この言葉は論語の一番最後に置かれているものです。
日日是好日
時時是好時
人人是好人
事事是好事
これは浄空法師の法語。
有名な「日日是好日,時時是好時」の後に二句を加えたものです。
以下は老子の『道徳経』第四十九章ですが、よく似た味わいがあります。
聖人無常心。
聖人には決まり切った考えはありません。
以百姓心爲心。
民衆の心を自分の心としています。
善者吾善之、不善者吾亦善之、徳善。
私は善良な人を善として、善良でない人も善として、善の心を施します。
信者吾信之、不信者吾亦信之、徳信。
私は信頼される人を信じ、信頼されていない人も信じて、信じる心を施します。
聖人在天下、歙歙爲天下渾其心。
聖人は社会生活において、固執することなく社会の為にその心を晦まします。
百姓皆注其耳目、
民衆は皆、耳に聞こえる事や、目に見える表面的な事に汲々としますが、
聖人皆孩之。
聖人はそのような人に対しても、子どもをなだめるように接します。
<訳者注>
訳は筆者による意訳ですが、文章の流れと大意を思うとこうなります。
学生さんが参考にされる場合は特に、
「漢和辞典」をよく引いて漢字の多様な意味や解字(かいじ)なども参考に、
ご自身で大意を考えてみて下さい。
子曰、巧言乱徳。
子曰く、巧言は徳を乱る。
孔子は言った。巧みな言葉は徳の妨げになる。
小不忍、則乱大謀。
小(しょう)忍ばざれば、則ち大謀を乱る。
小さなことを我慢できなければ、大きな仕事の妨げになる。
『論語』 衛霊公27
小能忍、則成大謀。
小(しょう)能く忍びて、則ち大謀を成す。
小さなことからコツコツと。
これはアレンジ。訳は超訳です・・・・。
少年易老学難成
少年老い易く学成り難し
一寸光陰不可軽
一寸の光陰軽んずべからず
未覚池塘春草夢
未だ覚めず池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢
階前梧葉已秋声
階前の梧葉(ごよう)已に秋声
<意訳>
まだ若いと思っていても人はあっという間に年を取るもので、
学問を成就させるのは容易なことではない。
だからこそ寸暇を惜しんでゆるがせにしてはならない。
春草のように清らかな青年の夢から覚めやらぬ間に、
庭先のアオギリの葉にはもう秋の気配が感じられるのである。
孔子曰、
孔子曰く、
孔子は言った。
見善如不及、見不善如探湯。
善を見ては及ばざるが如くし、不善を見ては湯を探るが如くす。
「善を見れば自分はまだまだ及ばないと内省し、不善を見れば熱湯に触れるように慎み深くする。」
吾見其人矣、吾聞其語矣。
吾其の人を見る、吾其の語を聞く。
私はそのような人を見たことがあるし、話にも聞いたことがある。
隠居以求其志、行義以達其道。
隠居して以てその志を求め、義を行ひて以て其の道を達す。
「世俗を離れて自分の志を遂げようとし、正しい行いをして道(真理)に到達する。」
吾聞其語矣、未見其人也。
吾其の語を聞く、未だその人を見ず。
私は話に聞いたことはあっても、まだそのような人を見たことがない。
『論語』 季氏11
<新聞より>
2013.11.13 「日本青年の模範」と首相…男児救助の中国人留学生を表彰
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/131113/wlf13111318420015-n1.htm
2013.5.8 泥酔した痴漢を撃退 中2男子に感謝状
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130508/waf13050808210006-n1.htm
孟子曰、
孟子曰く、
孟子は言った。
「人皆有不忍人之心。
「人皆人に忍びざるの心あり。
「人には皆、人の苦しみを見るに忍びない心がある。
先王有不忍人之心,斯有不忍人之政矣。
先王人に忍びざるの心ありて、斯(ここ)に人に忍びざるの政あり。
昔の天子は、人の苦しみを見るに忍びない心があったからこそ、優れた政治を行ったのである。
以不忍人之心,行不忍人之政,治天下可運之掌上。
人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行はば、天下を治むること之を掌上に運らすべし。
その心で政治を行えば、天下を治めることは掌の上で物を転がすようにたやすいものである。
所以謂人皆有不忍人之心者,
人皆人に忍びざるの心ありと謂(い)ふ所以(ゆえん)の者は、
人には皆、人の苦しみを見るに忍びない心があるという理由は、
今人乍見孺子将入於井,
今、人乍(たちま)ち孺子(じゅし)の将に井に入らんとするを見れば、
今、もし不意に、幼児が井戸に落ちそうになっているのを見れば、
皆有怵惻隱之心。
皆怵(じゅってき)惻隱(そくいん)の心あり。
誰でも驚いてかわいそうに思う心が生じるからである。
非所以内交於孺子之父母也。
交はりを孺子の父母に内(い)るる所以(ゆえん)に非(あら)ざるなり。
これはその幼児の父母に取り入るためではない。
非所以要誉於郷党朋友也。
誉れを郷党朋友に要(もと)むる所以に非ざるなり。
郷里の友人に褒められたいからではない。
非悪其声而然也。
其の声を悪(にく)みて然(しか)するに非ざるなり。
人の評判を気にしてそうするのではない。
由是觀之,
是に由(よ)りて之を観れば、
このことから観察してみると、
無惻隱之心,也。
惻隠の心無きは、人に非ざるなり。
かわいそうに思う心(惻隠)がなければ、人とはいえないのである。
(=本来人は誰でも、かわいそうに思う心を具えているのである)
無羞悪之心,也。
羞悪の心無きは、人に非ざるなり。
不善を恥じ、憎む心(羞悪)がなければ、人とはいえないのである。
(=本来人は誰でも、不善を恥じ、憎む心を具えているのである)
無辞譲之心,也。
辞譲の心無きは、人に非ざるなり。
遠慮して譲歩する心(辞譲)がなければ、人とはいえないのである。
(=本来人は誰でも、遠慮して譲歩する心を具えているのである)
無是非之心,也。
是非の心無きは、人に非ざるなり。
善悪を判断する心(是非)がなければ、人とはいえないのである。
(=本来人は誰でも、善悪を判断する心を具えているのである)
惻隱之心,仁之端也。
惻隠の心は、仁の端なり。
かわいそうに思う心(惻隠)は、仁の糸口である。
羞悪之心,義之端也。
羞悪の心は、義の端なり。
不善を恥じ、憎む心(羞悪)は、義の糸口である。
辞譲之心,禮之端也。
辞譲の心は、礼の端なり。
遠慮して譲歩する心(辞譲)は、礼の糸口である。
是非之心,智之端也。
是非の心は、智の端なり。
善悪を判断する心(是非)は、智の糸口である。
人之有是四端也,猶其有四体也。
人の是(こ)の四端あるや、猶(な)ほ四体あるがごときなり。
人にこの四つの糸口があるのは、四肢があるように極自然なことなのである。
(以下省略)
『孟子』 公孫丑上 六
*訳は筆者の意訳です。
中高生は教科書の注釈をよく見て自分で考えましょう。
<語釈>
惻隠(そくいん)・・・・かわいそうに思うこと。同情し、気の毒に思うこと。
羞悪(しゅうお)・・・・不善を恥じ、憎むこと。
辞譲(じじょう)・・・・遠慮して譲歩すること。
是非(ぜひ)・・・・善悪を判断すること。
人一能之己百之,
人一たびして之を能くすれば己は之を百たびす。
人が一回でできるなら自分はそれを百回し、
人十能之己千之。
人十たびして之を能くすれば己は之を千たびす。
人が十回でできるなら自分はそれを千回する。
果能此道矣,
果たして此の道を能くすれば、
本当にこの方法を実践すれば、
雖愚必明,
愚なりと雖も必ず明らかに、
愚かな者でも必ず賢くなり、
雖柔必強。
柔なりと雖も必ず強からん。
軟弱な者でも必ず強くなるであろう。
------『中庸』
必須加人一己百、人十己千之功。
必ず須らく人一たびすれば己は百たびし、
人十たびすれば己は千たびするの功を加ふべし。
必ず人が一回するなら自分は百回し、
人が十回するなら自分は千回するほどの功を積むべきである。
------『伝習録』 王陽明
積善之家必有余慶。
積善の家に必ず余慶(よけい)あり。
善行を積み重ねた家には、必ずその恩恵が子孫にまでおよぶ。
積不善之家必有余殃。
積不善の家に必ず余殃(よおう)あり。
不善を積み重ねた家には、必ずその報いが子孫にまでおよぶ。
------『易経』 坤卦
<参考>
「太上感応篇大意」 日本語訳
http://blog.goo.ne.jp/fayuan/c/1bbd1274960a23e291067efeaa45473c
『太上感応篇』は道教の勧善書。因果応報の教えです。
子曰、知之者不如好之者、好之者不如樂之者。 (『論語』)
子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。
孔子は言った。
「あることを知っている人は、それを好きな人にはかなわない。
それを好きな人は、それを心から楽しんでいる人にはかなわない。」