仏法の教学、教学の宗旨、または教学の目標とは、経書によく説かれている「阿耨多羅三藐三菩提」です。これはインドのサンスクリット語の音訳です。翻訳できないのではありません。翻訳することはできます。翻訳できるのに、なぜ翻訳しないのでしょうか?昔の翻経(ほんぎょう:仏典を翻訳すること)は、文章の形式として訳さないものが五種類ありました。これは「尊重して訳さない」ものに属します。これは世尊の教学の目的・目標を尊重してサンスクリット語の音を残したのです。その意味は何でしょうか?意味は「無上正等正覚」です。ですから訳すことはできます。無上正等正覚、この言葉は仏法教学の三つの段階です。第一段階は正覚、第二段階は正等正覚、最も高い最後の段階は無上正等正覚です。「覚」とは覚悟(悟り)であり、宇宙・人生のことを真に悟ることです。宇宙とは何でしょうか?宇宙は私たちの生活環境です。人生とは何でしょうか?人生とは正に私たち自身です。あなたは仏が何を教えたのかをようやく知ることになります。仏は教えたのは私たちに自分を認識させることであり、自分の生活環境の真相を認識させることなのです。皆さん考えてみて下さい。私たちにとってこれ以上に親切な教育があるでしょうか?ありません。言い換えれば、あなたがあなた自身とあなた自身の生活環境の真相を明らかに認識すれば、もう迷うことはなくなり、あなたは学位を得るのです。
一つ目の学位は正覚の学位です。この「正」は、邪がなく、誤りがありません。その人は正覚です。学位の名称は何でしょう?阿羅漢と言います。阿羅漢は正覚の学位の名称です。今ではその人を神明と見なしますが、それは無実というものです。そのようなことがあるでしょうか!阿羅漢は学位の名称です。仏は世間にも聡明な智慧を持つ人が少なくないと話されています。その人にも悟りがありますが、正しい悟りではありません、仏門は「正」という字の看板を掲げています。この「正」という字の看板は容易に得られるものではありません。この「正」は何をもって基準とするのでしょうか?煩悩を断つことを基準とします。この世間でどれほど学位があろうと、どれほど智慧があろうと、あなたに是我(善し悪し・自分や他人といった分別心(分け隔てのある心))があり、貪瞋痴慢(とんじんちまん:貪り・怒り・無知・傲慢)があるなら、その悟りは正覚ではありません。仏はこれを基準としています。今の言葉を用いて言うなら、徳があり学があるということです。学とは智慧であり、徳は徳行です。あなたが真に煩悩を断ち、心が清浄(しょうじょう:清らかであること)であれば、その智慧は本物です。もしあなたが煩悩を断っておらず、是我があり、貪瞋痴慢があり、心の働きが自分の為であれば、智慧があるとしてもその智慧の中には染汚(ぜんま)があり、智慧の中に障碍があります。障碍の無い智慧ではありません。ですから正覚と言うことはできません。
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ある程度原稿がまとまったら読みやすく再編集しますので、宜しくご理解下さい。