白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
「またその御独り子(おんひとりご)、われらの主イエズス・キリスト」を信じます。
理解しづらい玄義ですが、なんと素晴らしい玄義でしょうか。天主は、被創造物である人類を贖うために、人となったのです。
理解しづらい玄義であることは確かです。それに私たちの知性にとって不可解なる玄義であるのは確かなことです。
残念ながらも、この玄義についても、諸誤謬が出てきました。この玄義に対して、立ち上がって、この玄義を否定した人々がいます。そうして信仰をも拒絶してしまったのです。というのも、信条は、「またその御独り子(おんひとりご)」つまり、一つの位格で「われらの主イエズス・キリスト」、つまり天主と人間との二つの本性で、とあるからです。
天主についての誤謬の時に既に紹介しましたが、これらの諸誤謬の中にアリウス主義があります。アリウスという者に由来します。内容は、三位一体の第二の位格が天主であることを否定する誤謬です。
アリウスによると、御言葉は天主でない、と。しかし「御言葉は肉となりたまえり」とあります。従って、アリウスは、肉となった御言葉は天主ではないという誤謬を主張しました。要するに、アリウス主義という誤謬は、御言葉は天主ではない、故に私たちの主イエズス・キリストは真の天主ではないという誤謬です。真の人間であることは認めてはいるが、決して真の天主ではないというのが、アリウスの主張です。
しかしながら、真の天主ではないのなら、キリストのやったことすべては、全く価値のないことに帰してしまうのです。永遠においても、贖罪においても、全く価値がないということですね。真の天主ではない限り、人類も罪も贖うことができなくなります。そこで、325年のニケア公会議をもって、破門された誤謬です。繰り返すと、アリウス主義の主張は、私たちの主イエズス・キリストが真の天主ではなく、真の人間だけだという誤謬です。この誤謬の上に重ねたかのように、他の幾つかの誤謬もありますが割愛します。

他に、アリウス主義のちょっと後、いやほぼ同時に、アポリナリス主義が出ました。アポリナリスという者によって主張された誤謬です。この内容は、イエズス・キリストは、感覚上の知識しか備わっていない、即ち人間としての知性も意志も備わっていないという主張です。
380年のコンスタンティノポリス公会議の際に、破門された誤謬です。
また同じく、単意論(モノテリスム)という誤謬もあります。ギリシャ語の「モノ(単一)・テロス(意志)」から由来しています。簡単に要約すると、私たちの主イエズス・キリストには本物の意志はなかったという主張です。つまり、イエズス・キリストには、単に一つの意志しかなくて、天主の意志だけしかなかった、人間的な意志は備わっていない、というのが単意論です。
アポリナリス主義と同じく破門された誤謬で、同じく380年のコンスタンティノポリス公会議の際に、破門された誤謬です。
また、私たちの主には、本当の体はないという誤謬を主張した者もいます。単なるうわべ・見かけにすぎなかったという誤謬です。
また、幾つかの似たような誤謬を一つの名前で指すことがあります。グノーシス主義といいます。多様的な形をとっているけれど、基本的にイエズスの体についての誤謬で、不思議な奇跡的な形成で創られた体だからと主張して、真の体を持っていないという結論になりますが、結構一般的な誤謬で、いろいろと違う個別の誤謬が入っています。曖昧な大枠ですが、いずれも、贖罪の効果をまったく無にするような誤謬です。なぜかというと、もし私たちの主には、本物の体はないのなら、実際に本当に苦しんでいなかったという羽目に陥ってしまうわけです。
つまり、その誤謬に沿うと、イエズスが幻想で騙したということになります。嘘をついたことになります。嘘をついたならば、彼が天主であることはありえないということになります。天主が嘘をつくことは不可能なので、そうするのは、自分を否定することになるからです。だから、グノーシスという誤謬も破門されました。
私たちの主イエズス・キリストには、本物の体が備わっています。また後で触れますが、いと純粋なる、いと潔白なる聖母マリアの胎内において肉体を取ってくださいました。
もう一つの致命的な誤謬に、ネストリウス主義と呼ばれる主張があります。ネストリウスが言いだした誤謬です。彼によると、私たちの主イエズス・キリストの人間の本性と天主の本性は、単なる道義的な結合に過ぎなかったとされる誤謬です。位格的結合ではないと。
この出張から出発すると、天主としてのイエズス・キリストもいたら、人間としてのイエズス・キリストもいるということで、ペルソナが二つあるという結論に至ります。道義的な結合とは、ただ一つの位格においての結合という位格的結合ではなく、二つの真実が二重しているようなことになってしまいます。つまり一つの天主と一つの人間が重なり、両方は別の存在になっています。天主なる一つの位格(ペルソナ)と人間なる一つの位格(ペルソナ)は二つあって、ただ重なるだけだ、と。431年のエフェゾ公会議の際に、破門された誤謬です。
一つの位格においてこそ、二つの本性があるというのは信条です。イエズス・キリストは、天主の御独り子にして、真の天主であり、真の人間であります。
最後に、エウテュケスという者が言いだした誤謬があります。エウテュケス主義と呼ばれます。内容は、イエズス・キリストには、一つの本性しかないという立場で、天主の本性しかないという誤謬です。それで、人間の本性のすべては、天主の本性に吸収されているかのように完全に無くなっているという主張です。この誤謬に沿うと、贖罪の玄義はまた同じく不可能となります。
この誤謬によると、私たちの主は、真の人間ではなくして、真の天主だけなので、贖罪は不可能となります。451年のカルケドン公会議の際に、破門された誤謬です。
要するに、イエズス・キリストについての諸誤謬を纏めて要約してみると、大きく分けて、三つあると言えます。つまり、一つの位格において、二つの本性があるというご托身の玄義についての三つの誤謬の体系はこうなります。
一つ目、位格は一つ、本性も一つといった誤謬。例えば、イエズス・キリストについての諸誤謬は真の天主だが、真の人間ではない、とか。エウテュケス主義ですね。
また、同じく、位格は一つで、本性も一つだが、しかし今度は、イエズス・キリストは真の人間だが真の天主ではない、という誤謬。アリウス主義ですね。
また、二つの本性があると認めるが、位格も二つあるといった誤謬。ネストリウス主義ですね。
ご托身についてのこの以上の三つの誤謬は、325年のニケア公会議と431年のエフェゾ公会議と451年のカルケドン公会議をもって、破門されました。
要するに、イエズス・キリストは、真の天主であり、真の人間であり、三位一体の第二の位格においてこそ結合するというのが正しい信条です。
これがご托身の玄義と呼ばれています。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第二十講 イエズス・キリストについての諸誤謬
「またその御独り子(おんひとりご)、われらの主イエズス・キリスト」を信じます。
理解しづらい玄義ですが、なんと素晴らしい玄義でしょうか。天主は、被創造物である人類を贖うために、人となったのです。
理解しづらい玄義であることは確かです。それに私たちの知性にとって不可解なる玄義であるのは確かなことです。
残念ながらも、この玄義についても、諸誤謬が出てきました。この玄義に対して、立ち上がって、この玄義を否定した人々がいます。そうして信仰をも拒絶してしまったのです。というのも、信条は、「またその御独り子(おんひとりご)」つまり、一つの位格で「われらの主イエズス・キリスト」、つまり天主と人間との二つの本性で、とあるからです。
天主についての誤謬の時に既に紹介しましたが、これらの諸誤謬の中にアリウス主義があります。アリウスという者に由来します。内容は、三位一体の第二の位格が天主であることを否定する誤謬です。
アリウスによると、御言葉は天主でない、と。しかし「御言葉は肉となりたまえり」とあります。従って、アリウスは、肉となった御言葉は天主ではないという誤謬を主張しました。要するに、アリウス主義という誤謬は、御言葉は天主ではない、故に私たちの主イエズス・キリストは真の天主ではないという誤謬です。真の人間であることは認めてはいるが、決して真の天主ではないというのが、アリウスの主張です。
しかしながら、真の天主ではないのなら、キリストのやったことすべては、全く価値のないことに帰してしまうのです。永遠においても、贖罪においても、全く価値がないということですね。真の天主ではない限り、人類も罪も贖うことができなくなります。そこで、325年のニケア公会議をもって、破門された誤謬です。繰り返すと、アリウス主義の主張は、私たちの主イエズス・キリストが真の天主ではなく、真の人間だけだという誤謬です。この誤謬の上に重ねたかのように、他の幾つかの誤謬もありますが割愛します。

ニケア公会議
他に、アリウス主義のちょっと後、いやほぼ同時に、アポリナリス主義が出ました。アポリナリスという者によって主張された誤謬です。この内容は、イエズス・キリストは、感覚上の知識しか備わっていない、即ち人間としての知性も意志も備わっていないという主張です。
380年のコンスタンティノポリス公会議の際に、破門された誤謬です。
また同じく、単意論(モノテリスム)という誤謬もあります。ギリシャ語の「モノ(単一)・テロス(意志)」から由来しています。簡単に要約すると、私たちの主イエズス・キリストには本物の意志はなかったという主張です。つまり、イエズス・キリストには、単に一つの意志しかなくて、天主の意志だけしかなかった、人間的な意志は備わっていない、というのが単意論です。
アポリナリス主義と同じく破門された誤謬で、同じく380年のコンスタンティノポリス公会議の際に、破門された誤謬です。
また、私たちの主には、本当の体はないという誤謬を主張した者もいます。単なるうわべ・見かけにすぎなかったという誤謬です。
また、幾つかの似たような誤謬を一つの名前で指すことがあります。グノーシス主義といいます。多様的な形をとっているけれど、基本的にイエズスの体についての誤謬で、不思議な奇跡的な形成で創られた体だからと主張して、真の体を持っていないという結論になりますが、結構一般的な誤謬で、いろいろと違う個別の誤謬が入っています。曖昧な大枠ですが、いずれも、贖罪の効果をまったく無にするような誤謬です。なぜかというと、もし私たちの主には、本物の体はないのなら、実際に本当に苦しんでいなかったという羽目に陥ってしまうわけです。
つまり、その誤謬に沿うと、イエズスが幻想で騙したということになります。嘘をついたことになります。嘘をついたならば、彼が天主であることはありえないということになります。天主が嘘をつくことは不可能なので、そうするのは、自分を否定することになるからです。だから、グノーシスという誤謬も破門されました。
私たちの主イエズス・キリストには、本物の体が備わっています。また後で触れますが、いと純粋なる、いと潔白なる聖母マリアの胎内において肉体を取ってくださいました。
もう一つの致命的な誤謬に、ネストリウス主義と呼ばれる主張があります。ネストリウスが言いだした誤謬です。彼によると、私たちの主イエズス・キリストの人間の本性と天主の本性は、単なる道義的な結合に過ぎなかったとされる誤謬です。位格的結合ではないと。
この出張から出発すると、天主としてのイエズス・キリストもいたら、人間としてのイエズス・キリストもいるということで、ペルソナが二つあるという結論に至ります。道義的な結合とは、ただ一つの位格においての結合という位格的結合ではなく、二つの真実が二重しているようなことになってしまいます。つまり一つの天主と一つの人間が重なり、両方は別の存在になっています。天主なる一つの位格(ペルソナ)と人間なる一つの位格(ペルソナ)は二つあって、ただ重なるだけだ、と。431年のエフェゾ公会議の際に、破門された誤謬です。
一つの位格においてこそ、二つの本性があるというのは信条です。イエズス・キリストは、天主の御独り子にして、真の天主であり、真の人間であります。
最後に、エウテュケスという者が言いだした誤謬があります。エウテュケス主義と呼ばれます。内容は、イエズス・キリストには、一つの本性しかないという立場で、天主の本性しかないという誤謬です。それで、人間の本性のすべては、天主の本性に吸収されているかのように完全に無くなっているという主張です。この誤謬に沿うと、贖罪の玄義はまた同じく不可能となります。
この誤謬によると、私たちの主は、真の人間ではなくして、真の天主だけなので、贖罪は不可能となります。451年のカルケドン公会議の際に、破門された誤謬です。
要するに、イエズス・キリストについての諸誤謬を纏めて要約してみると、大きく分けて、三つあると言えます。つまり、一つの位格において、二つの本性があるというご托身の玄義についての三つの誤謬の体系はこうなります。
一つ目、位格は一つ、本性も一つといった誤謬。例えば、イエズス・キリストについての諸誤謬は真の天主だが、真の人間ではない、とか。エウテュケス主義ですね。
また、同じく、位格は一つで、本性も一つだが、しかし今度は、イエズス・キリストは真の人間だが真の天主ではない、という誤謬。アリウス主義ですね。
また、二つの本性があると認めるが、位格も二つあるといった誤謬。ネストリウス主義ですね。
ご托身についてのこの以上の三つの誤謬は、325年のニケア公会議と431年のエフェゾ公会議と451年のカルケドン公会議をもって、破門されました。
要するに、イエズス・キリストは、真の天主であり、真の人間であり、三位一体の第二の位格においてこそ結合するというのが正しい信条です。
これがご托身の玄義と呼ばれています。