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カトリックについて知りたいならば、「カトリックの信仰(岩下壮一著)」  ポール・ド・ラクビビエ 書評「キリスト教を世に問う!」より

2018年01月08日 | カトリック
書評「キリスト教を世に問う!」
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ

新著紹介 【国体文化】平成 30 年 1 月号 30
〔書評〕奥山篤信『キリスト教を世に問う!』/ポール・ド・ラクビビエ より転載


はじめに

物事の醜さよりも美しさに目を向けたいと思う私からすれば、このような憎しみに溢れた文章を読むのは本意でない。「嘘や虚構は一切ない」(はじめに)という彼の記述が正しいなら、そんなものが長続きするわけがなく、そうであるなら、こんな本を書くだけ無駄ではないか。

それより問題だと思うのが、奥山氏が自身を保守派と考えており、そう周囲も捉えているらしいという点だ。彼は、無神論の一種であるヘドイズムに共感しているようだが、それは敬虔さを欠いた傲慢なエゴイズムである。そうした思想に依りつつ、超越性や精神性と堅く結びついている天皇への尊崇を守り、伝統を守ると云えるのか。カトリック信者である私からすれば、「天皇に対する反逆者」としか見えない。


結論先にありき

いきなり、ジョン・レノンの「イマジン」が登場する。「国なんて無い」・「宗教も無い」という歌詞を含む曲だが、この歌に筆者は共感するらしい。さらに、カント、フォイエルバッハ、カール・マルクス、ニーチェなどの言葉が引用されているが、彼らは皆、自己を絶対化する近代主義者であり、社会主義やグローバリズムに連なる者すら含まれる。悪い冗談としか思えない。

さらに、奥山氏は、一神教・カトリック・プロテスタントという全く異なるものをキリスト教という一つのカテゴリーに押し込めて「悪」と決めつける。その上、キリスト教の何たるかを知らぬ人々に対して教義を体系的に示すことなく、自説に都合の良い引用を列挙して事足れりという書き振りは知的に不誠実ではあるまいか。

第三章では、「山上の垂訓」を「実現不能な妄想の世界」と批判するが、その全文を引用しないのは何故か。また、キリスト教を批判するというなら(神・子・聖霊の)三位一体や(信徳・望徳・愛徳の)三対神徳といった根本書評的な教義をこそ取り上げたら良いだろうに、それを回避するのは何故か。

第五章で示される「隣人愛」に対する奥山の批判についても異論がある。「隣人愛」について「自分を善人と見せかける愛」と論難するが、隣人どうしが憎み合った方が良いというのだろうか。そもそも、「隣人愛」とは眼前の苦しんでいる人を助けることであり、第三者に見せつける必要などない。軽い笑顔で接するだけでも助けになるのであり、金品の問題ではない。その点からすれば、全く会ったことがない、見も知らぬ人のためになされる国際的な募金活動は「隣人愛」と無縁のものだ。さらに言えば、「隣人愛」は自己に対する愛があってのものだ。自分にとって一番近しい存在であるから、自分自身を肯定することなしに他者を愛することなど不可能である。


また、奥山氏は聖職者の一部に見られる「偽善」を殊更に取り上げる。

第六章ではヴァチカンとナチスとの蜜月関係が取り上げられているけれども、一面的な記述に終始している。カトリック教会は、ナチスの全体主義に批判的であった。とは言え、ドイツに居る多くのカトリック信者をナチスの迫害から守る責任がヴァチカンにはある。つまり、国家としてのヴァチカンが外交という手段で信者を守ったということに過ぎず、カトリックの教義とは関係がない。

さらに言えば、聖職者にしても信者にしても、人間である以上は罪から免れることはできない。奥山氏が思っているのとは逆に、カトリック信者は自らを完璧な存在などとは思っていない。罪深い存在であると自覚しているからこそ、自らの過ちを悔い改めて再び繰り返さぬよう神に祈り、赦しという秘蹟が与えられるのだ。教皇猊下であろうとも例外ではない。重要なのは、悔い改めて天主に近づこうとすることなのだ。

そもそも、本当にカトリック教会を批判したいのであれば、マザー・テレサのような、カトリックの内部でも評価が分かれている人物ではなく、誰もが聖人と認める人物を俎上に載せるべきではないか。また、奥山は言及せぬが、これまでの歴史において少なからぬ殉教者が存在した。それは聖職者に限らなかった。また、貴族も居たが、聖ジャンヌ・ダルクのような農民出身の女性騎士も居たのである。そうした多様な聖人について、どうして奥山氏は何も語らないだろうか。

「赤ちゃん殺し」を正当化している第四章も呆れるばかりだ。奥山氏は、「堕胎とは男女平等の普遍的原理からして当然の女性の権利である」と革命主義者まがいの科白を口にして恥じない。本誌平成二十九年十月号にも記したが、堕胎は殺人であり、それは親たる大人の許されざる我が儘である。その非を説くのは、宗教として当然のことだろう。

そして、「キリスト教の本質」と題する第七章も誤解だらけだ。奥山氏は、ニーチェに倣ってキリスト教を「ルサンチマン宗教」と見なすが、そうではない。自らの人間性を見据え、その罪深さを認めた上で、自らや周囲を哀れみ、そして愛するところにキリスト教の本質がある。

ただ、「愛」という概念は誤解されやすい。三大神徳の中でも至上である「愛徳」は、イエスを私たち人間のために送った天主の愛に由来する。つまり、人間的な愛着ではなく、天主との一致と定義できよう。天主の御姿に擬えて創造された人間(それゆえ、人間は被造物世界である宇宙において愛徳の実現化の可能性がる存在として特別な存在とされる)が宇宙の本質かつ創造者である天主を受け入れるにあたり、天国において成立している天主との関係を正しく理解し、「道」として実践することを通じて、他の人間や大自然(被造物世界)と繋がることこそ「愛」なのだ。そうした「道」としての「愛」を人間に示したのがイエスであり、その御姿にならうことが人間に課されているのである。

キリスト教を「禁欲主義」とする理解も間違いだ。少なくとも、カトリックは違う。霊魂と身体とは区別できるものの不可分であり、身体を否定しない。もちろん、乱れを容認はしない。過剰を抑え、節度を保ち、人間としての「道」を歩もうというのだ。

奥山は復讐を禁止するキリスト教を欺瞞に満ちていると主張するが、厳密に言うと、復讐は禁止されていない。イエスは、律法の破壊者ではなく、昇華せしめた存在であるから、報復を否定しているわけではない。しかし、復讐しても何の良いこともないので、敵であろうと愛しなさいと説いているのである。それは、昔の騎士のように十分な力を有していることを前提として、その上でもなお「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」と言うことなのだ。イエスは、ただ説くだけでなく、自らの受難という形で、このことを示された。そもそも、全能なる天主の子であるイエスは、その気になれば、容易に世界を破壊することが出来るのだ。にもかかわらず、頬を差し出した。そこに意味があるのだ。これの何処が欺瞞か。

以上、簡潔に疑問点を示したが、誤った事実・歴史観・先入観に基づき、神学に対する言及もないまま独善的な議論を展開している。「十字軍」や「魔女裁判」などに関する最近の研究動向も御存知ないらしい(これらについては改めて紹介したい)。奥山氏はキリスト教を「反知性的」と難ずるが、彼の言う「知性」は近代合理主義である。その相対的な人間中心あるいは自己中心的な屁理屈に過ぎない近代合理主義が、如何に人間を不幸にしてきたか。そのことに、奥山氏は思いを致しているのだろうか。

要するに、この本を読んだところで、カトリックのことは何も分からない。そう言うだけでは不親切だから、日本語で書かれたカトリック神学に関する体系的な著述を紹介しておきたい。


岩下壮一「カトリックの信仰」(二〇一五年・ちくま学芸文庫)


「敵」を間違えてはならない

「道」に背く人間が存在することは確かだ。真理は真理として存在することに変わりはないが、それと霊魂とが切り離されるという面において、そのような存在は極めて有害と言わざるを得ない。カトリックにおいて、「道」に外れた行為をなし、最期まで悔い改めなかったのであれば地獄行きは免れないが、それを裁くのは天主であって人間ではない。人間に出来るのは、天主が示された「道」から逸れまいと努力することだけだ。

奥山氏は「道」が天主の存在抜きに成立すると考えているようだが、それは不可能ではないか。天主の存在を否定し、人間を基準とする近代主義が社会に蔓延すると、宗教のみならず権威・主権・伝統・習慣・歴史といったものは悉く食い潰されてゆく。その最初にして最大の犠牲者が、わが祖国フランスだが、日本もまた同様の道をたどりつつあるように見える。撃つべきは、フランス革命に象徴される近代主義なのだ。奥山は、第九章において教育勅語を持ち出すが、そこに示された徳目を成り立たしめているものは何か。個人を超えた存在ではないのか。

教育勅語の徳目を賞賛するならば、まず個人を超えた存在に対する認識を深める必要があると思われる。その観点からすれば、フランス王室とカトリック教会との関係に目を向けて貰いたい。フランス正統派の苦闘にこそ、近代主義との闘いにおいて参考となる点が少なくないと私は思う。当然のことながら、天皇を戴く国家が続いてきた日本の国体主義者に、私たちフランス人が学ぶべき点も多い。両者は互いに良きところを取り、足らざるところを補う関係を形成すべきであろう。

この本について私が最も疑問に思ったのは、奥山氏のキリスト教に対する強い悪意が何処から生じたかという点だ。聖書を紐解けば、堕天使ルシファーやイエスを裏切ったユダを初めとして、我欲のため天主に背いた例が幾つも見える。天主にとって、私たちは必要不可欠な存在ではない。私たちの存在は、天主が創造した宇宙の秩序に何ら影響を与えない。だが、私たちは理性を通じて宇宙の秩序を知り、それに従って行動することは出来る。そうしたチャンスを活かせるか否か、死に際してなされる裁きにおいて天国に昇るか地獄に落ちるかは、自己の責任である。ただ、天主は私たち人間を愛しているので、イエスを地上に遣わし、受難の果てに磔刑にされ、復活するという奇蹟を表すことによって宇宙の秩序を示したのだ。ゆえに、カトリックの正統信仰においては、奇蹟と理性とは矛盾しないのだ。

なぜ、この点に拘るのかというと、かく云う私自身、幼くしてカトリックの洗礼を受けたものの、長年にわたり教会と距離を置いて来たからだ。当時の私は、今の奥山氏と同じだった。そうなったのは、自分自身の傲慢さによるが、愚かな信者や聖職者に対する嫌悪感ゆえでもあった。また、物事の良き側面ではなく、悪しき側面を強調する近代社会の風潮も相俟って、私は理屈を弄び、キリスト教を欺瞞と偽善に満ちた宗教だと思い込み、嫌ってきた。そうした体験を有するからこそ、この本に厳しい評価を下すのである。


では、いったい如何にして私がカトリックに回帰したか、という点に興味をもたれる方もあるだろう。

それは、真のカトリックを知ったからだ。日本ではあまり知られていないが、一九六二年から一九六五年にかけて開催された第二ヴァチカン公会議の問題点に気付いたからだ。これは、教皇ヨハネ二十三世の提唱によって始まり、次のパウロ六世の下でも続けられたが、この会議を通じてカトリック教会に近代主義が浸透してしまった。教義には何の変更がなされなかったものの、「現実世界に妥協する必要がある」という名目で牧師の活動において今まで禁じられていたことが色々と許されるようになった。とりわけ、信仰の根幹に関わることが曖昧にされた。

キリスト教の教派を超えた団結を主張である「エキュメニズム」が教会内部で力を得るばかりか、ラテン語による伝統的な典礼に代わって各国語による典礼が行われるようになるなど、「自由・平等・朋友愛」というフランス革命の理念に相通ずる「信仰の自由・聖職の劣等化・権威者の不用」を是認する施策が推進された。信仰とは頭ではなく体で受け入れるものであり、その意味において典礼は非常に重要なものだ.現代人が受け入れ易いか否かにばかり目を向けた結果、現在のカトリック教会におけるミサは本来のミサでなくなってしまった。

そのことに気付き、私は伝統的な典礼によって行われたミサに参列するようになった。ここ30年ほどの間、欧州を中心としてカトリック教会は大きな打撃を受けだが、昨今、こうしたカトリック教会における近代主義的な動きは収まりつつあり、伝統的な典礼も自由に行われるなど揺り戻しが起きている。その点に関して興味がある方は、是非ともルフェーブル大司教(一九〇五~一九九一)の歩みを辿ってみてほしい。大司教の人生を描いた映画もインターネット上で見られる(https://vimeo.com/112910346)。

奥山氏におかれては、我欲に塗れ、近代主義に毒された多数派ではなく、たとえ少数であっても伝統的な神学や典礼を固守し続け、天主の忠実なる僕たらんとしてきた一団にも目を向けて頂きたい。伝統的な典礼で行われるミサに御案内し、本物の聖職者に面会する機会を喜んでセッティングしたい。その上でもなお、キリスト教は非難すべきものであるのか、改めて御見解を伺いたい。

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