「生命」を軽視して何が「国体」か?
【国体文化】平成 29 年 10 月号より転載
「生命」を軽視して何が「国体」か?
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ
「国体」の危機
日本中から子供が居なくなりつつある。このままの勢いで行くと、日本は今に老人ばかりとなり、ひいては急速な人口減少を迎える。
他の諸問題、皇位継承有資格者の不足に伴う皇統断絶の恐れを始め、少子高齢化に伴う社会保障制度の危機、人手不足を理由とする外国人移民の受入れなどは、全て新しい生命の不足、ひいては国民としての生命力衰退に由来する。このままでは、日本人によって構成されている生命体系としての国体が消えてしまう可能性がある。これこそ、国体の大危機である。余計なお世話かも知れぬが、日本にとって、これより深刻な問題はないと思う。いくら「戦後レジームからの脱却」だの、「天皇陛下を中心とする国体の脱却」だのと云ったところで、それらを受け継ぐべき若者たちの数が減ってしまったら、過去から受け継いできた伝統、連綿たる国体に対する自覚と信念の大部分は失われることにならう。
逆に、子供の数が増えれば、皇室を始めとする各々の一家に伝統や歴史の継承者ができる。また、経済活動を維持するために、移民などに頼る必要もなくなる。ゆえに、国体護持は、日本人の生命を擁護することから出発せねばならぬ。そうでなければ、どんなに努力しても無意味であろう。
「生命」の尊厳を冒す堕胎
では、日本人の生命を擁護するためには何が必要か。まず何よりも、「生命」の絶対的尊厳を確立することだ。具体的には、「人工妊娠中絶」などという婉曲表現を用いることにより「堕胎」すなわち「赤ちゃん殺し」を肯定する発想を打ち砕かねばならない。少なからぬ現代日本人は、「堕胎」に後ろめたさを感じつつも親のエゴを近代主義によって合理化・合法化し、罪なき赤ちゃんを見殺しにしている。
現行の刑法においても堕胎した女性は「一年以下の懲役」、堕胎を手伝った医療従事者は「三月以上五年以下の懲役」と定められているにもかかわらず、母体保護法には「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」、「暴行若しくは脅迫によつて又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの」の人工妊娠中絶が認められている。これらの規定は、連合国軍による占領下の昭和二十三年七月十三日に成立した優生保護法が基になっている。とりわけ、経済的理由に基づく人工妊娠中絶を合法化する部分は施行直後の昭和二十四年六月に加えられた。その背景には、連合国関係者の子を妊娠した日本人女性の堕胎を可能にするという身勝手な理由に加え、日本の再生を妨げようとするアメリカの意図、より正確に言えばアメリカ支配層に入り込んだリベラル左派の意図があったと見るべきだろう。
これに対し、カトリック教会と生長の家は昭和四十年代に《優生保護法改正期成同盟》を結成した。将来の優れた労働力の確保という観点から、日経連も中絶の抑制を主張したこともあり、国会に改正案が上程されたものの、フェミニスト団体などの反対運動を受けて成立には至らなかった。平成八年、障害者差別に繋がる「優生」の語を避け、優生保護法から母体保護法へと法律の名称が改められたものの、堕胎を巡る規定は改正されぬままだ。
その結果は、実に恐ろしい。厚生労働省による以下の統計を見て欲しい。
何百万の日本人が、両親のエゴにより、この世の空気を吸うこともできぬうちに生命を断たれたのだ。また、堕胎は両親とりわけ母親に大きな精神的ダメージをもたらす。にもかかわらず、人を救うはずの医療従事者が、赤ちゃんを殺しても罪に問われぬどころか報酬を受け取っている。人口の増加が阻まれたこともさることながら、両親や手を貸した医療従事者は「赤ちゃん殺し」の罪を犯しているのだ(その上、死んだ胎児が科学実験の対象として冷凍されるということさえある)。これを、生命体系としての「国体」に対する破壊行為と言わずして何と言うか。
覚悟は宜しいか
読者各位に問いたい。貴方は、それでも平気なのか。
悪魔でない限り、平気では居られまい。
そうである以上、「国体」を守るには、まず堕胎を禁ずることが必要だ。それは、「生命」を救うことであると同時に、エゴイズムを克服することでもある。「生命」に対する畏敬と個人を単位とする近代主義の克服なくして、真の意味における「国体」護持は不可能だ。幸いなことに、日本においてはフランスよりも堕胎は正当化されていない。法律を改正して堕胎を禁ずることは、難しくないはずだ。
法律を改正するためには、世論の喚起が必要だ。筆者は、去る七月十七日(海の日)、「命の行進・マーチフォーライフ」に参加した。これは、優生保護法が成立した七月十三日に因み、なおかつ「海の日」と「生みの日」の語呂合わせに基づき開催されたものが開催された。これは、一番小さく、一番か弱く、(原罪を除いて)罪のない、愛さずにいられない赤ちゃんの「生命」の尊さを訴え、堕胎の禁止を求めるものだ。
堕胎の禁止を公的な場で訴えることに大切であるが、個々人の日常生活において出来ることもある。それは、多くの子供を授かることだ。それは、測りしれぬほど嬉しいことであり、光栄なことであり、大事なことであり、幸せなことである。また、躊躇や無気力として現れるエゴイズムを拭い去る契機でもある。
皆さん、心配することはない。日本たる国民よ!
陛下の忠誠たる臣下よ!
覚悟は宜しいか。現代の戦いは、「生命」のための戦いだ。武器でもなく政治でもなく、家族を以て、家を挙げて戦わなければならない。多くの子供たちが立派に育ちさえすれば、国体の護持は自ずから成り立つのだ。ゆえに、私は神の御前で以下の祈りを繰り返すのだ。
「主よ、我らに家族を与え給え!主よ、我らに聖なる家族を与え給え!主よ、我らに多くの聖なる家族を与え給え!」
---------------
命の行進・マーチフォーライフ
【執筆者略歴】一九九〇年フランス生まれ。セルジー・ポントワーズ大学数学部卒業。同大学院にて歴史学を専攻した後、来日して慶應義塾大学大学院経営管理研究科にてMBA取得。現在は、外資系銀行に勤務しつつ、フランス国体と日本国体の比較研究を続けている。
【国体文化】平成 29 年 10 月号より転載
「生命」を軽視して何が「国体」か?
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ
「国体」の危機
日本中から子供が居なくなりつつある。このままの勢いで行くと、日本は今に老人ばかりとなり、ひいては急速な人口減少を迎える。
他の諸問題、皇位継承有資格者の不足に伴う皇統断絶の恐れを始め、少子高齢化に伴う社会保障制度の危機、人手不足を理由とする外国人移民の受入れなどは、全て新しい生命の不足、ひいては国民としての生命力衰退に由来する。このままでは、日本人によって構成されている生命体系としての国体が消えてしまう可能性がある。これこそ、国体の大危機である。余計なお世話かも知れぬが、日本にとって、これより深刻な問題はないと思う。いくら「戦後レジームからの脱却」だの、「天皇陛下を中心とする国体の脱却」だのと云ったところで、それらを受け継ぐべき若者たちの数が減ってしまったら、過去から受け継いできた伝統、連綿たる国体に対する自覚と信念の大部分は失われることにならう。
逆に、子供の数が増えれば、皇室を始めとする各々の一家に伝統や歴史の継承者ができる。また、経済活動を維持するために、移民などに頼る必要もなくなる。ゆえに、国体護持は、日本人の生命を擁護することから出発せねばならぬ。そうでなければ、どんなに努力しても無意味であろう。
「生命」の尊厳を冒す堕胎
では、日本人の生命を擁護するためには何が必要か。まず何よりも、「生命」の絶対的尊厳を確立することだ。具体的には、「人工妊娠中絶」などという婉曲表現を用いることにより「堕胎」すなわち「赤ちゃん殺し」を肯定する発想を打ち砕かねばならない。少なからぬ現代日本人は、「堕胎」に後ろめたさを感じつつも親のエゴを近代主義によって合理化・合法化し、罪なき赤ちゃんを見殺しにしている。
現行の刑法においても堕胎した女性は「一年以下の懲役」、堕胎を手伝った医療従事者は「三月以上五年以下の懲役」と定められているにもかかわらず、母体保護法には「妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」、「暴行若しくは脅迫によつて又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの」の人工妊娠中絶が認められている。これらの規定は、連合国軍による占領下の昭和二十三年七月十三日に成立した優生保護法が基になっている。とりわけ、経済的理由に基づく人工妊娠中絶を合法化する部分は施行直後の昭和二十四年六月に加えられた。その背景には、連合国関係者の子を妊娠した日本人女性の堕胎を可能にするという身勝手な理由に加え、日本の再生を妨げようとするアメリカの意図、より正確に言えばアメリカ支配層に入り込んだリベラル左派の意図があったと見るべきだろう。
これに対し、カトリック教会と生長の家は昭和四十年代に《優生保護法改正期成同盟》を結成した。将来の優れた労働力の確保という観点から、日経連も中絶の抑制を主張したこともあり、国会に改正案が上程されたものの、フェミニスト団体などの反対運動を受けて成立には至らなかった。平成八年、障害者差別に繋がる「優生」の語を避け、優生保護法から母体保護法へと法律の名称が改められたものの、堕胎を巡る規定は改正されぬままだ。
その結果は、実に恐ろしい。厚生労働省による以下の統計を見て欲しい。
何百万の日本人が、両親のエゴにより、この世の空気を吸うこともできぬうちに生命を断たれたのだ。また、堕胎は両親とりわけ母親に大きな精神的ダメージをもたらす。にもかかわらず、人を救うはずの医療従事者が、赤ちゃんを殺しても罪に問われぬどころか報酬を受け取っている。人口の増加が阻まれたこともさることながら、両親や手を貸した医療従事者は「赤ちゃん殺し」の罪を犯しているのだ(その上、死んだ胎児が科学実験の対象として冷凍されるということさえある)。これを、生命体系としての「国体」に対する破壊行為と言わずして何と言うか。
覚悟は宜しいか
読者各位に問いたい。貴方は、それでも平気なのか。
悪魔でない限り、平気では居られまい。
そうである以上、「国体」を守るには、まず堕胎を禁ずることが必要だ。それは、「生命」を救うことであると同時に、エゴイズムを克服することでもある。「生命」に対する畏敬と個人を単位とする近代主義の克服なくして、真の意味における「国体」護持は不可能だ。幸いなことに、日本においてはフランスよりも堕胎は正当化されていない。法律を改正して堕胎を禁ずることは、難しくないはずだ。
法律を改正するためには、世論の喚起が必要だ。筆者は、去る七月十七日(海の日)、「命の行進・マーチフォーライフ」に参加した。これは、優生保護法が成立した七月十三日に因み、なおかつ「海の日」と「生みの日」の語呂合わせに基づき開催されたものが開催された。これは、一番小さく、一番か弱く、(原罪を除いて)罪のない、愛さずにいられない赤ちゃんの「生命」の尊さを訴え、堕胎の禁止を求めるものだ。
堕胎の禁止を公的な場で訴えることに大切であるが、個々人の日常生活において出来ることもある。それは、多くの子供を授かることだ。それは、測りしれぬほど嬉しいことであり、光栄なことであり、大事なことであり、幸せなことである。また、躊躇や無気力として現れるエゴイズムを拭い去る契機でもある。
皆さん、心配することはない。日本たる国民よ!
陛下の忠誠たる臣下よ!
覚悟は宜しいか。現代の戦いは、「生命」のための戦いだ。武器でもなく政治でもなく、家族を以て、家を挙げて戦わなければならない。多くの子供たちが立派に育ちさえすれば、国体の護持は自ずから成り立つのだ。ゆえに、私は神の御前で以下の祈りを繰り返すのだ。
「主よ、我らに家族を与え給え!主よ、我らに聖なる家族を与え給え!主よ、我らに多くの聖なる家族を与え給え!」
---------------
命の行進・マーチフォーライフ
【執筆者略歴】一九九〇年フランス生まれ。セルジー・ポントワーズ大学数学部卒業。同大学院にて歴史学を専攻した後、来日して慶應義塾大学大学院経営管理研究科にてMBA取得。現在は、外資系銀行に勤務しつつ、フランス国体と日本国体の比較研究を続けている。