白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
婚姻の秘蹟について
Gabriel Billecocq神父
さて、最後の二つの秘蹟を見ていきましょう。殊に社会を聖化するために、我らの主、イエズス・キリストは婚姻と品級を制定なさいました。もちろん、個人もそれで聖化されていますが。
まず、婚姻の秘蹟を見ていきましょう。
最初にいうべきことは、秘蹟である前に婚姻の制度は自然の制度であるということです。言いかえると、婚姻の制度は自然の現実であります。つまり、人間の本性から生じる社会制度です。要は、天主はアダムのための連れとしてエワを創造なさった瞬間、婚姻制度をも設け給ったのです。
「天主は、人間を祝福して仰せられた、「生めよ、ふえよ、地に満ちて、地を支配せよ」」(創世の書、1、28)
天主はこのように仰せになることによって、婚姻制度を制定なさいました。婚姻制度は自然上の現実です。自然上の契約でありまして、婚姻によって一人の女と一人の男が同意して(契約は成り立つために同意する要件はあります)、お互いに誓い合って、いくつかの義務と権利を受けいれることに同意します。権利といえば、必ず義務も生じて、権利と義務は離れられるような存在ではありません。
繰り返しますが、何よりもまず、婚姻制度は人間の本性より生じる自然の現実なのです。それを忘れてはいけません。人間の本性に属するのが婚姻制度です。また、婚姻制度は契約でもあります。言いかえると、正義を実現させるための制度ということです。では、契約とは何でしょうか?それらは条件などからなっていて、それにより特徴づけられています。
で、婚姻という契約の趣旨、その条件は「生めよ、ふえよ」ということです。天主が制定なさったのが婚姻の契約、婚姻の制度です。天主は婚姻の制度の条件を制定なさった以上、人間によっては変えられないのです。
そして、人間の本性に刻印されている婚姻制度として天主は制定なさいました。「生めよ、ふえよ」。
言いかえると、婚姻の約束は子供の出産と子供の教育のために制定された制度です。また、婚姻制度の目的は人間が世界に広まっていくためにあります。「生めよ、ふえよ、地に満ちて、地を支配せよ」。
もちろん、地上に満ちる彼方に、婚姻制度の究極的な目的は天国が満ちるために制定されました。以上は自然次元として、人間の本性に属する婚姻制度としての婚姻の説明でした。
我らの主、イエズス・キリストは婚姻制度をそのままに維持しながら、人間の本性の一部である婚姻の約束として維持して、人間なら自然権となる婚姻制度として維持しながら、秘蹟の価値まで、婚姻制度を高めることになさいました。これは素晴らしい神秘であり、美しいことです。
その結果、婚姻は秘蹟ともなります。自然次元の契約として変わらない婚姻制度ですが、その上、秘蹟ともなる婚姻なのです。つまり、超自然の婚姻の約束となります。自然次元としての婚姻の約束は変わりません。つまり、婚姻制度の目的はそのまま、「生めよ、ふえよ」となります。婚姻の本質はつまり変わりません。
しかしながら、婚姻の秘蹟になると、すでに正当だった婚姻の絆は聖化されています。言いかえると、婚姻は秘蹟になると、聖なる現実となって、侵すべからざる制度となります。婚姻の秘蹟は我らの主、イエズス・キリストと公教会との関係になぞらえます。その結果、婚姻の約束が立派に果たせるように、夫婦のために特別な恩寵が与えられています。
要は、婚姻の秘蹟というのは、夫婦のために天主が用意した特別の御助け、特別の恩寵だと言えましょう。このポイントはデリケートなので気を付けましょう。というのも、自然次元の制度である婚姻は同時に秘蹟にもなっているという点がデリケートです。ですから、男女の二人の受洗者は結婚しようと思ったら、婚姻の秘蹟を受けなければなりません。言いかえると、受洗者なら、婚姻の秘蹟以外の形で結婚してはいけません。
しかしながら、洗礼を受けてない男女が結婚しようと思ったら、つまり一般的な言い方で言うと、異教徒の男女が結婚しようと思ったら、婚姻の秘蹟を受けることは不可能です。洗礼を受けていないから、洗礼以外の秘蹟に与ることはできません。
婚姻の秘蹟を受けないからといって、異教徒の男女は人間の本性に刻印されている婚姻によって結婚する権利はそれでも残ります。「自然結婚」と呼ばれて、自然結婚としては成り立つということです。本物の結婚であるということです。結婚という契約はそれでも変わらないからです。婚姻の目的は子供の出産と子供の教育にあります。
カトリック信徒にとって、婚姻において二重の現実があります。自然次元の現実と超自然次元の現実があります。そして、カトリックにとって、この二つの現実は切り外せない現実なのです。つまり、カトリック信徒は「自然次元の結婚があるから、教会の秘蹟を受けずに結婚しよう」ということはできません。それはありません。
役所での手続きとしての結婚、無宗教の結婚、異教の結婚はカトリック信徒にとって、価値のないものです。たとえば、法律上の結婚はあくまでも国家から見た制度であって、カトリック信徒にとっては、何の価値はありません。というのも、天主にとってもカトリック教会にとってもこのような法律上の制度は価値のないことだからです。
ですから、男女の受洗者は秘蹟を受けないで役所で手続きしても、結婚していないということになって、内縁関係の罪を犯していることになります。カトリック信徒なら、このような法律上の結婚はもはや自然次元の婚姻にも相当しないということです。
一方、異教徒の男女は役所で結婚届けしたら、カトリック信徒と違って、本当に結婚していることになります。自然上の契約としての結婚で。逆に言うと、結婚届けしなくても、男女のカトリック信徒は婚姻の秘蹟を受けたら、天主の前に、本当に完全に結婚していることになります。このように、異教徒のために、自然次元の婚姻制度は残っています。しかしながら、受洗者なら、自然上の婚姻と秘蹟上の婚姻はセットとなっていて、切り外せない事実となっており、婚姻の秘蹟といった時は自然上の婚姻も含まれています。一致します。
婚姻の制度によって、夫婦はお互いに相手の身体への権利を得ることになります。婚姻の秘蹟の本質はそこにもあります。繰り返しますが、生殖するためのすべての行為に関して、夫婦はお互いに相手の身体への権利を得ることになります。最終的に生殖が実現されるかどうかを問うことなく、大事なのは完全に生殖のための行為である限り、許されている行為です。
婚姻の秘蹟はイエズス・キリストによっていつ制定されたでしょうか?はっきりとはわかりません。イエズス・キリストの最初の公活動、カナの婚宴の際に制定なさったという説が有力です。カナの婚宴の際、初めての奇跡をなさいます。本当に素晴らしいことです。カナの婚宴での奇跡はイエズス・キリストがどれほど婚姻を尊重しているかということを示すのです。
制定の時はともかく、婚姻の秘蹟は本物の秘蹟であることに関して変わらないのです。トレント公会議はこれを明白に再断言しました。
婚姻の秘蹟の質料と形相は「同意」なのです。発言される同意ですね。具体的にいうと、夫婦はお互いに交わし合う「はい」ですね。「○○、○○を妻として迎えることにしますか」「はい」、○○、○○を夫として迎えることにしますか」「はい」。
それから、この同意は有効になるため、証人たちの前、大声で発言されなければなりません。また、本物の同意でなければなりません。つまり、意識的に同意するという、言いかえると拘束されないで、自由に同意するという条件があります。また、その同意は相互でなければなりません。婚姻は契約ですから。
以上の条件が満たされることは、夫婦がお互いに相手に自分をあげることを示すのです。「生めよ、ふえよ」のために同意するということです。
婚姻の秘蹟の執行者は司祭ではありません。夫婦自身が婚姻の秘蹟の執行者です。言いかえると、婚姻の秘蹟に与る一人の男性と一人の女性が執行者です。残念ながら、以上のような当たり前のことをしつこく繰り返さざるを得ません。というのも、現代社会が進めようとする堕落めいた動きに抵抗するためです。同性の者の間に、結婚なんて存在しません。
これは当然のことです。婚姻という契約は「生めよ、ふえよ」のためにある制度ですから、男女でなければなりません。人類を増やすために生殖するためにある制度です。で、生殖する前提は男女の別です。また、男女はお互いに補い合うことは生殖の前提です。ですから、同性の者の間において婚姻の契約は文字通りに不可能です。文字通りに、反自然なのです。つまり、人間の本性に背くことです。そして、反自然のような行為は非常に深刻なことで、人間自体を破壊している罪なので非常に深刻なことです。
そういえば、自然に背くこれらの「法律」を推進している人々はどれほど堕落しているか、獣的な性格を持っているかは彼等を見るだけでも残念ながら明瞭なのです。
それはともかく、婚姻の秘蹟は「生めよ、ふえよ」という趣旨のために制定されているから、必然的にこの契約の対象者は一人の女と一人の男の間にだけ成り立つわけです。当然といえば当然ですが。そして、これは婚姻制度の本質でもあるので、また人間の本性でもあるので、いつまでも変わらない本質であり、変えられない婚姻制度なのです。
つまり、男と男の間に、女と女の間に結婚はありません。悲しいおどけにすぎません。悪魔のしわざであるといわざるを得ません。天主に対する深刻な侮辱です。このような反自然的な関係は結婚でもなんでもありません。
要するに、婚姻の秘蹟の執行者は夫婦自身なのです。婚姻の秘蹟は二つの特性を持っています。一夫一妻制と解消不可能性です。
一夫一妻制とは何でしょうか。一人のみの男は一人のみの女と結婚するという婚姻の秘蹟の特性が一夫一妻制です。一夫多妻制もなければ、多夫一妻制もありません。一夫一妻制です。我らの主、イエズス・キリストはこれを明白に再断言なさいました。そして、聖パウロも次のように書きました。「妻は夫の生きている間に彼に結ばれている」(コリント人への第一の手紙、7、39)。以上が一夫一妻制の原則です。
旧約聖書時代には、一夫多妻制が事実としてありました。天主は立法者であって、婚姻制度をも制定なさいましたが、天主は旧約聖書の時代、一夫多妻制を耐えて赦しておられました。しかしながら、我らの主、イエズス・キリストによって、決定的に一夫多妻制は永久に廃止されました。ファリサイ人の前の場面で、一夫多妻制を明らかに廃止なさったのです。
また、一夫多妻制の結果、良い実りはあまりなかったのです。アブラハムの例を見るだけでも、最初の妻、長男Ismaelイスマエルが生まれたAgarアガルを追い出さざるを得なくなりました。というのも、多妻の間の争いばかりとなって、不和の種を作るのが一夫多妻制だったからです。子供の教育にとっても妨げとなります。それはともかく、婚姻が秘蹟になってからは、厳格に一夫一妻制となっています。
第二の特性は解消不可能性です。解消不可能性は永続的な契約になるという意味です。永続という意味は夫婦の一人の死までという意味です。
婚姻の秘蹟によって結ばれた絆は非常に強いです。結婚した瞬間から、夫婦は離れることは不可能であるほどです。つまり、離婚はありません。国家は離婚を認めても、カトリックの結婚において離婚はありません。従って、国家の法に従って離婚しても、カトリックの秘蹟でいうと、離婚は無効で、結婚しているままです。
フランスのようなカトリックの国において離婚を合法化するなんて、宗教に対するとんでもない侮辱ですが、民間の裁判などが離婚を許可する判決をだしても、何の価値のない判決となります。カトリックの結婚は解消不可能であって、この世では一人も解消することはできません。天主の前に夫婦は夫婦のまま死ぬまで結婚しています。
つまり、国家の法律上理解したとしても、カトリック信徒は天主の前に再婚することは不可能です。そもそも、再婚することは不可能です。偽りの再婚をしても、内縁関係の罪を犯しているに過ぎないということです。
世俗の離婚は要するに無効で何の価値がありません。しかしながら、この制度は非常に邪悪で、危険です。まず、子供の教育にとって非常に悪い制度です。離婚の制度のせいで、多くの家族を不幸にして、子供の教育をめちゃくちゃにして、社会を破壊する制度です。というのも、家族こそが社会の基盤だからです。現在になって、離婚制度の悪しき帰結は目の前にあって、確認しやすいです。要は、カトリック信徒なら、離婚は無理であって、考えられない選択です。論外です。
場合によって、夫婦の一人がもう一人に離婚させられて、その状態を堪えざるを得ないことがあります。やはり、堪えざるを得ないことで、このカトリック信徒は再婚しないのです。相手のことを悲しんでも仕方がないだけです。
しかしながら、あえて裁判にいって、あるいは離婚を要求するようなことをしたら、カトリック信徒は大きな罪を犯すのです。これは大罪です。婚姻の秘蹟に対する直接の罪です。ですから、このような場合、他の秘蹟に与ることはできません。同じように、内縁関係にある人々は秘蹟に与れません。つまり、結婚していないのに同棲しているという結婚もどきことを知ってやっている人々は大罪を犯している状態なので聖体拝領することは不可能です。
場合によって、事情があって、夫婦は「身体の隔離」(結婚しているままですが、別居すること)が赦される場合があります。しかしながら、このような特別な措置を許可できる権威は司教のみです。要するに、夫婦は自分の判断で別居することを決めてはいけません。正当なる権威、つまり司教に「身体の隔離」を依頼しなければなりません。
婚姻の秘蹟を受ける条件は何でしょうか。妨げのない受洗者です。言い換えると、カトリック教会が決める妨げはありますが、妨げの種類は二つあります。一つ、禁止の妨げは結婚されたら有効であるものの違法の結婚という妨げ。もう一つ、無効を伴う妨げもあります。つまり、この場合、結婚してもそもそも結婚として成り立たないという結婚の無効を伴う妨げです。
この点は神学上のややこしい点で深入りしませんが、秘蹟や教会法とのかかわりと関係しています。
例を挙げましょう。カトリック信徒は異教徒と婚姻を結ぶのは、無効を伴う妨げとなります。ただし、場合によって特例もあり得て、つまり妨げがあっても秘蹟に与る許可が与えられることもあります。
許可が絶対にありえない妨げもあります。時間の問題で、細かい話を割愛します。
簡単に言うと、婚姻の秘蹟に与りたいと思うなら、二人の若者は司祭の下に行って、婚姻の秘蹟は何であるかを説明されて、結婚の準備をします。
そして、その際、司祭は当事者が自由に拘束なしで結婚しようとしていることを調べておきます。例えば、脅されて、あるいは拘束の下に結ばれる婚姻はもちろん無効です。それを事前に防ぐために司祭は確認する義務があります。
無効の結婚というのは、言いかえると、偽りの契約と似ていますね。つまり、契約として成り立たないので、結ばれても効果を伴わない契約ですね。無効の結婚も一緒です。要は、結婚したいと思うなら、司祭に伺うのがよいです。で、神父は結婚の要件などを確認しますので、安心できるでしょう。
婚姻の秘蹟の効果はどうなっているでしょうか?聖寵を増やします。そういえば、婚姻の秘蹟に与るために聖寵の状態も前提ですね。その上、夫婦の義務を立派に果たせるように助けて、婚姻の秘蹟による特別の聖寵も与えられています。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理 第百二十四講 婚姻の秘蹟について
婚姻の秘蹟について
Gabriel Billecocq神父
さて、最後の二つの秘蹟を見ていきましょう。殊に社会を聖化するために、我らの主、イエズス・キリストは婚姻と品級を制定なさいました。もちろん、個人もそれで聖化されていますが。
まず、婚姻の秘蹟を見ていきましょう。
最初にいうべきことは、秘蹟である前に婚姻の制度は自然の制度であるということです。言いかえると、婚姻の制度は自然の現実であります。つまり、人間の本性から生じる社会制度です。要は、天主はアダムのための連れとしてエワを創造なさった瞬間、婚姻制度をも設け給ったのです。
「天主は、人間を祝福して仰せられた、「生めよ、ふえよ、地に満ちて、地を支配せよ」」(創世の書、1、28)
天主はこのように仰せになることによって、婚姻制度を制定なさいました。婚姻制度は自然上の現実です。自然上の契約でありまして、婚姻によって一人の女と一人の男が同意して(契約は成り立つために同意する要件はあります)、お互いに誓い合って、いくつかの義務と権利を受けいれることに同意します。権利といえば、必ず義務も生じて、権利と義務は離れられるような存在ではありません。
繰り返しますが、何よりもまず、婚姻制度は人間の本性より生じる自然の現実なのです。それを忘れてはいけません。人間の本性に属するのが婚姻制度です。また、婚姻制度は契約でもあります。言いかえると、正義を実現させるための制度ということです。では、契約とは何でしょうか?それらは条件などからなっていて、それにより特徴づけられています。
で、婚姻という契約の趣旨、その条件は「生めよ、ふえよ」ということです。天主が制定なさったのが婚姻の契約、婚姻の制度です。天主は婚姻の制度の条件を制定なさった以上、人間によっては変えられないのです。
そして、人間の本性に刻印されている婚姻制度として天主は制定なさいました。「生めよ、ふえよ」。
言いかえると、婚姻の約束は子供の出産と子供の教育のために制定された制度です。また、婚姻制度の目的は人間が世界に広まっていくためにあります。「生めよ、ふえよ、地に満ちて、地を支配せよ」。
もちろん、地上に満ちる彼方に、婚姻制度の究極的な目的は天国が満ちるために制定されました。以上は自然次元として、人間の本性に属する婚姻制度としての婚姻の説明でした。
我らの主、イエズス・キリストは婚姻制度をそのままに維持しながら、人間の本性の一部である婚姻の約束として維持して、人間なら自然権となる婚姻制度として維持しながら、秘蹟の価値まで、婚姻制度を高めることになさいました。これは素晴らしい神秘であり、美しいことです。
その結果、婚姻は秘蹟ともなります。自然次元の契約として変わらない婚姻制度ですが、その上、秘蹟ともなる婚姻なのです。つまり、超自然の婚姻の約束となります。自然次元としての婚姻の約束は変わりません。つまり、婚姻制度の目的はそのまま、「生めよ、ふえよ」となります。婚姻の本質はつまり変わりません。
しかしながら、婚姻の秘蹟になると、すでに正当だった婚姻の絆は聖化されています。言いかえると、婚姻は秘蹟になると、聖なる現実となって、侵すべからざる制度となります。婚姻の秘蹟は我らの主、イエズス・キリストと公教会との関係になぞらえます。その結果、婚姻の約束が立派に果たせるように、夫婦のために特別な恩寵が与えられています。
要は、婚姻の秘蹟というのは、夫婦のために天主が用意した特別の御助け、特別の恩寵だと言えましょう。このポイントはデリケートなので気を付けましょう。というのも、自然次元の制度である婚姻は同時に秘蹟にもなっているという点がデリケートです。ですから、男女の二人の受洗者は結婚しようと思ったら、婚姻の秘蹟を受けなければなりません。言いかえると、受洗者なら、婚姻の秘蹟以外の形で結婚してはいけません。
しかしながら、洗礼を受けてない男女が結婚しようと思ったら、つまり一般的な言い方で言うと、異教徒の男女が結婚しようと思ったら、婚姻の秘蹟を受けることは不可能です。洗礼を受けていないから、洗礼以外の秘蹟に与ることはできません。
婚姻の秘蹟を受けないからといって、異教徒の男女は人間の本性に刻印されている婚姻によって結婚する権利はそれでも残ります。「自然結婚」と呼ばれて、自然結婚としては成り立つということです。本物の結婚であるということです。結婚という契約はそれでも変わらないからです。婚姻の目的は子供の出産と子供の教育にあります。
カトリック信徒にとって、婚姻において二重の現実があります。自然次元の現実と超自然次元の現実があります。そして、カトリックにとって、この二つの現実は切り外せない現実なのです。つまり、カトリック信徒は「自然次元の結婚があるから、教会の秘蹟を受けずに結婚しよう」ということはできません。それはありません。
役所での手続きとしての結婚、無宗教の結婚、異教の結婚はカトリック信徒にとって、価値のないものです。たとえば、法律上の結婚はあくまでも国家から見た制度であって、カトリック信徒にとっては、何の価値はありません。というのも、天主にとってもカトリック教会にとってもこのような法律上の制度は価値のないことだからです。
ですから、男女の受洗者は秘蹟を受けないで役所で手続きしても、結婚していないということになって、内縁関係の罪を犯していることになります。カトリック信徒なら、このような法律上の結婚はもはや自然次元の婚姻にも相当しないということです。
一方、異教徒の男女は役所で結婚届けしたら、カトリック信徒と違って、本当に結婚していることになります。自然上の契約としての結婚で。逆に言うと、結婚届けしなくても、男女のカトリック信徒は婚姻の秘蹟を受けたら、天主の前に、本当に完全に結婚していることになります。このように、異教徒のために、自然次元の婚姻制度は残っています。しかしながら、受洗者なら、自然上の婚姻と秘蹟上の婚姻はセットとなっていて、切り外せない事実となっており、婚姻の秘蹟といった時は自然上の婚姻も含まれています。一致します。
婚姻の制度によって、夫婦はお互いに相手の身体への権利を得ることになります。婚姻の秘蹟の本質はそこにもあります。繰り返しますが、生殖するためのすべての行為に関して、夫婦はお互いに相手の身体への権利を得ることになります。最終的に生殖が実現されるかどうかを問うことなく、大事なのは完全に生殖のための行為である限り、許されている行為です。
婚姻の秘蹟はイエズス・キリストによっていつ制定されたでしょうか?はっきりとはわかりません。イエズス・キリストの最初の公活動、カナの婚宴の際に制定なさったという説が有力です。カナの婚宴の際、初めての奇跡をなさいます。本当に素晴らしいことです。カナの婚宴での奇跡はイエズス・キリストがどれほど婚姻を尊重しているかということを示すのです。
制定の時はともかく、婚姻の秘蹟は本物の秘蹟であることに関して変わらないのです。トレント公会議はこれを明白に再断言しました。
婚姻の秘蹟の質料と形相は「同意」なのです。発言される同意ですね。具体的にいうと、夫婦はお互いに交わし合う「はい」ですね。「○○、○○を妻として迎えることにしますか」「はい」、○○、○○を夫として迎えることにしますか」「はい」。
それから、この同意は有効になるため、証人たちの前、大声で発言されなければなりません。また、本物の同意でなければなりません。つまり、意識的に同意するという、言いかえると拘束されないで、自由に同意するという条件があります。また、その同意は相互でなければなりません。婚姻は契約ですから。
以上の条件が満たされることは、夫婦がお互いに相手に自分をあげることを示すのです。「生めよ、ふえよ」のために同意するということです。
婚姻の秘蹟の執行者は司祭ではありません。夫婦自身が婚姻の秘蹟の執行者です。言いかえると、婚姻の秘蹟に与る一人の男性と一人の女性が執行者です。残念ながら、以上のような当たり前のことをしつこく繰り返さざるを得ません。というのも、現代社会が進めようとする堕落めいた動きに抵抗するためです。同性の者の間に、結婚なんて存在しません。
これは当然のことです。婚姻という契約は「生めよ、ふえよ」のためにある制度ですから、男女でなければなりません。人類を増やすために生殖するためにある制度です。で、生殖する前提は男女の別です。また、男女はお互いに補い合うことは生殖の前提です。ですから、同性の者の間において婚姻の契約は文字通りに不可能です。文字通りに、反自然なのです。つまり、人間の本性に背くことです。そして、反自然のような行為は非常に深刻なことで、人間自体を破壊している罪なので非常に深刻なことです。
そういえば、自然に背くこれらの「法律」を推進している人々はどれほど堕落しているか、獣的な性格を持っているかは彼等を見るだけでも残念ながら明瞭なのです。
それはともかく、婚姻の秘蹟は「生めよ、ふえよ」という趣旨のために制定されているから、必然的にこの契約の対象者は一人の女と一人の男の間にだけ成り立つわけです。当然といえば当然ですが。そして、これは婚姻制度の本質でもあるので、また人間の本性でもあるので、いつまでも変わらない本質であり、変えられない婚姻制度なのです。
つまり、男と男の間に、女と女の間に結婚はありません。悲しいおどけにすぎません。悪魔のしわざであるといわざるを得ません。天主に対する深刻な侮辱です。このような反自然的な関係は結婚でもなんでもありません。
要するに、婚姻の秘蹟の執行者は夫婦自身なのです。婚姻の秘蹟は二つの特性を持っています。一夫一妻制と解消不可能性です。
一夫一妻制とは何でしょうか。一人のみの男は一人のみの女と結婚するという婚姻の秘蹟の特性が一夫一妻制です。一夫多妻制もなければ、多夫一妻制もありません。一夫一妻制です。我らの主、イエズス・キリストはこれを明白に再断言なさいました。そして、聖パウロも次のように書きました。「妻は夫の生きている間に彼に結ばれている」(コリント人への第一の手紙、7、39)。以上が一夫一妻制の原則です。
旧約聖書時代には、一夫多妻制が事実としてありました。天主は立法者であって、婚姻制度をも制定なさいましたが、天主は旧約聖書の時代、一夫多妻制を耐えて赦しておられました。しかしながら、我らの主、イエズス・キリストによって、決定的に一夫多妻制は永久に廃止されました。ファリサイ人の前の場面で、一夫多妻制を明らかに廃止なさったのです。
また、一夫多妻制の結果、良い実りはあまりなかったのです。アブラハムの例を見るだけでも、最初の妻、長男Ismaelイスマエルが生まれたAgarアガルを追い出さざるを得なくなりました。というのも、多妻の間の争いばかりとなって、不和の種を作るのが一夫多妻制だったからです。子供の教育にとっても妨げとなります。それはともかく、婚姻が秘蹟になってからは、厳格に一夫一妻制となっています。
第二の特性は解消不可能性です。解消不可能性は永続的な契約になるという意味です。永続という意味は夫婦の一人の死までという意味です。
婚姻の秘蹟によって結ばれた絆は非常に強いです。結婚した瞬間から、夫婦は離れることは不可能であるほどです。つまり、離婚はありません。国家は離婚を認めても、カトリックの結婚において離婚はありません。従って、国家の法に従って離婚しても、カトリックの秘蹟でいうと、離婚は無効で、結婚しているままです。
フランスのようなカトリックの国において離婚を合法化するなんて、宗教に対するとんでもない侮辱ですが、民間の裁判などが離婚を許可する判決をだしても、何の価値のない判決となります。カトリックの結婚は解消不可能であって、この世では一人も解消することはできません。天主の前に夫婦は夫婦のまま死ぬまで結婚しています。
つまり、国家の法律上理解したとしても、カトリック信徒は天主の前に再婚することは不可能です。そもそも、再婚することは不可能です。偽りの再婚をしても、内縁関係の罪を犯しているに過ぎないということです。
世俗の離婚は要するに無効で何の価値がありません。しかしながら、この制度は非常に邪悪で、危険です。まず、子供の教育にとって非常に悪い制度です。離婚の制度のせいで、多くの家族を不幸にして、子供の教育をめちゃくちゃにして、社会を破壊する制度です。というのも、家族こそが社会の基盤だからです。現在になって、離婚制度の悪しき帰結は目の前にあって、確認しやすいです。要は、カトリック信徒なら、離婚は無理であって、考えられない選択です。論外です。
場合によって、夫婦の一人がもう一人に離婚させられて、その状態を堪えざるを得ないことがあります。やはり、堪えざるを得ないことで、このカトリック信徒は再婚しないのです。相手のことを悲しんでも仕方がないだけです。
しかしながら、あえて裁判にいって、あるいは離婚を要求するようなことをしたら、カトリック信徒は大きな罪を犯すのです。これは大罪です。婚姻の秘蹟に対する直接の罪です。ですから、このような場合、他の秘蹟に与ることはできません。同じように、内縁関係にある人々は秘蹟に与れません。つまり、結婚していないのに同棲しているという結婚もどきことを知ってやっている人々は大罪を犯している状態なので聖体拝領することは不可能です。
場合によって、事情があって、夫婦は「身体の隔離」(結婚しているままですが、別居すること)が赦される場合があります。しかしながら、このような特別な措置を許可できる権威は司教のみです。要するに、夫婦は自分の判断で別居することを決めてはいけません。正当なる権威、つまり司教に「身体の隔離」を依頼しなければなりません。
婚姻の秘蹟を受ける条件は何でしょうか。妨げのない受洗者です。言い換えると、カトリック教会が決める妨げはありますが、妨げの種類は二つあります。一つ、禁止の妨げは結婚されたら有効であるものの違法の結婚という妨げ。もう一つ、無効を伴う妨げもあります。つまり、この場合、結婚してもそもそも結婚として成り立たないという結婚の無効を伴う妨げです。
この点は神学上のややこしい点で深入りしませんが、秘蹟や教会法とのかかわりと関係しています。
例を挙げましょう。カトリック信徒は異教徒と婚姻を結ぶのは、無効を伴う妨げとなります。ただし、場合によって特例もあり得て、つまり妨げがあっても秘蹟に与る許可が与えられることもあります。
許可が絶対にありえない妨げもあります。時間の問題で、細かい話を割愛します。
簡単に言うと、婚姻の秘蹟に与りたいと思うなら、二人の若者は司祭の下に行って、婚姻の秘蹟は何であるかを説明されて、結婚の準備をします。
そして、その際、司祭は当事者が自由に拘束なしで結婚しようとしていることを調べておきます。例えば、脅されて、あるいは拘束の下に結ばれる婚姻はもちろん無効です。それを事前に防ぐために司祭は確認する義務があります。
無効の結婚というのは、言いかえると、偽りの契約と似ていますね。つまり、契約として成り立たないので、結ばれても効果を伴わない契約ですね。無効の結婚も一緒です。要は、結婚したいと思うなら、司祭に伺うのがよいです。で、神父は結婚の要件などを確認しますので、安心できるでしょう。
婚姻の秘蹟の効果はどうなっているでしょうか?聖寵を増やします。そういえば、婚姻の秘蹟に与るために聖寵の状態も前提ですね。その上、夫婦の義務を立派に果たせるように助けて、婚姻の秘蹟による特別の聖寵も与えられています。