ファチマの聖母の会・プロライフ

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どのように人を赦せばよいか?

2022年10月16日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ神父様(D.Puga)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



我々も人を赦せるように―赦すための手引き
プーガ神父様(D.Puga)のお説教  
2022年7月31日 

Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
愛する兄弟の皆さま、我々が知っているように、信じているように、良き天主は我々に対し限りなく憐み深いです。なぜなら我々は被創造物であるにすぎなくても憐み深いからです。そして我々は被創造物であるが故に、弱い存在であり、罪を犯しやすくても憐れんでくださるからです。
天主は、限りなく正しき存在であり、限りなく正義を全うする天主であり、限りなく憐み深い天主なのです。このように限りなく憐み深くおられると同時に、限りなく公平に裁いておられる天主なのです。両方の要素は常にともにあるのです。

天主は何でもお赦しになれます。なぜなら、天主はよき存在であると同時に、人間の一人である天主の御子であるイエズスの功徳のお陰で、天主から我々のための赦しを得られるようになったからです。イエズスの御血の一滴だけでも、人類の全員が犯しうるあらゆる罪、可能な罪を赦すためには十分なのです。このように無限な価値があるのです。

天主がお赦しならないことは一つだけあります。それは聖霊に対する罪なのです。愛する兄弟の皆さま、なぜでしょうか。聖霊に対する罪とは赦してほしくないと思い込んでいる人が犯す罪だからです。言いかえると、赦されなくてもよい、このような赦しが要らない、このような赦しは私なら余計なことだと思い込む人の罪だからです。

また、聖霊に対する罪とはいわゆる赦されることを認めていても、天主からの御赦しだけを拒む人の罪なのです。つまり、天主がお赦しになることをもって、天主から来ることを拒む人の罪なのです。要するに、これは天主に対する反逆の一環であるというか、サタン的なところがあるのです。

しかしながら、以上の例外を除いたら、天主はあらゆる罪をお赦しになります。聖霊に対する罪に至っても、その人が聖寵の息吹きを受け入れてまことに悔い改めたら天主はもちろん彼をお赦しになります。

しかしながら、天主は我々をお赦しになるという時、どれほど我々をお赦しになるでしょうか。なぜこの質問をするのでしょうか。
天主は何でもお赦しなられますが、それはつまり、限りなくお赦しになるということです。

この質問への答えは我らの主、イエズス・キリストが我々のために残されて、教えられて、祈るように頼まれた立派な祈りの中にあります。それが主祷文です。主祷文の後半部分を思い出しましょう。天主へお祈りを捧げながら、「われらが人に赦す如く、われらの罪を赦し給え。」

われらが人に赦す如くということです。愛する兄弟の皆さま、そこがポイントです。天主の御赦しの程度は我々の言動次第で決まるということです。我々は自分に対して罪を犯した人を赦せば赦すほどに、天主は我々をお赦しになるということです。

このように、天主は我々が犯したいくつかの罪をお赦しにならない時に、その責任は我々にあるということです。なぜなら、我々の心こそが冷淡で、隣人を赦さない堅い心になってしまうことに由来するからです。

さて、もう一点の質問があるでしょう。私は私に対して罪を犯した人を赦してもいいですし、赦したいのですが、では具体的にどうやって赦せばよいのでしょうか。要するに侮辱された人々の前に、どのように言動したら赦せるかという問題です。
何よりも大事なのは基本になるのは、受けた悪、弊害に対して応報しないこと、復讐しないこと、悪で返さないことなのです。そして、その意図、気持ちと戦い、なくすことに努めることです。要するに、赦しは内面的な態度で始まるのです。

復讐はまったくキリスト教的ではありません。つまりどれほど悪を受けていても仇討ちしない、復讐しないということです。
もちろん、受けた悪は悪のままです。罪です。だから悪を咎めるのはいいですが、しかしながら罪人は憐れむべき人であり、このように、罪人から受けた悪を悪で返してはいけません。
もしも、我々を侮辱した、我々に対して悪いことをした人がさらに後悔していて、我々へ向けて我々の赦しを求めるのなら、我々はキリスト教徒として、その依頼に応じる義務があります。それに応じて、仲直りの依頼を受け入れて赦してあげる義務があります。

天主が赦し給うことを望む人は、隣人に赦すこと、善行を受け入れる必要があります。そして、本物の赦しになる必要があります。つまり形式的に小さな声で「赦した」のではなく、心を込めて赦してあげて、言動上も帳消しにするという赦しが必要です。

次の問題はお分かりですね。我々を侮辱して、我々に対して罪を犯したのに、私の赦しを頼みに来ない人、赦しを頼みに来ることを拒み続ける人についてどうすればよいですか。つまり私を傷つけた人で「ごめんなさい」と絶対に言わない人々に対して、どうすればよいですか。このような場合は、まず大事なのは、これらが許しを求める機会、仲直りできる機会を少なくとも一回与えてあげることです。つまり、何らかの形で、我々は赦してあげる準備ができていて、向こうはいつでも赦しを乞うことができて、そうしたら心を込めてまことに赦してあげるよということを示してあげることが大事です。

このことは福音書のイエズス・キリストのお言葉を思い起こさせます。
兄弟が何か自分に対して含むところがあるのを思い出したら、供え物をそこ、祭壇の前に置き、まず兄弟のところに行って和睦し、それからかえって供え物を捧げよ。」(マテオ、5,24)とイエズスは仰せになります。

それでも、その人はその罪を悔い改めないで、赦しを絶対に求めないことにしつづけたら、あるいは我々に対して悪いことをし続けようとするとき、どうすればよいですか。

この場合、少なくとも彼らのために引き続き祈りましょう。よく祈りましょう。少なくとも嫌悪感、憎しみを絶対に自分の心に入れないようにしましょう。そうするために、彼らが犯している罪を憐みましょう。同情しましょう。なぜできるのでしょうか。これらの罪を最期まで悔い改めないのなら、裁かれることを知っているので、この大変な裁きを思って憐れむことができるからです。

また、政治家や責任のある人々についても適用できます。よく極悪の政策やとんでもない弊害を及ぼす決定をした人々に対して文句を言ったり、憤怒したりすることがよくあると思います。我々は完全に無力になっていて、共通善を守るべき人々が共通善に弊害を加えていることをみて、また一回限りではなく、彼らは悪をやり続けることにしていることを見て憤怒することがありますよね。

そういう時は、我々は彼らの天主のお裁きについて考えてみましょう。恐ろしいことで、ぞっとするほどの裁きになりましょう。我々は無力で何もできないとしても、彼らもある日、我らの主、イエズス・キリストによって裁かれることになるからです。このように、彼らのために祈りましょう。彼らは罪を犯して悪を行うことをやめるように祈りましょう。祈りだけではなく、彼らの回心のために犠牲をも捧げましょう。

最後に、ある話をさせてください。実際にあった話です。聖ヨハネ・ガルベー(Saint Jean Galbert)の人生の一つの場面ですが、彼は11世紀の聖人です。西暦1000年のちょっと前に生まれました。フィレンツェの人で、そこで生まれました。鉄のような時代で、厳しい時代でした。
この聖人はかなり偉い家柄の子で、カトリックの信仰の家に育ちました。しかしながら、青年期になった時、騎士になることを志しました。ご存知のように、騎士は、特に昔のそのような時代では、限られた例外がいるものの、聖徳を行いやすい職業ではありません。
このように聖ヨハネには信徳が残っていても、その人生はまっすぐではなくただしくありませんでした。

ある日、彼の兄弟、ユーグですが、一人だけの兄弟でしたが、フィレンツェのもう一人のある貴族によって殺されました。このように、ヨハネ・ガルベーはフィレンツェの貴き一族の代表者になり、ユーグ兄の殺人にたいして仇討ちを必ず果たすことを誓ったわけです。
そして、時間が経って、ある日、ヨハネ・ガルベーは馬に乗って数人の騎士と共にフィレンツェへ帰っていたときでした。ある細道では向こうから馬に乗る一人きりの人と出会うのです。その人はユーグ兄の殺人者でした。それを分かったヨハネは、すぐさま、剣を手にし、兄の名誉をすすぐためにと思って、仇討ちを果たそうとして、相手を斬りそうになりました。
そして、兄を殺した人は自分の最期が近いことを察して、馬から降りて跪き、腕を十字架のように組みました。これは赦しを希うためではなく、死ぬ前に、天主へ自分の霊魂をすすめるためです。なぜなら、もう逃げることができなく、殺されることを知っているからです。

剣を抜いたヨハネ・ガルベーも馬から降りて、兄の殺人者を斬りに行きます。そして、彼の前にいる十字形に腕を組んで跪いているその男を斬りそうになった瞬間、ヨハネ・ガルベーは前に我らの主、イエズス・キリストがおられるかのようなすごい印象におおわれました。

実は、その日は聖金曜日でした。聖ヨハネ・ガルベーはその後、この時を顧みた時に記した文章によると、「私はその男を赦さざるを得なかった」と明かします。なぜなら、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているか知らないからです」(ルカ、23,34)と天主の御赦しを希った十字架上のキリストをヨハネ・ガルベーが見たので、兄の殺人者を赦さざるを得なかったと明かしました。
聖ヨハネ・ガルベーはその時、剣を鞘に戻して、体をかがみ、兄の殺人者へ手を伸ばして彼を起して「平和の内にいけ」と言いました。



しかしながら、これで以上の話は終わったわけではありません。このように兄の殺人者を赦したのですが、その後、聖金曜日だったその日、ヨハネ・ガルベーはまた帰り道を走っていました。フィレンツェに到着したら、先に家の準備のために伴の騎士たちを送っておきました。そして、ヨハネ・ガルベーはSan Miniato al Monteという教会に行きました。祈るために教会の中へ入りました。そこで、大きな十字架の絵の前に留まります。その前に跪きます。そして、十字架に向けて、「私は彼に赦した如く、我に赦し給え」と言います。なぜなら、
ヨハネ・ガルベーは正しい生き方をしていなかったことをよく知っていたからです。
そしてその瞬間ですが、その時に起きたことはヨハネ・ガルベーの人生を覆して回心の切っ掛けになり、そのあと聖人になっていきますが、画の十字架上のキリストの頭はさがって「はい、赦してあげた」という風に示されました。

これを機に、聖ヨハネ・ガルベーは回心して、彼の生き方は一変していきます。その後、修道会にも入り、また彼自身がその修道会の改革修道会を設立することになりました。Vallombreuse修道会だったので、Vallombreuse改革と呼ばれていますが、このように聖ヨハネ・ガルベーは偉大な聖人となっていき、彼の周りに多くの善行と善を施しました。



この聖人は我々のための模範です。聖ヨハネ・ガルベーの祝日は7月12日でしたが、彼の人生を読むようにお勧めします。多くの教訓と模範があり、我々のキリスト教的な日常のために助けとなります。模範になるように。

我々を侮辱した人々に赦すための模範です。
また聖母マリアに希いましょう。憐みの御母なるマリア様よ、天主が我々を赦す如く、我々も人に赦せるように教えるように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


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