白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
罪に関する講座を続けましょう。前回は罪の定義を提示しました。罪とは「天主の法への違反である」という定義です。つまり、罪とは天主が人間に対して人間の救いのために命じた戒め・掟・法などに反する行為なのです。ですから、罪とはそもそも私たちの完全化に反する行為となります。というのも、戒めなどによって「行うべき行為」とは自分の完全化のために天主によって規定された行為であるからです。
そして、究極的に人間の完全な境地は天主なのです。天主は万物やあらゆる物事のこの上なき目的であり、善であるのです。従って、罪は「天主の法への違反である」でいう天主の法とは、究極的にこの上なき人間の善である天主を私たちが承るために天主が与え給った掟や法や戒めなのです。
そういえば、これを見ると、聖トマス・アクイナスの罪の定義をよりよく理解できます。聖トマス・アクイナスによると、罪とはラテン語で「Aversio a deo et conversio al creaturam」という定義になっています。つまり、罪とは「天主からの被創造物の離脱である」となります。
要するに、あえて言えば、罪には二つの側面があります。そもそも人間の目的地は天主であり、天主へ向かうべき人間です。が、罪を犯す時、人間は天主への道から、つまり人間の本来の目的から逸脱するということになります。後述するように道を外れるには程度の差があります。それはともかく、罪を犯している人は自分の本来の目的を拒絶する行為を犯し、あるいは目的地から背を向けるようなことを意味しています。
だからこの意味で、罪とは「乱れた行為である」とよく言われています。「乱れた」とは、その言葉の意味通りであって、つまり、「秩序がなくなった状態」あるいは「方向性を失った状態」という意味です。「乱れる」の反対語はフランス語で、「秩序づける」あるいは「方向付ける」という意味であり、その存在の本来の目的通りに方向付けるという意味です。
要するに、罪とは「本来の目的を乱して曖昧にする」ような行為です。従って、罪を犯す人は天主から逸らすことになって、天主に背を向けるようになってしまうという意味です。そして、そうすることによって、被創造物へ向かうことになります。「天主から被創造物へ自分の方向を変える」という意味が罪です。
言いかえると、罪を犯す人は、「創造主よりも被創造物を優先する」ということです。つまり、罪を犯す時、創造主において自分の喜びと善を置かなくなって、被創造物において自分の喜びと善があると間違って思うのです。なぜでしょうか?つまり、罪びとは「善」を間違うのです。
つまり、罪人は「創造主よりも、なんらかの被造物においてより多くの善と喜びがある」と間違って思い込んだりして、このように見えてしまう状態に陥ります。言いかえると、罪人は「善」を間違っているのです。つまり、罪とは「偽りの善」を間違って選ぶ行為です。あるいは罪とは「うわべだけの善にみえる」被創造物を間違って絶対な善として選ぶ行為なのです。
実際に、これらの偽りの善は禍なのですが、多くの場合は禍・悪は善として見せかけられているのです。そして、現に本当の善なる天主よりも見せかけの善を選ぶときに罪を犯すのです。一言でいうと、「天主に背を向けて、ある被創造物へ方向を変える」行為を罪というのです。
罪の犯行を促す原因とは何でしょうか?第一に、無知があります。善を知らないから、無知のせいで善を間違って悪いことを選ぶ時もあります。それから、すでに見てきたように、乱れた欲望と悪意という原因もあります。それから、もう一つの罪の大きな原因は「世間」にあります。
「世間」あるいは「この世」は罪の原因の一つなのです。いわゆる、「偽りの善を提示する」世間です。良いことに、格好良いこととして見せかけるまがい物を提示する「この世」のことです。あえて、この上なき善なる創造主と単なる創られた相対的な善との間には「差がない、一緒だよ」と見せかける世間です。
なんか、「この世の物事だけでは幸せを得ることはあり得るよ、充実な生活したら幸せになるよ、金持ちになったら幸せになるよ、権力と身分を得たら幸せになるよ」といったような偽りの幸せを提示する「この世のこと」です。少ない例ですが、これらを絶対的な善として、つまり理想として提示する「この世」です。一言でいうと、多くの誘惑を潜んでいる「世間」なのです。
現代では特に明白でしょう。「天主の法を犯してもよいよ」と誘っている現代では明らかでしょう。例えば、結婚に関する天主の法を否定する制度を正当化するときは自明です。要は、この世というのは誘惑の原因であり、罪を促す原因なのです。
そして、罪を促す最後の原因は「悪魔」自身です。福音には有名な場面があります。私たちの主は砂漠にいる間の場面ですが、三回ほどに悪魔によって誘われる場面です。私たちの主、イエズス・キリストには、当然ながら「無知」もなければ、「乱れた欲望」もなくて、「悪意」も当然になかったのです。そして、砂漠にいた間に、「世間」も罪への誘惑の原因になることは不可能な状態でした。砂漠には何もないからですね。ですから、福音のこの場面での誘惑の原因は悪魔自体です。そして、時には現に悪魔が人間にも働きかけて誘って誘惑の原因となったりします。
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これから、罪に関する大事な区別について注意しましょう。小罪と大罪という区別です。というのも、罪を考える時、罪の「軽重」で、区別するのです。より厳密にいうと、罪の結果次第で、小罪と大罪という区別ができます。
小罪と大罪という区別はカトリック教会だけにあるのではなくて、曖昧ながらももかなりどこにでもいつでも定着している区別なのです。歴史上、罪に関する誤謬を特に提供したのはプロテスタントですが、トレント公会議の際、罪に関する本来の教義を再断言しました。「罪とは、必ずしも大罪のみではない。罪には小罪もある」。言いかえると、罪には深刻さでいうと軽重の別があると。とても重い罪もあったら、軽い罪もあるということです。このような違いで、小罪と大罪との区別をつけます。
当然ながら、「罪」である限り、天主に対して常に深刻な行為ですが、それでも、罪ごとに、天主の法への違反(の程度)は必ずしも一様ではないので、罪の内容により同じ結果を伴わないので、大小の区別があります。小罪と大罪という区別をするとき、殆どの場合、罪という行為の中身で考えるのです。多くはどういった悪い行為をするかによって、その罪の行為の軽重が決まります。
例えば、無罪の人を殺す罪は、ジョークのために嘘をつく罪と比較ならないほど、前者の方がより深刻であるのは言うまでもないのですね。当然といったら当然ですが、ちょっと笑わせるための嘘と殺人を同じく扱うことは無理です。行為とその中身次第で大小の罪の区別がつけられます。そして、行為の深刻さによって、小罪と大罪という区分で分類します。
第一に、大罪とは一体何なのでしょうか?大罪とは重い罪であります。大罪のせいで、天主との友好関係を失うのです。言いかえると、大罪とは、ラテン語でいうと「死なせる罪」という意味ですが、つまり、文字通りに、大罪とは死を伴う罪なのです。もちろん、ここの「死」は身体の死ではありません。霊魂の死です。これは大事であり、よく理解する必要がありますので注意していただきたいです。
「霊魂の死」とは何でしょうか?霊魂の死は、「霊魂にある命、生命を失うこと」という意味です。そして、「霊魂にある命」とは何でしょうか?「霊魂にある命」は天主ご自身です。洗礼を預かった日に、天主は幼き洗礼者の霊魂にお住まいになることになさったのです。洗礼によって、天主は霊魂において居を構えたのです。つまり、洗礼によって聖父と聖子と聖霊なる天主が現に霊魂に降りて実存することになったのです。洗礼によって「恩寵によって霊魂に居を構えた」と通常にいわれています。
恩寵などについての細かい説明は別の機会に譲ります。それはともかく、簡単にいうと、「恩寵」とは「天主の命に与ること」を意味する言葉です。言いかえると、「恩寵」によって、天主はご自分の命の何かを我々の霊魂に垂れ給うことです。そして、そうすることによって、天主は私たちにご自分の友情の印を現に与えて、その友情を私たちに与えたもうのです。
ラテン語で、友情とは「Convivere」というのですが、直訳すると「一緒に生きる、一緒に生活する、一緒に生命に与る」といったような意味です。本物の友人は「一緒に生きる」のです(実際の場所じゃなくても、距離を超えて心を合わせて)。この意味を天主の次元に運ぶと、愛徳そのものです。
つまり、天主の生命に与り、天主の生命において生きることを、自分の霊魂に天主の生命が居を構えたことを意味して、天主との友情の状態にあるということです。これが恩寵なのです。霊魂においての天主の生命の内に私が生きている時は恩寵の状態にあるというのです。
しかしながら、天主の生命を根絶して霊魂から追い出すことも人間にはできることです。このような行為はまさに大罪というのです。というのも、天主に対して背を向けるほどに天主の法を違反した時の罪です。つまり、そもそも、天主は人々にご自分の生命を垂れるのです。そうすることによって、恩寵によって、人々を(人間の目的である)天主へ向かわせておいてくださるのです。ただ、大罪を犯す時、その人が意図的に天主から逸らすことにします。それは、天主との友情を絶交する行為なのです。そして、自分の霊魂に住んでいた天主の生命を追い出して、殺すのです。これは大罪という行為です。
また、別の言い方をしましょう。ある被創造物を天主より優先するあまりに、罪人は自分の目的を間違って被創造物に置くことにする時、実際にそのことをするとき、大罪というのです。まさに大罪の行為なのです。天主こそは現に目的であるのに、意図的に天主において目的を置かないことにするとき、大罪を犯すのです。
この際、「天主よ、邪魔者だから、あなたを追い出そう。出ていけ」と言わんばかりの大罪を犯す罪人です。また、大罪を犯す時、「ある被創造物を優先して、この被創造物においてこそわが善を置くぞ」と言わんばかりの時です。
そして、具体的に、ある行為はいつどう大罪となるのでしょうか?違反される天主の法の中身が重大である時です。その重大さを知るには、聖書や公教会の教義や教父と神学者の証言などで知られています。要するに、重大な掟が侵されたときに、大罪となるということです。いくつの大罪をご紹介しましょう。一番有名な大罪となり、一番重い罪なのです。
第一に、天主を直接に対象にする罪です。天主に反乱を犯す時、天主の法を違反するだけではなく、また正面から天主を拒み、攻撃する行為となります。当然と言ったら当然ですが、天主を攻撃するのは、天主を拒むことですね。
例えば、涜聖と冒涜の行為は大罪です。つまり、聖なる物事を汚す行為は天主に対する直接な侮辱であります。ある教会に入って汚すのは大罪です。教会を汚す時に、天主を攻撃する行為であるのは自明です。また、宗教を冒涜するのも大罪です。これは、天主と宗教に対して無礼と誹謗をいうことは明らかに天主を直接に霊魂から追い出す行為です。
要するに、これらの罪をはじめ、天主を直接に攻撃する罪は大罪なのです。また例えば、主日の安息の掟を破ることも大罪です。このような掟に関して、日曜日でも人々を働かせようとする社会はどれほど有罪であるか明らかでしょう。社会の責任にもあるのです。つまり、社会、国家、政府は天主への奉仕から逸らすことを促す時、大変です。主日にミサに与る掟は重大であるのに、日曜日、ミサに与らないことも大罪です。
以上のように、第一の大罪の種類は「天主に対して直接に攻撃するような行為だ」ということです。
それから、第二の大罪の大きな種類は、淫乱にかかわる罪です。つまり、みだらな、汚らわしい行為です。孤独で行う行為でも自然に反する行為の時です。つまり、本来の目的から外れた時に、すなわち生殖という目的のためにある行為はその目的から外れた時に大罪となります。
天主を敵にする行為です。もちろん、人間を敵にする行為でもありますし、隣人を敵にする行為でもありますが、ひとまず、生命に対する侮辱であり、したがって生命を創った天主に対する侮辱なのです。天主はそもそも善です。そして、その善の一番具体的な産物は生命を与えることにあります。
ですから、淫乱によって、人間の生命を破壊する人、あるいは人間の生命に反する行為を犯す人は、天主の生命に対しての反乱、侮辱、敵対の行為です。というのも天主は人間の生命には天主の生命を垂れたまわっているから、人間の生命を否定するのは、まさに天主の生命の垂れ流しを無にして、天主の生命を否定する行為ともなります。
ですから、淫乱にかかわる罪は大罪です。本来の目的から離れた行為だから罪となります。つまり、生殖を目的にする行為、つまり、生命を与えるためにある行為なのに、この目的から離れたら、乱れることになって、天主に反乱を起こすことになります。
聖書によると、かなり明白に、しつこいほど、このような淫乱にかかわる行為を断罪します。聖書では、淫乱に陥れる人はいつも地獄に行く運命は明らかに書かれています。淫乱を犯す人々は改めなければ残念ながらも地獄に堕ちます。
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また、隣人を深く傷つける罪も大罪です。例えば、殺人は大罪です。当然と言えば当然ですが、生命という人間の最も大切な宝を破壊する殺人だからです。
深刻な場合、窃盗も大罪です。誰かの大切な物、彼の命に必要な物を盗むことは、深刻な結果を伴うような窃盗は大罪です。というのも、このような深刻な場合、物を盗むことによって隣人の生活を妨げるからです。その意味で、生命を奪うようなものです。
隣人を侮辱することも大罪です。誰かについて誹謗して、その名誉を奪うことは、つまり名声を傷づくことは大罪です。だれでも、社会においてよく生きるためによき名声を必要としています。そういえば報道機関や新聞がどれほど人々の名声を破壊することを好んでいるか周知のとおりです。誹謗によって、ののしりによってでも、名声を破壊することによって、その人の生活、その善い社交を壊して、攻撃するようなことです。時には、隣人の名声を気づくことによって、隣人の生活を無にすることもあります。
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以上、大罪を簡単にご紹介しました。もちろん、大罪になるには、何をやっているかをよく知って、その罪は意図的に行われる前提があります。もしも、何をやっているか完全に認識していない場合、あるいは意図していない場合、大罪とはなりません。
それはともかく、大罪になるには、第一に罪の中身で決まるのです。そのあと、状況ももちろんあって、場合によって罪の深刻さを重くする事情もあれば、軽くする事情もあるし、ときには罪を完全に弁解する事情もあります。
とりあえず、大事なのは、大罪というのは深刻な違反です。「死なせる罪」である大罪は文字通りに霊魂においての天主の生命を殺すのです。その上、なぜ「死なせる罪」と呼ばれるかというと、「永劫」の罰に値する罪になるからです。というのも、大罪を犯した人は天主よりある被創造物を決定的に優先したということですね。そうすることによって、深刻な違反を犯したから、その犯行に値する罰も深刻になります。
この罰は永劫の罰です。つまり、いつまでも終わらない地獄での滞在という罰です。地獄は永遠ではないと時々言われることがあるようですが、地獄は永遠です。この真理は福音に明記されています。私たちの主、イエズス・キリストご自身は「永遠の火、永遠の刑罰」 と仰せのとおりです。
つまり、大罪を犯す罪人は自分の動きで自分が地獄へ飛び込むのです。なぜかというと、大罪を犯すことによって天主を拒絶し天主を霊魂から追い出すからです。そして、そういうことをするということは、まさに自分の動きで地獄に飛び込む行為なのです。天主を拒否するのです。
サタンと同じように「奉仕しないぞ」ということです。「奉仕しないぞ」といったサタンが、「地獄に落とされた」と書いています。厳密にいうと、サタンが「地獄に飛び込んだ」といった方はイメージされやすいでしょう。同じように、深刻に天主の法に違反する人、つまり淫乱を犯す人、天主に対して直接に攻撃するような冒涜や涜聖、また、隣人に対して深刻に罪を犯す人は、天主の法を深刻に犯すので、天主を拒絶して、侮辱して、創造主より被創造物を選び優先することになります。そうすることによって、自分の動きで地獄に飛び込むことになります。「のろわれた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」 。
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以上、大罪を簡単にご紹介しました。どれほど重大であり深刻であることは理解いただけたかと思います。聖母マリアは多くの出現の際、特にファチマでの出現の際、三人の子供の前に現れた時、地獄をちょっと見せました。地獄は空っぽではありませんでした。その時、聖母マリアは言いました。「地獄へ落とす罪人のために祈り給え」。「罪人のために祈り給え」と何度もおっしゃった聖母マリアです。それは地獄へ落ちるから祈る必要があります。大変なことです。落ちたら、もう二度と戻ることはありません。
地獄に関してすでにご紹介したとおりですが、地獄には喜びはありません。幸せもありません。
大罪は以上のとおりでした。
そして、小罪もあります。小罪を犯す時、天主の友情を失わないのです。その結果、恩寵、即ち天主の友情は霊魂に残っているママです。ただ、それでも天主の法へ違反があります。そして、天主への侮辱もあることに関して変わらないのです。
ちょっと説明してみましょう。本来ならば、この世においては人は巡礼者のような存在です。目的は天主であり、目的地は至福です。その目的地へ歩んでいく巡礼者です。大罪を犯す時、道を変えることになります。大罪の場合、「この目的地はもういやだ」ということで、道を変えるということです。方向を完全に変えることになります。
小罪の場合、方向を変えることはありません。本来の人間の目的である天主への方向は変わらないままです。ただ、小罪を犯した前と比べたら、善い方向に真っすぐに行くのは微妙にできなくなっているような感じです。なんか、道の途中では立ち留まったりして、あるいは蛇行したりします。具体的に、なんかある趣味に夢中になって歩むことを忘れたかのような感じでありながらも、道を離れることはない時です。このような時に、小罪なのです。
小罪を犯す時、天主の友情、即ち恩寵を失わないのです。従って、恩寵は霊魂において残っているママなので、霊魂は天主へ向かってあるままです。しかしながら、天主への道に相応しくないことに止まっているようなことです。
小罪とは軽い罪です。なぜ軽いかというと霊魂を殺す罪ではないからです。小罪を犯しても、霊魂は引き続きに恩寵によって生かされているのです。しかしながら、小罪を犯したときに、罪が罪のままであり、究極的な目的からちょっと秩序を失った、乱れたことに関して罪のままです。天主に対するちょっとした軽蔑のようなものであるものの、絶交するまでのことではない時に小罪です。
もちろん、小罪を犯したときに、それに値する罰があります。が、有限の罰となります。つまり、時間上、限られている罪だけが課されるのです。ある期間だけ与えられる罰です。
つまり、小罪を犯して罪を償わなかった人がそのままに死んだら、犯した罪の償いを行う必要が残っています。これが煉獄です。煉獄は小罪を償う、小罪にかかわる刑罰を果たす場です。小罪とは以上のような罪です。
例えば一つの嘘が小罪です。余計にちょっと甘い物を過剰に食べた一回は小罪となります。このような時、軽い時、天主の友情を失わないで済みます。このような罪では、被創造物を過剰に「気に入った」かもしれないが、天主をそのせいで忘れることもなくて、天主を見捨てることはない時です。
大罪と小罪との区別は大事です。というのも、大罪を犯した人は天主の友情を失うので、秘跡の効果を被ることは不可能となるからです。大罪を犯した人は速やかに告解に行くべきです。小罪を犯した人は引き続きに諸秘跡の効果を被ることができます。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第九十一講 大罪と小罪
罪に関する講座を続けましょう。前回は罪の定義を提示しました。罪とは「天主の法への違反である」という定義です。つまり、罪とは天主が人間に対して人間の救いのために命じた戒め・掟・法などに反する行為なのです。ですから、罪とはそもそも私たちの完全化に反する行為となります。というのも、戒めなどによって「行うべき行為」とは自分の完全化のために天主によって規定された行為であるからです。
そして、究極的に人間の完全な境地は天主なのです。天主は万物やあらゆる物事のこの上なき目的であり、善であるのです。従って、罪は「天主の法への違反である」でいう天主の法とは、究極的にこの上なき人間の善である天主を私たちが承るために天主が与え給った掟や法や戒めなのです。
そういえば、これを見ると、聖トマス・アクイナスの罪の定義をよりよく理解できます。聖トマス・アクイナスによると、罪とはラテン語で「Aversio a deo et conversio al creaturam」という定義になっています。つまり、罪とは「天主からの被創造物の離脱である」となります。
要するに、あえて言えば、罪には二つの側面があります。そもそも人間の目的地は天主であり、天主へ向かうべき人間です。が、罪を犯す時、人間は天主への道から、つまり人間の本来の目的から逸脱するということになります。後述するように道を外れるには程度の差があります。それはともかく、罪を犯している人は自分の本来の目的を拒絶する行為を犯し、あるいは目的地から背を向けるようなことを意味しています。
だからこの意味で、罪とは「乱れた行為である」とよく言われています。「乱れた」とは、その言葉の意味通りであって、つまり、「秩序がなくなった状態」あるいは「方向性を失った状態」という意味です。「乱れる」の反対語はフランス語で、「秩序づける」あるいは「方向付ける」という意味であり、その存在の本来の目的通りに方向付けるという意味です。
要するに、罪とは「本来の目的を乱して曖昧にする」ような行為です。従って、罪を犯す人は天主から逸らすことになって、天主に背を向けるようになってしまうという意味です。そして、そうすることによって、被創造物へ向かうことになります。「天主から被創造物へ自分の方向を変える」という意味が罪です。
言いかえると、罪を犯す人は、「創造主よりも被創造物を優先する」ということです。つまり、罪を犯す時、創造主において自分の喜びと善を置かなくなって、被創造物において自分の喜びと善があると間違って思うのです。なぜでしょうか?つまり、罪びとは「善」を間違うのです。
つまり、罪人は「創造主よりも、なんらかの被造物においてより多くの善と喜びがある」と間違って思い込んだりして、このように見えてしまう状態に陥ります。言いかえると、罪人は「善」を間違っているのです。つまり、罪とは「偽りの善」を間違って選ぶ行為です。あるいは罪とは「うわべだけの善にみえる」被創造物を間違って絶対な善として選ぶ行為なのです。
実際に、これらの偽りの善は禍なのですが、多くの場合は禍・悪は善として見せかけられているのです。そして、現に本当の善なる天主よりも見せかけの善を選ぶときに罪を犯すのです。一言でいうと、「天主に背を向けて、ある被創造物へ方向を変える」行為を罪というのです。
罪の犯行を促す原因とは何でしょうか?第一に、無知があります。善を知らないから、無知のせいで善を間違って悪いことを選ぶ時もあります。それから、すでに見てきたように、乱れた欲望と悪意という原因もあります。それから、もう一つの罪の大きな原因は「世間」にあります。
「世間」あるいは「この世」は罪の原因の一つなのです。いわゆる、「偽りの善を提示する」世間です。良いことに、格好良いこととして見せかけるまがい物を提示する「この世」のことです。あえて、この上なき善なる創造主と単なる創られた相対的な善との間には「差がない、一緒だよ」と見せかける世間です。
なんか、「この世の物事だけでは幸せを得ることはあり得るよ、充実な生活したら幸せになるよ、金持ちになったら幸せになるよ、権力と身分を得たら幸せになるよ」といったような偽りの幸せを提示する「この世のこと」です。少ない例ですが、これらを絶対的な善として、つまり理想として提示する「この世」です。一言でいうと、多くの誘惑を潜んでいる「世間」なのです。
現代では特に明白でしょう。「天主の法を犯してもよいよ」と誘っている現代では明らかでしょう。例えば、結婚に関する天主の法を否定する制度を正当化するときは自明です。要は、この世というのは誘惑の原因であり、罪を促す原因なのです。
そして、罪を促す最後の原因は「悪魔」自身です。福音には有名な場面があります。私たちの主は砂漠にいる間の場面ですが、三回ほどに悪魔によって誘われる場面です。私たちの主、イエズス・キリストには、当然ながら「無知」もなければ、「乱れた欲望」もなくて、「悪意」も当然になかったのです。そして、砂漠にいた間に、「世間」も罪への誘惑の原因になることは不可能な状態でした。砂漠には何もないからですね。ですから、福音のこの場面での誘惑の原因は悪魔自体です。そして、時には現に悪魔が人間にも働きかけて誘って誘惑の原因となったりします。
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これから、罪に関する大事な区別について注意しましょう。小罪と大罪という区別です。というのも、罪を考える時、罪の「軽重」で、区別するのです。より厳密にいうと、罪の結果次第で、小罪と大罪という区別ができます。
小罪と大罪という区別はカトリック教会だけにあるのではなくて、曖昧ながらももかなりどこにでもいつでも定着している区別なのです。歴史上、罪に関する誤謬を特に提供したのはプロテスタントですが、トレント公会議の際、罪に関する本来の教義を再断言しました。「罪とは、必ずしも大罪のみではない。罪には小罪もある」。言いかえると、罪には深刻さでいうと軽重の別があると。とても重い罪もあったら、軽い罪もあるということです。このような違いで、小罪と大罪との区別をつけます。
当然ながら、「罪」である限り、天主に対して常に深刻な行為ですが、それでも、罪ごとに、天主の法への違反(の程度)は必ずしも一様ではないので、罪の内容により同じ結果を伴わないので、大小の区別があります。小罪と大罪という区別をするとき、殆どの場合、罪という行為の中身で考えるのです。多くはどういった悪い行為をするかによって、その罪の行為の軽重が決まります。
例えば、無罪の人を殺す罪は、ジョークのために嘘をつく罪と比較ならないほど、前者の方がより深刻であるのは言うまでもないのですね。当然といったら当然ですが、ちょっと笑わせるための嘘と殺人を同じく扱うことは無理です。行為とその中身次第で大小の罪の区別がつけられます。そして、行為の深刻さによって、小罪と大罪という区分で分類します。
第一に、大罪とは一体何なのでしょうか?大罪とは重い罪であります。大罪のせいで、天主との友好関係を失うのです。言いかえると、大罪とは、ラテン語でいうと「死なせる罪」という意味ですが、つまり、文字通りに、大罪とは死を伴う罪なのです。もちろん、ここの「死」は身体の死ではありません。霊魂の死です。これは大事であり、よく理解する必要がありますので注意していただきたいです。
「霊魂の死」とは何でしょうか?霊魂の死は、「霊魂にある命、生命を失うこと」という意味です。そして、「霊魂にある命」とは何でしょうか?「霊魂にある命」は天主ご自身です。洗礼を預かった日に、天主は幼き洗礼者の霊魂にお住まいになることになさったのです。洗礼によって、天主は霊魂において居を構えたのです。つまり、洗礼によって聖父と聖子と聖霊なる天主が現に霊魂に降りて実存することになったのです。洗礼によって「恩寵によって霊魂に居を構えた」と通常にいわれています。
恩寵などについての細かい説明は別の機会に譲ります。それはともかく、簡単にいうと、「恩寵」とは「天主の命に与ること」を意味する言葉です。言いかえると、「恩寵」によって、天主はご自分の命の何かを我々の霊魂に垂れ給うことです。そして、そうすることによって、天主は私たちにご自分の友情の印を現に与えて、その友情を私たちに与えたもうのです。
ラテン語で、友情とは「Convivere」というのですが、直訳すると「一緒に生きる、一緒に生活する、一緒に生命に与る」といったような意味です。本物の友人は「一緒に生きる」のです(実際の場所じゃなくても、距離を超えて心を合わせて)。この意味を天主の次元に運ぶと、愛徳そのものです。
つまり、天主の生命に与り、天主の生命において生きることを、自分の霊魂に天主の生命が居を構えたことを意味して、天主との友情の状態にあるということです。これが恩寵なのです。霊魂においての天主の生命の内に私が生きている時は恩寵の状態にあるというのです。
しかしながら、天主の生命を根絶して霊魂から追い出すことも人間にはできることです。このような行為はまさに大罪というのです。というのも、天主に対して背を向けるほどに天主の法を違反した時の罪です。つまり、そもそも、天主は人々にご自分の生命を垂れるのです。そうすることによって、恩寵によって、人々を(人間の目的である)天主へ向かわせておいてくださるのです。ただ、大罪を犯す時、その人が意図的に天主から逸らすことにします。それは、天主との友情を絶交する行為なのです。そして、自分の霊魂に住んでいた天主の生命を追い出して、殺すのです。これは大罪という行為です。
また、別の言い方をしましょう。ある被創造物を天主より優先するあまりに、罪人は自分の目的を間違って被創造物に置くことにする時、実際にそのことをするとき、大罪というのです。まさに大罪の行為なのです。天主こそは現に目的であるのに、意図的に天主において目的を置かないことにするとき、大罪を犯すのです。
この際、「天主よ、邪魔者だから、あなたを追い出そう。出ていけ」と言わんばかりの大罪を犯す罪人です。また、大罪を犯す時、「ある被創造物を優先して、この被創造物においてこそわが善を置くぞ」と言わんばかりの時です。
そして、具体的に、ある行為はいつどう大罪となるのでしょうか?違反される天主の法の中身が重大である時です。その重大さを知るには、聖書や公教会の教義や教父と神学者の証言などで知られています。要するに、重大な掟が侵されたときに、大罪となるということです。いくつの大罪をご紹介しましょう。一番有名な大罪となり、一番重い罪なのです。
第一に、天主を直接に対象にする罪です。天主に反乱を犯す時、天主の法を違反するだけではなく、また正面から天主を拒み、攻撃する行為となります。当然と言ったら当然ですが、天主を攻撃するのは、天主を拒むことですね。
例えば、涜聖と冒涜の行為は大罪です。つまり、聖なる物事を汚す行為は天主に対する直接な侮辱であります。ある教会に入って汚すのは大罪です。教会を汚す時に、天主を攻撃する行為であるのは自明です。また、宗教を冒涜するのも大罪です。これは、天主と宗教に対して無礼と誹謗をいうことは明らかに天主を直接に霊魂から追い出す行為です。
要するに、これらの罪をはじめ、天主を直接に攻撃する罪は大罪なのです。また例えば、主日の安息の掟を破ることも大罪です。このような掟に関して、日曜日でも人々を働かせようとする社会はどれほど有罪であるか明らかでしょう。社会の責任にもあるのです。つまり、社会、国家、政府は天主への奉仕から逸らすことを促す時、大変です。主日にミサに与る掟は重大であるのに、日曜日、ミサに与らないことも大罪です。
以上のように、第一の大罪の種類は「天主に対して直接に攻撃するような行為だ」ということです。
それから、第二の大罪の大きな種類は、淫乱にかかわる罪です。つまり、みだらな、汚らわしい行為です。孤独で行う行為でも自然に反する行為の時です。つまり、本来の目的から外れた時に、すなわち生殖という目的のためにある行為はその目的から外れた時に大罪となります。
天主を敵にする行為です。もちろん、人間を敵にする行為でもありますし、隣人を敵にする行為でもありますが、ひとまず、生命に対する侮辱であり、したがって生命を創った天主に対する侮辱なのです。天主はそもそも善です。そして、その善の一番具体的な産物は生命を与えることにあります。
ですから、淫乱によって、人間の生命を破壊する人、あるいは人間の生命に反する行為を犯す人は、天主の生命に対しての反乱、侮辱、敵対の行為です。というのも天主は人間の生命には天主の生命を垂れたまわっているから、人間の生命を否定するのは、まさに天主の生命の垂れ流しを無にして、天主の生命を否定する行為ともなります。
ですから、淫乱にかかわる罪は大罪です。本来の目的から離れた行為だから罪となります。つまり、生殖を目的にする行為、つまり、生命を与えるためにある行為なのに、この目的から離れたら、乱れることになって、天主に反乱を起こすことになります。
聖書によると、かなり明白に、しつこいほど、このような淫乱にかかわる行為を断罪します。聖書では、淫乱に陥れる人はいつも地獄に行く運命は明らかに書かれています。淫乱を犯す人々は改めなければ残念ながらも地獄に堕ちます。
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また、隣人を深く傷つける罪も大罪です。例えば、殺人は大罪です。当然と言えば当然ですが、生命という人間の最も大切な宝を破壊する殺人だからです。
深刻な場合、窃盗も大罪です。誰かの大切な物、彼の命に必要な物を盗むことは、深刻な結果を伴うような窃盗は大罪です。というのも、このような深刻な場合、物を盗むことによって隣人の生活を妨げるからです。その意味で、生命を奪うようなものです。
隣人を侮辱することも大罪です。誰かについて誹謗して、その名誉を奪うことは、つまり名声を傷づくことは大罪です。だれでも、社会においてよく生きるためによき名声を必要としています。そういえば報道機関や新聞がどれほど人々の名声を破壊することを好んでいるか周知のとおりです。誹謗によって、ののしりによってでも、名声を破壊することによって、その人の生活、その善い社交を壊して、攻撃するようなことです。時には、隣人の名声を気づくことによって、隣人の生活を無にすることもあります。
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以上、大罪を簡単にご紹介しました。もちろん、大罪になるには、何をやっているかをよく知って、その罪は意図的に行われる前提があります。もしも、何をやっているか完全に認識していない場合、あるいは意図していない場合、大罪とはなりません。
それはともかく、大罪になるには、第一に罪の中身で決まるのです。そのあと、状況ももちろんあって、場合によって罪の深刻さを重くする事情もあれば、軽くする事情もあるし、ときには罪を完全に弁解する事情もあります。
とりあえず、大事なのは、大罪というのは深刻な違反です。「死なせる罪」である大罪は文字通りに霊魂においての天主の生命を殺すのです。その上、なぜ「死なせる罪」と呼ばれるかというと、「永劫」の罰に値する罪になるからです。というのも、大罪を犯した人は天主よりある被創造物を決定的に優先したということですね。そうすることによって、深刻な違反を犯したから、その犯行に値する罰も深刻になります。
この罰は永劫の罰です。つまり、いつまでも終わらない地獄での滞在という罰です。地獄は永遠ではないと時々言われることがあるようですが、地獄は永遠です。この真理は福音に明記されています。私たちの主、イエズス・キリストご自身は「永遠の火、永遠の刑罰」 と仰せのとおりです。
つまり、大罪を犯す罪人は自分の動きで自分が地獄へ飛び込むのです。なぜかというと、大罪を犯すことによって天主を拒絶し天主を霊魂から追い出すからです。そして、そういうことをするということは、まさに自分の動きで地獄に飛び込む行為なのです。天主を拒否するのです。
サタンと同じように「奉仕しないぞ」ということです。「奉仕しないぞ」といったサタンが、「地獄に落とされた」と書いています。厳密にいうと、サタンが「地獄に飛び込んだ」といった方はイメージされやすいでしょう。同じように、深刻に天主の法に違反する人、つまり淫乱を犯す人、天主に対して直接に攻撃するような冒涜や涜聖、また、隣人に対して深刻に罪を犯す人は、天主の法を深刻に犯すので、天主を拒絶して、侮辱して、創造主より被創造物を選び優先することになります。そうすることによって、自分の動きで地獄に飛び込むことになります。「のろわれた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」 。
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以上、大罪を簡単にご紹介しました。どれほど重大であり深刻であることは理解いただけたかと思います。聖母マリアは多くの出現の際、特にファチマでの出現の際、三人の子供の前に現れた時、地獄をちょっと見せました。地獄は空っぽではありませんでした。その時、聖母マリアは言いました。「地獄へ落とす罪人のために祈り給え」。「罪人のために祈り給え」と何度もおっしゃった聖母マリアです。それは地獄へ落ちるから祈る必要があります。大変なことです。落ちたら、もう二度と戻ることはありません。
地獄に関してすでにご紹介したとおりですが、地獄には喜びはありません。幸せもありません。
大罪は以上のとおりでした。
そして、小罪もあります。小罪を犯す時、天主の友情を失わないのです。その結果、恩寵、即ち天主の友情は霊魂に残っているママです。ただ、それでも天主の法へ違反があります。そして、天主への侮辱もあることに関して変わらないのです。
ちょっと説明してみましょう。本来ならば、この世においては人は巡礼者のような存在です。目的は天主であり、目的地は至福です。その目的地へ歩んでいく巡礼者です。大罪を犯す時、道を変えることになります。大罪の場合、「この目的地はもういやだ」ということで、道を変えるということです。方向を完全に変えることになります。
小罪の場合、方向を変えることはありません。本来の人間の目的である天主への方向は変わらないままです。ただ、小罪を犯した前と比べたら、善い方向に真っすぐに行くのは微妙にできなくなっているような感じです。なんか、道の途中では立ち留まったりして、あるいは蛇行したりします。具体的に、なんかある趣味に夢中になって歩むことを忘れたかのような感じでありながらも、道を離れることはない時です。このような時に、小罪なのです。
小罪を犯す時、天主の友情、即ち恩寵を失わないのです。従って、恩寵は霊魂において残っているママなので、霊魂は天主へ向かってあるままです。しかしながら、天主への道に相応しくないことに止まっているようなことです。
小罪とは軽い罪です。なぜ軽いかというと霊魂を殺す罪ではないからです。小罪を犯しても、霊魂は引き続きに恩寵によって生かされているのです。しかしながら、小罪を犯したときに、罪が罪のままであり、究極的な目的からちょっと秩序を失った、乱れたことに関して罪のままです。天主に対するちょっとした軽蔑のようなものであるものの、絶交するまでのことではない時に小罪です。
もちろん、小罪を犯したときに、それに値する罰があります。が、有限の罰となります。つまり、時間上、限られている罪だけが課されるのです。ある期間だけ与えられる罰です。
つまり、小罪を犯して罪を償わなかった人がそのままに死んだら、犯した罪の償いを行う必要が残っています。これが煉獄です。煉獄は小罪を償う、小罪にかかわる刑罰を果たす場です。小罪とは以上のような罪です。
例えば一つの嘘が小罪です。余計にちょっと甘い物を過剰に食べた一回は小罪となります。このような時、軽い時、天主の友情を失わないで済みます。このような罪では、被創造物を過剰に「気に入った」かもしれないが、天主をそのせいで忘れることもなくて、天主を見捨てることはない時です。
大罪と小罪との区別は大事です。というのも、大罪を犯した人は天主の友情を失うので、秘跡の効果を被ることは不可能となるからです。大罪を犯した人は速やかに告解に行くべきです。小罪を犯した人は引き続きに諸秘跡の効果を被ることができます。