白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
「永遠の命を信じ奉る」
信経の最後で、人間の究極的な行き先を教える信条です。以前にも申し上げたとおり、三幕で要約できる「最期」です。
第一幕は「死」です。霊魂が身体を去り、悲痛な分裂を経験します。
第二幕は、「私審判」です。天主のみ前に霊魂が出廷して裁かれます。
そして、判決が下った後、第三幕は「判決の執行」です。
これが、永遠の命の始まる「終末論」の第三幕です。
「判決の執行」はどうなっているでしょうか。私たちの主は福音において何度もそれについて仰せになります。
救われる霊魂は「父に祝せられた者よ、来て、世の初めからあなたたちに備えられていた国を受けよ。」 と言われます。
断罪された霊魂は「呪われた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」 と。
要するに、我々の霊魂は裁かれ、その報いを得ます。善を施し、天主との親密さの内に生きてきたならば、つまり、霊魂が愛徳の内に・聖寵の内に生きたのなら、その報酬を得ることになります。一方、天主と友情を拒絶し、聖寵を拒否し、秘跡を断った霊魂は、裁かれたのち断罪されて刑罰を受けます。判決の執行です。
正しき者の場合、その執行は天においてなされます。受刑者の場合、地獄において執行されます。
第一に、天についてご紹介しましょう。天国とは一体何でしょうか。
天とは、聖人たちと天使たちが、天主を直観し、天主を所有することによって完璧な幸せ、永遠な幸せを享受する場所を言います。天における至福は「天主の直観」にあります。というのも、天主が至上の善であるからです。そして、この天主の直観とは、天主を所有することです。地上においても垣間見える真理です。地上でのあらゆる喜びは「愛している物事を所有する」ことにあるのと同じです。従って、至上の幸せは、至上の善を所有することにあります。その所有とは、至上の善である天主を直観することによって実現します。天主よりすぐれた善などありえないからです。
天国とは、天主の直観と天主の所有です。別称は「楽園」とも言います。または、「天の王国」、「聖なる都」、「天のエルサレム」、または「天の祖国」あるいは「天の故郷」または、「栄光の住まい」などなどの呼称があります。要するに、天というのは「永遠の命」です。
当然ながら、聖書において天国の存在が啓示されています。また、公教会がいつも断言し続けた真理です。また理性に照らしても天国の存在も裏付けられます。というのは、地上で報いられていない正しき者、時に屈辱的な扱いをされて不名誉にあって酷い目に合わせられた正しき者には、来世の命において報いがあると理性によって断言できるからです。
そこで、天国というのは具体的にどうなっているのでしょうか。天国を特徴づけるのは、あらゆる悪から免れ、あらゆる善を保有することにあります。天においては、苦悩も悪も全くありません。物理的な苦悩もなければ、精神的な苦悩もありません。黙示録において、次のように書かれています。
「人とともにある天主の幕屋がこれである。天主は人とご自分の住まいを定められる。人は天主の民となり、<人とともにある天主である主>は人の天主となられる。」
ここでは、天主の所有 が表現されています。続いて、「天主は人の目の涙をすべてぬぐわれ、死ももうなく、悲しみも叫びも苦労もなくなる。前のものが過ぎ去ったからである。」 とあります。
要するに、天において苦しみはなくなります。なぜでしょうか。聖人たちまたは福者たちは、天に住まう人の呼称ですが、というのも、天にいる人々はその通り「聖人」ですから、つまり、福なる者たちは至福直観を享受し、限りなく幸せになるのです。
福なる者たちは、天主を「見る」のですが、当然ながら身体の目で「見る」のではありません。天主は霊的な存在なので、身体の目で見ることはできません。知性をもって天主を見て、天主がその理性に注入する栄光の光によって啓発され、天主によるこの特別な賜物のお陰で、天主をありのままに「見る」ことが可能となります。
人間のこの上なく素晴らしい運命はこれです。「天主をありのままに直観し、天主との親しさを分かち合う」ことです。これこそが、天主が人間を召命する究極的な目的です。
天主は栄光の光を通じ、ありのままに御自らを天にいる霊魂たちへ示し給うのです。
それから、以上の霊魂の幸せの上に、他の幸せが加わります。例えば、私たちの主イエズス・キリストを直観し、聖母マリアを直観する幸せなど。というのも、天における聖人たちは、不動で凍結しているのではなく、本当の意味で生きているし、感覚をもそのまま持っているからです。ですから、天においては「偶有的な栄光」と呼ばれる栄光も伴います。または「感覚の栄光」も享受します。
たとえば、地上の知り合いは、天においてもお互いに知り合いのままですし、地上においてあった正当な愛情は天においても引き続き持ち続けます。
また知らない聖人たちに対しても一緒に平和的に生きて、平和の内にいつまでも生きます。
~~
以上、天国をご紹介しました。しかしながら、取り返しの出来ない判決を受ける人々もいます。至上の裁判官が「呪われた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」 という判決を告げられる人々のことです。
地獄と呼ばれる刑罰は非常に恐ろしい刑罰です。地獄とは、呪われた者のいる場所であって、彼らはそこで悪魔たちと一緒に、永遠に苦しむ運命となります。
福音において、私たちの主イエズス・キリストが何度も何度も強調なさった真理というと、やはり「地獄」という真実です。頻繁に、いや、他の真理よりももしかしたら一番頻繁に、イエズス・キリストは「地獄」という真実について仰せになりました。私たちの主は地獄について次の言葉で説明されます。
「殺したのちゲヘナに投げ入れる権威ある御方を畏れよ。私は言う。そうだ、その御方を恐れよ」 。
または「国の子らは外の闇に投げ出され」 。外の闇というのは至福の場所である天国の外のことですね。
続いて、「そこで泣いて歯ぎしりするだろう」 と仰せになりました。
公教会は最初からいつも地獄を教え続けていました。また、信じるべき一つの信条です。フィレンツェの公会議の際、次のことが発布されました。
「大罪の状態で死ぬ人々の霊魂は、即刻、地獄に落ち、相応しい、異なった、公平な罰を受けることを我々は定義する」と。
相応しい、異なった、公平な罰とは、当然なことで、犯された罪次第で、それぞれの罰も変るからです。
また、理性に照らしても、地上では刑罰を受けなかった悪人に対して、いずれか罰を受けるだろうとするのが当然です。これが来世において受ける罰です。罪が深刻だった場合、つまり「大罪」だった場合、言い換えると「天主に対して完全に背く」罪だった場合、永遠なる存在を拒絶した故に、その罪も永遠なり、それに伴う罰も永遠となります。他方、軽い罪に留まった場合、それに伴う罰も軽くなります。
そこで、地獄における罰には、二つの要素に要約できます。
第一は、「永罰」です。第二に「感覚の罰」です。
「永罰」とは、霊的な罰なので、我々地上の人間にとっては、一番理解しづらいかもしれませんが、永罰こそが一番恐ろしい罰です。「Dam」「永罰・劫罰」という言葉から転じて「呪われた者Damné」という言葉がフランス語にあります。「永罰」とは、「至福直観」の剥奪という罰です。地上における我々にとって、天主を見ることはできないので、「永罰」が「至福直観」の剥奪だと言われても、「平気だろう」と思いがちです。しかしながら、それは間違いです。
身体から霊魂が去った瞬間に、また純粋な霊的な生命だけで生きるようになる霊魂は、どうしても霊魂の行く先への抑えきれないほどの渇望欲に包まれます。霊魂の究極的な目的、行く先は天主なので、霊魂においては、天主をどうしても願望する気持ちが溢れます。
問題は、地上において、最期までずっと霊魂の目的である天主を拒絶してしまった霊魂の場合、死後、その渇望欲を感じても、引き続き天主を拒絶してしまいます。聖霊が言う通りです。「傾いている方向に、結局、木は倒れる。」
というのも、霊魂自身が結局天主を拒絶するからです。それこそが地獄の一番凄まじい要素です。
時々、地獄があるから天主は恐ろしいと言われていますが、実際は違います。霊魂こそ、その自分の創造者を拒絶することが恐ろしい事です。天主ではないのです。天主は一人の霊魂でさえも拒絶することはありません。逆です。霊魂が天主を拒絶するのです。
そして、天主を拒絶すると、霊魂は必然的に自分を劫罰の身にしてしまいます。これこそが非常に悲劇的なことで、凄まじいことです。要するに、地獄での永罰において、霊魂は、本性的に、本質的に「天主への願望」を持っているのに、その「渇望」をその霊魂が積極的に拒絶して否定してしまうのです。悲劇的なことです。言い換えると、常時この矛盾の内に永遠に生きる罰を受けるです。罰であり、常なる分裂でもあります。地獄に落ちた霊魂は、自分を分裂させるのです。
例えてみましょう。何か、本能的に呼吸する必要のある一人が、身体的に呼吸しようとして、物理的に口を開けて肺に空気を入れようとするものの、何も空気が入ってこないようなことが、劫罰と似ています。地獄においての霊魂はこういった感じです。
聖ドンボスコがビジョンで地獄を見ましたが、次のように描写しています。
ところで地獄を見たすべての聖人が似た表現で地獄を描写しています。つまり、地獄に落ちた霊魂は「天主への渇望によって上に行こうとするが自分の罪の重みでいつも必ず下へ落ちる」と。このようにして、その終わらない常の悪循環におちいった霊魂は、自分の望んだ矛盾、そして自分の推し進めたその矛盾の内に生き続けるのです。地獄に落ちた霊魂は結局、自らが地獄に自分を落とすのです。以上が「永罰」でした。
その上に、「感覚の罰」もあります。主に、「火の罰」で執行されます。これも恐ろしい罰です。なぜかというと、この地上において、地上の物事・物質的な物・被創造物に愛着し隷属するために天主を拒絶した人は、地獄において物質的な火によって霊的に罰を受けるからです。
我々にとって、物質的な火が霊的存在を害することがありえるなんて神秘です。この世では火傷する時、身体が火傷しますが、霊魂ではありません。ところが天主の全能によって、地獄の物質的な火が霊魂を焼き、損害することが可能となります。これも恐ろしい罰です。しかしながら、永罰に比べるなら、これは恐ろしくないといってもいいでしょう。
さらに地獄に住んでいる霊魂は、悪魔たちと呪われた者からなる恐ろしい社会の中に生きる罰をも受けます。地獄には、憎しみ・嫉妬・悪意ばかりです。一方、天国においては平和と幸せのみです。
地獄にいる霊魂は、自分の犯した罪に合った刑罰を受けます。地上では、過剰に快楽を得ようとすればするほど、地獄において永遠にそれに相当する刑罰を受けます。
地獄に落ちる霊魂は、大罪の状態で死ぬすべての霊魂です。一つだけの大罪を犯しただけで、その状態で死ぬならば地獄に落ちるのです。
~~
地獄の存在は不正なことではありません。残念ながら、昨今、地獄に対する非難の声が少なくありません。
「天主は不正だ!」とか「天主は残酷だ!」とか言う人がいます。
「天主が愛そのものであるのなら、ある霊魂を地獄に落とす判決を出せないはずだ」とか。
しかしながら「天主はひどい」と言ってもこれは視点が間違っています。天主ではなく、霊魂のほうがひどいのです。というのも、最期に悔い改めないまま死んでしまうのは霊魂ですから。また、死んで天主を拒絶するのは霊魂です。天主から離れるのは霊魂です。従って、天主がどうやって、その状態の霊魂に「おいで!」と言えるでしょうか。その霊魂は、それを望まないわけで、天主が何者かを拘束することはそもそもありません。
面白いことに、現代では「自由万歳!」と唱えている同じ連中が「天国に入れるように天主に拘束されたい」というのですか?それは違いますね。天主を受け入れるか拒絶するかは一人一人次第です。これは人間の自由です。そこで、自由に自分の取った判断に対する責任を取るまでです。永遠にその責任を取るまでです。従って、天主を拒絶する霊魂たちこそがひどいわけです。霊魂自身が自分を地獄に落とすのです。人は自分の一生の送り方次第で、天主を拒絶することによって、また、天主の御慈悲、御憐れみを侮辱し軽蔑することによって、自らに自分を地獄に落とすのです。
天主は無償に御憐れみを人間に与え給います。御自分の御子を送り給い、十字架上に捧げ給うたのです。ある人がその素晴らしい賜物を、原罪を犯した我々に対するその有り余るほどの御恵みを拒絶したのなら、もうどうしようもありません。天主が彼の自由を拘束するわけがありません。「愛」というものは強制では得られないものだからです。天主は人間を拘束しません。ですから、天主ではなく、天主の愛を拒否することにおいてこそ、霊魂がひどいことをするのです。
また、「しかし天主は善い御方なので、地獄での罰は決まった時間で終わるだろう」という非難もあります。
しかしそれもありません。確かに天主は至上に善い存在です。それは当然ですし、大賛成です。ところが、だからといって「馬鹿げた甘やかしをする優しい天主」とはならないのです。
天主の善良さは、天主の智慧と一致しています。天主の善良さは天主の正義と同じです。従って、永遠の命を拒絶した霊魂に対して、天主は永遠なる正義を課するしかないのです。そして、犯された罪に対して、完全に適切な刑罰を与えます。公平です。不正もなければ、善良さの欠如も一切ありません。
創造主に背く霊魂こそが不正であり、自分を創造した天主に背くことこそが、善良さを欠如しています。
面白いことに、地獄に対する非難において、何か人間の責任を軽くしようとするかのように、いつも天主のせいにする傾向が見られます。しかしながら、責任は人間にあります。天主は人間のためにできるだけのことをすべて成し給うたからです。地上に来たり給い、十字架上で死に給うたほど、人類の罪を贖ったからです。
そこで、「まあ、地獄に行くことがあっても、限られた時間で償えたら天主が赦してくれるだろう」とも言われたりします。
問題は、赦しはいくらでも与えられますが、悔悛という条件があります。悔悛の心がある限り、赦しが可能です。自分を地獄に落とす霊魂の問題は、悔悛を拒否するということです。永罰の受刑者がなぜ赦しを貰えないかというと、悔悛を頑固に拒否するからです。
死後は、霊魂は純粋に霊的な生命で生きているので、「改悛を拒否」する意志も「完全」となり、永遠の責任を伴う意志の行為となってしまいます。従って、地獄には終わりがないのです。天主のせいではなく、その逆です。
地獄の定義に従うと、そこは一時的な場所ではありません。地獄に落ちる霊魂たちは、残念ながら、永遠に地獄に落ちるのです。ファチマの三人の子供たちに、聖母マリアの出現がありましたが、その時に聖母は地獄を見せました。「雪のように霊魂たちが地獄に落ちていった」のです。
そして聖母は「可哀そうな罪人のために誰も祈らないから」と嘆いていました。そして、残念ながら、霊魂たちはどんどん地獄に落ちています。
~~
地獄は一時的な場所ではありません。一時的な苦悩の場所は確かにあります。それは煉獄という場所です。煉獄は「天国への控室」だと定義できましょう。
至福の場所である天国に入る前に、天主を直観できる場所に入る前に、有限の罰から清められる必要があります。小罪あるいは赦された大罪に伴う償いがまだ残っていて、それを償うために煉獄にいくのです。その場合、聖寵の状態にあるので、霊魂は天国に入る資格がありますが、入るために霊魂の清めが必要なのです。その清めは煉獄の火によって行われます。地獄の火と同じように、煉獄の火も霊魂に対して物質的な火でありながら霊的な影響を及ぼします。煉獄の火は、霊魂のすべての穢(けが)れを清めます。
煉獄においても、地獄と同じように「天主を直観できない」罰がありますが、永罰と違って永遠の罰ではありません。一時的な罰であって、「有限の罰」と言われ、時間の期限のある罰です。だから、煉獄にいる霊魂たちはいずれか天国に入れる確信を持ち、そのことを知っているので、喜びが残っています。その上、「天主を直観できない」罰の上に、煉獄でも「感覚の罰」もあります。清められるために、煉獄の霊魂たちが苦しんでいるのです。現実の火(本物の火)によって起こされる肉体的な苦しみです。
煉獄での刑罰は、地上にいる我々が想像できるあらゆる刑罰よりも恐ろしくて苦しいものです。聖アウグスティヌスは次のことを書いています。「煉獄の火は地上の人生において人間が苦しめられるあらゆるものよりも苦しい。」
また、聖ベルナルド曰く。「地上で怠ったすべてものは、煉獄で百倍以上に払わねばならぬ。」
ところが、煉獄にいる霊魂たちには「希望」の慰めもあり、天主の神聖さと天主の正義を理解して慰めとします。つまり煉獄で受ける苦しみは、至上の善なる天主との接触を、天主を有りのまま直観する準備のためにあるのだと知り、煉獄の霊魂たちはある程度の慰めに癒されています。ところが、いくら煉獄で苦しんだとしても、それに伴う栄光はすこしもありません。
ところで、天の下の地上にいる我々は煉獄の霊魂たちを助けることが可能です。我々の祈祷と犠牲、または贖宥によって煉獄の霊魂たちを助けることが可能です。煉獄の霊魂たちを助け、時には解放させて、我々のお陰で天国に入った霊魂たちは、我々の愛徳に答えることも確実です。地上においての我々の人生においても、天主のみ前に出廷する日にもそうです。
最後に、もう一ヶ所についてご紹介したいと思います。より不思議な場所と言えるかもしれませんが、「辺獄」(リンボ)という場所です。そこは、洗礼を受けないまま、まだ分別がつかないまま死んだ赤んぼうの霊魂の行く場所です。
この世に生まれる子供たちはみんな原罪の穢れを持ったまま生まれます。原罪のせいで、至福直観を享受することが不可能な状態にされています。なぜなら原罪のせいで、聖寵を受けることは不可能ですから。洗礼を受けた暁に、始めて原罪から清められて聖寵の生活に生まれるのです。ところが、原罪を持ったままに生まれる赤子が洗礼を受けずに天国に入ることは不可能であって、天主を直観することは不可能です。聖寵の状態にはなっていないので、天主の直観は不可能です。
ところで、原罪は、個別の罪ではなく、個人のせいではないので、洗礼を受けずに死んでしまう幼児が「大罪を犯した霊魂たち」と同じように地獄で罰を苦しむことには値しません。ですから、神学者たちが「辺獄」と呼ぶ場所に、原罪だけの罪を持つ幼児の霊魂たちが行きます。
そこでは、天主の至福直観とそれに伴う栄光が剥奪されているものの、幼児はある程度の自然な「幸福」を享受することが可能な場所です。一言で言うとここが「辺獄」です。
以上、「終末論」についてご紹介しました。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第七十一講 永遠の命-③
「永遠の命を信じ奉る」
信経の最後で、人間の究極的な行き先を教える信条です。以前にも申し上げたとおり、三幕で要約できる「最期」です。
第一幕は「死」です。霊魂が身体を去り、悲痛な分裂を経験します。
第二幕は、「私審判」です。天主のみ前に霊魂が出廷して裁かれます。
そして、判決が下った後、第三幕は「判決の執行」です。
これが、永遠の命の始まる「終末論」の第三幕です。
「判決の執行」はどうなっているでしょうか。私たちの主は福音において何度もそれについて仰せになります。
救われる霊魂は「父に祝せられた者よ、来て、世の初めからあなたたちに備えられていた国を受けよ。」 と言われます。
断罪された霊魂は「呪われた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」 と。
要するに、我々の霊魂は裁かれ、その報いを得ます。善を施し、天主との親密さの内に生きてきたならば、つまり、霊魂が愛徳の内に・聖寵の内に生きたのなら、その報酬を得ることになります。一方、天主と友情を拒絶し、聖寵を拒否し、秘跡を断った霊魂は、裁かれたのち断罪されて刑罰を受けます。判決の執行です。
正しき者の場合、その執行は天においてなされます。受刑者の場合、地獄において執行されます。
第一に、天についてご紹介しましょう。天国とは一体何でしょうか。
天とは、聖人たちと天使たちが、天主を直観し、天主を所有することによって完璧な幸せ、永遠な幸せを享受する場所を言います。天における至福は「天主の直観」にあります。というのも、天主が至上の善であるからです。そして、この天主の直観とは、天主を所有することです。地上においても垣間見える真理です。地上でのあらゆる喜びは「愛している物事を所有する」ことにあるのと同じです。従って、至上の幸せは、至上の善を所有することにあります。その所有とは、至上の善である天主を直観することによって実現します。天主よりすぐれた善などありえないからです。
天国とは、天主の直観と天主の所有です。別称は「楽園」とも言います。または、「天の王国」、「聖なる都」、「天のエルサレム」、または「天の祖国」あるいは「天の故郷」または、「栄光の住まい」などなどの呼称があります。要するに、天というのは「永遠の命」です。
当然ながら、聖書において天国の存在が啓示されています。また、公教会がいつも断言し続けた真理です。また理性に照らしても天国の存在も裏付けられます。というのは、地上で報いられていない正しき者、時に屈辱的な扱いをされて不名誉にあって酷い目に合わせられた正しき者には、来世の命において報いがあると理性によって断言できるからです。
そこで、天国というのは具体的にどうなっているのでしょうか。天国を特徴づけるのは、あらゆる悪から免れ、あらゆる善を保有することにあります。天においては、苦悩も悪も全くありません。物理的な苦悩もなければ、精神的な苦悩もありません。黙示録において、次のように書かれています。
「人とともにある天主の幕屋がこれである。天主は人とご自分の住まいを定められる。人は天主の民となり、<人とともにある天主である主>は人の天主となられる。」
ここでは、天主の所有 が表現されています。続いて、「天主は人の目の涙をすべてぬぐわれ、死ももうなく、悲しみも叫びも苦労もなくなる。前のものが過ぎ去ったからである。」 とあります。
要するに、天において苦しみはなくなります。なぜでしょうか。聖人たちまたは福者たちは、天に住まう人の呼称ですが、というのも、天にいる人々はその通り「聖人」ですから、つまり、福なる者たちは至福直観を享受し、限りなく幸せになるのです。
福なる者たちは、天主を「見る」のですが、当然ながら身体の目で「見る」のではありません。天主は霊的な存在なので、身体の目で見ることはできません。知性をもって天主を見て、天主がその理性に注入する栄光の光によって啓発され、天主によるこの特別な賜物のお陰で、天主をありのままに「見る」ことが可能となります。
人間のこの上なく素晴らしい運命はこれです。「天主をありのままに直観し、天主との親しさを分かち合う」ことです。これこそが、天主が人間を召命する究極的な目的です。
天主は栄光の光を通じ、ありのままに御自らを天にいる霊魂たちへ示し給うのです。
それから、以上の霊魂の幸せの上に、他の幸せが加わります。例えば、私たちの主イエズス・キリストを直観し、聖母マリアを直観する幸せなど。というのも、天における聖人たちは、不動で凍結しているのではなく、本当の意味で生きているし、感覚をもそのまま持っているからです。ですから、天においては「偶有的な栄光」と呼ばれる栄光も伴います。または「感覚の栄光」も享受します。
たとえば、地上の知り合いは、天においてもお互いに知り合いのままですし、地上においてあった正当な愛情は天においても引き続き持ち続けます。
また知らない聖人たちに対しても一緒に平和的に生きて、平和の内にいつまでも生きます。
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以上、天国をご紹介しました。しかしながら、取り返しの出来ない判決を受ける人々もいます。至上の裁判官が「呪われた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」 という判決を告げられる人々のことです。
地獄と呼ばれる刑罰は非常に恐ろしい刑罰です。地獄とは、呪われた者のいる場所であって、彼らはそこで悪魔たちと一緒に、永遠に苦しむ運命となります。
福音において、私たちの主イエズス・キリストが何度も何度も強調なさった真理というと、やはり「地獄」という真実です。頻繁に、いや、他の真理よりももしかしたら一番頻繁に、イエズス・キリストは「地獄」という真実について仰せになりました。私たちの主は地獄について次の言葉で説明されます。
「殺したのちゲヘナに投げ入れる権威ある御方を畏れよ。私は言う。そうだ、その御方を恐れよ」 。
または「国の子らは外の闇に投げ出され」 。外の闇というのは至福の場所である天国の外のことですね。
続いて、「そこで泣いて歯ぎしりするだろう」 と仰せになりました。
公教会は最初からいつも地獄を教え続けていました。また、信じるべき一つの信条です。フィレンツェの公会議の際、次のことが発布されました。
「大罪の状態で死ぬ人々の霊魂は、即刻、地獄に落ち、相応しい、異なった、公平な罰を受けることを我々は定義する」と。
相応しい、異なった、公平な罰とは、当然なことで、犯された罪次第で、それぞれの罰も変るからです。
また、理性に照らしても、地上では刑罰を受けなかった悪人に対して、いずれか罰を受けるだろうとするのが当然です。これが来世において受ける罰です。罪が深刻だった場合、つまり「大罪」だった場合、言い換えると「天主に対して完全に背く」罪だった場合、永遠なる存在を拒絶した故に、その罪も永遠なり、それに伴う罰も永遠となります。他方、軽い罪に留まった場合、それに伴う罰も軽くなります。
そこで、地獄における罰には、二つの要素に要約できます。
第一は、「永罰」です。第二に「感覚の罰」です。
「永罰」とは、霊的な罰なので、我々地上の人間にとっては、一番理解しづらいかもしれませんが、永罰こそが一番恐ろしい罰です。「Dam」「永罰・劫罰」という言葉から転じて「呪われた者Damné」という言葉がフランス語にあります。「永罰」とは、「至福直観」の剥奪という罰です。地上における我々にとって、天主を見ることはできないので、「永罰」が「至福直観」の剥奪だと言われても、「平気だろう」と思いがちです。しかしながら、それは間違いです。
身体から霊魂が去った瞬間に、また純粋な霊的な生命だけで生きるようになる霊魂は、どうしても霊魂の行く先への抑えきれないほどの渇望欲に包まれます。霊魂の究極的な目的、行く先は天主なので、霊魂においては、天主をどうしても願望する気持ちが溢れます。
問題は、地上において、最期までずっと霊魂の目的である天主を拒絶してしまった霊魂の場合、死後、その渇望欲を感じても、引き続き天主を拒絶してしまいます。聖霊が言う通りです。「傾いている方向に、結局、木は倒れる。」
というのも、霊魂自身が結局天主を拒絶するからです。それこそが地獄の一番凄まじい要素です。
時々、地獄があるから天主は恐ろしいと言われていますが、実際は違います。霊魂こそ、その自分の創造者を拒絶することが恐ろしい事です。天主ではないのです。天主は一人の霊魂でさえも拒絶することはありません。逆です。霊魂が天主を拒絶するのです。
そして、天主を拒絶すると、霊魂は必然的に自分を劫罰の身にしてしまいます。これこそが非常に悲劇的なことで、凄まじいことです。要するに、地獄での永罰において、霊魂は、本性的に、本質的に「天主への願望」を持っているのに、その「渇望」をその霊魂が積極的に拒絶して否定してしまうのです。悲劇的なことです。言い換えると、常時この矛盾の内に永遠に生きる罰を受けるです。罰であり、常なる分裂でもあります。地獄に落ちた霊魂は、自分を分裂させるのです。
例えてみましょう。何か、本能的に呼吸する必要のある一人が、身体的に呼吸しようとして、物理的に口を開けて肺に空気を入れようとするものの、何も空気が入ってこないようなことが、劫罰と似ています。地獄においての霊魂はこういった感じです。
聖ドンボスコがビジョンで地獄を見ましたが、次のように描写しています。
ところで地獄を見たすべての聖人が似た表現で地獄を描写しています。つまり、地獄に落ちた霊魂は「天主への渇望によって上に行こうとするが自分の罪の重みでいつも必ず下へ落ちる」と。このようにして、その終わらない常の悪循環におちいった霊魂は、自分の望んだ矛盾、そして自分の推し進めたその矛盾の内に生き続けるのです。地獄に落ちた霊魂は結局、自らが地獄に自分を落とすのです。以上が「永罰」でした。
その上に、「感覚の罰」もあります。主に、「火の罰」で執行されます。これも恐ろしい罰です。なぜかというと、この地上において、地上の物事・物質的な物・被創造物に愛着し隷属するために天主を拒絶した人は、地獄において物質的な火によって霊的に罰を受けるからです。
我々にとって、物質的な火が霊的存在を害することがありえるなんて神秘です。この世では火傷する時、身体が火傷しますが、霊魂ではありません。ところが天主の全能によって、地獄の物質的な火が霊魂を焼き、損害することが可能となります。これも恐ろしい罰です。しかしながら、永罰に比べるなら、これは恐ろしくないといってもいいでしょう。
さらに地獄に住んでいる霊魂は、悪魔たちと呪われた者からなる恐ろしい社会の中に生きる罰をも受けます。地獄には、憎しみ・嫉妬・悪意ばかりです。一方、天国においては平和と幸せのみです。
地獄にいる霊魂は、自分の犯した罪に合った刑罰を受けます。地上では、過剰に快楽を得ようとすればするほど、地獄において永遠にそれに相当する刑罰を受けます。
地獄に落ちる霊魂は、大罪の状態で死ぬすべての霊魂です。一つだけの大罪を犯しただけで、その状態で死ぬならば地獄に落ちるのです。
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地獄の存在は不正なことではありません。残念ながら、昨今、地獄に対する非難の声が少なくありません。
「天主は不正だ!」とか「天主は残酷だ!」とか言う人がいます。
「天主が愛そのものであるのなら、ある霊魂を地獄に落とす判決を出せないはずだ」とか。
しかしながら「天主はひどい」と言ってもこれは視点が間違っています。天主ではなく、霊魂のほうがひどいのです。というのも、最期に悔い改めないまま死んでしまうのは霊魂ですから。また、死んで天主を拒絶するのは霊魂です。天主から離れるのは霊魂です。従って、天主がどうやって、その状態の霊魂に「おいで!」と言えるでしょうか。その霊魂は、それを望まないわけで、天主が何者かを拘束することはそもそもありません。
面白いことに、現代では「自由万歳!」と唱えている同じ連中が「天国に入れるように天主に拘束されたい」というのですか?それは違いますね。天主を受け入れるか拒絶するかは一人一人次第です。これは人間の自由です。そこで、自由に自分の取った判断に対する責任を取るまでです。永遠にその責任を取るまでです。従って、天主を拒絶する霊魂たちこそがひどいわけです。霊魂自身が自分を地獄に落とすのです。人は自分の一生の送り方次第で、天主を拒絶することによって、また、天主の御慈悲、御憐れみを侮辱し軽蔑することによって、自らに自分を地獄に落とすのです。
天主は無償に御憐れみを人間に与え給います。御自分の御子を送り給い、十字架上に捧げ給うたのです。ある人がその素晴らしい賜物を、原罪を犯した我々に対するその有り余るほどの御恵みを拒絶したのなら、もうどうしようもありません。天主が彼の自由を拘束するわけがありません。「愛」というものは強制では得られないものだからです。天主は人間を拘束しません。ですから、天主ではなく、天主の愛を拒否することにおいてこそ、霊魂がひどいことをするのです。
また、「しかし天主は善い御方なので、地獄での罰は決まった時間で終わるだろう」という非難もあります。
しかしそれもありません。確かに天主は至上に善い存在です。それは当然ですし、大賛成です。ところが、だからといって「馬鹿げた甘やかしをする優しい天主」とはならないのです。
天主の善良さは、天主の智慧と一致しています。天主の善良さは天主の正義と同じです。従って、永遠の命を拒絶した霊魂に対して、天主は永遠なる正義を課するしかないのです。そして、犯された罪に対して、完全に適切な刑罰を与えます。公平です。不正もなければ、善良さの欠如も一切ありません。
創造主に背く霊魂こそが不正であり、自分を創造した天主に背くことこそが、善良さを欠如しています。
面白いことに、地獄に対する非難において、何か人間の責任を軽くしようとするかのように、いつも天主のせいにする傾向が見られます。しかしながら、責任は人間にあります。天主は人間のためにできるだけのことをすべて成し給うたからです。地上に来たり給い、十字架上で死に給うたほど、人類の罪を贖ったからです。
そこで、「まあ、地獄に行くことがあっても、限られた時間で償えたら天主が赦してくれるだろう」とも言われたりします。
問題は、赦しはいくらでも与えられますが、悔悛という条件があります。悔悛の心がある限り、赦しが可能です。自分を地獄に落とす霊魂の問題は、悔悛を拒否するということです。永罰の受刑者がなぜ赦しを貰えないかというと、悔悛を頑固に拒否するからです。
死後は、霊魂は純粋に霊的な生命で生きているので、「改悛を拒否」する意志も「完全」となり、永遠の責任を伴う意志の行為となってしまいます。従って、地獄には終わりがないのです。天主のせいではなく、その逆です。
地獄の定義に従うと、そこは一時的な場所ではありません。地獄に落ちる霊魂たちは、残念ながら、永遠に地獄に落ちるのです。ファチマの三人の子供たちに、聖母マリアの出現がありましたが、その時に聖母は地獄を見せました。「雪のように霊魂たちが地獄に落ちていった」のです。
そして聖母は「可哀そうな罪人のために誰も祈らないから」と嘆いていました。そして、残念ながら、霊魂たちはどんどん地獄に落ちています。
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地獄は一時的な場所ではありません。一時的な苦悩の場所は確かにあります。それは煉獄という場所です。煉獄は「天国への控室」だと定義できましょう。
至福の場所である天国に入る前に、天主を直観できる場所に入る前に、有限の罰から清められる必要があります。小罪あるいは赦された大罪に伴う償いがまだ残っていて、それを償うために煉獄にいくのです。その場合、聖寵の状態にあるので、霊魂は天国に入る資格がありますが、入るために霊魂の清めが必要なのです。その清めは煉獄の火によって行われます。地獄の火と同じように、煉獄の火も霊魂に対して物質的な火でありながら霊的な影響を及ぼします。煉獄の火は、霊魂のすべての穢(けが)れを清めます。
煉獄においても、地獄と同じように「天主を直観できない」罰がありますが、永罰と違って永遠の罰ではありません。一時的な罰であって、「有限の罰」と言われ、時間の期限のある罰です。だから、煉獄にいる霊魂たちはいずれか天国に入れる確信を持ち、そのことを知っているので、喜びが残っています。その上、「天主を直観できない」罰の上に、煉獄でも「感覚の罰」もあります。清められるために、煉獄の霊魂たちが苦しんでいるのです。現実の火(本物の火)によって起こされる肉体的な苦しみです。
煉獄での刑罰は、地上にいる我々が想像できるあらゆる刑罰よりも恐ろしくて苦しいものです。聖アウグスティヌスは次のことを書いています。「煉獄の火は地上の人生において人間が苦しめられるあらゆるものよりも苦しい。」
また、聖ベルナルド曰く。「地上で怠ったすべてものは、煉獄で百倍以上に払わねばならぬ。」
ところが、煉獄にいる霊魂たちには「希望」の慰めもあり、天主の神聖さと天主の正義を理解して慰めとします。つまり煉獄で受ける苦しみは、至上の善なる天主との接触を、天主を有りのまま直観する準備のためにあるのだと知り、煉獄の霊魂たちはある程度の慰めに癒されています。ところが、いくら煉獄で苦しんだとしても、それに伴う栄光はすこしもありません。
ところで、天の下の地上にいる我々は煉獄の霊魂たちを助けることが可能です。我々の祈祷と犠牲、または贖宥によって煉獄の霊魂たちを助けることが可能です。煉獄の霊魂たちを助け、時には解放させて、我々のお陰で天国に入った霊魂たちは、我々の愛徳に答えることも確実です。地上においての我々の人生においても、天主のみ前に出廷する日にもそうです。
最後に、もう一ヶ所についてご紹介したいと思います。より不思議な場所と言えるかもしれませんが、「辺獄」(リンボ)という場所です。そこは、洗礼を受けないまま、まだ分別がつかないまま死んだ赤んぼうの霊魂の行く場所です。
この世に生まれる子供たちはみんな原罪の穢れを持ったまま生まれます。原罪のせいで、至福直観を享受することが不可能な状態にされています。なぜなら原罪のせいで、聖寵を受けることは不可能ですから。洗礼を受けた暁に、始めて原罪から清められて聖寵の生活に生まれるのです。ところが、原罪を持ったままに生まれる赤子が洗礼を受けずに天国に入ることは不可能であって、天主を直観することは不可能です。聖寵の状態にはなっていないので、天主の直観は不可能です。
ところで、原罪は、個別の罪ではなく、個人のせいではないので、洗礼を受けずに死んでしまう幼児が「大罪を犯した霊魂たち」と同じように地獄で罰を苦しむことには値しません。ですから、神学者たちが「辺獄」と呼ぶ場所に、原罪だけの罪を持つ幼児の霊魂たちが行きます。
そこでは、天主の至福直観とそれに伴う栄光が剥奪されているものの、幼児はある程度の自然な「幸福」を享受することが可能な場所です。一言で言うとここが「辺獄」です。
以上、「終末論」についてご紹介しました。