白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による哲学の講話をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
Billecocq神父に哲学の講話を聴きましょう
第二編に移りましょう。文章は長いです。
ルソーに言わせれば、第二編は人生の第二段階についてです。二歳から十二歳まです。
第二編では、生徒の代わりに少年です。もう泣かない、もう叫ばない、喋り始めるとされています。ルソーにとって、二歳から十二歳までの教育は感覚の教育だけなのです。
禁止することなどは一切ないとします。それは非常に大事な点です。先ほどの引用をもう一度読み上げます。
「子どもは、ただ事物にだけ抵抗をみいだし、けっして人々の意志に抵抗をみいだすことがなければ、反抗的にも怒りやすくもならず、いっそう健康に身を保つことになる。」
ルソーに言わせれば、子どもの意志に抵抗すれば、教育者の抵抗にぶつかるから生徒が反逆者になるか(そして、ルソーはそれを避けたいといっていますが)、あるいは、教育者に確かに従うのですが、奴隷になってしまうということで、自由でなくなると言います。ルソーに言わせれば、子どもには命令をしてはいけないのです。子供の気まぐれだけが許されます。
子どもは成長に連れて少しずつ自分自身の力を認識するようになって、少しずつ他人に頼らなくなってもよいようになっていくとします。子どもは自分の力だけですべてをやるべきだと。
次の引用です。
「さらにもう一つの進歩が子どもにとって泣くことをそれほど必要にしなくなる。それは力がついてくることだ。自分ひとりで多くのことができるようになると、子どもはいままでのように他人のつけを求める必要がなくなる、力とともにそれを正しく用いることを可能にする知識も発達する。」
「第二の段階において、正確にいって個人の生活がはじまる。ここで人は自分自身を意識することになる。記憶があらゆる瞬間における自分の存在の同一性という感情を拡大する。彼は本当に一個の同一の人間となり、したがってすでに幸福あるいは不幸の感情を持つことができる。ですから、これからは彼を一個の精神的存在と考える必要がある。」
「自然が彼らに与えている短い時を奪い去って、後で悔やむようなことをしてはならない。子どもが生きる喜びを感じることができるようになったら、できるだけ人生を楽しませるがいい。いつ神に呼ばれても、人生を味わうこともなく死んでいくことにならないようにするがいい。」
ルソーの教育論では、「楽しませる」「充実させる」ことだけが教育の目的とします。
「人生を味わうこともなく死んでいくことにならないように」と。
人生の第二段階になって、生徒にルソーが初めて教えます。しかし習うすべてのことは生徒が自然において見出さなければならないとします。
時間の問題で、多くの引用を割愛せざるを得ませんが、すでに申し上げたように、生徒は自分の力で真理を見出すべきだと言っています。やらせっぱなしにすべきだと。
配布した引用の内、第二編の最後の二つの引用です。後ろから二つ目です。
「そうだ、自然はあらゆる種類の印象を受け取れるような柔軟性をこどもの頭脳にあたえているが、それは、陰気で不毛な少年時代を悩ましている、国王たちの名前や日付けや、紋章学、天球、地理などの術語、要するに子どもにとって何の意味もないことば、あらゆる年齢の人にとって何の役にもたたないことばを覚えこませるためではない。」
要するに、12歳まで、学問を一切教えてはならないとルソーは言うのです。一切です。歴史も地理も教えません。知的な学問は一切ダメだと言います。用語も読書もダメです。でも、読み書きは習わなければならないだろうといわれるかもしれません。ルソーはこう答えます。招待状が届いたら、その時、読み方を教えたらよいと。かなり理想主義ですね。
それから、道徳をも一切教えてはならないと言います。ルソーは生徒と家庭教師の間に会話を設けてみます。
家庭教師は「そういうことをしてはいけない」といってしまう場面です。つまり、道徳を教えようとします。
子ども、「なぜ、こういうことをしてはいけないのですか。」
先生 「それは悪いことだから。」
子ども 「悪いこと。どういうことが悪いことなのですか。」
先生 「止められていることです。」
子ども 「止められていることをすると、どんな悪いことがあるのですか。」
先生 「あなたはいうことをきかなかったために罰を受ける。」
子ども 「ぼくは人にわからないようにそうします。」
先生 「誰かがあなたを見張っているでしょう。」
子ども 「ぼくはかくれているでしょう。」
先生 「あなたはたずねられるでしょう。」
子ども 「ぼくはうそをつきます。」
先生 「うそをついてはいけない。」
子ども 「なぜうそをついてはいけないのですか。」
先生 「それは悪いことだから。」
そして繰り返しになりますから、道徳を教えることはどうにもならないと言いたいのです。悪循環だと。ですから、道徳を教えてはいけないと。子どもは生まれながら自然に良いから、道徳はいらないと。
ルソーが言うとおりに子どもを教育していったら、どうなるか試したい人いますか?(笑)
次は、寓話についての話があります。
ルソーはラ・フォンテーヌの一つの寓話 を取り上げて、もてあそびます。
「烏と狐 « 烏先生、とまっていた、木の枝に、 » 先生、この言葉はそれ自体何を意味するんですか。固有名詞の前にある時はどういう意味になるんですか。烏とは何ですか。」
続いて、ルソーがコメントします。
「「とまっていた木の枝に」とは何か。わたしたちは「とまっていた木の枝に」とは言わない。「木の枝にとまっていた」と言う。だから、詩における倒置法と言わなければならない。散文とはどういうものか、詩とはどういうものか、ということを述べなければならない。」
それは子どもにとって難しすぎるといっています。
「 « チーズを一つ口にくわえて。 »
どんなチーズだったのか?スイスのチーズ、それともイギリスの?それともオランダの?子どもがまだ烏を見たことがなかったら、その話をしたところで何になるだろう。すでに見たことがあるなら、烏が口にチーズをくわえるというようなことを、どう考えるだろう。いつも自然のままの姿を描くことにしよう。」
ルソーはこのように寓話の一句一句について述べていきます。
「 « 狐先生、匂いにいざなわれ »
また、先生。しかしこれは狐にふさわしい呼びかけだ。狐はその道にかけてはすぐれた腕を持つりっぱな先生だから。狐とはどういうものかを話し、そのほんとうの性質と、寓話で与えられている性格とを区別しなければならない。
「いざなわれ」このことばは日常もちいられない。その意味を説明しなければならない。こんにちではこのことばは詩においてだけ用いられることを話さなければならない。子どもは、なぜ詩では散文とはちがった話しかたするのか、とたずねるだろう。あなた方は何と答えるつもりか。
「チーズの匂いにいざなわれ」云々」
寓話の一句一句、最後までルソーはやります。
「「嘘は申しません」では、ときどき嘘をついているのか。狐は嘘をついているからこそ「嘘は申しません」と言っているのだ、と教えたとしたら、子どもはどういうことになるだろう。」
つまり、ルソーが「嘘をつくのを子供に教えることになるぞ」と言わんばかりです。「嘘は申しません」と言われたら、嘘のことを教えざるをえないと言いますね。
また、
「フェニックスとは何か。ここでわたしたちはとつぜんでたらめな古代世界に投げ込まれる。神話の世界に、と言ってもいい。」
このようにのびのびとルソーがすべてを馬鹿にしています。
結論、寓話を教えてはならないと。寓話は無用だと。
結局、ルソーの教育様式は子どもを生意気なもの、気まぐれ者にするということです。
「それではどういうことになるか。第一に、あなたがたは、子どもにわかりもしない義務を押し付けることによって、あなたがたの圧政に対して不愉快な思いをさせ、あなたがたを愛さなくなるようにしているのだ。褒美をせしめるために、あるいは罰を免れるために、ごまかしたり、嘘をついたりすることを教えることになるのだ。」
以上の引用において、ルソーは固く道徳を教えてはならないと断言します。もう一つの引用があり、そのあとに出てきますが、そこでルソーはこう言っています。子どもには義務を教えてはならないが、権利を教えるべきだと。もう明らかです。子どもには義務・禁止などといったものはいらないということです。
以上の引用の続きです。
「法律というものは、良心にとっては義務的なものだが、大人に対してやはり拘束を加えている、とあなたがたは言うかもしれない。そのとおりだ。しかし、そういう大人は教育によって損なわれた子どもにほかならないのではないか。それこそまさに防止しなければならないことだ。子どもに対しては力を、大人に対しては道理を用いるがいい。それが自然の秩序だ。賢者は法律を必要としない。」
次の引用は先ほど申し上げた話です。
「わたしたちの第一の義務は私たちに対する義務だ。私たちの原始的な感情は私たち自身に集中する。私たちの自然の動きはすべて、まず自己保存と自分の快適な生活に結び付く。そこで最初の正義感は、私たちがなすべき正義からではなく、私たちに対してなされるべき正義から生まれる。ですから、子どもにまず彼らの義務について語り、彼らの権利について語らず、必要なこととは正反対のこと、子どもが理解できないこと、そして彼らが関心をもつことができないことを最初に話すというのも、一般に行われている教育の矛盾の一つだ。」
御覧の通りに明らかに書かれています。いわゆる、現代、出てくる「児童の権利」はルソーの教育論の結果にすぎません。ルソーは子どもに所有権という感覚を教えるために、子どもに小さい庭を栽培することを勧めます。
第二編の残りを飛ばしまして、その最後だけを取り上げましょう。第二編の結果、エミールはどうなっているかをルソーが描写してくれるので、参考になります。
要約すると、二歳から十二歳まで、エミールは何も習っていないということです。自然をみたりして、自然を見出そうとしたのですが、学問も習いことも何もしていないままです。
「彼の姿、様子、身のこなしは、自信と満足感を示している。彼の顔は健康に輝いている。しっかりした足取りは力強い感じを感じさせる。なま白くはないがまだ繊細な顔色には柔弱な女々しい面影は全然みられない(それはどうやってあり得るかはルソーはいっていませんが)。すでに、大気と太陽はそこに男子の尊敬すべきしるしを与えている。まだ丸味のある筋肉はつくられつつある容貌のいくつかの線を示し始めている。まだ感情の火を燃え立たたせていない両眼は、」
これは面白いです。子どもを自然のままにしているのは、子どもには感情が湧かないようにするためだとルソーが明らかに言っています。なんて現実から離れた理想主義でしょう。
「少なくとも生まれながらの清朗さをそのままにたもち、長い悲しみに暗くされたこともなく、涙がとめどなく頬をつたって流れたことはない。」
つまり、二歳から、いつも自然のままに教育されたから、泣いたことがなかったと言います。
「その年齢の活発さを、何ものにもとらわれない健気さを、多くの訓練によって獲得された経験を見るがいい。彼はうちとけた、自由な態度をしめしている」なんてね。きれいな言葉ではないのでしょうか。
「彼はうちとけた、自由な態度をしめしている」。さすがに。どうせ、エミールは何一つ知らないし、わかっていないままですから、打ち解けてもいいかもしれません。
「しかし傲慢でも生意気でもない態度を示している。書物のうちにかがみこんでいるようなことをさせられたことのない顔は下ばかりむいてはいない。彼には「顔を上げなさい」という必要はない。恥らいや恐れを感じて面を伏せるようなことは全然なかったのだ。」
「みなさん、この子をためしてごらんなさい。安心して何かきいてごらんなさい。この子は、人をうるさがらせたり、おしゃべりをしたり、ぶしつけなことをきいたりする恐れはありません。」
以上はエミールの描写でした。ルソーはまだ続けます。
「彼は、子どもとしての成熟期に達している。彼は子どもとしての生活を生きてきた。彼は、その完成を自分の幸福を犠牲にして手に入れたのではない。そうではなく、二つのものはたがいに協力し合っていたのだ。」
「すくなくとも彼はその子どもの時代を楽しんだのだ。わたしたちは自然が彼に与えたものを何一つ失わせたようなことはしなかったのだ、と。」
そこで、こう言ったような教育は一般に「消極的な教育」だといわれています。これはなぜでしょうか。子どもに何も教えてあげないから消極的だと言われています。その教育では、子どもが悪くならないようにするにとどまるのです。これだけですね。ルソーは以上のように教育を見ています。
ルソーの教育論では、子どもには善徳・美徳を教えることも、真理を教えることもまずありません。つまり、何ものを与えず、何も糧をあげず、子供を空っぽのままにしておく教育です。いわゆる、すくなくとも「悪」をもあたえないので、何も教えないことによって、悪をも教えないで済むというルソーの考え方です。
『エミール』の中心はこれです。子どもには誤謬をも自尊心をももたらさないことにとどまる教育が理想だとします。そうすると、子どもは傲慢に生意気にならないと。まさに子どもは空っぽにするのが彼の教育論の理想です。
中身がないままです。それは考えてみると矛盾というか、少なくとも逆説です。子どもには誤謬というか、悪徳をもたらさないために、真理も善徳も教えないという変わったロジックですから。つまり、ルソーに言わせれば、暗に誤謬と悪徳は「真理と善徳から生まれる」と言わんばかりですから。こういったことを暗に前提にしているのです。ですから、「空っぽな子どもにしておこう」という結果になってしまいます。
周知のとおり、皆様は経験しているかと思いますが、12歳の子供がいれば、もしかしたら善良さが多少あるかもしれないが、悪徳も確実にあるに決まっています。その意味で、ルソーは本当に信じられない夢想の内に生きているかのようです。つまり、12歳まで悪徳に触れないことがあり得るという空想を抱いているのです。ルソーはこのようなことを信じているので「寓話を教えてはいけない」と結論付けるのです。寓話を教えると、悪徳を教えるからというロジック。
「エミールは嘘をついたことはないから、生意気な態度を示したことはいちどもない」などと、あり得ないことを平気で言っているわけです。家庭教師と二人きりの設定ですから、まあそういった夢の中にあり得るかもしれませんが。家庭教師に対して、一度も生意気になったことはないなんて。ルソーのロジックでは、どうせ家庭教師はエミールに一度も求めたことはないから、生意気になる機会もなかったというロジックです。いい子ですね。
第三編に移りたいと思っております。幼児期から青年期にかけて。12歳から14歳までです。いよいよ、「積極的な教育」という段階に入ることになります。
子どもとしての人生をたっぷり楽しめて、何も知らないままの子供として楽しめた状態です。そのときまで、走ったり、泳いだりして、要は体を動かすようなものばっかりで、知性に頼ることを一つもしなかった状態です。つまり、子どもは「完全にうれしい状態」だと言います。現実の子供を知る人々は笑うかもしれませんが、12歳の子供はルソーにとって一度も質問をしたことはない、何も知りたくなったこともないとしています。ルソーにとって、それは普通みたいです。
12歳から14歳まで、突然、子どもの知性を埋めることになります。
そういった状態で、ルソーは第三編の最初から、次のように言っています。ちなみに、ルソーにとって、12歳から14歳までは、まだ青年期になっていないようです。子どもの時代の終わりだと言います。もしかしたら、14歳のルソーはこのようにまだかなり未成熟のままだったかはわかりませんが。でも、どうみても、こういった年齢だと、青年期に入っているというのは間違いないことです。
「存在するものではなく、有用なものだけを知ることが必要だ。」
この文章は非常に大事です。つまり、存在することを習うのではなく、有用なものだけを習うがいいと。最初からルソーはそう書いています。第三編の文頭の部分です。
それは何を意味するでしょうか。つまり「純理的」あるいは「思索的」な学問を絶対に教えてはならないということです。
実用的な学問だけでよい、理論的な授業、あるいは教科書的な授業、いわゆるえらい教師からの一方的な「講義」はけしからんと。いや、そうではなく、経験を通じてだけ習うのがよいと。しいて言えば、経験主義だけが教育方法としてよいと。このように教育の理想を見ています。しかしながら、ルソーはなぜそう言っているでしょうか。
彼の思考様式でいうと、講義など、単純に真理を教える教育をするとき、子どもに真理を押し付けると見ているからです。彼にとってそれは自由に反することだからです。従って、そうならないように子どもは経験を通じて、経験を積むことによってだけ、自分の力で真理を発見するがいいと。その教育方式では、教師は子どもを導くにとどまります。これがルソーにとっての教育者の理想像です。
「存在するものではなく、有用なものだけを知ることが必要だ。この少数のもののなかから、ここではさらに、それを理解するには、もうすっかりできあがった悟性を必要とする真理を除かなければならない。(…)無知はけっして悪を生み出さなかった」と言います。さすがに。
「誤謬だけが有害であること」つまり、ルソーにとっては、無知はけっして悪ではないから善だ、という思考様式です。
「無知はけっして悪を生み出さなかったこと、誤謬だけが有害であることを忘れずに、絶えず心に留めておくがいい。(…)まず、具体的な物質から教えるがいい。これこそは子どもの注意を自然に引くものだからである。 」
そういえば、具体的なこと、あるいは物質なことを勉強するために、12歳になるのを待つなんて、考えてみるとなかなかふざけていることですが。
「精神の最初のはたらきにおいては、感覚が常に精神の案内者となるようにしなければならない。」
ここでは、まさに、経験主義を定義するかのようです。
「世界のほかにはどんな書物も、事実のほかにはどんな授業もあたえてはならない。」
ちなみに、ルソーの場合、子どものとき、読んでばかりいましたが。
「読む子供は考えない。読むだけだ。彼は知識を身につけないで、言葉を学ぶ。」
なんか、読者に対して意外と意地悪いですね。不思議なことに、ルソー自身は子どものとき、多くの本を読んでいたのに。しかも、読書して気に入っていたようだし、自分の父は積極的に本をルソーに勧めていたし。それなの、でも、ここでは「本はダメだ」と言っています。
「読む子供は考えない。読むだけだ。彼は知識を身につけないで、言葉を学ぶ。」
要するに、本はダメだということで、唯一に許される「本」は「周りの世界のみ」だといっています。つまり大自然です。ですから次にどうすればよいかというと、ルソーは、「あなたがたの生徒の注意を自然現象に向けさせるがいい。やがて彼は好奇心をもつようになるだろう。しかし、好奇心をはぐくむには、決して急いでそれをたしてやってはいけない。」
要するに、生徒の好奇心を刺激すべきだと言います。そして、そうするには、どうすればよいかというと、生徒に質問を聞くことによって好奇心を刺激すると。
先ほど読み上げたとおり「しかし、好奇心をはぐくむには、決して急いでそれをたしてやってはいけない。」と。
したがって、生徒には好奇心が湧かせるのがいいことだとされていますが、それに対して、教育者はその好奇心に応じないということになっています。つまり、教育者は生徒の好奇心を満たすためにいるのではないと言うのです。
次の段落も大事です。
「彼の能力にふさわしいいろいろな問題を出して、それを自分で解かせるがいい。」
子どもは自分の力で真理を見出すという発想ですね。要するに、ルソーの教育論では「教える」ことはありません。「教育する」ことはそもそもありません。ルソー論において、エミール自身が自分の主です。その「教育者」はあくまでも「案内者」というか、導く者にすぎないで、「教師」でも、「先生」でも、「師匠」でもありません。子どもは自分の力で真理を習うということになっています。そこで、教育者は「案内」するだけです。
「何ごとも、あなたが教えたからではなく、自分で理解したからこそ知っている、というふうにしなければならない。」
明白に書いていますね。
つまり、普遍的な真理ではなく、子ども版の、子どもの主体だけの「真理」であるべきだと言います。
「彼は学問を学び取るのではなく、それを作り出さなければならない。」
ここの「作り出す」という言葉は「発明する」という意味です。
「彼の頭の中に理性の代わりに権威を置くようなことをすれば、彼はもはや理性を働かせなくなるだろう。もはやほかの人々に翻弄されるだけだろう。」
ルソー論における「教育者」には権威がありません。そもそも何も「押し付けてはいけない」と言います。子どもは自分で見い出す、と。ルソー論において、まさに「子どもは王様」主義です。
続いて、
「それにもかかわらず、たしかに、すこし彼を指導してやる必要があるだろう。しかし、ごくすこし、それとわからない程度にだ。彼がまちがったことをしても、そのままにしておき、誤りを訂正してやるようなことはせず、何にも言わずに、自分で誤りがわかり、それを自分で訂正するまで待っていることだ。」
考えてみると、ひどいことです。最近の「エキュメニズム」というのは、この教育論の遠い応用ですが、同類のことです。要するに、「相手は誤っているのだ。しかしそれには構わないで、待つだけでよい。彼が自分で気づけることを待てばよい。真理を示してはいけない」という感じです。
「あるいは、せいぜい、適当な機会に、何らかの手段を用いて誤りを気付かせるがいい。」
要するに、ルソー論だと、絶対に真理を示し説得してはいけない、相手の知性を納得させようともしてはいけないということです。
「決して誤りを犯すことがなければ、それほどよく学ぶことにはならないだろう。」また、
「彼の方から質問してきたら、好奇心を十分に満たしてやるのではなく、それを(好奇心を)はぐくむのに必要な程度の返事をしたらいい。」
いつも同じ思考様式です。繰り返しますが「子どもは自分の主だ」がルソー論の中心にあります。
・・・続く
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
Billecocq神父に哲学の講話を聴きましょう
第二編に移りましょう。文章は長いです。
ルソーに言わせれば、第二編は人生の第二段階についてです。二歳から十二歳まです。
第二編では、生徒の代わりに少年です。もう泣かない、もう叫ばない、喋り始めるとされています。ルソーにとって、二歳から十二歳までの教育は感覚の教育だけなのです。
禁止することなどは一切ないとします。それは非常に大事な点です。先ほどの引用をもう一度読み上げます。
「子どもは、ただ事物にだけ抵抗をみいだし、けっして人々の意志に抵抗をみいだすことがなければ、反抗的にも怒りやすくもならず、いっそう健康に身を保つことになる。」
ルソーに言わせれば、子どもの意志に抵抗すれば、教育者の抵抗にぶつかるから生徒が反逆者になるか(そして、ルソーはそれを避けたいといっていますが)、あるいは、教育者に確かに従うのですが、奴隷になってしまうということで、自由でなくなると言います。ルソーに言わせれば、子どもには命令をしてはいけないのです。子供の気まぐれだけが許されます。
子どもは成長に連れて少しずつ自分自身の力を認識するようになって、少しずつ他人に頼らなくなってもよいようになっていくとします。子どもは自分の力だけですべてをやるべきだと。
次の引用です。
「さらにもう一つの進歩が子どもにとって泣くことをそれほど必要にしなくなる。それは力がついてくることだ。自分ひとりで多くのことができるようになると、子どもはいままでのように他人のつけを求める必要がなくなる、力とともにそれを正しく用いることを可能にする知識も発達する。」
「第二の段階において、正確にいって個人の生活がはじまる。ここで人は自分自身を意識することになる。記憶があらゆる瞬間における自分の存在の同一性という感情を拡大する。彼は本当に一個の同一の人間となり、したがってすでに幸福あるいは不幸の感情を持つことができる。ですから、これからは彼を一個の精神的存在と考える必要がある。」
「自然が彼らに与えている短い時を奪い去って、後で悔やむようなことをしてはならない。子どもが生きる喜びを感じることができるようになったら、できるだけ人生を楽しませるがいい。いつ神に呼ばれても、人生を味わうこともなく死んでいくことにならないようにするがいい。」
ルソーの教育論では、「楽しませる」「充実させる」ことだけが教育の目的とします。
「人生を味わうこともなく死んでいくことにならないように」と。
人生の第二段階になって、生徒にルソーが初めて教えます。しかし習うすべてのことは生徒が自然において見出さなければならないとします。
時間の問題で、多くの引用を割愛せざるを得ませんが、すでに申し上げたように、生徒は自分の力で真理を見出すべきだと言っています。やらせっぱなしにすべきだと。
配布した引用の内、第二編の最後の二つの引用です。後ろから二つ目です。
「そうだ、自然はあらゆる種類の印象を受け取れるような柔軟性をこどもの頭脳にあたえているが、それは、陰気で不毛な少年時代を悩ましている、国王たちの名前や日付けや、紋章学、天球、地理などの術語、要するに子どもにとって何の意味もないことば、あらゆる年齢の人にとって何の役にもたたないことばを覚えこませるためではない。」
要するに、12歳まで、学問を一切教えてはならないとルソーは言うのです。一切です。歴史も地理も教えません。知的な学問は一切ダメだと言います。用語も読書もダメです。でも、読み書きは習わなければならないだろうといわれるかもしれません。ルソーはこう答えます。招待状が届いたら、その時、読み方を教えたらよいと。かなり理想主義ですね。
それから、道徳をも一切教えてはならないと言います。ルソーは生徒と家庭教師の間に会話を設けてみます。
家庭教師は「そういうことをしてはいけない」といってしまう場面です。つまり、道徳を教えようとします。
子ども、「なぜ、こういうことをしてはいけないのですか。」
先生 「それは悪いことだから。」
子ども 「悪いこと。どういうことが悪いことなのですか。」
先生 「止められていることです。」
子ども 「止められていることをすると、どんな悪いことがあるのですか。」
先生 「あなたはいうことをきかなかったために罰を受ける。」
子ども 「ぼくは人にわからないようにそうします。」
先生 「誰かがあなたを見張っているでしょう。」
子ども 「ぼくはかくれているでしょう。」
先生 「あなたはたずねられるでしょう。」
子ども 「ぼくはうそをつきます。」
先生 「うそをついてはいけない。」
子ども 「なぜうそをついてはいけないのですか。」
先生 「それは悪いことだから。」
そして繰り返しになりますから、道徳を教えることはどうにもならないと言いたいのです。悪循環だと。ですから、道徳を教えてはいけないと。子どもは生まれながら自然に良いから、道徳はいらないと。
ルソーが言うとおりに子どもを教育していったら、どうなるか試したい人いますか?(笑)
次は、寓話についての話があります。
ルソーはラ・フォンテーヌの一つの寓話 を取り上げて、もてあそびます。
「烏と狐 « 烏先生、とまっていた、木の枝に、 » 先生、この言葉はそれ自体何を意味するんですか。固有名詞の前にある時はどういう意味になるんですか。烏とは何ですか。」
続いて、ルソーがコメントします。
「「とまっていた木の枝に」とは何か。わたしたちは「とまっていた木の枝に」とは言わない。「木の枝にとまっていた」と言う。だから、詩における倒置法と言わなければならない。散文とはどういうものか、詩とはどういうものか、ということを述べなければならない。」
それは子どもにとって難しすぎるといっています。
「 « チーズを一つ口にくわえて。 »
どんなチーズだったのか?スイスのチーズ、それともイギリスの?それともオランダの?子どもがまだ烏を見たことがなかったら、その話をしたところで何になるだろう。すでに見たことがあるなら、烏が口にチーズをくわえるというようなことを、どう考えるだろう。いつも自然のままの姿を描くことにしよう。」
ルソーはこのように寓話の一句一句について述べていきます。
「 « 狐先生、匂いにいざなわれ »
また、先生。しかしこれは狐にふさわしい呼びかけだ。狐はその道にかけてはすぐれた腕を持つりっぱな先生だから。狐とはどういうものかを話し、そのほんとうの性質と、寓話で与えられている性格とを区別しなければならない。
「いざなわれ」このことばは日常もちいられない。その意味を説明しなければならない。こんにちではこのことばは詩においてだけ用いられることを話さなければならない。子どもは、なぜ詩では散文とはちがった話しかたするのか、とたずねるだろう。あなた方は何と答えるつもりか。
「チーズの匂いにいざなわれ」云々」
寓話の一句一句、最後までルソーはやります。
「「嘘は申しません」では、ときどき嘘をついているのか。狐は嘘をついているからこそ「嘘は申しません」と言っているのだ、と教えたとしたら、子どもはどういうことになるだろう。」
つまり、ルソーが「嘘をつくのを子供に教えることになるぞ」と言わんばかりです。「嘘は申しません」と言われたら、嘘のことを教えざるをえないと言いますね。
また、
「フェニックスとは何か。ここでわたしたちはとつぜんでたらめな古代世界に投げ込まれる。神話の世界に、と言ってもいい。」
このようにのびのびとルソーがすべてを馬鹿にしています。
結論、寓話を教えてはならないと。寓話は無用だと。
結局、ルソーの教育様式は子どもを生意気なもの、気まぐれ者にするということです。
「それではどういうことになるか。第一に、あなたがたは、子どもにわかりもしない義務を押し付けることによって、あなたがたの圧政に対して不愉快な思いをさせ、あなたがたを愛さなくなるようにしているのだ。褒美をせしめるために、あるいは罰を免れるために、ごまかしたり、嘘をついたりすることを教えることになるのだ。」
以上の引用において、ルソーは固く道徳を教えてはならないと断言します。もう一つの引用があり、そのあとに出てきますが、そこでルソーはこう言っています。子どもには義務を教えてはならないが、権利を教えるべきだと。もう明らかです。子どもには義務・禁止などといったものはいらないということです。
以上の引用の続きです。
「法律というものは、良心にとっては義務的なものだが、大人に対してやはり拘束を加えている、とあなたがたは言うかもしれない。そのとおりだ。しかし、そういう大人は教育によって損なわれた子どもにほかならないのではないか。それこそまさに防止しなければならないことだ。子どもに対しては力を、大人に対しては道理を用いるがいい。それが自然の秩序だ。賢者は法律を必要としない。」
次の引用は先ほど申し上げた話です。
「わたしたちの第一の義務は私たちに対する義務だ。私たちの原始的な感情は私たち自身に集中する。私たちの自然の動きはすべて、まず自己保存と自分の快適な生活に結び付く。そこで最初の正義感は、私たちがなすべき正義からではなく、私たちに対してなされるべき正義から生まれる。ですから、子どもにまず彼らの義務について語り、彼らの権利について語らず、必要なこととは正反対のこと、子どもが理解できないこと、そして彼らが関心をもつことができないことを最初に話すというのも、一般に行われている教育の矛盾の一つだ。」
御覧の通りに明らかに書かれています。いわゆる、現代、出てくる「児童の権利」はルソーの教育論の結果にすぎません。ルソーは子どもに所有権という感覚を教えるために、子どもに小さい庭を栽培することを勧めます。
第二編の残りを飛ばしまして、その最後だけを取り上げましょう。第二編の結果、エミールはどうなっているかをルソーが描写してくれるので、参考になります。
要約すると、二歳から十二歳まで、エミールは何も習っていないということです。自然をみたりして、自然を見出そうとしたのですが、学問も習いことも何もしていないままです。
「彼の姿、様子、身のこなしは、自信と満足感を示している。彼の顔は健康に輝いている。しっかりした足取りは力強い感じを感じさせる。なま白くはないがまだ繊細な顔色には柔弱な女々しい面影は全然みられない(それはどうやってあり得るかはルソーはいっていませんが)。すでに、大気と太陽はそこに男子の尊敬すべきしるしを与えている。まだ丸味のある筋肉はつくられつつある容貌のいくつかの線を示し始めている。まだ感情の火を燃え立たたせていない両眼は、」
これは面白いです。子どもを自然のままにしているのは、子どもには感情が湧かないようにするためだとルソーが明らかに言っています。なんて現実から離れた理想主義でしょう。
「少なくとも生まれながらの清朗さをそのままにたもち、長い悲しみに暗くされたこともなく、涙がとめどなく頬をつたって流れたことはない。」
つまり、二歳から、いつも自然のままに教育されたから、泣いたことがなかったと言います。
「その年齢の活発さを、何ものにもとらわれない健気さを、多くの訓練によって獲得された経験を見るがいい。彼はうちとけた、自由な態度をしめしている」なんてね。きれいな言葉ではないのでしょうか。
「彼はうちとけた、自由な態度をしめしている」。さすがに。どうせ、エミールは何一つ知らないし、わかっていないままですから、打ち解けてもいいかもしれません。
「しかし傲慢でも生意気でもない態度を示している。書物のうちにかがみこんでいるようなことをさせられたことのない顔は下ばかりむいてはいない。彼には「顔を上げなさい」という必要はない。恥らいや恐れを感じて面を伏せるようなことは全然なかったのだ。」
「みなさん、この子をためしてごらんなさい。安心して何かきいてごらんなさい。この子は、人をうるさがらせたり、おしゃべりをしたり、ぶしつけなことをきいたりする恐れはありません。」
以上はエミールの描写でした。ルソーはまだ続けます。
「彼は、子どもとしての成熟期に達している。彼は子どもとしての生活を生きてきた。彼は、その完成を自分の幸福を犠牲にして手に入れたのではない。そうではなく、二つのものはたがいに協力し合っていたのだ。」
「すくなくとも彼はその子どもの時代を楽しんだのだ。わたしたちは自然が彼に与えたものを何一つ失わせたようなことはしなかったのだ、と。」
そこで、こう言ったような教育は一般に「消極的な教育」だといわれています。これはなぜでしょうか。子どもに何も教えてあげないから消極的だと言われています。その教育では、子どもが悪くならないようにするにとどまるのです。これだけですね。ルソーは以上のように教育を見ています。
ルソーの教育論では、子どもには善徳・美徳を教えることも、真理を教えることもまずありません。つまり、何ものを与えず、何も糧をあげず、子供を空っぽのままにしておく教育です。いわゆる、すくなくとも「悪」をもあたえないので、何も教えないことによって、悪をも教えないで済むというルソーの考え方です。
『エミール』の中心はこれです。子どもには誤謬をも自尊心をももたらさないことにとどまる教育が理想だとします。そうすると、子どもは傲慢に生意気にならないと。まさに子どもは空っぽにするのが彼の教育論の理想です。
中身がないままです。それは考えてみると矛盾というか、少なくとも逆説です。子どもには誤謬というか、悪徳をもたらさないために、真理も善徳も教えないという変わったロジックですから。つまり、ルソーに言わせれば、暗に誤謬と悪徳は「真理と善徳から生まれる」と言わんばかりですから。こういったことを暗に前提にしているのです。ですから、「空っぽな子どもにしておこう」という結果になってしまいます。
周知のとおり、皆様は経験しているかと思いますが、12歳の子供がいれば、もしかしたら善良さが多少あるかもしれないが、悪徳も確実にあるに決まっています。その意味で、ルソーは本当に信じられない夢想の内に生きているかのようです。つまり、12歳まで悪徳に触れないことがあり得るという空想を抱いているのです。ルソーはこのようなことを信じているので「寓話を教えてはいけない」と結論付けるのです。寓話を教えると、悪徳を教えるからというロジック。
「エミールは嘘をついたことはないから、生意気な態度を示したことはいちどもない」などと、あり得ないことを平気で言っているわけです。家庭教師と二人きりの設定ですから、まあそういった夢の中にあり得るかもしれませんが。家庭教師に対して、一度も生意気になったことはないなんて。ルソーのロジックでは、どうせ家庭教師はエミールに一度も求めたことはないから、生意気になる機会もなかったというロジックです。いい子ですね。
第三編に移りたいと思っております。幼児期から青年期にかけて。12歳から14歳までです。いよいよ、「積極的な教育」という段階に入ることになります。
子どもとしての人生をたっぷり楽しめて、何も知らないままの子供として楽しめた状態です。そのときまで、走ったり、泳いだりして、要は体を動かすようなものばっかりで、知性に頼ることを一つもしなかった状態です。つまり、子どもは「完全にうれしい状態」だと言います。現実の子供を知る人々は笑うかもしれませんが、12歳の子供はルソーにとって一度も質問をしたことはない、何も知りたくなったこともないとしています。ルソーにとって、それは普通みたいです。
12歳から14歳まで、突然、子どもの知性を埋めることになります。
そういった状態で、ルソーは第三編の最初から、次のように言っています。ちなみに、ルソーにとって、12歳から14歳までは、まだ青年期になっていないようです。子どもの時代の終わりだと言います。もしかしたら、14歳のルソーはこのようにまだかなり未成熟のままだったかはわかりませんが。でも、どうみても、こういった年齢だと、青年期に入っているというのは間違いないことです。
「存在するものではなく、有用なものだけを知ることが必要だ。」
この文章は非常に大事です。つまり、存在することを習うのではなく、有用なものだけを習うがいいと。最初からルソーはそう書いています。第三編の文頭の部分です。
それは何を意味するでしょうか。つまり「純理的」あるいは「思索的」な学問を絶対に教えてはならないということです。
実用的な学問だけでよい、理論的な授業、あるいは教科書的な授業、いわゆるえらい教師からの一方的な「講義」はけしからんと。いや、そうではなく、経験を通じてだけ習うのがよいと。しいて言えば、経験主義だけが教育方法としてよいと。このように教育の理想を見ています。しかしながら、ルソーはなぜそう言っているでしょうか。
彼の思考様式でいうと、講義など、単純に真理を教える教育をするとき、子どもに真理を押し付けると見ているからです。彼にとってそれは自由に反することだからです。従って、そうならないように子どもは経験を通じて、経験を積むことによってだけ、自分の力で真理を発見するがいいと。その教育方式では、教師は子どもを導くにとどまります。これがルソーにとっての教育者の理想像です。
「存在するものではなく、有用なものだけを知ることが必要だ。この少数のもののなかから、ここではさらに、それを理解するには、もうすっかりできあがった悟性を必要とする真理を除かなければならない。(…)無知はけっして悪を生み出さなかった」と言います。さすがに。
「誤謬だけが有害であること」つまり、ルソーにとっては、無知はけっして悪ではないから善だ、という思考様式です。
「無知はけっして悪を生み出さなかったこと、誤謬だけが有害であることを忘れずに、絶えず心に留めておくがいい。(…)まず、具体的な物質から教えるがいい。これこそは子どもの注意を自然に引くものだからである。 」
そういえば、具体的なこと、あるいは物質なことを勉強するために、12歳になるのを待つなんて、考えてみるとなかなかふざけていることですが。
「精神の最初のはたらきにおいては、感覚が常に精神の案内者となるようにしなければならない。」
ここでは、まさに、経験主義を定義するかのようです。
「世界のほかにはどんな書物も、事実のほかにはどんな授業もあたえてはならない。」
ちなみに、ルソーの場合、子どものとき、読んでばかりいましたが。
「読む子供は考えない。読むだけだ。彼は知識を身につけないで、言葉を学ぶ。」
なんか、読者に対して意外と意地悪いですね。不思議なことに、ルソー自身は子どものとき、多くの本を読んでいたのに。しかも、読書して気に入っていたようだし、自分の父は積極的に本をルソーに勧めていたし。それなの、でも、ここでは「本はダメだ」と言っています。
「読む子供は考えない。読むだけだ。彼は知識を身につけないで、言葉を学ぶ。」
要するに、本はダメだということで、唯一に許される「本」は「周りの世界のみ」だといっています。つまり大自然です。ですから次にどうすればよいかというと、ルソーは、「あなたがたの生徒の注意を自然現象に向けさせるがいい。やがて彼は好奇心をもつようになるだろう。しかし、好奇心をはぐくむには、決して急いでそれをたしてやってはいけない。」
要するに、生徒の好奇心を刺激すべきだと言います。そして、そうするには、どうすればよいかというと、生徒に質問を聞くことによって好奇心を刺激すると。
先ほど読み上げたとおり「しかし、好奇心をはぐくむには、決して急いでそれをたしてやってはいけない。」と。
したがって、生徒には好奇心が湧かせるのがいいことだとされていますが、それに対して、教育者はその好奇心に応じないということになっています。つまり、教育者は生徒の好奇心を満たすためにいるのではないと言うのです。
次の段落も大事です。
「彼の能力にふさわしいいろいろな問題を出して、それを自分で解かせるがいい。」
子どもは自分の力で真理を見出すという発想ですね。要するに、ルソーの教育論では「教える」ことはありません。「教育する」ことはそもそもありません。ルソー論において、エミール自身が自分の主です。その「教育者」はあくまでも「案内者」というか、導く者にすぎないで、「教師」でも、「先生」でも、「師匠」でもありません。子どもは自分の力で真理を習うということになっています。そこで、教育者は「案内」するだけです。
「何ごとも、あなたが教えたからではなく、自分で理解したからこそ知っている、というふうにしなければならない。」
明白に書いていますね。
つまり、普遍的な真理ではなく、子ども版の、子どもの主体だけの「真理」であるべきだと言います。
「彼は学問を学び取るのではなく、それを作り出さなければならない。」
ここの「作り出す」という言葉は「発明する」という意味です。
「彼の頭の中に理性の代わりに権威を置くようなことをすれば、彼はもはや理性を働かせなくなるだろう。もはやほかの人々に翻弄されるだけだろう。」
ルソー論における「教育者」には権威がありません。そもそも何も「押し付けてはいけない」と言います。子どもは自分で見い出す、と。ルソー論において、まさに「子どもは王様」主義です。
続いて、
「それにもかかわらず、たしかに、すこし彼を指導してやる必要があるだろう。しかし、ごくすこし、それとわからない程度にだ。彼がまちがったことをしても、そのままにしておき、誤りを訂正してやるようなことはせず、何にも言わずに、自分で誤りがわかり、それを自分で訂正するまで待っていることだ。」
考えてみると、ひどいことです。最近の「エキュメニズム」というのは、この教育論の遠い応用ですが、同類のことです。要するに、「相手は誤っているのだ。しかしそれには構わないで、待つだけでよい。彼が自分で気づけることを待てばよい。真理を示してはいけない」という感じです。
「あるいは、せいぜい、適当な機会に、何らかの手段を用いて誤りを気付かせるがいい。」
要するに、ルソー論だと、絶対に真理を示し説得してはいけない、相手の知性を納得させようともしてはいけないということです。
「決して誤りを犯すことがなければ、それほどよく学ぶことにはならないだろう。」また、
「彼の方から質問してきたら、好奇心を十分に満たしてやるのではなく、それを(好奇心を)はぐくむのに必要な程度の返事をしたらいい。」
いつも同じ思考様式です。繰り返しますが「子どもは自分の主だ」がルソー論の中心にあります。
・・・続く