花郎徒の庵 

目指せ楽隠居! 大長今ファン&歴史フリークの隠者・花郎徒による よろずつれづれ日記です。(*>∀・*) 

中宗王の憂鬱

2007-02-08 18:11:05 | チャングム(大長今)
 朝鮮王朝第11代国王中宗(チュンジョン)、本名はイ・テク(李 懌) 字は楽天。
 生没年1488~1544 在位1506~1544 第9代国王成宗(ソンジョン)と貞顕太后の間に生まれる。
異母兄は第10代国王燕山君(ヨンサングン)。子には第12代国王仁宗(インジョン)、同13代明宗、孝恵公主、貞順翁主など九男十一女がいる。王后としては、端敬・章敬・文定の3氏、他に8人の愛妾がいた。


 と、まあちょっとした中宗王のプロフィールから入ってみました。(*^ー^)ノ
それにしても王様、当時にしては長生きしてたんですよね~。それにドラマの中じゃしょっちゅう病気でぶっ倒れてますが、いくらそれもお勤めの一つとは言え、子供作りすぎです!
 治世では一定の治績を残すも、プライベートの女性問題で味噌をつけたオヤジと、マザコンと快楽優先主義で国の根底を揺るがした大馬鹿兄の後始末を押し付けられる形で即位した中宗王。我々視聴者が思っていた以上に深く重~い責任を負わされていたと言えます。

 彼は劇中で独白していたように、本来は王位継承権こそ上位ながら求めて即位する気はなかった謙虚な人物だったようです。
いわゆる『中宗反正』でパク・ウォンジョンらに擁立されなければ、まったく別の人生を歩んでいたかもしれません。が、彼は彼にできる限りの政(まつりごと)に熱心に取り組みました。
 それは偉大なる太祖イ・ソンゲ(李 成桂)の血脈として国を守るという考えよりも、一人の王の心掛け一つでそこに暮らす国民を幸せにしたい、という純粋な気持ちからではないか考えます。そういった真摯な思いの一端が、チョ・グァンジョ(趙 光祖)ら新進気鋭の改革派(士林派)の登用に結びつき、国政に一定の効果をもたらしました。
 ただ、とても残念な事に彼自身が急進的な改革の波について行けず、結果的にチョ・グァンジョを切り捨てて旧弊打破に至らなかったことが悔やまれてなりません。 この辺の経緯についてはかなり細かい部分もありますが、ドラマの中でもオ・ギョモら勲旧派が、中宗に讒言して士林派を追い落とそうと画策している話がありますね。

 また、勲旧派のみならず、既得特権を手放す事を好としない者たち、慣例をタテに取り改革を潰そうとする者たちが中宗王の身も心も苦しめ続けます。とりわけ実母の貞顕太后やその取り巻きの連中は、権力保持の意味合いも含め王の政治方針に難癖をつけてきます。 その度に彼は理想と現実の間で悩み、さらなる自己嫌悪に陥っていきます。

 そんな彼を支えたのは、文定王后でした。彼女は聡明であり識見も確かで、女性でなければ一級の政治家になれた人物だと思います。ただ、国母としての野心にも満ちており、太后とも静かな争いをしていたこともあり、必ずしも中宗にとっては心を許せる女性ではありません。
 そして王ゆえの孤独が一層彼に拳を強く握らせてゆきました。

そこに神の啓示を伴うように現れたタイプの違う2人の女性、
一人は心優しい健気な内人ヨンセン、そして一人は身も心も癒してくれる医女チャングム
 彼に一筋の光明が見えたのはその頃からでした。

 甚だ私見ですが、私は男としての立場から言わせてもらえば、中宗王はチャングムに対して単純な独占欲にて愛情を抱いた訳ではなく、彼女の常に前向きな生き方や己の信念を貫かんとする不屈の信念、そして身分に関わらず誰もを救いたいと思う真摯な姿勢に、彼なりの共感や憧憬といった気持ちを覚えたのだと考えます。
そして王として彼女を支えたやりたいと願う一方、不甲斐ないと思われても仕方の無い自分の立場に、精神的な支えになってもらいたいと思ったのだと解釈しています。

 とても贅沢な発想ですが、彼は根が優柔不断ぎみの善人であるが故に、イ淑媛(ヨンセン)や文定王后に対しても分け隔てなく愛情を持てたのではないでしょうか? 世の中には彼への評価は様々あると思います。しかし、チャングムやミン・ジョンホ、ヨンセンを最終的に救った(幸せに導いた)のは、他でもない中宗王最大の功績だと思うのは私だけでしょうか…(*-_-)


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