誰が名付けた『平成の絵師』大上克己

【似顔絵がつなげる心の懸け橋】
いつかはあなたの似顔絵が・・・

寒風の中

2013-04-26 23:48:25 | 日記

<247 イベントスタッフさん>

第26回 全国菓子大博覧会:広島
「ひろしま菓子博2013」が、広島市の中心地で開催されている
その場所とは、我が愛する広島カープが長年本拠地として使用していた
広島市民球場(初代)の跡地である。
ホームベースから外野フェンスまでが他球場に比べ、ダントツの近距離は
投手泣かせの球場でもあった。


その広島カープ球団は貧乏球団としても有名
8.6 廃墟と化したあのヒロシマ、
60~70年先、草木の芽を見ることは無いと言われてた、
しかし翌年、暑い暑いヒロシマに、広島の花「夾竹桃(きょうちくとう)」が咲いた
空中で炸裂した原子爆弾をもろに浴びたというのに。
町も人々の心も復興というには程遠いなか産声をあげた広島カープ、
被爆を受けた4年後のこと、
かくたる親会社を持たない“市民球団”
それは広島市民・県民にとっての希望の星、
心の拠り所であったはず


弱小球団は選手に賃金を支払えない資金難球団、
お荷物球団は解散が噂された、そして噂は現実のことに
動いたのは初代監督の石本修一氏と球団スタッフ
そして何よりもこの修羅場を救ったのが
広島市民・県民がとった熱き行動、球場の入り口での球団存続を訴えたこと
後に伝説となる「樽募金」である。
球団を救う“うねり”は広島人の心を見事に捉えた
当時、解散回避のために必要な資金400万円を集めたというから
広島人にとっての球団の存続は、人生の糧の一つであったことが伺える
かくして広島カープ球団の復興は、広島の人々の手によって見事に再建された
だからカープは広島人にとっては我が子なんだ


その我が子は、この土地で熱い戦いを繰り広げてきた
立ち直ったもののBクラスが定位置の我がカープ
昭和50年、ルーツによって燃えたぎる赤を基調したヘルメット
すっかり定着した「赤ヘル」という呼び名の快進撃は
もう言うまでもなかろう


焦土化したこの熱き土地で、
熱い戦いを繰り広げてきたカープ
その同じ土地に新屋まりさんが立った
広島菓子博のイベント
新屋まりコンサートである
屋外のステージ、夕方6時からのステージは
砂が舞い上がるくらいの冷たい風が吹き荒れるという
最悪の環境のなか
被爆二世であることを口外したうえで
ヒロシマとフクシマに熱いメッセージを盛り込んだ歌を披露した


フクシマを一日でも早く“福島”と呼べるよう
新屋まりさんのメッセージは熱く伝わってきた。