25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

白ける

2018年06月12日 | 社会・経済・政治
 核をもてばこれほど丁寧に、また歓迎されるものなのか、と世界の国々の指導ものや人々あ思ったことだろう。「核の力は強い」と。
 日本人を拉致し、自国民を粛清して、人々を飢えさせてでも核を持つ。人間の傲慢そのものだ、それは核をもつ国、その傘下にいる国々お同様である。
 人類の精神性はおおよそ2000年前も3000年前とも進歩しているようには見えない。科学技術が発展しただけのように見える。武力背景なく、それぞれの価値観を認め、争わず話し合いに徹し、人類が求めてきた平和までまだまだ道のりが遠い。
 悪にみちた人間どもを滅ぼしてしまう、とノア告げた神の気持ちもわかるというものだ。
 おくが「善なるもの」とは言わないが、多くの人は国連の常任理事国
インド、パキスタン、イスラエルに各保有を認めているのは不愉快な矛盾であり、どの国も核や生物化学兵器、大小の武器を棄てることを望んでいる人々は多いと思う。しかたのな現実などと言っておれない。
 いずれはノアの方舟は宇宙船に代わり、人類の数名が地球を脱出するということなのだろうか。
 トランプ大統領と金正恩委員長の会談。忙しくしているマスコミ報道陣の群れ、スタジオでコメントしている人達の声を聞きながら、ますます白けるのである。

叔父はどうなったのだろうか

2018年06月11日 | 社会・経済・政治
 アメリカと北朝鮮の会談でニュース番組に新幹線内での無差別殺人の情報が加わっている。卓球のジャパンオープンで、張本の優勝や伊藤優勝は報じられない。やっぱり野球ニュースが優先である。BSでやっていたバドミントンも面白く、卓球も面白いが、人気はまだまだなのだろう。卓球は愛ちゃんを始まりとして石川が継ぎ、伊藤、平野に継がれている。男子も、金メダリストを次々と倒したのだから日本卓球レベルはさらに上がっていくのだろう。
 バドミントンの桃田選手もすごい。羽根をネットの上に置く技は見ていてびっくりする。

 拉致被害者のこと言えば、ぼくの叔父と当時20歳ほどだった男性ともう一人(年齢はしらないのが)マグロ漁に出た。九州の鹿児島あたりで行方不明になったと思われ、ぼく父組合海上保安庁捜索でたが、船の破片さも見つからず二週間で捜索取り止めとなった。
 その後、北朝鮮による拉致事件がわかってきて、鹿児島沖付近で拉致事件が数件あったことを新聞で知った。叔父のような年取った者は殺されたかして20歳の青年は北朝鮮連れていかれたと思うようになった。今生きていたら60代である。
 もし生きていても北朝鮮の女性と結婚し、子供や孫もいるかもしれない。北挑戦人結婚している拉致被害者は古泉首相が北朝鮮を訪問した時に除外されたかもしれない。

 日本がどう出るのか注視している。もしかしたら今は100歳にもなろうとしている叔父の消息もわかるかもしれない。 

宿泊事業法(通称民泊法)の不思議

2018年06月10日 | 社会・経済・政治
 雨の中、別荘の掃除に行ったら、くどく言ったにもかかわらず、空き缶
空き瓶ペットボトルと生ゴミを混合していれ、電気hsつけっぱなしで、冷蔵庫には余った食糧を置きっぱなし、庭にはBBQセット、蚊取り線香も雨ざらしだった。大学生たちの男女8人となると、全員を集めて言っておかないといけないと反省した。一人の男性に説明し、みなさんに言っておくように言ったのだった。アクセスについても書いたものを渡してあるにもかかわらず、どこかわからない、と電話があったので、わたした説明書を読んでないな、とふと翌日の惨状が気になったのだった。
 ちゃんと後片付けをして帰る客。炭を撒き散らし、ゴミの処理もせず、忘れ物までして帰るグループ。実にいろいろである。人間の質であるか、と考えるが、8人もの集団になると、責任感や気配りが薄まってしまうのではないか。ここにリーダー格がいれば、違ってくるのだろうかとも思う。

 さて、民ぱく業者としての届け出番号が来た、無事に受付が終わったのである。ところがこの宿泊事業法は不思議さに充ちている。民ぱく業事業登録業者なるものがある。民ぱくをさせたい営業者がその家に不在場合は登録業者と契約結び、月々、2万円から3万円の費用をはらわないといけんしし、その契約書がないと届け出が受理されないのである。

 その業者は何をするかと言えば近所との騒音トラブルや、廃棄物トラブルのときに解決に当たってくれるというのである。
 近所とトラブル、廃棄物処理など民ぱく業者自己責任ではないか。
 AirBnBでは8割掲載を削除したという。全国で届け出をしたのは7百件余りで、6万件を削除したというわけである。
 都会マンション民ぱく、田舎の貸別荘民ぱく、その違いも、意味のない登録業者の必要性も、再検討されるべきものだろう。

 なぜ、こんな法律をつくるのか。不思議でしかたがない、
旅館やホテル団体からの圧力でもsるのだろうか。一方で簡易宿泊所の規制が緩和されている。不動産業者だけが得するシステムのようなっている。
 官僚は日本人は自己責任という意識が薄いのだろうか。外国からの客をキャンセルせざるをえないBnB を通じて、予約者はおお弱りだろう。不思議国日本である。

マックの賑やかさの中で

2018年06月09日 | 日記
 マックにくると、賑やかなので、なにかしら気が落ち着く。ノートに書き込んで勉強している女子がいる。パソコンをいじっている男がいる。母娘らしいカップルがいる。中学生の女子グループが大きな声で話している。スマホをい見ている女子がいる。
 ぼくは「文学界」を買って、村上春樹の短編集を読もうかと思っている。今月号は尾鷲のTSUTAYAにも売っていた。さすが。村上春樹一挙三短編小説掲載だからなのだろう。文藝春秋社は、文春砲で、こんな月刊文芸誌でも「やっとるなあ」と思う。加計孝太郎理事長も見張られていることだろう。
 公権力とは距離を置いていたいと、文科省大臣の祝意を断ったことが新聞載っていた。祝意の申し出はお断りしているようである。映画が先の戦争で権力に使われたからだという。
 まともな感想である。
 もっと言えば、受勲というのも変な話だ。だれがどうやって、何を基準に選ぶのか、ピンと来ない。天皇は完全なる中立であるべきだ。
 
 新潟県知事選で、自民党と公明党がおす候補者を新潟県創価学会の婦人部の最高幹部が拒否していることが報じられている。原発推進派なのに、それを隠すような候補者平和の党の婦人たちが怒るのも当然だ。
 当然のことが当然ではなく、気の弱い、強欲で保身し、自分が賢いなどと驕っているものたちによって隠蔽されている事実というものがある。

 文庫本を読んでいる女性がいる。夏の日射しを防ぐツバが広く、麦わら色した帽子を被り、白地に紺の横縞のポロシャツを着て、太い黒縁の眼鏡をかけている。じっと読んでいる。彼女のなかで何か物語が展開されているのだろう。

 やがて、空が雲ってきた。明日は台風の影響で大雨がくるという。
 

縁起譚

2018年06月08日 | 文学 思想
新約聖書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書までがイエスが誕生してわずか二年の布教活動の末に磔の刑で死に、その三日後に復活して四十日弟子たちと共にいたところまでを描いている。
 内容は「奇跡を起こし人々の病気を癒し、治すこと」と「自分は主なる神ヤファウェの子であり、イエスのいう言葉は主なる神が言っていることなのだ」と激しくなんどもなんども言う。時々、たとえ話で隣人を愛せ、とか、故郷は預言者を受け入れない、とか、驕るな、姦淫するな、・・・のような訓戒を述べている。

続く、「使徒行伝」は残されて、特別にイエスから力を与えられた弟子たちがイエスの死後、キリスト教を各地に拡げていく様を描いている。この内容は各地に行き、説法をし、奇跡を起こして信者が増えていく。ほとんどペテロとパウロに代表される初代キリスト教社会の活動であり,聖霊の働きによって福音がエルサレムからローマへ伝播する歴史である。
 「教え」というのは出て来ない。ただ弟子たちは主の子イエスより与えられた力で、弟子たちの言葉はすなわちイエスの言葉、すなわちヤファウェの言葉である、と激しく主張している。

一方読み進めている旧約聖書では「ノアの箱舟」のところが終わったところである。

 新約聖書ではローマ帝国に支配された様々な民族の不平不満の様子がわかり、いかにしたら心と体の平安を保てるか書いてある。

 他の書物からキリスト教のことを聞いてもピンと来ないので、直に読んでみることにした。縁はこうである。「竹取物語」が図書館での「よもやま話」の次回テーマとなった。ぼくの中ではかぐや姫物語は「物語の日本での始まりは貴種流離譚である」ということを意見として言いたいと思い、この貴種流離譚でつまづくイエスの話を、他の書物で知ったからだった。「預言者は故郷、家族、親族には受け入れらない」という言葉を実際にぼくは聖書の中で探したのだった。そのうちに聖書を読み続けてみようと思う気持ちになった。その聖書は大型判で、キリスト教者だった女性の家の遺品処理w頼まれた時に、ぼくは捨てずに持っていたのだった。
 「よもやま話」で意見交換をすることは楽しいことだろうと参加した。参加するには時間が必要だが、今のぼくにはそれがある。
 聖書を読むにも時間が必要であの紙の薄い、分厚い書物もちょっとずつでも読んでいけばいずれは終わるものだということはわかっている。聖書を長編小説のように読んでいるわけだ。
 すると妻がたまたま宗教画の本を読んでいた。中世に描かれた絵画のシーンは新約聖書の名場面ばかりである。これまでなら、気にも留めなかった宗教画である。絵を見て、これはどの場面だとすぐにわかるようになった。
 当面、聖書全部を読んでみて、それから仏教の原典(というのがあるのかどうかしらないけれど)を読み、孔子の「論語」を読んでみようと思っている。

 昨日、新聞の広告欄で「文學界」「すばる」「群像」「新潮」の文芸月刊誌の広告が載っていて、急に読みたいという感情が湧いた。文学を好むものはどんな考えでいるのだろうかと強い好奇心に駆られたのである。現在の自分には大過去から大未来、たんぱく質からDNAや生物、身体の構造や骨や筋肉の働きや連動、認知に関することなど専門家ほどではないがある程度のことは知っている生身である。そんな自分を土台にして、新たに文学を考えてみたいという気分が湧いたのだった。聖書のおかげかもしれない。 


ロイテリ菌、L8020菌

2018年06月07日 | 日記
 ロイテリ菌。乳酸菌の一種。スウェーデンの研究者がアンデス、標高4000メートルのところで暮らす村人口内から発見した、という話を朝の羽鳥のモーニングショーで知った。虫歯
歯周病に95%有効だということだ、
 それでふと思った、口から肛門は植物系の腸の筒のようになっていて、胃や膵臓や心臓はその筒から派生していったものだと、故三木成夫の「胎児の世界」や「こどものこころと内蔵のはたらき」で読んだことがある。口腔内の菌がよいと、腸内もよいらしい。やはり繋がっているのだ。
 口腔内の悪い菌をロイテリ菌はやっつけるらしい。ネットでもっと調べてみた。すると日本でも3歳までの虫歯のない幼児からとりだして培養したといわれるL8020という菌が発見され、すでにいくつも商品化されていた。
 ぼくは迷った。ロイテル菌を使った商品は日本にはなく、ネットではロサンゼルスから送ってくるという。値段も30錠で5000円を越す。
 一方日本のL8020は1000もしないし、うがいよ用も、錠剤用もある。
 迷った末、L8020のうがい用、錠剤、そしてロイテリ菌の3種を買って試すことにした。このうちうがい用はそばのドラッグストアにあったので買った。
 薬剤師さんがやってきて、「ビオフェルミンの粉タイプで歯磨きする人もいるんですよ、と教えてくれた。腸の筒の延長が口なのだから、ビオフェルミンという整腸剤もいいことはいいのだろう。
 口と腸の関係は知っていたが、具体的にとなるとピンとこないものがある。
 それを試してみる。期待大だ。

三橋美智也を紹介した番組をみた

2018年06月06日 | 音楽
 氷川きよしが三田明の「美しい十代」を歌っていた。それがあまりにも下手だったので、やっぱり本家三田明の方が上手く、声の質も、歌い方も「美しい十代」は三田明のものなんだな、と思ったのだった。
 そんな歌をよく聞く。千昌夫が橋幸夫の「潮来笠」を歌ったがひどかった。石川さゆりが「Fall in love」を歌ったがこれもひどかった。やはり他人の持ち歌を歌うというのは難しいことなのだろう。
 逆もある。一青窈がユーミンの「飛行機雲」を歌った時、この歌は良い歌だと改めて感じたのだった。それは一青窈が陽水の「ジェラシー」を歌ったときにもそう感じた。〇〇が野口五郎の「いい女でいてくれよ」を歌ったときにも、なんといい歌かと思ったのだった。

 どうやらよく世間で流行り、歌手がなんどもテレビに出てきて歌わる、そんな歌は他の歌手が歌うのはイメージが定着しているから難しいことなのだろう。逆の場合は、その歌が「知らない歌」か「ちょっとだけ知っている歌」を上手い歌手が歌うからなのだろう。

 ぼくは三橋美智也という歌手を知ったのは高音の声も太くなった三橋美智也の晩期であった。懐メロで出ているのを見たのだろう。「達者でなァ」は矢野顕子が歌っている方を好んだ。
 ところが三橋美智也最盛期の頃の歌を当時の音源でテレビで紹介していた声を聞いて、上手な歌手だったんだなあ、と関心しまくってしまった。北海道の原野や遠くの山々にまで響くような不思議な声をしていた。出だしを高い音から始める作り手もよくよく三橋美智也の声の特質と出だしで聴く者の脳に入れこんでしまう手法を心がけているようであった。
 晩年、小椋佳に作曲を依頼したらしい。小椋佳が三橋美智也に作った曲はこの出だしスタートがよろしくなかった。つまり三橋美智也のいいところを引き出せない曲作りとなっていた。
 「惚れてエエエ、惚れてエエ・・」とか「わらにまみれてよオー」は気持ちがよかった。意外とテレビで紹介されたのは知っている歌ばかりだった。それほどヒットしたのだろうし、今でも歌われるのだろう。一億万枚のレコードを売ったというのだから、当時のスーパースターである。
 三橋美智也や春日八郎のあとに、橋幸夫が出て来て、舟木一夫が出て来た。当時の少年少女、学生の間で人気沸騰となった。安達明とか梶光男とかでてきたが、すぐに消えていった。
 橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦、三田明と時々テレビに出て来るが、代表的な歌しか歌わせてもらえない。なんとかならないものか、BSで一人二時間でも三時間でもやればいいのにと思う。ぼくは三田明の「赤い夕陽」とか「サロマ湖の空」は好きであるし、橋幸夫の「お譲吉ざ」や「青いセーター」が好きである、舟木一夫の歌でも、西郷輝彦の歌でも好きなものがある。西城秀樹や郷ひろみ、野口五郎などもやってほしいと思う。

 NHKの「Songs」では薬師丸ひろ子がすでに四回。桑田佳祐もすでに四回か五回やっている。何を基準に選ぶのか、知らないが、BSでいいから「三橋美智也」を扱ったような番組を要望したいものだ。

三度目の殺人  是枝監督

2018年06月06日 | 映画
 是枝裕和映画監督の作品「三度目の殺人」のDVDをレンタルして観た。脚本も是枝監督である。
 この映画はじっくりと観させるいかにもお金をかけずに中身の深さで勝負のようなカンヌ映画祭向きの作品であることはハリウッド映画と違ってしかたのないところである。

 初めから矛盾があって、それが最後まで違和感として残った。三度目の殺人をして捕まった男は過去に二人の人を殺し、三十年刑務所にいた男である。「自分はこの世に存在しているだけで人を傷つけてしまうような人間」だと思っている。「生まれてきてはいけない人間はいるのだ」「父、母、妻が先に死に自分のような人間が生きていると言うのは不条理だ」と思っている。この三隅という犯人役を役所広司が演じている。この作品の失敗といおうか、評価に欠ける部分はこの俳優選びと殺人犯に吐かせる言葉である。映画で見る限り、この男はまともで、きちんと挨拶もでき、論理的でもある。つまりインテリである。とても極悪非道な殺人を以前に犯しているとは思えない。

 福山雅裕の演技は「龍馬伝」の時と比べると格段によくなっていた。彼は重盛というリアルな弁護士である。三十年前の殺人事件の裁判で裁判長を務めたのは重盛の父だった。父は三隅のことを「獣みたいな人間」と言い表している。当時三隅を逮捕した刑事は「感情のない空っぽの器」と言っている。
「獣みたいな男」「感情のない空っぽの器」という言葉は三隅(役所広司)に合わないのである。

「人は人を裁けるか」というような永遠の命題も「真理」を追究しようとしない法曹界にも異議申し立てをしたそうな監督であるが、その説得力はなかった。役所広司を選んだからである。彼にはこの役は無理なのだ。獣と思わせるような人間であり、三度目の殺人では自分の娘と重ねてしまう被害者の娘が被害者である父に性的虐待をされていたことが公になることを恐れ、急に「自分は殺人をやってない」と三転して主張をひるがえすのである。それは被害者の娘への愛情もしくは親和感である。そうして三隅は愛情と知能のある人間に変わってしまっている。

 ぼくは違和感を抱きつつ、最後まで違和感をもってこの映画を観た。
 また言っておきたいことがある。

 「人間が生まれる」ということをやや浅い知識で言葉を吐かせていることである。受胎から誕生までの凄まじい生き残りの上で生まれるのが人間である。40億年の苛酷な生命の再現を行い、生まれてのなお歩くこともできない人間なのである。母がどうであろうと、父がどうであろうと、人間には「存在するだけでもつ倫理」があるのだ。母を責めても責めきれず、父を責めても責めきれない。社会を責めても、法を責めても、この「存在するだけでもつ倫理」は究極的に自分についてまわるものだ。生まれない方がよかった人間はあり得ないのだ。重盛の助手のような立場の弁護士がそういう三隅に異議を言う場面が一言あった。しかしそれは世間でよくいう「人間だれでも価値があるんだ」という風にぼくには聞こえたのだった。たぶんこの短い言葉に是枝監督の現在の思考の段階が現れたのだった。

 一方で、死刑よりも減刑されることを優先する重盛という人物には好感をもった。そこにリアルさとありそうな弁護士像をうまく演じる福山雅治がいたからである。作り笑いするでもなく、キザでも、えらそうでもなく、若干の感情を表して淡々と演じていた。
 賞をとるにはもう一歩だと感じた。しかし是枝監督は「万引き家族」で今年の第71回カンヌ国際映画祭で最高賞となるパルムドールを受賞した。彼はどのように変化したのか映画を見てみたいと思う。

宗教のゆくえ

2018年06月05日 | 文学 思想
 今、生きることが苦しい、死んだほうがましだ、と多くの人が思うときに宗教は現れる。こころの内に病気は体に現れるから、病を治すという奇跡を起こせば、人はその方を神のように崇める。
 科学者のような知識をもつものでさえも同じである。

 原始宗教の始まりは、弱いホモ・サピエンスが集団を形成することで、勝ち抜くことができた。宗教は人が共有できる人類が編み出した弱い者の知恵であった。
 5万年くらいは素朴に弱い者として集団で生きていた。ところが集団同士が争うことも起きてきた。紀元前3000年にもなると部族の長をまとめる国家も誕生した。
 まずしく、戦乱に明け暮れるところから新興宗教が誕生した。まずインドでブッダ。中国で孔子。ギリシャでは宗教ではないが哲学者のソクラテスやプラトン。そして2018年前にイエス・キリストがすさんだ地で誕生した。ギリシャが宗教を生み出さなかったのは、豊かであったせいかもしれない。しかし、聖書を読んでいると、プラトンのイデア論の影響も受けているように思える節がある。イエス・キリストは絶対神への帰依を人々に強く要求した。彼の言葉は神も言葉であり、イエスを通じて神の言葉が語られるとした。
 医療技術ももっていたにちがいない。

 信仰への脳回路がなぼくは聖書言葉を有り難く読んでいるわけではない。
 現在、新約聖書と旧約聖書を同時並行のように読んでいる。夜な夜な読むものだから、眠いときにはちょっと読んで眠ってしまう。
 「ヨハネによる福音書」はマタイ、マルコ、ルカとも違い、やや思弁的である。新約聖書のほうはだんだんとおもしろくなってくる。旧約聖書はまだ「創世記」なので暗示的で興味深い。
 アフリカをでてエジプトやメソポタミアに渡った人類のうち、そこにとどまった人類が旧約聖書の内容を作りあげていったのだろう。メソポタミアにとどまらず、インドに渡った人たちがヒンズー教師や仏教を生み出し、中国に渡った人々は儒教を生み出したのだろう。果ては日本列島であった。イエスの時代で弥生時代であった。ブッダ時代では縄文期であった。仏教が入ってくるのは釈迦入滅後
千年である。
 人類は産業革命と進化論で大きく変化した。アインシュタインの登場でプラトンの学説も少し揺らいだ。原因が不確実なら結果も不確実である、という風にもなってきた。
 ゲノム配列が解明された。
 奇跡を起こすのは科学技術になってきた。
 宗教はどう薄まるもか、不要になるのか。南米で原始のままに暮らす集団ピダハンには神は言うにおよばず精霊さえもいない。
 人間はどうなっていくのか。あたりを見渡せば忖度やら、自己保身やら、ネットでの悪口投稿だの、就活で同じリクルートスーツを来て歩く若者をみると、人間の弱さを目の当たりにする。2000年前とちっとも違ってないじゃないか、と思うことが多い。情けないことばかりが映ってくる。平和の党と自称する公明党とて、集団的自衛権を限定的に許し共謀罪も許す。創価学会も薄くなってきているのだろう。
 イエス・キリストは磔による死後三日で復活した。この馬鹿馬鹿しさも、こころの内のことだと、イデアの内のことだと理解すれば信仰というものを否定はできない。
 とにかくも、ぼくは聖書のすべてを読んでみようと思っている。
 
 

ハイビスカス

2018年06月04日 | 文学 思想
 去年、ハイビスカスが長い間花を咲かせていた。しかし、ぼくの手入れがきっと悪く、寒い時に枯れてしまった。
 それで、今年もと、赤、白、黄色のものを買いに、コメリに出かけた。白のものがなかったので、それは入荷まで待つことにして、赤と黄のハイビスカスを買った。これを二回りは大きい鉢にいれるつもりだ。
 バリ島ではエステサロンの庭の垣根をハイビスカスにしたことがある。ただ植えて、水やりをするだけで、何の手間も要らないのだった。
 背丈もすくすく伸びた。
 大柄の色の派手な花である。日本の芙蓉とちょっと違う。日本の芙蓉は白が多く、花の中心から飛び出ているのが短い。作家の故中上健次は新宮の路地で咲いている芙蓉を「夏芙蓉」と呼び、小説風景描写でよく使った。「千年の愉楽」という戦後の優れた作品はこの夏芙蓉におうところが多いぼくは思う。
 小説に出て来るアホタレの男たちが神の子のように美しいのは夏芙蓉のマジック効果がある。
 この「千年の愉楽」が映画になって若松孝二が監督をした。ロケ地は尾鷲市の須賀利だった。新宮の路地は再開発でなくなっていた。須賀利は路地が多い。映画を見ると「夏芙蓉」は出て来なかった。オリューのオバは寺島しのぶという女優だった。これには参った。ぼくのイメージではオリューのオバは年をとっていて、路地の若衆の誕生をとりあげた産婆であり、その後の若衆ひとりひとりの人生を空からみるように見守っていたのだった。
 ぼくは戦後文学の中で、優秀作品を挙げるとすれば、「千年の愉楽」、津島佑子の「夜の光に追われて」、三島由紀夫の「豊饒の海」、谷川俊太郎の「裸」、村上春樹の「神の子どもはみな踊る」を挙げる。優れた小説はまだあるのかもしれないがぼくはまだ出会っていない。さて中上文学は「千年の愉楽」を頂点として、自分の伝記めいた作品から離れた。読み続けることのできない作品ばかりになった、とぼくは思う。もう夏芙蓉も出て来るくことはなかった。
 ハイビスカスは一輪咲くとその日で終わり、次の花が咲く。この繰り返しをバリ島では365日繰り返す。日本では今から九月の終わりくらいまで咲いては散り、また咲くのである。桜や木蓮のように三日、四日ですべてが散ってしまう儚いものではない。
 庭で毎日これから見ることになる。花があるだけで、庭がひとつの器のようになる。

憤懣

2018年06月03日 | 社会・経済・政治
 労働市場に表れないmissing wokersが労働基準局でもわからない、従って労働雇用統計にも表れない人が日本で105万人いるらしい。一人あたりの生産力が低い日本で 、この数字を入れればさらに悪化する。親の介護で仕事をやめ、二人の親の面倒をみているうちに、自分働く意欲をなくしていく。年老いた父親が北海道にいて、父親は頑固にも老人施設に入らないため、東京の娘は時々見に行くのだが、だんだんと自分の職限定されていく。いつの間にか、社会からこぼれていた。
 日本ではこのような経済社会の陰も部分の分析や対策は、安部政権の株主優先、経団連優先政策と真逆のもだから、また安倍首相の生い立ちから言っても、わからないことだろう
 アメリカはリーマンショック後、一人あたりの生産力があがらない現象を探るうちに分析をおぉなったらしい。
 こどもが都会にいて、親が田舎にいるというのはよくあることだが、介護施設が収入にみあわないと悲劇が起こる。
 国民年金でとても介護施設に入れるものではない。要介護の認定ハードルが高くなる。為替差益や投資ファンドのようなものでお金を回す金持ち層を優遇しているようでは格差は開くばかりだ。
 日本は一億総中流社会といわれ、さほどの格差のない時代があった。
 1997年の金融危機、小泉内閣の誕生あたりから壊れ始めた。
 思えば、阪神淡路大震災、オウム真理教事件あたりが時代の変わり目であった。ほどなくして起こった神戸連続児童殺傷事件も、その後の奇怪な事件始まりとなった。いまでは常態化しているかのようだ。
 
 その後、未来への投資はできず、土木建設事業金を費やし、借金ばかりが膨らんだ、
 おぞましい借金額であり、そのために今後も様々分野で税金をあげていくことになっている、
 テレビにでるような識者は「しかたがない」と言う。しかたないなんてあるものか、生産性のない土木工事金を注いだのだ。責任をとってほしいものだ。だが、そういう政権を国民のある数は選んだのだ。40代の働き盛りの人たちは未来をどう考えているのだろう。
 昔、学費値上げであれだけ大学紛争が起きたというのに、この深刻な未来の像にどう立ち向かうのか。
 新聞で税金アップがラッシュであることを知り憤懣やるかたないのである。実質賃金がまた下がる。
 
  
 


人生は円のようなものだ

2018年06月02日 | 文学 思想
 昨日、今日くらい気持ちのよい日はめったにない。気温26度、微風。金魚、メダカを愛でながら日の光を浴びる。紫陽花が咲いている。百合がもうすぐ花開きそうである。藤はあちこちに早い勢いで触手を伸ばしている。
 昨日来た青年達は三木崎灯台を越えて釣りをしたので、もうクタクタだと言っていた。ぼくも釣りdのため越えたことがあるのでそれはそうだろうと思った。大きなアオリイカを逃したと残念がっていた。今日も朝4時からどこかにいくと言っていたので、幾つかの釣り場を教えた。今頃は目の前の竿以外のことは全部忘れて釣りに集中しているのだろう。
 釣りの技法も格段に進歩している。ぼくは太公望の釣りが好きで、攻めるより待つ釣りが好きだ。たとえ鯵でさえもである。
 小学生の頃、前の岸壁でよく鯵を釣っていた。同じクラスのHくんは上手かった。彼だけは飛び抜けて必ず釣るのだった。何が違うのかわからなかった。針のせいか、餌のつけかたか、魚の動きがわかるのか、あわてず間をおいてから竿を振るのか、わからず、こいつは只者ではないな、と一目置いたのだった。勉強ができる、できないなど人間の値打ちの基準になることなど考えることがなかった、ビー玉をすればそれに秀でるものがいた。怪談をおそろしく語る女子もいた、ぼくにとっては黄金期のような時代だった。昭和30年代であった。「末は博士か大臣か」というような志をもっているような男子は周囲にどこにもいなかった。ただ遊んでいた。親が付き添って塾に通う男子もいたが、ぼくらは遠くから眺めていたのだった。
 六年生も終わりになると、坊主刈りにする男子が出てきた。ぼくは坊主にするのはとても嫌だった。中学生は坊主刈り。理由がわからなかったがみなそうしなければならいからと従がっていた。
 卒業写真をみてみると、ぼくだけがセーターで他の生徒は学生服を着て写真に臨んでいた。
 母親もこういうことには気がつかないような人だった。長い、長い
どこに出口があるかわからないような小学生時代もようやく終わったのだった。まだ人間んいなったような意識はなかった。
 日にあたり、木々に目をやりながら、なぜ小学生活の六年間は長く感じたおだろうと不思議に思う、百合は咲いて、さっさと枯れてしまう。時間感覚というのは絶対的でありながらも、相対的だと思う。おどらく人生は円のようにできているのだろう。また六年が長い日々が来るに違いない。

スマートフォンから

2018年06月01日 | 文学 思想
 ぼくが使うぐらいのパソコン仕事はおおかたスマートフォンで済ませることができる。今やパソコンではレンタル音楽CDをSDにいれるか、写真や文書をスキャンするくらいのもので、すっかりスマホを使っている。
 民泊届け出もスマホ。booking.comやECO のようなポータルサイトへの民泊を紹介してくれるサイトへの登録もスマホである。おかげでどこにいても仕事ができる。20年前とは大違いだ。ドコモの発表によると、字数制限あったショートメールも制限なしになるらしい。LINEも便利である、

クラウドサービスがでてきてさらに安心できる物となった。裏腹に危険性もあるのだろうが、今のところ、迷惑メールさえなければ快適である。
 インドネシアや中国は固定電話時代を飛び越して、携帯電話に向かった。一足飛びだ。中国では現金なしで、スマホだけで、決済することができる都市がある。
 携帯・スマホで躍り出たソフトバンクは現在アメリカの車に目をつけている。GMが来年から無人タクシーを走らせるらしい。
 日本では2025年あたりで、バスやトラックの無人運転が高速道路や市内交通網を走る予定らしい。ヨーロッパや中国はEV車になりガソリン車を禁止していく方向である。一挙に公害もなくすのだろう。都市の大気汚染がひどい中国はこの分野でも一足飛びをするのだろう。

 スマホのアプリを作っている若い社長がスマホの時代もそう長くは続かないと見ている、と言っていた。スマホより便利なものがでてくることを言うのだろうが、それはどういうものなのだろう。すべて正確な音声認識で事足りるのかもしれないし、下敷き程度の薄さで今のスマホ以上のことができるのかも知れない。

 定例の週刊誌読みをしていたら、近いうちに注射1本で血圧をコントロールできる療法が現実化するらしい。1年に1回打つだけでよいという。脳梗塞においても壊れた細胞を再び作り出す医療治験が進んでいる。これも注射1本らしい。
 人間が作り出したそれぞれの神という共同幻想も終焉していくのだろうか。
 平和、自由、それぞれの価値観を認め合う共同幻想がトップになるのはいつの日だろうか。
 スマホをいじっていて思うのである