25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

呑気でいたいものだが

2018年06月18日 | 文学 思想
ちょうど尾鷲北インター付近のファミリーマートで車を止めたところで緊急地震速報が携帯に入った。いよいよ来るかなと思っても揺れを感じなかったので、そのままファミリーマートに入った。
 家に帰るとモーニングニュースは地震速報ばかりで、だんだんと震源地に近いところでの被災状況がわかってくる。
 最も怖いのはガス管が壊れ、ガス漏れを起こし、電気を点けると爆発して火災を起こすという元気象庁の人の話だった。尾鷲はプロパンガスだからまだしも、これは娘、息子らにもよくよく言っておかなければならない、と思ったのだった。
 阪神淡路大震災は日本の歴史上でも、近代都市が崩壊するという出来事で、以後、金融危機があり経済は停滞し、オウム真理教事件が起き、少年による殺傷事件が起きた。経済社会も世間も変化した。そして日本は国債発行による借金財政に入り、長らく停滞し、デフレとなった。続いて東北大震災では津波で多数の人が死に、原子力発電所が崩壊するという未曽有の事故が起きた。そして安倍政権が登場してもなお消費は思うように活発にならない状況が続いている。
 このところ地震が頻発しているように思えて、南海トラフ大地震や関東大震災も起こるのではないか、という<不安>をいつも抱えている状態となった。関連する土地・家屋の値は下がり、人口減少も始まり、人生の設計はたえず天変地異の大雨や震災を折り込んで生きなくてはならない。
 このような不安感は身体のどこかに澱のように積もっていくか、濁っていくかするのだろう。これを「無常観」で流してしまうか、いつかコップの水が溢れ出すかわからない。
 科学知識のない時代には何がなんだかわからなかったことだろう。旧約聖書の「ヤコブ記」
ではこれでもかこれでもかと災難が起こるが信仰をやめないヤコブが出て来る。多分、自然崇拝の名残りが如実に表されている。絶えることのない災難は誰にでも起こる可能性がある。今日の地震でさえ、女子生徒が学校の塀の下敷きになったと報じていた。
 飢饉こそなくなったが、日本も飢饉を克服したのは歴史上戦後のしばらく経ってからのことである。それまでの人間は自然による災難がいつ待ち受けているかわからなかった。
 現代では物の豊富さと情報の過多により、脳の方がおかしくなり、神経質で潔癖症で、飢饉がなくても子を殺し、親を捨て、自暴自棄となり殺人を犯し、健康には嫌になるくらい気を遣い、自分の老後を心配する。モーセやイエスが生きた苛酷な時代の環境と比べるものでもないが、2018年になっても「心配」と「不安」の種は尽きない。
 呑気でいたいものだが。